まずは「アメリカ合衆国の近現代史」についてざっと目を向けておく必要があります。
資本主義(Capitarism)はまず欧州大陸列強とは国体を異にする英国、スイス、ベルギー、アメリカなどで育ち始めたといってよいでしょう。
- チェコやカタロニアもそれなりには頑張ったが「国体の壁」を破るまでには至らなかったのである。
アメリカではゴールド・ラッシュもありましたが…
その資本主義化が加速するのは南北戦争(1861年〜1865年)後、鉄道(およびそれへの電信網の併設)ラッシュが発生してからだったのです。
しかしこの時代は政治的には腐敗期に当たり「金鍍金時代(1865年の南北戦争終結から1893年恐慌までの28年間)」と蔑まれていたりもします。
米国にハーバート・スペンサーの社会進化論が伝わったのはまさにこの時期でしたが、一般的に資本家階層などはあまりよろしくない受容のされ方をしたとされています。
スペンサーの社会進化論は伝播の過程で変質し適者生存・優勝劣敗という発想から強者の論理となり、帝国主義国による侵略や植民地化を正当化する論理になったという指摘も受けている。
またその楽観主義を「ホイッグ史観的」と揶揄する向きもある。
その一方ではアーネスト・フェノロサや「日本社会学の創始者」外山正一がスペンサーの社会進化論を原型に近い形で展開していて、必ずしも米国人全員がその内容を曲解していた訳でもなさそうだったりもするのです。
またこの時期には同時に南北戦争が引き起こした国民分断を憂いた米国知識人が「人類は究極的には分かり合える」「神は人間に解決不可能な課題は課さない」と楽観的に考える実用主義(Pragmatism)哲学を創始しています。それ自体は信念の一種に過ぎませんでしたが「科学主義のアメリカ」顕現の最初の土壌を用意したともいえます。
そして当時は移民への農地供給が限界に到達すると同時に、都市部を目指すタイプの移民が急増した時代でもありました。
それで国勢調査の必要性からパンチカーシステムやコンピュータの発達が促進されました。こうしたデータに裏付けられる形でアメリカ社会学は必然的に実証主義的アプローチを採択する事になったのです。
アメリカにおけるコンピューター利用史はタビュレーティングマシン(Tabulating machine、パンチカードシステム)を使った1890年における米国国勢調査のデータ処理にまで遡る。
- タビュレーティングマシン(Tabulating machine)…日本では「パンチカードシステム」の呼称で親しまれる。原理はオルゴールそのもの。紙や金属やセルロイド製の円盤やリボンの表面に穴を穿ったり突起を刻印したりして記憶媒体として利用する。
1880年代末、アメリカのハーマン・ホレリスは機械で読み取り可能な形で媒体にデータを記録する方法を発明。それまで機械が読み取り可能な形で媒体に記録されているのはあくまで(ピアノロールやジャカード織機の様な)制御情報であって、データではなかった。
- 当初紙テープを試したが、最終的にパンチカードに到達。鉄道の車掌が切符に鋏を入れる様を見て思いついたという。パンチカードに穴を開けるキーパンチ機とそれを処理するタビュレーティングマシンを発明し、これが現代の情報処理発展の基盤となった。機械式カウンタとして、リレー(とソレノイド)を使っている。
- アメリカでの1890年の国勢調査に使われ、予定の数カ月前に集計を終え、予算も抑えることに貢献した。前回の国勢調査よりも数年短い期間で集計を終えている。このホレリスの創業した会社が後にIBMの中核となる。
- Leslie Comrieのパンチカード技術に関する記事やウォーレス・ジョン・エッカートの著書 Punched Card Methods in Scientific Computation (1940) によれば、パンチカードシステムは微分方程式を解いたり、浮動小数点数の乗除算を行うことも 出来て第二次世界大戦中には暗号の統計処理にも使われた。またコロンビア大学のThomas J. Watson Astronomical Computing Bureau(後のトーマス・J・ワトソン研究所)では、最先端のコンピューティングとしてパンチカードシステムを使った天文学の計算が行われていた。
IBMはパンチカード技術を発展させて一連の商用データ処理機器(パンチカードシステム)を開発。1950年頃までに産業界や政府で広く使われるようになっている。文書として一般人が手にするようになったカード(小切手や公共料金の明細など)には "Do not fold, spindle or mutilate"(折ったり穴を開けたり破いたりしないでください)という警告が印刷され、第二次世界大戦後の時代を表すキャッチフレーズとなった。
- パンチカードは、初期のコンピュータでも入力メディアとして鑽孔テープとともに使われた。IBMなどパンチカードマシンのメーカーがコンピュータに乗り出してきて、コンピュータが設置された「計算センター」を設置。そこでは以下のような光景が見られた。①ユーザーはプログラムをパンチカードの束の形で計算センターに提出する(プログラムの1行がパンチカード1枚に対応)。②カードが読み取られて処理のキューに入れられ、順番がくるとコンパイルされて実行される。③結果は提出者の何らかの識別と共にプリンターで印字され、計算センターのロビーなどに置かれる。多くの場合、その結果はコンパイルエラーや実行エラーの羅列であり、さらなるデバッグと再試行を必要とする。パンチカードは今でも使われており、その寸法(および80桁の容量)が様々な面で影響を及ぼしている。その寸法はホレリスのころのアメリカ合衆国の紙幣と同じで、紙幣を数える機械が流用できるためその寸法を採用した。
こうした展開が音声記録技術として独自発展を遂げてきたレコード技術や磁気テープ技術と合流を果たしたのは、世界初の商用コンピューターUNIVAC I(Universal Automatic Computer=万能自動計算機,1951年)が金属テープを使用したタビュレーティングシステムを付属入出力装置として搭載し、これへの対抗策として翌年IBM社がイメーション社(現在の3M社)の開発したModel726磁気テープユニット(1952年)を発表して以降となる。
ところで産業革命の普及は(消費の主体が明瞭に王侯貴族や聖職者といった伝統的インテリ/ブルジョワ/政治的エリート階層から新興ブルジョワ階層や庶民に移る過渡期における)生産力過剰状態を引き起こし、しかも繰り返される景気の乱高下は「アメリカが好景気の時は欧州が不況」「欧州が好況の時はアメリカが不況」なるシーソーゲームが見て取れる事も多かったのです。これが欧州におけるアメリカに対する感情悪化を伴わない筈がありません。
ハインツ-ゴルヴィツァー「黄禍論とは何か―その不安の正体-(1962年)」
「黄禍(Yellow Peril)」には先駆けとなったスローガンがあった。「米禍(American Peril)」がそれで、1870年代以降ヨーロッパでひしひしと感じられる様になったアメリカ農業(後にはアメリカ工業)による経済的脅威を意味した言葉である。とりわけ鉱山業と工業の分野で凌駕されていたイギリスの反応は敏感で、英国人経済学者スタンレイ・ジェヴォンス(1834年〜1882年)は以前から経済危機を乗り切る方策として限界効用論や太陽黒点説を唱えてきたが「炭鉱問題(1865年)」でやっといささかのセンセーションを巻き起こす事が出来た。
ベルギーの自由貿易論者で経済界の論客でもあったギュスタブ・ド・モリナリ(1819年〜1911年)と並んでドイツ語圏にはオーストリアの活力溢れる経済学者で著作活動も精力的に行っていたアレキサンダー・フォン・ベーツ(1829年〜1911年)も声高に警鐘を鳴らしている。1890年オーストリア財界で行った講演の中でアメリカの脅威を盛んに警告した上で「オールアメリカン」に対してはこちらも一丸で対抗しなければならないと説いている。ドイツ産業連盟の論客D.W.ヴェントラントも1902年に発表した「ドイツから見たアメリカンペリル」という論文の中で、1879年にビスマルクが定めた新たな独仏通商同盟をアメリカの挑戦から守るにはどの様にすべきか論じている。
フランスの立場からは、先に名前の挙がったモリナリがフランス、ドイツ、オーストリア・ハンガリー・オランダ・ベルギー・スイスからなる中欧関税同盟を成立させるべきと提案しているが、ライン川左岸の地域でこの様な努力に邁進したのはモリナリ一人だけではなかったのである。ドイツ国内でもこれとほとんど時を同じくして同一歩調を取る者がいた。それはカトリックの社会福祉政治家フランツ・ヒッツェ(1851年〜1921年)とプロテスタンントの保守的社会主義者ルドルフ・マイヤー(1839年〜1899年)で、マイヤーには「アメリカの脅威の原因」という著作もある。
皮肉にもこのジレンマは第一次世界大戦(1914年~1918年)によって打ち破られ、いわゆる「狂乱の20年代」が訪れたのです。
しかしそれに続いて世界恐慌(1929年)が勃発。
さらに太平洋戦争(1941年~1945年)へと続いた苦境を挙国一致体制で乗り越えた米国は「黄金の1950年代」と呼ばれる繁栄期を迎えるもベトナム戦争を契機とするヒッピー運動と黒人公民権運動の激化という事態を迎えてしまうのでした。
1960年代に入ると誰にも予想だにし得なかった社会的変動が相次いで、何もかもが変わってしまった。それまでアメリカを支えてきた自尊心もすっかり腐り果ててしまった。1960年には43歳のジョン・F・ケネディ大統領が大統領に当選。散文的で皮肉屋で番頭の様に小市民的で昼行灯の様にぼんやりしたトルーマン大統領と異なり、ドラマチックで活動的で強い意志を備えた政治家だった。この様な政治家の登場は常に歴史に乱世をもたらす。就任2年目にベトナム戦争への直接介入を発表。就任3年目に暗殺されて世界に衝撃を与える。ベトナム戦争は次第に泥沼化していきアメリカの万能感は跡形もなく砕かれる。その隙を突いた形で1967年から1968年にかけて黒人の暴動が燃え盛る。日本における応仁の乱がある種の生理学的革命現象だった様に、1950年代アメリカに漲っていた覇気はこの時から自滅に向かい始める…
この時代のアメリカは以下の様な経済構造の変化を経験します。
- 「映画のカラー化」に際してハリウッドが大スペクタル史劇や大作ミュージカル映画といった「品行方正なブロックバスター作品」に傾注する一方で「売れるがいかがわしい」怪奇カラー映画を英国、特撮カラー映画を日本に任せる分業体制を構築したが、これが崩壊。
- コミック配給のDC/マーベルによる独占体制の崩壊
- 米国における経済的中心の東海岸から西海岸への推移。
もちろん政治経済的に一番重要なのは最後の話。
アメリカ合衆国の政治を左右するのは民主党でも共和党でもない。大統領がどっちの党から選ばれるかなどほとんど重要ではない。問題はどっちの地域から選ばれるなのだ。
- 第35代大統領J.F.ケネディ(任期1961年~1963年)が暗殺されてからワン・ポイント・リリーフのG.フォード(任期1974年~1977年)を除いてL.ジョンソン(任期1963年~1969年)、R.ニクソン(任期1969年~1974年)、J.カーター(任期1 1977年~1981年)、R.レーガン(任期1981年~1989年)と全て南部諸州から選出されている。
- アメリカ合衆国を建国以来支配してきたのはシカゴからボストン、ニューヨークに到る東部エスタブリッシュメントだったが、今やそれは南部諸州にとって替わられた。政治、経済、文化を含めた壮大な権力移動(Power shift)が完了したのだ。南カリフォルニアからテキサスを経てノースカロライナに到る南部諸州を支えているのは農事産業、軍事産業、電子技術産業、石油・天然ガス産業、不動産・建設産業、観光・レジャー産業で、これらは六本の柱(Six pillars)と呼ばれている。
- その後アメリカ大統領はテキサス州出身のG・H・W・ブッシュ(1989年〜1993年)、アーカンソー州出身のビル・クリントン(1993年〜2001年)、同じくテキサス州出身のG・W・ブッシュ(2001年〜2009年)と南部諸種出身者がが続いてきたが、最近ハワイ出身で東部イリノイ州上院魏委を経たバラク・オバマ大統領(2009年〜)が就任し、このパターンが崩れた。実際ブッシュ大統領の賛成派と反対派の論争には確かに「東部エスタブリッシュメント VS 南部諸種」の代理戦争みたいな側面も見受けられる。
*そしてトランプ大統領もニューヨーク州ニューヨーク市出身…*バイデン大統領もペンシルバニア州出身…
- 「ケチャップをたっぷりかけたポテトフライやトマトソースを乗せたピザをヘルシーな野菜と言い切る農政の横暴」とか「国を貧しくしてまで続けてきた戦争で儲けたのは軍事産業だけ」とか「製造と組み立てを外国にアウトソーシングする様になった電子技術産業」とか「サウジアラビア王家と癒着しつつイスラム過激派の資金源となっているラディン・グループと親しいブッシュ一族」などについてアメリカ国内からすら批判される様になったのも南部諸州弱体化のせいかも。そういえばハリウッド映画もクリエイティブ面でもオーストラリア勢やヨーロッパ勢の力を借りる機会が増えた。
- ニューヨーク起源のFacebookが西海岸に移転してきたのを記念して「The Social Network(2010年)」なんて映画を撮っちゃう辺りにも劣等感すら感じる。その一方で若者層はニューヨークに残ったTumblrに奪われちゃうんだから世話はない。その結果最近は「南部諸州文化はダサい」がトレンドに? 映画「The Great Gatsby(2013年)」も舞台はニューヨークだった。
でもPizzaはイタリア料理で「鰻を食う文化」を温存してきたのもニューヨークのイタリア系。彼らはどちら側にもいる。そういえば一昔前までパニック映画といえばロサンゼルスばかり襲われてたけど、最近はニューヨークばかり襲われてる気がする。
「六本の柱(Six pillars)」
ギリシア語の「プロナオス(pronaos=寺院正面)」を起源とするポルチコ(イタリア語:Portico)様式玄関が起源。そのうち6柱式は古典ギリシャ時代(紀元前600年〜550年頃)からペリクレス時代(紀元前450年〜430年)の間に正統派ドーリア様式として定着し、ギリシア諸都市の南イタリア植民を契機としてエトルリア人にまで広まり、古代ローマに継承され、ボンベイ再発見(1748年)を契機として広まった新古典主義建築の影響でユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンやアメリカ合衆国議会議事堂の正面玄関に採用された。最近はあまりこれを南部諸州の「六柱」とする表現は見ない。
つまり、いつの間にか経済の中心が東海岸に戻っていた?
そんな感じで以下続報…