現在何が進行中なのか見定めるのは困難で、時として不可能ですらありますが、すでに自分の中で如何なるムーブメントが終焉済みか抽出するのは比較的容易です。
べトナム戦争(Vietnam War, 1955年~1975年)終焉を契機に「他民族から受けた被害を最大限言い立てる一方、他民族に与えた加害は可能な限り黙殺しようとする」民族主義の暴走が本格化。その皮切りとなったのはカンボジアのポル・ポト(クメール・ルージュ)政権によるベトナム系市民の民族浄化政策開始(1978年1月~)で、これを看過出来なかったベトナム軍がこの政権を一瞬で攻め滅ぼしたカンボジア・ベトナム戦争(1978年5月~1989年9月)と、かかる「野蛮人の所業」を懲罰すべく派遣された中国人民解放軍も返り討ちにされて大損害を出し、以降派兵自体がなかった事にされた中越戦争(1979年2月)が連続。
「戦場の村(1968年)」や「中国の旅(1972年)」で名を馳せた「人道主義ジャーナリスト」本田勝一が、ベトナム戦争終焉や、その後のベトナムと中国の関係悪化を背景にこれら「元スポンサー」から門前払いされる様になり(当時の記事にはその事への恨み節が多いが、共産主義圏のプロパガンダ展開全体を俯瞰すると利用価値が無くなった時点で口封じに殺されなかっただけマシ。というより抹殺コストが見合わない使い捨ての小物と判断された可能性が濃厚)やがてよりによってポル・ポト政権の擁護に走り、その倒壊によって壮絶な実態が明らかになると完全に沈黙してしまった時代とも重なる。
こうした形での「元探検ルポライター」本田勝一の凋落と、電通をスポンサーに迎え、ある意味ショウビズ化によって「日本人による探検」の余命を文字通り命懸けで少しだけ伸ばそうとした植村直己の壮絶な最後(1984年)は、まさに総力戦体制時代の掉尾を飾るエピソードに相応しいといえよう。
まぁ、それでも今日なお現在進行形で私の文体上の師匠ではあり続けてる訳ですよ。本田勝一「先生」。海外での名乗りも「姓は大文字、名は小文字で順番を逆転しない」を貫いてきましたしね。
3年ほど前、知財協の「明細書の書き方」を受講したとき、先生から強く勧められたのが、本田勝一の「日本語の作文技術」。この時点で、明細書を実際に書き起こす作業を行い、日本語の作文を一から学び直すことができたのは、技術翻訳者として非常に有益だった。 pic.twitter.com/zm2AN2Wkl3
— William Yanaka (@WILLIAM_JOY) 2019年4月10日
来年の1月から、ローマ字の日本人名表記が「姓名」の順になるらしい。ただし公文書で(←重要)。
— 堅太 (@55kenta03) 2019年10月25日
そういえば、本多勝一が40年間以上前に書いた「『氏名』と『名氏』」というエッセイに、例えばアメリカ行きだからといって氏名を「逆にするのは植民地感覚というものだろう」という一文があった。 pic.twitter.com/TY6brWkBCV
そうそう、日本人人名のローマ字表記の姓=名順は、本田勝一が言ってたんだよね。
— 弁護士 吉峯耕平(「カンママル」撲滅委員会) (@kyoshimine) 2019年10月26日
だいたい、欧米あたりは名=姓順っていっても、それだと不便だから参考文献で並べるときには姓をキーに並べるでしょ。
わざわざひっくり返す必要なんてなかったんですよ。 https://t.co/i5eaZrEDmr
かかる人物の足跡を「とある探検家の凋落過程」と整理すると夢枕獏「神々の山嶺(かみがみのいただき、原作1994年~1997年、谷口ジロー作画の漫画化2000年~2003年、映画化2016年)」について触れざるを得なくなります。
本田勝一さんがニューギニアでジャングルに踏み込む時、下ろし金を持って行ったが、すり下ろして澱粉を得られそうなもの、およそなかったと「極限の民族」で書いておられました。
— K.Mikami (@Dr_pulcherrima) 2019年6月25日
食物繊維ばかりですよねジャングルは
— 夢の中のアンドロイド🌱わにぐちクリップの妖精 (@j2diff) 2019年6月26日
タンパク質も加熱調理しなければ食中毒の危険がありますしね
そうか、要するに2016年における「崇高と戦慄が同居する」ピクチャレスク\\\(Picturesque)・ブームこそが最後に痕跡を残せた限界だった?