未読の映画についての詳細不明な解説ですが、とりあえずメモがてら。お題はウィリアム・ワイラー監督映画「偽りの花園(The Little Foxes,1941年)」…
以前の投稿だとこの話と関係してくる様です。
『偽りの花園』見終わった。ウィリアム・ワイラー監督の1941年作。原作はリリアン・ヘルマンの戯曲。富を目当てに醜悪なエゴを剥き出しにする一族。巧い。冴えた台詞のやりとりも流石。…なのだが、本質的に男性社会で抑圧された女性の反逆が、悪女の物語に単純化されてしまったのではという疑問が。
— 田亀源五郎 Gengoroh Tagame (@tagagen) 2021年12月16日
主人公である白塗りで無表情のベティ・デイヴィスは迫力なのだが、彼女は単に功利的で冷酷なのではなく、男性社会の犠牲にならないため抵抗する力を求めた結果だという描写が足りない感。それがあってこそ、犠牲者であるアル中の義妹や、個人として目覚め道を探す娘との対比が活きるのでは…。
— 田亀源五郎 Gengoroh Tagame (@tagagen) 2021年12月16日
この辺りがしっかり描かれるには「悪女」概念を破壊した吉田秋生「吉祥天女(1983年~1984年)」や「家父長制や家母長制の対峙」といった表層構造の超越を描いた山岸涼子「日出処の天子(1980年~1984年)」「馬屋古女王(1984年)」の登場を待つ必要があったのかもしれません。
ラストの母娘間で交わされる《同志的》な会話も、抑圧された女たちの物語という焦点がぼやけてしまっている故に、効果が薄れてしまっている気がする。そんなこんなで、面白く見応えもあるけれど、なんか歯痒い。同じワイラー/ヘルマンの『噂の二人』同様、こりゃあやっちまったかな…という疑問あり。
— 田亀源五郎 Gengoroh Tagame (@tagagen) 2021年12月16日
これは古代ギリシャ悲劇、とりわけペロポネソス戦争において絶望的な包囲戦を戦った時期のアテナイで名声を博したエウリピデスやソポクレスの作品にも見て取れる。敵対国たる「コリントス の主神」アフロディテや「スパルタ人の崇める半神的英雄」ヘラクレスへの当て擦りに加えて繰り返し語られ続ける「(夫や息子を戦場に送り出す)女性への忍従の要請」…
そして…
素晴らしい。私は単にベティの芝居(特にあの眼演技)を堪能して終わってました。断然観直したくなりました!
— 白央篤司 (@hakuo416) 2021年12月16日
『噂の二人』と『ミニヴァー夫人』のせいで、ワイラーへの不信感を拭えない私の、気にしすぎという可能性もありますが…😅 それはそれとして、ベティはしっかり堪能♪
— 田亀源五郎 Gengoroh Tagame (@tagagen) 2021年12月16日
質問をすみません、田亀さんは『ミニヴァー夫人』のどこに不信を思われたのでしょうか。どうしても知りたくなってしまって…。
— 白央篤司 (@hakuo416) 2021年12月16日
共感しやすい身の丈描写を使ってキャラクターに感情移入させ、次に「敵」への恐怖や「身内」の悲劇を使って情緒的な情動を「戦意高揚」へと接続し、とどめに「宗教的高揚」を使って「感動的」に幕を降ろす…そんなプロパガンダ作品としての巧妙さが嫌で、そこに躊躇が感じられないのが不信感に。
— 田亀源五郎 Gengoroh Tagame (@tagagen) 2021年12月16日
プロパガンダ映画って、取って付けたようだったり露骨すぎるやつは、そう不快でもないんですよ。逆に巧く出来ている方が不快。特に銃後の人々を感情的に戦場へと誘導していくタイプが最も不快。その映画を見たことで、殺される(殺す)人が出るから。『ミニヴァー夫人』は、そういう印象でした。
— 田亀源五郎 Gengoroh Tagame (@tagagen) 2021年12月16日
悪い意味での名人芸、ですね……。
— 白央篤司 (@hakuo416) 2021年12月16日
そう、巧いんですよ…だから尚更「げえええっ」となっちゃった…😩
— 田亀源五郎 Gengoroh Tagame (@tagagen) 2021年12月16日
ありがとうございます。こちらもまったくもって表層的にしか見てなかった自分を思います。
— 白央篤司 (@hakuo416) 2021年12月16日
ふと同時代のホラー作品と並べてみたくなりました。
①まずはユニバーサル・モンスターズ(Universal Monsters)の登場とその陳腐化(怪人プロレス化)が先行する。
- サイレント映画「オペラの怪人(The Phantom of the Opera:1925年)」における「怪人(ファントム)」エリック(音楽と奇術に明るい、脱獄した猟奇犯罪者)…オペラ劇場に潜み、栄達を望む女性歌手の前に現れて彼女の高望みにつけ込んで破滅させる。豪華な衣装や舞台装置に大金をつぎ込むメガミュージカルの先駆けとなった1986年版の物語では、原作に回帰する形で「パリのオペラ座の地下に潜み劇場関係者から恐れられている怪人」「その怪人に歌手としての素質を見いだされレッスンを受けるコーラスガールのクリスティーヌ・ダーエ」「その幼なじみで新たにオペラ座の後援者となったラウル子爵」の三角関係にストーリーが整理された。
- 「魔人ドラキュラ(Dracula:1931年)」における「ドラキュラ伯爵」…若き弁理士の野心につけ込んで 僻地の古城からロンドンへ上京。「尻軽女」ルーシーを食い殺し、次いで「貞女」ミナ・ハーカー(若き弁理士の婚約者)を狙うが「オカルト探偵」ヘルシングに本拠地まで攻め込まれ滅ぼされる。その「悪女と貞女を峻別する」勧善懲悪観に対する「古臭い」という批判は1897年に発表された原作からつきまとってきたが、当時は「トーキー怪奇映画登場」ハマー作品によるリヴァイバル期には「カラー怪奇映画登場」なるセンセーショナル性が、その陳腐さをとりあえずは打ち消す事に成功したとも見て取れる。これ実は日本において最初にTVアニメ化されたラインナップが手塚治虫「鉄腕アトム(原作漫画1952年~1968年、TVアニメ化1963年~1966年)」や横山光輝「鉄人28号(原作1956年~1966年、TVアニメ化1963年)」「魔法使いサリー(原作1966年~1967年、TVアニメ化1966年)」、赤塚不二夫「秘密のアッコちゃん(原作1962年~1965年、TVアニメ化1969年~1970年)」といった(PTAに迎合して、それに迎合しなかった少年向け週間漫画誌に駆逐された)少年向け月刊紙掲載作品や(「ファンタジー,SF,海外を舞台とする作品はこの限りではない」なるバグを突いて攻略された恋愛御法度ルールを遵守する)古典的少女漫画の「時代遅れ評価」の克服を目していた事と重ねられる。
- 「フランケンシュタイン(Frankenstein、1931年)」における「フランケンシュタイン伯爵」と彼の生んだ「怪物」…故郷で「人間を創造する」野心を抱いたフランケンシュタイン伯爵が、被造物たる怪物の反逆を受け婚約者を殺される(「怪物」に要求されるままその女性配偶者を創造するも、その女性配偶者が「怪物」を拒絶した復讐)。続編「フランケンシュタインの花嫁(Bride of Frankenstein,1935年)」では原作者シェリー夫人が、かかる女性配偶者と同一視された。「怪物とその創造者を巡るメタ構造」が映画文法に盛り込まれた端緒とも。
- 「ミイラ再生(The Mummy、1932年)」における「ミイラ男」高僧イムホテップ…若き考古学者が、野心に駆られて古代エジプト王朝時代に身分違いの恋心を抱いた罰で封印された魔術師を解いてしまう。魔術師は現代に輪廻転生した悲恋の相手と無理心中を遂げようとする(輪廻転生を同期させる為、一緒に死のうとする)。この作品では「オカルト探偵」ミュラー博士に討伐されるが、続編では「輪廻転生した悲恋の相手」が考古学者の婚約者で三角関係が成立したり、彼女がとんでもない野心を抱く悪女で、無理心中成功による成仏がハッピーエンドとなるバージョン(むしろ魔術師の純愛の切なさが愛おしくなる展開)も現れる。
そしてユニバーサル映画自体によるリブート作品「ザ・マミー/呪われた砂漠の王女(The Mummy,2017年)」はこの魔術師の女体化を試みて伝統的物語文法そのものを崩壊させる醜態を晒してしまう。
- 「透明人間(The Invisible Man、1933年)」における「透明人間」…とんでもない野心を抱いた科学者が、自らを被験者とする実験で人格変容を起こし破滅していく。H・G・ウェルズの原作「透明人間(The Invisible Man, 1897年)」は、同じく「化学万能時代を牽引する近代人が、科学の進歩そのものによって暴露する内面の闇」を照明したスティーヴンソン「ジーキル博士とハイド氏(The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde, 1885年)」の影響を色濃く継承している。ジキル博士の内面性の顕現たるハイド氏は売春婦や女中に暴力を振るう卑劣漢に過ぎなかったが、透明人間映画版では原作では登場しない「変貌し果ててなお彼を慕い続け、その最後を看取る婚約者」が純愛を貫く。
- 「倫敦の人狼(Werewolf of London、1935年)」における「狼男」…当時ベストセラーとなったガイ・エンドア「パリの狼男(The Werewolf of Paris、1934年)」は「虐殺が日常化したパリ・コミューン期のパリを舞台に、人殺しを重ねる狼男が逆に「人間の方がよっぽど罪深くないか?」と聞き返してくる」当時の倫理基準では映像化不可能な内容だった。それで「狼男に噛まれた者は狼男になる」「銀で出来たもので殺せる」といった設定を追加したオリジナル脚本が書き下ろした。奇病"狼憑き"の治療薬"狼草"を探してチベット高原を訪れた英国人植物学者が現地で"狼憑き"に感染。帰国後症状が出て正気を保てなくなり、自宅を去って貧民窟を転々としながら研究室の"狼草"が咲くときを待つ。満を辞して研究所を訪れると彼を"狼憑き"に感染させた感染源が待ち構えており対決となる。かろうじて彼は倒したものの、別途"狼憑き"の犯す殺人事件を追跡していた軍人に射殺される。実は大ヒットしたのはこの第1作自体ではなく、"狼憑き"に感染し、満月を迎える都度殺人を犯しながら逃走を続ける二重人格者としての主人公の内面的葛藤にフォーカスしたオマージュ的作品「狼男(The Wolf Man、1941年)」だった。作品構造そのものというより主役のローレンス・タルボットを演じた(サイレント時代の怪奇俳優)ロン・チェイニーの息子ロン・チェイニー・Jr.の二重人格者の演技が受けたのである。
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「大アマゾンの半魚人(Creature from the Black Lagoon、1954年)」におけるギルマン(Gill-man:鰓のある人間)…(後に「007サンダーボール作戦(Thunderball:1965年)」のヒット要因となる)水中撮影技術の進化を背景に企画されたが「古代生物と現代文明の接触によって起きる悲劇」「人間の女性に恋をした半魚人の悲恋」といった要素の端々にRKO怪奇映画の嚆矢「キングコング(King Kong, 1933年)に」との類似性が指摘されている。
背景に以下の様な歴史展開が見て取れます。
- 本来文明の及ばない辺境で独立した生活圏を構築してきた営んできた怪物達。それが産業革命の恩恵が交通インフラ整備によって世界の隅々まで行き渡る様になると自律性を喪失し「近代文明との対峙(その周辺からの侵犯者)」といった対立構造を通じてしか存続を許されなくなっていく…「吸血鬼ドラキュラ」「ミイラ男」「狼男」「半魚人」
- その一方で文明圏側もあまりに急速過ぎる科学万能主義の浸透や「欲望の回収装置」としての国家や都市の機能に警戒心を抱く様になっていく…「(都市構造の一端を担う劇場のおぞましい側面を象徴する)オペラ座の怪人」「(ジギル博士の裏人格としての)ハイド氏」「(科学実験の犠牲者としての)透明人間」
- 「都市小説」としてのモダニズム文学には、こうした流れの交点として立ち現れてきた側面もあったのである。
フェミニズム文学論の観点からいうと「怪物に対する女性登場人物の立場の変遷」を通じて「(分不相応の度し難い野望を抱く)悪女と(従順に既存社会のルールに収まる)貞女を峻別して前者に破滅、後者にハッピーエンドを用意する古典的物語文法」の揺らぎ始めた辺りが重要。そして怪奇映画はこれを忌避して物語を「怪物がただの怪物として退治される勧善懲悪譚」に単純化されればされるほど女性観客が離れるジレンマを抱えていたのです。
- そう「可愛いものと猟奇が好き」な女性観客は怪奇映画の重要な客層の一つであり、だからそこに必ずロマンス要素が盛り込まれてきた訳だが「透明人間」「フランケンシュタイン博士の花嫁」でとりわけ両者の結びつきに踏み込んだのが、英国出身の同性愛者監督ジェイムズ・ホエール(James Whale, 1889年~1957年)だったといえよう。
- ここから「自分も本当は怪物かもしれないと不安になる権利は女子には与えてもらえないの?」さらには「どうして女子も自分の欲求に忠実で、他人など一切視野になく、欲しくなったものは手段を選ばず獲得を目指すロマン主義者になり果ててはいけないの?」といった考え方が派生し、とりあえず物語の世界の枠内だけでもそれを満たそうという動きが現れる。この要求を満たして大ヒット作品となったのがマーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ(Gone With the Wind、原作1936年、映画化1939年)」という分析もある。
「わたしも小説家になるの。だつて、會社に這入っても、日本といふ國はまだほんたうには女に職業を與へてくれないんですもの。女は仕事が出来ても出来なくても、雇員以上にはして呉れないの。社員になれるのは男だけなの。」
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2021年12月24日
……昭和15年、某小説作品中の科白。マーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ(Gone With the Wind、原作1936年、映画化1939年)」より「南北戦争が南部淑女の生活に与えた影響」
しかし未亡人生活の繭から出てきたばかりのスカーレットにとって、戦争全体がにぎわいと興奮の時を意味した。衣類や食料が少しぐらい欠乏しようと苦にはならない。またこの世にもどってこられたのがうれしくてたまらない。
毎日がまるで変わり映えせず過ぎていった昨年の退屈な暮らしを思えば、いまの生活はスピードアップして信じられない速さで進んでいた。毎日、わくわくする冒険として一日がスタートし、今日も新たに出会う男性たちは、退院したら訪ねていいかと訊き、綺麗だ綺麗だとほめてくれ、あなたのために戦い、死んでいくことさえ名誉だと言ってくれるだろう。死を迎える瞬間までアシュリを愛せるし、愛するだろうけれど、だからといって他の男性たちを籠絡し、求婚させて悪いことはないはずだ。
戦争がつねに背景にあるせいで、社交界の関係もあまり角張らなくなってきて居心地がよかった。しかし年配の人々にすれば、ぎょっとするようなくだけぶりである。母親たちは娘のもとに、紹介状もなくどこの馬の骨ともわからないよそ者が訪れてくるのを見かける。恐ろしいことに、そんな男性とわが娘が手をにぎりあっていたりする。結婚式がすむまで夫と接吻もしたことがないメリウェザー夫人は、メイベルがあのズアーヴ服の小男ルネ・ピカールとキスしている現場を目撃してわが目を疑ったが、そんな行為をメイベルが恥とも思わないと断言すると、驚きに拍車がかかった。キスの後ただちにルネがプロポーズをしたところで、破廉恥さに変わりはない。南部はいま、完全なモラル崩壊にむかっている。夫人はそう感じていたし、しばしばそう公言した。ほかの母親たちも夫人の意見に心から同意し、これも戦争のせいだと言いあった。
とはいえ、男性のほうは一週間か一か月のうちに死ぬかもしれないというときに、ファーストネームでお呼びして宜しいですか──もちろん「ミス」を付けて──などと、女性に伺いを立てるのに一年も待っていられない。そこで、戦前では当然のマナーとされていたくだくだしい正式の求婚手順を省こうとしたのである。だいたい三、四か月の交際でプロポーズするようになり、かたや、淑女たるものは求婚されても最初の三回ははねつけるべしとよく弁えていた娘たちも、初回の申し出にまっしぐらに飛びつくようになった。
こうした略式流儀のおかげで、スカーレットは戦争を大いに楽しんでいた。看護婦の汚れ仕事やうんざりする包帯巻きさえ我慢すればいいのだから、いつまで戦争がつづいたってかまわないぐらい。いや、病院の仕事も、最近では悠々とこなせるようになった。なにしろ、そこはまたとないうってつけの猟場なのだから。
無力な負傷者たちは手もなくスカーレットの魅力にはまった。包帯を換え、顔を洗い、枕をふくらませ、団扇であおいでやるだけで、彼らはたやすく恋に落ちた。ああ、退屈で死にそうだった去年に比べたら、まさに天国だわ!
②そして次いでRKO怪奇映画の時代が到来する。
- 「キングコング(King Kong、1933年)」…サイレント時代のドキュメント映画の巨匠監督カール・デナムは(自分の欲求に忠実で、他人など一切視野になく、欲しくなったものは手段を選ばず獲得を目指す)ロマン主義者。世界恐慌の煽りを受けて経済的に困窮していた彼は起死回生を賭して謎の孤島スカル島の巨大生物の取材に向かう。その巻き添えとなったのが同様に世界恐慌の煽りを受けて失業し、万引きの誘惑に負けそうなほど困窮していた駆け出し女優アン・ダロウ。「トーキー時代のドキュメント映画には(紀行番組「世界の旅」における兼高かおるの様な)美貌と美声を備えた女性案内役の登場が必須」なる慧眼に従っての起用だったが、ロマン主義者故に彼女が怪物の生贄に捧げられても撮影を強行し、怪物の捕獲に成功するとそれを大都会で見世物にしての荒稼ぎを目論む。結果として逃亡した怪物が暴れ回りニューヨークはパニックに。
- 「1940年代RKOサスペンス」…どこからどこまでが現実か分からない不安定感を特徴とする。代表作はアルジャーノン・ブラックウッド「太古の魔術(Ancient Sorceries、1927年)」の影響を色濃く受けたヴァル・リュートン(Val Lewton)の「The Bagheeta(1930年)」を原作とする映画「キャット・ピープル(Cat People、1942年)」。アルジャーノン・ブラックウッド(Algernon Henry Blackwood、1869年〜1951年)はM.R.ジェイムズ(Montague Rhodes James、1862年〜1936年、レ・ファニュを再評価しアンデルセン英訳でも知られる古文書学者でもあった)やアーサー・マッケン(Arthur Machen, 1863年〜1947年、アンブローズ・ビアス(Ambrose Bierce、Ambrose Gwinnett Bierce, 1842年〜1913年失踪)と双璧をなす「クトゥルフ神話の父祖」)と並び称される近代英国怪奇小説三巨匠の一人。魔術結社「黄金の夜明け団」に所属する魔術師でもあり、生涯独身であった。一方、映画「キャット・ピープル」自体はフランス人映画監督ジャック・ターナー/ジャック・トゥールヌール(Jacques Tourneur, 1904年〜1977年)が手掛けた低予算のホラー映画で、オーソン・ウェルズ監督映画「市民ケーン(Citizen Kane、1941年)」「偉大なるアンバーソン家の人々(The Magnificent Ambersons、1942年)」の興行的失敗で破綻しかけていたRKOの経営を救った事で知られる。RKOとジャック・ターナー監督はこれに気を良くして「私はゾンビと歩いた!(I walked with a Zombie 1943年)」「レオパルドマン 豹男(The Leopard Man、1943年)」「キャット・ピープルの呪い(The curse of the cat people、1944年)」「吸血鬼ボボラカ(Isle of the Dead 1945年)」などの異国情緒あふれる「文芸ホラー」を量産した。
「ユニバーサルモンスターの狼男」ローレンス・タルボットの二重人格(「苦悩する人間」と「凶暴な獣人の恐怖」の同居)はあくまで客観(Object)であり、そこに両者の主体的統合はありません。ところが「RKO怪奇映画のヒロイン」が抱える「自分は知らないうちに人を食い殺している猫族かもしれない不安」は主観(Subject)であり、カント的主客二元論(世界そのものは自分の認識範囲を超えて広がっているという現実にどう対処するかという問題)の領域に踏み込んでいるのです。そしてこの問題に徒手空拳で正面から向かい合うと自殺や発狂という結末を迎えやすいとも。
- 後者は幻想小説の歴史からいうと「神経症と夢遊病の世界」というジャンルに該当。文学表現上はあくまで「(確信犯たる)偏執狂とストーカーの世界」である客観の領域と区別される。「ロマン主義文学」は両方に跨るが「ロマン主義者」は概ね前者のみを指す。何故なら「ロマン主義者」は立派に人格類型の一種だが「神経症と夢遊病の世界の住人」はそもそも確固たる人格が構築出来ないで悩んでいる段階に過ぎない。すなわち「無人格」の一種としてまとめて分類され忘れ去られてしまうだけなのである。
- ややこしい事に心理学の世界では前者を(統計的手法による類型抽出に基づく)人格心理学(personality psychology)が扱い、後者を(被験者の内的世界解析に徹する)対象心理学(object psychology)が扱う。前者の立場は「人間と狼男の間を往復する事」をユニークな個性(人格類型)の一種と考え、後者の立場は「人間と狼男の間を往復する事」が当事者の内的世界においてどういう意味を持っているか徹底的に構造解析する。表裏一体の関係にありながらこの二者の観測技法には全く互換性がなくて情報共有が極めて難しい。
③第二次世界大戦後の「大怪獣襲来物」。そして映画カラー化時代における日英分業体制の樹立
一方「キング・コング(1934年)」におけるウィリス・オブライエンの特撮技術の影響を受けてストップモーション・アニメーションの世界に足を踏み入れたハリーハウゼンは「原子怪獣現わる(The Beast from 20,000 Fathoms、1953年)」以降も1950年代を特徴付ける「特撮襲来物」を手がけ続ける。
そしてこうした潮流から、次の時代に結びつく新しい流れが分かれ出る。一つは東宝制作の「空の大怪獣ラドン(1956年)」を嚆矢とする日本の「カラー特撮映画」路線。
もう一つは英国ハマープロの「カラー恐怖映画」路線。
こうした「カラー怪奇映画ブーム」にすかざず便乗したのがロジャー・コーマンの「1960年代エドガー・アラン・ポー物」となる。
その一方でハリウッドはカラー化リソースを「スペクタクル大作史劇」と「大作ミュージカル映画」に集中し続けるが、TV普及によって壊滅的打撃を負ってしまう。
ある意味ミュージカル映画「グレイテスト・ショーマン(The Greatest Showman,2017年)」に歌われた「一度星を掴んだ以上は二度と手放さないと誓う」人々は、こうして台頭してきた訳です。
以下の投稿で述べた「1960年代以降の映画史」の前日譚。
そんな感じで以下続報…