諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【永劫回帰】英雄主義は愚行と紙一重?

どうやら岩明均ヒストリエ(2003年~)」のパフラゴニア編に登場する「出自不明の黒海沿岸の集落」はクルガン仮説や(それをイメージソースとする)バーバラ・ウォーカーの家母長制起源仮説を批判的に継承している様です。

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ヨーロッパ人の祖先は先住の狩猟採集民と中東起源の農耕民だけではない。さらにステップ地帯現在のハンガリーからカザフスタンを経てモンゴル高原に至る草原地帯)の牧畜民の大規模な流入によって、現代ヨーロッパ人の系統が形成された。インド=ヨーロッパ語という言語グループがこれほど広大な地域に広がったのも、ステップ地帯に起源を持つヤムナヤ文化の大規模な拡散と集団移動によるところが大きい。

そういえばこの辺り浦沢直樹勝鹿北星長崎尚志脚本、浦沢直樹作画「MASTERキートン(1988年~1994年)」における考古学ロマン部分「白い女神の謎」や星野之宣宗像教授シリーズ(1990年~)」における「抹殺された巫女集団」仮説の元ネタでもある?

だからこのパフラゴニア編からの引用、本来なら「文明の出発点だった家母長制をギリシャの家父長制が塗り潰した」「人類は家母長制の復活によってのみ救済される」と主張するバーバラ・ウォーカー流ウルトラ・フェミニスト快哉を上げるシーンとなる筈なのですが、現在のTwitterでは「これからはJフェミへの対応なんてこんな感じでいい」場面として認識される様です。

ウラジミール・プロップあるいはオーギュスト・ブランキ永劫回帰論を思い出させますね。「抑圧者との戦いに勝利はない。何故なら体制奪取の成功とは追う側と追われる側の交代に過ぎず、次世代の抵抗者とって自らが抑圧者側に回ったと認識される事を免れ得ないからである」。

どちらかというとフレイザー金枝篇(The Golden Bough,1890年~1913年)」の様な気もしてきました。古代まで遡る「権力者の在り方」の原像…

そして「王権と教会に対して宣戦布告し、それらの絶対視終焉が運動の終焉となったフランス小ロマンが辿った足跡が近代以降の現れ方となった?

現実には「歴史のその時点における最強者がその時点の勝者となる」ルールのみが存在するだけで、この「ヒストリエ」パフラゴニア編における「快哉場面」も「早過ぎた勝利」のツケを払う形で主人公が全責任を負って追放される形で幕を閉じます。この意味合いにおいて常に英雄主義は愚行と表裏一体とも。

「叙事詩」から「ファンタジー」へ

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ル・グウィン「夜の言葉(1979年)

結局芸術のなすこととは、もろもろの感情、感覚、身体などから切りはなされて漂い、純粋な意味という虚の世界へ旅だつことでもなければ、精神の眼を閉ざし、理性とも倫理とも無縁な無意味のなかに浸りきることでもなく、この二つの対極のあいだのごく細く、困難で、しかし欠くことのできないつながりを断たないようにすることなのです。つなぐことです。観念と価値判断、感覚と直観、外側の皮膚と大脳とをつなぐことなのです。

「つながり」を生み出すものとしての「集合的無意識」を構成する「元型」。

真に集合的なもの、つまりわたしたちすべてのなかで生きており、大切な意味をもっているイメージへと至る唯一の道は、真に個人的なものを介してしかないように思われます。純粋な理性の非個人性でもなく、「大衆」に埋没した非個人性でもなく、なにか他のものに還元することのできない、どうしようもなく個人的なもの―自己。他者に到達するために芸術家は自分自身の内部へと向かいます。理性を手がかりにしながら、自分の意思で非合理なものの世界に足を踏み入れるのです。自分自身の内奥にはいりこめばはいりこむほど他者に近づいていくのです。

あれ?もしかしたら劇場版映画「幻魔大戦(1983年)」、日渡早紀ぼくの地球を守って(1986年~1994年)」、荒俣宏帝都物語(1985年~)」におけるオカルト要素への傾斜にはこの流れの影響もあった?

海外では同様の画期が「未来を花束にして(Suffragette,2015年)」封切り時に垣間見られました。この映画、全体の内容としては日本の運動史に照会すると「山岳ベース事件(1971年~1972年)あさま山荘事件(1972年)で奮闘した勇士がいたからこそ、以降の日本は平和を勝ち取った」みたいなとんでもない展開のウルトラ・フェミニスト/新左翼残党が仕掛けたプロパガンダ映画だったのですが…

海外のフェミニスト達の多くは本編の内容には一切触れず、ヘレナ・ボナム・カーター演じる合気道のトレーナーの「いかなる女性も暴力に直面する可能性があるなら護身術を身につけるべき」発言だけをベタ褒めしたのです。

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そんな感じで以下続報…