諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「何もわからない。オレ達は雰囲気で進化してきた」?

自分でいうのもなんだけど、正気を疑うほどのジェットコースター振り?

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今回の投稿の発端となったTweet

これがカンブリア爆発(5億4200万年前~5億3000万年前)とメソポタミア文明(紀元前4000年頃~紀元前4世紀頃)の話。アノマロカリス(約5億年前)が滅んだ後は魚類(約4億6000万年前~急激な進化が始まったのは地殻変動が激しくなった約4億2000万年前以降)の天下となり、アッシリア帝国(紀元前911年~紀元前609年)の衣鉢を継いだアケメネス朝ペルシア(紀元前550年~紀元前330年)をマケドニア王国(紀元前808年~紀元前168年)を滅ぼす形で始まったヘレニズム時代(紀元前323年~紀元前30年)の栄華をローマ帝国(紀元前753年~1453年)とササン朝ペルシャ(226年~651年)及びイスラム諸王朝(750年~16世紀)が継承しました。

これが帝国主義の時代(1870年代~20世紀初頭)に辿り着く産業革命(18世紀~19世紀)の時代の話で、第一次世界大戦(1914年~1918年)を契機に1970年代まで続く総力戦時代が始まる。

これはローマ帝国衰退からエフタル(4世紀~6世紀)台頭の狭間に現れた「天秤の時代(3世紀~4世紀)」の話…

これはフランス革命(1789年~1795年)からナポレオン戦争(1799年~1815年)にかけての時代の話ですね。並べ直して他の投稿にある時間区分を補完してみると…

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①人類以前

カンブリア爆発(5億4200万年前~5億3000万年前)から魚類誕生(約4億6000万年前~急激な進化が始まったのは地殻変動が激しくなった約4億2000万年前以降)までの時間区分

  • あらゆる思惟の大源流たる「視覚とそれを処理する脊髄」の歴史が始まる。その能力を最初に最大限発揮して「生物界初の百獣の王」となった肉食動物(Carnivore)/捕食者(Predator)のアノマロカリス(約5億年前)は、一説によれば巨大化(最大50cm前後)の末に食べられる餌を食べ尽くし(逆をいえば外殻や毒を備えたり地中に潜る事でそれを免れた生物のみが以降残った)絶滅を余儀なくされたという。

  • この様に「視覚とそれを処理する脊髄」の獲得が生存の必須条件とならなかった事が生物多様性(Biological Diversity)の原風景となる。かかる環境と共存する形で魚類誕生(約4億6000万年前~急激な進化が始まったのは地殻変動が激しくなった約4億2000万年前以降)から現生人類の誕生(20万年前)に至る歴史が構築されてきた。

「略奪遠征」時代

メソポタミア文明(紀元前4000年頃~紀元前4世紀頃)においてヒッタイト(Hittites,紀元前16世紀~紀元前1180年)とエジプト新王国(紀元前1570年頃~紀元前1070年頃)が衝突し「起源前1900年のカタストロフ」に至った。ある意味「種としてのアノマロカリスの興亡」の人類史上における再現の繰り返しの最初とも見て取れる。

  • 青銅器(武器,農具,祭器)を中心とする古代文明紀元前3000年頃、初期メソポタミア文明に位置づけられるシュメール文明(紀元前3500年頃~紀元前3100年頃)まで遡る。幾度も民族交代があったが、天文学や土木工事の技術を伝える神官団が指揮する大規模灌漑事業を主要食料源とする政教一致都市国家なる根本は継承され続ける。ちなみに青銅(Bronze)の合成には銅だけでなく錫も必要であり、それを産するイラン高原アナトリア半島においてアッシリア商人が交易網を構築した。

  • しかし(後にミタンニを建国する)フルリ人の影響下、この地にヒッタイト(Hittites,紀元前16世紀~紀元前1180年)が現れ、ヒクソス(紀元前1730年頃~紀元前1570年頃)支配下から抜けたエジプト新王国(紀元前1570年頃~紀元前1070年頃)と激しく衝突。たちまち(鉄器の工業生産力が鍵となる)戦車の大規模動員の時代となり、これに頼っての略奪遠征に支えられた両国経済が飽和点に到達した(国を富ませる略奪遠征の対象が尽きてお互いくらいしか標的がなくなってしまい、しかも両国とも疲弊して身動き出来なくなってしまった)時点で「起源前1200年のカタストロフ」が訪れる。

    遊牧民族色の強いフルリ人の建国したミタンニ(紀元前16世紀頃~紀元前13世紀頃,メソポタミア北部に割拠)や謎多きエラム(紀元前3200年頃~紀元前539年。イラン高原のザクロス山脈に割拠)やウラルトゥ(紀元前9世紀頃~紀元前585年,アナトリア半島東部のヒッタイト故地に割拠)がこうした覇権争いに参加出来ず、終始歴史上における脇役の立場に甘んじざるを得なかったのは工業化段階に到達出来なかったからとも。

    こうした歴史展開を背景に(平和裏に始まった筈の)アッシリアの変貌が進行。

②「古代帝政」時代。

メソポタミア文明(紀元前4000年頃~紀元前4世紀頃)に「常備軍を略奪遠征で養うアッシリア帝国(紀元前744年~紀元前609年)が現れ、その諸制度をアケメネス朝ペルシア(紀元前550年~紀元前330年)が古代帝政なる形に編纂。さらにマケドニア王国(紀元前808年~紀元前168年)がこれを滅ぼしてヘレニズム時代(紀元前323年~紀元前30年)が始まった。

  • この間にエジプト新王朝(紀元前1570年頃~紀元前1070年頃)庇護下で成長を遂げてきたフェニキア商人(紀元前16世紀~紀元前146年)が「紀元前1200年のカタストロフ」を契機とする大国衰退期に地中海交易網を樹立。その東部は紀元前8世紀以降「東方様式」を特徴とするドーリア人交易圏に奪われ、さらに紀元前6世紀から5世紀にかけてはアテナイ交易圏がそれを継承した。メソポタミア史における「アッシリア商人の交易網時代を思わせるが(アケメネス朝ペルシャが黒幕として暗躍したとされる)ペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)を契機にその経済的優位を失う。
  • また古代帝制が神殿破壊住民の強制移動によって都市国家祭政一致体制を破壊しようとしたので、これに抵抗する過程で「啓典の民」が現れた。

  • ヘレニズム時代(紀元前323年~紀元前30年)にはコスモポリタン(世界市民)思想が現れたが、それはオリエントの政治的歴史を反映して専制色の強い内容だった。世界主義イデオロギー(日常生活を包括的に説明する哲学的根拠)の発端とも。

最終的に古代帝制を完成させたのはローマ帝国(紀元前753年~1453年)であったが、その過程で共和制から帝政への移行を余儀なくされたし「東方の政敵」としてアルサケス朝パルティア(紀元前247年~紀元後224年)やササン朝ペルシャ(226年~651年)が存続し続けた。両国が紛争泥沼化によって衰退していく様は、まさに「種としてのアノマロカリスの興亡」の歴史の再来と見て取れなくもない。

  • 紀元前1世紀~3世紀にかけてシリア中央部のパルミラ(Palmyra)がシルクロードの中継都市として発展。その東西方向の谷間が地中海沿岸のシリアフェニキアと、東のメソポタミアペルシアを結ぶ交易路であり、かつシリア砂漠を横断するキャラバンにとっての重要な中継点だったからである。交易の関税により都市国家として繁栄しローマの属州となったこともある。

    2世紀ペトラがローマに吸収されると、通商権を引き継ぎ絶頂期に至った。この時期、パルミラにはローマ建築が立ち並び、アラブ人の市民は、東のペルシャ(パルティア)と西のギリシャ・ローマ式の習慣や服装を同時に受容していた。

    人皇帝時代」にパルミラ帝国が成立し、270年頃に君臨したゼノビアの時代にはエジプトの一部も支配下に置いていた。しかしローマ皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスは、当時分裂状態にあった帝国の再統一を目指してパルミラ攻撃を開始。273年に陥落して廃墟と化した。

  • 当時はインドもまた交易によって栄えている。クシャーナ朝(1世紀~375年)は中国とペルシア、ローマをむすぶ内陸の要地を抑え「文明の十字路」としての役割を果たしたし、2世紀以降南インドの諸王朝がローマ帝国など西方との季節風貿易で繁栄。この地ではローマ帝国時代の金貨が大量に出土しており、当時の交易がきわめて活発だったことを裏付けている。インドからは綿織物や胡椒が輸出された。1世紀初頭大乗仏教が興り、2世紀に龍樹(ナーガールジュナ)が「空の思想」を説き、これらがバラモン教と同時に南インドに伝わって天秤の時代(4世紀~5世紀)が準備される展開を迎える。

    グプタ朝(320年~550年)が北インドを統一し(アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国、朝鮮半島、日本へ伝播した)北伝仏教も(南インドバラモン教と民間宗教が混合した結果生まれた)ヒンドゥー教も興成を極めたがエフタル(4世紀~6世紀)への対応に追われ滅亡を余儀なくされる。

また東ローマ帝国(395年~1453年)とササン朝ペルシャ(226年~651年)の戦争の泥沼化は6世紀から7世紀にかけてアラビア半島を代替交易路として繁栄させてイスラムを勃興させる。結果としてササン朝ペルシャは滅ぼされ、イスラム諸王朝(750年~16世紀)がそれに代わって繁栄した。

 

①欧州文明の最初の国際展開は建築史上の時代区分でいうところのロマネスク(Romanesque)時代(10世紀〜12世紀)にまで遡ります。

カール大帝ザクセン戦争(772年〜804年)を契機に北欧諸族の文明化が始まったが、それはハスカール(従士)によって組織されたヴァイキング(北欧諸族による略奪遠征)の始まりでもあった。

とはいえ彼らの部族社会は文明化の過程で崩壊し、名家として残る事なく圧倒的多数を占める領民にただ飲み込まれてしまう。

それは十字軍運動(11世紀末~13世紀末)が始まった時代でもあったのです。

これに続いたゴシック時代前期(12世紀~13世紀)はフランスイングランド十字軍国家の宮廷で王侯貴族や名族が勢力争いを繰り広げる時代となりました。後世に伝わるのはフランス王妃で英国王妃というとんでもない経歴を持つ(間に「十字軍離婚」なる前代未聞のイベントを挟む)アリエノール・ダキテーヌや「欧州初のルネサンス有識者」の異名を持つフランス国王の弟シャルル・ダンジュー(Charles d'Anjou,1266年~1285年)、「お騒がせ一族リュジニャン家エルサレム王国で存在感を発揮したイブラン家などの名前。

エルサレム王国の陥落過程

1174年にシリアのザンギー朝開闢者ヌール・アッディーンアモーリーが没した。

  • ヌール・アッデーンの死去により、サラーフッディーンの勢力はエジプトだけでなくシリアにも及ぶ様になり、中東のムスリム勢力はほぼ統一されることになり、キリスト教勢力への攻勢が強まった。
  • 一方、アモーリーの死によってエルサレム王国は混乱の時代に入っていった。跡を継いだボードゥアン4世はらい病が進んでおり、身動きが不自由で余命は短く、子供も望めなかった。アモーリーには他に息子はおらず、王位継承権を持つ者としてシビーユイザベルの2人の娘の他、血縁の男子としてトリポリ伯レーモン3世(エルサレム王ボードゥアン2世の孫)がいた。
  • 従来から王国には、新来十字軍を中心とする宮廷派と現地諸侯を中心とする貴族派の勢力争いがあったが、これに後継争いが加わり、抗争はいっそう激化していった。
  • 宮廷派の中心は王母アニェスであり、後継候補として実子シビーユを立て、これに新来十字軍士のエメリー、ギー・ド・リュジニャンのリュジニャン兄弟トランスヨルダン領主ルノー・ド・シャティヨン旧エデッサ伯ジョスラン3世(アニェスの弟)が加わっている。
  • 一方、貴族派トリポリ伯レーモンを中心として、後継候補としてイザベルを立て、これに前王妃マリア・コムネナ(イザベルの実母)、ボードゥアン・ディブランなどのイブラン一族が加わっていた。

1176年からボードゥアン4世は親政を始め、ジョスラン3世トリポリ伯レーモンのバランスを取りながら国政を運営し、シビーユモンフェラート侯ギヨームを結婚させ後継者としたが、間もなくギヨームが妊娠したシビーユを残して没し(生まれた子供が後のボードゥアン5世)、後継争いは再び混沌としてきた。戦況はモントジザールの戦い(1177年)でサラーフッディーンに勝利したもののマルジュ・アユーンの戦い(1179年)ヤコブの浅瀬の戦い(1179年)以降しばらく平穏が続くが、派閥争いは一層激しくなった。

  • 貴族派は、シビーユボードゥアン・ディブランの結婚を狙ったが、アニェスら宮廷派はシビーユギー・ド・リュジニャンと結婚させてギーを摂政に任命し、さらにイザベルルノー・ド・シャティヨンの継子であるトロン領主オンフロワと結婚させて、貴族派からの切り離しを狙った。ギヨーム・ド・ティールの年代記ではアニェスの影響力によるものとしているが、現在の研究では王位継承権を持つレーモンや勢力拡大を狙うイブラン一族を警戒したボードゥアン4世の意向であると考えられている。
  • 1183年ルノー・ド・シャティヨンの挑発に怒ったサラーフッディーンが、ルノー・ド・シャティヨンの居城ケラク城で行われていたイザベルの結婚式を襲うと、ボードゥアン4世は病床にも拘わらず輿に乗って出陣したが、この時ギーの能力に不満を持ち、シビーユ夫妻の継承権を奪って5歳のボードゥアン5世を共同王にするとともに、ギーを摂政から解任し、代わりにレーモンを摂政とした。

1185年ボードゥアン4世が没するとボードゥアン5世が跡を継いだが、病弱のため即位後1年で早世し、再び後継争いが再燃した。

  • 貴族派を中心に諸侯は、シビーユ即位の条件としてギーとの離婚を要求するが、シビーユはいったんこれに同意するものの、即位すると同時にギーを国王に戴冠した。これに対しトリポリ伯レーモンボードゥアン・ディブランなどの貴族派がイザベルを擁立してクーデターを企てたが、イザベルの夫オンフロワが寝返って失敗に終わった。
  • 反対派を排除して権力を握ったギーは、対イスラム強硬派のルノー・ド・シャティヨンと組み、サラーフッディーンとの対決姿勢を強めた。1186年休戦条約を犯してルノーはメッカへの巡礼者やキャラバンを虐殺し、残りを捕虜に取った。サラーフッディーンの捕虜解放交渉はギールノーに無視され、ここに休戦は破れた。

トリポリ伯レーモンサラーフッディーンの圧力もありイスラム勢力との融和を計っていたが、ギーたちはレーモンに対してサラーフッディーンとの同盟を結んだことを責め、大司教による破門もちらつかせた。レーモンは屈してギーと妥協しヒッティーンの戦い(1187年7月4日)でサラーフッディーンと激突したが、十字軍は大敗し、ギールノーテンプル騎士団総長ら多くが捕虜となった。

  • サラーフッディーンモンフェラート侯コンラードが守るティールを除くアッコンナビュラスヤッファトロンシドンベイルートアスカロン等を次々と落し、エルサレムに迫った。
  • エルサレムにはバリアン・ディブランの他、わずかな騎士しかいなかったが、「聖地を異教徒に渡すより全滅した方がましだ」「必ず、神の助けがある」といった強硬論が主流を占め、サラーフッディーンの降伏勧告に従わず、住民に武装させ抵抗を行ったが衆寡敵せず、間もなく降伏。

1187年10月2日に開城したが、サラーフッディーンは寛大な条件を示し、身代金を払うことで市民の退去を許し、払えず奴隷になった者も多くを買い戻して解放した。

十字軍国家「キプロス王国」の興亡

中世キプロス島を支配したラテン系の王国で、十字軍国家の一種である。第3回十字軍1189年~1192年)の際に十字軍に征服され、その後はエルサレムから追われた十字軍国家エルサレム王国の末裔が統治した。

1194年ギーが没すると、エルサレム王の称号はシビーユの異母妹に当たるイサベル1世在位1192年~1205年)に継承された。一方キプロス島は、ギーの兄であるエメリー・ド・リュジニャンに継承された。

東地中海における西欧最後の拠点として、アッコン陥落後もたびたび企図された十字軍遠征やイスラム勢力攻撃の基地となった。聖地騎士団、イタリア諸都市、西欧各国と組んだキプロス王国は、14世紀にはたびたび小アジアやエジプトを襲っている(1344年のスミルナ十字軍、1365年のアレクサンドリア十字軍など)。一方キプロス王家は、後継者争いやマムルーク朝などのイスラム国家との抗争のために疲弊し、イタリア諸都市に深く依存するようになっていく。

  • 中でもヴェネツィア貴族のコルナーロ家との関係は厚く、その支援に対して度々特権を付与することが行われた。また1464年に王位に就いたジャック2世はその即位前に異母妹と王位を巡って争ったが、この時もヴェネツィアからの支援を受けてこれに勝利し、コルナーロ家の娘カタリーナを妻に迎えている。
  • しかしジャック2世は後継者の男子を得て程なく病死し、ジャック3世となったその男子も夭折するとカタリーナが女王となり、その16年後1489年に彼女はキプロスを自らの祖国であるヴェネツィアに譲り、ここにキプロス王国はその幕を閉じた。

その後キプロス島1571年オスマン帝国により陥落する。レパントの海戦で勝利するも、キプロス奪還には失敗。

レヴォン5世の跡継ぎとして、彼の従兄弟に当たるキプロス王子ギー・ド・リュジニャンが指名され、1342年コスタンディン4世として戴冠した。ルジニャン王朝の始まり、そしてキリキア・アルメニア王国の終わりの始まりである。

  • 本名からもわかるように、コスタンディン4世はフランス出身の十字軍騎士ギー・ド・リュジニャンの子孫であり、自分たちの慣れ親しんだカトリックの信仰や西ヨーロッパの常識をキリキアに持ちこもうとした。貴族たちは大歓迎だったが変化をきらう農民たちは拒絶反応をしめし、紛争が頻発する。
  • 1343年にはその隙をついてマムルーク朝が侵攻を再開し、ルジニアン朝の王達はヨーロッパの同胞に助けを求めるも応えるものはなく、無為に年月だけが経過する。
  • 1374年~1375年に主要都市すべてが陥落した際、コスタンディン4世の甥でアルメニア王となっていたレヴォン6世と王女夫婦が捕虜となり、キリキア・アルメニア王国は滅びた。その後安全を確保されて出国し1393年パリで没する。

その後、キリキア・アルメニア王の称号は彼のいとこのキプロスジャック1世が受けつぎ、代々のキプロス王がアルメニア王を称することになった。キプロス王国がヴェネツィア共和国に併合された時、この称号はサヴォイア公カルロに引きわたされ、以後サヴォイア家が保持している。

同時に進行したのがアンジュー帝国(1154年~1259年)の消滅。

ノルマン朝(1066年~1154年)断絶を契機にアンジュー家イングランド王家の手に渡った結果、英仏を跨ぐ形で巨大なアンジュー帝国(1154年~1259年)の興亡。

  • 立役者は何と言っても「ヨーロッパの祖母」アリエノール・ダキテーヌ(Aliénor d'Aquitaine, オック語: Alienòr d'Aquitània, 1122年~1204年)…

ラ・マルシュ伯ユーグ9世・ド・リュジニャンらフランス諸侯の反発を招いてしまい、その息子ラ・マルシュ伯ユーグ10世・ド・リュジニャンらの策謀にも関わらず一旦はイングランド側がガスコーニュ以外の大陸領全てを放棄する形で問題解決が図られる展開を迎える。

  • ここに登場するリュジニャン家の始祖はドラゴン人魚メリュジーヌとされる。

  • 第一次バロン戦争(1215年~1217年)で叛旗を翻しフランス王太子ルイ(後のフランス国王ルイ8世)を総大将に担ぎ上げたイングランド諸侯が信じられなくなったイングランド王ヘンリー3世は、母方の親族にあたるリュジニャン一族などのポワチエ、妻の生国のプロヴァンス、縁戚のサヴォイアの一族といったフランス人を側近として重用。これに激怒したイングランド諸侯は(教皇インノケンティウス3世の提唱に従って北フランス諸侯が南フランスを攻めた)アルビジョワ十字軍(1209年~1229年)の英雄シモン・ド・モンフォール (第5代レスター伯爵)の息子シモン・ド・モンフォール (第6代レスター伯爵)を総大将に第2次バロン戦争(1264年~1267年)を起こす。調停を依頼されたフランス国王ルイ9世は反乱者への寛大な処置を望みつつヘンリー3世の肩を持つ。最終的に反乱自体は鎮圧され、シモン・ド・モンフォール (第6代レスター伯爵)も戦死したが、これを契機に英国議会制への道が開ける。

フランス国王ルイ9世はフランス王領となったアンジュー家を弟シャルルに与え、王弟シャルルアンジュー伯を名乗る様になった(シャルル=ダンジュー)。

神聖ローマ帝国皇統ホーエンシュタフェン家によるイタリア併合の野望。

イタリアに隣接するシュヴァーベン大公神聖ローマ帝国皇統ホーエンシュタフェン家は代々イタリア併合を望んできた。

  • 初代皇帝フリードリヒ1世は敵対するミラノの破壊自体には成功するも(ランゴバルト貴族が影響力を喪失した後、教皇に忠誠を誓う様になった)北イタリア諸都市のロンバルディア同盟レニャーノの戦い(1176年)で大敗を喫っし、第三回十字軍(1189年~1192年)従軍中、鎧を着たまま河に落ちて溺死。
  • 第2代皇帝ハインリヒ6世は(ノルマン系王朝たる)オートヴィル朝シチリア王国(1130年~1194年)は滅ぼして併合する事に成功するも1197年急死。
  • さらに1208年にはローマ教皇インノケンティウス3世ヴィッテルスバッハ家のバイエルン宮中伯オットー8世と謀って(ヴェルフ家の対立王オットー4世を下し神聖ローマ皇帝として戴冠する直前だった)第4代ローマ王フィリップを暗殺。代わりに帝位を承認したオットー4世南イタリアに攻め込む気配を見せたので1210年に破門してフィリップの甥のフリードリヒ2世(Friedrich II.,ローマ皇帝在位1220年~1250年,シチリア王在位1197年~1250年,イタリア王在位1212年~1250年,ローマ王/ドイツ王在位1212年~1220年,エルサレム王在位1225年~1228年)を代わりに帝位に就けた。

    フリードリヒが生まれた当時のシチリア島は、ノルマン人王朝(オートヴィル朝)建国前から根付いていたイスラム文化とビザンティン文化、ラテン文化が融合しており、独特の文化を生み出していた。インノケンティウス3世はフリードリヒの元に高位聖職者からなる家庭教師を兼ねた執権団を派遣するが、執権団が到着した時、4歳のフリードリヒはすでにラテン語を習得しており、歴史と哲学の書籍を読み始めていた。幼少のフリードリヒは自分を利用しようとする周りの党派に翻弄され、1202年から1206年の間にはマルクヴァルトの人質にもされた。人質生活の中では必需品にも欠き、同情したパレルモの市民たちはフリードリヒに食糧を分け与えた。フリードリヒはパレルモの文化の影響を受けて成長し、ラテン語ギリシア語・アラビア語などの6つの言語を習得し、科学に強い関心を示すようになった。また、フリードリヒは肉体面においても馬術、槍術、狩猟で優れた才能を示した。

    一方、帝国北部(ドイツ)ではシュヴァーベン公フィリップを支持する派閥とヴェルフ家のオットーをローマ王に推す派閥に分裂しており、それぞれの派閥に属する諸侯が互いに争っていた。1208年フィリップが暗殺されると、インノケンティウス3世の働きかけを受けた諸侯は11月にオットーをローマ王に選出。

    1209年に成年を迎えたフリードリヒは10歳年上のアラゴン王国の王女コスタンツァと婚約し、シチリア王位を望む意思を表明した。コスタンツァは女官、吟遊詩人、騎士団とともにパレルモに入城し、フリードリヒは彼女からプロヴァンス詩と洗練された宮廷生活を教わった。この年フリードリヒが成年に達したため、インノケンティウス3世は後見人の地位から降りなければならなかったが、フリードリヒがローマ王位を継ぐことを恐れたインノケンティウス3世はオットーの戴冠式を強行し、オットーが帝位に就いた。

    ところが強引なオットーの即位にホーエンシュタウフェン家が反発したためにホーエンシュタウフェン家ヴェルフ家の対立が再発し、帝国に内乱が起きる。 オットーはイタリアに矛先を向けて教皇領とシチリアに侵攻し、インノケンティウス3世は報復として彼を破門、帝国の反乱を扇動した。

    この処分を受けて1211年に諸侯はニュルンベルクオットーの廃位とフリードリヒのローマ王選出を決定し、フリードリヒには帝国北部(ドイツ)へ向かうよう要請した。フリードリヒはその前にインノケンティウス3世が出した教皇の宗主権の再確認、生まれたばかりの子ハインリヒへのシチリア王譲位という条件を呑み、1212年にアルプスを越えた。後年フリードリヒはこの激動が続いた時期を、「神によって奇跡的にもたらされたもの」だと述懐している。

    12月5日にフランクフルトでフランス王フィリップ2世教皇の使者が見届ける中でフリードリヒはローマ王に選出され12月9日マインツで戴冠した。フリードリヒはフランスからの援助を受け、諸侯に対しては特許状を発行して支持を集めて吝嗇な性格のオットーに対抗した。ブーヴィーヌの戦い(1214年)での敗北でオットーの没落は決定的になり、フリードリヒは名実共にローマ王として認められた。

    1215年フリードリヒアーヘン大聖堂でローマ王に正式に戴冠され、十字軍の遠征に赴くことを誓約した。フリードリヒの宣言に満足したインノケンティウス3世はハインリヒが帝国に移ることを認め、翌1216年に没した。帝国滞在中、フリードリヒはエルザス、ライン河畔、ヴォルムス、シュパイアーに滞在し、諸侯に積極的に干渉しようとはしなかった。フリードリヒは帝国の統治において、ハインリヒ6世没後に諸侯が獲得した特権を1213年1220年の2度にわたって承認し、聖俗両方から支持を獲得した。

    シチリア再建

    フリードリヒは荒れ果てたシチリアでは帝国とは逆に強権的な政策を布き、グリエルモ2世の死後にシチリアの都市と貴族に与えられていた特権を撤廃。貴族の拠る城砦を破壊して新たに皇帝直轄の城を建設し、自治都市には皇帝直属の行政官を派遣した。フリードリヒに反抗して自治を貫こうとしたメッシーナは弾圧を受け、教会にも帝国の介入が及んだ。

    フリードリヒの軍はさらにシチリア南部で山賊行為をしていたイスラム教徒を討伐し、10,000人イスラム教徒を捕らえ新たに建設した都市ルチェーラに移住させ、彼らに自治を許した。フリードリヒに感謝したルチェーラの住民は軍事的協力を約束し、彼らは後にフリードリヒの指揮下で教皇派と戦うことになる。 1224年には官僚の養成機関として、法学と修辞学を教授するナポリ大学を創立。

    第六回十字軍(1228年~1229年、別名「破門十字軍」)

    1222年エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの一行がシチリア王国ブリンディジに上陸する。フリードリヒはブリエンヌの元に使節団を派遣し、彼とともにローマに向かった。ローマでは東方のイスラム教徒への対策が議論され、議論の中でフリードリヒブリエンヌの娘ヨランド(イザベル)の結婚、結婚後2年以内にフリードリヒが十字軍に参加する取り決めが交わされる。1225年11月9日フリードリヒは成人したヨランドと再婚し(最初の妻コンスタンツェは1222年に死没していた)、同時にブリエンヌエルサレム王位とヨランドが有する権利を譲渡させた。

    1227年ホノリウス3世が没した時にもフリードリヒの遠征はいまだ実行に移されておらず、教皇グレゴリウス9世は破門をちらつかせ1228年にフリードリヒは40,000の軍を率いてエルサレムに向かう。道中で軍内に疫病が流行り、フリードリヒ自身も病に罹ったために聖地の土を踏まずに帰国した。この時にフリードリヒはサレルノ大学の衛生学に触れ、中世ヨーロッパでは稀な毎日入浴する衛生観を身に付けた。しかしグレゴリウス9世は教会権力への脅威となっていたシチリアの力を抑えるため、仮病と判断してフリードリヒを破門する。フリードリヒは破門が解除されないまま第6回十字軍を起こして再びエルサレムに向かい、道中でキプロス王国の政争に介入した。

    教皇庁は破門されたフリードリヒが率いる十字軍に批判的であり、現地の将兵はフリードリヒへの協力を拒否した。一方、エルサレムを統治するアイユーブ朝のスルターン・アル=カーミルは、アラビア語を介してイスラム文化に深い関心を抱く、これまでに聖地を侵略したフランク人たちとは大きく異なるフリードリヒに興味を抱いた。

    フリードリヒアル=カーミルは書簡のやり取りによって互いの学識を交換し合い、エルサレム返還の交渉も進められた。フリードリヒは血を流すこともなく、1229年2月11日アル=カーミルとの間にヤッファ条約を締結し、10年間の期限付きでキリスト教徒にエルサレムが返還された。両方の勢力は宗教的寛容を約束し、また以下の条件が課せられた。①キリスト教徒への聖墳墓教会の返還。②イスラム教徒による岩のドームとアル=アクサー・モスクの保有。③軍事施設の建設の禁止。

    しかし、現地の騎士修道会の中でエルサレムの返還を喜んだのはチュートン騎士団だけで聖ヨハネ騎士団テンプル騎士団は不快感を示した。エルサレムに入城したフリードリヒエルサレム王としての戴冠を望むが、彼に同行した司祭たちは破門されたフリードリヒへの戴冠を拒み、1229年3月18日聖墳墓教会でフリードリヒは自らの手で戴冠した。現地の冷淡な反応を嘆いたフリードリヒは後をチュートン騎士団に任せてシチリアに帰国。

    帰国に際してアッコに移動したフリードリヒは、数日にわたって敵対するテンプル騎士団の本部を包囲。5月1日に包囲を解いて密かに帰国したがアッコの住民の一部がフリードリヒの一行に罵声を浴びせている。

その後ローマ教皇インノケンティウス4世シャルル・ダンジューを招聘。やっとホーエンシュタフェン家の断絶に成功し神聖ローマ帝国大空位時代(1254年~1273年)開始。

第4回十字軍(1202年~1204年)ビザンティン帝国の凋落

ローマ教皇インノケンティウス3世はまたフランドル伯やシャンパーニュら北フランス諸侯をヴェネツィアの船団が運んだ第4回十字軍(1202年~1204年)を提唱した。

  • この十字軍は船賃が全然足らず、エジプトに辿り着くどころか行き掛けの駄賃で(ヴェネツィアと怨恨関係にあった)キリスト教国ザラ市(現在はクロアチアの都市ザダル)を攻略し、さらに(内紛に巻き込まれて)ビザンチン帝国を滅ぼしてラテン帝国(1204年~1261年)を建国。
  • フランドル伯が新皇帝に即位したが、翌1205年に侵攻してきたブルガリア軍に大敗し捕虜となって消息を絶った。一方、これを契機にヴェネツィアビザンチン帝国と近しい関係にあったライバルのジェノヴァに対し、地中海貿易でしばらくの間優位に立つ事になる(当然、ビザンチン帝国が復活したら仕返しされる訳である)。

結局、ビザンチン帝国パレオロゴス王朝初代皇帝ミカエル8世パレオロゴス(Μιχαήλ Η' Παλαιολόγος, ローマ字転写:Michaēl VIII Palaiologos, 在位1261年~1282年)の手によって再建されたが、以前の繁栄は望むべくもなくオスマン帝国の手によって首都コンスタンチノープルが陥落する1453年5月29日まで無力な小国に止まり続ける羽目に陥る。

第5回十字軍(1217年~1221年)

ローマ教皇主導で行われた最後の十字軍。 1204年コンスタンティノープルを攻略した第4回十字軍が、現地での争いに忙殺され、エルサレム攻略に向かわないのに失望したローマ教皇インノケンティウス3世が、1213年教皇教書で新たな十字軍の招集を呼びかけ、1215年第4ラテラン公会議で正式に発布した。

  • この時点では、神聖ローマ帝国においては前年のブービーヌの戦いに敗れたヴェルフ家のオットー4世が失脚し、教皇が支持するホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世が名実共にローマ王となり、フランス南部におけるアルビジョア十字軍もトゥールーズ伯レーモン親子の亡命により一旦収束しており、西欧は一致して十字軍を派遣できる状況と思われた。
  • しかし1216年にはレーモン親子の帰還によりアルビジョワ十字軍の戦いが再燃し、従来から十字軍の中心だったフランスの騎士達には参加する余力がなかったのである。
  • 一方、十字軍参加を誓ったものの、元々宗教的に寛容なシチリアに育ったフリードリヒ2世イスラム教徒との戦いには熱心でなく、イタリア政策において対立するローマ教皇との条件闘争が先決だった。
  • ローマ教皇はこれまでの失敗の反省から、第2回十字軍第3回十字軍のような国王中心の十字軍や、第4回十字軍のような諸侯の自由な主導によるものでもなく、第1回十字軍のような教皇使節が主導する十字軍を意図していたが、結局、新たに教皇となったホノリウス3世の呼びかけに対して(ブービーヌの戦いでその強さを見せつけた)フランスの騎士はさほど集まらず、ハンガリーアンドラーシュ2世やイタリア、ドイツ、フランドルの騎士等が主力となったのである。

アイユーブ朝の本拠地エジプトの攻略を目指しダミエッタ(ディムヤート)の占領に成功したが、カイロ攻略に失敗し占領地を返却して撤退。

アルビジョワ十字軍(1209年~1229年)

1209年フランス王国フィリップ2世の時に始まった、南フランスのキリスト教異端派のひとつアルビジョワ派(カタリ派)を殲滅するための十字軍。

ローマ教皇インノケンティウス3世の要請に応じる形北フランスの諸侯の多くが参加し、指揮官がシモン=ド=モンフォール(イギリスで国王に反旗を翻し議会の開設に貢献した同名の人物の父親)のもとで激しい攻撃が行われた。

  • アルビジョワ派は20年にわたって抵抗を続けた。シモン=ド=モンフォールから指揮を継承したルイ8世は現地で病没している。

  • ルイ9世の時の1299年アルビジョワ十字軍の勝利に終わった。

  • これによってフランス国内の異端が殲滅されると同時に王権がトゥールーズオーヴェルニュ(当時まだ神聖ローマ帝国領だった)プロヴァンスといったフランス南東部から神聖ローマ帝国領にまで及ぶ様になってフランスの統一が進んだ。その反面、トゥルバドゥール(吟遊詩人)などの南フランスの独自の文化も失われた。

ルイ9世の弟シャルル1246年プロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世の末娘ベアトリスと結婚し、プロヴァンス伯領を継承。さらに1247年にフランス王家からアンジュー、メーヌ伯領を親王采地として受け取った。とはいえプロヴァンス伯の妻のベアトリスや他の娘達が末娘のプロヴァンス継承に不満を唱え上、プロヴァンスは法的には神聖ローマ帝国(アルル・ブルグント王国)領であり、支配下の諸侯やマルセイユ、アルル、アヴィニョン等の都市は大幅な自治を享受していたためシャルルのフランス風の集権的な支配に対して不満を持ち、反乱を起こす様になる。シャルルが完全にプロヴァンスの反乱を鎮圧するには1262年までかかった。

シャルル=ダンジューの野望

シャルル=ダンジューの夢はシャルルマーニュの後継者を自負するフランス王国ロベルト・イル・グイスカルド以来東ローマ帝国を狙い続けてきたシチリア王国聖地回復を望むローマ教皇の願望の統合であり、甥のフィリップ3世神聖ローマ皇帝につけ、コンスタンティノープルを征服して地中海帝国を築き、エルサレムを奪回する計画を練っていた。

  • ルイ9世が起こした第7回十字軍(1248年~1254年)に参戦してエジプトに一緒に攻め込むも共に捕虜となる(後に解放)。
  • 第8回十字軍(1270年)にも参加し、夢を実現に近付けるべくチュニジア攻めを仕向けるも兄ルイ9世が遠征先で病没するという残念な結果に終わる。かえって敵たるマルムーク朝の侮りを招き、アッコン陥落(1290年)に至る。

ビサンティン帝国にも魔の手を伸ばす。

  • まずは1267年に男子後継者の見込みがないアカイア公ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンヴィテルボ協定を結び、ギヨームを従臣とした上で自分の次男フィリップとギヨームの娘イザベルを結婚させて両者を後継者とし、彼らに男子が産まれない場合にはシャルル自らがアカイア公となる事を決定。
  • 次いでミカエル8世パレオロゴスに国を追われたラテン帝国皇帝ボードゥアン2世ド・クルトネを保護し、彼の息子フィリップと自分の娘ベアトリス(1275年没)を結婚させて保護者に収まり1273年ラテン皇帝の地位を相続。
  • 1277年にはエルサレム王国の継承権も手に入れエルサレムを称する様に。
  • 1277年に次男フィリップ1278年アカイア公ギヨームが共に男子後継者なく死去し、以降はアカイア公も兼ねる事に。
  • さらに幾つかの領土をアドリア海岸に獲得して東ローマ帝国侵攻の準備を整えたがミカエル8世が東西教会統一政策を打ち出したので一時中断。

1282年に再度侵攻計略に取り組み始めたが、これに脅威を感じたミカエル8世は、アラゴンジェノヴァと結び、遠征のために重税を課せられていたシチリア住民の反フランス感情を煽り始める。

  • 同1282年春に発生したシチリアの晩祷事件自体は偶発的だったが、ある意味工作の結果が実ったとも言える。当初シャルルはこの反乱を軽く見ていたため対応が遅れ、シチリア全土を失った。
  • シチリア住民はローマ教皇に保護を願い出たがシャルルを支持する教皇はかえって住民を破門。このためシチリア住民はホーエンシュタフェン朝王統の娘婿アラゴン王ペドロ3世に援助を求め、これを受けたペドロ3世シチリアに上陸しシチリア王即位を宣言する。実は彼自身もプッリャ公ロベルト・イル・グイスカルドの娘マファルダの血を引くオートヴィル朝(ノルマン朝)の潜在的王位請求者。

以降、ナポリを拠点とするシャルルペドロ3世の間の戦争が続く(シチリア晩祷戦争)。

  • ペドロ3世ピレネー山中から連れてきた傭兵隊アルモガバルス (アラゴン語:Almogabars, カタルーニャ語:Almogàvers, スペイン語:Almogávares, アラビア語:al-Mugavari)はイベリア半島レコンキスタで鍛え上げられた蛮兵で乗馬突撃してくる重装騎兵をアズコナと呼ばれる重い投槍の投擲で落馬させ、コルテルと呼ばれる肉切り包丁とナイフを合わせた様な鋭利な短剣で(刃の通る関節部を狙って)四肢を切り落とす戦い方で恐れられたという。
  • シャルルは、ローマ教皇マルティヌス4世ペドロ3世を破門させ、甥のフランス王フィリップ3世アラゴン王位を与えるよう工作。シャルルの意を受けたフィリップ3世がアラゴンを攻めたが、成果は上がらず、逆に敗北した。
  • 1284年ナポリアラゴンの海戦もシャルル側に利は無く、長男シャルル2世が捕虜となり1285年に失意のうちに病死。

同1285年フィリップ3世ペドロ3世マルティヌス4世も相次いで死没した。

シャルル死後は1288年に捕虜から解放されたシャルル2世が後継者となりシチリアを称し続けたが通常はナポリと称される。後にシャルルの曾孫カルロ・ロベルトハンガリー王となった。この王朝はハンガリーアンジュー朝と呼ばれる。

1285年アラゴン十字軍の遠征の帰りに病没した父フィリップ3世の後を継いでフランス新国王フィリップ4世(Philippe IV、在位1285年~1314年)が即位して以降は時代精神そのものが入れ替わった感がある。封建関係の頂点に立ちながら国家の防衛や国益を最優先に考える立場から従来の慣習を超えて官僚制度の強化と中央集権化に努め、やがて絶対王政へとつながる中央集権化の第一歩を踏み出したのである。ちなみに建築史上の時代区分でいうと14世紀は「ゴシック中断期」に該当する。

  • アラゴンとの争いはナポリ王カルロ2世に対する義理立てに過ぎなかったので1291年に条約を締結し和睦が成立。
  • ローマ教皇とも対立しフランス国内の支持を得てアナーニ事件(1303年)を起こし、最終的には教皇権を王権に従えて教皇庁アヴィニョンに移す(アヴィニョン捕囚、または「教皇のバビロン捕囚」)。教会の徴税権に対する権益拡大を目しての事だった。また腹心のギヨーム・ド・ノガレの献策にしたがって1296年には教皇庁への献金を禁止して通貨改鋳をおこない、さらに1306年にはフランス国内のユダヤ人をいっせいに逮捕して資産を没収した後に追放する暴挙にも出た。ただしユダヤ人に対するこの仕打ちはドーバー海峡の向こう側のイングランドエドワード1世(Edward I在位1272年~1307年)も十字軍遠征費用捻出に際して用いた事がある。
  • また裕福でフランス王家にとっての最大の債権者でもあったテンプル騎士団1307年異端として弾圧して解散に追い込み、その財産を没収。
  • またパリ高等法院を創設して売官できるようにしたり、三部会を設置して市中からも資金を吸い上げたりした。これにより(当時の経済的発展が生んだ)新興富裕層に法服貴族に昇進する道が開かれる。

後世「教皇を憤死させた王」として一部より悪評を得たが、こうした行動の背景にあったのはフランスの慢性的な財政難だったのである。さらには毛織物業で栄え経済的に豊かであったフランドル地方の支配に向けられており、フランドル諸都市の市民と激しく争った。

1297年にはフランドルの併合を宣言。1300年イングランドと結んで対抗するフランドル伯ギー・ド・ダンピエールを捕らえジャック・ド・シャティヨン(Jacques I er de Chatillon)をフランドル総督に任命した。しかしその支配が過酷だった為に1302年5月18日ブルッヘにおいて市民の反乱が起こり、フランス人が虐殺される。

  • 再び侵攻して来たフランス軍に対しフランドルの諸都市は同盟を結んでこれに抵抗し、コルトレイクにおける金拍車の戦い(1302年7月11日)にで歩兵中心のフランドル都市連合軍が騎士中心のフランス軍を破る。
  • その後もフランスとの戦争は続き、リール近辺のモン=アン=ペヴェルの戦い(1305年)ではフランス軍が若干優勢という結果に終わっている。和睦と戦闘の繰り返しはフィリップ4世が死没する1314年まで続いた。

百年戦争期間中もフランドルは概ねイングランド側に就いており、その後ブルゴーニュ公国領、ハプスブルク家領、スペイン・ハプスブルク家領となりながらフランス革命ナポレオン戦争期までフランス領になることはなかった。

軍事技術面では、短槍歩兵の密集縦隊が、側面防御を条件に、いかなる騎兵の猛攻にも不敗であることを実証した戦いとなった。特に、それまで圧倒的優勢にあった封建制騎士軍の凋落を象徴する最初期の戦いとなった。

封建制軍隊は、直接の家臣でなければ主従関係が成立しないことから、命令系統の一貫性に欠けていた。従軍は臣下の封建的義務であるものの、12世紀以来、主君に従軍するのは年に1回40日程度が慣行だった。そのため、封建軍は大規模な戦闘が不可能であった。また、14世紀当時の騎士は重装備であり、騎士自身だけでなく、馬の動きも鈍重で長距離の駆走も困難だった。

金拍車の戦いは単に市民軍がフランス軍に勝ったという観点だけで捕えるべきではありません。多くの歴史的変換点、以後の歴史に多大な影響を与えた戦いなのです。

1.戦法・戦術の変換

当時の最強と言われた戦法は重装騎兵による集団突撃です。大河ドラマの戦場シーンで使われる馬はせいぜい30騎から50騎程度だと言われます。それ以上の数がいてもカメラのフレームで捉えきれないのだそうです。

つまり、30騎や50騎の馬であの迫力ある攻撃シーンが撮れるのですから、実際の戦闘で数百騎の騎馬が押し寄せてきたら戦場に留まる勇気は持てないのかも。実際、重装騎兵の突撃で戦列が大幅に崩れるのは当然のこととされていました。

対して市民軍が採ったのは密集方陣。守る側の恐怖心を取り除くために兵士互いが身を寄せ合い、長槍を付き出し、まるでハリネズミのような陣形が出来るのです。戦史に残る初めての対重装騎兵用戦法です。

歴史上の最大の皮肉。「トゥール・ポワティエ間の戦い(フランス語: Bataille de Poitiers,732年)って何だっけ?

1週間目の正午から全面衝突が始まった。正午、イスラム軍の騎兵隊が突撃を開始した。カールマルテルは日頃から厳格に兵の訓練をおこなっていた。このよく訓練されていた重装歩兵を中心とするフランク軍は、密集隊形を組み、前面に盾の壁をつくって防戦した。これまで数々打ち勝ってきたイスラム重装騎兵による突撃戦術は、フランク軍の盾の壁に跳ね返され、アラブ兵はフランク軍の前に屍を重ねた。モサラベ年代記によると“北の人々は海のように動かすことができず、まるで氷の砦を作るように互いに堅固に立ち、強い打撃でアラブ人の首をたたき落とす”。この日、戦いは勝敗がつかず、日没で止んだ。フランク軍は当然、翌朝から再び激しい戦いが始まると予想していたが、朝靄が明けてみると、イスラム軍は多数の遺体を残したまま姿を消していた。アル・ガーフィキーの遺骸もあった。将軍を失ったイスラム軍は、夜中に南に総退却していたのである。

この勝利で、カール・マルテルの声望は一気に上がった。その後も735-739年にかけてウマイヤ軍は侵攻したがマルテルにより撃退された。また、マルテルは、騎兵に農民付きの土地を与えて忠実な直属騎兵隊を創設しようとした。全土の3分の1を占めていた教会領の没収を強行して、騎士に貸与(恩貸)したのである。このようにして、土地を貸与する(これを封土といった)ことによって臣下に服従(奉仕)させるという主従関係が、フランク王国の新しい支配の制度となっていった。これが封建制度である。

2.軍団構成員の変換

フランスに於ける戦闘員の主力は、配下の領主や小領主達により構成される騎士団です。王や領主達は直属の常設戦闘軍を持っていませんので戦いのたびに呼び集められた騎士や雇われ騎士や傭兵によって軍団が形成されます。イングランドのように農民兵は基本的に存在しなかったようです。しかしながら、云わばプロの軍団が素人の市民軍に敗北したのですから、フィリップ4世の驚きと落胆は大きなものだったでしょう。以後フィリップ4世は近衛兵を初めとする常設軍の創設を果たすことに繋がります。

日本に於いても、かの豊臣秀吉軍が強かったのは秀吉が足軽上がりであり生え抜きの家来がいなかったため、職業武士集団を作った点にあるとされます。農民兵を駆り出すため、種蒔きや稲刈りと言った繁忙時に出兵できなかった他の大名たちとの最大の相違点だと言われています。

フランドルの市民軍は、商人達から財政的な援助を受ける事が出来、最新の武器を入手することが可能であり、ブルッヘの反乱で多数のフランス人を殺していることから、敗戦は死をも意味しますので、戦意が高く、訓練を積み、指揮系統が確立されていたようです。 

3.騎士道精神

当時の戦闘では騎士は殺さずに捕虜とし身代金を取る慣行がありました。要は騎士はギブ・アップをすれば命は助かったのです。敵の騎士を捕まえて金にするというのが功名となったわけです。

領主や王から戦争の支度金や遠征費は期待できず、戦に勝っても王や領主から新たに領地を与えられたり、特別の報奨金も期待出来ないのです。

金拍車の戦いにおいては、市民軍に騎士は僅か400騎しかいません。対してフランス軍は騎士2,500騎、功を焦る騎士たちは司令官にせっつき早めの突撃を要請したのです。

ところが、足場は悪く機動力が発揮できず、ようやく敵陣にたどり着いたらハリネズミの陣形に突撃を阻まれ、集団に取り囲まれて個別殲滅。ギブ・アップも通じず叩き殺されてしまいます。この状態に騎士群は集団パニックに陥ったと思われます。

さらに事態を悪化させたのは撤退が出来ないこと。騎士道は敵に後ろを見せて逃げるというのは卑怯な行為とされていました。フランス軍の司令官も市民軍に対して後ろを見せることは出来ず、最終的な撤退時期を失い甚大な被害をもたらしたのです。

4.市民軍

フランスに於いては、農民の反乱を除いて市民が軍に対抗するなどということはありませんでした。市民決起軍にとってはフランス占領時に反乱を起こしフランス人を虐殺していますので、負けた時の反動が恐ろしい。また、自由都市防衛のために十分な武器を用意できていたのです。当時の最新鋭の武器はボウガンです。弓部分は鋼鉄製ですから弦を引くのに150㎏相当の力(弓力)を要したとされ、歯車が付いた弦を張るための巻き上げ機が付いていました。当然、威力はあるものの連射が利きません。

フランス軍は1,000張のボウガンがありましたが、騎士道精神によれば基本的に飛び道具は卑怯とされ、接近戦での一斉射撃などは行うはずがありません。対して、市民軍はそんな騎士道精神などは一切関係ありませんので、近づいてきた騎士に対してはボウガンをどんどん使ったでしょうし、殺すのは当たり前。戦なのですから。

騎士道にはアラゴン王カルロ3世ピレネー山中のゲリラ戦から連れ出したアルモガバルスだって敬意を払わなかった。むしろ彼らにとって重要だったのは、手足を切り落とされた味方の負傷兵は生かしておいても運ぶ手間がかかるし、始末しても心理的負担が掛かるし、いずれにせよ多くが壊疽で死んで戦場に戻ってこない事だった。

まとめ 

このようにいくつかの歴史的特徴を有する金拍車の戦いですが、単に歩兵が重装騎馬に勝ったとする結果論だけ取り上げられることが多いようです。

フランス軍が敗退した戦場には金メッキされた多くの拍車(靴に取り付けられた金具で馬を蹴り、走らせる道具で11世紀に発明され、従前必要であった鞭を持たなくても済むようになり、両手で扱う大きな槍を持つような戦法に変わった。西部劇でカーボーイの靴に付いている金具。中世ヨーロッパでは剣と共に騎士の象徴であり、騎士となる若者には騎士叙任式の際に授けられていた)、一説には500個とも言われる数の拍車が散乱していたので市民は戦勝記念として持ち帰り、コルトレイク聖母教会にいまでも飾理続けています。まさしく歴史の節目…

ちなみに、それまで純粋な要毛の供給地に過ぎなかったイングランドにおいて14世紀から現地での毛織物加工が始まるが、これはマンチェスターなどに移住したフランドル市民が主導した動きだったと考えられている。フランス軍の執拗な攻撃は、こうした技術移転を伴う移民を加速させる効果もあったであろう。

13世紀末からの急激な状況変化については、以下の様な説明もある。

1300年代中期のペスト流行期には人口の40〜60%が犠牲になった地域もある。当事者にとっては大惨事のように思えただろう。しかしペスト流行に至るまでのヨーロッパの状況を見ると、既に進行していた多くの問題がパンデミックをきっかけに加速したことがわかるだろう。

1200年代の終わりから続く長期的な景気後退の末に、黒死病の流行が訪れたのだ。それ以前のヨーロッパは「商業革命」による経済の全盛期で、遠距離の貿易が瞬く間に広がり、より多くの貨幣が流通し、経済は成長し続けた。しかしこの経済成長は、人口の増加に支えられたものだった。ヨーロッパ全体を見ると、この時期に人口が倍増したり3倍にまで膨れ上がった地域もあった。

そうして13世紀(1200年代)の終わり頃には、農耕に使用できる土地はほとんど残っていなかった。じめじめして起伏があり農業に適さないような土地ですら耕作に使われる状態だった。ただ賃金が極端に低い人々を農業に使えた。多くの人々は自分の土地を持たず、ギリギリの生活を送っていた。土地を使わせてもらう代わりに領主に対して無償でサービスを提供しなければならないという交換条件が当時盛んだった農奴制度を支えていたのだ。

気候的な要因もある。経済の全盛が長く続いた背景には、穏やかで暖かい天候があったのだ。種まきと収穫の時期さえわかればよい農夫にとって、天気良いかどうかというよりも、先の天気がどうなるか予測することの方が重要だ。しかし1200年代の終わりから1300年代初頭にかけて、天候が非常に悪くなった。天気が予測しにくくなり、雨が多く気温も下がった。さらに1315年〜1322年には西ヨーロッパを「大飢饉」が襲い、数え切れないほど多くの人々が亡くなった。その時点で、何らかのシステム的な誤りの兆候が現れていたと言える。そしてこの状況が黒死病の大流行まで続いたのだ。

いずれにせよ根本的原因たる「イングランド王がフランス国王の家臣でもある」捻れ構造自体は英仏の国境が確定する百年戦争(1337年/1339年~1453年)まで完全解消する事はなかったのでした。

そんな感じで以下続報…