今回の投稿の発端は以下。
よく「○○についての文献・史料が見つかりません」という質問を学生から受けます。僕は「まずもって僕らが思いつくことはすでに誰かが研究しています。だから基本『ある』前提で考えてください。では何故、見つからないのか。それは打ち込んだ検索ワードのピントがズレているからです」と応えます。
— オッカム (@oxomckoe) 2022年1月2日
僕はアメリカ建国史が専門なので、例えば日本の近現代史とか東洋史に関わる知識は平均的です。ただ年齢の分だけ学生よりは上手に史料は探せますが、(ああ、これは分からんな)と思ったら専門としている先生にお尋ねするように指示します。すると、見事にGoogleさんは機能します。
— オッカム (@oxomckoe) 2022年1月2日
つまり知識とか構造の理解がないと検索はできないのです。僕が一流の研究者の方々とお仕事をご一緒した時に驚嘆するのは、そのえげつないまでの検索能力です。Googleから引っ張り出す力は、知識に比例します。だから普段の学習や読書がとても大切なのです。本読まないとググることもできないのです。
— オッカム (@oxomckoe) 2022年1月2日
僕が学部の頃の出身校の法学部は卒業論文はありませんでした。ただゼミ論文というのがその代替の役割果たしてたかと思います。テーマが閃いて図書館に入った時のあの夥しい蔵書たちのよそよそしかったこと。酷く場違いなところにいるような気がしました。とりつく島がまるでありませんでした。
— オッカム (@oxomckoe) 2022年1月2日
それで古典的研究の中で一番新しいものを1頁目から最終頁まで精読しました。注記も息をつめて読み抜きました。それでもう一度、図書館の書庫に入りました。すると、不思議なことに本の方から僕に話しかけてきてくれるようになりました。
— オッカム (@oxomckoe) 2022年1月2日
本当は僕の研究に必要な本はまだまだたくさんあったはずです。しかし彼らは話しかけてきてくれませんでした。何故かというと、僕の知識や理解が彼らの眼鏡にかなわなかったからです。その後、研究を続けたり語学を努力したりすると、話しかけてくれる本の数が増えていきました。
— オッカム (@oxomckoe) 2022年1月2日
以前書いたことですが、僕の父親はたいへんな読書家でした。でもある時期から(今の僕くらいの年齢の頃)、その読書は「自分の知っていることの確認」になって行きました。心地よいものだったと思いますが、こうなると読書は知的発展の営みにはなりません。読んだ分だけ視野が狭くなることもあります。
— オッカム (@oxomckoe) 2022年1月2日
いわゆる「思想」というものの怖い側面です。実はこれは年齢とは関係がなく、若くても晩年の父と同じようになります。ちなみに研究論文では、先行研究を明らかにした上で、自分の論文がどこに位置するのかを明らかにします。この訓練は読書の罠に陥らないための灯火になるかと考えられます。
— オッカム (@oxomckoe) 2022年1月2日
僕の経験からのアドバイスになりますが、まずは「権威」ある書物(研究でも作品でも)の奴隷になることです。服従は初学者にとってとても効率の良い学習法です。その上で、ちょいちょい謀反を起こしましょう。行き詰まったら「権威」に戻り、また気が向いたら謀反を起こす。これを一生繰り返すのです。
— オッカム (@oxomckoe) 2022年1月2日
仰る通りですね。奴隷になってとことん読み込み、その著者が参考にした文献はどのような視点からなのか、と考えていくことは大切だと思います。
— Melon (@Melonkkk) 2022年1月3日
そして…
オッカム先生のお話、「体系だった知識がないとGoogleから情報を引っ張り出せない」という前段もたいへん滋味あふれるが、輪をかけて「知ってることを確認するだけの情報収集は知を伸長しないどころか、視野を狭めることすらある」という後段が本当に重いなと思った。
— 橙⚡️ (@_0ranssi_) 2022年1月3日
「知っていることの確認」に陥るコースはふたつあり、ひとつは思想的に親和性の高いものばかり読みあさってしまうこと、ふたつめは「何を読んでも特定の思想に引き寄せて読んでしまうこと」だと思っていて、後者の方がはるかに予後が悪い。
— 橙⚡️ (@_0ranssi_) 2022年1月3日
そんな感じで以下続報…