人間関係は、3種類に分類されると提唱した。
出版当時の状況
- 当時の左翼陣営には国家論として「集団生活を成立させる機能として国家を作ったという社会契約説」「国家とはブルジョワジーが自分の既得権益を守るために作った暴力装置であるというレーニン的な国家論」くらいしかなかった。つまり「国家とはルール体系であり、機能性を重視したシステムである」という考えに囚われていたのである。
- しかし、吉本はマルクスの上部構造概念を参照し「国家とは共同の幻想である」と説く。詩や文学同様に雨国家と言うフィクションもまた人間が空想し、創造した産物に過ぎないという事であり、これはアルチュセールのイデオロギー装置に似た考え方である。そして人間は元来フィクションに過ぎない筈の共同幻想に対して、時に敬意を、時に親和を、そして時には恐怖すら覚える。飲み込まれ過ぎると自分が幽霊の如き存在に堕してしまうからである。
- これは特に原始的な宗教国家で顕著に見られる現象であり、その共同体においては触れたら死ぬと言い伝えられている呪術的な物体に触れたら、自分で本当に死ぬと思い込み、心的に自殺すると言う現象も起こりうる。個人主義の発達した現代でにおいてすら、自己幻想が愛国心やナショナリズムと言う形で共同幻想に侵食されている。
- そして共同幻想の解体、自己幻想の共同幻想からの自立は、現在でもラジカルな本質的課題であるとまとめた。当時の教条主義的マルクス・レーニン主義に辟易し、そこからの脱却を求めていた全共闘世代に熱狂して読まれる事になった。
マルクス主義の影響というのは彼の本を読んだかどうかと関係ない。私の知っている学生運動の闘士のほとんどは『資本論』も読んでいなかった。むしろマルクスを読まない学生ほど「肉体派」になる傾向が強かった。民主党政権の首脳に多い全共闘崩れの人々には、あの時代の空気を感じる。彼らの依拠しているのは、マルクス主義の理論ではなく素朴な善意であり、こうした正義の観念が人を動かす力は効率や合理性よりはるかに強い。金銭に命を賭ける人はいないが、国家のために死ぬ人は多い。こうしたパラドックスを説明したのも、マルクスだった。
マルクスは、人々の語る正義の背後に政治的なイデオロギーを読み取る方法論を編み出した。「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日(1852年)」はそれをルイ・ナポレオンに適用した事例研究で、レヴィ=ストロースの愛読書だった。デリダは、本書が彼の方法論の先駆であることを認めている。「人々は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない」という本書の有名な言葉は、「脱構築」の見事な定式化である。
マルクスのイデオロギー分析は、しばしば「土台が上部構造を決定する」とか「階級的利害が観念を生み出す」と解釈されるが、本書を読めば彼がそういう通俗的な図式に依拠していないことがわかる。彼が人間の行動を規定する要因として指摘したのは、デリダもいうように夢魔である。人々を動かすのは経済的利害ではなく、彼ら自身も意識していない物語なので、状況が変わっても驚くほど変わらない。
こうした夢魔を淘汰するのは論争ではなく、戦争である。ルイ・ボナパルトを生み出したプチブルが没落するとともに、彼も没落した。柄谷行人氏も解説で指摘しているように、民主主義が「主権者」としての国民の意志を代表するというのはブルジョア社会の神話であり、イデオロギーは武力闘争によってしか転覆できない――というのがマルクスの「プロレタリアート独裁」の理論である。
政治的な戦術としてどうかは別にして、この発想は今でも斬新であり、イノベーションが「創造的破壊」によって生まれる理由を説明している。
あ、これルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン3世が都市大改造でパリから駆逐した奴だ。
そして「マックス・ウェーバーの鉄の檻(Gehäuse)理論の恣意的誤読」を経て「新世紀エヴァンゲリオン(Neon Genesis EVANGELION、旧版1995年~1998年)」に登場する「全人類が個体としての存続を停止して一つに融合した赤い海」に至る訳だ。