諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ドイツ・イデオロギー】改めて「謎めいたフランスにおけるインテリ概念の起源」に迫る

厄介な問題に足を踏み入れてしまいました。でも逃げ様がなくなってきたのです。

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今回の投稿の出発点はこのTweet

何せ二月/三月革命(1848年~1849年)前夜にこれを書き上げているのです。マルクス自身の分析によれば1987年頃より欧州全体が不況期に突入したのがこの革命勃発の原因であり、それが1848年から1849年にかけて収束した事で革命騒ぎも収まったとの事。

そもそも「国王と教会の絶対権威への徹底抗戦」を旗印に掲げた既存革命家達の理念が「(二月/三月革命における農奴解放を契機とする)産業革命進行の加速(既存権力が資産保全の為にブルジョワ階層に合流して歌詞範囲から消える)」によって時代遅れとなり歴史の表舞台から去った後に「資本家と労働者の利害対立の先鋭化」なる新たな問題提起を提げて時代の寵児となったのがマルクスの功績。

ただし産業革命の進行はその彼をすら置き去りにし(労働者とも資本家とも異なる利益追求を遂行する)新興中間層や(国家庇護下の労働者が収入制限選挙を悪用して議会を牛耳る既存ブルジョワ階層と対峙する)新たな対立構造が登場。そしてこうした現象をより上手く説明したのはマルクスの旧盟友「社会民主主義の父ラッサールの方だったのでした。

インテリ」とはこうした過程の何処かでフランスに生じた謎概念。

最も謎めいているのが、その用語自体は「インテリゲンツィア」なるロシア語起源である事。フランスにおける読書階層の改編過程、すなわち王侯貴族や聖職者の様な伝統的インテリ/ブルジョワ/政治的エリート階層産業革命がもたらした大量生産と大量消費の時代に消費の主体であり続ける事を脅かされた時、そうやって伸長してきた大衆経済から切り離された経済圏を残そうとした努力が生んだ新興読書階層がその正体に当たると推測されますが、おそらく自らを表現する言葉を持たなかった為、その言葉をロシアから借用したのです。

もともとは、抑圧された民衆のために活動した知識人たちをいう。1917年ロシア革命の影響を受けた日本のプロレタリア文学の代表的な小説家である小林多喜二の作品には「インテリゲンチャ」の言葉が多く出てくる。今では知識や教養がある人という意味で、広く学者や芸術家、文化人らを指すことも多い。

普及はロシア革命(1917年)以降? 何しろそれまでヨーロッパには「インテリ/ブルジョワ/政治的エリート階層が民衆を善導く」概念自体が存在しませんでした。それでドレフェス事件(1894年~1906年)をネタにした新興インテリ/ブルジョワ/政治的エリート階層のグダグダの党争に失望したソレルが「暴力論(1908年初版)」のなかで「単なる党争に過ぎなかったフランス革命」とそれを結びつける一方、どれほど虐殺されても決して屈しなかった王党派を支えた「神話」を称揚する展開が直前に見られた訳です。そしてこのソレル自身が「マルクス主義のフランスへの紹介者」という側面を備えていたという…

実際にドレフェス事件を解決したのが軍人テクノクラートといった「理系人間教育機関たるエコール・ポリテクニーク出身者であった事実を彼らは認められなかった?

話を元に戻しましょう。

唯心論に傾いていた当時のヘーゲル左派(青年ヘーゲル)から出た(それより形而上学的要素の一切を排除した)唯物論を「日常生活=実際の歴史」と再結合しようとした事こそが歴史のこの時点におけるマルクスの革新でした。これにより「イデオロギー=日常生活を包括的に説明する哲学的根拠概念が誕生するのです。

この辺りが上掲の「マルクスの思想は最初でも最後でもない」話につながっていく訳です。ましてやマルクス主義は「予想を完全に外したマルクスの思想がロシア革命(1917年)を予想したとする陰謀論から出発する次第。

そしてマルクスが見逃したもう一つの観点…

 

そう、この辺りはあくまで韓非子五蠹」流の「初めて火を発明した者も、服を発明した者も、家を発明した者も皆天才だったが、現代に蘇って同じ事をしてもただ笑われるだけだろう」スタイルに従って冷徹に分析を進めないといけない箇所なのですね。

この辺りの流れの補強。

絶対王政や帝制を敷いてきたフランスの立場からはピレネー山脈の向こう(スペイン)教皇庁(イタリア)から守旧派が送り込まれてくるイメージ」「一方責任内閣制を樹立した大英帝国の立場からすればジャコバン派(急進共和派)が大陸から流れ込んでくるイメージ」英仏の王党派イデオロギーのイメージ間にはこういう揺らぎ幅が存在。

さらに帝政ロシアといったらハプスブルグ君主国を背後から支える「反動の本拠地」。

まぁこの事自体は「現実の革命の遂行が不可能になった」時点で執筆された著作に顕著に現れる黙示録的イメージと考えればそれなりに納得がいきます。

この辺りの疑問はマルクスの「日常生活」面、すなわち実際の運動家としての活動履歴にあたる事で相応に解消する様です。

 実際の運動家としてのマルクスは「国王や教会の権威に対するブルジョワ階層の自由主義の勝利」を目指す活動しか遂行しておらず「期が熟していない」という理由で即時行動に消極的だった(現場は逆にそれを望む血の気が多いタイプが多く、それで勝手に自滅していく)。しかも独裁者として振る舞う事が多く運動の実務に向いた人物でもなかった様である。

  • 実際の運動家としてのマルクスは「国王や教会の権威に対するブルジョワ階層の自由主義の勝利」を目指す活動しか遂行しておらず「期が熟していない」という理由で即時行動に消極的だった(現場は逆にそれを望む血の気が多いタイプが多く、それで勝手に自滅していく)。しかも独裁者として振る舞う事が多く、他人に対して不寛容で運動の実務に向いた人物でもなかった様である。

  • マルクスは当時「ブルジョワは、最も自然な同盟者である農民を平気で裏切っている。農民の協力がなければブルジョワなど貴族の前では無力だということを知れ」と主張しているが、この時代のドイツの農奴は解放されると革命から離脱し保守派の味方についてしまうのである。その後棄農して産業革命推進を支える労働力供給源となるが(その一方でユンカーの農園の労働力はポーランドからの出稼ぎ小作人に推移)「広い裏庭のある工業団地で家族が野菜を栽培したり家畜を飼って副収入を得る」独特の景色が展開する事になる(一方、英国の標準的労働者は夫婦共働きで狭い下宿に住み、祖母もしくは老人ホームから引き取った老婆に子育てを一任)。

  • こうして全体像を俯瞰するに「国王や教会の権威の絶対性」は政治的には二月革命/三月革命(1848年~1849年)の時点で打倒されたというより「オルミュッツ協定(1850年)」によって確認された守旧派大国間の協調体制がクリミア戦争(1853年~1856年)における帝政ロシアと英仏の衝突、サルディーニャ王国によるイタリア統一運動(Risorgimento,1815年~1871年)の主導権掌握(1859年よりフランスを味方につけて対オーストリア戦争を開始)、北欧諸国における(オスマン帝国の汎イスラム主義や帝政ロシアの汎スラブ主義の影響を受けて台頭した)汎スカンジナビア主義台頭に起因するシュレスウィヒ・ホルシュタイン問題(1848年~1866年)などの展開により自然崩壊が進み、1858年大不況を契機に一斉に矛盾が噴出したとも見て取れる。ただしこうした景色に急進共和派の居場所は全くと言っていいほど存在しなかったのである。

    そういえばプロイセン宰相に就任したビスマルク鉄血演説を披露しドイツ帝国独立に向けての第一歩を記したのも1862年の事だった。

    そして1873年設立恐慌から1896年大不況終焉の時期にかけて「介入国
    家的に制御された生産資本主義(der interventionsstaatlich regulierte
    Produktionskapitalismus)」とも「団体調整的な市場経済(eine korporative Marktwirtschaft)」とも形容される「世界市場指向性(Weltmarktorientierung)」を特徴とするドイツ工業の基礎が形成される事になるのである。
    ドイツ産業システムの起源とその歴史的変遷

この辺りの事実関係が確認出来た時点で以下続報…