諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「ポルノグラフィ論争」と「額縁ショー」

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19世紀後半のフランスでは、今日では忘れられて久しい「ポルノグラフィ論争」というのがあった。

近代芸術成立過程で最も重要な役割を果たした事件だったが、坂口安吾でさえ戦前段階ですでに「(その時起こったパラダイムシフトがあまりに激烈で不可逆的だった為)血肉化が徹底して行われた結果、いちいち思い出す必然性そのものが失われてしまった」といった内容の述懐を残している。

坂口安吾 フロオベエル雑感

まさに「手塚治虫大友克洋のどこが斬新だったんですか。ありきたりの表現ばっかりじゃないですか。」と指摘する最近の若者そのもの?

 そもそも元来どういう総称で呼ばれていたか分からない。「完全に忘れ去られる」とはそういう事なのだ。

未来が常に先行き不透明な低エントロピー社会と、熱死か最終決戦を間近に控えた高エントロピー社会

そもそもポルノグラフィ(pornography)とは、ギリシャ語のpornē (娼婦) graphos (書くこと,描くこと) を組み合わせた造語で、「エロティズム表現は神話的世界や聖書的世界に立脚した場合のみ公表を許される」と狂信していた19世紀後半フランスのアカデミック芸術擁護派(自称「新古典主義派」)が「近代詩の父」ボードレールや「近代小説の父」フローベールや「近代絵画の父」マネを違法化と訴訟によって葬り去ろうとした時「正義を貫く為に殲滅すべき敵の総称」として振り翳したスローガンだった様だ。「様だ」というのはウェブスターの「国際辞典」には「1850年前後に英国で作られた言葉(『オックスフォード英語辞典』に掲載された用例の文献初出は1857年)」とあるからで、その事と「ボードレールやマネが当時の有識者層に衝撃を与える為にあえて売春婦を作品の題材として選び、実際に売春婦芸術と罵倒された事」がどう関係してくるのか、そもそおも本当に関係があるかも分からない。

 皮肉にも絶対王制期フランス末期から「新国際スタンダード」を自称してきた「新古典主義派」は、フランスに産業革命を定着させた「ドイツ贔屓」皇帝ナポレオン三世をも「ポルノグラフィを擁護する全フランス人の敵」と弾劾し続け、普仏戦争18701871年)敗戦によって彼が廃位に追い込まれると「遂に国際正義が遂行された」と歓喜し、ドイツ軍によるパリ占領を大歓迎したので国民的支持を失った。

 そして近代芸術はむしろ彼らが全面否定しようとしたしたフローベールの「ボヴァリー夫人Madame Bovary,1856年)」やボードレールの「悪の華Les Fleurs du mal,1857年~1868年)」、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス(Venus of Urbino,1538年、悪名高いマルキド・サド公爵が手放しで絶賛した事で知られる)」やフラゴナールの「ぶらんこ(1767年)」の世界観に立脚するマネの「オランピアOlympia,1863年)」といった作品群から出発する展開となる。さらに現代人はディズニーランド的優美さに満ちたロココ芸術についても「一刻も早く地上から殲滅すべきおぞましき頽廃」ではなく「欧州貴族文化が最終的に到達したメルヘンの境地」と認識し、これを語り継ぐ立場を選んだのである。

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 時代が変われば「当時の人がなんでそんな事にこだわったか」も見失われてしまう。現代人の観点では新古典主義派が自らの正当性の拠り所としたアカデミズム絵画だって充分エロい。その一方で「ポルノグラフィ(pornography)」という言葉が表す内容も、全く別物へと変貌していく。

そういえば日本にもこんな時代があったのだ。

戦後、初めてストリップショーが行われたのは1947年1月15日、東京新宿:帝都座の「名画アルバム」であった。ただし、女性(モデル)が動くことは当事の規制にかかり、検挙の恐れもあるため、現在一般的に知られるようなショーと異なり、額縁の中で半裸または上半身裸の女性が名画のポーズをして見せるというものであった。こうした手法のストリップを額縁ショーと呼び、当事の流行語にもなった。

  • 額縁ショー/名画ショー」…戦後、初めてストリップショーが行われたのは1947年1月15日、東京新宿:帝都座の「名画アルバム」であった。ただし女性(モデル)が動くことは当事の規制にかかり、検挙の恐れもあるため、現在一般的に知られるようなショーと異なり、額縁の中で半裸または上半身裸の女性が約30秒ずつ名画のポーズをして見せるというものであった(栄えある第一号は身長も高く立派な体つきをした19歳のダンサー甲斐三和による「ヴィーナスの誕生」)。こうした手法のストリップを額縁ショーと呼び、当事の流行語にもなった。黒いカーテンを開いてから閉じられるまで、わずか四、五分の間という短いものだったが、 ヌードを求める観客が殺到し固唾を飲んで見守ったという。翌年になると、浅草の常盤座やロック座で本格的なストリップが上演される様になり、昭和24年(1949年)には日劇小劇場でもストリップが上演される様になり、昭和27年(1952年) の日劇ミュージックホール開設へとつながっていく。

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  • 秦豊吉(1892年~1858年)」…舞台演出家、翻訳家、随筆家。日劇の創出者。1892年東京日本橋に生まれ64歳で亡くなった。ペンネーム丸木砂土。大正6年から昭和7年まで三菱商事に勤める傍ら、ゲーテの「ファウスト」やレマルク西部戦線異状なし」を翻訳。またフリッツ・ラングメトロポリス (1927年)」原作となるハルボウの同名小説(1924年産業革命の成果を謳歌する富裕階層と彼らに奴隷として酷使される労働者階層の対立を描く)の翻訳も手掛けている(岩波文庫の先駆けとして流行した円本の一つ改造社「世界大衆文学全集第十五巻(昭和3年(1928年)11月初版)」として刊行)。その一方、サディズムの語源となった異端作家の名前に由来するペンネームで「世界艶笑芸術」など性風俗に関する著作を多く書いた。昭和8年、東宝入社。日劇ダンシングチームを育て、日本に新しいショービジネスを根付かせたが、戦後、公職追放に遭う。その期間中もステージプロデュースに情熱を燃やし、ストリップショーの草分けといわれる「額縁ショー」を大ヒットさせる。東宝に復帰してからは重役として和製ミュージカルを手がけ、越路吹雪などの一流スターを育てた。
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  • 「円本」…1926年(大正15年)末から(関東大震災(1923年)の痛手により倒産寸前だった)改造社が刊行を始めた『現代日本文学全集』を口火に、新潮社「世界文学全集」、春陽堂「明治大正文学全集」、平凡社「現代大衆文学全集」などが続々と出版された一冊一円の全集類の俗称、総称。庶民の読書欲にこたえ、日本の出版社に製本から販売までのマスプロ体制を確立させ、また執筆者たちをうるおした。その呼称は出版社側の命名ではなく1925年大阪,1927年東京に初登場した市内1円均一の「円タク」から、派生したと考えられている。1円といったら当時、大学出の初任給の約2%に相当したが、それを廉価とセールスポイントに出来たほどそれまでの本は高価だった。1927年(昭和2年)前後から月に一冊ずつ配本して,1930年(昭和5年)過ぎにブーム終焉を迎える。解約者も出て売れ残りが投げ売りされ、皮肉にもその結果として余裕のない階層も『円』本を買えるようになった。昭和2年(1927年)の岩波文庫創刊もこのムーブメントに触発された結果だった事が同文庫巻末の岩波茂雄名の『読書子に寄す』で明らかとされている。また昭和3年(1928年)における河合肇・大山郁夫監修の「マルクス主義講座」「レーニン著作集」発表に便乗した改造社マルクス・エンゲルス全集20巻(1928年~1930年)」は、これらを小脇に抱えて街を練り歩き、これ見よがしに読む「マルクスボーイ・レーニンガール(当時の流行語)」を大量出現させ、戦前日本共産党内における講座派と労農派の内紛にまで影響を与える事になる。

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  • 「入浴ショー」…今日なお「現役ジャンル」なのでGoogle規制が激しくネット経由で細かい事が調べられないが、以前書籍で読んだ記憶が正しければ「舞台の上にガラスの浴槽を設置し、これに浸かる女性を下から眺める(規制逃れの為に演者は水着を着てるがクライマックスでのポロリがあったとかなかったとか)」といった内容だったかと。大阪万博(1970年)会場における「次世代型人間洗濯機ウルトラソニックバス」で進化系が提示されて人気を博したという。流石にポロリはなかった模様だが…
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考えてみれば「エロ・グロ・ナンセンス」の急先鋒に数えられ、真っ先にそういうネタに飛びつきそうな江戸川乱歩が「浅草のストリップ・ショー」を作中に登場させてないのは戦前にはまだそういう文化がなく、かつ戦後はジュナイブル物に活動の中心を移したので関わりたくても関われなくなったからに他ならない。とはいえ「水族館における水槽中の死美人」「パノラマ景観の中で群れ泳ぐ人魚の扮装をした半裸の美少女達」までは先鞭をつけているので「入浴ショー」の起源くらい主張できるかもしれないのだが。戦後には1950年代に入ると「講談倶楽部」にも連載する様になった横溝正史が代わりにレポート役となり「幽霊男(講談倶楽部連載1954年)」で「ヌードモデル斡旋業」、「三つ首塔(小説倶楽部連載1955年1月号~12月)」で「SM残酷ショー」や「金粉ショー」、「悪魔の寵児(面白倶楽部連載1958年~1959年)」で歓喜点ショーについて書き残したが、この時期にはもう「カジノ・ロワイヤル(1953年)」を嚆矢とするイアン・フレミングの007号シリーズが同種の話題を扱う様になっていたから先進性はすっかり薄れていたのだった。

 時代を超えて生き延びるのは「上に政策あれば下に対策あり」というしたたかさだけなのかもしれない。

こうして世界は変貌を遂げていく?