1930年代。当時のアメリカ人読者の心理は、1929年10月24日に勃発した世界恐慌(world economic crisis/panic)のせいで恐ろしいまでに荒んでいました。
そしてその点に関して言えば、日本人読者の心理もまたそう大差はなかったのです。
明治39年(1906年)に福井県で起こった「青ゲットの男」事件が発端となり(昭和10年代の「赤毛布の男」事件とされることもあるが、これは誤り)、あまりにも不気味な、この未解決事件は瞬く間に全国に広がり、いつしか赤マントの伝説を生んだとする説がある。
東京谷中で起こった少女暴行殺人事件と、当時流行した紙芝居の演目のひとつ『赤マント』(加太こうじ作)が混ざったとする説もある。紙芝居『赤マント』は芥川龍之介の『杜子春』を下敷きにしており、赤マントを着た魔法使いの紳士が靴磨きの少年を弟子にするという差しさわりの無い物語だったが、作り話の余波により大阪ではこの紙芝居が警察に押収される騒ぎとなった。
しかし朝倉喬司は、『赤マント』の噂は昭和11年(1936年)頃から流布している一方、加太こうじが著作で紙芝居の押収事件を昭和15年の出来事と記していることなどをあげ加太の説を否定。「警察が紙芝居を噂の発生源、ないしは媒体として取り締まりに乗り出し(昭和15年(1940年)に)加太がその巻き添えをくったのは事実なのだろう」としながら、昭和11年(1936年)に発生した「二・二六事件」を起源と考察、事件当時は言論統制により詳細が伏せられていたため噂が二重三重に捻じ曲がり『赤マント』になったのではとの説を唱えている。
他にも『少年倶楽部』に江戸川乱歩が連載した『怪人二十面相(1936年)』がモデルであるという説や、旧制高等学校の学生のマント姿が、子供には怪人として映ったのではないか、という説もある。
*これが上遠野浩平「ブギーポップ・シリーズ(1998年〜)」の大源流とする意見も
作劇技法史上において1930年代は バルコニー・システム(The balcony system)が登場した時代として知られています。しかしこれまた曲者なのです。
①今日ではそれは「ハッピーエンドからの逆算でカップルが乗り越えていく障害を設定していく古典的ラブストーリー作劇方法」として理解されているが、そもそも由来となったシェイクスピア「ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、1595年前後)」そのものがハッピーエンドに終わってない。
- それが「ハリウッドではそういったテンプレートが脚本チエックに使われている」と暴露したジェームズ・M・ケインの処女作にして代表作が「郵便配達は二度ベルを鳴らす(The Postman Always Rings Twice、原作1934年、ブロードウェイ戯曲化1946年、フランス映画化1939年、イタリア映画化1942年、米国映画化1942年、1981年)」。妻とその愛人が夫を完全犯罪で殺そうとするも、次第に歯車が狂い出して全てが露見し「二人して地獄で末永く暮らす」最後を迎えるという壮絶な内容。
- 家出娘が悲惨な最期を遂げるキャブ・キャロウェイ「Minnie the Moocher(1931年)」。1932年にはフライシャー・スタジオがベティー・ブープ物の1作としてアニメ化。
*このプロジェクトの一環として「Betty Boop - Snow White (Cab Calloway ~ St. James Infirmary Blues、1933年) 」が制作され、ウォルト・ディズニーの「白雪姫」に示唆を与えたとも。
- 巨大ゴリラが容赦なくニューヨーク市民を殺して回る特撮映画「キングコング(King Kong、1933年)」。実は南洋のドクロ島(Skull Island)に乗り込むドキュメント映画監督もナレーターに雇われた新人女優も食い詰めて後がない設定で、これが当時の観客の同情を誘った。そして新人女優は撮影の為に容赦なくキングコングの生贄に…
*「ヒロインが生贄に捧げられる場面」に、ドイツの特撮映画「メトロポリス(Metropolis、1927年)」における「偽マリアの火刑場面」へのオマージュ要素があると指摘する向きもある。個人的には上遠野浩平「ブギーポップシリーズ(1997年〜)」に登場する「左右非対称の表情」の起源はこれかもしれないと思っている。そして突然炸裂する「愛と死のYoshiwara Dance」…何それ? 日本人も知らないよ? どう考えても元ネタは「サロメの7枚のヴェールの舞」でしょ?
- 政府側と反政府側が虐殺合戦を繰り広げるパリ・コミューン攻防戦(1971年)を舞台に狼男が暗躍するガイ・エンドアの小説「パリの狼男(The Werewolf of Paris、1933年)」。すぐに怪奇映画界が目をつけたが、内容が内容だけに原作のコンセプトを完全に汲んだ映画化はこれまで一度も制作されてない。
*実はガイ・エンドアはマルキ・ド・サド評伝でも有名。そしてその中でマルキ・ド・サドやオスカー・ワイルドの末裔達が「名誉回復」の為に軍隊に入って最前線における危険な任務に志願して率先して次々と殉死していった事、当時の人々が「これぞ人間。人間として死ねて彼らはさぞかし満足だった事だろう」と感涙の涙を絞ったエピソードを紹介し「これが屠殺者を軽蔑しつつ肉は喜んで食い続ける善良な平和主義者達の本質なのだ」と弾劾している。そしてこの物語では、パリ・コニューンと政府軍の双方が大量虐殺に手を染めた現場に現れた狼男が「本能に突き動かされるままに少しだけ殺す俺達と、偽善を貫く為に死体の山を築き続けるお前達と、本当に狂ってるのはどっちだと思う?」と問い掛ける。それは元来「第一次世界大戦(1914年〜1918年)における大量犠牲とは一体何だったのか?」なる問い掛けの蒸し返しだったのかもしれない。
- 名探偵ポアロが「被害者をミンチ肉に変貌させる」壮絶な復讐を平然と見逃すアガサ・クリスティ「オリエント急行の殺人(Murder on the Orient Express、1934年)」や「歪んだ正義感」の産物ともいうべき「そして誰もいなくなった(And Then There Were None、1939年、初訳・清水俊二「死人島(1939年)」)」。まぁ先祖筋たるシャーロック・ホームズも「まだらの紐(The Adventure of the Speckled Band、1892年)」「ぶな屋敷(The Adventure of the Copper Beeches、1892年)」でも「法による正義遂行を免れた罪に私刑は有効」という微妙な態度をとっているし、それはスコットランド出身のイアン・フレミング原作「007シリーズ(原作1953年〜1964年、本格的映画版1962年〜)の主題でもあり続けている。そういえば当時の英国もまた大不況時代(1873年〜1896年)の最中ではなかったか?
*「オリエント急行の殺人(Murder on the Orient Express、1934年)」における名探偵ポアロの「 事件の真相についての説明も終わりましたので、わたしはそろそろ退場すると しましょ う……」発言は、名探偵ホームズにおける「まだらの紐(The Adventure of the Speckled Band、1892年)」の「 僕は博士の死に間接の責任があると言えるが、さりとて、大した良心の呵責を感じそうにない」発言と呼応する。ある意味こういう展開こそが英国人の恐るモラル・ハザードの臨界点とも。
海野十三訳 大久保ゆう改訳 まだらのひも THE ADVENTURE OF THE SPECKLED BAND アーサー・コナン・ドイル Arthur Conan Doyle
あのドラマを記憶のページに!! : 「オリエント急行殺人事件」感想 2015
- 南北戦争に敗れ蹂躙されていく南部を舞台に選んだマーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ(Gone With the Wind、原作1936年、映画化1939年)」。D・W・グリフィス監督映画「國民の創生(The Birth of a Nation、1915年)」に引き続いてKKKが正義の味方として活躍する。
- 過酷な辺境で生きる開拓者家族を描いたマージョリー・キナン・ローリングス「子鹿物語(The Yearling、原作1938年、映画化1946年)」。主人公の少年が成功して遂に害獣へと変貌した小鹿を自ら射殺して大人になっていく場面は世界中の少年少女達の心にトラウマを残した。
*現在はむしろグレゴリー・ペック演ずる「偉大なる父親像」を回顧する作品としてのみ語り伝えられている。「偉大なる」といっても1950年代の「理想視された家父長」より等身大。
*宮崎駿「風の谷のナウシカ(1982年〜1994年)」におけるナウシカの独白「私の兄や姉達が死産の繰り返しで母体の毒を一掃してくれたから私が生まれたの」の元ネタとも。しかし藤子不二雄や宮崎駿といったこの作品に強い影響を受けた日本のクリエーター達はむしろ逆に「物語からの父親像や母親像の排除」という方向に進む。
- 1939年にはバットマン(Batman)が、DCコミックの前身、ナショナル・アライドが発行する『Detective Comics』誌27号にて初登場。当初は「悪人の生き血を啜って生きている吸血鬼」という設定で、明らかにガイ・エンドア「パリの狼男(The Werewolf of Paris、1933年)」に登場する狼男の系譜に連なるアンチヒーローだったが、やがて基本設定から抜本的見直しが図られ(「日中は怠惰な大富豪だが、夜は正義の味方に変貌」といった怪傑ゾロ的キャラに転身)当時の雰囲気を彷彿とさせる要素はBat Cave(蝙蝠洞窟)くらいしか残らなかった。
*同誌は現在まで続く同社の看板雑誌となり、様々な派生誌を生んだ。多くは現在も発行され、他メディア展開も盛んと、今なお人気の衰えないキャラクターの一つである。当時は『スーパーマン』が好評であり、ヒーローものが多く出版されていた。アーティストのボブ・ケイン (Bob Kane)と作家のビル・フィンガー (Bill Finger)により、多くのヒーローや、探偵、レオナルド・ダ・ヴィンチのイラストなどを参考に作られた。現在は契約問題などの諸事情でケインのみ公式な作者となっている。
②こうした観客心理も荒んでる状況下、逆に「いやむしろそういう時代だからこそ本当の癒しが求められている」と考えて倒張りに走ったのがコロムビア映画のフランク・キャプラ(Frank Russell Capra, 1897年〜1991年)監督作とウォルト・ディズニー「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs、1937年)」だったという次第。
*フランク・キャプラ監督は南イタリア系移民。そしてハリウッドから「白雪姫」への出資を断られたウォルト・ディズニーが頼ったのは「狂乱のアメリカ(American Madness、1932年)」のモデルとなった南イタリア系移民の設立銀行バンク・オブ・アメリカで、その恩返しとしてディズニーはイタリア人が原作の「ピノキオ(Pinocchio、1940年)」を制作したり、ディズニー・ランドへの出資の優先権を与えたりしていく。
フランク・キャプラ監督作品「狂乱のアメリカ(American Madness、1932年)」
フランク・キャプラ監督作品「一日だけの淑女(Lady for a Day、1933年)」
フランク・キャプラ監督作品「或る夜の出来事(It Happened One Night、1934年)」
フランク・キャプラ監督作品「オペラハット(Mr. Deeds Goes to Town、1936年)」
ウォルト・ディズニー監督作品「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs、1937年)」
フランク・キャプラ監督作品「我が家の楽園(You Can't Take It with You、1938年)」
ウォルト・ディズニー監督作品「ピノキオ(Pinocchio、1940年)」
*こうした展開と並行進化の関係にあったのが当時の日本における「松竹大船調」である。
③その一方で、当時はそれまでアメリカの成長を支えてきた古典的自由主義者と米国政府のニューディール政策を支持する社会自由主義者が激しく対峙した時代でもあったのである。
アメリカのディズニー社のレイオフとストライキ
- 「ハードボイルドの父」ダシール・ハメット(Samuel Dashiell Hammett、1894年〜1961年)は1934年以降作品を完成させられなくなり1937年にアメリカ共産党(Communist Party of the United States of America、1919年〜)入党。
- 「アメリカ思想における社会ダーウィニズム(Social Darwinism in American Thought, 1860-1915、1944年)」「改革の時代 農民神話からニューディールへ(The Age of Reform、1955年)」「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life、1963年)」などを残したリチャード・ホフスタッター(Richard Hofstadter、1916年〜1970年)もまた「熱狂ではなく、義務感」から1938年にアメリカ共産党に入党。
*ただしこうした「米国有識者層と共産主義の蜜月」は独ソ不可侵条約(1939年)締結によって米国人共産主義者達が「ナチスを悪く言う者はソ連を悪く言う者同様、国際正義が許さない」と主張し出すまでしか続かなかった。
アメリカ合衆国共産党(Communist Party of the United States of America)
アメリカのマルクス主義政党。党首は2014年よりジョン・バックテル議長。週刊紙ピープルズ・ウィークリー・ワールド(People's Weekly World)、月刊誌ポリティカル・アフェアズ(Political Affairs Magazine)を出版している。1920年代から40年代の労働運動に大きな影響力を有し、反人種差別運動にも尽力。
- 1919年9月1日、モリス・ヒルキット率いるアメリカ社会党の改良主義的な路線に反対して離党した左派党員により結成。当初はアメリカ共産党とアメリカ共産労働党に分かれて出発したが1921年5月に統合。発足時点の党員のほぼ7割はアメリカ国籍を持たない外国人、とりわけ東欧系ユダヤ人で占められていた。
- 穏健派の社会党がわずか4万人の規模だったのに対し、結成から1ヶ月で共産党はアナーキストやその他の急進派も含め6万人の党員を獲得した。一時党員は数万人に達したといわれているが、1920年1月の司法長官ミッシェル・パーマーによる一斉検挙によって数千人の党員が逮捕され、特に海外生まれの党員は国外追放されて大ダメージをうけ、1920年代は沈滞する。共産党は地下活動を余儀なくされ、当局の弾圧を避けるため何度か党名を変更した。
- 1928年、ジェームズ・キャノンやマックス・シャハトマンらトロツキストが党から追放された。のちに彼らはアメリカ共産主義者同盟を結成し、1937年には第四インターナショナルの加盟政党である社会主義労働者党を結成した。
- 1929年に大恐慌が米国を襲い、労働運動や社会改革運動が再び台頭の兆しをみせるなかで、共産党は学生運動や労働運動、公民権運動などに着手し、大衆運動に影響力を拡大しはじめる。他方で1930年代にはスターリンのモスクワ裁判を支持するなどの教条主義的、硬直的な態度は知識人や学生に幻滅をあたえ、後に「ニューヨーク知識人」と呼ばれるようになった社会学者のリチャード・ホフスタッターやダニエル・ベルらは離党し、敵対していく。
- 1932年全国産業復興法(NIRA)が議会を通過し、翌1933年にはヒトラーがドイツで政権を掌握すると、それまで対立していたアメリカ労働総同盟(AFL)に党員を大量に入党させるなど他勢力との協調の道を探り始め、コミンテルンの人民戦線路線を積極的に採用し、ニューディール・リベラルなどとの共同関係を強めて反ファッショ運動の一翼を担う。
- なかでもとりわけ有名なのは、スペイン共和国支援のための国際旅団「エイブラハム・リンカーン大隊」である。リンカーン大隊は労働者を中心とする義勇兵の部隊で、1938年に撤退するまで前線で戦い続けた。リンカーン大隊の副官オリバー・ローはアフリカ系アメリカ人で、彼は合衆国の歴史上、白人と黒人の混成部隊では初の黒人指揮官だった。また炊事兵のジャック白井は日本の函館から来た移民だった。
- 1936年の大統領選では、党首アール・ブラウダーがアメリカ社会党の大統領候補ノーマン・トーマスに対し、副大統領候補として出馬することを提案したが拒否されている。
- また、アメリカ南部では黒人運動の組織化をすすめるなど、先駆的な取り組みもなされた。1931年、アラバマ州スコッツボローで、9人の黒人少年がレイプの冤罪で逮捕され、死刑判決を受けたスコッツボロー事件では大規模な釈放運動を行い、再審の上解放を勝ち取った。
- 1939年頃には党員数はおよそ10万人に達したといわれている。党員のほぼ7割はニューヨーク州に集中していたといわれ、同市議会などで議席を獲得したこともあった。また事実上の後援政党であったアメリカ労働者党からは、下院議員を当選させてもいる(ヴィトー・マーカントニオ、ニューヨーク州)また同時期に台頭したアメリカ産別会議(CIO)内にも影響力を拡大し、第二次世界大戦中にはCIO傘下の労働組合執行部の3分の1をにぎっていたという説もある。
- このほかアメリカ共産党は第二次エチオピア戦争や日中戦争に対する反対運動を起こし、政府に対して戦争物資の対日出荷停止を要求した。
- しかし、1939年の独ソ不可侵条約をうけ、同党が反ファッショ戦線を事実上放棄したことが、共同関係にあったリベラルや一部の宗教者に取り返しのつかない幻滅感を与えてしまった。戦後のアメリカ・リベラルの反共主義の根拠はこの事件にあるといっても過言ではない。その後ドイツがソ連に侵攻し、独ソ協定が破棄されたことで同党は再び反ファッショ戦線に復帰するが、もはや共同関係がもどることはなかった。
- 戦時下では第二次世界大戦を反ファシズム戦争であるとみなしてルーズベルト政権に積極的に協力し、ストライキなどのサボタージュ的行動にも抑制的になり、陸軍大尉のアレクサンダー・シュアやハイマン・ベートヒャーら数人の党員が軍から勲章を授与されている。書記長アール・ブラウダーは愛国心から党のアメリカ同化路線を追求し、急進的、革命的路線は後退。そして1943年にはコミンテルン解散に合わせ、もはや党は必要ないとして、「アメリカ共産主義者協会」に改組してしまう。こうした穏健路線は冷戦の開始と共に否定され、1945年にフランス共産党幹部のジャック・デュクロがブラウダーを批判すると共産党は再組織化され、プラウダーは追放される。
- 司法省、FBIなどの公安機関は、戦時下でも共産党への監視を緩めることはなかったが、党が穏健路線をとっていることと、ソ連が連合国軍であることから、目立った逮捕、起訴は行わなかった。しかし、1947年のトルーマン・ドクトリン以降、冷戦激化のもとで本格的な取り締まりに乗り出す。その嚆矢が「デニス事件(1949年)」で、これによりベンジャミン・J・デイヴィス·ジュニア党議長やユージン・デニス書記長以下7人の幹部が「実力あるいは暴力による政府の転覆」を唱導したかどで逮捕・起訴され、同年暮れには連邦最高裁が有罪判決を下した。そして、第二波、第三波と検挙が行なわれ、党の幹部組織は壊滅的なダメージを受ける。
- またリチャード・ニクソンの下院非米活動委員会やジョセフ・マッカーシーによる赤狩り(マッカーシズム)は、党のイメージを著しくダウンさせることになった。1940年代後半から党員数は激減し、1950年代末には2千人程度にまで減少したといわれる。
- 1954年には政府によって非合法化され、1956年のハンガリー動乱およびニキータ・フルシチョフによるスターリン批判は共産党内に大きな衝撃を与え、数多くの党員が離党した。この後しばらくの間、党は民主化されたかのように見えたが、ガス・ホールが党首となると民主派は追放され、党は再び反修正主義に傾いた。一方で同じ反修正主義の立場をとる毛沢東主義者と対立し、1961年に毛沢東主義者が離党して進歩的労働党(Progressive Labor Party)を結成。
- 公民権運動やベトナム反戦運動など社会運動は再び活発化し1970年の時点で2万5千人ほどの党員がいたが、共産党が1930年代のような役割を果たす事は最早なかった。
- 共産党はベトナム戦争の即時停戦を主張せず北ベトナムの指導部とアメリカ政府の交渉を主張して他の左派勢力から非難されたが、実際にはこの主張は北ベトナム側の考えと一致していたのである。
- その一方で共産党は官僚主義およびソ連との友好関係のために新左翼から嫌悪されていた。ソ連崩壊までは「ソ連共産党アメリカ支部」と揶揄されるほどソ連寄りであった。
- 1984年にはロナルド・レーガンの反共政策によって支持を失い、大統領選への出馬を停止。その後はグレナダ侵攻や中米の反共政権への支援に対する反対運動を展開した。
- 1982年に日本共産党との関係が断絶したが、その後2004年1月の日本共産党第23回大会に、党副議長が来賓として24年ぶりに参加、祝電も送っている。
- 1987年11月7日には、ガス・ホール党首とアメリカ共産党幹部ジャルビス・タイナーがソ連革命記念日の式典に参加、ソ連のテレビ局のインタビューを受けた。
ソ連崩壊後は党員の減少と高齢化に苦しんだが、現在のところ推計15000人の党員を維持している。党のHPでは社会保障削減反対、移民の権利拡充、女性への暴力反対などを訴えている。2011年からニューヨークのウォール街で始まり、その後全米へ広がった反資本主義運動「ウォール街を占拠せよ」にも連帯を表明した。2008年と2012年の大統領選挙では、バラク・オバマを推薦し、彼の当選を「人民の勝利」とした。
④実は「エロ・グロ・ナンセンス」路線と「マルクスボーイ・エンゲルスガール」が世を席巻した1930年代日本もこうした流れにかなり連動している。
*前者を代表するのが紙芝居「ハカバキタロー」や江戸川乱歩の通俗小説の世界。
鬼太郎をめぐる旅::: DendoRocK KakaLIA ::: Column ::: ネタ帳 :::
水木しげる「墓場鬼太郎(1954年〜)」の元となった紙芝居「ハカバキタロー(1933年〜1935年頃)」
漢字では「墓場奇太郎」。原作伊藤正美、画辰巳恵洋。辰巳恵洋は他に「猫三味線」という話も書いており、そこに登場する猫娘が、鬼太郎の猫娘と似ているという指摘もある。
- 戦災などで失われ詳細は不明だが、その主人公は、親の因果により墓場から生まれた醜い少年(蛇少年とも)で、親の仇に復讐を果たしていく。当時は「黄金バット」をも凌ぐほどの人気だった。
- 悲惨過ぎる幼少時代と壮絶な復讐、および復讐を終えた後の社会悪との対決などが人気の秘訣だったが、最後の展開が資本家などへの私刑を扇動する内容だったせいか官警の取締りに遭っている。
ただし、この物語が伊藤のオリジナルかどうかは不明である。少なくとも「子育て幽霊」などの古典的な怪談・昔話に多くを拠っている。
1930年代を席巻した 江戸川乱歩の通俗小説では当時もてはやされていた勤労女子や資本家家庭が次々と猟奇殺人の餌食にされるが、名探偵明智小五郎が彼らを助ける事は決してないのが人気の秘訣だった。この路線は太平洋戦争敗戦後、「狙われた名族が皆殺しにされるまで事件を解決しない」横溝正史「金田一耕助シリーズ」に継承される事になる。
日独伊三国同盟(独: Dreimächtepakt、伊: Patto tripartito、1940年9月27日)」締結後に来日したナチスドイツの御用記者が、それでも花見や江ノ島観光をやめない日本人を見て激怒していますが、当時はまさに「資本主義の矛盾が噴出して人心が荒廃する」そんな時代だったのですね。
さて、私達はどちらに向けて漂流してるのでしょうか…