諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

政治も経済も社会(宗教)に埋め込まれていた時代の日本(倭国)

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人類が新社会を構想し実現するには、ある種の存在不安の共有が不可欠らしい。

ochimusha01.hatenablog.com

日本の場合、一番最初にはこんなのもあった。

http://atm09td.tumblr.com/post/130127942451/九州の南には鬼界カルデラと呼ばれる海底火山があるのですがこれは七三〇〇年前に大噴火を引き起こし南

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全ての創造は破壊から始まる?

  •  日本列島では遅くとも15000年前には土器が使われていたが、これは南アジア、西アジア、アフリカが約9000年前、ヨーロッパが約8500年前なのに比べ格段に古い(ただしロシアのグロマトゥーハ遺跡などからも同じく15000年前頃の土器が発見されているし、中国湖南省匂いて18000年前のものとされる土器が確認されたという報告もある)。ただし、その技術的発展はすぐに頭打ちになってしまう。
    *おそらく豊かな森の恵みに頼って生きている限り、工夫を重ねる必然性そのものが存在しなかったのである。

  • その一方で7300年前の鬼界カルデラ噴火は避難民流入で人口過密地帯となった九州北部で耕作地開拓や遠洋漁業を盛んとする一方で生存権を守る為の殺し合いが頻発(「首長同士の一騎討ちだった」説あり)。共倒れを防ぐ為に部族連合社会が形成され、朝鮮半島楽浪郡が建設される頃までには連合王国状態にまで発展を遂げていた。
    *ただし残された首長墓を発掘した限りでは(海外の同種の社会同様)突出した大王を出さない様に相互牽制がなされており、かつまた副葬品も貧弱。彼らと接触した中華王朝側は漢委奴国王印の下賜などによって中央集権化を促したが(これも海外の同種の社会同様)うまくいかなかった。前漢代(紀元前206年~8年)と後漢代(25年~220年)の狭間にあった戦乱のせいで当時の楽浪郡帯方郡は極端な人手不足状態に陥っており、部族ごとへの応対が困難になってきたからそういう事を試みたらしい。

  • こうした中華王朝の試みに対して激しく反応したのは、むしろ(既に人口飽和状態に陥っていた九州北部を避けて)瀬戸内海や畿内の沿岸に入植していった渡来人達と入植先の原住民達だったのである。環濠集落や(物見櫓や狼煙で互いに連絡を取り合う)高地性集落がこれらの地域に次々と建築され、銅鐸や銅矛や銅剣といった青銅製祭器が次々と巨大化していった不安の時代(「呪術的内戦期」とも表現される)は、同時に交易規模拡大を生んでその結節点に所謂「弥生都市」を現出させる(1世紀~2世紀)。そして青銅製祭器の製造流通は九州北部と出雲・北陸を結ぶ日本海ルートと、同じく九州北部を三遠(近江・伊勢・遠江沿岸部)を結ぶ瀬戸内海ルートの対峙を生み、ついには出雲と機内を結ぶ陸路を押さえた吉備の首長達を第三の勢力として台頭させた。こうした過程の背景には以下の様な歴史展開があったとされる。

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    ◎中国産銅の流入三国時代(広義には黄巾の乱の蜂起(184年)から西晋による中国再統一(280年)、狭義には後漢滅亡(220年)から晋が天下を統一した280年まで、最狭義には三国が鼎立した222年から蜀漢が滅亡した263年までを指す)の影響で途絶えがちとなり、最後には完全に途絶してしまった事。
    *それに合わせ国産赤銅の使用比率が急増した一方、巨大青銅製祭器工房を営んできた九州北部の衰退が始まった。

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    ◎こうした状況変化に対応する形で(同様に青銅工房が営まれてきた)出雲や近江で青銅祭器大量埋設が遂行され(独自に居館を営み複数の集落を束ねる様になった)在地首長が土製祭器を統一し、大規模首長墓の築造を開始した事。

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    ◎この動き自体を始めたのは出雲の首長達だが、規模を拡大して地域統治の象徴にまで高めたのは吉備の首長達で、彼らが主導する形で纒向に(それまで「弥生都市」唐古・鍵遺跡が営まれていた場所の近隣にそれに数倍する規模で)日本最初の首都が建設された事(3世紀)。

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    やがて九州北部の首長達は(おそらく畿内に移り住み)現地統治を放棄したと推測されるが、この時に衰退したのは内陸部だけで、かえって九州北部と半島と日本海側と瀬戸内海の沿岸を結ぶ遠洋航路に立脚する(宗像氏や安曇氏といった)海人勢力が台頭。
    *それまでの敵対関係の解消を目論んだのか、当時の九州系在地首長達は大量の青銅鏡を瀬戸内・機内の在地首長に配布したり、八女地方に割拠する宗教団より(卑弥呼や壹與といった)巫女を女王として供給したりしている。その一方でこうして突如始まった中央主権化の動きを警戒するかの様に美濃や東海や関東や東北南部といった周辺地域で環濠集落や高地性集落が盛んとなる。今度もこれが将来の併合を迎え入れる準備となるのだから古代史はややこしい。

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  • 纒向に集った在地首長達の合議によって前方後円墳のフォーマットが定まり、共同祭祀の中心も(東海地方の在地首長を懐柔する上でも有利だった山岳信仰の聖地)三輪山や(鉄鉱石を産する洛東江流域に割拠する加羅諸国と交易する海人勢力が仕切った)沖の島へと推移。(まだ豪族連合段階にあった新羅と交易していた)北陸と近江を結ぶ「琵琶湖ルート」も古墳築造地域に加わった4世紀中旬以降は佐紀盾列古墳群に安定した間隔で大王墓が築造される様になり、これ以降纒向首長連合は歴史用語で「ヤマト王権」と呼ばれる段階に入る。
    沖ノ島 - Wikipedia
    *当時の古墳における副葬品は大王墓を含め鉄製の農具や工具、および祭祀に用いる宝具などが中心。これは当時ヤマト王権を構成していた在地豪族達の関心が農地開墾や交通網の整備(山賊や海賊に対する警戒網の整備や懐柔を含みヤマトタケル伝承発生に深く関わる)に向いていた事を示す。当時のヤマト王権勢力拡大範囲(4世紀における前方後円墳の伝播地域)は、ほぼ記紀崇神天皇条などに記された四道将軍の遠征に該当。そこでは大彦命北陸道に、武渟川別命東海道に、吉備津彦命が西道に、丹波道主命丹波に派遣されるが、中でも東海道で自然崇拝や祖霊信仰要素の採用が劇的な効果を挙げたと目されている。またおそらく丹波や北陸への進出は琵琶湖で結ばれた近江における地固めと同時進行で進める必要があった。アメノヒボコ伝承やツヌガアラシト伝承に見られる様に新羅敦賀経由で結ばれてきた土地であり、5世紀末から6世紀初旬にかけて継体天皇擁立に力を発揮する事に。

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  • 首長墓の様式変遷から鑑みるに「ヤマト王統」は纒向に集った首長達の政略結婚の産物として誕生したものらしい。当時、倭国の主要交易国だったと目されている任那加羅(韓国慶尚南道金海市に存在した加羅諸国の一つで後の金官国)の王墓が築造された大成洞古墳群は既に騎馬民族色が強かったが(副葬品は武具や馬具が中心で、さらに殉葬まで伴った)、倭国にまでそうした三燕文化の影響が及んだのは皮肉にも高句麗の広開土大王(在位391年~412年)の遠征によりその任那加羅が滅ぼされて以降(大成洞古墳群の更新が止まって政治の中心も別の邑に移り呼称も「金官国」へと変貌)となる。
    *この時代には製造難易度が高い騎兵用甲冑が加羅諸国によって、量産性が重視される歩兵用甲冑が倭国で製造されるといった国際分業が見受けられたとする説もある。

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  • 新羅が次第に王国としての体裁を整えるにつれ(任那加羅が滅んだ事もあり)ヤマト王権洛東江流域の関係は疎遠になっていった。その一方で(元来九州北部の海人族と盛んに通商していた)栄山江流域や蟾津江流域出身の馬韓人経由で大加耶慶尚北道高霊郡の池山洞古墳群の被葬者に比定。5世紀~6世紀)との関係が強まる(ちなみに同じ馬韓人でも有力者統制の強い栄山江流域出身者はヤマト王権側、それが不明瞭な蟾津江流域出身者は地方豪族側につく事が多かったらしい)。こうした状況を背景にヤマト王権は大規模大王墓が立ち並ぶ百舌鳥・古市古墳群の築造、河内平野を中心とする大規模治水工事、須恵器の開発や堺の陶窯を拡大する形で実施された「(火に強い須恵器を煮炊き道具、伝統的土器を食器として組み合わせた)最新の文化生活を保障する炊事セット」の大量生産と大量頒布、巨大倉庫が立ち並ぶ難波津運用といった国家事業を次々と遂行していく。その一方で上越地方や琵琶湖沿岸の在地有力者達は新羅の在地有力者達と良好な関係を続けており、このあたりの葛藤が所謂「雄略天皇から武烈天皇の御代(5世紀後半)の混乱」や「継体天皇代(507年?〜531年?)の政変」で噴出したとする向きもある。
    *実は(鳴滝遺跡などを見てもわかる通り)それ以前から既に紀氏が半島から大量の陶器を輸入して倉庫に蓄えたり、葛城氏が畿内の自領に渡来人集落を誘致して様々な陶器を焼かせたりしており、ヤマト王権はこうした動きを牽制しつつその前轍に従っただけとも。その一方ではヤマト王権から渡来人集落の経営をあっけなく公許された地方豪族もおり、当時この辺りの線引きがどうなっていたのか今となってはよくわからない。いずれにせよそれまでヤマト王権を支えてきた地方豪族達は次々と衰退していき、物部氏や大伴氏といった直臣層や(葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏といった)畿内豪族が台頭してくる。もしかしたら日本が欧州的絶対王政に最も近づいたのはこの時期だったかもしれない。

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  • 5世紀後半から次第に古墳が築造されなくなっていくが、その理由としては下記が挙げられる事が多い。

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    ◎戦乱拡大によって朝鮮半島からの鉄輸入が滞る様になった一方で、砂鉄から鋼鉄を製造する技法が広まって「鉄の輸入経路を掌握するヤマト王権が古墳築造によって忠誠心を明らかにした地方豪族に鉄製品を下賜するシステム」そのものが形骸化を余儀なくされた。
    *「砂鉄から鋼鉄を製造する技法の広まり」…詳細は不明だが装飾古墳(4世紀〜7世紀)を築造した出自不明の集団が関与したと考えられている。その大半が九州地方、特に熊本県に集中。日本全国に600基ほどあり、その半数以上に当たる約340基が九州地方、約100基が関東地方に、約50基が山陰地方、約40基が近畿地方、約40基が東北地方にあり、その他は7県に点在している。

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    ◎それまで地方豪族を支えてきた集落が再編され、新集落に集った在地有力者達が自ら群集墳を築造する様になった。特に吉備などの先進地域では製鉄業や陶窯業などで力を蓄えた在地有力者が直接ヤマト王権の直臣層や畿内豪族と結ぶ様になった。

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    ◎それまでヤマト王権との関わりを避けてきた秦氏の様な有力渡来人が地方豪族化して独自に横穴式石室を採用した古墳を築造する様になった。また飛鳥や近江の様な渡来人集住地帯が次第に中央集権の影響下に加えられていった。

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    とはいえ欽明天皇(在位539年?~571年)代にはまだ石舞台古墳や檜隈坂合陵や見瀬丸山古墳やが築造されているし、蘇我馬子が広めた6世紀当時の仏教は「仏像が何か理解出来ず、とにかくひたすら祖霊を慰める為に仏塔を建てると奇蹟が起こるとアピールするしかなく、しかも仏塔を建てる際には大量の武具や馬具の副葬品を伴う」といった具合に、古墳時代前方後円墳に対する宗教的態度の名残を多分に残している。
    仏教が公伝したのは6世紀中だが、文献に仏像建立の話が登場するのはあくまで7世紀以降。

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  • 同時期の高句麗では壁画古墳が発達したが、そこに5世紀中心に好んで描かれ続けた「領主夫妻の慈愛に満ちた眼差しに見守られ幸せに暮らす領民達」なるモチーフは、新羅百済の台頭によって次第に領土拡大が不可能となっていく悲哀と表裏一体の関係にあったとされる。5世紀末から6世紀初旬にかけて次第に墓主像が描かれなくなり、四神図のみを四壁に配する様になる。どうやら何かが吹っ切れたらしい。
    *墓主を壁画に描く風習は前漢代に始まったが、定型化したのは後漢代で特に遼東地域の壁画古墳で発達した。これが(石室に残された墓誌銘によって357年に死亡した冬寿という人物を埋葬した事が明らかになっている)安岳3号墳や(同じく墓誌銘から広開土王配下の幽州刺史と推測される「鎮」某という人物を埋葬した事が明らかになっている)徳興里古墳(408年築造)を経て持ち込まれたのが高麗壁画古墳だが、藤原京期(694年~710年)の日本で築造されたキトラ古墳高松塚古墳と共通のモチーフが見て取れるのが興味深い。

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  • こうして豪族連合状態から解放された6世紀日本では、5世紀にヤマト王朝が採用した「人の体系(地方豪族子弟を機内に招聘して役職につかせる原始的封建体制の一種)」や「部の体系(元来は渡来人の管理単位)」を起点として新たな領民と領土の管理方法たる氏姓制度が成立。ただしこれには内紛を激化させる欠陥があった様で、有名な聖徳太子の「和を以て貴しとなす」も、そうした状況の沈静化を狙って発せられたとされる。
    記紀安閑天皇(在位531年?~536年?)の治世だけで関東から九州まで41箇所もの屯倉が設置されたとする。蘇我氏や渡来人の管理下に置かれたこれら地方直轄地こそが、おそらく氏姓制度の要であった。また継体天皇の妻子の足跡を追跡すると、それに付帯する遺領と遺民の多くが中大兄皇子(のちの天智天皇)に継承されていく。ここにある種の中央集権再建過程を見てとる向きもある。

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  • 7世紀に入り中国唐朝が高句麗に迫るとヤマト王権も中央集権性強化の必然性を認めざるを得なくなり、蘇我蝦夷の手になる上宮王家(山背大兄王)討滅(643年)、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足藤原氏始祖)の手になる乙巳の変(645年)と大化の改新(646年)などが遂行された。
    高句麗で淵蓋蘇文が(唐との親善を図ろうとしていた)栄留王や伊梨渠世斯といった180人の穏健派貴族たちを弑害し、宝蔵王(在位:642年~668年)を擁立したのも、百済義慈王(在位641年~660年)が王族翹岐とその母妹女子4人を含んだ高名人士40人を島に放逐したのも642年。こうした大陸からの混乱の波及は百済再興を目指して出発した遠征軍が白村江の戦い(663年)で大敗を喫するまで続く。

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  • 壬申の乱(672年)にて皇位継承権を勝ち取った天武天皇藤原京の造営を始め、持統天皇の代に飛鳥から遷都する。701年には大宝律令が完成し、この頃からヤマト王権は「日本」を国号として用いるようになった。710年には平城京に遷都。713年には「古事記」、720年には「日本書紀」の編纂が完了しヤマト王権の歴史は完全に幕を閉じる。
    *「古事記」「日本書紀」編纂の主目的は、非情に高い確率で百済系渡来人による「ヤマト王権時代における加羅、および栄山江流域や蟾津江流域の人々の足跡を消してそれを百済人の実績に入れ替える」作業だったと憶測する向きもある。逆を言えば漢城百済(?~475年)とヤマト王権の関係は粉飾を必要とするほど皆無に近かった。百済ヤマト王権への接近を本気で考える様になるのはあくまで東城王(在位:479年~501年)が遷都した熊津を牛耳る在地豪族の燕氏や沙氏を重用し、高句麗北朝だけでなく南朝にも朝貢して爵号を得たと聞いて南斉にも朝貢して両冊封体制に入って以降、すなわち武寧王(在位502年~523年)の時代以降なのである(熊津遷都の原因となった栄山江流域や蟾津江流域の併合との関係も指摘されている)。

 経済人類学者カール・ポランニー(ハンガリー語: Polányi,Károly、英: Karl Polanyi、1886年~1964年4月23日)は「市場貨幣経済成立以前の産業や経済は社会(宗教)に埋め込まれており(Embeddedness)、経済的機能として意識されないことがある」とした。日本人も実際、文字文化および律令制を導入する以前の段階で既に「青銅祭器の製造と流通」「半島からの鉄輸入を一手に掌握したヤマト王権による再分配システムの樹立と、砂鉄から鋼鉄を鍛錬する技法の広まりによるその崩壊」「古墳祭祀から仏教信仰への遷移」「氏姓制度による領民と領土の管理」といった経済や産業の運営経験を得ていた。そしてこの過程は日本人形成の最初の一歩でもあった訳である。