For someone who loves me because I am me…
フランス書院文庫編集部さんのツイート: “【ヘソピアスの意味】1950年代、アメリカで女性のヘソ出しシーンは上映禁止。スネークダンスを踊るシーンでA・エグバークがヘソに「宝石」を埋め込んでいるのは検閲をクリアするためである。
時代の移り変わりが人間を変えるのか、それとも人間の変化が歴史を推移させるのか…
「歴史とは何か?」と問う事は「自然とは何か?」を問う事でもあります。例えば「あれ? 自然は歴史に対して超然と存在してきた筈だよ。一緒くたにするのは自然に失礼なんじゃないの!?」とか思っていませんか?
室町的自由に親和的で自由を伸ばす方向だった三好系の統治は時代遅れと見なされ、秩序への希求に近い坂東型に流れて行った。それは必ずしも当然とは言えずとも言えない人が絡む要素だと思うのですがいかがでしょうか?
— もするさ (@CLONE_P0806) 2016年6月22日
そして最近国際的に「歴史的苦悩なんて実は有限リソースで、人類はそれを使い果たしつつあるのかもしれない」なんて空気が横溢しています。ただそうした議論なら、例えばドイツ語圏のビーダーマイヤー(Biedermeier)時代にだってあったんです。
678夜『ビーダーマイヤー時代』マックス・フォン・ベーン|松岡正剛の千夜千冊
政治的にはカール・ルートヴィヒ・ハラーの命名によるように、ビーダーマイヤー時代はぴったり王政復古期のことで、ウィーン会議の1815年から三月革命の1848年に至る33年間をさしている。日本でいえば文化文政期というようなものである(実際にもその時期にあたる)。
今が最終到達点だなんて、迂闊に言えたもんじゃない? 実際、まさにこのビーダーマイヤー時代の空気に飲まれ、うっかりそう口にしてしまったのがヘーゲルさん…
米国の1950年代もまた、そうした考え方が横溢した時代でした。
アメリカの白人は1950年代を懐かしむ。日本で言えば昭和25年頃から昭和30年代中頃にかけてという事になる。
それまでどこか欧州に劣等感を懐いていたアメリカ人が、第二次世界大戦参加を通じてその救世主となり自らも救った。さらには戦勝者となる事で自己文明の圧倒的優位感を勝ち取った。そうした自惚れが米国文化を照り映えさせ、その感覚が終戦より15年前後ほど持続したのである。
「いい時代だったと誰もが言いますね」
と、ニュートークの山口勉氏にいうと古本屋で勝ってきた一冊の写真集をくれた。表紙に「THE FIFTIES」の文字。
なにげに開いたページでは1959年における「アラモ砦」の撮影現場でジョン・ウェインが画面一杯にその存在感をみなぎらせて元気付けの注射を打たれている。1955年の街角は透明な哀しみに包まれた喪服の黒人男女で埋め尽くされていた。棺が運び出される瞬間を切り取った写真で気を失いかけた未亡人を参列した中年紳士達が支えている。1951年の写真では「正義の戦い」から返ってきた海兵隊兵士がレインコート姿の母親と抱き合っていた。洋服屋の様な顔付きのトルーマン大統領に解任されたマッカーサー元帥が、朝鮮から帰ってきて早々皺だらけのトレンチコート姿でオープンカーの席上に立ち上がり、いかにも英雄的演技者らしく右手を振り上げていた。
巷の結婚式の写真も多数収録されている。どれもが簡素で厳粛で清潔感にあふれ、花嫁も出席する婦人達も薔薇の原種の様に開拓時代の女達のい様な清楚さを漂わせている。そして1959年の写真ではハリウッドを訪れたソ連首相フルシチョフが女優シャーリー・マックリーンにおでこを撫でられている。アメリカ人にとって1950年代とは、まさしくこうした「珠玉の瞬間」を無数に詰め込んだ宝石箱の様な時代だった訳である。
1960年代に入ると誰にも予想だにし得なかった社会的変動が相次いで、何もかもが変わってしまった。それまでアメリカを支えてきた自尊心もすっかり腐り果ててしまった。1960年には43歳のジョン・F・ケネディ大統領が大統領に当選。散文的で皮肉屋で番頭の様に小市民的で昼行灯の様にぼんやりしたトルーマン大統領と異なり、ドラマチックで活動的で強い意志を備えた政治家だった。この様な政治家の登場は常に歴史に乱世をもたらす。就任2年目にベトナム戦争への直接介入を発表。就任3年目に暗殺されて世界に衝撃を与える。ベトナム戦争は次第に泥沼化していきアメリカの番納棺は跡形もなく砕かれる。その隙を突いた形で1967年から1968年にかけて黒人の暴動が燃え盛る。日本における応仁の乱がある種の生理学的革命現象だった様に、1950年代アメリカに漲っていた破棄はこの時から自滅に向かい始める…
当時は検閲史上でいうといわゆる「Hays Code」が最も有効に機能していた時代、さらにはこれが日本に移植されて日本文化にも影響を与えていった時代に該当します。
ヘイズ・コード - Wikipedia
ところで江戸川乱歩の影響を受けてか、彼が戦後逃げ出した大人のエンターテイメントの世界からの要請か、当時の横溝正史作品には現在でいうLGBTQA系の人達が相応の比率で登場します。現在との違いは、その全員が例外なく「同情の余地なき事情で非業の最期を遂げる事を宿命づけられている」点。ちなみに当時は「悪い種子(The Bad Seed、原作1954年、映画化1956年)」やナボコフ「ロリータ(Lolita、1955年)」の影響で「悪い幼女」ブームでもありましたが、彼女らもまた登場する端から殺戮されていきます。それが当時の検閲の要請であり「政治的に正しい事(political correctness:PC)」だったという次第。
Goth文化理解に不可欠な必須教養…人気ゲーム「Fall Out」シリーズの基本立脚点でもありますね。