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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

政治的浪漫主義と体操とボディビル

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フランスにおける政治的浪漫主義者達の大源流はまさにこの人でした。彼の生涯を辿る事は、近世ドイツにおけるブルジョワの在り方を確かめる事でもあります。そしてそれには思わぬオマケが…

E.T.A.ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann、 1776年~1822年)

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ドイツの作家、作曲家、音楽評論家、画家、法律家。現在では主に後期ロマン派を代表する幻想文学の奇才として知られているが、文学、音楽、絵画と多彩な分野で才能を発揮した。

本名はエルンスト・テオドール・ヴィルヘルム・ホフマン(Ernst Theodor Wilhelm Hoffmann)であったが、敬愛するウォルフガング・アマデウスモーツァルトにあやかってこの筆名を用いた(伯父と同じ名前を嫌ったせいとも言われる)。実際、生前の当人も自らの業績のうち音楽家としてのキャリアを最も重視しており、生涯最高の業績は1813年に手掛けたフーケ「ウンディーネ(1811年)」のオペラ作曲(1814年)と認識していた。
*皮肉にもこの方面では現在、フランスの戯曲家ジャン・ジロドゥの戯曲「オンディーヌ(1939年)」その業績を買われロシア宮廷に招聘されたフランス人舞踏家ジュール・ペローとイタリア人作曲家チェザーレ・プーニの合作バレー「オンディーヌ、またはナイアド(1843年)」、ドイツでフレデリック・アシュトンが振り付けハンス・ヴェルナー・ヘンツェ作曲でが作曲し英国ロイヤル・バレエ団の十八番となったバレー「オンディーヌ(1958年)」、ドイツでだけ人気となった「自国経済の発展の為にロシア皇帝ピョートル大帝が第一級の知識や技術を習得する為に職人に身をやつしてドイツやオランダやイギリスを渡り歩いた逸話」を題材とする「ロシア皇帝と船大工(Zar und Zimmermann;1837年)」を代表作とするドイツ人作曲家アルベルト・ロルツィングのオペラ「ウンディーネ(1845年)」、イタリア音楽やドイツ音楽とロシアの伝統音楽を結びつけ現在はロシア帝国国歌「神よツァーリを護り給え(1833年)」の作詞作曲を担当した貴族コンビとして名を残す作詞家ヴァシーリー・ジュコーフスキーと作曲家アレクセイ・リヴォフの「ウンディーナ(1846年)」、同じヴァシーリー・ジュコーフスキー訳の世界観を継承しつつドイツの楽劇作家ワーグナーの影響を色濃く受けたピョートル・チャイコフスキーの「ウンディーナ(1869年)」、どちらかというとアンデルセン「人魚姫(1836年)」の影響を色濃く受け継いだ(というより物語の途中で王子が人魚姫の愛に気付き、自分を殺す宿命を背負わされた事に同情して一緒に心中する道を選ぶ別バージョンと解釈される事の多い)当時を代表するドイツ人作家の1人にして後に「チェコロマン主義を代表する国民作家(欧州音楽文化とロシア民族音楽を結びつけたチャイコフスキーらロシア・ロマン主義派と積極敵に交流し、アメリカに渡ってネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を研究し「これがアメリカの民俗音楽」と結論付けて「新世界より1893年)」などを残しチャイコフスキーと並ぶ「米国音楽の父祖」となった立役者の1人)」ともなったアントニン・ドヴォルザークの手になるオペラ「ルサルカ(1900年)」などが優勢である。

考えてみれば(20世紀に入るとココ・シャネルをパトロンに迎えた「バレー・リュス(ロシア舞踏団)」の影響を色濃く受ける事になる)フランス現代音楽や(渡米した「ドイツ・ロマン主義派」ドボルザークや「ロシア・ロマン主義派」チャイコフスキーの「民族音楽=ゴスペル」肯定に端を発する)米国現代音楽の起源を遡ると自然にワーグナーなどの心酔者を経てE.T.A.ホフマンロマン主義に行き着くので「彼こそ全ての運動の始祖」とする見解さえ存在する。
*こうした考え方について松本清張は「未来の日本人は森鴎外の実録史伝と菊池寛自然主義さえ覚えてれば他に何も要らない」という原理主義的立場から「日本が後進民族だった時代の唾棄すべき過去の遺物」の徹底抹殺を計った。その原理主義は、まさしくその原理主義的立場故に「森鴎外の実録史伝」がノンフィクションどころか「コリントの花嫁(1794年)」のゲーテ、「ウンディーヌ(1811年)」のフーケ、「不信者(1813年)」「海賊(1814年)」のバイロン卿、復古王政時代のE.T.A.ホフマン、官僚と文学者の二足草鞋状態を生涯続けたプロスペル・メリメらが好んだ「擬史伝小説」のバリエーションに過ぎない事が発覚すると早々にこれを切り捨て、さらに後には「菊池寛自然主義」の内包する「あらゆる時代に迎合する折衷主義的凄味」をも不純と切り捨てた結果「現在日本のエンターテイメントは、外国からの影響も過去からの影響も一切受けず独自の高みに到達した世界最高の何か」なる自己撞着に到着するほど徹底したものだった。

ochimusha01.hatenablog.com

*ちなみにこれに関連してイタリア歴史物で有名な塩野七生が、森鴎外の実録史伝を代表する「阿部一族(1913年)」を題材に論争を仕掛け、日本の文壇から「そんな穢れた系譜に位置付けられるなら日本文学の未来に不要」という発言を引き出す展開もあったという。まぁ原理主義とは世界のどこでもこんな感じ?

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とはいえE.T.A.ホフマンの生涯自体の生涯はそこまで複雑怪奇なものでもない。

 E.T.A.ホフマンの概要

ケーニヒスベルクの法律家の家系に生まれ、自らも法律を学んで裁判官となるが、その傍らで芸術を愛好し詩作や作曲、絵画制作を行なっていた。1806年にナポレオンの進軍によって官職を失うとバンベルクで劇場監督の職に就き、舞台を手がける傍らで音楽雑誌に小説、音楽評論の寄稿を開始。1814年に判事に復職したのちも裁判官と作家との二重生活を送り、病に倒れるまで旺盛な作家活動を続けた。

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*彼の残した作品の多くは自動人形やドッペルゲンガーや先祖代々の呪われた血統といった不気味なモチーフを乱用し、現実と幻想とが入り混じる特異な世界観を背景とし。根底にあったのはパラケルスス伝説やファウスト博士伝説の息づく錬金術の世界、あるいはヴィラール神父「ガバリス伯爵(1670年:「薔薇従事騎士団の秘密が遂に暴露」と銘打たれ17世紀後半のパリで大流行した)」の様な隠避学(オカルト)文学など。

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*その一方でE.T.A.ホフマンの文学は、当時のロマン派作家の多くが田舎の田園風景を称揚したのに対し、都会生活を好んで描いた。考えてみれば「守旧派の牛耳る都会においてはロマン主義の展開など絶望的だった」西欧の先進諸国と異なり、ドイツでは都市を牛耳る在地有力者が招聘する相応に高名な錬金術師達こそが現地における科学技術振興を主導してきたのである。

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 E.T.A.ホフマン法律家時代

1776年1月24日、プロイセンケーニヒスベルクにエルンスト・テオドール・ヴィルヘルム・ホフマンとして生まれた。父クリストフ・ルートヴィヒ・ホフマン(Christoph Ludwig Hoffmann)はプロイセン宮廷裁判所の法律顧問であり、その家系はポーランド貴族バギエンスキー家に遡る。母ルイーゼ・アルベルティーネ(Luise Albertine、旧姓デルファー Doerffer)とはいとこ同士であり、デルファー家もまた法律家の家系であった。ホフマンは3人兄弟の末っ子だったが、両親が間もなく不仲となり、彼が2歳の時父が家を出て行った。ホフマンは実母のもとに転居した母に引き取られ、叔父オットー・ヴィルヘルム・デルファーが後見人となった。

1782年にプロイセンの改革派が経営するブルク学校に入学するが、その一方で合唱指揮者兼オルガン奏者クリスチャン・ポドビエルスキーの下で音楽理論とピアノ演奏法を習った。1786年ころ、終生の友となるテオドール・ゴットリープ・フォン・ヒッペル(de:Theodor Gottlieb von Hippel der Jüngere)に出会う。1792年、ヒッペルとともにケーニヒスベルク大学の法律科に入学。ホフマンはこの頃から法律の勉強の傍ら絵画、作曲、詩作とさまざまな芸術に手を染めており、また多くの文学作品を読んだ。当時ホフマンが読んでいた作家はルソー、スウィフト、スターン、スモレット、ゲーテ、シラー、ジャン・パウルなどであり、特にシラーの『見霊者』を熟読していた。

1795年7月に司法候補試験に合格。ケーニヒスベルクで陪席判事として活動を始めた。しかし間もなく学生時代から交際のあった人妻ドーラ・ハット(コーラという愛称で呼ばれていた)との付き合いが問題化したことなどから、翌年グローガウ(現在ポーランドのグウォグフ、当地のユダヤ人にドイツ風の姓を与えるのも仕事であった)へ転任、代父オットー・ヴィルヘルムの伯父ヨハン・ルートヴィヒ・デルファー宅に移り住んだ。コーラとは1798年秋まで手紙のやり取りが続いたが情熱は冷えきっており、代わりにデルファー家の娘ミンナと恋に落ち、この年に婚約を交わした。しかしミンナとは実際に結婚にいたることなく,1802年に婚約を解消することになる。

1798年にはグローガウで次の司法試験にも合格。ちょうどこの頃、伯父ヨハンが法廷上級顧問官としてベルリンに配属されることになり、ホフマンもこれに合わせて配転希望を提出、8月にベルリンに転居した。ホフマンはこの地で都市生活を堪能し、歌手フリードリヒ・フレックや音楽指揮者アンゼルム・ヴェーバーら芸術家と親交を結び、また宮廷楽長であるヨハン・フリードリヒ・ライヒアルトから音楽を学んだ。判事としての仕事の傍ら絵画の制作や作曲に従事し、自作のオペラ『仮面』をプロイセン王妃ルイーゼに贈るなどしている。また1798年11月からは友人ヒッペルもベルリンに移っており、親友と二人で次の国家試験に備え1800年に「優秀」の成績で合格した。3月、ホフマンはポーゼン(現ポーランドポズナニ)の上級裁判所判事補に任命され、ヒッペルとともにポーゼンに移った。

ポーゼンの住民は大部分がポーランド人であり、ドイツ人の役人はドイツ人だけを招いて集会を開いていた。ホフマンはそうした集会の一つである娯楽集会「社交クラブ」のメンバーとなり、政府顧問官ヨハン・ルートヴィヒ・シュヴァルツと親交を結んだ。ホフマンはこのクラブのためにカンタータを作曲しており、シュヴァルツが脚本を書いている。またホフマンはこの集会でワインの愛好熱に取り付かれ、取り分けポンス酒を好むようになった。しかし1802年2月、謝肉祭の仮面舞踏会席上で配布したホフマンによる諷刺画に対し、モデルにされた連隊長ヴィルヘルム・フォン・ツァストフ少将が激怒し、ベルリンにこの件に関する回状を送った。ホフマンは罰としてポーゼン勤務を解かれ、プローク(現ポーランド領プヴォツク)への左遷が決まる。プローク行きに先立つ1802年7月、ホフマンはシュヴァルツを通じて知り合ったポーランド人女性ミヒャエリナ・ローレル・トルツィンスカ(Michalina Rorer-Trzynska、愛称ミーシャ)と結婚、汚職で告訴されたミーシャの兄の娘であるミシャリーナを養女とし、二人を伴って8月にプロークに移った。

当時のプロークは人口2500人あまりの寒村に過ぎなかった。ホフマンはこの地の社交界に興味を示さず、余暇には自宅に引きこもって創作活動に専念。喜劇『賞金』を制作し、当時人気のあった喜劇作家フリードリヒ・アウグスト・コッツェブーに送った(この原稿は現在残っていない)。またこの頃にヨハン・クリスティアン・ヴィークレプの『自然魔術』(化学を用いた手品を扱ったもの)を読んで自動人形を製作することを思い立ったり、ルソーの『告白』を読むなどしている。1804年3月、1年半の左遷が解かれワルシャワへの勤務命令を受け、4月にミーシャ、ミシャリーナを連れ同地に向かった。

ワルシャワは当時南プロイセン州の首都であり、ホフマンは活気のあるこの都市で再び社交に楽しみを見出した。ホフマンは「音楽クラブ」の共同設立者となり、仕事の余暇に音楽演奏に参加したり、クラブのためにフレスコ画を制作し、詩作や作曲も行い、またイタリア語を習得した。この時期ホフマンが作曲したものには『変ホ長調交響曲』『ニ短調ミサ曲』、ブレンターノの戯曲をもとにしたオペラ『招かれざる客』の舞台音楽などがある。またホフマンはヒッペルと並んで生涯の友となるユリウス・エドゥアルト・イッチヒ(1809年からは「ヒッチヒ」と名乗っている)と出会い、ロマン主義文学の愛好者であった彼からティークやブレンターノ、ノヴァーリス、またシュレーゲル兄弟がドイツ語に訳したカルデロンなどの作品を紹介され、これらの文学作品に親しんだ。1805年7月には娘が誕生し、音楽の守護聖人セシリアにちなんでツェツィーリアと名づけられた。

しかし幸福な日々は長く続かず,1806年11月にナポレオン軍がワルシャワに進駐。プロイセンの政府機関が解体され、職を失っただけでなく、フランス軍の接収によって住居すら失った。家族を連れムニーツェク宮殿にあった「音楽クラブ」の屋根裏部屋に引っ越したが、やがて現金が底をつき、妻の縁者を頼って1807年1月にポーゼンに移る。しかしフランス軍当局にナポレオンに忠誠を誓うかワルシャワを去るか選択を迫られると、ホフマンは後者を選び、7月に再びベルリンに赴いた。

ベルリンの宿屋についた途端盗難に遭い、手持ちの現金をすべて失ってしまう。官庁への就職も、職を失った国家官僚同士の競争が激しくうまくいかず生活が非常に困窮した。さらに1807年8月、追い討ちをかけるようにポーゼンから娘ツェツェリア死去の報を受ける。

 E.T.A.ホフマンの芸術家時代

生活に困ったあまり8月末に広告専門の新聞紙『アルゲマイナー・アンツァイガー』に劇団ないし楽団指揮者として求人広告を出した。この広告がバンベルク劇場の関係者の目に留まり、以前ホフマンがオペラに曲を付けたことのあったバンベルク劇場支配人ゾーデン伯爵の仲介もあり,1808年4月にバンベルク劇場の音楽指揮者として採用されることになる。ミーシャを連れ出すために6月にポーゼンに向かい、この間に後に作家としての名声をもたらすことになる小説『騎士グルック』を完成させた。『騎士グルック』は1809年2月にライプツィヒの『一般音楽新聞』に掲載され、ホフマンはこれをきっかけに劇場での仕事の傍ら同紙へ音楽評論の定期的な寄稿を始めた。

バンベルク劇場のホフマンの仕事は当初、ゾーデン伯爵の後継者として支配人となった俳優ハインリヒ・クノーとの衝突から思うようには運ばなかったが、旧弊な演劇に固執したクノーが劇場を破産に追いやると事態が好転した。1810年にバンベルク劇場は株式会社として生まれ変わり、ホフマンとは旧知の間柄であったフランツ・フォン・ホルバインが新たな支配人として迎え入れられた。ホフマンの才能を認めていたホルバインはホフマンを重用し、ホフマンは作曲家、舞台装置家、画家として思う存分に腕を振ることができた。上演目録も改良され、すでに古くなっていたコッツェブーの喜劇を除きカルデロンの『十字架の傍の祈念』や『マンティブレの橋』を上演した。

また副業として上流階級の人々への音楽教育に携わった。1811年、歌唱指導を行なっていた20歳年下のユリア・マルクに恋心を抱くようになり、彼女の婚約者であるハンブルクの商人ゲレーペルに酒の席で無礼を働いてしまう。翌日彼女の母親に弁解の手紙を送ったもののこの事件によってホフマンはバンベルクの社交界へ出入りすることができなくなった。

1813年、『一般音楽新聞』編集長フリードリヒ・ロッホリッツの誘いを受け、ドレスデンのヨゼフ・ゼコンダ演劇会社での音楽指揮者の地位に就くことになった。自由戦争のさなかドレスデンに移住し、ドレスデンライプツィヒの往復生活を始める。音楽指揮者の仕事はゼコンダとの性格的な衝突によって1年ほどで解雇されてしまうが、ホフマンは劇団での仕事の傍らで、フケーから依頼された『ウンディーネ』のオペラ作曲を完成し、『磁気催眠術師』『詩人と作曲家』『自動人形』『黄金の壺』などの物語を書き上げてクンツ社と出版契約を結び、さらに長編『悪魔の霊液』の執筆に取り掛かった。

1814年から1815年にかけてクンツ社より発行された『カロ風幻想曲集』はホフマンの文名を高めた。この作品集はホフマンの偏愛する戯画作者ジャック・カロの名をつけて4巻本で発行され、序文はジャン・パウルから寄せられている。

 E.T.A.ホフマンプロイセン官僚時代

失職したホフマンは、友人ヒッペルの尽力もあり1814年に再びプロイセン国家官僚として採用され、9月にみたびベルリンに移住した。1815年4月からは大審院判事に就任し、裁判官の仕事をしながら売れっ子作家として小説を書き、舞台を手がけ作曲を行ない、また多くの芸術家との社交にいそしむ多忙な生活を送った。当時ホフマンが社交場で交際したのはヒッチヒのほかにシャミッソー、ティーク、フケーらであったが、この時期はとりわけ俳優ルートヴィヒ・デブリエント(de:Ludwig Devrient)との親交を深めた。

ベルリン時代にホフマンは『悪魔の霊液』『くるみ割り人形とねずみの王様』『夜景集』『ゼラピオン同人集』と小説・物語を次々と刊行していった。1818年の夏よりは「ムル」と名づけた雄猫を飼い始めたが、この猫と自分の生活に着想を得て1819年からは『牡猫ムルの人生観』に取り掛かり,1820年には『ブランビラ王女』を発表している。しかしホフマンは作家業を自身の芸術活動で最も重要なものとは見なしておらず、最も情熱を傾けたのは音楽のほうだった。それ故に1814年に完成したオペラ『ウンディーネ』こそ自身の畢生の大作と考えており、ベルリン時代にはこのオペラの上演に最も力を注ぎ,1816年8月にベルリン王立劇場で行なわれた同オペラの初演は大きな成功を収めた。

1819年、プロイセン政府はナポレオン戦争の余波から各地で起こっていた自由民主化運動を抑圧するため「大逆的な結社ならびにその他の危険な策動を調査する直属委員会」を設置し、ホフマンもその一員となった。しかし、内面にではなく実際に成された行為のみに基づいて判決を下すべきだという意見を抱いていたホフマンは国王や上司との関係を悪くする。1819年7月に「ドイツの体操の父」フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(Friedrich Ludwig Jahn)が反逆罪で起訴されたが、ヤーンは警察庁長官カンプツを逆に侮辱罪で訴えた。周囲の官僚はヤーンの訴えを無視するべきと考えていたが、ホフマンはヤーンの訴えを聞きカンプツを召喚し、召喚を中止せよという法相からの命令にも従おうとしなかった。ついに国王自らが介入して召喚は中止となり、ホフマンは国王から大きな不興を被った。

1822年2月、出版前の小説『蚤の親方』に、ヤーンの審理を揶揄する不敬な表現があるとして出版が差し止められた。国王は直ちにホフマンを尋問するよう要求したが、ホフマンはすでに脊椎カリエスで病床にあり、医師の判断で尋問は行なわれなかった。4月、ホフマンは病床で最後の小説『隅の窓』の口述筆記が行なっていたが、6月25日に病により死去した。

 E.T.A.ホフマン後世に与えた影響

ホフマンは人気作家であったものの、同時代ではハインリヒ・ハイネやアーデルベルト・フォン・シャミッソーからの高評価を除き、文学的な評価は得ておらず、どちらかといえば通俗作家の位置に留まっていた。ホフマンの評価はむしろドイツ国外で高まるのである。

1828年にフランスに初めて翻訳されて以降バルザックユゴー、ゴーティエ、ジョルジュ・サンド、ミュッセ、ヴィリエ・ド・リラダン、デュマ、ネルヴァル、ボードレールモーパッサンなど、中でも特に小ロマン派と呼ばれる作家達に大きな影響を及ぼし、ウォルター・スコットのホフマン紹介文の翻訳中で初めてコント・ファンタスティックという語が用いられた。

ロシアではプーシキンドストエフスキーなどがホフマンの物語を愛好し、その影響はエドガー・アラン・ポーにも及んでいる。

ドイツではリヒャルト・ヴァーグナーがホフマンから霊感を得ており、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』『タンホイザー』は『ゼラピオン同人集』のなかのパリを舞台にした小説群に多くを負っているほか、『さまよえるオランダ人』もホフマン作品の暗鬱で神秘的な人物像から影響を受けている。またジークムント・フロイトはホフマンの『砂男』を題材にして「不気味」という感情の源泉を分析した『不気味なもの』という論文を執筆している。

ホフマン作品を基にした楽曲としてはバレエ『くるみ割り人形』『コッペリア』やオペラ『ホフマン物語』、「スキュデリ嬢」をオペラ化したヒンデミットの『カルディヤック』などが知られている。『くるみ割り人形』はホフマンの童話『くるみ割り人形とねずみの王様』からのデュマの翻案(『はしばみ物語』)を基にしており、『コッペリア』はホフマンの『砂男』が原作、『ホフマン物語』は『大晦日の夜の冒険』『砂男』『クレスペル顧問官』の3作を翻案したものである。ほかにホフマンの同名の作品から霊感を得て作られたロベルト・シューマンピアノ曲集『クライスレリアーナ』や、同名の小説をオペラ化したブゾーニの『花嫁選び』などがある。なお『クライスレリアーナ』はホフマンの文学的分身であるヨハンネス・クライスラー楽長が語るという体裁の音楽評論であるが、ホフマンの代表作の一つ『牡猫ムルの人生観』は人語を解する猫ムルの回想録にこのクライスラー楽長の伝記が混じってしまったという形で書かれた長編小説であり、夏目漱石の『吾輩は猫である』には主人公の猫がこの作品に触れて、ドイツにも同じ境遇の猫がいると知って感慨にふけるシーンがある。

『スキュデリ嬢』は推理小説風の作品で、森鴎外は「エドガー・ポーを読む人は更にホフマンに遡らざるべからず」と述べ、『玉を懐いて罪あり』の題で訳出した。

 それではプロイセン政府からここまで危険視された「体操の父」ヤーンとは一体どういう人物だったのでしょうか。 

ドイツ国民運動の組織者フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンの役割遊戯― 体操家たちの身体に刻まれた記憶 ―(体育・スポーツ哲学研究2011年33-2)

ナポレオンの圧力下「帝国代表者会議主要決議(Reichsdeputationshauptschluss;1803年)」によってマインツ大司教以外のすべての聖界諸侯領が俗界諸侯領に併合され(世俗化)、小規模領邦国家帝国都市が廃止され大諸侯領に編入され(陪臣化)、神聖ローマ帝国も終焉(1806年)という事態を迎えたドイツ読書階層(教養層)は領邦愛に基づく国家意識の再建を想定していたのだが、実際には自由・平等の理念とともにフランス社会の新しい政治的統合概念として台頭した「国民」概念の浸透が始まって衝撃を受ける。

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かくして始まった所謂「ドイツ国民運動」の主唱者としてはヤーンだけでなくアルントやフィヒテやシュライアーマッハーの名前が上がるが、ドイツ人の優位を歴史的に正当化してきた国民(Volk/Nation)意識を歴史的に形成してきた自然環境とそれとの関係、言語。文化を称揚しようとするこれら一連の動きでは「教師による子弟の教条主義的指導」と「既定動作をドリル的反復によって叩き込む軍隊的訓練」の双方を全面否定して大人数で行う「役割遊戯(Rollenspiele)」こそが「観客や指導者の排除」「各人が完全なる自由意志下で行う自律的運動と共同作業のバランス取り」「ゲームごとに各人の役割が入れ替わる事による主観と客観の統合」を通じて侵略者や伝統的権威に立脚する身分制に盲従せずにはいられない恐怖心を取り除き、一人一人が状況に応じて適材適所の精神を発揮して臨機応変に分業形態を変えていく国民概念を参加者に体感させるのに最も有効で拡散力の強い運動となった。

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【ヤーンの「体操(Turnen;トゥルネン)」の一例「黒い男」】20名から100名程度の遊戯者全員が一方の陣地に立つ.そのなかで,まずひとりが黒い男となり,何か目印となるもの(ベルト,布,何か緑色のものなど)を用意し,別の陣地に立つ.黒い男は,「きみたち,黒い男は怖いかい?」と言いながら,他の遊戯者たちの方へむかい,みんなは黒い男にむかって「怖くない!怖くない!」などと快活な大きな声で叫びながら,あちらの陣地に到達するように試みる.黒い男は,仲間をつかまえようとするわけだが,彼に続けて3回叩かれたものは捕虜となり,黒い男として彼の隣に並ぶ.この流れを全員が黒い男になるまで繰り返す.何人かの集団や誰かひとりが3回続けて捕まることなく切り抜けることができた場合,彼らは解放される。

体操家ボルネマンが書いたトゥルネンの教科書には,体操家たちにとっての役割遊戯の意味が次のように示されている。「黒い男」と「狩猟遊戯」には,抵抗の余地のない強力な権力者が登場し,かたや「黒い男が怖いかい?」と叫び,もう一方では「猟師が来るぞ!」と叫ぶ.このようにして威嚇されたものには,逃避と策略によって逃げることしか残されていない。

ボルネマンが示した「盗賊と市民」は,「盗賊と旅人」あるいは「騎士と市民」とも呼ばれていた.その役割遊戯では,2つのグループがそれぞれ前哨を立て,哨戒部隊を送り出し,伏兵を配し攻撃をしかける.体操家たちは,斜面をよじ登り,闘い,バランスをとることを学ぶ。このような役割遊戯は,初期の体操家たちを魅了していた…1810年の秋におこなわれたはじめての大規模な体操旅行は,実際のところ,狩猟遊戯,盗賊と旅人,黒い男,突撃遊戯など,一日がかりの役割遊戯の実践だったのである…さらにボルネマンは,「盗賊と市民」について次のように続ける。「体操場の周りの保護林には,いくらか広々とした場所がある.これらの場所が区画され,要塞と都市とにわけられた.城の方は盗賊が陣取り,都市には,平和な市民たちが住んでいる.盗賊からしだいに圧力をかけられて,ついに,その市民たちは防衛に奮起する.闘いが勃発する.盗賊は市民を探し,市民は盗賊をつかまえようとする.ここではそれぞれが,侵攻,襲撃,捕獲のために部隊を送り出すのである」

20歳の体操家リーバーが残したシレジア地方への体操旅行の回想録によれば,ブレスラウで3人の体操家たちと知り合ったベルリンの体操家たちは,ともに「黒い男」と「狩猟遊戯」をおこない親睦を深めている.さらに,リーバーはその体操旅行の成果を振り返りながら「このような旅行において,人々が離れないかどうかを試すことができる」のだと言い,そのような「試し」の結果,「何があっても以前と変わらない」「生真面目で,祖国のなんたるかを理解しない」3名の参加者が体操家集団から離れっていたと記しているのである。つまり,体操旅行と体操遊戯は,体操家たちの共同性を育む不可欠な要素として密接に結びついていたのであり,体操遊戯の空想世界が体操家たちの共同性を強化する一方で,体操家たちの空想世界を共有できないものは,彼らの共同体の枠外におかれていたのである。

その体操旅行で体操家たちが目指したシレジア地方は,1813年に対ナポレオン解放戦争が戦われた場所である.その道中,彼らはオーデル川とシュプレー川分水嶺から「フリードリヒ2 世がルナーズドルフの会戦場にむかう際に立ち寄った山脈」 を眺め,ブレスラウでは「フリードリヒ2世が将官を捕えたリサ城」を見学し,ヤーンは「フリードリヒ2世がその戦いの前に彼の将官たちを鼓舞し,指揮命令を発した場所」でその戦いの様子を語ったと言う。さらに,1241年にモンゴル人が大量のドイツ人を虐殺したというワールシュタットを訪れた際には,ヤーンの語りによって,リーバーは次のような記憶を刻印されている.

勝利の印として,彼ら(モンゴル人たち:引用者注)は羊の皮袋いっぱいに詰めた耳を9 袋分も故郷に送ったと言う.ドイツのハインリヒ大公はこの会戦で倒れた.彼の母親,聖ヘートヴィヒは,ワールシュタットにて息子を埋葬しようとその屍を探した.大勢のモンゴル人とドイツ人のなかで,首をはねられていたにも関わらず,彼女は彼をみわけることができた.なぜなら,右足に6本の指があったからである.母親が息子をみつけ出したときの苦痛に満ちたそのまなざしは,ワールシュタットの教会の祭壇に描かれている。この教会を見学したのち(中略:引用者)酒場でカッツバッハの戦いの正確な記録を読み上げた.このタタールの戦いについては,ここではいまも毎年,プロテスタントの礼拝のなかで思いを寄せられている。多くのドイツ人がここで命を落とし,またモンゴル人は勝利を確かなものにしていったが,しかし,流血は無駄ではなく,全ては正しいことが証明され,またドイツの自由の証であり続け、死して勝利と生命を手に入れるのであった。ワールシュタットを後にすると,我々の目の前には,リークニッツ,ゴルトベルク,ヤウアーが―さらに村々,平原,カッツバッハ川が―そして,ヴューテンデ・ナイセ川が広がっていた.それから,ブルッヒャー率いるプロイセン軍が勝利をまちわびていたと思われる場所を登り,屋外用の杖を駆使して小高い丘のうえにでると,眼下には戦場がほとんど丸々,そして元帥が指揮をした菩提樹がみえるのであった。

ヤーンの言葉を聞いたリーバーたちは,「我々はコルベのカッツバッハにおいて逃走し(1814年8月のカッツバッハでの会戦におけるプロイセン軍の突撃攻撃のこと:引用者注),ボーダーにむかっていたフランス人をそこにみた」と言う。そして,その道中で彼らは,「全員で,巨大な,『黒い男』」をして遊んだのである。こうして,よじ登り,闘い,バランスをとるといった身体の訓練それ自体も,それぞれの場所の情景や体操旅行の最中に繰り返されるヤーンの語りと接合され,空想世界に組み込まれていったのである。

体操旅行の際にいくどとなく繰り返されたヤーンの語りにおいては,常に敵が侵略者として描かれているだけではなく,ドイツの歴史的な場所の情景との結びつきのなかで,「あそこ,あのとき」と「ここ,いま」が接続され「生」と「死」をめぐる体操家たちの記憶がつむがれている.アンダーソンによれば,「生」と「死」の記憶には「鬼気迫る国民的想像力が満ちている」。なぜなら,「生」と「死」をめぐる記憶は,「宗教的想像力と強い親和性」をもっているからである.近代的な国民意識の夜明けは宗教的思考様式の黄昏でもあったが、宗教的信仰が退潮してもその信仰が沈めてきた苦しみが消えることはなく「運命性を連続性へ,偶然を有意味なものへと,世俗的に変換すること」が必要とされたのであり,「国民の観念ほどこの目的に適したものはなかった」のである.客観的な理論や哲学が,例えば「ドイツに生まれた偶然性」に沈黙せざるをえないのに対し「生」と「死」にかかわる記憶はドイツに生まれた運命を歴史的連続性と連結させ、その偶然を意味あるものへと転換させる…国民意識は論理的な思考様式や政治的なイデオロギーにではなく,宗教的な思考様式と結びついていたのである.そして,無名の戦士たちの「死」が「『われわれのもの』として記憶」され,その記憶の過程が「忘却」されるとき、新しい「国民」の観念はその歴史的な記憶のなかで「みずからをむかしからあるものと想像」することになる。体操旅行におけるリーバーの記憶のなかでは,歴史的な戦場における無名戦士たちの死とキリスト教が連続的に想像されているだけではなく,ほぼすべての訪問地で教会に立ち寄った彼らは,宗教的な儀礼とトゥルネンの活動を類比的に表現しているのである。

むろんあからさまな軍事訓練を忌避していたヤーンが絶対確実なものとして方法論的に系統だった訓練的規範を体操家たちに提示していたわけではない。体操家たちは集団的な役割遊戯のなかで自らすすんで危険な冒険劇を試み、新しい遊戯者を発見することによって,ときには体操家集団の和をひろげ,ときにはその境界線を明確にし,その凝集性を高めていたのである。例えば,シレジア地方でのベルリンの体操家たちの素行の悪さを振り返りながら,リーバーはそのような体操家たちにとって「退屈なトゥルネンは話」にならず,彼らは自らすすんで「騎士と市民」と「狩猟遊戯」をおこなったと言う。

役割遊戯におけるヤーンの役割は,カリスマ指導者というよりも,司会者や演劇作家に例えられるべきものだろう.つまり,ヤーンの取り組みの中心にあったのは,いわば共同幻想の編集作業だったのである.父なるヤーンはドイツの歴史的な場所で,その歴史,自然,文化をドイツ語で語り,解説し,体操家たちの面倒をみる。その結果,体操家たちは,ヤーンによって編集された空想世界を体操旅行以外の場所でも可能な限り徹底して実践し,経験するように努めるようになるのである。

ほぼ毎週土曜日の晩,とりわけ雲のかかった月明かりの空のもと,野原に大勢残っていたのか,あるいはふたたび家から出てきたのか,休むことなく夜の格闘,決戦,狩猟遊戯などをおこなっていた。計略,不意打ち,襲撃,忍び寄り,盗み聞き,立ち聞きなどがそこで訓練された。最後には暖かく,楽しげな焚き火の周りに皆が集まる.朝,日の出の前に冷たい雨がふると,我々はしばしむき出しの地面のうえで体を休め,火が消えるのをまった。(中略:引用者)そして2対2でもたれあい,居眠りをしそうになりながら,街の方へと歩いていき, 朝7時や9時には必ず、シュライアーマッハー(あるいはイェーニケなど)の教会に赴いた.これらはしかし,すべて誰かに強制されたことではなかった。

つまり,体操家たちの回想録や日記を紐解くならば,体操旅行の際に歴史的な場所の情景を背景としながら「生」と「死」をめぐる記憶の語りとともに展開された役割遊戯は,体操家たちが同じ空想世界を身体で表現し,自発的にその空想世界を伝達するようになる,ひとつの記憶術の装置として機能していたことが理解されるのである。

空想世界をともなう身体技能の習得が,アンダーソンが指摘する「記憶と忘却のシステム」と深く結びついていることは,例えば「いつどうやって初めて泳げるようになったかは覚えていなくても泳ぎ方は覚えて」いるという身体技能の習得過程を想起すれば容易に理解されるだろう.身体技能の習得過程には,実践的な遂行がともない,歴史的な過去の参照によって正当化された実践の遂行は,それを「習慣とする人々による批判的吟味や評価が容易には許されないしくみ」になっている。それゆえ,身体技能の習得過程において繰り返された物語や空想世界の意味もまた,身体に沈殿される。ヤーンが役割遊戯のために編集したのは,よじ登り,闘い,バランスをとるといった身体技能であるだけではなく,「生」と「死」の物語を描く空想世界でもあった。この空想世界をともなう役割遊戯のなかで,体操家たちは「現実界の生身の人間としてこの世の時間を生きながら」過去の時間を生きていたのであり,そのような時間が体操家たちの身体によって役割遊戯のなかで「想像的に回復」されていたのである.こうして,過去の空想世界が身体に沈殿し堆積することによって,記憶され,同時に忘却される。重要なのは,役割遊戯が身体を訓練しその技能を身につけるためのものであると同時に,その身体運動が体操家集団にとって特有の意味世界をもち―体操家集団の外部にいる人間にはその意味が理解できない―ヤーンによって編集された過去のイメージが役割遊戯を実践する体操家たちに共有されることで,彼らの共同性がつむがれていたという事実である。そこでは多様な過去についての記憶のうち,ドイツの国民に相応しいイメージだけが共有され,それが文章ではなく「身体」で学ばれていた―記憶と忘却のシステム―なのである。

アンダーソンによれば,過去の「生」と「死」の物語を不断に「思い起こし」そして「すでに忘れ去って」いること,これが国民的系譜を構成する特徴的なからくりである。現代的な比喩で言えば,演劇などで繰り返し演じられている『忠臣蔵』などは,それが「生」と「死」の物語であるという意味において,日本人としての国民意識を喚起し,浸透させる代表的な物語なのであり,多くの社会学者によって指摘されているように,今日では,そうした物語を伝える映画やテレビなどの映像メディアこそが私たちの想像力に作用する記憶術の装置として機能しているのである。

19世紀初頭のドイツにおいて,体操家たちは,今日のような映像メディアを通してではなく,他ならぬ役割遊戯―歴史的な場所の情景とヤーンの語りとともに展開された―において、ドイツの国民に相応しい過去を身体で演じ,感じ、まさに“身”につけることで,ドイツの国民に相応しい過去を記憶し,そして忘却していたのである。つまり,ヤーンのトゥルネンにおいては,アンダーソンが出版言語に見出した国民的想像力は,「身体」と密接に結びついていたのである.これが19世紀初頭のトゥルネン史を振り返りながら国民意識の起源論を示そうとしてきた本稿のひとまずの結論である。

だが,大衆的で国民的で身体的な表象文化がドイツに誕生するのは,トゥルネンの求心力が低下し,役割遊戯の世界がスポーツの世界へと変容させられ,トゥルネンの対抗文化としてのスポーツがドイツに定着する―そして本格的な複製技術時代を迎える―20世紀をまたなければならない。この歴史的な逆説を実証すること,そこに本稿の次なる課題がある。

*「体操」を通じての国民創造運動には「状況に拠っては、その攻撃の矛先が容易に政府に向けられる」という側面もあった。また「観客を一切配し自らがファシリテーター(facilitator;状況促進者)として全体を仕切る」心理療法的側面の側面もあり、そのが運動が広がれば広がるほど「これは一般化するとヤバい」という警戒心が内外に強まっていったという。これがナポレオン戦争終結後、自由主義運動の拡散そのものを嫌うウィーン体制下(復古王政時代)のプロイセン王国で弾圧の対象となった理由であった。欧米列強に侵略される恐怖からあっけなく幕藩体制を放棄した日本と異なり、当時のドイツは「連邦国家の分断状態の維持」こそが国体維持と考え、そのツケが第一次世界大戦における敗戦を契機とするナチスドイツの台頭という形で回ってくるのである。

まだ徒手体操も器械体操も考案されておらず,視覚や聴覚などの感覚訓練をも含む広義の身体運動が「体操」と考えられていた時代の話です。ヤーンは今日の体操競技に発展した器械体操の考案者でもあるのだが「体操」ということばをギムナスティクGymnastikからトゥルネンTurnenに改め,統一ドイツ国家を建設するための青少年教育の意味で用いました。彼のそれは運動技術の習熟や意思の鍛錬を目的にした器械体操や行軍ばかりでなく,フォークダンスや政治討論集会などまで含んでいたからです。

ただ彼の「体操」は、同様に「古代ギリシャ時代の肉体美への回帰」を標榜しつつも、近代的トレーニング方法によって鍛錬された肉体とそのぶつかり合いに国境や人種や身分や貧富の差も(そして究極的には性別さえも)超越する力を見てとった「ボディビルの父」オイゲン・ザンドゥ(Eugen Sandow;1867年~1925年)の世界革命的理念と異なり、ナショナリズムに拘泥する意識が強かった事が発展上の足枷となってしまった訳です。そう、当時国際的に成功を収めたのはむしろ非政治的なボディービル運動の方だったのです。

ボディビルと科学の進歩

Eugen Sandow vs Arnold Schwarzenegger

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「ボディビルの父」オイゲン・ザンドゥ(ドイツ読み)から、ミスター・オリンピアボディビルディングの世界最高峰)での活躍によってゴールドジムを一躍世界最大のジムにまで成長させたアーノルド・シュワルツネッガー(オーストリアの樫の木)登場の間に一体何があったのか…

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ちなみにオイゲン・ザンドゥ自身は「瀕死のガリア人」といったギリシャ・ローマ時代の彫刻の体格を測定してこれを当面の理想としたらしい。

 ボディビル黎明期とEugen Sandow(1867年~1925年)

「筋肉を披露する技芸」としてのボディビルが誕生したのは19世紀末のことである。この時代にボディビル競技を推進したのが「近代ボディビルの父」としばしば評されるドイツ(当時プロシア)出身のユルゲン・サンドウ(ユージン・サンドウとも)である。

彼が「近代ボディビルの父」と呼ばれるのは美術館にある大理石の彫刻をじっと眺めながら、"ギリシャ人の理想"たる"完璧な肉体"を作り出す方法を模索する過程で「精巧な釣り合いのとれた肉体を構築する」というボディビルの概念そのものを発案したからである。実証科学の行き渡った近代においては、ただ単に古代ギリシア・ローマ彫刻を思わせる肉体を備えているだけでは認められるのに不十分だった。「文化的」と賞賛される為には、それが洗練された科学的方法論の賜物である必要があったのである。

実際彼はボディビルに関する幾つかの本を著わし(『Sandow's System of Physical Training』『Strength and How To Obtain It』『Body-Building』『Strength and Health』『Life is Movement』の5つの著書を残している)、栄養面と共に健康的なライフスタイルを奨励して人々の身体意識を変えるのに重要な役割を果たした。

1894年にブランチ・ブルックス・サンドウと結婚し2人の娘をもうけた。しかし興行終演後の舞台裏でしばしば金銭目的で他の女性に伸縮させた筋肉を触らせたり、自身の興行の為に雇っていた男性音楽家マルティナス・シーヴキングと親密な関係を持っており(サンドウは著書『Sandow's System of Physical Training』でも彼の事を大きく取り上げている。彼らの関係がどの程度かは明らかではないが、暫くの間ニューヨークで生活を共にしていた事がある)これをブランチが嫉妬していたとも言われている。

博学なビジネスマンでもあり、メールオーダーによる肉体の知識と鍛錬器具(マシンド・ダンベル、スプリング・プーリー、テンション・バンド)の販売を手掛けた。独自のスプリング・ローデッド・ダンベルとラバー・バンドによる負荷抵抗トレーニング・システムを開発し、ホーム・トレーニング向けの器具を普及させた事で名声を得てもいる。更に葉巻、健康効果を謳ったココア飲料、フィジカル・カルチャー向けの雑誌出版等、多くの事業を手掛けた。また英国ロンドンにおいて体育館との差別化を図った最初期のヘルス・クラブの一つであるフィジカル・カルチャー・スタジオを開設してもいる。

筋肉美は階級を超える」とし、ファッショナブルなエクササイズとボディビルを通じた健康思想で世界征服を目指す理想主義者としてアーサー・コナン・ドイル卿や英国王ジョージ5世や発明王トーマス・エジソンらと親交を結んだ。エジソンとの交流はエジソン所有スタジオにおける数多くの筋肉美誇示写真や筋肉美誇示映像を残し、ある意味マルチメディアの源流の一つともなっている。同じ肉体の訓練をモチーフとしながら国家からも国民からも危険視されるに至った19世紀における「体操(Turnen;トゥルネン)」運動とは全く異なる結果を迎えたのが興味深い。

1898年にはアメリカに興行目的で上陸した「恐怖のトルコ人」の挑戦を受けた。

英国ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにおいて1901年9月14日、初めて、ボディビルコンテスト「グレートコンペティション」を開催。審査員はチャールズ・ロウズ卿とアーサー・コナン・ドイル卿が務めた。コンテストは大成功を収め、勝利者には彫刻家フレデリック・ポメロイによるサンドウを模したトロフィーが与えられた。

20世紀初頭、彼に引き続いてボディビルの普及を推し進めたのはベルナール・マックファッデンとチャールズ・アトラスだった。彫刻家フレデリック・ポメロイによるサンドウ像はサンドウのボディビル競技への功績を後世に伝える意味も込めて1977年からミスターオリンピアの優勝者にも贈呈されている(この像はシンプルに"サンドウ"と呼ばれている)。その結果サンドウ像はオリンピアのタイトルの別名として知られる事になった。1994年にはデイヴィッド・L・チャップマン執筆の伝記『Sandow the Magnificent - Eugen Sandow and the Beginnings of Bodybuilding』が発表された。

*日本に帰化したアイルランドギリシャ人文学者の小泉八雲1850年~1904年)も、ギリシャ彫刻的肉体美を信奉する一人として密かにボデービルのトレーニングを欠かさなかったし(遺族談)、コナン・ドイルの名探偵シャーロック・ホームズ・シリーズにもダンベルが1個だけ発見されて「ダンベルが1個しか存在しないなんて科学的に有り得ない」と断言される場面がある。

田鶴浜弘「プロレス大研究(講談社1981年)」

瓦斯燈が仄青く照らす近代欧州では、十九世紀末から二十世紀初頭にかけてフランス流グレコローマンレスリングが“格闘芸術”として完成する。しかしやがて世界プロレスの本流は、新大陸アメリカに移り、電灯時代の繁栄に転じたのであった。

トルコの巨人が我が国に来たるはあらゆる応戦者とレスリングする為(米国メディア1898年3月) 

ユーソフ・イスマイル、トルコ人ギリシャ・ローマ式レスラーが、試合を求めてニューヨークに近頃到着した。彼は500ドルを供託して彼があらゆる応戦者と立ち合う用意のある旨宣言している。彼は身長六フィート二インチにして体重は220ポンドである。


王座の名誉の新しい熱望者は月並みな「怪力男」の如きくっきり際立った瘤だらけの筋肉こそ備えぬも、すんなりと発育しており、他のものを犠牲にして大きくさせられた筋肉の一式はない。彼が全くの自信を持って「お望みならサンドウをも窓からも投げ捨てて見せよう。もしその窓がサンドウの体を押し込んで通せるだけのサイズだったらな」と豪語している。

*「サンドウ」…ユージン・サンドウ(Eugen Sandow:1867年~1925年)…筋肉を作り上げる為の理論を方向付けた為にボディビルダーの先駆者"近代ボディビルの父"と呼ばれる19世紀末から20世紀初頭にかけての怪力パフォーマー。「筋肉美は階級差を超える」とし、ファッショナブルなエクササイズとボディビルを通じた健康思想で世界征服を夢見てアーサー・コナン・ドイルジョージ5世、トーマス・エジソンらと親交を結んだ。エジソン所有のスタジオにおいて筋肉美を誇示する数多くの写真や映画を撮影してマルチメディアの祖となり、英国ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにおいては1901年9月14日、世界初のボディビル・コンテスト「グレート・コンペティション」を主催している(審査はサンドウ自身とチャールズ・ロウとアーサー・コナン・ドイル)。

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*「TERRIBLE TURK(恐怖のトルコ人)」…どうやら原点は「恐怖のギリシャ人」アントニオ・ピエリーがマネージメントしたトルコ人レスラー達のブランド名だった模様。
谷幸雄がハッケンシュミットに挑戦(1904年1月)

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【追悼記事】ユーソフ、「恐怖のトルコ人」、ラ・ブルゴーニュ号の不運な乗客の一人(米国メディア1898年9月)

不運な仏国定期船、汽船ラ・ブルゴーニュ号の鉄の抱擁に閉じ込められた「恐怖のトルコ人」ユーソフは大西洋の波の下に沈み横たわった。7月2日にニューヨークから出航した時の乗客の一人であり、その汽船が7月4日にセイブル島沖でクロマーティシャー号と衝突した際に救助されたと伝えられた人達の中にいなかったのである。レスラーとしては無敗だった「スクタリの巨人」は命を賭けた老大洋との最期の闘いに敗れた。特筆すべき経歴の終わり方とはいえよう。

あらゆる東洋の闘者がそうである様に暴力が全てで知性とは無縁だった。正規の教育を受けた事がなく、その怪力だけを唯一の誇りとしてのし上がって来た男で、マルドゥーンやローバー派の様な運動家達を育て上げたレスリング科学に関心を持つ事さえなかったが、トルコ人は決して打ち倒される事はなかったのである。確かにフランスLamaireと日本人Madochiは、絞め殺しルイスとアーネスト・ローバー同様に彼から判定勝ちを勝ち取ったが、それは実際に大地に這わせたうちに入らない。

その一方で東洋型の堂々たる獣であったが故に、彼は真の運動家なら備えるべき謙虚さとスポーツマンシップに欠けていた。物事が自分の思い通りに行かなかった時はたちまち制御を失って野獣と化し、しばしば勝負を反則で失っている。

そのトルコ人は、コンスタンティノープルの向こう側、なまじ回教国の王都の壮大な展望が見渡せる場所であるがゆえに自らのみじめさを思い知らされる喧騒に満ちた街スクタリに生まれた。 若い頃にレスリングを始め、生まれた地方の至る所で正規の勝負において名のある男達に勝利を収め続けた結果、「司令官」と彼を支配下に置く在地有力者にお目見えする栄誉に浴する。 そしてやがて皇室の後援下、近隣地方に小遠征を行う様になり、遂には遠くエジプト、アルジェリアギリシャ並びにイオニア島へ派遣されて常に勝利の緑の月桂樹を勝ち取ってきたのだった。

そして今度は欧亜の大家と並ばんと欲して日本からドイツまで全道の諸国よりの代表者達を倒す。次に英国へと赴いたが、この時彼が立ち合った相手は極めて少なく、唯一重要な試合といえるのはもう一人のトルコ人メムリクとのロンドン戦だった。両者ともおよそ6フィートの身長で体重は22ストーンを超える有り様だったのでどちらも相手を倒し切れず、試合は引き分けを宣せられている。

米国にやってきたのはそれからだが、ここで思わぬ難点に遭遇する。米国でのレスリングは多くのルールに縛られており、それを守ると形だけでも誓わない限り対戦さえしてもらえないのだった。かくして困難を極めた遠征が始まる。ローバーとの対戦ではまずニューヨークのマディソン・スクェア・ガーデンで相手を演壇から叩き落とし、大都市歌劇場での再選においては四つん這い状態の彼に手出し出来ず癇癪を起こす。「華麗なるスパルタ人」ヘラクリデスとの立ち合いでは相手を絞めて失神させ、西部のルイス戦では遂に対戦相手を絞め殺してしまい反則負けを喫した。

各地に短期滞在する間、毎日ほぼ二十回の食事を取ったがその全てが鳥や豚の丸焼き料理で全部手で食べたとされる。スープ用の蓋付き鉢に並々と入れたトルコ式コーヒーも好んだが、とにかく幾ら食べても空腹に追いつかないのが悩みの種であった。三等船室で乗船したのはこの男の別の側面を表している。強欲と吝嗇の同居する守銭奴でもあり、トルコ式ズボンを幾重にも取り巻いたスカーフの内には短期間ながら波瀾万丈だった合衆国横断巡業の収益、米国金貨で八千ドル分以上が縫い付けられていた。彼は秋には契約を更新する約束をしていたが、この金貨こそが彼を海底に誘ったのかもしれない。

*「若き日にブルガリアからトルコに移住しトルコで頭角を顕した」とする説も。フランスではトップだったポール・ポンとグレコローマン・ルールで4度対戦。内、何度かは勝利。98年にはアメリカに進出。1898年4月30日、ユーソフがニューヨークのメトロポリタンオペラハウスで、アメリカでグレコローマンの世界王者を名乗ったことがあるアーネスト・ローバーを打ち破った試合は以下のような内容であった。「ユーソフはローバーを捕らえるとコーナーポストめがけて叩きつける。ただの一撃で、ポストが叩き折られ、やっと立ち上がったローバーを、今度は反対側のポストに向けて叩きつけた。ローバーの体を人間ハンマー代わりに扱い、4本のポストはたちまち叩き折られ、半死半生のローバーが、こわれ人形のような無残な姿で投げ出された。この間たった4分!」。ちなみにフランス行きのきっかけは、1878年オスマントルコがロシアとの戦争に敗れ、国内が混乱したこととおそらく無関係ではない。

*そういえば、ロバート・ホワイティング「東京アンダーワールド(2000年)」にも「プロモーターとして熟練した手並みを発揮した力道山だったが、トルコ相撲の選手だけは箸にも棒にも掛からなかった。手段を選ばずガチで敵に当たる事しか知らなかったので、反則技を繰り出して試合を台無しにされる前にガチで倒すしかなかったのである」とあった。まさにそれ?

実は日本文学にも大きな影響を与えています。 

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小泉 凡(小泉八雲曾孫)「ラフカディオ・ハーン(1850年~1904年)とギリシャ企画展」序文

ハーンはよく子どもの頃、ノートの余白に筋肉の絵を描いていたという。その後も古代ギリシャ彫刻にみる並外れた肉体美について永く自問してきた節がある。ハーンが出した答えは、羞恥心がない時代だからこそ「愛の直観を通して、彼らは人体についての神々しい幾何学的観念の秘訣を発見したのです(チェンバレン宛書簡)」というものだった。つまりギリシャ芸術はキリスト教的な倫理観にとらわれないからこそ美しいと考えた様なのである。後年、ハーンはみずからも、10キロのダンベルで体を鍛えることを怠らなかった。

夏目漱石同様にオーギュスト・ロダン1840年~1917年)やアントワーヌ・ブールデル(1861年~1929年)の様なフランス自然主義彫刻を嫌い「古代ギリシャ人はただ単に裸を彫ってたんじゃない。人体から抽出可能な最も美しい曲線を崇拝対象としてたののである」と書き残している。


ギリシャへの愛着と憧れは肉体美だけではなかった。弟ジャームズに宛てた手紙に、自分の長所はあの浅黒い肌をしたギリシャ人種の魂から受け継いだものだと書いている。「私が正しいことを愛し、間違ったことを憎み、美と真実を崇め、男女の別なく人を信じられるのも、芸術的なものへの感受性に恵まれ」たことも。つまり、自らが自信をもって貫いてきた価値観をギリシャからの賜り物と考えている。


後にハーンが「夏の日の夢」に書いた「ある場所と、ある不思議な時の記憶」「小さな王国」「神さまのようなその人」が、原風景のギリシャと母のイメージを重ねたものであるとすれば、ギリシャへの憧憬は母への愛惜の念がその中核をなしていたといえるかもしれない。松江の大雄寺に伝わる子育て幽霊の話を「母の愛は死よりも強し」と言い換えて結んだことからも母への強い想いが伝わる。

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夏目漱石「草枕(「新小説」1906年)」

三味線の音色が思わぬパノラマを僕の眼前に展開したと思うと、突然風呂場の戸がさらりと開いた。

誰か来たなと、身を浮かしたまま、視線だけ入口に注ぐ。湯槽の縁の最も入口から隔たった場所に頭を乗せているから、槽に下る段々は、間二丈を隔てて斜めに僕が眼に入る。しかし見上げたる僕の瞳にはまだ何物も映らぬ。しばらくは軒をめぐる雨垂の音だけが聞える。三味線はいつの間まにかやんでいた。

やがて階段の上に人影があらわれた。広い風呂場を照てらすのは小さい釣りランプ一つのみだったから、この隔りでは澄切った空気を控えてさえ、しかと物色するのは難しい。まして立ち昇る湯気が細やかな雨に抑えられ、逃場を失っている今宵の風呂では相手の容姿を見定めるのが難しい。一段を下り、二段を踏んで正面から照らす灯影を浴びた後でなくては、男とも女とも声は掛けられぬ。

黒い影が一歩を下へ移した。

踏む石がビロードの如く柔らかと見えて足音もおぼつかず、動きはあくまで優雅で緩やかである。しかしとにかく、やっとその輪廓は少しは浮き上がった。僕は画工だけあって人体の骨格については存外視覚が鋭敏である。それですぐざま僕はこの風呂場の中で女と二人きりと覚ったのだった。

注意すべきかしまいか漂いながら考えるうちにも、女の影が遺憾なく僕の前に滑り込んできた。みなぎり渡る湯煙の柔らかな光線を分子ごとに含んだ薄紅色のソフトフォーカスの奥に、漂う黒髪を雲の様に流して背丈のあらん限りをすらりと伸ばした女の姿を見た時は、礼儀だの作法だの風紀だのという言葉が脳裏から離れ、ただひたすら美しい画題を見出し得たと思っただけだった。

古代ギリシャの彫刻ならいざ知らず、今世フランスの画家が命と頼む裸体画はあまりにも露骨であからさまな肉の美を極端まで描がき尽そうとする痕跡がありありと見て取れる。それを目にする都度、どことなく気を削がれる様な心持が僕を苦しめてきた。むろんその折々はただどことなく下品だと評するまでで、なぜ下品であるかが解らなかった。それ故にかえって答えを知りたいという煩悶に悩まされつつ今日に至ったのである。肉を覆えば美しさが隠れる。隠さねば卑しくなる。さらに当風の裸体画は隠さぬ卑しさに加え、その上にさらに技巧を重ねんと試みる。衣を奪った姿をそのまま曝すだけでは気がすまずこの衣冠の世における裸体を追求する。人間の常態を忘れ服を着た人々に挑戦すべく赤裸にありとあらゆる権能を詰め込もうとする。十分足りてるのに、十二分にも、十五分にも、どこまでも進んでひたすらに「裸体であるぞ」感を強調せずにはいられないのである。こうした技巧が極限に達っするとかえって窮屈になる。元より美しいものを、さらに美しくしようと焦れば焦るほど、美しさはかえってその度合を減ずるのが通例である。「満は損を招く」という諺もある。

放心と無邪気は余裕の賜である。画にも詩にも文章にも不可欠な必須条件である。近代芸術最大の弊害は、いわゆる文明の潮流がいたずらに芸術家を急き立て、様々な齟齬を引き起こさせる点にある。裸体画はその好例であろう。都会の芸妓は色を売り、人に媚こびるのを商売としているが、彼女らは嫖客の前では自らの容姿がいかに相手の瞳に映ずるかを絶えず気にし、自然な表情を覗かせる事はまずない。毎年目にするサロンの目録に掲載されているのは、この芸妓に似た裸体美人ばかりである。彼女らは一秒たりとも自らが裸である事を忘れないばかりか、全身の皮膚と筋肉を駆使して観察者にそれを誇示する事ばかり考えている。

今僕の面前に飄々と現われた姿には、こうした眼を遮る俗埃が一塵たりとも感じられなかった。かといって常人がまとった衣装を脱ぎ捨てた様といえば、それはそれで俗っぽ過ぎる。もとより着るべき服も振るべき袖も知らぬ神代の裸族の姿。あたかもそれを雲の中に呼び起した様な自然さだ。

湯煙が後から後から絶え間なく湧き起こり、屋内に充満する。部屋一面に春の宵の灯を半透明に崩し拡げたかの様な虹の世界が広がり、それらが細やかに揺れる向こう側で、朦朧にやっとそれと認められる黒髪を透かして真白な姿が雲の底から次第に浮き上がって来る。その輪郭に視線が釘付けとなる。

首筋を軽く双方から包み、すらりと肩の方へ流れ落ちる髪の流れていく先は豊かに丸く折れ、五本の指に掻き分けられているのだろう。ふっくらと水面に浮く二つの乳房の下では、揺らめく引き波が滑らかに盛り返しながら、水面下に隠された下腹部の張り出しを微かに垣間見せる。吐口から強く噴き出す湯に当たり、勢の尽きるあたりで分れた肉が平衡を保つべく少しく前に傾いている。膝頭の方はまともに流れを受けて長いうねりを踵まで届かせ、平たい足の裏で始末している。世に、これほど錯雑した配合はあるまいとも、これほど統一された配合もないとも思われた。これほど自然で、柔かで、滑らかで見苦しくない輪廓など、そう安々とみつかるものではない。

なにより嬉しいのは、この裸体が普通のそれと異なり僕の眼前に露骨に突きつけられている訳ではないという事だ。あくまで全てを幽玄に見せる霊気の中を彷彿とさせられ、十分の美が奥ゆかしくも仄めかされてるだけに過ぎない。もしここに筆と墨と紙あらば何が出来るか想像するだけで楽しい。芸術に観じて申し分のない空気や温かみや幽玄な調子が備わる。鱗が一つ一つはっきりと丁寧に描かれた竜の絵を見るとかえって神秘的な雰囲気が失われてしまうというが、それなら彼女の一糸まとわぬあられもない肉体をあえてはっきりと目に止めるより、こうして湯煙ごしに清らかな裸体を想像している方が神が来て去った後の様な余韻にひたる事が出来る。その考えに思い当たった僕の眼には、突如としてこの輪廓が、桂の都より逃れてきた月界の嫦娥に見えてきた。彩虹の追手に取り囲まれて途方に暮れている姿の様に思えてきた。

その輪郭が次第に白く浮きあがる。あと一歩踏み出せば、せっかくの嫦娥が、あわれ俗界に堕落する。そんな事を考えた刹那、緑髪が波を切る霊亀の尾のごとく風を起してぶわっとなびいた。渦巻く煙を切り裂いて、白い姿が階段を飛び上がる。ホホホホと鋭く笑いう女の声が廊下から響いてきた。その声が向こうへ遠のくにつれ、次第に風呂場に静寂が戻ってくる。僕はがぶりと湯を呑むと湯槽の中に突っ立った。揺り返しの波が胸に当たる。縁を越す湯泉の音がさあさあと鳴る。

*頑張って現代日本語化を試みてみたが…本文の堅苦しさはその程度の事で収まる筈もなかった。

太宰治「美少女(1939年)」

*あらすじ。 妻に付き合って温泉に出かけた「私」は、混浴の浴場で湯治に来ているらしいある美少女を見かける…

私と対角線を為す湯槽の隅に、三人ひしとかたまって、しゃがんでいる。七十くらいの老爺、からだが黒くかたまっていて、顔もくしゃくしゃ縮小して奇怪である。同じ年恰好の老婆、小さく痩せていて胸が鎧扉のようにでこぼこしている。黄色い肌で、乳房がしぼんだ茶袋を思わせて、あわれである。老夫婦とも、人間の感じでない。きょろきょろして、穴にこもった狸のようである。

そのあいだに、孫娘でもあろうか、じいさんばあさんに守護されているみたいに、ひっそりしゃがんでいる。そいつが、素晴らしいのである。きたない貝殻に附着し、そのどすぐろい貝殻に守られている一粒の真珠である。私は、ものを横眼で見ることのできぬたちなので、そのひとを、まっすぐに眺めた。十六、七であろうか。十八、になっているかも知れない。全身が少し青く、けれども決して弱ってはいない。大柄の、ぴっちり張ったからだは、青い桃実を思わせた。お嫁に行けるような、ひとりまえのからだになった時、女は一ばん美しいと志賀直哉の随筆に在ったが、それを読んだとき、志賀氏もずいぶん思い切ったことを言うとヒヤリとした。けれども、いま眼のまえに少女の美しい裸体を、まじまじと見て、志賀氏のそんな言葉は、ちっともいやらしいものでは無く、純粋な観賞の対象としても、これは崇高なほど立派なものだと思った。


少女は、きつい顔をしていた。

一重瞼の三白眼で、眼尻がきりっと上っている。鼻は尋常で、唇は少し厚く、笑うと上唇がきゅっとまくれあがる。野性のものの感じである。髪は、うしろにたばねて、毛は少いほうの様である。ふたりの老人にさしはさまれて、無心らしく、しゃがんでいる。私が永いことそのからだを直視していても、平気である。老夫婦が、たからものにでも触るようにして、背中を撫なでたり、肩をとんとん叩いてやったりする。この少女は、どうやら病後のものらしい。けれども、決して痩せてはいない。清潔に皮膚が張り切っていて、女王のようである。老夫婦にからだをまかせて、ときどきひとりで薄く笑っている。白痴的なものをさえ私は感じた。すらと立ちあがったとき、私は思わず眼を見張った。息が、つまるような気がした。素晴らしく大きい少女である。五尺二寸もあるのではないかと思われた。見事なのである。コーヒー茶碗一ぱいになるくらいのゆたかな乳房、なめらかなおなか、ぴちっと固くしまった四肢、ちっとも恥じずに両手をぶらぶらさせて私の眼の前を通る。可愛いすきとおるほど白い小さい手であった。湯槽にはいったまま腕をのばし、水道のカランをひねって、備付けのアルミニウムのコップで水を幾杯も幾杯も飲んだ。

「おお、たくさん飲めや。」老婆は、皺の口をほころばせて笑い、うしろから少女を応援するようにして言うのである。「精出して飲まんと、元気にならんじゃ。」すると、もう一組の老夫婦も、そうだ、そうだ、という意味の合槌を打って、みんな笑い出し、だしぬけに指輪の老爺がくるりと私のほうを向いて

「あんたも、飲まんといかんじゃ。衰弱には、いっとうええ。」

と命令するように言ったので、私は瞬時へどもどした。私の胸は貧弱で、肋骨が醜く浮いて見えているので、やはり病後のものと思われたにちがいない。老爺のその命令には、大いに面くらったが、けれども、知らぬふりをしているのも失礼のように思われたから、私は、とにかくあいそ笑いを浮べて、それから立ち上った。ひやと寒く、ぶるっと震えた。少女は、私にアルミニウムのコップを、だまって渡した。

「や、ありがとう。」

小声で礼を言って、それを受け取り、少女の真似して湯槽にはいったまま腕をのばしカランをひねり、意味もわからずがぶがぶ飲んだ。塩からかった。鉱泉なのであろう。そんなに、たくさん飲むわけにも行かず、三杯やっとのことで飲んで、それから浮かぬ顔してコップをもとの場所にかえして、すぐにしゃがんで肩を沈めた。

「調子がええずら?」

指輪は、得意そうに言うのである。私は閉口であった。やはり浮かぬ顔して「ええ。」と答えて、ちょっとお辞儀した。

隣で湯船に浸かっている家内は、顔を伏せてくすくす笑っている。私は、それどころでないのである。胸中、戦戦兢兢たるものがあった。

*ちなみにこの太宰治「美少女」はKindle本化されて無料の部のトップクラスに君臨し続けている。それにつけても、何度読み返しても「まさかの時に志賀直哉 」。

 

19世紀後半のフランスでは「ヌードもエロも聖書や神話の逸話に擬したらOK(そうでなければ猥褻物として御用)」という理不尽な基準を巡って論争が重ねられ、それが近代絵画の出発点となりました。これが間違って伝わった日本では、一切美化してない肉体を描いたり、自分が振った女弟子の寝ていた布団の匂いをいつまでも嗅ぎ続ける男を描写して「この美しさが分からない人間は魂が死んでいる」と踏み絵に賭けるのが流行します。

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田山花袋 蒲団

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戦後社会派ミステリーを引っ提げて世を席巻した松本清張もこの系統の人で、上掲の様に他ジャンル粛清を徹底して行いましたから「最終的に圧勝を飾った」といっても良い最終戦果ではありました。政治的浪漫主義は必ず最後には「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される」というジレンマに行き着きます。その意味では松本清張もまた一人の政治的浪漫主義者であったのかもしれません。まぁ、そうなったらそうなったで突然「ごめん、この状況やっぱり間違ってるわ。誰やったの?」と言い出し、慌てて仕切り直しを図ったりし始めたりもしてるんですが。

「本格ミステリ冬の時代」はあったのか