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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ゲーテとバイロン卿が発表した吸血鬼譚

以下、おそらく歴史上最も古い「(自らを死体と認識する)吸血鬼が、相手を同じ死体に変えようとする」描写。「ロマン主義作品」でなく「ヴァイマル古典主義作品」…

ゲーテ「コリントの花嫁(The Bride of Corinth、1797年)」

http://www.vampires.com/wordpress/wp-content/uploads/2011/05/bride-e1306258870351.jpg

  • フーケ「ウンディーネ(Undine、1811年)」同様、ナポレオン戦争によって王権と教会の既存権威が動揺した時期の産物。まだまだ迂闊な事を書くと逮捕される危険があったせいか「紀元後1世紀~2世紀頃の実録に基づく」という体裁をとっている。
    *ちなみに同様の理由で「ウンディーネ」も「錬金術パラケルススの残した実録の忠実な再現」と銘打たれている。
    吸血鬼バラードとしての「コリントの花嫁」

    http://3.bp.blogspot.com/-th3gkMmWUSk/Tk3QD7q4E2I/AAAAAAAAAaw/eUjsz2Wbm0A/s1600/undine14_lost_in_danube.jpg

  • 物語の内容としてはキリスト教に改宗した母親の指図で修道院に押し込められ、退屈で苦痛に満ちた日々を送って早世した無名のヒロインが「冥界神ヴィーナスの恩寵/呪い」によって蘇り、たまたま実家に立ち寄った若者を合意の上で冥界への道連れとした後で母親に二人の遺体を火葬とする事を依頼するというもの。
    *背景に屍体姦を見て取る向きもある。
    冥界神ヴィーナス…イメージの源泉はおそらくワーグナーがオペラ化したタンホイザー伝説(1845年初演。なまじ「ヴィーナスの園」の園で官能を開発されてしまったが故に、改心しようとしてもキリスト教倫理の支配する人間世界に戻る夢が叶わなかった歌人の伝説)と同じ。おそらく妖精の隠れ里伝承がどこかで混ざっている。

    http://niki310.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_c2c/niki310/fa.Joseph20Noel20PatonTheReconciliat.jpg?c=a0

参照元サイトがとんでもない事になってるので要所を抜粋…

 http://www.ellinanderson.com/DieBrautVonKorinth.jpg

*突如暗闇から現れた少女にすっかり虜にされてしまった若者が声高らかに宣言する。

 「私はこの輝く情熱によって宣言します。
  婚姻の神ヒューメンは何時でも都合よく現れる。
  一緒に父の家に赴くのです。
  喜びが未だに飛び去っていない事を貴方は知る事でしょう。
  最愛の人よここにいて。
  遅れる事なく。
  私達は今や結婚披露宴を執り行うのです」

 誓いの言葉を取り交わし
 彼女は金の鎖を与えて彼に身につけさせた。
 それに応えて若者は銀の杯を
 美しい貴重な品のお返しに手渡そうとした。

 「それは妾に相応しくない。
  むしろ妾は汝に請う。
  その髪の一房を妾に与え給うと!!」

 今まさに真夜中の丑三つ時を告げる鐘が鳴る。
 彼女はその合図にとても喜んでいる様に見える。
 
 彼女がカップを青褪めた唇へと持ち上げる。
 口をつけるのは血の様に赤いワインだけ。
 
 彼は目の前に並べられたパンを味わう。
 彼女の耳許に心を傾けさせる言葉を注ぎ込む代わりに。
 
 遂に彼女が若者に酒杯を手渡しす。
 彼もまた熱意を込めてその喜びに満ちた大盃を一気に飲み干す。

 静かな饗宴の最後を飾る愛を彼は求めた。

 彼の願いに彼女は尻込みするも、
 その挙げ句、彼はベッドの上に沈む。
 そして身も心もなく泣き出したのだった。

 彼女は青年の近くに身を横たえる。
 「汝が嘆き悲しむと、我まで情けなくなってくる。
  もし汝が我を抱き締めようと思うなら、
  哀しい秘密を知らなければならないのだ」

 「その通り。今汝が最愛の人と呼び掛けているこの肉体は、
  もともと雪の様に白かったとはいえ氷の様に冷たい」

 それでも彼は彼女を狂おしく腕の中に抱き締める。
 その肉体に愛の若々しさを漲らせるべく。

 「大事なのは温まりたいという気持ちです。
  例え貴方が墓から抜け出した幽霊であっても!!
  息づく度に接吻を!!
  至上の喜びが溢れ出る!!
  貴方も私の様に情炎の炎を感じませんか?」

 愛は今や彼と彼女の唇を鋲で打ち留めた。
 二人が陶酔のあまり流した涙は祝福され、
 情炎の炎が全てを焼き清める。
 各々が相手への想いに支配される。
 
 迸る彼の熱い情熱は彼女の血を温める。
 彼女の胸の奥の心臓が
 二度と再び鼓動を刻まぬとしても。

 喜びと悲しみの声音。
 こんなに幼い愛の誓いでも、語られれば、
 愛と美の女神ヴェニスの神殿が二人に微笑みかける。
 愛は幸福に満ち溢れた狂乱。
 「墓から出て彷徨う様に妾は強いられた。
  長い間断たれてきた神々との絆を求め。
  得られなかった花婿の
  その心臓の生き血を飲み干すべく」

「婚姻の神ヒューメン(hymen)」…処女膜の語源となった男神で元は人間。ゲーテの「コリントの花嫁」でも「ヘイ、ヒューメン!! 婚姻の契約だ!!」みたいにタクシー感覚で呼び出されてるし、神というより使い魔とか召喚獣みたいな扱い。そもそも経歴が色々と怪しい。本当に純粋なギリシャ神話の神なの?

  • 伝説によればヒューメンは元々都市の美しいが財産も社会的地位もないアテナイの若者だったという。
  • やがて富裕層の娘と恋に落ちたが、そういう立場故にストーカーになるしかなく、彼女が女性しか参加出来ないエレウシス島(デメテルとコレーを祀る神殿があった事)での秘儀に赴く時も女装して一緒についていった。
  • ところが一行の乗る船が海賊に襲われる。ヒューメンは奸計を巡らせて海賊達をやっつけ、果敢に少女達を救い出すと全員が好きな恋人と結婚出来る様に手配してやった。
  • しかし当人は今度はアルテミス信者だったニンフのニカイア(Nicaea:河神Sangariusとフリギアの女神キュベレーの娘)に夢中となり、彼女を追っかけるうちに心臓を矢で射られてあっけなく死んでしまう。
  • その後アテナイは彼の名誉を賞する祝祭を制定し、その結果として婚姻の誓いに不可欠の神として崇拝される事になった。

    http://66.media.tumblr.com/da5c6b8166165b7506b44f0a5d76af30/tumblr_mlg19mtNMB1ruucjho1_500.jpg

「金の鎖」古代ギリシャ時代のミレトス(アナトリア半島西岸にあったギリシャ植民市)を舞台としたテオフィル・ゴーチエの手になる短編小説「金の鎖またはもやいの恋人」によると、当時の女性は全財産をその形で肌身離さず身につけているイメージがあったらしい。つまり「それを花婿に渡す=まず自分の全てを捧げる」という象徴的行為で、それ故に銀の杯のお返しを受け取れなかったのかも。ちなみに「イーリヤス」23巻におけるパトロクロスの葬儀会場での競技会の賞品としてにアキレウスが惜しみなく無造作に私財を投げ打つのも同様の行為と目される。

「髪の一房」…これも「イーリヤス」23巻におけるパトロクロスの葬儀場面で出てくる「切り取って埋葬者に捧げる一房の髭」を想起させる。
「パンとワイン」…当時のギリシャ人にとっては「パンをワインに浸して食べる」のが3食の基本。だからパンだけ食べたら喉が渇き、つい渡されたワインをがぶ飲みしてしまう。これに続く「濡れ場」の伏線?

どうやら「ロマン主義」と「古典主義」を分けるのは内容というより文体。という事は翻訳次第では違いが消えちゃう事も? 「狂詩人」ネルヴァルのゲーテファウスト」翻訳とか…

ochimusha01.hatenablog.com

疾風怒濤期からヴァイマル古典期にかけてのゲーテ

  • 書簡体小説「若きウェルテルの悩み(1774年9月自費出版)で若者を中心に熱狂的な読者を集めシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)期の期首の一人となったゲーテは,1775年11月にカール・アウグスト公からの招請を受け、その後永住することになるヴァイマルに移った。当初はゲーテ自身短い滞在のつもりでおり、招きを受けた際もなかなか迎えがこなかったためイタリアへ向かってしまい、その途上のハイデルベルクのデルフ宅でヴァイマルからの連絡を受けあわてて引き返したほどであった。
    *ちなみに有名な「野ばら(Heidenröslein)」は、1771年作で1799年出版。

  • 当時のヴァイマル公国は面積1900平方キロメートル、人口6000人程度の小国であり、農民と職人に支えられる貧相な中小国に過ぎなかった。本来アウグスト公の住居となるはずの城も火災で焼け落ちたまま廃墟となっており、ゲーテの住まいも公爵に拝領した質素な園亭であった。アウグスト公は当時まだ18歳で、父エルンスト・アウグスト2世は17年前に20歳の若さで死亡し、代りに皇太后アンナ・アマーリア(アウグスト公の母親)が政務を取り仕切っていた。彼女は国の復興に力を注ぎ、詩人ヴィーラントを息子アウグストの教育係として招いたほか多くの優れた人材を集めていた。

  • 当時26歳だったゲーテはアウグスト公から兄のように慕われ、彼と共に狩猟や乗馬、ダンスや演劇を楽しんだ。王妃からの信頼も厚く、また先輩詩人ヴィーラントを始め多くの理解者に囲まれ、次第にこの地に留まりたいという思いを強くしていった。到着から半年後、ゲーテは公国の閣僚となりこの地に留まることになったが、ゲーテをこの地にもっとも強く引き付けたのはシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人との恋愛であった。

  • ゲーテとシュタイン夫人との出会いは、ゲーテがヴァイマールに到着した数日後のことであった。彼女はヴァイマールの主馬頭の妻で、この時ゲーテよりも7つ上の33歳であり、すでに7人の子供がいた。しかしゲーテは彼女の調和的な美しさに惹かれ、彼女の元に熱心に通い、また多くの手紙を彼女に向けて書いた。すでに夫との仲が冷め切っていた夫人も青年ゲーテを暖かく迎え入れ、この恋愛はゲーテがイタリア旅行を行なうまで12年にも及んだ。この恋愛によってゲーテの無数の詩が生まれただけでなく、後年の『イフィゲーニエ』や『タッソー』など文学作品も彼女からの人格的な影響を受け、そうした流れがゲーテの文学をシュトルム・ウント・ドラングから古典主義へと向かわせていく事になる。

  • とはいえシュタイン夫人との恋愛が続いていた10年は同時にゲーテが政務に没頭した10年でもあり、この間は文学的には空白期間となった。1780年の31歳の時、フランクフルトのロッジにてフリーメイソンに入会。4年後に書かれた「秘密」という叙事詩にはフリーメイソンをモデルとした秘密結社を登場させている。ゲーテは着実にヴァイマル公国の政務を果たし,1782年には神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世により貴族に列せられヴァイマル公国の宰相となった(以後、姓に貴族を表す「フォン」が付き、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」と呼ばれるようになる)。政治家としてのゲーテヴァイマル公国の産業の振興を図るとともに、イェーナ大学の人事を担当してシラー、フィヒテシェリングら当時の知識人を多数招聘し、ヴァイマル劇場の総監督としてシェイクスピアカルデロンらの戯曲を上演し、文教政策に力を注いだ。
  • 1786年になるとゲーテはアウグスト公に無期限の休暇を願い出、9月にイタリアへ旅立つ。もともとゲーテの父がイタリア贔屓であったこともあり、ゲーテにとってイタリアはかねてからの憧れの地であった。出発時ゲーテはアウグスト公にもシュタイン夫人にも行き先を告げておらず、イタリアに入ってからも名前や身分を偽って行動していた。出発時にイタリア行きを知っていたのは召使のフィリップ・ザイテルただ一人で、この事が帰国後シュタイン夫人との仲が断絶する原因となった。

  • ゲーテはまずローマに宿を取り、その後ナポリシチリア島を訪れるなどし、結局2年もの間イタリアに滞在していた。ゲーテはイタリア人の着物を着、イタリア語を流暢に操りこの地の芸術家と交流した。その間に友人の画家ティシュバインの案内で美術品を見に各地を訪れ、特に古代の美術品を熱心に鑑賞した。午前中はしばらく滞っていた文学活動に精を出し,1787年1月には『イフィゲーニエ』をこの地で完成させ、さらに『タッソー』『ファウスト断片』を書き進めている。また旅行中に読んだベンヴェヌート・チェッリーニの自伝を帰国後にドイツ語に訳しており、さらに30年後にはイタリア滞在中の日記や書簡をもとに『イタリア紀行(英語版)』が書かれている。

  • 1788年にイタリア旅行から帰ったゲーテは芸術に対する思いを新たにしており、宮廷の人々との間に距離を感じるようになった。ゲーテはしばらく公務から外れたが、イタリア旅行中より刊行が始まった著作集は売れ行きが伸びず、ゲーテを失望させることになる。なお帰国してから2年後の1790年に2度目のイタリア旅行を行なっているが、1回目とは逆に幻滅を感じ数ヶ月で帰国する事となった。
  • ところで最初のイタリア旅行から戻った直後の1788年7月、ゲーテのもとにクリスティアーネ・ヴルピウスという23歳になる女性が訪れ、イェーナ大学を出ていた兄の就職の世話を頼んでいる。彼女を見初めたゲーテは素早く恋人にしてしまい、後に自身の住居に引き取って内縁の妻とした。帰国後まもなく書かれた連詩『ローマ哀歌』も彼女への恋心をもとに書かれたものである。しかし身分違いの恋愛は社交界の憤激の的となり、シュタイン夫人との決裂を決定的にしてしまった。1789年には彼女との間に長男アウグストも生まれているが、ゲーテは1806年まで彼女と籍を入れなかった。なおゲーテとクリスティアーネの間にはその後4人の子供が生まれたがいずれも早くに亡くなり、長じたのはアウグスト一人である。

  • 間もなくフランス革命が始まり1792年7月にフランスがドイツに宣戦布告すると、プロイセン王国の甲騎兵連隊長であったアウグスト公に連れ立ってゲーテも従軍し、ヴァルミーの戦いに参加した。この時勝利に際して「ここから、そしてこの日から、世界史の新たな時代が始まる。(Von hier und heute geht eine neue Epoche der Weltgeschichte aus、 und ihr könnt sagen、 ihr seid dabei gewesen.) 」との言葉を残した。翌年5月にもフランスに占領されたマインツの包囲軍に参加しているが、ゲーテ自身が革命の自由の精神を評価したのはあくまで最初期だけで、革命がその後辿った無政府状態に対しては嫌悪感しか感じていなかったという。
    *英国においては、当初はフランス革命を熱狂的に支持したウィリアム・ワーズワースが1790年にフランスに渡ったものの内ゲバに明け暮れる現実を目の当たりにして帰国。今度は原始共産主義的理念に基づく理想郷をアメリカのサスケハナに建築する計画を立案するも、こちらも挫折。遂には「人間の精神的解放は文学の領域において内商的な形で行うべき」という結論に達して、最終的にはロマン派詩人として名前を残した。

  • ところでゲーテ同様にドイツ文学史におけるシュトゥルム・ウント・ドラングヴァイマル古典主義(「ドイツ古典主義」「擬古典主義」などとも)を代表する作家と並び称されるとシラーだが、出合った当初はお互いの誤解もあって打ち解けた仲ではなかった。ゲーテは1788年にシラーをイェーナ大学の歴史学教授として招聘しているが、その後1791年にシラーが『群盗』を発表すると、すでに古典の調和的な美へと向かっていたゲーテは『群盗』の奔放さに反感を持ち、10歳年下のシラーに対して意識的に距離を置くようになる。シラーのほうもゲーテの冷たい態度を感じ、一時はゲーテに対し反感を持っていた。しかしその後1794年のイェーナにおける植物学会で言葉を交わすとゲーテはシラーが自身の考えに近づいていることを感じ、以後急速に距離を縮めていった。この年の6月13日にはシラーが主宰する「ホーレン」への寄稿を行っており,1796年には詩集「クセーニエン(Xenien)」を共同制作し、2行連詩形式(エピグラム)によって当時の文壇を辛辣に批評した。こうして互いに友情を深めるに連れ、2人はドイツ文学における古典主義時代を確立していくことになるのである。自然科学研究にのめりこんでいたこの頃のゲーテを励まして「あなたの本領は詩の世界にあるのです」といってその興味を詩作へと向けさせたのもシラーであった。かくしてゲーテはシラーからの叱咤激励を受けつつ,1796年に教養小説の傑作「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」を、翌年にはドイツの庶民層に広く読まれることになる叙事詩「ヘルマンとドロテーア」を完成させ、シラーがヴァイマルへ移住してきた1799年以降、二人の交流はますます深まっていく。シラーは1805年5月9日に肺病のため若くして死去するが、その直前までゲーテはシラーに対して文学的助言を求める手紙を送付し続けた。周囲の人々もシラーの死が与える精神的衝撃を憂慮し、ゲーテになかなかシラーの訃報を伝えられなかったという。

  • 実際にシラーの死を知ったゲーテは「自分の存在の半分を失った」と嘆き病に伏せっている。一般にドイツ文学史における古典主義時代は、ゲーテのイタリア旅行(1786年)に始まり、このシラーの死を持って終わるとされている。

ちなみに1817年に30年前のイタリア旅行を回想しつつ書いた『イタリア紀行』を刊行して以降、ゲーテは「文学は世界的視野を持つべき」と考える様になりエマーソンなど多くの国外の作家から訪問を受け、バイロンに詩を送り、ユーゴースタンダールなどのフランス文学を読むなどしたほか、オリエントの文学に興味を持ってコーランやハーフェズの詩を愛読しました。そしてハーフェズに憧れてみずから執筆した詩が『西東詩集』(1819年)との事。
*しかし時代はまさしくビーダーマイヤー期(Biedermeier、1815年〜1848年)。軽薄なものしか受けず、ゲーテの人気も地に落ちましたが、皮肉にも当時は歌謡曲の全盛期でもあり、1810年代にはシューベルトタナトス(Thanatos=死への誘惑)にとりつかれたかの様に「野ばら(Heidenröslein、1815年)」「魔王(Erlkönig、 1815年頃)」「死と乙女(Der Tod und das Mädchen、 1817年)」「ます(Die Forelle、1816年〜1821年)」を連続して発表。「作詞家」として面目を保つ形に。

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何故かこちらは「ドイツ・ロマン主義」に分類されてたりするんですね。案外いい加減です。ちなみに吸血鬼譚に関してはバイロン卿(George Gordon Byron, 6th Baron Byron, 1788年〜1824年)が残した物語詩「不信心者(The Giaour、1813年)」なんて問題作もありますね。

byron.seesaa.net

  • 全体としてはキリスト教者と姦通した女奴隷レイラが厳格な回教徒ハッサンの手により海中に投げ込まれ、その愛人だった若いヴェネツィア不信者が復讐を遂げる異国情緒あふれる物語。分類上は英国ロマン主義文学?

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c8/Eug%C3%A8ne_Ferdinand_Victor_Delacroix_021.jpg

  • 舞台はイオニア七島(ケルキラ島、パクシ島、レフカダ島イタキ島ケファロニア島ザキントス島、ストロファデス島)。ヴェネツィア共和国の所有下にあった時代(1386年〜1797年)が終わり、かろうじてロシア人も、モレアを略奪するアルバニア人も撃退された頃。つまり英国統治時代以前という設定?
    ロシア人…事実上オスマン帝国ロシア帝国の共同統治だったイオニア七島連邦国時代(1800年〜1807年)の事か。当時はロシア軍が現地に常駐していた。
    アルバニアイオニアアルバニアを中心に勢力を誇った地方豪族テペデレンリ・アリー・パシャ(1750年?〜1822年)の事か。オスマン帝国からは半ば独立状態であったがフランスやイギリスと独自外交を行った為に反感を買い、1822年オスマン軍の攻撃により殺害された。その過酷な支配から『イオアニアのライオン』と呼ばれていたという。
    英国統治時代…1809年から1810年、1814年から1864年にかけて。以降はギリシャ領となる。

    http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/map/greece/image/Map_of_Ionian_Islands_region_340x360.gif

  • 途中で「不信者の烙印を押された者は自らの子孫を滅ぼし続ける」という伝承が紹介される。おそらく現地でバイロン卿当人が仕入れた話だが、当人が本国で「不信者」扱いだった事からポリドリ「吸血鬼(The Vampire 1819年)」出版以降「バイロン卿=吸血鬼」説が広まる羽目に。

    http://www.freeaudiobooksonline.org/wp-content/uploads/2015/07/The-Vampyre1.jpg

 死んだハツサンは横はつてゐる――開けたままの眼は
 まだ怒氣を含んで敵を睨むでゐるさまはさながら、
 彼の運命を定めた時が過ぎたあとまで
 消すことの出來ない憎惡を殘してゐるやうだつた。
 そして死躰を屈み腰にみてゐるその敵の額は
 血まみれて死んでゐる人の額と同じやうに怖ろしかつた。――

「さうだ、レイラは浪の下に眠つてゐるのだ。
 が、彼奴の墓はもつと赤いものにしてやるのだ。
 レイラの精神が刄先を充分に尖らせて、
 あの殘忍な心に思ひ知らせたのだ。
 彼奴はまほめつとに呼びかけたが、まほめつとの力は
 復讐に燃える不信者には効目はなかつた。
 彼奴は神《あら》の助けを求めた、だがその言葉は
 神には聞えなかつたし、注意もされなかつたのだ。
 愚昧な回教徒め、貴樣《きさま》の祈祷が神意に適つて
 レイラの祈祷が容れられない筈があるものか。
 時機の來るのを私は見守つてゐた、此度は彼奴の番だ。
 彼奴を捕へる爲に私は山賊と結托したのだ。
 憤怒は晴れた、やつつけて了つたのだ。
 ではもう私は出掛けるが、獨りぼつちで行くのだ。

 山を降りて來た韃靼人は門で馬を下りたが、
 疲れきつてゐて、立つてはゐられないやうだつた。
 黝ずんだ彼の顏が苦惱を語つてゐた。
 だがそれは疲勞の爲めかも知れなかつた。
 彼の衣服に斑々と血の汚點がついてゐたが、
 その血は馬の腹からの血であるかも知れなかつた。
 彼の肌衣から取り出した記念の品品──
 や、や、これは! ハツサンの割られた兜のはちまん座、
 裂れた土耳古帽と血染めの肌衣《かふたん》だつた。
 「奧方、怖ろしい花嫁を主公は迎えられたのです。
 敵の慈悲《なさけ》で私は助けられたのではありませぬ。
 血に染まつた抵當《かたみ》物を携えて來る爲めなのです。
 血をこぼされた勇者に平和がありますように、
 血をこぼした不信者に禍がありますように」


 極めて粗末な石に土耳古帽が刻まれて、
 故人を追悼する古蘭の詩句も
 今は殆んど讀まれなくなつてゐる
 雜草の生ひ茂つた一柱の墓石は
 あの淋しい谿の犧牲者の一人として
 ハツサンが戰ひ死んだ場所を指し示してゐる。
 めっかに跪き禮をした回教徒
 禁ぜられた葡萄酒を口にしなかつた回教徒
 あら、ひゆうといふ嚴肅な聲を聽いて、
 更に新しく唱へ始める祈祷の時
 かの靈廟の方に顏を向けて祈つた回教徒の
 誰にも勝つて誠實な回教徒がそこに眠つてゐるのだ。
 でも彼の故國にあつては知る人もない
 一人の他國人の手にかかつて死んだのだ。
 だが、彼は武器を手にして戰ひ死んでその恨みは
 少くも相手を殺して、晴らしてはもらへないのだ。
 でも極樂の美女達はその部屋部屋で、
 彼が行くのを待ちあぐんでゐるのだし、
 その女菩薩達の美しい黒い眼は
 いつも輝いて彼を迎へ見るだらう。
 その極樂の麗人達が來る──緑色の頭巾を振ながら
 それそれに勇者を迎へて接唇を一つ與へるのだ。
 不信者を敵として戰死する勇者こそ
 極樂の女部屋に入る最適人者なのだ。

 因果を思ひ知らせる、地獄の鬼の大鎌に刈られて
 間違つた不信者はのたうたなければならないのだ。
 その鎌の呵責を脱れて淋びしく獨り
 閻魔の王座のあたりをうろつかなければならないのだ。
 いつも燃え熾つて、消すことの出來ない地獄の劫火に
 お前の心は迫められ、燒かれて居なければならないものだ。
 内心の地獄の拷問呵責はとても
 聽くにも耐えず語ることも出來ないものだ。
 だが、先づ最初に吸血鬼として送られ
 お前の死骸は墓から割き離されねばならないのだ。
 それからお前の故郷に氣味の惡るい出沒をして
 妻子眷族の血を吸はなければならないのだ。
 お前の娘の、お前の妹の、お前の妻の
 生命の流れを眞夜中に吸ひ干さなければならないのだ。
 是が非でも生きてるお前の青ざめた死骸に
 食べさせる馳走に嫌な思ひをしなければならないのだ。
 お前の爲に死ぬものがまだ息のあるうちに
 その惡鬼が自分達の父《おや》だと知るだらう。
 呪ひつ呪はれつ瀆神の言葉を取り交はしながら
 お前の家族の美しい花は、いづれも立ち枯れに枯れるのだ。
 だがお前の犯す罪惡の爲めに、死なねばならないものの一人、
 わけてももつとも年の少ない、もつとも可愛い娘がお前を
 父と呼んでお前を祝福するだらう──
 その言葉が、お前の心を火炎に包むだらう。
 でもお前は爲事を遂げて、娘の頬の最後《なごり》の色を
 娘の眼の最後《なごり》の閃らめきを、目に止めねばならないのだし、
 生命を失つた碧《あを》色を冷え冷えと包む、
 とろりとした最後の眼つきを、見なければならないのだ。
 それから、その金色の頭髮の捲き毛を
 穢れたお前の手で毟らなければならないのだ。
 その髮の一房を生あるうちに剪むだなら、
 深い愛情の抵當として身につけられゐるものを、
 今はお前の苦悶の記念物にお前は持つていつてしまふのだ。
 お前の血を分けた一番可愛いものの血で濡れてお前の
 齒ぎしる齒から、凄じい唇から、血が滴り落るだらう。
 それからこつそり、陰氣なお前の墓へ歩いて行つて──
 惡鬼羅刹と一緒になつて、亂舞するのだが、
 惡鬼だつて羅刹だつて、もつともつと罰當りの
 幽靈《おばけ》に避易して逃げてしまふだらう。

そういえばゴーティエ 「死霊の恋(La Morte Amoureuse、1836年)」も吸血鬼譚で、こちらはフランス風俗小説の伝統に従って「元高級遊女(クルチザンヌ)の女吸血鬼に魅入られた若き聖職者が毎夜夢の中でヴェネツィアを舞台に放蕩の限りを尽くす」という展開になります。まぁゲーテバイロン卿もイタリアは大好きで何度も旅行してますけど…

ゴーチェ Theophile Gautier 岡本綺堂訳 世界怪談名作集 クラリモンド

https://frankzumbach.files.wordpress.com/2012/03/la-morte-amoureuse-crop-300x229.jpg

ochimusha01.hatenablog.com

 さらには、この「英国領イオニア諸島」において1850年レフカダ島在住の英国軍医でアイルランド人のチャールス・ブッシュ・ハーンとキティラ島出身のギリシャ人ローザ・カシマティの間に生まれたのがパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn) こと小泉八雲1850年〜1904年)だったという次第…
*むしろ本場の土俗的な「吸血鬼」はロマン主義タナトス(Thanatos=死への誘惑)と無縁で普通に子育てとかもしちゃうという堂々巡り?

小泉八雲 田部隆次訳 雪女 YUKI-ONNA

https://hyakumonogatari.files.wordpress.com/2013/12/mizuki_shigeru_yuki_onna.png

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そもそも18世紀に入ると吸血鬼譚が欧州に広まったのは神聖ローマ帝国オスマン帝国を圧倒する様になって東欧領土の奪還が進んだから。それがさらに英国やフランスにまで広がったのは「ギリシャ奪還運動」に巻き込まれたから?

ochimusha01.hatenablog.com

 そう考えると第一次世界大戦とか現在のEUの苦境とかとの思わぬ関係が浮かび上がってきますね。遂に吸血鬼がロンドンに現れるブラム・ストーカー「ドラキュラ(Dracula、1897年)」が発表された時期は国際的なフロンティア消滅期と重なるという指摘もありますし。