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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【年表】米国初の女性大統領はポカホンタスの末裔?

ディズニー長編アニメ初の「二股掛けヒロイン」にして、なぜかギブソン・ガール(Gibson girl)体型のポカホンタス(Pocahontas)…https://66.media.tumblr.com/15f4c63ec2f6d16515339160fb0a380b/tumblr_oawj9uCHpa1szij3so3_500.gif

ギブソン・ガール(Gibson girl)…19世紀末から20世紀初頭にかけて米国で流行した男にとって都合の良い理想の女性の具現像。女性として自立してはいるが政治には関わらず、権利を主張して男性の役割を奪うこともない「新しい女」。間違いなくバービー人形体型の起源で、実際マテルも「Gibson Girl Barbie」なんてそのものズバリのシリーズまで発売している。

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 米国進歩主義(Progressivism in the United States)の歴史上、こういうのってどういう位置付けになってるんでしょうか? 何せポカホンタス(Pocahontas)の末裔といえば…
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ポカホンタスの子孫

ヴァリナ農場で生まれたポカホンタスの唯一の息子トマス・ロルフは一人娘ジェーンを残した。ジェーンはロバート・ボーリング大佐と結婚し一人息子ジョン・ボーリングを生んだ。彼の子供たちは「赤い(赤膚の)ボーリング一族 (Red Bollings)」と呼ばれ、ポカホンタスとポウハタン酋長およびヴァージニア最初の入植者に遡ることのできる全米屈指の名家となっている。

ポカホンタスの直系の子孫であるスーザン・ドネル著作『ポカホンタス』(竹書房文庫、池田真紀子訳)は日本でも出版されている。 

 そもそもアメリカにとって近代とは何だったのでしょうか?

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欧州の大半の大国と異なり「国王や教会の権威に裏打ちされた領主が領地と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」なんて打破しなくても勝手に産業革命が始まります。

ただし、奴隷制農業に依存する南部と、これから産業的に発展したい北部の思惑が衝突。それで南北戦争(American Civil War, 1861年〜1865年)が勃発して、北軍が勝利して、単一経済圏としての再出発となる訳です。言うなれば、日本でいうところの戊辰戦争(1868年〜1869年)や西南戦争(1877年)。つまり「国家のグランドデザインを巡る戦い」。

そして…

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1865年、南北戦争終結すると、アメリカは大きな構造変化の時代を迎えた。北部諸州を中心に農業社会から産業社会へと変化し大都市周辺には工業地帯が登場、鉄道が敷設され物流が活発になるとともに人々は西へ西へと開拓の歩を進めた。またそのような経済の急成長に惹かれて世界中から移民がアメリカへと渡り、爆発的に人口が増えていった。

反面、高い関税率と自由放任主義の元で巨大な独占企業が次々と生まれ、資本家と政治家の癒着が強まり、移民として渡ってきた人々の大多数は過酷な低賃金労働に喘ぎ貧富の差は拡大、また解放されたとはいえ黒人や女性、マイノリティへの差別も依然として根強く、転換期に見られる混乱と不安が人々の生活に影を落としていた。この浮ついた時代を作家マーク・トゥエインは「金ぴか時代」と呼んだ。

アメリカ合衆国の金鍍金時代(Gilded Age、1865年〜1893年)

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1865年の南北戦争終結から1873年に始まった大不況中の1893年恐慌までの28年間を指す。資本主義が急速に発展をとげる一方で拝金主義に染まった成金趣味が横行。シャーマン銀購入法の挫折により銀本位制が凋落し、アメリカに金本位制が定着した時代でもある。

  • 南北戦争後、アメリカ合衆国は北部を中心とする一つの大きな国民経済のまとまりが確保された。1869年、オマハサクラメントを結ぶ最初の大陸横断鉄道が開通し、ヨーロッパからさらに多数の移民をひきつけた。こうした資本主義の急速な成長の下、鉄鋼王アンドリュー・カーネギースコットランド出身)、石油王ジョン・ロックフェラー、銀行家ジョン・モルガン、鉱山王グッゲンハイムの父マイアー・グッゲンハイム(スイス出身のユダヤ系ドイツ人)など名立たる富豪が輩出した。
    *「叩き上げ(Selfmade-man)」が当時の流行語だった。「アメリカ=無一文で渡米した学歴もコネもない移民が成功できる場所」という共同幻想が当時の高度成長の推進力だったのである。

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  • しかし政治は腐敗し、国家の庇護を受けた資本家はさらに富を蓄え、下層の人々が貧困に喘いだ時代でもあった。
    *しかもスペンサー流の社会進化論が横行し「自然淘汰」を重視するあまり弱者や敗者への救済措置を政府も企業も拒絶した続けたせいで、幾度となく全国規模の暴動が起こりかけた。皮肉にもその過程で「ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)の理念」の形骸化が決定的となったとも。
    【世界史の窓】ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)

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「金鍍金時代」は、浮付いた好況と拝金主義を皮肉り、こうした経済の急成長と共に現れた政治経済の腐敗や不正を批判してトウェインが命名した時代名称が元となっている。

 アンドリュー・ジョンソン大統領(Andrew Johnson, 任期1865年〜1869年)時代

1864年に国民統一党の副大統領候補に指名され、リンカーン大統領候補と共に1864年11月に選挙に勝利。1865年3月4日に副大統領に就任した。1865年4月15日にリンカーンが暗殺されると、大統領職を継いで南北戦争後の4年間、連邦政府による南部再建(Reconstruction)を統括。

  • 共和党選出ではあったものの元来は民主党出身で南部人だったため、南部の白人に特赦を与えるなど南部白人(White South)に対し好意的かつ寛大にふるまった。南部の旧指導者らは政治活動を再開し、かつての「奴隷取締り法」に代わって「黒人取締り法(Black Codes)」を制定するなど、従来の支配体制は維持された。
    【世界史の窓】黒人取締法
    共和党内では北部出身の奴隷制反対論者が圧倒的多数派で黒人解放・奴隷制廃止の方向に動いたが、ジョンソンは奴隷制廃止を唱える議会と対立。拒否権を29回も行使している。
  • これに対して「何のための南北戦争だったのか」と北部の世論が激昂、とくに共和党急進派のタデウス・スティーブンスらとウマが合わず対立。ついには大統領の弾劾裁判が行われ、ジョンソンは1票差で無罪となったものの、その影響力を完全に失った。
    *当時、南部白人は根深い差別心からクー・クラックス・クラン(KKK)などによるテロ活動をさかんにおこなった。

ジョンソンは1998年12月19日にビル・クリントンが弾劾訴追で弾劾裁判にかけられるまで、唯一弾劾裁判にかけられた大統領だった(ウォーターゲート事件で追い詰められたリチャード・ニクソンは、弾劾訴追をうけると、弾劾裁判前に辞職)。

グラント大統領(英: Ulysses S. Grant、任期1869年〜1877年)時代

南北戦争時の北軍の名将として知られ、1868年5月のシカゴでの共和党全国大会で満場一致で大統領候補に選ばれ、大統領選でも大勝した。しかし、大統領としてのかれは、汚職とスキャンダルに常に悩まされた。
*まさに彼の任期中に大不況時代(1873年〜1896年)が始まり欧州各国は関税障壁によって自国経済を守ろうとした。一方、米国共和党はそれ以前から高関税主義を貫いてきた。 

  • 特に連邦政府の税金から300万ドル以上が不正に収得したとされるウイスキー汚職事件が有名である。個人補佐官オービル・E・バブコックは不正行為に関与したとして起訴され、大統領の恩赦によって有罪判決を回避した。この事件ののち陸軍省長官ウィリアム・E・ベルナップがアメリカインディアンとの販売・取引ポストと交換に賄賂を受けとったことが調査の結果明らかとなった。グラント自身が部下の不正行為から利益を得た証拠はないが、彼は犯罪者に対する厳しい姿勢をとらず、彼らの有罪が確定した後さえ、強く反応しなかった。

  • 無能で腐敗したグラント政権の間に共和党の人気は落ち、共和党民主党と妥協(連邦軍の南部撤退、南部人の閣僚入り、南部の鉄道に北部資本を導入)するまでにいたった。南部民主党の新しい指導者らは戦前とは違って北部共和党に近い考え方をもち、結局、北部と南部の白人は黒人の犠牲において和解することになった。人種問題に関しては、政府は関知せずという自由放任の方針がとられた。解放後の黒人には土地とラバが与えられるという期待が広まっていたが、無一文で放り出された多数の元奴隷らはプランテーションを去って放浪するか、南部にとどまってプランテーションの農業労働者か小作人になるよりほかに道がなかった。

  • インディアン政策に関しては熱心な保留地政策支持者であり、どちらかといえば和平主義者であったが、保留地囲い込みに従わない部族は絶滅させる姿勢を貫いた。1860年代後半から、知人であったインディアン(イロコイ族)出身のエリー・サミュエル・パーカー(本名ドネホガワ)をインディアン総務局長に任命し、保留地監督官にさまざまな宗教団体から推薦された者を任命する政策を実行。クェーカー教徒の志願者が多かったため、「クェーカー政策」「平和政策」と呼ばれたが、キリスト教の押し付けもインディアン部族にとっては余計なお世話であり、対立は解消されなかった。この和平案から「戦争の諸原因を除去し、辺境での定着と鉄道建設を確保し、インディアン諸部族を開化させるための体系を作り上げる」べく「和平委員会」が設立されることになり、インディアン諸部族と数々の条約を武力を背景に無理矢理結んでいったが、すぐに白人側によって破られていく。その現実を前にしてグラントが夢想したような和平などは実現しないと悟った。また、西部インディアン部族の最大反抗勢力であるスー族に対し、雪深い真冬に保留地への全部族員移動を命じて反感を増大させ、戦乱のきっかけを作ったりもしている。
    *スー族(Sioux)アメリカ合衆国北部中西部に先住するインディアン部族、ダコタ族、ラコタ族、およびナコタ族の総称。略奪民のスー族に食い物にされていたアルゴンキン語族のオジブワ族が彼らのことを「ナドウェズ・スー(Nadouessioux)」、つまり「小さな(siu)蛇(nadowe)」と呼んだものを、17世紀末ごろにフランス人入植者が「スー族」と縮めて呼んだものである。蔑称であるが、インディアンは部族同士を蔑称で呼び合う伝統文化を持っているので、これは特別な例ではない。(「オジブワ」も蔑称との説がある)。ちなみにイロコイ族は「ナドワ(毒蛇)」と呼ばれていた。アメリカ連邦政府との連邦条約交渉などもすべて「スー」の呼称で行われており、現在も公式の部族名として使われている。

    *17~18世紀にかけ、半農半猟生活を送るイロコイ族(Iroquois Confederacy(イロコイ連邦)またはHaudenosaunee(ロングハウスを建てる人々))が南方から北東部へ勢力を移すに従い、オジブワ族との対立及び白人(スー族の言葉では「ワシチュー」)の侵入が激化。この影響で徐々に西方の平原地帯へと追いやられ、平原部族へと変わった。彼らの神話では、そのときに「コーンを無くした」と表現され、農業不可能な平原でコーン(トウモロコシ)栽培の生活を捨て、完全な狩猟民族に変わらざるを得なかった歴史を伝えている。スー族の支族のひとつ「ミネコンジュー」は、「ミネ(水)・コーン(トウモロコシ)・ジュー(植えるもの)」、つまり「水辺でコーンを植えるもの」という意味で、かつての暮らしを表した名である。ちなみにアメリカの独立戦争に際して英国側に与して戦い1779年に破れたイロコイ族そのものは1794年に平和友好条約を締結して以降、アメリカ合衆国連邦政府と良好な関係を築いてきたばかりか、その実用的合議制が米国連邦制に多大な影響を与えてきたとも。

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    *18世紀にスペインから馬が大平原にもたらされると、スー族はいち早くこれを採り入れ、ホース・インディアンとなった。家財道具を載せたトラボイ(Travois)を引く役割は犬(シュンカ)から馬に代わり、馬はバッファロー狩りの規模を広げ、部族の力を強大なものにした。スー族は馬を「シュンカ・ワカン(神秘なる犬)」と呼んだ。馬は犬の何頭分もの力を持っていたのである。そして馬を使って大平原で略奪を行い、また他の平原部族と、栄誉あるスポーツとして「馬の盗みあい」を繰り返した。馬は個人・部族の勢力を表すものとなり、貨幣のない社会で実質的に貨幣となった。かれらは先の湾曲した「クー・スティック」で敵方の身体を打つ(フランス語で「クー、coup」)という、クー遊びを最大の娯楽とした。クーは戦士にとって無上の栄誉とされ、一叩き毎にその戦士の「羽根冠」に鷲の羽根が追加された。

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    *シャイアン族、アラパホー族などの平原部族と同盟を結び、オジブワ族、アリカラ族、クロウ族、ポーニー族などとは敵対した。後三者はインディアン戦争(Indian Wars、1622年〜1890年)においてアメリカ陸軍に「インディアン斥候(Indian Scouts)」として加わり、敵対するスー族と戦った。ただしスー族を始め平原の部族が、他部族と行う「戦さ」は、上記したように「クー」を数えるのが主眼であって、白人の小説や映画で強調されるような血みどろの殺し合いはめったになかった。歴史作家のラリー・マクマートリーはこれを譬えて、ニューギニア原住民が行う「昼間行い、夕食前には家に帰る、娯楽としての戦争」と同じものだとしている。

    *19世紀も末になると、他のインディアン部族と同様に、白人による保留地政策によって、狩猟採集生活は禁止され、保留地(Reservation)内での定住生活を強制される。こうして狩猟民族としての文化の数々が破壊される事に。

大統領職任期終了後に二年間の世界旅行に出発。1879年6月には国賓として日本を訪れている。アメリカ合衆国大統領経験者で訪日を果たした初の人物となった。浜離宮明治天皇と会見し、増上寺に松を、上野公園に檜を植樹した。また日光東照宮を訪問した際には、天皇しか渡ることを許されなかった橋を特別に渡ることを許されたものの、これを恐れ多いと固辞したことで高い評価を受けることとなった。
*またこの大統領は「琉球処分問題」にも顔を出す。清国に派遣された琉球王国密使の中には、現地官僚から「とりあえず蜂起して二千人から三千人くらい死ね。そうしたら我が国が武力で併合する名目が立つ。名案だろ?」と命じられ、絶望のあまり自殺した人物もいたという。

ラザフォード・ヘイズ大統領(Rutherford Birchard Hayes, 任期1877年〜1881年

ホワイトハウスで就任の宣誓をした初の大統領。連邦政府による南部再建(Reconstruction)を終わらせ、第二次産業革命初期のアメリカ合衆国を率いた。能力主義の政府、人種に関係ない平等な待遇、および教育による改良を信じていた。

  • アメリカの歴史の中でも最も議論を呼んだ大統領選挙の一つ「1876年アメリカ合衆国大統領選挙(United States presidential election, 1876)」で当選。ニューヨーク州出身のサミュエル・ティルデンが一般選挙でラザフォード・ヘイズを破り、選挙人投票でも184票を獲得してヘイズの165票を上回ったが、まだ集計されていない票が20票あってこの20票が論争となる。3つの州(フロリダ州ルイジアナ州およびサウスカロライナ州)で、それぞれの党がその候補の勝利を報告し、またオレゴン州の選挙人1人は違法(「選挙されたかあるいは指名されたか」という根拠で)と宣言され交代させられた。これらの票は激しい選挙人の議論の後で最終的にヘイズの得票とされた。

  • 多くの歴史家達はある非公式の取り引きが論争を収めるために使われたと信じている。南部がヘイズの当選を黙認する代わりに、共和党は南部から連邦軍が引き上げることに同意し南部再建時代(1865年〜1877年)を実質的に終わらせたという事である(1877年の妥協)。この妥協でアフリカ系アメリカ人は実質的に政府の権力から排除された。妥協から間もなく、アフリカ系アメリカ人人頭税や祖父条項によって投票権を奪われるのである。

  • 当時財務長官に就任したシャーマンは、正貨支払いの再開と国庫借入金の返済という、2つの大きな課題に取り組んだ。1878年連邦議会において銀貨鋳造の要求が強まると大統領の反対を押し切ってブランド・アリソン法を可決。この法律は、財務省が毎月200万ドルから400万ドルの銀を購入し、それを銀貨として鋳造することを定めた。さらにこの銀ドルを法定通貨として、財務省に預託。財務省は銀ドルの預託に対して10ドルを下回らない額面の銀証券を発行することが義務づけられた。グリーンバックス(南北戦争時代の1862年から1863年にかけて合衆国政府が臨時の戦費調達手段として発行した政府紙幣の通称。裏面が緑色であったのでこう呼ばれた。発行総額は3回にわたり4億5000万ドル。これが最終的に北部連合を勝利に導いたとも)を支持する勢力に便乗して銀本位制の復権をねらったこの法律により、12年後のシャーマン銀購入法まで毎年2500から3000万ドル分の銀ドルが鋳造された。一方金本位制を主張するシャーマンは銀購入とは無関係に金の備蓄を開始。そして銀本位制を主張する議会勢力と対立し、その争いはシャーマンが退任するまで継続した。
    *アメリカでは東洋特に中国との貿易を発展させるため1873年より従来の1ドル銀貨の量目412.5グレーン(26.73グラム)から420グレーン(27.22グラム)に増量したTrade Dollarが発行された。これらはフィラデルフィアカーソンシティ、およびサンフランシスコの造幣局で製造された。 アメリカは新たに発見されたネバダ鉱山の産銀の販路を開拓し、貿易商らが量目、銀品位(903)ともにやや高く当時世界の貿易市場において支配的であったメキシコ銀貨に付加したプレミアムを解消する目的もあった。

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    *現存する多くの貿易銀にはチョップと呼ばれる刻印が見受けられるが、これは中国商人が銀品位を鑑定しその刻印の信用の元で通用したのであった。しかし既にTrade Dollarには問題があった。製造量に見合うほど輸出高は伸びないとか、本来の目的を果たさずアメリカ国内で流通しているといったものである。当時は電解精錬による世界的な産銀量の増大により銀相場が下落していた。Trade Dollarの地金価値も1ドル金貨の地金価値を下回り、銀地金の所有者はこぞって銀地金を造幣局に持ち込みTrade Dollarへの鋳造を申請した。 このためアメリカ政府は1878年ブランド・アリソン法によって、Trade Dollarの発行を中止するとともに廃貨とした。そして量目を412.5グレーンに戻した1ドル銀貨(Morgan dollar)が法貨として設けられた。1ドル銀貨は補助貨幣とされた。金本位制が死守されたので本位貨幣とはなれなかったのである。

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1877年の鉄道大ストライキを鎮圧する様に連邦軍に命じている。また1880年代から90年代にかけて控え目な官庁改革を実行し、それは更なる改革のために土台となった。そして大統領再選に出馬しないという誓いを守り、オハイオの自宅に退き、社会および教育改革の支持者となった。

ジェームズ・ガーフィールド大統領(James Abram Garfield, 任期 1881年3月4日〜9月19日)時代

暗殺された二人目の大統領。初の左利きの大統領でもあり、大統領に選出された唯一の現職下院議員でもある。在任は当時としては高齢の68歳で大統領に就任したもの在任期間わずか1ヶ月で死去したウィリアム・ハリソン大統領(William Henry Harrison、任期 1841年3月4日〜1841年4月4日)に次いで短く6ヶ月と15日に過ぎなかった。

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  • グラント政権下でおきた鉄道利権をめぐる大規模な収賄事件である「クレディ・モビリエ事件」で、起訴された容疑者の一人に名を連ねたが、議員辞職することは無かった。

  • 1880年の大統領選挙に共和党の大統領候補として指名された。選挙戦では、豊富な資金力を背景に民主党の対立候補ウィンフィールド・スコット・ハンコックに対し優位に進め、第20代大統領に当選したが、当選後は党内の有力政治家たちが主要ポストをめぐり対立。

  • 当時は猟官制が幅を利かせており、選挙民に賄賂を握らせたり候補者の宣伝を買って出た者も多かったとされる。その中にチャールズ・ギトーと呼ばれる男がいた。ギトーは、自分が選挙活動でガーフィールドを応援した見返りを求めていたが、彼は何の役職にも就けず、この一件で大いにガーフィールドを恨んだ。ギトーは精神病歴を持つ弁護士で、神が大統領を殺すことを命じたと思いこんでいた。

  • ガーフィールド1881年7月2日、大統領就任の4か月後にギトーによって銃撃された。ワシントンD.C.の鉄道駅で、背後からガーフィールドを44口径リボルバーで撃った。弾丸はガーフィールドの体内で発見することが出来ず、アレクサンダー・グラハム・ベルは弾丸を見つけようとして、金属探知器を考案した。しかし探知機は金属のベッドフレームを誤認し見つけることは出来なかった。ガーフィールド感染症で病状が悪化し、1881年9月19日にニュージャージー州エルバロンで死去した。医師が弾丸摘出のために滅菌しない指で患部を探ったり、手を突っ込んだり、針で肝臓を傷つけるなどの荒療治がなかったら死ぬことはなかったとされる。

在任が短かったことからその業績は僅かなものだった。

チェスター・A・アーサー大統領(Chester Alan Arthur, 1881年〜1885年)時代

ジェームズ・ガーフィールドが暗殺され大統領に昇格した副大統領。汚職と賄賂から利益を得ているとされ、共和党でも守旧派に属していた。美食家でお洒落な人物で、大統領に就任するとルイス・カムフォート・ティファニーらにホワイトハウスの改装をさせ、連夜パーティーを開いた。

  • 政界に加わる前は共和党のストルワート派に所属し、ロスコー・コンクリングから政治的な庇護を受け、ユリシーズ・S・グラント大統領によってニューヨーク港徴収官に任命されたが後任の大統領、ラザフォード・B・ヘイズの改革の試みによって同職を解任されている。大統領として官僚機構の頂点に立つ事になると古くからの政治上の知己を避ける様になり結局政治の師であったコンクリングと袂を分かった。

  • それまでの経歴から行政改革の主張者になり、ペンドルトン公務員改革法の議会通過を統轄すると多数が驚いた。ペンドルトン法は公務員任用・昇進の際に試験を導入し、それに伴い人事を決定するものであったからである。現在でこそ普遍的であるが、当時としては非常に画期的な制度であった。本法の成立により「行政の父 The Father of Civil Service」と呼ばれるようになり、多くの歴史家から肯定的な評価を得る事になった。
    ガーフィールド大統領の暗殺によって扱いにくい議会に対する公共からの圧力が高まった事が勝因の一つとも。

  • また議会が企図した中国系移民の排斥を阻止し、関税法やエドモンド法(モルモン教の一夫多妻禁止の法律)の可決に関与。

政治家に関して深くシニカルであったマーク・トウェインは「アーサー大統領の治世よりも良い政治を行うことは本当に困難であろう。」と認めている。

グロバー・クリーブランド大統領第一期(Stephen Grover Cleveland、任期1885年〜1889年)時代

歴代大統領で唯一「連続ではない2期」を務めた大統領。改革者として根気よく政治腐敗、贔屓およびボス政治に反対し続けた。歴代アメリカ大統領の中で唯一、ホワイトハウスで結婚式を行った大統領であり、またニューヨークの自由の女神像の除幕式に参加した大統領でもある。財界贔屓のブルボン民主党員であり、高率関税、銀本位制、インフレーション、帝国主義、および商業者と農民と退役軍人への補助金に反対。

  • 1884年に民主党全国大会において大統領候補として指名を受け、同年の大統領選挙に出馬し共和党のジェイムズ・ブレイン候補と争った。ブレイン陣営はクリーブランドが1863年に徴兵逃れ、1874年に不倫相手に隠し子を生ませた疑惑と主張。クリーブランドはいずれの疑惑も事実と認めたことで、逆に有権者から誠実と受け止められた。一方、ブレインにも財界と癒着した疑獄事件が発生し、選挙戦は互いに中傷しあう泥仕合の様相を呈していたが、最終的に共和党の一部がクリーブランド支持に回ったことにより僅差でクリーブランドが勝利を収め、翌1885年3月、大統領に就任。

  • 共和党政治が続いた後、国民の期待をになって選出された大統領は、不屈の勤勉さ、信頼感、炎のようなエネルギー、正直さの塊であった。民主党員ではあったが、強い政府、内政への大統領の指導的役割に関しては、従来の共和党の考え方と近かった。政府の家父長的保護を好まず、国民は政府に経済性、清廉さ、正義を求めるべきであり、経済的対立への介入や社会事業を求めるべきではないと考えていた。このことは、事業に有利な関税、退役軍人への年金、鉄道への土地の優遇などに反対したことにも現われている。閣僚には、大多数を占める農民や労働者や少数グループからの代表は皆無で法律、政治、ビジネス界から実力ある人物を抜擢した。

  • しかしながら、細部にわたるまで自分で決定しなければ気がすまない性格として、ブレーンとなる側近、スタッフをおかず、メディアとの接触も避け、孤高を貫いた。強い大統領論者だけに、法案への拒否権の回数も著しく多く、第1期目だけで414回にも及んだ(初代からの歴代大統領の拒否権数合計は204回)。議会工作は苦手で、努力もしなかった。

  • 大統領特権を有効に行使し、重要問題に国民の関心を高めて立法化に努め、議会に対してイニシアティブをとるという「大統領らしい大統領」となった。官庁の市民サービスの改善、主要政府機関の改革、南北戦争従軍者への軍人恩給削減などを実施。しかし、旱魃に苦しむテキサスに穀物種子を支給するための特別支出金を認めず、インディアンから不法に借り受けていた牧草地の契約を無効にして、放牧業者、インディアン双方の生活条件を苦しめて非難された。議会との関係も上手くいかず、銀貨の自由鋳造廃止を提案したが失敗に終わる。

  • 当時の最大の関心事は関税問題であった。歴史的に見ると、アメリカは保護関税が効果を上げる事で先進国のイギリスを凌ぐ産業国へと発展してきたのである。そして共和党の優勢が自由貿易を抑えることに貢献してきた。こうした経緯から、関税引き下げを政策を掲げて大統領選挙に勝利したクリーブランドは、民主党内部にすら少数ながら強硬な反対派を抱える事になる。1887年末に出された議会教書は関税修正態度を盛り上げるために一石を投じたもので、その内容は一般関税の引き下げ、特に原料品に対する課税の撤廃を強調していた。輸入関税によって国民が多額の支払いを製造業者に支払っているとし、積極的に保護関税修正意見を喚起しようとしたもの。
    *まさに時代は大不況時代(1873年〜1896年)の最中であった。古典的自由主義を貫く意義は欧州でも時代遅れとなっていたのである。

1888年の大統領選挙ではイギリス大使ライオネル・サックヴィル=ウェスト卿が「クリーブランドの当選を期待する」という旨の信書「マーチソン・レター」を出したことが公開され、これが共和党の対立候補ベンジャミン・ハリソンによる「民主党の言う関税引き下げは、英国製品を合衆国に流通させるものだ」という批判に根拠を与えてしまう。このあおりで落選。

ベンジャミン・ハリソン大統領(Benjamin Harrison、1889年〜1893年)時代

祖父は第9代大統領ウィリアム・H・ハリソン。6つの州が合衆国に再加入したときの大統領。1888年共和党大統領候補に選出され、民主党の現職グロバー・クリーブランドを破って大統領に当選。大統領選挙の一般投票では、ハリソンが約9万票クリーブランドより少ない得票だったが、選挙人選挙では233票対168票で勝利した。その任期はマッキンリー関税とシャーマン法を含む経済政策および、初めて10億ドルに達した連邦政府の年間支出で特徴付けられる。民主党は「1000000000ドルの議会」を攻撃し、その材料に不評を囲った高率関税に伴う問題を指摘。1890年の中間選挙および1892年の大統領選両方で共和党を敗北に追い込んだ。

  • マッキンリー関税法により輸入品に対する関税は50パーセント以上に引き上げられ、外国製品の価格は高騰、国内市場は国産製品の独擅場となった。

  • シャーマン購銀法は、政府の毎月450万オンスの銀購入が義務化された。また、「シャーマン反トラスト法」を成立させ、一部企業による独占資本に制限を加えようとしたが、大資本に牛耳られた連邦議会により骨抜きにされた抜け穴だらけの所謂ザル法として成立した。
    *シャーマン銀購入法(1890年)ネバダ州・コロラド州アイダホ州が銀鉱山を抱えるアメリカにおいて、「不況の原因は銀貨幣不足のせい」と信じる不況で借金を抱えた農民や労働者の圧力によって制定された。これにより財務省は毎月一定量の銀を購入することを求められたが、銀は金に交換可能な手形によって購入されるとされ、その手形が実質的に通貨となって流通した。
    1930年代アメリカ銀政策の展開

1896年には共和党員の何人かの友人が再び大統領選に出馬する様に説得しようとしたが、それを断って公然とウィリアム・マッキンリーを支持。応援演説のために国中を旅行した。

グロバー・クリーブランド大統領第2期(Stephen Grover Cleveland、任期1893年〜1897年)時代

大統領職二期目は1893年恐慌と同時に始まり、それを立て直すことができなかった。その結果、民主党は壊滅。1894年および1896年において共和党が地滑り的勝利を飾り、民主党内の農地改革論者や銀本位制論者が押さえ込まれた。結果として政界再編が進んで第三政党制が終焉。第四政党制と進歩主義時代が始まる。

  •  1期目の大統領を退いた後、一時ニューヨーク市で弁護士活動を行っていたがマッキンリー関税法に反発、銀本位制による通貨膨張に強く反対し、1892年の民主党全国大会で大統領候補に再度選出される。1892年の大統領選挙では、カーネギー鉄鋼会社ホームステッド工場のストライキの際、共和党が大手産業の利益を擁護し、労働者を見放す態度をとったため、大衆が民主党に味方し、大統領選挙は民主党の圧勝に終わった。

  • 独占資本による経済支配がいかに国民のためにならないかを説いたクリーブランドだったが、テキサスが旱魃に見舞われた際に、穀物種子支給用特別支出を認めないなど信念と財政の間で揺れ続ける。

  • そして鉄道網の行き過ぎた拡大、1880年代からの農業不況、通貨問題などが重なり、1893年から深刻な恐慌が始まった。特別会期を招集して激論の末、クリーブランドは銀購入法廃止案をどうにか可決させたが、関税法引き下げという公約を果たす事には失敗。財政危機回避のため、金を国庫に導入する4法案を提出したがこれも失敗。不況はさらに続き、労働者のストライキが頻発した。

  • 中でもシカゴのプルマン寝台車会社のストライキは大規模でアメリカ鉄道組合も同調。シカゴを中心とする24州に及ぶ大ストライキへと発展した。これに対し会社の要求により、クリーブランド政権は鎮圧のため、連邦正規軍を派遣して抑圧し、指導者の投獄を要求した。ストライキは収まったものの、全米労働者の憤激で、中間選挙民主党の大敗に終わった。不況が続く中、内政の数々の失敗により、次期大統領選挙で民主党は敗退を余儀なくされたのである。

外交面ではアメリカのフロンティア消滅とともに領土拡張というアメリカの「明白な天命」は既に果たされていると信じており、したがってアメリカの領土をめぐっての海外進出に対して消極的であった。

  • 前ハリソン政権時代に先送りとなった(実業界の利益を追求するために仕組まれた)ハワイ併合を拒絶。

  • スペイン領有のカリブ海に注目するキューバは、その戦略的位置と、砂糖の産出で注目されており、19世紀になってから独立を求め繰り返し反乱を起こしていたが、この反乱にも介入せず、中立を保った。

  • しかし1895年から1896年にかけてイギリス領ギアナベネズエラの間で起こった国境紛争に関しては、武力を使ってもイギリスに対抗すべきという断固たる態度をとっている。結果としてイギリスは調停を受け入れる事になり、これは外交的勝利として評価された。

1898年には後任のウィリアム・マッキンリー大統領(共和党)による米比戦争とフィリピン併合が、被治者の同意の必要性という建国以来の共和主義の理念に反するとして反対し、アメリカ反帝国主義連盟を結成。また1902年の無煙炭労働争議に際して、実情調査の労をとることを時の大統領セオドア・ルーズベルトに申し出ている。1904年には、オルトン・パーカーを大統領に推薦して、短期間ではあるが政治活動を行った。1905年からは「公正なる社会保障協会」再建に積極的に参画。

独占資本とニューヨークの発展

急成長をとげたアメリカ資本主義は、1880年代に独占資本の形成が進み、工業生産は1894年には世界一となるまでに発展した。一代で巨富を築くといったアメリカンドリームもみられたが、その裏では、各種の企業合同、特にトラストが成立し、大資本家が政府と結び、汚職や政治への介入が続くなど独占資本の弊害があらわになってきた。

  • 1882年にスタンダード石油トラストを形成し、巨大な利益を消費者に還元せず高価格で販売し続けたロックフェラーのスタンダード・オイルのビジネス手法は広く厳しく批評された。当時の風刺画には、腹に「鉄鋼トラスト」「銅トラスト」「石油トラスト」「砂糖トラスト」と書かれた金満家の巨体がならぶ傍聴席の横で小さくなった議員たちを描いた絵「自由の女神像」の姿をして、右手に地球、左手に石油ランプをかかげて「独占」の樽の上にまたがったロックフェラーの絵などがある。当時大資本家は、泥棒男爵(Robber baron)という言葉で表現された。

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  • この時代にマンハッタンと対岸のブルックリンを結ぶ当時世界最長のニューヨーク・ブルックリン橋が完成し、アメリカの富と産業の実力を世界に誇示し、ニューヨークを世界的都市として印象づけた。そしてニューヨークの勝利はタマニー・ホールの勝利でもあったのである。
    *タマニー・ホール(Tammany Hall)…1790年代から1960年代にかけてに存在したアメリカ民主党の派閥、関連機関。慈善団体タマニー協会(Tammany Society、Society of St. Tammany、Sons of St. Tammany、Columbian Orderとも)を前身とし、19世紀初頭にはニューヨーク市議会における民主共和党勢力の中心として台頭。本部機能を有するホールが東14丁目に完成した1830年頃から民主党に合流し、以後当時拡大の一途を辿っていた移民居住地区を票田としながら、同市政を牛耳るマシーンに成長した。1854年のフェルナンド・ウッドから1932年のジョン・P・オブライエンに至るまで市長を輩出したほか、1928年には幹部でニューヨーク州知事のアル・スミスが民主党の大統領候補に選出され殷賑を極める。その一方で買収及び供応を含む移民に対する集票工作が政治腐敗を招き、1800年代半ばのウィリアム・M・トウィードが会長を務めていた時代には悪名を轟かせるなど「タマニー・ホール」と言えば票の買収操作の代名詞となる。20世紀に入ると市政改革運動や1934年の市長選で共和党及び民主党内の改革派が共同で擁立した候補(フィオレロ・ラガーディア)に敗北したのを契機に勢力が減退。1950年代にカルミネ・デサピオにより小規模ながら再興が成ったものの、1960年代にはエレノア・ルーズベルトやハーバート・レーマン民主党内の反主流派によるニューヨーク民主党有権者委員会の内紛劇を経て活動を停止した。

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急速な経済発展にともなって、アメリカ人の道徳観が大きく変わり、強烈な事業欲と物欲が正当化されることとなった。文化および社会的リーダーの中心地も、ボストン(知識人の街)から、ニューヨーク(事業家の街)へと移った。

そして1890年の国勢調査報告書でフロンティアの消滅が宣言されます。金鍍金時代に解放されたエネルギーとそこに出現した社会問題が、この後の革新主義と帝国主義の時代を導入。相前後してアメリカは海外進出に着手するのです。

千年王国思想」

キリスト教の終末観は「千年王国思想」と呼ばれる。キリストの再臨によって審判の日を迎え至福の千年期を迎えるというものだが、19世紀までは人々の努力によって神の国が打ち立てられた後にキリストが再臨するという「後千年王国説」が基本的な解釈であった。しかし、19世紀末のアメリカではまずキリストが再臨してから神の国が作られるという「前千年王国説」が広まっていく。「後千年王国説」は毎日頑張って世界を良くしていくことでキリストが再臨するという前向きな思想であるのに対し、「前千年王国説」はそもそも終末を迎えると世界は悪くなる一方で、社会状況が悪化した果てにキリストが再臨して世界を良い方向へ変えてくれるという悲観的な思想だ。当時、目前に広がる貧困や格差に多くの人々が「前千年王国説」を受け入れ、後に第一次世界大戦での欧州の惨状が彼らの悲観的な終末観に拍車を掛けることになる。

「社会福音運動」

19世紀末は貧困などの社会問題に対し、多くのキリスト教徒が福祉活動に力を注いだ時代でもある。彼らは「後千年王国説」に基づき、社会問題を積極的に解決していくべく様々な慈善活動を行った。YMCAや救世軍は19世紀初めに英国で生まれ、19世紀末のアメリカで特に盛んに行われた運動である。この時期に行われた教会による様々な福祉活動を「社会福音運動」と呼ぶ。

自由主義神学」と「高等批評」

「社会福音運動」に従事していた人々は福祉活動の中で、宗教の使命は神の愛だけであり、それは弱者への奉仕の中で実践される、聖書も教会も重要ではない、と考えるようになり、聖書や教義には科学的に誤りもあるとして、当時ドイツで生まれた「自由主義神学」に基づく「高等批評」に注目した。「自由主義神学」は近代合理主義や自然科学を踏まえてキリスト教を解釈しようという神学で、従来古文書等の研究で用いられた「文献批評学」の手法を聖書研究にも持ち込んだ。聖書も一つの文献であり誤りや聖書が記された時代と現代とで合わなくなった考えもある。そこで、科学的な批評と解釈を行うことで、究極的には人々の信仰心をより篤くすると考えられた。

「社会進化論」

自由主義神学」は英国の哲学・社会学ハーバート・スペンサーの「社会進化論」に大きな影響を受けている。「社会進化論」はダーウィンの進化論~生物の自然選択、生存競争、適者生存が多様性をもたらすという考え方~を社会全体に敷衍した思想で、進化は社会の第一原理であり適者生存によって未開から文明へ、家内工業から機械工業へ、王の支配から多様な民主主義の時代へと移り変わり多様な時代へと社会は進化してきており、これからも進化していくとする考え方であった。この思想はキリスト教の「後千年王国説」とも親和性が高く、また日進月歩の産業・科学の進歩もあって広く受け入れられた。

しかし、「社会進化論」はそもそも生物の進化を社会全体の法則と捉えるという論理の飛躍から始まっており、人々をポジティブに奮い立たせ、ボランタリアリズムや進歩史観を生み出した一方で、適者生存という考え方は帝国主義による侵略や独占資本を正当化する論理に強い影響を与え、また優生学やドイツのアーリア民族優位説にも繋がっていく。さらにマルクスは「資本論」の執筆に際し社会進化論に大きな着想を得たと語っている。

アメリカでは「社会福音運動」の指導者であるジョサイア・ストロング牧師の「我が祖国」「膨張」などの著作がベストセラーとなった。これらはアメリカが「市民的自由」を体現するアングロサクソン文明の中心であり、その文明を世界に広めていくことはアメリカの使命であるとしたもので、宗教的に帝国主義政策を支持した。また社会進化論の影響下で「低開発地域に安定した統治形態を樹立し、その地域の人々が自分の運命を遂行しようとする努力をアメリカが助け、外部の干渉から保護する」(森孝一「宗教からよむ「アメリカ」」P18)という「帝国主義的反植民地主義」がアメリカの主流な考え方になっていく。

自由主義神学」と「社会進化論」を思想的バックボーンにして科学と合理主義を受け入れ「社会福音活動」を行う彼らは「モダニスト」と呼ばれた。

キリスト教原理主義の登場

上記のようなモダニスト達の聖書すら相対化しようとする動きに保守派は一斉に反発した。そもそもプロテスタントは様々な教派に差はあるもののルターが「聖書に帰れ」と言ったように概ね聖書を神聖視する。特に19世紀後半は社会構造の大きな変化と科学・産業の急激な進歩の中でかつての価値観が次々と失われて行った時期である。そのような変革の時代の中で多くの信者たちにとっては聖書は日々の生活の最後の拠り所である。ところがそれすらも疑えとモダニストたちは言う。必然的に大きな反発が生まれた。

A・T・ピアソンは「ちょうどローマ教会主義(カトリック教会)と同じように、高等批評(文献批評学)は、ただ学者だけが聖書を解釈できると考えることによって、人びとから神の言葉を奪いとっている。ローマは神の言葉と人との間に聖職者を置いたが、批評学は聖書と信者の間に高等教育を受けた解釈者を置いている。」(前掲書P191)と、進歩ではなく宗教改革以前の中世へ逆行しているという趣旨の批判を加えた。19世紀末から20世紀始めにかけてアインシュタイン相対性理論を始め専門家ですら理解するのに難しいさまざまな科学上の発見がなされ、高度な教育を受けたものだけが真実を理解出来る時代へと突入しようとしているという焦燥感を抱く人が少なからず存在するようになった。

1910年、プロテスタントの保守派たちが一同に会し「聖書の無謬性」「キリストの処女降誕」「キリストの贖罪」「イエス・キリストの肉体的復活」「キリストの奇跡の真正性」の「五つの基本信条」を文書化し、1910年から1915年にかけてこの中核思想を世に広める12のパンフレットがまとめられた。「諸原理(The Fundamentals: A Testimony to the Truth)」と名付けられたこのパンフレットは、それぞれ300万部印刷され、米国全土へ配布されていく。

当初、原理主義が批判の対象としていたのは「高等批評」など聖書を対象とした「文献批評学」であった。しかし、第一次世界大戦の惨状は自由主義神学の背景にある「社会進化論」へと批判の矛先を向かわせた。史上始めて全世界規模で起こったこの戦争によって数千万人の死傷者が出て、欧州は瓦礫と化し、科学の進歩によって作られた様々な兵器が使われ、スペイン風邪と呼ばれるインフルエンザの流行や、無神論共産主義者によるロシア革命ソビエト連邦の成立などこの頃に起きた様々な事象は前千年王国説を信じる原理主義者たちにとって黙示録の世界そのものだった。

進歩を謳った社会進化論が帝国主義思想を生み、大量殺戮兵器を作り出し、社会を混乱させていると彼らは考え、強い危機感を抱いた。そもそも原理主義者は前千年王国が現実を悲観視するため、現実世界を従容として受け入れあまり政治にコミットしないものだったが、この危機感がその姿勢を180度転換させた。さらに反共産主義反知性主義ナショナリズムと結びつき排外的な思想を強化していった。そのような中で適者生存、弱者切り捨て、帝国主義思想の根源であり、エリート達による少数者の支配思想としての「社会進化論」を象徴する思想が「進化論」であると彼らの目には写っていた。

かくして「進化論は文明を危うくする」という共通理解が保守的な人びとの間に広がり、アメリカ南部を中心とした諸州で学校教育の中で進化論を教えることを禁じる「反進化論法」が成立していくことになるのである。

アメリカ合衆国の進歩主義時代(Progressive Era、1890年代〜1932年)

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大不況時代(1873年〜1896年)末期には金鍍金時代の無駄、非効率さ、腐敗および不公平さを悪と考える進歩主義者達が台頭。社会と経済のあらゆる面で変化と改革を求める様になった。

  • 運動の主たる目的の1つは政府の浄化であり、政治を蝕んでいた政治マシーンとボスの内情を暴露し、その力を弱めることで政府内の腐敗を取り去ろうとした。2つめの目的は、近代化を必要とする古いやり方を特定し、科学的、医学的かつ工学的な解決策を強調することで、あらゆる分野における効率化を成し遂げることだった。

  • 多くの人々が地方政府、公共教育、医療、財政、保険、工業、鉄道、教会など多くの分野で改革の努力を行った。その結果、社会科学、特に歴史学、経済学、政治学の分野に変化が起こり専門化と「科学化(Scientification)」が進行。学術分野ではアマチュア執筆家の時代が終わり、学術雑誌や新聞に記事・論文を掲載した研究の専門家の時代になった。

  • こうした改革の動きは当初地方レベルで動き、後に州や国のレベルに広がった。次第に中産階級の支持を集め、弁護士、教師、医師、牧師、事業家といった層を魅了。彼らは時代遅れのやり方は無駄で非効率と考え、熱心に「最良の1つの仕組み」を追い求めた。科学的方法を強く支持し、経済、政府、工業、財務、医療、教育、神学、さらには家庭にまでそれを適用。西ヨーロッパで当時進行していた進歩主義を摂取して銀行法の様な政策を数多く採用した。その1つが1914年の連邦準備制度に結実する。

  • 彼らは熱烈な近代化推進者でもあり、社会の弱者に対する重大な解決策として、科学、技術、専門知識、そして特に教育の効果を信じた。そして一般に都市の工業化社会に対する好意的態度、生活の環境と条件を改善する人の能力に関する信念、経済と社会の問題に介入する義務感、専門家の能力と政府介入の効率性に関する信頼などによって特徴づけられていた。

国政レベルで実行された重要な変化には、アメリカ合衆国憲法修正第16条による所得税の導入、同修正第17条によるアメリカ合衆国上院議員の公選制、同修正第18条による禁酒法の導入、同修正第19条による女性参政権などが挙げられる。その一方で当時の米国の時代精神はのちに科学万能主義(scientism)として批判される事に。
*科学万能主義(scientism)オーストリア学派のフリードリッヒ・ハイエク(Friedrich August von Hayek、1899年〜1992年)や、純粋科学的言説の必要条件としての反証可能性(検証されようとしている仮説が実験や観察によって反証される可能性があること)を提唱し精神分析マルクス主義を批判したカール・ポパー(Sir Karl Raimund Popper、1902年〜1994年)などが、多くの科学者が根底に持つと彼らが考えた態度を批判する為に用いたのを嚆矢とする。「科学を当てはめるべきではないような文脈において科学的権威を用いること」「自然科学の手法、自然科学で認められたカテゴリーや概念が、哲学など他の探求分野でも唯一の適切な要素であるという信念(思い込み)」を指す。

その時期と範囲に関する議論

実はそもそも「進歩主義時代が何時始まり何時終わったか」という問題自体にケリがついていない。

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  • 1940年代の歴史家達の間ではそれをニューディール政策時代の前奏曲とみなし、具体的にルーズベルトが大統領になった1901年から、第一次世界大戦の始まりである1914年あるいは1917年までとするのを通例としていた。その後の歴史家達は時代を遡り、1890年代の自治体および州レベルの進歩的改革者を含めて検討する様になった。

  •  市民の自由を強調する左派の歴史家達は第一次世界大戦の間に自由が抑圧されたと批判し、戦争を進歩的とは考えなかった。しかし大半の歴史家達は「全ての戦争を終わらせるための戦争」をアメリカ運動の世界的表現と見なし、ウィルソンが国際連盟のために戦ったことをそのクライマックスと考えた。

  • 歴史学者が「事業進歩主義」と定義するものは、その類型を効率を重視したヘンリー・フォードやハーバート・フーヴァーに見るが、1920年代に最盛期に達する。例えばウィクはフォードの「技術と田園部アメリカの機械化に関する見解が、概して啓蒙的で、進歩的で、時代の先端を走っていた」と論じている。ティンドールは1920年代の南部で進歩主義運動を続けたことの重要性は、民主化、政府の効率、企業の規制、社会的公正さ、および政府の公共事業を増すことに関わったと強調している。ウィリアム・リンクは1920年代の南部の大半で政治的な進歩主義が支配したと指摘している。同様に進歩主義は中西部でも影響が大きかった。

  • 1920年代の政治は企業に対抗した労働組合やリベラルの運動家に対して友好的ではなく、これらの主題を強調する歴史家達の大半とまではいかなくとも多くが、この10年間を否定する。また都市のコスモポリタン学者もまた禁酒法の道徳主義や、クー・クラックス・クランの移民排斥主義者の狭量さへの違和感からこの時代を否定。
    *例えばリチャード・ホフスタッターは1955年に、禁酒法が「田園部福音主義のビールスによってアメリカが連れ込まれた」ところの「似非改革、縮こまった視野が狭い改革の代行物」だったと記した。しかし、アーサー・S・リンクが強調したように、進歩主義は単純に転がって死んだふりをしたわけではない。リンクの「それは20年代を通じて継続していた」という主張は、進歩主義が強力な力だったことを見いだした歴史学を刺激した。パーマーはジョージ・ノリスのような指導者を挙げて「進歩主義は一時的に政治的な主導力を失ったが、西部の多くの州では人気を保ち、ハーディングやクーリッジの政権ではワシントンD.C.でもその存在を感じさせたのは注目すべきである」と語る。ガースターとコーズは「進歩主義は、共通の目的を持った容易に定義できる力というよりも「精神」であり、あるいは「熱中」であるので、1920年代を超えてはいないまでも、その年代まで十分に続いた改革に向けた雰囲気を作ったという方が正確であると思われる」と論じている。クー・クラックス・クランが新しい光の中に見いだされたとしても、多くの社会史学者が報告しているように、彼等は「通常の白人プロテスタント」であり、それまで長く進歩主義の中核的目標だった仕組みの浄化に大きな関心を抱いた者達だったのである。ウィリアム・ランドルフ・ハーストが示したように、進歩主義指導者の中に反動的になった者がいたが、それは通常1930年代であり、1920年代ではなかった。具体的にはハーバート・フーヴァー、アル・スミスおよびヘンリー・フォードなどの名前が挙がる。

  • 大変多くの革新的アイディアを生んだアメリカの近代化概念は、1920年代までその国際的影響力を継続させ、次第にヨーロッパに影響を与えていったと考える向きもある。

一般に進歩主義は1932年までには終わったと考えられている。そしてその残党の大半はニューディール政策に反対する立場へと立っていく。

腐敗の暴露

当時新たに影響力を高度に発揮し始めた全国的な雑誌、例えば「マクルアズ・マガジン」などで政界の無駄、腐敗、スキャンダルを暴露したジャーナリストはマクレイカー(muckraker :堆肥(muck)を熊手(raker)でひっかきまわす人=醜聞を暴く人)と呼ばれた。

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  • レイ・スタナード・ベイカー、ジョージ・クリール、ブランド・ウィトロックが州や地方レベルで活動。

  • リンカーン・ステフェンズは多くの大都市における政治腐敗を暴露。

  • イーダ・M・ターベルは市場独占状態(モノポリ)と考えられるスタンダード石油について連載記事を執筆。これが政府にも公的改革者にも影響を与えた。ターベル達の攻撃により、1911年の最高裁判所判決が出て、スタンダード石油社を分割することを大衆が承認する道が開けた。

  • サミュエル・ホプキンス・アダムズは1905年に、多くの特許薬品における欠陥を示した。

  • 1906年に出版されたアプトン・シンクレアの小説「ザ・ジャングル」は、1870年代に発展した巨大食肉加工工場であるシカゴのユニオン倉庫で行われている想像上の恐怖をアメリカ人に伝え、大きな影響を与えた。ただしシンクレア自身はその場所を訪れた経験が無かった。連邦政府はシンクレアの著作とニール・レイノルズ報告書に反応して、新しくアメリカ食品医薬品局で規制を始めた。

  • デイビッド・グラハム・フィリップスは1906年よりアメリカ合衆国上院についての激しい告発に着手した。

セオドア・ルーズベルトは、これらジャーナリストが全ての恥部を暴くことで何の助けにもなっていないとこぼしたときに、彼等に「マクレイカー」という渾名を与えたのである。

 議会制民主主義の徹底

市民が政治ボスを退け、より直接に政治に関わる事を志向する様に。

  • オレゴン州のポピュリスト党州議会議員ウィリアム・サイモン・ユーレンやその直接立法同盟の力を借りて、オレゴン州有権者は1902年に直接民主制手段を圧倒的多数で承認し、住民発議権や住民投票によって法律の提案や承認、州憲法の修正を市民が直接行えるようになった。このような仕組みはオレゴン州が最初だった。ユーレンはさらに1908年に修正条項の成立に貢献し、有権者は選挙で選ばれた役人をリコールできるようにし、また単一州ながらアメリカ合衆国上院議員を一般選挙で選ぶことや、大統領選挙の州レベル予備選挙を行う制度を確立した。

  • 1911年カリフォルニア州知事ハイラム・ジョンソンが、自州でも「住民発議権、住民投票、リコール」を行うオレゴン方式を採用し、州の立法府に対して昔からある大企業の影響力に対抗して住民参加の政治に良い影響を及ぼすものと見なした。

  • こうした改革は、アイダホ州ワシントン州ウィスコンシン州など他州でも直ぐに真似られ、今日ではほぼ半数の州が住民発議権、住民投票、リコールの制度をその州憲法の中に規定している。

その一方で政治ボスやマシーンの権力を殺ぐために16州が予備選挙を使い始めた。アメリカ合衆国憲法修正第17条が1913年に批准され、全ての上院議員が州議会ではなく住民によって選ばれるようになった。その主たる動機は、州議会を支配するために上院議員をコントロールしていた政治ボスの力を落とすことで、その結果政治学者のヘンリー・フォードジョーンズに拠れば、アメリカ合衆国上院は「罪の意識や拘束無しにその力を揮い(彼等を議会に送った)特定利益のために行動する党員の議会」となった。
*まさに2月/3月革命(1848年〜1489年)後のフランス普通選挙で騒がれた「砂糖大根農園の利権代表者とかの寄せ集めに本当に政治なんてできるのか?」というジレンマそのもの。

 都市改革

多くの都市が地方政府としての予算や管理組織を研究するために市政調査局を設定。そこでは進歩派市長の存在が重要だった。

例えばオハイオ州クリーブランド市(特にトム・ジョンソン市長)、同州トレド市、ニュージャージー州ジャージーシティ市、ロサンゼルス市、テネシー州メンフィス市、ケンタッキー州ルイビル市など。特に西部州に多かった。

イリノイ州知事フランク・ローデンは州政府組織の大きな見直しを行った。ロバート・ラフォレットの地盤であるウィスコンシン州では、ウィスコンシン・アイディアがアイディアと専門知識の主要な情報源として州立大学を使った。

家族と食料と優生学

こうした運動への参加者はアメリカ社会の礎石として家庭の価値を信じ、政府、特に地方自治体政府は家庭を強化し、質を向上させるために動かなければならないと考えた。地方の公的支援計画も家族を結びつけておくために改革されている。

  • デンバー市のベン・リンゼー判事の動きにヒントを得て、都市は暴力的なティーンエージャーを扱うための少年裁判所を設立し、成人の刑務所に送致することが無いようにした。

  • 清潔なミルクと水の供給にも特別の注意が払われた。州や国政レベルで作られた新しい食品薬品規制法は、食品の安全性を保証するために地方の役割を強化させた。連邦政府による1906年純正食品および薬品法は、製薬会社や医療サービスの提供者が進めたものだが、科学的な試験を経ていない特許薬品を市場から閉め出した。

  • 技術の活用と標準労働時間が採用されるようになり、家庭には余暇の時間が生まれると多くの者はこの余暇を映画館で過ごす様になった。それで庇護者、特に子供達が暗く、不衛生で、安全ではない可能性のある映画館で映画を見るのは、俳優が犯罪、暴力シーン、性的なものを暗示する状況を演じる様子を見て、否定的な影響を与えかねないと考える様になり、映画の検閲制度を提唱。

  • また子供達に余暇の時間を与え、家族がそれを健康で健全な環境で過ごせる様に配慮する事によって良い道徳と市民を育つと考え、大都市政府に影響力を行使して数多くの多くの公園を建設させている。

  • 1921年のシェパード・タウナー法は母性と子供の世話、特に母親と幼児の健康管理指導のために連邦政府予算を使うことにした。個別の州との50対50マッチングファンドで女性の健康管理クリニックを建設した。

その一方で進歩主義者、特に経済学者の中には大家族や収入の少ない家庭への集産主義的解決手段として優生学手法を推進する者があった。これは産児制限を行うことで親がその限られた資源を少数の良好な子供達に集中させることができるようになることを期待したものだったが、大半の進歩主義者は個別の解決を主張し、この優生学手法に沿った全国、あるいは州や地方レベルの計画は生まれなかった。ハーバート・クローリやウォルター・リップマンのような進歩主義指導者は、集産主義や主権主義で個人に課される危険性について古典的でリベラルな気遣いを示した。カトリック教会は集権主義には賛成していたが、優生学のような産児制限には強く反対した。

 医学と法学と社会科学

カーネギー財団が後援した1910年の「フレクスナー報告書」は、地方に数多くある小さな医学校を捨て、国の予算、資源および威信を大学に敷設する専門化された医学校に集中させることで、アメリカの医学を専門化させた。著名な指導者としてメイヨー兄弟がおり、ミネソタ州ロチェスターにあるそのメイヨー・クリニックは革新的外科で世界でも著名になった。

法律の専門分野では、アメリカ弁護士協会が1900年にアメリカ法学校協会を設立した。法学校に対する全国的な標準を確立し、若者が個人的に地位の確立した弁護に付いて学ぶ古いシステムに置き換わって、大学に敷設する認可された法学校という新しい仕組みを作った。

ハーバード、コロンビア、ジョンズ・ホプキンス、シカゴ、ミシガン、ウィスコンシンおよびカリフォルニアなどに設置された新興研究型大学を中心として教育の近代化が図られた。アマチュア専門家の時代は、新しい学会誌や新聞に投稿した研究型専門家に道を譲ったのである。特に歴史学、経済学、政治学などの社会科学分野で専門化と「科学化(Scientification)」が進行。専門化は大学の新しい経歴を積む道を生み出し、雇用と国際的な学術会議における成果が昇進につながる事を意味していた。

学校教育

この時代には特に急速に拡大する大都市圏において学校数と就学児童数が劇的に拡大。それを受けて地方レベルで学校改革と近代化が進行した。1910年以後、小都市でも高等学校を作り始め、1940年までに若い成人の50%は高校卒以上の学歴になった。その結果として中流階級が急速に成長し、彼等が進歩主義改革を草の根で支えていく。この時代に多くの州は義務教育法を成立させ始めた。教育で衛生と健康が強調されるようになり、保健・体育教科がより重要となり、普及していく。

女性参政権と若者

女性や若者に関する歴史家は1920年代における進歩主義の勢いの強さを強調している。

  • 進歩主義者の全員ではないがその多くは「より純粋な」女性の票を政治に取り込むために女性参政権の承認取得を推進した。そして女性は参政権運動に成功したあとにその得たものを結集させ、世界平和、良い政府、母性の保護(1921年シェパード・タウナー法)、および教育と公衆衛生に関する地方レベルの支持といった方向に向けることができた。その業績は参政権運動ほど劇的なものにはならなかったが、女性は投票を行い、静かにかつ効果的に行動した。

  • ポール・ファスは当時の若者について「構想の一面として、社会問題に対する楽観的なアプローチとしての進歩主義は、大変活動的だった」と語っている。

しかし19世紀末から20世紀初頭にかけては同時に「ギブソン・ガール (Gibson girl)=女性として自立してはいるが政治には関わらず、権利を主張して男性の役割を奪うこともない新しい女」が理想の女性の具現像として流行していた事も決して忘れてはいけない。おそらく進歩主義と伝統主義の対立はエネルギー切れと妥協点の成立によって完全対消滅するその日まで相互を活性化し合うのである

経済政策

金鍍金時代の政党は鉄道問題と関税問題を除き連邦政府が民間事業に深く関わることに躊躇していた。概して法と秩序を維持することを除き、政府が経済に干渉することに反対する原則である自由放任の概念を受け容れていたのである。

  • しかしこうした姿勢は1890年代の不況の間に変化を始め、小企業、農園および労働運動が政府の介入を求める様になる。

  • 20世紀への変わり目までに中流階級が発展したが、彼等は実業界のエリートにも、中西部や西部における農夫と労働者の急進的政治運動にも不信を抱いており、企業の自由競争を確保するために商習慣の政府による規制の必要性を主張した。

  • これを受けて連邦議会は1887年の鉄道規制法(州間通商法)を法制化し、1890年には単一産業を大企業が支配することを防止する法(シャーマン反トラスト法)を成立させた。これらの法が活発に強制されることは無かったが、州際通商委員会や連邦取引委員会といった今日アメリカ合衆国にある規制機関の多くはこの時代に創設されたものである。

ところで1893年に始まり厳しい不況を経て1897年に終わった恐慌時代の後に訪れた進歩主義時代は原則として社会繁栄の時代だったと考えられている。1907年恐慌も短期間で終わってその影響の大半は金融家にしか及ばなかったと考えているが、キャンベルは、1907年から1914年の経済の弱点を強調し、大衆がより進歩的な介入を求めた事と結びつけて考えるべきだと主張している(2005年)。
*1907年恐慌の後は、実質賃金の小さな低下と、失業者の増加が続き、どちらも第一次世界大戦が始まるまで続いた。キャンベルは、その結果として起こった公的資金に対する圧力とウィルソン政権の政策に対する影響を重視する。弱化した経済と継続していた連邦政府予算の赤字が財政政策に変化を促し、法人税と個人所得税の課税、および連邦準備制度の創設に繋がっていった。政府機関も管理効率を改善する為の組み替えを必要とした。そして民主党ウッドロウ・ウィルソンが1912年に当選して、同時に民主党が議会を制すると一連の進歩的経済政策を実行に移された。1913年、憲法修正第16条が批准され、高額所得者に少額の所得税を課した。民主党は1913年のアンダーウッド関税法で関税率を下げたが、その効果は1914年に勃発した第一次世界大戦によって引き起こされた貿易の構造変化により莫大なものとなる。ウィルソンは企業のロビーストを非難することで、関税の変化の陰にある大衆世論を動かすことの有効性を証明。さらに議会で高度な演出を施した演説を行い、法案に署名して立法化の為の手続きをつつがなく進めていった。また1914年のクレイトン反トラスト法でトラストに対する長い戦いを終わらせている。1913年に企業と政府の融合体である連邦準備制度を創立することで、金と銀行の問題について議員を説得する事が出来たからだった。この制度は現在なお金融界を支配する機関であり続けている。

禁酒法(Prohibition)

進歩主義者の全員ではないがその多くが酒場を基盤とする地方ボスの政治力を殺ぐために禁酒法を支持した」とする説もある。実際、禁酒法アルコール飲料の製造、販売および輸送を違法とするもので飲酒自体は禁止されることがなかった。進歩主義時代を通じて、地方、州、国のレベルで主要な大義の1つであり続けた。
*まさしく「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される」の実例そのもの。

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  • 1917年遅くに連邦議会を修正第18条が通過し、1919年に必要とされる4分の3の州で批准されて全国的な制度となった。禁酒運動は、メソジスト、バプテスト、会衆派教会、スカンディナヴィア・ルーテル教会などの福音主義教会によって後援された基本的に宗教的な運動だった。運動家は高度に効率的な反酒場同盟によって動員された。ティンバーレイクは、禁酒によってアルコール依存をなくし、酒場を基盤にする大都市マシーンの力を弱め、工業の生産性を高め、アルコール依存による家庭内暴力児童虐待および貧困の可能性を下げることを求めたと論じている(1963年)。

  • 禁酒の訴えは1840年代の第二次大覚醒時代に始まっており、飲酒に反対する動きは福音主義プロテスタントの中から起こった。福音主義派は1880年代に第二派の禁酒法制化の動きを起こし、地方や州レベルでの法制化を目指した。1880年代、州レベルで禁酒を法制化する住民投票が行われた。この期間に2つの重要な組織が形成された。1つは1874年に形成された婦人キリスト教禁酒組合だった。もう1つは1893年に形成された反酒場同盟であり、異なる宗教集団から行動家を結束させた。

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  • 禁酒を法制化しようという第3の波は1907年に始まり、全国的な運動として最高潮に達した。まずジョージア州が州全体の禁酒法を成立させた。1917年では、3分の2の州が何らかの形態の禁酒法を持っており、ほぼ人口の4分の3は禁酒地帯に住んでいた。1913年、反酒場同盟が禁酒を憲法の修正条項に盛り込むという初の提案を行った。それを達成するのが難しかったからこそ連邦法ではなく憲法の修正を好んだ。それでなければ変化が起こらないとも感じていた。

  • 1913年、連邦議会はウェブ・ケニオン法を成立させ、禁酒の州にアルコールを運ぶことを禁じた。アメリカ合衆国第一次世界大戦に参入すると、徴兵法によって軍事基地の近くでアルコールを販売することを禁じた。1917年8月、リーバーの食料燃料規制法によって戦中に蒸留酒を作ることを禁じた。1918年11月、戦争禁酒法によって、復員が終わるまでアルコール飲料(アルコール濃度2.75%以上)の製造と販売を禁じた。

  • 禁酒推進派は連邦議会の両院で3分の2以上の絶対多数を確保し、憲法の修正に必要な4分の3以上の州の支持を得るために精力的に動いた。36の州の批准が必要であり、当時48州全ての批准を求めて組織化が行われた。1917年末、連邦議会は修正第18条を可決した。1919年には批准され、1920年1月に有効となった。アメリカ合衆国の国内でアルコール飲料の製造、販売、輸送を禁じており、輸出入も禁じた。1919年のボルステッド法では、アルコール飲料をアルコール濃度0.5%以上と規定して、法の強制手続きを定めた。

  • しかし消費者の需要があり、様々な違法アルコールの入手源があった。特に違法の蒸留酒とカナダなど他国からの密輸品があった。当時の法の執行の度合いを判断するのは難しい問題である。当時のメディアは禁酒法はかなり効力が無いものだったとしているが、アルコールの利用を根絶できなかったとしても、この時代にアルコール消費量を減らしたことは事実である。
    *シーザーサラダ(Caesar salad)は禁酒法の思わぬ置き土産。米国西海岸では「酒が飲みたくなったら国境を越えてメキシコに飲みに行けば良い」という事になってメキシコの繁華街が大繁盛。そこに店を構えたイタリア人料理人が発明したものなのである。

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憲法修正第18条は1930年に撤廃された。これはカトリック教徒(個人の自由を強調した)と事業家(税収減を強調した)が率先し、よく組織化された運動によって、憲法修正第25条が成立し、修正第18条の撤廃を規定させたものだった。

労働と労働組合 

1913年、ヘンリー・フォードは動的な組み立てラインを採用し、労働者一人一人が自動車の生産過程で単一の業務を担うようにした。そして男性労働者に1日5ドルという大変寛大な賃金を支払い、平均的労働者が自社製品を購入できなければ大量生産企業は生き残れないと論じた。

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また労働組合、特にアメリカ労働総同盟が20世紀初期に急速に成長。全国市民連盟で企業と連携する実験的な試みを行った後、1906年以降は民主党と政治同盟を結ぶ方向に転じた。この同盟は大工業都市で特に重要だった。労働組合は、労働争議に干渉して雇用者側の肩を持つことの多い裁判所判事に対する規制を望んだ。1932年のノリス・ラガーディア法の成立でその目的を達した。

移民問題

1896年以降、移民の量は着実に増加しており、新参者の大半は東ヨーロッパや南ヨーロッパから来た非熟練労働者だった(1914年に第一次世界大戦が始まって突然国際的な移動の大半が止まり、1919年以降に再開)。彼等は工業町や都市の製鋼所、屠殺場、建設現場で職を見つけた。

  • 1880年代から労働組合は移民に対する規制を激しく求めており、特に中国人などアジア系移民に対する規制を望んでいた。基本的なおそれは、非熟練の低賃金労働者が大量に入れば、集団で取引することで、労働組合が賃金を上げようと努力しているものを無駄にしてしまうということだった。

  • 禁酒運動家のような別の集団は移民が酒場の力、および概して西部の力の基礎になるので移民に反対した。

  • 田園部のプロテスタントは、1890年以後の移民の大半を占めた都市のカトリック教徒やユダヤ教徒を信用していなかった。
    *特にニューヨークはユダヤ人とアイルランド人が開拓した側面が強かった。

  • 一方工業の急速な発展は新しい労働力を必要としており、大企業は移民規制に反対。

1920年代初期までに、合意が形成され、移民の総量が規制されるものとされ、1920年代の一連の立法でこの規制が行われた。一握りの優生保護提唱者も移民の規制に関わった。移民の規制は第二次世界大戦が終わるまで国策であり続けた。
第一次世界大戦中、進歩主義者は強くアメリカ化計画を推進し、新しい移民を近代化させ、理想的なアメリカ市民に転換させ、祖国に対する忠誠心を減らしていくように工夫した。これらの計画は劇的に拡大していた公共教育システムを通じて行われることが多かった。

 憲法の修正

進歩主義者達は、憲法の修正でその改革を法として恒久的に固定しようとした。その中には1920年に批准が成立したアメリカ合衆国憲法修正第18条による禁酒法と同修正第19条による女性参政権があり、さらには同修正第16条による所得税の導入と、同修正第17条によるアメリカ合衆国上院議員の公選制があった。進歩主義の時代が終わると、修正第18条すなわち禁酒法は撤廃された。

 ウィリアム・マッキンリー大統領(William McKinley, 任期1897年〜1901年)の時代

南北戦争従軍経験のある最後の大統領。19世紀最後かつ20世紀最初の大統領でもある。

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1880年代までの共和党の全国的指導者。彼の選挙戦のテーマは、1890年のマッキンリー関税に代表されるような、繁栄のための公式として高率輸入関税を導入することであった。

  • 1896年の大統領選における共和党候補として対抗馬の民主党候補ウィリアム・ジェニングス・ブライアンに対して金本位制を掲げ、人種間での多元論を促進。彼の選挙戦はマーク・ハンナによって指揮され、新たな選挙戦の広告スタイルを導入し、キャンペーン技術は最大のライバルであるウィリアム・ジェニングス・ブライアンを打ち破った。この1896年の大統領選は「進歩の時代」の始まりを示した再編の選挙であるとしばしば考えられる。

  • 大不況 時代(1873年〜1896年)、特に1893年恐慌後に回復に向けて国を率い、金本位制を導入。
  • (フロンティア消滅によるリストラを恐れるアメリカ軍とイエロー・ジャーナリズムの扇動もあって)アメリカ合衆国の世論がスペインに対する憤慨で沸き立っていた為、スペインに対してキューバでの蛮行を止めるように要求。そして1898年には米西戦争が勃発したが戦争はアメリカの勝利で終わる。アメリカ軍はスペイン艦隊を壊滅させ、90日間でキューバとフィリピンを占領した。1898年のパリ協定の結果、スペインの植民地であったプエルトリコ、グアム、フィリピンはアメリカ合衆国に併合され、キューバはアメリカの占領下に置かれた。米比戦争(1899年〜1913年)そのものに対する支持は広範囲に及んだが、民主党とアメリカ反帝国主義連盟は共和制の価値が失われることを恐れて、激しくフィリピンの併合に反対した。

  • また1898年にハワイ共和国を併合、同国の全ての居住者をアメリカ国民としている。
  • 1900年の大統領選では再びウィリアム・ジェニングス・ブライアンと争った。ブライアンは外交政策と繁栄の復帰に焦点を合わせた激しい選挙戦を展開したが、マッキンリーは再選を成し遂げる。

しかしマッキンリーは1901年、無政府主義者のレオン・チョルゴッシュによって暗殺され、後任は副大統領のセオドア・ルーズベルトが引き継いだ。

”テディ”セオドア・ルーズベルト大統領(Theodore "Teddy" Roosevel、任期1901年〜1909年)の時代

棍棒外交(Big Stick DiplomacyあるいはBig Stick Policy)」で有名。その精力的な個性、成し遂げた業績と合衆国の利益、国の発展期に示したリーダーシップと、「カウボーイ」的な男性らしさでよく知られる。歴代アメリカ合衆国大統領のランキングで現在でも偉大な大統領の一人として格付けされる。

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  • 1901年、ウィリアム・マッキンリー大統領が暗殺され、42歳という若さで大統領に就任。米国史上最年少の大統領となる。

  • 共和党を「進歩」の方向に動かそうとし、当時、鉄道を支配していたモルガンを反トラストで規制し、独禁法の制定や企業規制を増やした。国内の課題を説明するため「スクエア・ディール Square Deal」という句を作り出し、一般市民がその政策の下で正当な分け前を得ることができると強調した。
    南北戦争以後、財界は自由放任主義を信じ、産業組織は巨大化し、格差や労働問題など従来の法規では統制が取れなくなりつつあった。ルーズベルトは不当なトラストに対して、それまで使われることのなかったシャーマン反トラスト法を発動し、企業の集中化を牽制。純正食品・薬事法を成立させ消費者の健康保護を図った。また、急速に破壊されていく自然を保護する為に国有林保全と統制のとれた農地開発事業を推し進めた。 これらのルーズベルトが「スクエア・ディール」と呼ぶ、巨大資本を統制し、全国民の福祉を成し遂げるための連邦政府の強化は、「ニューディール」「フェアディール」「ニューフロンティア」と続く、政府による革新運動の最初の試みだった。しかし、トラストに対する認識が定まっていない時期でもあり、告発しても必ずしも「不当」とは判断されず、妥協せざるを得ない案件も多かった。また、都市部の新聞には社会主義的である、企業活動を混乱させ1907年の恐慌の原因になっている、と攻撃された。

  • またアウトドアスポーツ愛好家および自然主義者として、自然保護運動を支援。
    1886年には倫理的狩猟団体のブーン&クロケットクラブ(en:Boone and Crockett Club)を創設。このクラブはのちの1930年、国際野生動物保護アメリカ委員会(The American Committee for International Wild Life Protection)を設立し、さらにこの委員会が国際自然保護連合(The International Union for Conservation of Nature and Natural Resources)へと発展していった。バチカン教皇庁レジーナ・アポストロルム大学大学院教授のリッカルド・カショーリとアントニオ・ガスパリによれば、このブーン&クロケットクラブの幹部メンバーであったマディソン・グラントやヘンリー・フェアフィールド・オズボーンらが同時にアメリカ優生学協会のメンバーであったことに着目し、優生学運動と自然保護運動は、「人種改良」と「限られた資源の活用」という目的において連携していたと指摘している。

  • 世界の檜舞台での政策はそのスローガン「穏やかに話し、大きな棒を運ぶ。(大口を叩かず、必要なときだけ力を振るう)Speak softly and carry a big stick」によって特徴付けられた。パナマ運河の完成の後ろ盾となり、グレート・ホワイト・フリートを派遣してアメリカ合衆国の力を誇示し、日露戦争の停戦を仲介し、その功績でノーベル平和賞を受賞した。ノーベル賞を受賞した初のアメリカ人でもある。

1908年の大統領選に再出馬するのを断り、公職を退いた後はアフリカでサファリを行い、ヨーロッパを旅行。帰国後、自らの指名した後継者のウィリアム・ハワード・タフトとの間に大きな亀裂を生じた。1912年の大統領選でタフトから共和党候補の指名を手に入れることを試みたが、失敗すると革新党を結成。第3党の候補として選挙戦で2位となり、タフトには勝利したものの、ウッドロウ・ウィルソンが大統領に当選した。

 "Walrus"ウィリアム・タフト大統領("Walrus" William Howard Taft, 任期1909年〜1913年)の時代

「ドル箱外交」で有名。同国でいったん大統領を退任したのちに再び連邦の公職に就いた数少ない大統領のひとりであり、行政府と司法府の双方の長を務めた唯一の人物でもある。

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  • セオドア・ルーズベルトは大統領職を二期務めた後に、1908年の大統領選出馬を辞退し、代わり次の共和党大統領候補としてタフトを指名。ルーズベルトの支援で民主党候補ウィリアム・ジェニングス・ブライアンに圧勝。

  • 最初かつ唯一の任期でのタフト大統領の国内課題は独占禁止、官公庁の改革、州際通商委員会の強化、郵政業務の改善および憲法修正第16条の通過に強調された。対外政策では自ら「ドル外交」と呼んだ手段でラテンアメリカおよびアジアの発展途上国の経済発展を促進しようとした。しかしながら、有権者は彼から遊離し、二期目を目指した1912年の大統領選では大敗し再選に失敗した。

  • 最初かつ唯一の任期における国内課題は独占禁止、官公庁の改革、州際通商委員会の強化、郵政業務の改善および憲法修正第16条(アメリカ合衆国議会が所得税を課す権限を大きく制限した「ポロック対農夫貸付信託会社事件(1895年)」判決を撤回させ、議会は諸州や国勢調査に関係せず所得税を課すことができるようになった。)の通過であった。

  • また外交政策ではルーズベルト前政権の方針を引き継ぎながらも、ドル外交と呼ばれる経済力を背景とした武力を伴わない平和的な外交を目指した。その一環として東アジアでは門戸開放通牒の原則に従い、列強の対中侵食を抑えつつ、中国権益の平等的な分配を目指したが、かえって列強の反発を招いて頓挫した。また、中米地域でも欧州諸国の資本を排除して情勢の安定を図ったが、結果的にアメリカ自身が武力介入をわざるを得なくなり、かえって情勢が不安定となってしまった。

  • こうした展開から有権者の支持を失い、共和党のリベラル派(その多くはルーズベルト前大統領の政策に従い続けた)からの異議と争う展開に。

進歩的共和党員は、公然と1910年の議会選挙および1912年の共和党大統領予備選挙でタフトに挑戦。タフトが共和党指名を勝ち取った時、彼らは、本選挙でタフトに対抗するために新党(アメリカ進歩党または革新党、別名「ブル・ムース」)の結成と対立候補としてセオドア・ルーズベルトの擁立を計画した。ルーズベルトの進歩党からの立候補は共和党員の投票を二分し、民主党候補ウッドロウ・ウィルソンの勝利を招く結果となった。

ウッドロウ・ウィルソン大統領(Thomas Woodrow Wilson, 任期1813年〜1821年)の時代

第一次世界大戦におけるリーダーシップから、最も偉大な大統領の一人とされる。敬虔な長老派教会の信者であり、教訓主義の深い感覚をインターナショナリズムに取り入れたが、それは現在「ウィルソン主義」と呼ばれる。これはアメリカ合衆国が民主主義を標榜し国内外の政治体制の変革を追求することを使命と見なす立場であり、今日も議論されるアメリカの外交政策の指針となった。ただし、こうした成果は慈善家のクリーブランド・ドッジの協力なしには得られなかったとも。

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  • 1887年に執筆した論文『行政の研究』(The Study of Administration )において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離(政治行政二分論)を唱え、猟官制の抑制と近代的官僚制の再導入を提唱するとともに、研究領域的に政治学から行政学を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、フランク・グッドナウと並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている。

  • 合衆国大統領としては、当初の中立姿勢を放棄して戦争を終わらせるための戦争として第一次世界大戦への参戦を決断し、大戦末期にはウラジミール・レーニンの「平和に関する布告」に対抗して「十四か条の平和原則」を発表、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰、国際連盟の創設に尽力した。その功績により、1919年ノーベル平和賞を受賞。

  • ただし国際連盟成立のために様々な譲歩を余儀なくされ、期待を寄せていた人々からの失望を買った。また山東問題の譲歩などで、アメリカ全権団内からの支持も失ってしまう。それでもヴェルサイユ条約をはじめとする各講和条約が成立し、国際連盟も成立する運びとなったが、アメリカ上院は、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うという国際連盟規約10条が、モンロー主義を掲げるアメリカの中立主義に抵触すると反発した。側近はこの条項を受諾するに当たって留保条件をつけて上院の同意を得るべきだと説得したが、ウィルソンはこの譲歩に頑として応じず、その結果として上院は批准を行わず、アメリカは国際連盟に参加することはできなかった。

もともと偏頭痛が持病であったが1919年10月2日、コロラド州脳梗塞を発症、一命を取りとめたが、左半身不随、左側視野欠損、言語症と重い後遺症が残り、大統領としての執務は事実上不可能となった。しかし、主治医と大統領夫人のイーディスはこの事実を秘匿し、以後の国政の決裁はイーディスが夫の名で行う事になる。ウィルソンは長期間のリハビリを経た後、政権末期頃になってようやく閣議に出席できるまでに回復したが、言語に明瞭さは戻ったものの機械的で感情を欠き、政策も無為無策で事なかれ主義が目立つものとなった。こうした事態を収拾し職務を代行すべきであったトーマス・マーシャル副大統領は、そもそもウィルソンと不仲で副大統領職も半ば嫌々引き受けたという事情もあり、大統領の職務不能を知ってもあえて火中の栗を拾おうとはせず、いくつかの儀典に大統領の名代として参加したほかは、職務権限の代行は一切しなかった。こうした事実が明らかになったのは、実にウィルソンの死後になってからのことであり、これが後の大統領権限継承順位を明文化した憲法修正第25条制定の伏線となる。

ちなみにウィルソン大統領夫人で、1919年にウィルソンが倒れると非公式ながら2年間に渡って夫に代わって国政を預かったイーディス・ボリング・ガルト(Edith Bolling Galt、1872年 〜1961年)はポカホンタス末裔のボーリング家出身。

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実は植民地時代の最初期から白人と交際してきたポウハタン族 (Powhatan)の血筋って、米国政治的エリートの最頂点に継承されているのですね。そして時代はいよいよ「狂騒のJazz Age」に向けて暴走を開始…

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ウォレン・ハーディング大統領(Warren Gamaliel Harding, 任期1921年〜1923年)時代

大統領に選ばれた最初の現職上院議員であり、在職中に死去した6人目の大統領。禁酒法制定後もホワイトハウスで酒宴をたびたび催している。

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  • その保守主義、柔和な物腰、そして『敵を作らないでください』という選挙戦略により1920年共和党全国大会で大統領候補に選ばれる。第一次世界大戦の余波の中で行われた大統領選キャンペーンでは国の「正常」への復帰を約束。この「アメリカが一番」というキャンペーンは、外国の影響から独立した工業化と強い経済を促進する一方でセオドア・ルーズベルト大統領以来議会を支配していた進歩主義から離脱した。1920年の選挙では副大統領候補のカルビン・クーリッジと共に、アメリカ史上一般投票における得票率の最大差(60.36%対34.19%、26.2ポイント差)で民主党候補であり同じオハイオ州出身のジェームズ・M・コックスを破っている。

  • 大統領として「オハイオ・ギャング」と呼ばれた友人や政治上の貢献者に対して財政的に大きく報いた結果、彼の任期中はスキャンダルと不正が瀰漫することとなった。閣僚1名、被任命者数名が裁判で有罪となり、贈収賄および連邦政府に対する背任のため刑務所に送られている。

  • 内政面では所得税の累進性を弱め富裕層への大規模な減税を実施した。また、貿易では保護貿易政策を取り現在では考えられない程の高率な関税をかけた。その結果、アメリカ合衆国の失業率はハーディングの任期中に半減。また予算会計法を成立させ、今日の年度予算案の審議システムをつくった。合衆国における最初の児童福祉プログラムに署名し、坑夫や鉄道従事者のストライキに対応。

  • 外交面では国際連盟への加入を拒み、ドイツおよびオーストリアと単独講和条約と結んで第一次世界大戦を正式に終了させた。またワシントン会議(1921~1922年)を開催し、世界の海軍力削減を促進し、国際法廷へのアメリカ合衆国の参加を主張。「国際規模の軍縮」を口実に日本の海軍戦力の制限および日英同盟の破棄を行い、日本の台頭を防いだ。また、この会議で九カ国条約で中国に対する門戸開放政策を列強に認めさせ、極東におけるアメリカの覇権を確立する狙いもあった。

  • 1923年8月にアラスカ旅行からの帰路、カリフォルニアで病床に伏し死去。後任は副大統領のカルビン・クーリッジが引き継いだ。

大統領とし、議会にあまり介入せず、職務も閣僚に丸投げすることもあり、また任期中にいくつかのスキャンダルがあったため、その死後「アメリカ史上最も成功しなかった大統領」として評されたが、近年は評価が見直されている。

カルビン・クーリッジ大統領(John Calvin Coolidge, Jr., 任期1923年〜1929年)時代

副大統領としては目立たない存在だったが、1923年8月2日にハーディングが遊説先のサンフランシスコで急死すると、翌日の早朝に大統領に昇格。彼の家には電気も電話も通じていなかったので大統領死去の知らせを伝言人から口頭で受けた。日付がかわった8月3日の午前2:47、自宅の応接室で公証人である父親の立ち会いの下、灯油ランプの灯りで就任宣誓を行っている。首都ワシントンに戻ると最高裁判所長官ウィリアム・タフトの立ち会いのもと再度就任宣誓を行った。

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  • 現職大統領として1924年の大統領選に出馬し当選。その任期中に新媒体のラジオを利用し、1924年2月12日、ラジオ演説を行った初の大統領になった。また2月22日にはホワイトハウスからラジオ演説を行った初の大統領になった。

  • 景気循環に自然の経過をたどらせて自由市場に干渉することを試みなかった最後の大統領となった。彼の大統領職中にアメリカ合衆国は著しい経済成長を遂げ、その期間は「狂騒の20年代」と呼ばれている。税を低減させるだけでなく国債の縮小にも有能であり「必要以上の税を集めるのは合法的強盗である」との名言を残した。後のレーガン大統領は、クーリッジを敬愛し、大統領執務室に肖像画を掲げている。

  • いわゆる排日移民法と呼ばれる移民政策もクーリッジが大統領の時代に成立した。クーリッジ自身は「この法案は特に日本人に対する排斥をはらんでいるものであり、それについて遺憾に思う」という声明を出して否定的な立場をとったが、最終的には議会に屈して法案に署名をして成立させている。その一方で移民規制について「人種の混血は自然の摂理に反する事である」と談話を発表している。

1928年の大統領選では「大統領選に出馬しない」との簡潔な決定を発表して辞退。

 ハーバート・フーヴァー大統領(Herbert Clark Hoover、任期1929年〜1933年)の時代

商務長官在任中の1921年、ヘンリー・カボット・ロッジや他の上院共和党員の反対にもかかわらずロシア革命後の混乱により飢饉で苦しんでいるソ連や大戦後のドイツの人々に食糧支援を提供。その結果、評論家が共産主義ロシアを助けていなかったかどうか問い合わせた時に「2千万の人が飢えている。彼らの政治が何であっても彼らを食べさせるべきである」と反論。ニューヨーク・タイムズから「10人の最も重要な生きているアメリカ人」に選ばれた。

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  • 前年の大統領選挙で「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも車2台を!」というスローガンを掲げて圧勝。1929年3月4日に行われた就任式の大統領就任演説で「今日、われわれアメリカ人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利日に近づいている……」と語ったが、その見通しは甘すぎた。

  • 既に陰りが見えていたアメリカ経済は、10月の世界恐慌で未曾有の大不況に突入。それでも「不況はしばらくすれば元の景気に回復する」という古典派経済学の姿勢を貫き、国内においては、政府による経済介入を最小限に抑える政策を継続。その一方で対外的にはスムート=ホーリー法のもとで保護貿易政策をとった。このことは、世界恐慌を深刻化させた一因に数えられている。

  • 恐慌脱出に向けての道筋が見出せない中で発表された政策として有名なものが、第一次世界大戦で英仏に融資した戦債の返済を1年間猶予する「フーヴァーモラトリアム」である。この政策を実行すればその1年間の間に景気は回復するだろうと考えたが、次代の大統領フランクリン・ルーズベルトニューディール政策で民間経済にも積極的に介入したのに対し、政府や国家レベルでの対策しか講じず結果として景気をさらに悪化させることになってしまう。

  • シカゴのギャング・アル・カポネの逮捕については、精力的であったものの、一方で、ボーナスアーミーと呼ばれた退役軍人の恩給支払い要求デモの鎮圧を、陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサーに指示したが、越権され強力な弾圧を加えてしまい、大統領の管理能力を問われた。

  • 結局フーヴァーは、世界恐慌に対して有効な政策が取れず、赤十字頼みとなり、1932年の大統領選挙に挑み、対立候補の民主党フランクリン・ルーズベルト(第32代大統領)に40州以上で敗北する歴史的大敗を喫した。1933年の任期満了をもって大統領職を退き、政界から引退した。

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以降はニューディール政策への批評家となり、国家主義傾向に対する警告を発し続ける。さらに「自由への挑戦(The Challenge to Liberty)」を発表し、アメリカ古来の自由主義に敵対するファシズム共産主義社会主義について語っている。

進歩主義時代は遅くとも1932年までに終焉した」とは、こういう事か…

キリスト教原理主義は急速に支持を失い、わずかに残った原理主義者たちは時代遅れ、異端者として長く差別と迫害を受けることになる。1930年代以降彼らは中西部、南部に独自に教会や原理主義思想を教育する大学(「ボブ・ジョーンズ大学」など)を作り、文字通りその中に隠れ外界から隔絶されていく。その隔絶された「聖域」で彼らは思想を先鋭化させ、自分たち以外はすべて敵であると考えるようになり、自分たちはリベラルや無神論者と戦う神の戦士であるという極端な思想を再構築していく。彼らは息を潜めつつも50年代~60年代にかけてテレビ伝道などを駆使してじわじわと勢力を拡大、1970年代に入って一気に反撃をはじめることになる。

原理主義勢力が表舞台から去った後モダニズム一色になったわけではなく聖書を基本とした信仰中心の生き方を望む人達は少なくなかった。聖書の批判的な見方やリベラルな思想に反感を覚えるが原理主義のような過激な前千年王国思想も受け入れられないといういわば穏健な宗教保守思想の受け皿として1930年代以降登場するのが「福音派」と呼ばれる勢力である。彼らは30年代の恐慌という社会不安の中で勢力を拡大し、第二次大戦後から60年代のリベラルの時代の中でもリベラリズムを受け入れられない人びとを中心に着実に支持を集め、いわゆるアメリカの保守本流を形成する。

一方、裁判の実質的な勝者であるモダニストたちもまた、1930年代から第二次世界大戦のかけての暗い時代の中でその楽観的すぎる進歩思想は説得力を失い退潮する。代わってより現実的なリベラリズムが姿を現して行く。それはルーズベルト大統領が大恐慌からの脱却を目指して行ったニューディールという諸政策とそれを支持する「ニューディール連合」とよばれる連邦政府を支持する広範な人びとで長老派などのキリスト教主流派と黒人教会などからなる諸派だ。ルーズベルト政権以降第二次世界大戦終結後から1960年代末までに公民権運動や同性愛者の人権、フェミニズム運動などが一気に活性化しリベラリズムの時代をアメリカは謳歌する。

1960年代後半になると、ドラッグ、ヒッピー、フリーセックス、家族の崩壊、犯罪の増加、伝統的価値観の解体など「行き過ぎたリベラル」という問題を多くの人びとが感じるようになっていった。さらに70年代に入ってヴェトナム戦争の失敗、ウォーターゲート事件に代表される政治腐敗と巨額の財政赤字など連邦政府リベラリズムに対する失望感や社会不安が広くアメリカ社会を覆う中、キリスト教信仰に目覚める人びとが続出していった。彼らは聖書に帰る回心(ボーン・アゲイン)を告白し福音派勢力が一気に急拡大した。

そのような社会状況の中でテレビ伝道師だった原理主義指導者の一人ジェリー・ファルウェルはモラル・マジョリティという団体を設立し原理主義に限らず広く福音派などの宗教保守派を糾合して2000万人とも3000万人とも言われる巨大な宗教保守勢力(通称:ニューライト)を形成。ロナルド・レーガンの大統領就任を草の根レベルで支援し、政権に強い影響を及ぼした。80年代半ばにモラル・マジョリティは解散するが、一度作り上げられた巨大な保守勢力はその後も共和党と強固に結びつき宗教保守派の考える中絶禁止、同性愛結婚の禁止、学校での祈りの強制、宗教教育といった各種政策を主張する巨大な政策圧力団体と化して両ブッシュ政権を支援しクリントン政権と激しく対立していく。2004年時点の調査では宗教保守派は7000万人とも言われるように、保守とリベラルというアメリカの二つの思想の一翼を担う程に巨大化していくことになるのだった。

これぞまさにフィリップ・K・ディックアンドロイドは電気羊の夢を見るか?(Do Androids Dream of Electric Sheep?、1968年)」の世界。彼の愛弟子だったK.W.ジーターのTV系サイバーパンク小説に、必ずといってよいほど「カリスマ宣教師がTVを通じて伝教するカルト集団」が登場するのも、間違いなくこうした現実を踏まえた結果。

それでは、現代まで伝えられたのは何で、伝えられなかったのは何?

さて、私達はどちらに向けて漂流してるのでしょうか…