諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「悪いのは全て外国人」と決めつける大陸的流儀と「カミュの義憤」

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朝鮮半島には「良いものは全て北(中国、特に北京)から来る。悪いものは全て南(日本・東南アジア)から来る」という諺があるそうです。「韓国人は全員善人。悪をもたらすのは全て外国人(中国朝鮮族、東南アジア人、日本人、アメリカ人)」なる韓国エンターテイメント業界を牛耳る暗黙の了解も、要するにこの伝統に迎合したもの。

*韓国の映画監督ナ・ホンジンがハリウッドで高い評価を受けているのは、まさにこうした「大陸的伝統」に対する反逆的姿勢ゆえ。そもそも「韓国人は全員善人。悪をもたらすのは全て外国人(中国朝鮮族、東南アジア人、日本人、アメリカ人)」なる韓国エンターテイメント業界の「お約束」を世界に知らしめたのは、この人のニューズィークにおけるインタビューだったりする。かくして中国朝鮮族古代ギリシャ・ローマ風の悲劇的英雄に見立てた逆転劇「哀しき獣(황해、2010年)」や、ユダヤ人がイエス・キリストに向けたであろう「猜疑心に満ちた他者への眼差し」を「韓国人が日本人に抱く複雑な感情」と重ねた「哭声/コクソン(2016年)」などが製作される展開に。

*韓国では実際「人類平等の理念を達成する為、一刻も早く日本人や黒人や東南アジア人の様な劣等民族や心身障害者を一人残らず地上から撲滅しなければならない」と主張する「健康至上主義者」の放置が社会問題となっている。それはまさしくナチスの行動原理そのものなのだが、当事者はこれを達成する事が「ナチスを撲滅する事」で、それに反対する人間も全てナチスだと本気で信じ込んでいるから本当に始末におえない。なぜ放置されているかというと従北派や民族左派や宗教右派にとって(プロパガンダによる大量動員を可能とするという点において)利用価値があるからで、本当の問題は「(儒教時代まで遡る)党争における勝利を最優先課題と考える」伝統的思考様式にある様である。日本のリベラリズムも「韓国人の方が日本人より人道的に優れている」と主張し続けた結果、末端の若者達が感化されて点字ブロックを塞ぐ様にデモしたり、障害者トイレに「安倍政権のシンパめ!!」と落書きして「そもそも健康な若者より障害者が優遇される社会の方がナチス」と主張するのを容認せざるを得なくなる形でこれに巻き込まれた。実はアメリカのリベラリズムも「黒人デモに便乗して近隣の商店街で略奪を働くストリート・ギャング」や「フェイスブックLive拷問実況事件」を「人道的に十分許される範囲」と擁護せざるを得なくなったし、別に日本だけの問題でもなかったりする。

*実は最近ネットを賑わせた「安倍を吊るせ」「奇妙な果実にしちまえ」事件も「(一般黒人の信用を完全に失った)黒人公民権運動の残党」が今や「白人全員を奇妙な果実にしちまえ!!」と連呼する様になったのを模倣したに過ぎないと考えれば十分納得がいく。1970年代には本多勝一が「アメリカはインディアンと黒人が白人を皆殺しにするまで正常な国には戻らない(そしてその日はほどなくやってくる)」と主張していたのを思い出す。ある意味種は既に当時から撒かれていたのである。

とはいえ日本においてもまた「日本における悪事は全て在日か北朝鮮か中国の工作員が関与している」などと連呼している連中については同類の誹りを免れ得ません。アメリカ人なら「フランス人の同類かよ?」と言い出しかねない有様。そうフランスにもまた、すぐ「悪人は全てアフリカの元植民地から渡ってくる」と言い出す「大陸的悪癖」がしっかり根付いているのですね。「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー(Captain America: The Winter Soldier、2014年)」においても、とある海賊/国際的テロリストがフランス国籍である指摘がなされると、フランスのエージェントが即座に「そいつはアルジェリア人に決まってる!!」と決めつける場面がありました。あまり見習いたくないステロタイプではあります。

 この辺りの話題、穿り返すと案外深いのです。

アルジェリア(アルジェリア民主人民共和国)

北アフリカマグリブに位置する共和制国家。東にチュニジアリビアと、南東にニジェールと、南西にマリ、モーリタニアと、西にモロッコ、サハラ・アラブ民主共和国と国境を接し、北は地中海に面する。地中海を隔てて北に旧宗主国のフランスが存在する。首都はアルジェ。

  • 正式名称は、الجمهورية الجزائرية الديمقراطية الشعبية (ラテン文字転写 : al-Jumhūrīya al-Jazā'irīya al-Dīmuqrātīya al-Shaʿbīya)。通称はジャザーイル الجزائر (al-Jazā'ir)。日本語表記は、アルジェリア民主人民共和国。通称、アルジェリア。漢語表記は、阿爾及利亜または阿爾及

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  • アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合アラブ連盟と地中海連合とアラブ・マグレブ連合に加盟している。2011年の南スーダン独立によりスーダンが分割され領土が縮小したことで、スーダンを超えてアフリカ大陸において最も領土が広い国となった。世界全体でも第10位の領土面積である。

  • アラビア語名のジャザーイルは、首都アルジェのアラビア語名と同じで、「アルジェを都とする国」といったような意味合いである。英語名など欧米諸言語や日本語の国名アルジェリアは、ジャザーイルに定冠詞のアルがついたアル=ジャザーイルが転訛した Alger に地名語尾の -ia を付して作られた。ジャザーイルの原義はジャジーラ(「島」、カタールのテレビ局「アル ジャジーラ」と同じ語)の複数形で、「島々」を意味する。

新石器時代の住人は、タッシリ・ナジェール遺跡を遺した。紀元前には内陸部にベルベル人が存在した。沿岸部にはカルタゴの植民都市が存在したが、ポエニ戦争を経てカルタゴは滅亡し、ベルベル人ヌミディア王国もユグルタ戦争やローマ内戦を経て、最終的にユリウス・カエサルの征服によってローマ共和国の属州となった。その後ゲルマン系ヴァンダル族の征服、東ローマ帝国の征服を受けた。

基本政策は非同盟中立、アラブ連帯であり、1960年代から1970年代まではキューバ北ベトナムと共に第三世界諸国の中心的存在だったが、1979年のシャドリ政権以降は現実主義・全方位外交を基調としている。近年はG8諸国を中心に先進国との外交活動を積極的に推進。これはここ数年のアルジェリアはテロのイメージが強く、それを払拭するためである。この努力の結果、アルジェリアへのイメージも改善されてきている。

モロッコが大部分を実効支配する西サハラの独立を訴えるサハラ・アラブ民主共和国ポリサリオ戦線を一貫して支持し続け、アルジェリア領内には西サハラ難民の難民キャンプが存在する。

 ここで日本共産党同様に民主集中制共産党独裁)実現に執着してきた「モスクワの娘」フランス共産党と激しく対立してきたとある文学者の名前が浮上してきます。

アルベール・カミュ(Albert Camus、1913年〜1960年)

フランスの小説家、劇作家、哲学者。フランス領アルジェリア出身。第二次世界大戦中に刊行された小説『異邦人』、エッセイ『シーシュポスの神話』などで注目され、戦後はレジスタンスにおける戦闘的なジャーナリストとして活躍。また『カリギュラ』『誤解』などを上演し、劇作家としても活動した。戦後に発表した小説『ペスト』はベストセラーとなったが、エッセイ『反抗的人間』において左翼全体主義を批判し、反響を呼んだ。小説『転落』発表の翌年、1957年、史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞。1960年、交通事故により急死し、未完に残された小説『最初の人間』が1994年に刊行された。タレントのセイン・カミュは従孫(兄の孫)にあたる。

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  • 1913年、フランス領アルジェリアのモンドヴィ(現ドレアン)近郊に生まれる。父リュシアン・オーギュスト・カミュは、農場労働者であったが、19世紀初め彼の祖父がフランスからアルジェリアに渡ってきた。父リュシアンはスペイン系の大家族の娘であるカトリーヌ・サンテスと結婚、リュシアンとカミュの二人の息子をもうけている。しかしカミュが生まれた翌年、この父はマルヌ会戦で戦死した。以後母と2人の息子はアルジェ市内のベルクール地区にある母の実家に身を寄せた。この家には祖母のほかに叔父が一人同居していたが、聴覚障害のあった母親も含め、読み書きできるものは一人もいなかった。カミュはこの家で、貧しくはあったが地中海の自然に恵まれた幼少期を過ごした。

  • 1918年に公立小学校に入学。貧しいサンテス家ではもともと高等学校へ進学する希望はなかったが、この学校の教諭ルイ=ジェルマンはカミュの才能を見抜いて彼の家族を説得し、おかげで1924年に、奨学金を受けながらアルジェの高等中学校リセ=ビジョーに進学することができた。
    カミュは彼から受けた恩を生涯忘れず、ノーベル賞記念講演の出版の際に「ルイ=ジェルマン先生へ」との献辞を添えている。

  • リセ時代はサッカーに打ち込み、ときにアルバイトなどしながらも優秀な成績を取っている。しかし1930年より結核の徴候が現れやがて喀血、病院を退院後もしばらく叔父の家で療養生活を送った。この結核は以後生涯を通じてカミュの健康をおびやかすことになる。

  • またリセ時代にその教員であるジャン・グルニエと出会っており、彼の著書『孤島』やアンドレ・ド・リショーの『苦悩』などに触発されながら文学への志望を固めていった。グルニエとは卒業後も書簡を通じて交流を保ち、のちにグルニエは『回想 アルベール・カミュ』を著している。

  • 1932年、バカロレアに合格しアルジェ大学文学部に入学。在学中の1934年に眼科医の娘であったシモーヌ・イエと学生結婚するが、これをきっかけに結婚に反対していた叔父と疎遠になり、アルバイトやイエの母親からの支援を受けながら学生生活を続けた。しかし奇矯で派手好きなシモーヌとの生活はやがて破綻し、後に離婚にいたることになる。

  • 1935年にはグルニエの勧めもあって共産党に入党している。共産主義の思想自体にはそれほど共感を寄せていなかったが(マルクスエンゲルスもほとんど読んでいなかった)、党の文化活動の一環として劇団「労働座」の創設に関わり、アンドレ・マルローの『侮蔑の時代』を翻案し舞台にあげるなどした。しかし党幹部とアラブ人活動家たちとの間で板ばさみになり、最終的に党から除名処分を受ける。

  • 1936年5月、学位論文「キリスト教形而上学ネオプラトニズム」を提出しアルジェ大学を卒業。1937年5月には処女作となるエッセイ集『裏と表』を出版するが、生活の安定のため12月からアルジェ大学付属の気象学・地球物理学研究所でデータ整理の職に就く。

  • 1938年、パスカル・ピアに誘われ人民戦線寄りの新新聞『アルジェ・レピュブリカン』(のち夕刊紙『ソワール・レピュブリカン』となる)の記者となり、冤罪事件や植民地経営の不正を暴く記事を書いた。平行して『異邦人』の原型となった小説『幸福な死』を書き上げるが、これは完成度に不満があったため出版を見合わせている。

  • 1939年、第二次世界大戦の開始にともない徴兵を志願するも、健康上の理由で拒否される。戦争開始前後より『ソワール・レピュブリカン』紙上で、当局の厳しい検閲を受けながらで平和主義を唱え続けており、1940年、このために同紙は発行停止処分となった。同紙から責任を問われ解雇されたカミュは、しかしまたもパスカル・ピアの助力で『パリ・ソワール』紙の編集部に雇われ、ここで印刷関係の仕事をしつつ、その傍らで不条理をテーマにした三部作『異邦人』『シーシュポスの神話』『カリギュラ』を書き進めていく。

  • 1940年、ナチスドイツによりパリが占領されると、『パリ・ソワール』紙編集部の移動に伴って自由地区のクレルモン・フェラン、ついでリヨンへと移り、占領体性下の1940年12月に同地にてオラン出身の女性フランシーヌ・フォールとの婚姻届を提出した。しかし物資の不足と読者の減少から『パリ・ソワール』紙でも人員整理が進み失業。妻の実家のある北アフリカのオランに一時身を寄せる。この地で前述の三部作を完成、さらに『ペスト』の執筆に着手するが、1942年に喀血し、療養のため夫妻でフランス自由地区シャンボン・シュール・リニョン付近の小村ル・パヌリエに移る。そして6月に小説『異邦人』、12月にエッセイ『シーシュポスの神話』を刊行した。1943年からは非合法誌『コンバ(戦闘)』の発行に関わり、また占領下のパリでサルトルボーヴォワールらとも知り合い親交を深めた。

  • 1944年8月のパリ解放後は、それまで地下発行であった『コンバ』を公刊し同紙の編集長となる。なお同紙でカミュは対独協力派(コラボ)に対しては厳しい姿勢を取り、極刑もやむなしという意見を示して寛容派のフランソワ・モーリヤックと対立したが、後に自説を修正し死刑には反対するようになった。終戦前後にはまた『カリギュラ』『誤解』が上演され、1946年にはアメリカのコロンビア大学に招かれて講演を行い、現代に蔓延する物質崇拝に警鐘を鳴らす。同年、ガリマール社の企画審査委員会のポストにつき、ここで無名の思想家だったシモーヌ・ヴェイユを発見し彼女の叢書を企画、彼女の「永久反抗論」に影響を受ける。

  • 1947年、極限状態での市民の連帯を描いた小説『ペスト』を刊行、復興期のフランス社会で幅広い読者を得てその文名を高めたが1952年に刊行されたエッセイ『反抗的人間』は毀誉褒貶を受け、特にサルトルは一切の政治的暴力を斥けるその「反抗」の論理を、革命へと踏み出さない曖昧な態度だとして徹底的に批判した(カミュ=サルトル論争)。さらにカミュは故郷で起こったアルジェリア戦争に対しても、フランスとアラブの共同体という考えを捨てきれずに曖昧な態度を取って批判を受け、これらによってフランスにおける立場が次第に孤立を深めていく。

  • 1956年、現代人の二重性と罪の意識をテーマにした中編『転落』を発表、翌年6篇からなる短編集『追放と王国』を発表。同年、彼の「この時代における人類の道義心に関する問題点を、明確な視点から誠実に照らし出した、彼の重要な文学的創作活動に対して」ノーベル文学賞が贈られた。当時カミュは43歳であり、これは戦後では最年少の受賞である(史上最年少はキプリング)。受賞後、プロヴァンス地方の田園地帯ルールマランに家を構え、しばしばパリとの間を往復する生活を送る様になる。

  • 1960年、友人ミシェル・ガリマール(ガストン・ガリマールの甥)が運転する自動車(ファセル・ヴェガ)でパリに向かう途中、ヨンヌ県ヴィルブルヴァンにおいてタイヤがパンクし、立ち木に衝突し事故死(カミュは即死、ガリマールも手術中に死亡。同乗していたガリマールの妻子は怪我だけで済んだ)。
    *当時の報道では、スピード超過(時速180km)や運転していたガリマールのてんかんの発作(並木模様によって引き起こされた)、それにいっそう可能性が高いものとしてタイヤのパンクが指摘されているが、イタリアの大学人であるジョヴァンニ・カテッリGiovanni Catelli は、2011年、『コリエーレ・デラ・セラ』で仮説を進め、KGBによって暗殺されたとしている。これは、カミュが『Franc-Tireurs』紙(1957年3月)で発表した記事において、ハンガリー動乱(1956年)制圧でソ連外相ドミトリー・シェピーロフを非難したことから、シュピーロフがKGBに指令を出したというものである。作家のルネ・エチアンブルは「ずっと調査してきて、このファセル・ヴェガが棺であったという証拠を握っているが、私の記事を公表したいという新聞は探したものの見つからなかった」と発言している。

  • 未完の自伝的小説『最初の人間』が遺稿として残された。

その著作は「不条理(absurde)」という概念によって特徴付けられている。彼のそれは、明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性のことであり、そのような運命に目をそむけず見つめ続ける態度を「反抗」と呼んだ。そして人間性を脅かすものに対するこうした態度の共有が人々の間で連帯を生むとした。

  • その思想的な近さから実存主義者に数えられることがしばしばあるが、当人は実存主義との関係をはっきり否定している。『シーシュポスの神話』の中でもキルケゴール、シェストフ、ヤスパース実存主義哲学者の名を挙げ、その思想が不条理から発していながら最終的に不条理の世界から飛躍し、理性の否定へと向かってしまう「哲学上の自殺」だとして批判している。

  • カミュによれば、それは単にあるものの感覚や印象の検討から生じるものではなく、馬鹿げた計画と明白な現実との比較、理に合わない結果と当然予想される結果との比較というように、「事実としてのある状態と、ある種の現実との比較から、ある行動とそれを超える世界との比較から噴出してくる」ものであり、したがってそれは人間のなかにあるものでも世界にあるものでもなく「両者の共存のなかにあるもの」「両者を結ぶ唯一のきずな」とした。さらには自殺をこの苦境を直視しない態度として退け、逆にこれを明晰な意識のもとで見つめ続ける態度を「反抗」と言い表し、それが生を価値あるものにするものだとして称揚する。

『反抗的人間』においてはこの「反抗」に対する考察をさらに深めた。

  • 「反抗」とは、例えば長く虐げられてきた奴隷が突然主人に対して「否(ノン)」を突きつける態度である。このときこの「否」には、「これ以上は許すことができない」という境界線の存在が含意されている。つまり境界線の外側のものを「否」として退け、内にあるものを「諾(ウイ)」として守ろうとすることであり、言い換えれば自分の中にある価値に対する意識である。

  • そして不条理の体験が個人的な苦悩に終わるのに対して、他者に対する圧迫を見ることからも起こりうる反抗は超個人的なものであり、そこから連帯が生まれる。また『反抗的人間』ではかなりのページを割いて革命を中心とした歴史の記述に当てられており、そこでは「無垢への郷愁」であるところの反抗から起こったあらゆる革命が必然的に自由を縛る恐怖政治と全体主義へと変貌していく様子が執拗に繰り返し描写される。

しかし革命に必要な政治的暴力を批判するこのような態度は(コミュニストでもある)サルトルとの間の論争を呼び起こすことになった(カミュ=サルトル論争)。

  • 論争の直接のきっかけはフランシス・ジャンソンサルトルの雑誌『レ・タン・モデルヌ(近代)』に『反抗的人間』に対する批判的書評を載せたことで、これに対してカミュサルトル宛に反論、さらにジャンソンサルトルが反論するという形で起こったが、ここでサルトルカミュの思想を曖昧な態度と見なし、彼がモラリスムに陥り「美徳の暴力をふるっている」として徹底的に批判したのである。

  • この論争ではカミュの文章が文学的な曖昧さを持つこともあり、論理の明晰さにおいてサルトルのほうが優勢なのは明らかだが、カミュの思想もまた革命や党派性の限界を示すものとしてその意義を失っていないばかりか、左翼革命の幻想が潰えた今日ますます価値を高めている。

  • カミュの文学的営為は、病気、死、災禍、殺人、テロ、戦争、全体主義など、人間を襲う不条理な暴力との闘いだった。その一方で一貫してキリスト教や左翼革命思想のような上位審級を拒否し、超越的価値に依存することなく、人間の地平にとどまって生の意味を探しもとめた。彼は「父」としての「神」も、その代理人としての「歴史」も拒否している。

彼は何よりも時代に妥協しない証言者であった。絶えずあらゆるイデオロギーと闘い、実存主義マルクス主義と対立。ソビエト全体主義に対する批判は、彼をコミュニストたちと対立させ、サルトルと絶交するに至る。彼の著作のヒューマニズムは、歴史の最悪の時期における経験のなかで鍛えられたものであり、この意味で、彼は20世紀のもっとも高いモラルを体現した人物のひとりとされる。

 Wikipediaでは、この項目においてのみ「アルベール・カミュは母親がユダヤ系だが、カミュ家はアルザス出身のプロテスタントユダヤ系ではない」という指摘が欠落してるのが興味深いところです(他のWikipediaの項目にはある)。そもそも国際的にはカミュの提言した「不条理」の概念も「カミュ=サルトル論争」も「ナチスに屈したヴィシー政権北アフリカにおけるユダヤ人に対する不当な仕打ち(厳密な意味ではユダヤ人ではないにもかかわらず、カミュもその煽りを食らって失職し続けた)」および「それを全く反省せず、全てナチスの強制だったという方向で片付けようとするフランス本国の有識者達への義憤」を抜きには語り得ないとされているのですが、日本においては「人道的配慮」からそういう一切がなかった事にされてるんですね。

ヴィシー政権によるユダヤ人並びに外来者に対する法 - Wikipedia

*というか「ドイツもフランスもナチス問題清算を自力で成し遂げた人道先進国。日本はそれが一切出来てない人道後進国だから間も無く崩壊する」というプロパガンダに今日なお動員され続けている人々がいるというのが正解とも。彼らは現実の人間社会には一切関心がないので、最後には必ず「沖縄独立に賛成してる沖縄人はたった4%に過ぎないというが、96%を粛清すればその数字はたちまち100%となる。多数決の原理なんて所詮はその程度の指標に過ぎない」式の思考様式に陥ってしまう。それがベネディクト・アンダーソンいうところの「(実際の歴史上何があったかとは一切関係ない)創造された市民革命」が必然的に行き着くポルポト派的終着地点とも。

こうした欺瞞の積み重ねこそが日本のリベラリズムを窒息状態に追い込んだ? ある意味「積み木崩し」の最終局面とも…