諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【レッドタートル】「ブレンダンとケルズの秘密」見ました。①アイルランド神話と浦島太郎

海外の評論家から「こんなの全部単なるディズニーとジブリのパクリに過ぎない。そんなもの発表して恥ずかしくないのか?」と総攻撃される一方で国際SNSではカルト的人気を獲得したトム・ムーア監督作品「ブレンダンとケルズの秘密(The Secret of Kells、2009年)」。日本でちゃんとした形で封切られた事がないのもそのせい?

真逆にフランスの評論家から「これはディズニーともジブリとも全然違う世界史に残る作品」とベタ褒めされながら国際SNS上において伝説的規模で猫またぎされたマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督作品「レッドタートル ある島の物語(原題The Red Turtle、仏題La Tortue rouge)」について触れたら、どうしてもこの作品について触れざるをえません。何がそんなにもこの作品の国際SNS上での評価を分けたのか。

これまでの投稿の過程で既にヒントだけは拾い集めてきました。

  • 「ディズニー作品やジブリ作品をLove Storyとして楽しんできたのに、梯子を外されてご機嫌斜めの海外女子層(通称「ゴジラ」)」は「ブレンダンとケルズの秘密」を選び「レッドタートル」は選ばなかったという事。という事は「ブレンダンとケルズの秘密」は「レッドタートル」と異なり、ちゃんとLove Storyとしてトリミングされているという事。

  • 「レッドタートル」が「もう原子力発電どころか火力発電も水力発電もいらない。人間が人間らしく生きるには火すら捨てねばならぬ」とか「やはり女は男に屈服する事でしか人間になれないのだ」と主張する人々を異様にハッスルさせ、しかも彼らがどんなに頑張っても決っして勝利の日は訪れないというニュアンスにおいてのみ「セカイ系」の条件を満たした作品だったのに対し、ブレンダンとケルズの秘密」は「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」なる条件を真正面から満たすセカイ系王道作品だったという事。

  • むしろそれゆえに世界にはトム・ムーア監督作品に一切にオリジナリティを認めず、国際秩序を守り抜く為、その存在そのものをなかった事にしたいと考える人達がいるという事(まさしく「セカイ系大戦」?)。しかしよく考えてみたら、実はそれこそがカウンター・カルチャーの正しい始まり方とも。
    サウスパークの名言「大人が恐がって禁止しない玩具なんて、もう子供が欲しがらないんだぜ」を思い出す。安部公房の「罰がなければ逃げる楽しみもない」?

どうしてこうなった? ヒントはアイルランド神話そのものに?

 そもそも海外ネットではしばしば「日本の伝承とアイルランドの伝承には思わぬ共通項が‼」という話が話題となります。

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というか、欧州にはそもそもアイルランド以外に「紀元前10世紀以前の民間伝承が記録に残された地域」がないんですね。当時のケルト人修道士達がそれを排除するどころか喜んで集めたせいです。

 一方当時の日本は国家統一事業の真っ最中。在地有力者を懐柔する材料に使うべく現地伝承をせっせと集めてました。大陸の諸王朝に比べれば後発組もいいところですが、それでも欧州と比べると遥かに恵まれた環境にあります。

ちなみに北欧神話が文字記録に残される様になるのはヴァイキングのキリスト教化に重要な役割を担ったノルウェー王オーラヴ1世(古ノルド語:Óláfr Tryggvason、ノルウェー語:Olav Tryggvason、在位995年〜1000年)以降とされています。

http://www.historic-uk.com/assets/Images/luttrellarchery.jpg?1430303998

  • 古英語で記された叙事詩「ベオウルフ(Beowulf、8世紀〜9世紀成立)」10世紀と12世紀の合冊写本のうち10世紀末〜11世紀初頭の可能性もある箇所に記されていた。またデンマーク王国ノルウェー王国の連合軍にイングランド軍が撃破された「モールドンの戦い(991年)」を歌った「Battie of Maldon」もわずか325行の断片が残るのみで冒頭も結末も失われているが貴重な記録とされる。どちらも「指輪物語」作者のJ.R.R.トールキンの研究で知られる。

  • 「サガ(アイスランド語saga 複数形sögur、約200点、9世紀〜14世紀、叙事詩)」「サットル(アイスランド語þáttr、複数形: þættir セーッティル。13世紀〜14世紀、物語)」。スカルド詩(吟唱詩、9世紀〜13世紀、宮廷律の韻文詩)といった古ノルド語文献。

  • 1643年にアイスランドのスカールホルトで司教ブリュニョールヴル・スヴェインスソン が発見した「王の写本(アイスランド語Konungsbók、ラテン語Codex Regius、1270年代編纂)」などに収録されていた「古エッダ(Elder Edda)」あるいは「詩のエッダ(Sæmundar-Eddu)」。収録内容自体は9世紀から13世紀にかけて成立したと考えられている古ノルド語歌謡集(詩群)。

  • ブレーメンのアダムの著した「ハンブルク教会史(Gesta Hammaburgensis ecclesiae pontificum、1073年〜1076年)」やサクソ・グラマティクスの著した「デーン人の事績(Gesta Danorum、12世紀)」といったラテン語文献。

  • アイスランドの詩人スノッリ(Snorri Sturluson, 1178年/1179年〜1241年9月23日)が著したノルウェー王朝史「ヘイムスクリングラ(古ノルド語heimskringla。「世界の輪/環」の意、1220年代〜1230年代初頭)」や「スノッリのエッダ(Snorra Edda、1220年頃、散文のエッダ)」。古ノルド語文献。
    寺田寅彦 春寒

まだまだ欧州の中心がフランスやイギリスではなかった時代。ノルマン地方と南イタリアイングランドを支配下に置き「十字軍国家」アンティオキア公国を建てたノルマン人を中心としてアストゥリアス人(西ゴート王国末裔)やブルゴーニュ人(ブルグント王国末裔)やロンバルティア人(ランゴバルト王国末裔)の緩やかな紐帯が欧州文化の中心を為していた時代。当時のそうした営みはロマネスク文化(英romanesque、仏roman(ロマン)、独 Romanik(ロマーニク)、伊romanico(ロマーニコ)、10世紀末〜12世紀)と総称される事もありますが12世紀後半からパリ近郊を震源地に花開くゴシック文化と異なり中央集権制は欠いてました。
*日本史でいうと律令制浸透によって部族連合状態の解体が進行した8世紀〜10世紀に該当するとも。

その彼らは9世紀以前にはまだまだ属領連合の域にすら到達しておらず、散発的に襲来してくるヴァイキング(北方諸族の略奪遠征)として北海沿岸に散在するケルト系修道院の存続を脅かしていました。「ダロウの書(Book of Durrow、7世紀)」「リンディスファーンの福音書(The Lindisfarne Gospels、7世紀末から8世紀初頭)」「ケルズの書(The Book of Kells、8世紀)」といったケルト装飾写本が制作されたのはそうした時代。

そして当時のアイルランド神話はアイルランドに初めてキリスト教を広めた聖パトリック(Patricius, 387年?〜461年)に超自然的寿命を全うしてきた語り部が語る体裁で残される事が多かったのです。

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 ところでアイルランド神話におけるフィアナ騎士団といえば真っ先に念頭に浮かぶのはこの人ですが…

【ケルト神話】フィオナ騎士団のディルムッド・オディナ(Diarmid O'Dyna)

フィオナ騎士団最強の戦士。美貌の持ち主で、愛と美を司る神にして妖精王オェングスを育ての親に持つ。

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二人目の妻マニーサと死別したフィオナ騎士団の団長フィン(アイルランド語で「金髪」の意)は、新たな妻としてグラーニャ(Grainne)を迎え入れるが、彼女に仲間であったディルムッドと駆け落ちされる。後に和解するもフィンはディルムッドを許し切れず死に追いやり、晩年には配下との間に深い溝を作る。
グラーニア - Wikipedia

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コーマック王の息子で王座を継いだケルブレは、強大になりすぎたフィアナ騎士団の排除を目論み、その戦いの中でフィンは五人の敵兵に槍で貫かれ戦死した。 この戦いでフィアナ騎士団も壊滅したという。

「フィアナ騎士団(Fiana、アイルランド語で「兵士」の意)」

三世紀頃、エリン(アイルランドの古い呼び名)の上王コーマック・マック・アートに仕えたフィアナ・フィン、すなわちフィン・マックールが団長を務めた集団。クー・フーリンが活躍したアルスター伝説のさらに300年後の伝説と、フィン物語群で構成される伝承である。団員は全員、母親がダーナ神族とされる。フランスの武勲詩ローランの歌に登場する十二勇士、アーサー王率いる円卓の騎士の原型とされる。
*ただこの「三世紀頃」は日本の古事記や日本書記の年代同様、かなり恣意的に割り当てられたもの。

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幼少期から老年に至るまで活躍するフィンの伝説は再話され、民話などで多くの変化を見せている。 その死についても、禁忌を破ったためボイン川で溺死したとも、アイルランドに危険が迫るまで眠り続けているという、アーサー王とアヴァロンの伝承を思わせる伝説も残っている。 巨人フィンとしての伝説もあり、アイルランド北部の海岸には六角形の石柱の連なる景観が広がる「巨人の石道(Giant's Causeway)」という場所があるが、これは巨人フィンが造ったといわれており、現在では世界遺産に登録されている。

https://kotobank.jp/image/dictionary/daijisen/media/110887.jpg

実はフィアナ騎士団にはこんな人も混ざってました。

【ケルト神話】「フィオナ騎士団のオシーン」に関する伝承

フィン団長の息子オシーン(Oisín、アイルランド語で「若鹿」の意)は優れた狩人にして天賦の才に恵まれた詩人だったが、常若の楽園(ティル・ナ・ノーグ)に赴き、異界の王として3年を過ごす。だが、その間に地上では300年の月日が流れていた為、帰郷して約束を破った途端に朽ちた老人になってしまう。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b6/Fran%C3%A7ois_Pascal_Simon_G%C3%A9rard_001.jpg

古歌を作詩し、非常な老齢まで長生し、世紀を経て聖パトリックらに故事を語ったとされている。元来「フィン物語群」は彼が歌ったとされ19世紀まで"Ossianic Cycle"と呼ばれていた。

古代ギリシャ神話に登場する吟遊詩人オルペウスの影響を受けてるといわれる事も。

「古代ギリシャ神話に登場する吟遊詩人オルペウス(Orpheus)」

アポローンより伝授されたとされる竪琴の技は非常に巧みで、彼が竪琴を弾くと、森の動物たちばかりでなく木々や岩までもが彼の周りに集まって耳を傾けたとされる。

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  • イアーソーン率いるアルゴー船探検隊(アルゴナウタイ)にもヘーラクレースらとともに加わった。人間を歌で誘惑し殺害する女魔物セイレーンに歌合戦を挑み一座を鼓舞、無事に海峡を渡った。このとき、ただ1人テレオーンの子ブーテースのみが誘惑に負けて命の危機に陥ったが、アプロディーテーが彼を奪ってリリュバイオンに住ませた。

  • 妻エウリュディケーが毒蛇にかまれて死ぬと、彼女を取り戻す為に冥府に入った。彼の弾く竪琴の哀切な音色の前に、ステュクスの渡し守カローンも、冥界の番犬ケルベロスもおとなしくなり、冥界の人々は魅了され、みな涙を流して聴き入った。ついにオルペウスは冥界の王ハーデースとその妃ペルセポネーの王座の前に立ち、竪琴を奏でてエウリュディケーの返還を求めた。オルペウスの悲しい琴の音に涙を流すペルセポネに説得され、ハーデースは「冥界から抜け出すまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」という条件を付け、エウリュディケーをオルペウスの後ろに従わせて送った。目の前に光が見え、冥界からあと少しで抜け出すというところで、不安に駆られたオルペウスは後ろを振り向き、妻の姿を見たが、それが最後の別れとなってしまう。

  • 妻を失ったオルペウスは女性との愛を絶ち、オルペウス教を広め始めた。ディオニューソスがトラーキアに訪れたとき、オルペウスは新しい神を敬わず、ただヘーリオスの神(オルペウスは、この神をアポローンと呼んでいた)がもっとも偉大な神だと述べていた。これに怒ったディオニューソスは、マケドニアのデーイオンで、マイナス(狂乱する女)たちにオルペウスを襲わせ、マイナスたちはオルペウスを八つ裂きにして殺した。マイナスたちはオルペウスの首をヘブロス河に投げ込んだが、その首は歌を歌いながら河を流れくだって海に出て竪琴と一緒にレスボス島まで流れ着いた。島人はオルペウスの死を深く悼み、墓を築いて詩人を葬った。以来、レスボス島はオルペウスの加護によって多くの文人を輩出することとなった。

また、彼の竪琴はその死を偲んだアポローン(一説にはアポローンの懇願を受けたゼウス)によって天に挙げられ、琴座となった。

  • ちなみに「オルペウスの妻エウリュディケーが蛇にかまれて死に、その後オルぺウスが彼女を日光のもとにつれもどそうとして失敗する物語」は後世の神話にだけ登場。

  • どうやら元話は「ディオニューソスの祭祀オルぺウスが、彼の歌の調べに魅せられた蛇神へカテーの案内で(ディオニューソスの母たる)セメレーを探してタルタロス(冥府)に入り歓迎される」といった内容で、オルフェウス教では秘儀としてこれが演じられていたとも。
    Orpheus(オルペウス)
    Eurydike(エウリュディケー)

中世の詩人達はエウリュディケーをイングランド女王エウロディスと考え「神から生まれたウインチェスターオルフェオ卿」を夫に配している。

一方「フィオナ騎士団のオシーン」の伝承についてはこんな指摘もあります。8世紀初旬にはもう諸々の書に収録されていた日本の御伽話「浦島太郎(浦嶋子)」の類話だったりするんじゃないかと。

http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/06_vol_107/image/feature02_photo01.jpg

日本書紀(720年完成)」雄略紀雄略天皇22年秋7月条

原文:(雄略天皇)廿二年(中略)秋七月。丹波國餘社郡管川人瑞江浦嶋子乘舟而釣、遂得大龜、便化爲女。於是浦嶋子感以爲婦、相逐入海、到蓬莱山歷覩仙衆。語在別卷。

読み下し文:丹波国余社郡の管川の人、端江浦島の子、舟に乗りて釣りす。遂に大亀を得たり。便に女に化為せる。是に、浦島子、感りて婦にす。相遂ひて海に入る。蓬莱山(とこよのくに)に到りて、仙衆(ひじり)を歴り(めぐり)観る。語は別巻に在り。

大意:丹波国餘社郡(現・京都府与謝郡)の住人である浦嶋子は舟に乗って釣りに出たが、捕らえたのは大亀だった。するとこの大亀はたちまち女人に化け、浦嶋子は女人亀に感じるところあってこれを妻としてしまう。そして二人は海中に入って蓬莱山へ赴き、各地を遍歴して仙人たちに会ってまわった。この話は別の巻でも触れられている通りである、
*「蓬莱山(とこよのくに)」とは「常世の国」のことであり、不老不死の理想郷とされる世界である。不老不死という考えは、中国に起源を持つ道教の中核的思想である神仙思想によるところが大きい。道教的な要素が含まれているとの解釈もある。

丹後国風土記(8世紀成立。現在は逸文のみ現存)」「筒川嶼子 水江浦嶼子」

原文:與謝郡日置里此里有筒川村此人夫日下部首等先祖名云筒川嶼子爲人姿容秀美風流無類斯所謂水江浦嶼子者也是旧宰伊預部馬養連所記無相乖故略陳所由之旨長谷朝倉宮御宇天皇御世嶼子独乘小船汎出海中爲釣経三日三夜不得一魚乃得五色龜心思奇異置于船中即寐忽爲婦人其容美麗更不可比嶼子問曰人宅遥遠海庭人乏詎人忽來女娘微咲對曰風流之士獨汎蒼海不勝近談就風雲來(中略)嶼子即乖違期要還知復難會廻首踟蹰咽涙徘徊于斯拭涙歌曰

 等許余蔽尓久母多智和多留美頭能睿能宇良志麻能古賀許等母知和多留

神女遥飛芳音歌曰

 夜麻等蔽尓加是布企阿義天久母婆奈禮所企遠理 等母与和遠和須良須奈

嶼子更不勝恋望歌曰

 古良尓古非阿佐刀遠比良企和我遠礼婆等許与能波麻能奈美能等企許由

後時人追加歌曰

 美頭能睿能宇良志麻能古我多麻久志義阿気受阿理世波麻多母阿波麻志遠
 等許余蔽尓久母多智和多留多由女久母波都賀米等和礼曾加奈志企

読み下し:與謝郡日置里、この里に筒川村あり。ここの人夫(たみ)日下部首(くさかべのおびと)等が先祖は名を筒川嶼子といひき。人となり姿容秀美(かたちうるは)しく風流(みやび)なること類なかりき。こはいはゆる水江浦嶼子といふ者なり。これ旧宰(もとのみこともち)伊預部馬養連が記せるに相乖くことなし。故略(およ)そ所由之旨(ゆゑよし)を陳べむ。長谷(はつせ)の朝倉宮に御宇(あめのしたし)らしめしし天皇の御世、嶼子獨り小船に乗りて海中に汎(うか)び出で、釣すること三日三夜を経て一の魚だに得ず、すなはち五色の龜を得たり。心に奇異(あや)しと思ひて船の中に置きて、即ち寐(い)ねつるに、忽ちに婦人(をとめ)と爲りき。その容美麗(かたちうるは)しく更(また)比(たと)ふべきものなかりき。嶼子問ひて曰く、人宅遥遠(ひとざとはろか)にして海庭(うなばら)に人なし、詎人(なにびと)の忽ちに來れるぞといひき。女娘(をとめ)微咲(ほほゑ)みて對(こた)へけらく、風流之士(みやびを)獨り蒼海(うみ)に汎べり、近(した)しく談(かた)らむとするこころに勝(た)へず、就風雲(おとづれ)來つと曰ひき。(中略)嶼子すなはち期要(ちぎり)に乖違(そむ)きて、還りても復(また)會ひ難きことを知り、首を廻らして踟蹰(たたず)まひ、涙に咽びて徘徊(たもとほ)りき。ここに涙を拭ひて歌ひしく、

 常世邊に 雲立ち渡る 水の江の 浦島の子が 言持ち渡る

また神女遥に芳音(よきこゑ)を飛ばして歌ひしく、

 大和邊に 風吹き上げて 雲離れ 退き居りともよ 吾を忘らすな

嶼子更(また)戀望(こほしさ)に勝へずして歌ひしく、

 娘(こ)らに戀ひ 朝戸を開き 吾が居れば 常世の濱の 波の音(と)聞ゆ

後時(のち)の人追ひ加へて歌ひけらく、

 水の江の 浦島の子が 玉匣(たまくしげ) 開けずありせば 又も會はましを
 常世邊に 雲立ち渡る 絶ゆ間なく 言ひは継がめど 我ぞ悲しき

大意:伊預部馬養連の記したところのものを述べる。筒川の里、日下部首等の先祖に姿容秀美の筒川嶼子という者、即ち水江浦島子がいた。長谷朝倉宮御宇天皇雄略天皇)の御世、浦島子は小舟に乗り釣りに出た。三日三晩の間一匹の魚も釣れなかったが五色の亀だけ得る。奇異に思ったが眠っている間に亀は比べることもなき美麗な婦人と為った。女娘は問答の中「天上仙家之人也」と己を語る。彼女が眠るように命じ浦島子が目覚めると、不意の間に海中の大きな島に至っていた。館の門に入ると七人の童子、八人の童子が迎えるが彼らはそれぞれ「すばるぼし」(プレアデス)と「あめふりぼし」(ヒヤデス)だという。女娘は父母と共に迎え、歓待の合間に人界と仙都の別を説く。館に留まること三年経ち、浦島子は郷里の事を思い出し、神仙之堺に居るよりも俗世に還ることを希望する。女娘は別れを悲しみながらも、玉匣(たまくしげ)を渡し「戻ってくる気ならゆめゆめ開けるなかれ」と忠告する。帰り着いて辺りが変わっているので郷の者に聞くと、浦島子は蒼海に出たまま帰らなかったということにされていた。玉匣を開くと風雲に翩飛けるような変化が起き、浦島子は涙に咽(むせ)び徘徊し、歌を詠む……

 常世邊に 雲立ち渡る 水江の 浦嶋の子が 言持ち渡る

神女遙飛、芳音で歌いて曰く:

 倭邊に 風吹き上げて 雲離れ 退き居り共よ 我を忘らすな

浦嶼子:

 子等に戀ひ 朝戸を開き 我が居れば 常世の濱の 波の音聞こゆ

後世の人歌いて曰く:
 水江の 浦嶋の子が 玉匣 開けず有りせば 復も會はましを
 常世邊に 雲立ち渡る 多由女 雲は繼がめど 我そ悲しき

別の書『古事談』では「淳和天皇御宇天長二年(825年)乙巳。丹後国与佐郡人水江浦島子。此年乗松船。到故郷」と記され、そのことから帰還まで300年程度経ったと推定される。出発時の雄略天皇の代がいつなのか確定しがたいが、他の浦島伝説での共通点も踏まえ現世では館での3年より遙かに長い時間が流れていたと伝えられることは確実なようである。 

万葉集(8世紀中旬以降成立)」巻九、高橋虫麻呂作の長歌「詠水江浦嶋子一首」

原文:春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而 釣船之 得〈乎〉良布見者〈古〉之 事曽所念 水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 及七日 家尓毛不来而 海界乎 過而榜行尓 海若 神之女尓 邂尓 伊許藝T 相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代尓至 海若 神之宮乃 内隔之 細有殿尓 携 二人入居而 耆不為 死不為而 永世尓 有家留物乎 世間之 愚人〈乃〉 吾妹兒尓 告而語久 須臾者 家歸而 父母尓 事毛告良比 如明日 吾者来南登 言家礼婆 妹之答久 常世邊 復變来而 如今 将相跡奈良婆 此篋 開勿勤常 曽己良久尓 堅目師事乎 墨吉尓 還来而 家見跡〈宅〉毛見金手 里見跡 里毛見金手 恠常 所許尓念久 従家出而 三歳之間尓〈垣〉毛無 家滅目八跡 此筥乎 開而見手歯〈如〉本 家者将有登 玉篋 小披尓 白雲之 自箱出而 常世邊 棚引去者 立走 □[5]袖振 反側 足受利四管 頓 情消失奴 若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴〈由〉奈由奈波 氣左倍絶而 後遂 壽死祁流 水江之 浦嶋子之 家地見」

読み下し:春の日の 霞める時に 住吉の 岸に出で居て 釣舟の とをらふ見れば いにしへの ことぞ思ほゆる 水江の 浦島の子が 鰹釣り 鯛釣りほこり 七日まで 家にも来ずて 海境を 過ぎて漕ぎ行くに 海神の 神の娘子に たまさかに い漕ぎ向ひ 相とぶらひ 言成りしかば かき結び 常世に至り 海神の 神の宮の 内のへの 妙なる殿に たづさはり ふたり入り居て 老いもせず 死にもせずして 長き世に ありけるものを 世間の 愚か人の 我妹子に 告りて語らく しましくは 家に帰りて 父母に 事も告らひ 明日のごと 我れは来なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば この櫛笥 開くなゆめと そこらくに 堅めし言を 住吉に 帰り来りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家ゆ出でて 三年の間に 垣もなく 家失せめやと この箱を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉櫛笥 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消失せぬ 若くありし 肌も皺みぬ 黒くありし 髪も白けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて 後つひに 命死にける 水江の 浦島の子が 家ところ見ゆ

大意訳:水の江の浦島の子が7日ほど鯛や鰹を釣り帰って来ると、海と陸の境で海神(わたつみ)の娘(亀姫)と出会った。二人は語らいて結婚し、常世にある海神の宮で暮らすこととなった。3年ほど暮らし、父母にこの事を知らせたいと、海神の娘に言ったところ「これを開くな」と篋(くしげ・玉手箱のこと。もともとは化粧道具を入れるためのもの)を渡され、水江に帰ってきた。海神の宮で過ごした3年の間に家や里は無くなり、見る影もなくなっていた。箱を開ければ元の家などが戻ると思い開けたところ常世との間に白い雲がわき起こり、浦島の子は白髪の老人の様になり、ついには息絶えてしまった。

ちなみに「浦島太郎」という名前が登場するのは中世以降で、それまでは水江浦嶼子を略して「浦島子」と呼ばれていた。

御伽草子室町時代を中心に鎌倉時代末〜江戸時代初期に成立)」「浦島太郎」

原文:昔丹後の國に浦島といふもの侍りしに、其の子に浦島太郎と申して、年のよはひ二十四五の男ありけり。あけくれ海のうろくづを取りて、父母を養ひけるが、ある日のつれ\〃/に釣をせむとて出でにけり。浦々島々入江々々、至らぬ所もなく釣をし、貝をひろひ、みるめを刈りなどしける所に、ゑじまが磯といふ所にて、龜を一つ釣り上げける。浦島太郎此の龜にいふやう、「汝生あるものの中にも、鶴は千年龜は萬年とて、いのち久しきものなり、忽ちこゝにて命をたたむ事、いたはしければ助くるなり、常には此の恩を思ひいだすべし。」とて、此の龜をもとの海にかへしける。(中略)

「これは龍宮城と申すところなり、此所に四方に四季の草木をあらはせり。入らせ給へ、見せ申さむ。」とて、引具して出でにけり。まづ東の戸をあけて見ければ、春のけしきと覺えて、梅や櫻の咲き亂れ、柳の絲も春風に、なびく霞の中よりも、黄鳥の音も軒近く、いづれの木末も花なれや。南面をみてあれば、夏の景色とうちみえて、春を隔つる垣穗には、卯の花やまづ咲きぬらむ、池のはちすは露かけて、汀涼しき漣に、水鳥あまた遊びけり。木々の梢も茂りつゝ、空に鳴きぬる蝉の聲、夕立過ぐる雲間より、聲たて通るほとゝぎす、鳴きて夏とは知らせけり。西は秋とうちみえて、四方の梢紅葉して、ませのうちなる白菊や、霧たちこもる野べのすゑ、まさきが露をわけ\/て、聲ものすごき鹿のねに、秋とのみこそ知られけれ。さて又北をながむれば、冬の景色とうちみえて、四方の木末も冬がれて、枯葉における初霜や、山々や只白妙の雪にむもるゝ谷の戸に、心細くも炭竃の、煙にしるき賤がわざ、冬としらする景色かな。かくて面白き事どもに心を慰め、榮華に誇り、あかしくらし、年月をふるほどに、三年になるは程もなし。浦島太郎申しけるは、「我に三十日のいとまをたび候へかし、故里の父母をみすて、かりそめに出でて、三年を送り候へば、父母の御事を心もとなく候へば、あひ奉りて心安く參り候はむ。」と申しければ、女房仰せけるは、「三とせが程は鴛鴦の衾のしたに比翼の契りをなし、片時みえさせ給はぬさへ、兎やあらむ角やあらむと心をつくし申せしに、今別れなば又いつの世にか逢ひまゐらせ候はむや、二世の縁と申せば、たとひ此の世にてこそ夢幻の契りにて候とも、必ず來世にては一つはちすの縁と生まれさせおはしませ。」とて、さめ\〃/と泣き給ひけり。又女房申しけるは、「今は何をか包みさふらふべき、みづからはこの龍宮城の龜にて候が、ゑじまが磯にて御身に命を助けられまゐらせて候、其の御恩報じ申さむとて、かく夫婦とはなり參らせて候。又これはみづからがかたみに御覽じ候へ。」とて、ひだりの脇よりいつくしき筥を一つ取りいだし、「相構へてこの筥を明けさせ給ふな。」とて渡しけり。(後略)

あらすじ:丹後の国に浦島という者がおり、その息子で、浦島太郎という、年の頃24、5の男がいた。太郎は漁師をして両親を養っていたが、ある日、釣りに出かけたところ、亀がかかったが、「亀は万年と言うのにここで殺してしまうのはかわいそうだ。恩を忘れるなよ」と逃がしてやった。数日後、一人の女人が舟で浜に漕ぎ寄せて自分はやんごとなき方の使いとして太郎を迎えに来た。姫が亀を逃がしてくれた礼をしたい旨を伝え、太郎はその女人と舟に乗り大きな宮殿に迎えられる。ここで姫と三年暮らし、太郎は残してきた両親が心配になり帰りたいと申し出た。姫は自分は実は太郎に助けられた亀であったことを明かし、玉手箱を手渡した。太郎は元住んでいた浜にたどり着くが、村は消え果てていた。ある一軒家に住んでいた老人に浦島太郎の事を尋ねると、浦島太郎は七百年も昔の人で、近くにある古い塚が太郎の両親の墓だと教えられた。太郎が姫と三年暮らしていた間に、地上では七百年もの年月が経っていたのであった。絶望した太郎が玉手箱を開けると、三筋の煙が立ち昇り、太郎はたちまち老人になった。その後、太郎は鶴になり蓬莱山へ向かって飛び去った。同時に乙姫も亀になって蓬莱山へ向かい、太郎と乙姫は再び巡り会って夫婦の神になったという。


こうして中世までに乙姫、竜宮城、玉手箱といった主要要素が出揃って「浦島太郎」として伝わる話の型が定まり、その後は良く知られた昔話として様々な媒体で流通することになる。亀の恩返し(報恩)と言うモチーフを取るようになったのもこれ以降。一方このバージョンでは竜宮城は海中ではなく、島か大陸にあるように書かれている。とはいえ春の庭、夏の庭、秋の庭、冬の庭の話はメインストーリーの付け足し程度に書かれているに過ぎない。

そういえば日本の「歴史物語」も独特の体裁で知られています。

  • 大鏡…白川院政時代(1086年〜1129年)の成立。文徳天皇即位から後一条天皇の万寿2年(1025年)に至る14代176年間の宮廷史について大宅世継(190歳)と夏山繁樹(180歳)なる長命な二人の老人が雲林院の菩提講で語り合い、それを若侍が批評するという対話形式。
    *「源氏物語」の影響が色濃い女性の手になる仮名文の編年体物語風史書「栄花物語(1028年〜1107年成立)」の延長線上に登場。こちらは六国史日本書紀続日本紀日本後紀続日本後紀日本文徳天皇実録日本三代実録)の後継たるべく宇多天皇の治世から起筆し、摂関権力の弱体化した堀河朝の寛治6年2月(1092年)まで、15代約200年間の時代を扱った。この「栄花物語」について相模女子大学の待井新一教授は「評価すべきは、女手(おんなて)といわれる仮名で物語風に歴史を書いている事で、女性にも読んでもらう史書を目指し女性による女性のための歴史物語を完成させた点、はじめて歴史と文学とを結合させ歴史を身近なものにした点が歴史的画期」としている。
  • 「今鏡」…1170年以降の成立。「大鏡」の後を受けて後一条天皇の万寿2年(1025年)から高倉天皇のまでの13代146年間の歴史を紀伝体で記す。長谷寺参りの途中で大宅世継の孫、かっては「あやめ」という名で紫式部に仕えた150歳超の老婆から聞いた話を記した形式。
    *藤原,村上源氏両氏の歴史を主として記す。

  • 「水鏡」…1195年頃成立。時代を遡って神武天皇から仁明天皇まで57代の事跡を編年体で述べる。73歳の老婆が、長谷寺に参籠中の夜、修験者が現れ、不思議な体験を語るのを書き留めたという体裁。
    *「扶桑略記」などを資料としており,仏教説話を多く取り入れている。

  • 「増鏡」南北朝時代(1336年〜1392年)の成立。寿永3年(1183年)の後鳥羽天皇の即位から元弘3年(1333年)後醍醐天皇隠岐に流され京都に戻るまでの15代150年の事跡を編年体で述べる。嵯峨の清凉寺へ詣でた100歳の老尼が語る昔話を筆記した体裁をとっているが、現存の本においては尼は最初の場面だけの登場になっていることから、当初は他の「四鏡」と同様に尼が登場する最後の場面が書かれた部分が存在していたとする説もある。
    *「源氏物語」や「栄花物語」の影響を受け,流麗な擬古文で叙す。

ここに古代よりユーラシア大陸全体を覆い尽くしてきた中継交易網の影響を見る向きもあります。実際、縄文時代の遺跡からアフガニスタンラピスラズリ(lapis lazuli、瑠璃)が出土する一方で、フェニキア商人が地中海じゅうに「インド南部起源の黒い破壊の女神(カーリーの原型)」を広めたりしてるので有り得ない話でもないのです。 

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ユーラシア大陸中継交易網」…陸路は中国北辺と黒海沿岸が「草原の道」で結ばれ、さらに「琥珀の道」で北欧まで繋がっていた。一方海路は「地中海交易の覇者」フェニキア人がインド南岸まで到達し、そこに住むタミル人が東南アジアに至り、日本の祇園祭にまでその足跡を残している。ササン朝ペルシャ東ローマ帝国の戦争が泥沼化してアラビア半島が代替交易網として活性化した6世紀以降はハドラマウト商人も一枚噛んだとされる。

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そういえば西ローマ教会が影響を強める以前のアイルランドは、ビザンチン帝国の東方正教会の影響下にあったと考えられてますが、そのビザンチン帝国はこんな足跡も残してます。

  • 資治通鑑長編1081年条(当時の中華王朝は北宋…「大秦より使者が訪れた。(中略)国王の名を滅加伊霊改撒(ミカイルカイザー)という。かつて九百余年前に朝貢したがその後朝貢せず、今再びやって来た」

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  • 九百余年前の朝貢…166年に大秦国王安敦使者を派遣したことを指している。つまり中国側は東ローマ帝国ビザンツ帝国)がローマ帝国の後継国である事を認識していた。

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  • 滅加伊霊改撒…『宋史』巻490・列伝第249「外国六」「拂菻」条も、北宋代元豊四年(1081年)に朝貢使を派遣してきた「拂菻国」の王名を「滅力伊霊改撒」と記す。ビザンツ皇帝ミカエル7世ドゥーカス(位1071年〜1078年)とされる。

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  • ビザンツ皇帝ミカエル7世ドゥーカス(位1071年〜1078年)前皇帝ロマノス4世がセルジューク朝に親征したマンズィケルトの戦いで大敗(1071年)し捕虜となった為に即位。その後ロマノス4世は釈放されたがこれを捕えて盲目とした上追放(翌年に死去)。この振る舞いでセルジューク朝と結んだ和議が反故となり、セルジューク朝アナトリア半島侵攻が始まる。さらにノルマン人が東ローマ領であったイタリア南部(マグナ・グラエキア)に侵攻して最後拠点バーリを陥落させ、ユスティニアヌス1世(在位527年〜565年)の時代以来続いていた東ローマ帝国南イタリア支配も終焉した(1071年)。救援を求めるべく妹テオドラ・ドゥーカイナ・コムネナをヴェネツィア共和国のドージェ(元首)ドメニコ・セルヴォに下嫁(1075年)する。しかしノルマン人傭兵隊長ルセール・ド=バイユールやニケフォロス・ブリュエンニオス、ニケオフォロス・ボタネイアテスといった軍事貴族の反乱が各地で相次ぎ、退位して修道院に入る事を余儀なくされた。

当時存続の危機に立たされたビザンティン帝国が救援を求めたのは西ローマ教会だけではなかった? 事によったら十字軍の代わりに北宋軍が到達したり、両者がアナトリア半島で鉢合わせする展開も一応可能性としては存在した? ちなみに日本における平氏の台頭と栄華は北宋と遼の間に和議が成立し、両国が未曾有の経済的繁栄を謳歌した「慶暦の治(1022年〜1063年)」と深い関係にあります。まぁこれは対宋貿易の収益が最も重要な経済基盤だったので盛衰をともにしたという話なのですが、おそらくビザンティン帝国皇帝が北宋使者を送ったのもその繁栄振りを耳にしたからで、そう考えると西洋と東洋は全く別の歴史を歩んできたともいえなくなってくるのですね。

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その歴史的歩みが全く別物ではなかった様に、それぞれの文化的歩みもまた完全なる別物という訳ではありませんでした。なのでトム・ムーア監督作品「ブレンダンとケルズの秘密(The Secret of Kells、2009年)」の核心たる「ケルズの書(The Book of Kells、8世紀)」の秘密だって、日本人にとって全くの他人事という訳ではありません。

  • 元来からあった自然崇拝上の聖地。西洋ではそこに教会が、日本ではまず前方後円墳が築造され、その跡地に神社や寺院が建てられたりしていく。

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  • あったのは衝突だけだったろうか。中央集権による在郷社会の力ずくでの併合や自然破壊だけだったろうか? 「ブレンダンとケルズの秘密」を否定する評論家達は「思い出す必要のある事は全て「もののけ姫」において完全かつ克明に描かれ尽くした。これ以上付け加える事はない」と主張し、国際SNS上の支持者達は「ならばケルズの書とは一体何なんだ?」と反論。これはそういう次元の「セカイ系大戦」だったりもするらしい。

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ネタバレ全開の本編解説は次回。ところで国際SNS上の「ブレンダンとケルズの秘密」支持者はさらに「コララインとボタンの魔女(Coraline、2002年)」と併せて「パラノーマン ブライス・ホローの謎(Paranorman、2012年)」も支持してたりします。

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「パラノーマン ブライス・ホローの謎(Paranorman、2012年)」については、そのうち大今良時「聲の形(A Silent Voice、2011年〜2014年)」と併せて触れるかも。「進化したストップモーション・アニメーションはもはやCGと区別つかない」の世界…さらには高畑勲監督お勧めの「Long Way North / Tout en haut du monde (2016年)」も少し気になってる模様。

高畑勲監督は、「Long Way North」という作品について「見ていて気持ちが良かった。作品の中でいっぱいウソをついていて、それは日本のアニメも同じだけれど、このウソのつき方は気持ちがいい」「女の子が頑張る姿を追いかけ、それに応じて周りの人たちが変わっていったり、状況が好転したりしながら、最後には目的を達成する。ただそれだけの話といえばそうですが、この単純さがすごく大事です」と、高く評価。

一方で、昨今の日本のアニメについては「たくさん見ているわけではないのに語るのは図々しすぎるから、割り引いてもらわなければいけないけれど」という断り入りでしたが、このLong Way Northで見られる単純さと比べて、やたら複雑なものになっていて、作り手は視聴者がうまくのめり込めるように作っているけれど、たくさん見ても役には立たないのではないかと、やや批判的。

全ての作品をLove Storyとして鑑賞したがる女性層」って別に単なる恋愛脳って訳ではなくて「この単純さ」がちゃんと貫けてるか見てる側面も。その立場から「ブレンダンとケルズの秘密」と「モンクと魚」と「岸辺の二人」は合格、「女」の観点から鑑賞した場合の「レッドタートル」は足切り(関心喪失)、みたいな線引きラインも感じられるという事です。