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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

古代日本祭政史④南都六宗から平安仏教へ

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トム・ムーア監督が進める「アイルランド神話補完計画(何たる厨二病的ネーミング・センス!!)」と日本神話を対応付けるには、以下くらいの内省作業は不可欠だったりします。なにしろ「国史レベルでの見直し作業」ですから「総力戦」は不可避。

①多くの日本古代史研究家が、「崇神天皇統治期」はヤマト王権成立以前から存在していたと推測している。

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  •  考古学の世界では、ヤマト王権成立は佐紀盾列古墳群に大王墓が安定した間隔で築造される様になった4世紀後半以降と考える。そして「それ以前の歴史観」というと、概ね「畿内豪族連合」の共同祭祀の場が纒向から「三輪山=宗像=沖ノ島」三重祭祀に推移した4世紀前半を想定する。

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  • 紀元前から続いてきた九州北部連合王国概ね3世紀一杯で「畿内豪族連合」に吸収併合された。このプロセスは現地における内陸部の衰退や沿岸部における海人族の台頭と並列的に進行したと考えられている。「中央」たる畿内豪族連合(後のヤマト王権)と「周辺」たる海人族(瀬戸内海から九州にかけての交易網)や山部(近江から東海にかけての交易網)の関係史は複雑怪奇で日本書紀古事記においても完全再現はされてないと考えるのが普通となっている。

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  • 佐紀盾列古墳群は概ね日本書紀古事記で活躍する春日氏や和珥(わに)氏の本拠地に比定されている。「それ以前」として想定されるのは概ね三輪山祭祀を支えてきた宗族層や、それと渡り合ってきた葛城氏の起源譚。サヴァイヴァルの為に数多くの新興氏族と提携してきたらしく、連姓の物部氏、臣姓の息長氏や蘇我氏外交氏族たる小野氏・栗田氏などとの起源譚とも相応に結びついている。

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  • 日本書紀」における「四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)」の伝承、すなわち、大彦命(おおびこのみこと)が北陸道を、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)が東海道を、吉備津彦命(きびつひこのみこと)が西道(山陽道)を、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)が丹波道(丹波国丹後国但馬国)を制覇していく過程は、そのまま前方後円墳が全国に拡散していくプロセスに該当。これは偶然の一致ではないと考えられている。

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ヤマト王権は五世紀末から欽明天皇統治期(539年~571年)にかけて、ある種の跡目相続争いに振り回された。そして、そうした前轍を二度と繰り返さない様に以下の様な政治神話が形成されたと考えられている。

  • 畿内豪族全てを初代大臣を務めた武内宿禰の末裔とし、半島での展開経験もあるこの集団のみで大臣職を独占する慣例の設定(概ね継体天皇代に地方豪族が力を持ち過ぎた事へ畿内豪族が反感を覚えたのがそうした政治神話形成の契機となったと考えられている)。
    *そもそも「蘇我稲目の大臣就任」自体が後世の創作とする説もある。「大臣職は畿内豪族間で持ち回りされてきた」とする政治神話は、それが大陸での足跡と関連してくる事もあり蘇我馬子以降の代に創造された可能性が高い。

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  • 4世紀末頃から始まるヤマト王権強大化の象徴としての仁德天皇の聖人化、およびそれを通じての6世紀における欽明天皇王統の正統化。おそらく葛城氏末裔なる由緒を有し、渡来人系官僚のことごとくを従えた蘇我氏が中心となって遂行したと推測されている。
    *仁德天皇系の王統を神聖視する政治神話は欽明天皇代からあったと考えられ、その事は欽明天皇陵の規模を見ても明らかである。宮内省は檜隈坂合陵に比定するが、こちらを蘇我稲目の墳墓とし日本史上最大規模の石室を有する見瀬丸山古墳を欽明天皇陵とする学説も多い。

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  • 欽明天皇の即位は大伴氏の失脚と密接な関係があると考えられている。だから大伴氏の立場を正当化する政治神話は、平群氏や阿部氏や羽田氏のそれ同様に最初から存在しなかったと考えられている。
    *大伴氏はその代わり「万葉集(7世紀後半〜8世紀前半)」を編纂。奈良時代の大伴氏は没落の途上にあったので政権批判的な内容も多分に含んでいるのが特徴。
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  • 一方、蘇我氏台頭には物部氏との縁戚関係が欠かせなかった。だから物部氏の立場を正当化する政治神話は一時期確実に存在したが、政争に敗れた後に徹底して抹殺されたと考えられている。おそらくその過程で「仏教が公伝して反対する物部氏と中臣氏が排斥された」なる政治神話が形成された。しかし中臣氏は日本書紀」「古事記」編纂時に強勢を誇った藤原氏の祖先筋でもある。だからその政治神話には「だが最後には勝った」要素が付加される事になった。
    仏教公伝の年が日本書紀では「欽明天皇13年(552年)」となっているのに対し「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺伽藍縁起」といった蘇我氏系文献では概ね538年となっている辺りに何かヒントが隠されているのかもしれない。

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    *遣隋使として派遣された南淵請安らが「易経」の革命思想を国内に持ち込み、蘇我蝦夷の息子たる蘇我入鹿自身が真っ先に被れ、642年に「高句麗における淵蓋蘇文のクーデター」「百済義慈王の粛清」が重なると翌年、父から大臣職を譲り渡されてすぐ政敵たる上宮王家を滅ぼした。この展開を正当化する政治神話が存在しなかったと考える方がおかしい反面、新を建てた王莽同様、蘇我入鹿が瑞兆や凶兆による装飾能力を過信し過ぎた事で政治的生命を縮めたとも考えられている。

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    天平宝字4年(760年)成立の「藤氏家伝」大織冠伝では蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述まである。この問題が奈良時代(710年〜794年)には蘇我氏を悪役とする事で一応の解決を見た事を示唆している。皮肉にも当時は(中臣氏を始祖と仰ぐ)藤原氏や(物部氏を始祖と仰ぐ)石上氏や弓削氏の反撃期にも当たっていたのだった。

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  • いずれにせよこうした政治神話はまとめて乙巳の変(645年)で中大兄皇子中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我宗家を滅ぼして以降、大幅な改編を受けた筈なのである。問題は620年に聖徳太子蘇我馬子が編纂し、乙巳の変に際して蘇我家が焼失したとされる「天皇記(天皇の系譜書)」と「国記(歴史書)」に何が記されていたか。一部は焼け残り、天智天皇に献上されたとされるが詳細不明。
    *とはいえ、そもそもクーデター後に物部大臣職を授かった蘇我入鹿の弟の立場がどういうものだったか自体が良く分からない。また見極めの難しさに止めを刺すのが中大兄皇子の家系の複雑さで、その影響範囲は実に継体天皇の代まで及ぶ。「継体持統」なる四文字熟語を分解して第26代「継体」天皇(在位507年〜531年)と第41代「持統」天皇在位686年〜697年)の漢風諡号とした淡海三船(722年〜785年)や、物部氏系で祖父が「竹取物語」でかぐや姫に求婚する5人の貴族の一人「石上まろたり」のモデルとされる石上宅嗣(729年〜781年)の様な奈良時代後期をを代表する文人は何か知っていた?

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  • ちなみに「日本書紀」には聖徳太子の医業について後世の太子信仰(これもまた蘇我氏系寺院が起源とされる)の投影が数多く見られる一方、「大化の改新」関連記事は比較的客観的な記述が徹底されている。「日本書記」も「古事記」も681年の勅命で編纂された「帝記(天皇の系譜図)」と「旧辞(歴史書)」に基づくとされるが、両書とも散逸し現在に伝わっていない。おそらくこの辺りの展開の背景に何かある。
    *ここで忘れてはならないのは、藤原氏の台頭過程では近江を押さえる蘇我氏が大きな役割を果たしているという点。すなわち日本書紀古事記の編纂段階で藤原氏蘇我氏を持ち上げ、不都合な情報を削除した可能性がある。

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 ここで急速に「仲哀天皇・神武皇后伝承とは何であったか?」という問題が浮上してくる。

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  •  それ自体は(畿内豪族たる)春日氏や和珥氏に接近した近江の息長氏、さらにはその息長氏の台頭などを後援してきた海人族の伝承からの採択と考えられている。

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  • そもそも神話文献で多くのページが割かれる話題の背景には何らかの形で「国家神話を統合する上での阻害要因」 が絡んでる事が多い。古事記日本書紀の世界ではどうして出雲神話や日向神話についてああまで詳細に記述される必要があったのか。それはおそらくヤマト王権にとって(おそろしくまとまりの悪い)出雲系諸族や海人族系諸族の吸収合併がそれだけ歴史的意義を持っていた事と表裏一体の関係にある筈なのである。

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  • 問題はその神話が唐に滅ぼされた百済からの亡命者に同乗した斉明天皇天智天皇、さらには安禄山の乱に便乗して百済再建を夢見た藤原仲麻呂などに散々政治利用されてきた事。フリードリッヒ大王(在位1740年〜1786年)を神聖視する「ドイツ民族生物学」同様、歴史にかなりネガティブな足跡を残してきたと言わざるを得ない。不幸にも大日本帝国もまたこれに魅了され、あっけなく前轍を踏む羽目に陥ってしまった。

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当時の倭国や半島三国の政治史を漁っていると、否応なく「究極の自由主義は専制によってのみ達成される」なるジレンマを思い出させられる。「唐を訪れて感動する→何でも唐の真似をしたくなる→とりあえず隣国全てを見下して従わせようとする」なる悪循環。しかもこの種の動乱は以降の時代も続くのである。

奈良時代(710年〜794年)の動乱

まさしく「氏族戦争(Clan Wars)」の典型例。

その一方では寺社勢力が次第に政治的発言力を増し、これから逃れる為にそれから逃れる為に長岡京(784年〜794年)を経て平安京へと遷都(794年)。その過程においても惨劇は繰り返された。

  • 藤原種継暗殺(785年)」…事件に連座して五百枝王・藤原雄依・紀白麻呂・大伴永主などが流罪となり、桓武天皇の皇太弟だった早良親王までもが廃嫡・配流・憤死を経て怨霊として恐れられた(当時、桓武天皇の皇后藤原乙牟漏・夫人藤原旅子らが相次いで没っし、続いて天皇生母の高野新笠も790年に死去)。
    *種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の1つは、東大寺や大安寺などの南都寺院の影響力排除だった為、南都寺院とのつながりが深い(東大寺別当まで勤めた事のある)早良親王が遷都阻止の陰謀に関与した可能性は大いにあった。

  • 薬子の変(810年)平城上皇嵯峨天皇とが対立するも、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着した事件。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。最近では「律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した(蔵人の制定により再発が防止された)」という評価がなされるようになり「平城太上天皇の変」という表現も見られる。政治的影響力を回復せんとする南都寺院側の最後の抵抗。

平安時代に入ると「日本書紀」や「古事記」や古事記に記された政治神話は一端完全に忘れ去られてしまう。律令制度の浸透に伴い伝統的氏族秩序の崩壊が進んだせいだった。氏族間序列の基準が天皇家との報恩関係に集約し始める。
*その途上で編纂されたのが「新撰姓氏録(815年)」だが、以降も流動化が続き藤原北家が権力を掌握した摂関時代になってやっと再編完了となった。
『新撰姓氏録』氏族一覧

ところで奈良時代(710年〜794年)には、日本に導入された法相宗を奉じる様になった藤原氏系寺院と、伝統的に中観派を奉じてきた蘇我氏系寺院の勢力争いが激化。最終的に藤原氏系寺院の完全勝利に終わります。
*それ以前に蘇我氏藤原南家没落と心中する形で政治的影響力を完全喪失しており、藤原式家の最終的勝利が元興寺の廃虚化に繋がった事は京の人々に相応の衝撃をもって受け止められた。ちなみにこの過程で真言宗はちゃっかり幾つかの寺院を影響下に収める形で漁夫の利を得ている。こうした蘇我氏没落の衝撃が生んだのが「がごぜ(元興寺)」なる妖怪だったとも。

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法相宗(ほっそうしゅう)の日本伝来

法相宗はインド瑜伽行派唯識派)の思想を継承する、中国の唐時代創始の大乗仏教宗派の一つ。唐代、638年(貞観19年)中インドから玄奘が帰国して、ヴァスバンドゥ(世親、vasubandhu)の『唯識三十頌』をダルマパーラ(護法、dharmapaala)が注釈した唯識説を中心にまとめた『成唯識論』を訳出編集した。この論を中心に『解深密経』などを所依の経論として、玄奘の弟子の慈恩大師基(一般に窺基と呼ぶ)が開いた宗派である。そのため、唯識宗・慈恩宗とも呼ばれる。日本へも南都六宗の一つとして、遣唐使での入唐求法僧侶により数次にわたって伝えられた。

  • 653年(白雉4年) 道昭が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。

  • 658年(斉明天皇4年) 入唐した智通・智達等も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、平城右京に元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝といわれた。

  • 703年(大宝3年) 智鳳、智雄らが入唐。

  • 717年(養老元年) 入唐した義淵の弟子玄昉も、ともに濮陽の智周に師事して法相を修め、帰国後これを広めた。なかでも玄昉は興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。

8世紀から9世紀にかけて法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬、修円、徳一などが傑出し、修円は同寺内に伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。徳一は天台宗最澄との間で三一権実諍論で争った。

ところで藤原氏の様な宮廷貴族は南都六宗のうち法相宗というより、その付宗(寓宗)たる倶舎宗説一切有部の研究)を好んだとされる。北インド文化の精髄ともいうべき高尚なウシャニパッド哲学に対するスノビズム、大衆救済を完全視野外に置き自力救済に徹する上座部仏教的思考様式などが貴族向きだったと考えられている。

倶舎論

倶舎論や唯識は、仏教を学ぶ者にとって、古来必修の科目とされていました。倶舎論や唯識は非常に難解なので、唯識三年倶舎八年という言葉があります。倶舎論を八年学んだ後に、唯識を三年学ばなければ理解不能、というような意味です。

  • 部派仏教…お釈迦様が亡くなって100年位経つと、教えの解釈の違いによって分裂が起きました。まず、伝統をそのまま守ろうとする保守的な上座部(じょうざぶ)と、進歩的な大衆部(だいしゅぶ)に分かれます。次に両派から数多くの部派が生まれ、それらが分立した時代の仏教を、部派仏教と呼びます。

  • 阿毘達磨(あびだつま)サンスクリット語の音写。阿鼻達磨とも書きます。アビは勝れる、という意味で、ダルマには仏教語としては色々な意味があります。秩序を保つ-規則-お釈迦様の教え-真理-本質-特性などです。ダルマに関する研究、ダルマを理解する人達の智慧、のような意味。そしてこの阿毘達磨の研究書を論(ろん)とか論書(ろんじょ)と言います。論書は紀元前2世紀ごろから作られはじめ、次第に有力な部派は、みな各自の阿毘達磨=論書を持ちました。また、論書の注釈書も数多くつくられました。

  • 倶舎論(くしゃろん)…阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)が本来の名前。世親(せしん)というインドの僧侶が書いた仏教の入門書。倶舎は容れ物の意味です。そこで阿毘達磨倶舎論は阿毘達磨の教えと理論がすべて含まれている論書、という意味になります。内容は、部派仏教の中で最も優勢だった説一切有部(せついっさいうぶ)というグループの説を中心として、他の部派の説も加えて書かれました。たくさんある論書の中で、一番完成度が高い論書と言われています。そして説一切有部の代表的な書として、長く重んじられました。現実世界のことから宇宙の構造、輪廻、煩悩、悟りに至る段階、などについて説明されています。

  • 世親(せしん、400年〜480年頃、ただし異説あり)…ガンダーラ地方の生まれの人で、インドでの名前はヴァスバンドゥ。世親は新訳名で、旧訳名では天親(てんじん)。上部座仏教から大乗仏教に転向し、唯識思想を確立した人物で唯識派三大論師の一人。
    *出身は現在のパキスタンペシャワール出身とも。初め部派仏教説一切有部を学んで有部一の学者として高名をはせた後で兄の無着の勧めで大乗仏教瑜伽行唯識学派に鞍替えして唯識思想を体系化した。前期の著作としては「倶舎論( 説一切有部の教義を体系化した論書で、極微説に論及している)」、後期の著作としては「唯識二十論」「唯識三十頌(後に多くの論師によって注釈書が作られ、唯識の基本的論書となった重要文献)」「大乗成業論」「大乗五薀論」「大乗百法明門論」「仏性論」「無量寿経優婆提舎願生偈(浄土論:後に曇鸞が『浄土論註』により再註釈した浄土教のうちもっとも重要な論書)」が有名。

 *一方龍樹(ナーガールジュナ、2世紀)は、インドの正統バラモン教の「有我説(一般に自己の本体としての固定的実体的な自己(アートマン(ātman)=我)が存在し,それが業の担い手となって生死輪廻する)」の立場を部分継承する説一切有部とし仏教の開祖たる釈尊の「無我説(梵字ナイラートミヤ・バーダ(nairātmya‐vāda)「一切諸法には実体的我は存在しない」とする立場)」の矛盾を解消すべく中道に位置する「空(妙有)」の立場から仏陀の発言への解釈の軌道修正を試みた。かくして「般若経」の「一切皆空」「色即是空空即是色」といった承句に新たな意味が吹き込まれる事になる。

般若経梵字プラジュニャーパーラミター・スートラ(Prajñāpāramitā sūtra))…般若波羅蜜(般若波羅蜜多)を説く大乗仏教経典群の総称。最も早く成立した最初の大乗仏教経典群とされ、紀元前後に成立した「八千頌般若経」を最初期のものとする説が多い。その後も数百年に渡って様々な「般若経」が編纂され、また増広が繰り返された。一般に空を説く経典とされているが、同時に呪術的な面も色濃く持っており、密教経典群への橋渡しとしての役割も無視出来ない。龍樹の「中論(根本中頌、梵字ムーラマディヤマカ・カーリカー(Mūlamadhyamaka-kārikā))」も、「それでも正しく整えられた呪術は発動する」なる文言がある為に密教においても重要文献として扱われてきた。

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 南都六宗のうち「法相宗」と「倶舎宗」の展開はかくの如く「藤原氏(式家)」の栄華と結びついていました。これに拮抗し得たのは倭国時代より繁栄を謳歌してきた外交氏族や渡来系氏族の後援を受けた「華厳宗(統一新羅の国教)や「律宗四分律を熟知し鑑真を始祖に迎えた)」。むしろ百済系の「三論宗(中論・十二門論・百論)」や「成実宗三論宗の付宗(寓宗)たる「成実論」に立脚) は衰退。高句麗系の中観論に至っては壊滅の危機を迎えたとも

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  • 唐に渡り玄奘から法相宗の教理を学び日本に伝えた渡来系氏族(河内国丹比郡船連)出身の道昭は、なまじ玄奘三蔵より直接「(坐禅や瞑想(止観)を含む)大乗仏教理念実現に際しての行動主義の重要性」を伝授されていたが故にそうした政治主導の展開に飽き足らず、各地へ赴き井戸を掘ったり橋を架ける等の勧進事業を通じて民衆に仏教を教下する活動を行ったとされる。
    *同様に民衆への教下活動を行った行基もその影響下にあった。渡来系氏族の知識寺建立過程を目の当たりにした聖武天皇もこの動きに注目し「東大寺・大仏・国分寺国分尼寺の建立」なる国家事業にその動きを組み込んだ。この情景はまさに「仲麻呂蝦夷押勝)の乱(764年)」に際して鎮圧を担当した「造東大寺司長官」吉備真備の姿そのものであり、後世における「国家的価値観の全人格的危機に際しては国民が一丸となって動く」王朝国家的倫理観念の原風景だったのである。

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  • 「止観」…「止」と「観」なる二つの瞑想法の総称。「止」とは、サンスクリット語śamatha[シャマタ]あるいはパーリ語samatha[サマタ]の漢訳語。漢訳仏典ではしばしばこれを音写した奢摩他[しゃまた]という言葉で表現される。シャマタとは、その漢訳語「止」の字が示す如く、なにか特定の対象を定めてそこに精神を集中し、心の動きを極力止めんとする瞑想法。これに熟達すると、人は強力な集中力を得ることが出来、三昧[さんまい]や三摩地[さんまぢ]、あるいは定[じょう]などと言われる精神状態に至るとされた。実際、修行者は止の瞑想を修している過程において、尋常ならざる恍惚感・多幸感、あるいは鏡のように澄み渡った精神状態、覚醒感を覚えたという。ところで「三昧」なる境地は北原白秋が「幼児が遊びに集中して他の全てを忘れる有様」と再表現して広めた事もあり、日本の一般社会でも比較的馴染み深い。起源はサンスクリットsamādhi [サマーディ]の音写語(三摩地はより原語の発音に近いもの)で「一つになったもの=調和・統合・専心」すなわち「深く集中した心の状態」を意味する。その一方で「定」は、サンスクリットdhyāna[ディヤーナ]あるいはパーリ語jhāna[ジャーナ]の漢訳語。「考える」などを意味する√dhyaiからの派生語で「沈思」から「思想」、そしてを「瞑想」を意味する言葉である。仏教においては特に「深い瞑想の境地」具体的には「(瞑想によって)強力な集中力を得た心の状態」を指す。ちなみに日本はもとより世界で広く知られている、禅あるいはZENという言葉は、dhyānaの音写語である禅那[ぜんな]の略語。禅(旧字体は禪)なる漢字そのもののは「天子が位を譲ること」あるいは「天子が神を祀ること」を意味し「禅定」などという場合の禅は、音写で使用されただけであって原意とは全く関係ない。

    *その一方でイエズス会などが再建した「カソリック修道士的瞑想」とは相応の互換性がある。そもそもキリスト教系修道会は元マニ教徒だった聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus、354年〜430年)がマニ教経由で知った「在野信徒が出家した修行者を養う一方でその供給源となる仏教教団システム」にいたく感動してそれを実践に移した先例に端を発するのである。その由来からして全くの無関係という訳でもない。

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    *まぁ「続日本紀」などでもはっきり「それは当時の日本人に理解可能な範疇を超えていた(だから完全な黙殺され、道昭は激怒した)」と書かれているし、歴史学上の理解もそこから出発しなくてはならない。そして恐らく当時の理解不足への反省が日本人に禅宗密教を選好させたと考えねばならないのである。

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まぁ正直、三蔵法師がインドへの過酷な旅を経て唐朝に持ち帰った「後世に語り継がれるべき英知」は「大衆にとって大事なのは(自分達も動員される)適切な土木工事が行われる事だけ」とし「エジプトにおけるプラミッド建設も、日本における大仏建立も完全なる人民の勝利のモニュメントであり、絶対悪に過ぎない権力者が単体ではいかに無力な過ぎないか証明した記念碑」と豪語する日本の唯物史観は強烈。
*絶えざる反体制蜂起の連続にシャッポを脱いで、社会学導入の必要性を認める以前の中国共産党におけるイデオロギーに呼応した考え方とも。

それはそれとして、ここで思わぬ勢力が思わぬ動きを見せたのです。 

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日本後記録逸文(『類聚國史』一七九諸宗より再録)
桓武天皇 延暦17年(798年)九月壬戌(16日)

詔曰
天皇が次の様に詔した。

法相之義、立有而破空
法相宗は諸法のあり方を究明して万有が唯識の変化であると説き

三論之家、仮空而有空
三論宗は空の立場で一切が本質でないと論じている。

並分而斉驚、誠殊途而同帰
共に教説は異なるが、真理を目指している点で相違しない。

彗炬由是逾明
両宗により仏教の智恵は松明の如く明るく、

覚風以之益扇。
悟りの教えはますます盛んになっているのである。

比来所有佛子、偏務法相、至於三論、多廃其業。
しかし最近の仏教者はもっぱら法相につき、三輪を学習する事を止めてしまっている。

世親之説雖傳、竜樹之論將墜。
法相の所依である世親(四~五世紀頃のインド人仏教哲学者)の学説は伝わるものの、三輪の所依である龍樹(二~三世紀頃のインド人仏教哲学者)の論説は絶えようとしている。

良爲僧綱無誨、所以後進如此。
僧綱の指導が欠如しているので、この様な事態となってしまったのである。

宜慇懃誘導、兩家並習、俾夫空有之論、經馳驟而不朽、大小之乘、変陵谷而靡絶。
そこで僧綱が適切な指導を行い、法相・三論を学習させ、空・有すなわち三論・法相の教えが永く廃れない様にし、大乗・小乗の教説が地形が変化する程の長期に渡って廃絶しない様にせよ。

普告緇侶、知朕意。
この事を広く僧侶に告知して、朕の意とする所を知らしめよ。

* 問題はここに現れる「法相宗=有=小乗(藤原氏)」「三論宗=空=大乗(蘇我氏)」の対比をどう読むかなのである。あえて華厳宗律宗に触れていない点も興味深い。ただ華厳宗の起源は法相宗と密接に関与しているので全く無関係という訳でもない。

Wikipedia】唐華厳宗の形成史

唐代中国において、大乗仏典の代表的な華厳経を究極の経典として、その思想を拠り所として独自の教学体系を立てた宗派。開祖は杜順(557年-640年)、第2祖は智儼(602年-668年)、第3祖は法蔵(643年-712年)、第4祖は澄観(738年-839年)、第5祖は宗密(780年-839年)と相承され、この中国の五祖の前に、2世紀頃のインドの馬鳴(アシュバゴーシャ。カニシュカ王の友人)と龍樹(ナーガルジュナ)を加えて七祖とすることもある。

  • 中国では当初「法相宗」が大ブームとなったが、その難点はインド哲学独特を直接引き写したが故の煩雑さゆえに極めてとっつきが悪い事で、本場の唐では武則天の時代にそのエッセンスだけ上手く中国人好みに抽出する事で中興を為した「華厳宗」に取って変わられた。

  • その過程において莫大な量を誇る玄奘三蔵の新経典及びその解釈を整理しつつ継承した事は言うまでもない。新羅仏教界において「三輪宗」の猛攻を凌ぎ切って独自の総合仏教観を打ち立てた華厳僧元暁(和諍国師、617年~686年:華厳学の研究に専念し240巻もの著作を残す)が「大乗起信論」に対する注釈の中で展開した独自の「本覚論」も大いに参照されたと考えられている。

  • 大乗起信論」・・・修行の進展によって諸々の煩悩を打ち破ると、現実世界での迷走状態たる「不覚」状態を破って悟りの智慧の段階的発露たる「始覚」が徐々に芽生えていくが、そのような智慧の根源にはを本来あるべき唯一の大悟たる「本覚」があるとした。唯識思想における阿頼耶識の「種子の本有・始有」の考え方の援用とされる。

  • 「元暁の注釈」…全ての存在に仏性が宿るが(本覚)、通常の人間のそれは眠ったままの状態(不覚)なので「しかるべき手順」を踏んで始動(始覚)させてやらなければならないとした。この「しかるべき手順」として規定の修行過程だけでなく「それまで冷酷で無分別な犯罪者が自らの罪を自覚した時」まで含む一方で、それ自体が人を本来あるべき唯一の大悟に導くとは限らないとする。

これが聖武天皇の時代に伝来して東大寺と所謂「奈良の大仏」が建立された訳だが、その過程については詳細不明。元暁が注釈した「大乗起信論」はそれ以前から読まれていた筈だし、正倉院の「華厳経」には新羅僧の校正跡が残っているし、聖武天皇の発心の契機は新羅系渡来氏族の在家信徒を通じてもたらされたともされている。さらに全国への国分寺建設といった発想に中国華厳宗の影響を見る向きもある。

【第二祖】智儼(602年 - 668年)

天水(甘粛省天水県)生まれ、12歳で華厳宗初祖とされる杜順に見出され、14歳で出家、サンスクリットを学び、学僧となる。華厳経の注釈学と心の問題を扱う唯識学を統合し、華厳教学の事実上の創始者となる。主著書は「捜玄記(華厳経の注釈書)」「華厳五十要問答集」「華厳一乗十玄門」。

  • 先代杜順が慶州に組織した「華厳斎会」を引き継ぎ、インドから来た怪僧より「六相円融義」を伝授される。

「六相円融義」…ある構造物(その構成部品はすっかり融合して一体化しており、分解不可能)を全体として見た立場(総相、同相,成相)と、個々の構成部品それぞれについて見た立場(別相、異相、壊相)を合わせたものである。こうしてそれぞれの立場が相互に融和し、円満な世界を形成している状態を「円融」といい、刻々と移り変わり続けていくそれを直視し、それに立ち会い続ける認識レベルに到達しながら「広々とした海面に、刻々と変化していく夜空の動きが静かに映り続けていく様に、澄みわたった心の静寂が保たれ続けている境地」を「海印三昧」という。
六相円融義

 【第三祖】法蔵(643年- 712年)

出身は長安。俗姓は康氏。智儼(ちごん)に華厳経を学び、670年勅命を受けて出家した。則天武后の庇護を受けて華厳教学を宣揚し、華厳教学の実質的な大成者となった。また、実叉難陀の華厳経80巻の訳出や義浄の訳経などに関与した。弟子には文超・慧苑などがいる。主著書は「華厳経探玄記」「華厳五教章」など。

  • その圧倒的なまでの碩学を駆使して、ほぼ独力で中国華厳宗の教学を完成させただけでなく、武則天政権下において群懐義ら妖僧グループの暴走を抑える役割も果たしていた。ただ単に仏教学者として優れていただけでなく、祈祷力などでも譲る所がなかったので主導力を握れたのだという。
    *日本の朝廷も仏教界も、たかが雑蜜を修しただけの道鏡に太刀打ちできなかった事を思えば天と地ほどの開きがある。

  • そういう人物がまとめた宗派だけあって、中国華厳宗は「判りやすさ」と「奥深さ」の両面を備えている。一見、総合仏教として完成させる為に天台宗の教学から「三乗(声聞、縁覚、菩薩)一乗思想」や「五教判理論(数ある経典を比較して、自らが奉ずる経典を採鉱とするディぺート術)」といった概念を縁領してきてそのまま流用しているだけの様にしか見えないのだが、それらに「六相円融義」を適用して、格物を通じて空じる事で「法界縁議」や「華厳十心理」といった全く新しい認識レベルへの到達を誘うのである。

天台宗教学においては「三乗(声聞、縁覚、菩薩)一乗問題」は「空気の読めない人間をも動かす為のやむを得ない欺瞞(方便)」、「五教判問題」は「経典というのは発表年代が後になるほど完成度が高い。そして最後に発表されたのは法華経である」という便法を使う。つまり元々両者の背景に同じ宇宙原理が存在するという発想自体がない。

 【第四祖】澄観(738年-839年)

別名清涼国師。清涼澄観とも。越州山陰の出身。11歳で出家。天台宗律宗三論宗禅宗など幅広く学ぶ。天台山清涼寺に住み華厳を研究する。杜順の「法界観門」をさらに展開し、「四法界(現象世界に対する四つの認識レベルの進化段階)」の説をたて、華厳教学に貢献した。 主著は「華厳経疏」「法界玄鏡」など。ちなみに「四法界」の内容は以下。

  1. 事法界…我々凡人の普通の物の認識レベルで事物の対立と差別が実体としてして見えている。

  2. 理法界…万物は「色即是空、空即是色=縁起の飴の目で一つに結ばれた分割不可能な単位の部分抽出」に過ぎないするという認識レベルで、理の導入によって事物の融和が始まる。
     
  3.  理事無礙法界…実体がなく空であるという理と具体的なものごとが妨げあわずに共存している認識レベルで、今度は理と事物の融合が始まる。

  4. 事事無礙法界…一切の物が空であるという理が姿を消し、一切の物事がただ妨げあわずに共存している様に見えている認識状態。

インド仏教が空の世界に行きっぱなしなのに対し、一度空の世界には行ってから現象世界に戻ってくるところがいかにも中国仏教らしい現実性を感じさせる。禅の十牛図の最後が「町中に帰ってくる」のと共通するものがある。

 【第五祖】圭峰宗密(780年 - 841年)

俗姓は何氏、現在の四川省の果州西充の出身。最初は儒教を学んだのだが、その後、仏教に転向し、25歳の時に出家して道円に師事した。後に、『円覚経』及び杜順撰『法界観門』に出会い、自身の立つ立場を確固たるものとした。29歳で具足戒を受け、808年になって師の指示によって、師の師である南印に師事し、その後洛陽に入り、南印の弟子である報国寺の神照に禅を学んだ。さらに、811年に、清涼澄観に師事し、華厳を究めた。そのため、宗密は華厳宗第5祖とされる。以後、著作または講筵によって名声を確立した。代表的な著作として『禅源諸詮集都序』等がある。821年以後、終南山の草堂寺に住して、『円覚経大疏鈔』等の撰述に没入する。828年、文宗の召致により、長安に入内し、紫衣を賜った。その後、裴休(791年 - 864年)と交流が生まれ、彼の質問に返答するという形式によって、『裴休拾遺問』を著した。841年、草堂寺で没した。裴休に「圭峰禅師碑銘并序」がある。

当時の仏教界において、禅宗の一派である荷沢宗と華厳宗とを中心として、諸種雑多な仏教思想と実践行とを統一する「教禅一致」の特異な教説を説いた。また、その著『原人論』では、儒教道教仏教のもとに統合しようとする「三教融合」の試みもはかられている。
*そこに当時の仏教界を席巻していた馬祖禅に対する強烈な対抗意識にを見る向きもあるが、いずれにせよ当時は洪州宗の絶大な力の前に屈するしかなかった。その思想が改めて注目されるのは、五代の永明延寿(904年 - 975年)が提唱した教禅一致思想、更には、三教一致思想が大きな潮流となる後世のこととなる。

新羅華厳学」の成立

新羅華厳宗を招来したのは唐留学僧義湘(625年-702年)である。660年代に唐入りし、唐華厳宗第2祖智儼に学んで671年新羅に帰国した。その後、勅命によって太伯山に浮石寺を建立し、ここを新羅華厳宗の根本道場とする様になって、多くの門弟を輩出した。

  • 海印寺や玉泉寺や梵漁寺や華厳寺などが次々と建立されて大いに振興したが、どれも首都慶州を避けて全国各地の名山を設置したのが特徴といえる。こうして道場が分散された事によって、中央や教団の目が届きにくくなり、そこを拠点として密教や禅に傾倒する者も出現してきた。
    *韓国人の間では「新羅=専制主義国家」「新羅仏教=貴族の護国仏教、庶民の弥勒信仰」という単純化がなされているが、実際の歴史を辿るとそれほど単純でもない。

①「6世紀後半-7世紀前半」…「和白(その伝統的支配力を土俗的シャーマニズムに依存する全国各地の諸部族を統合する部族会議)」に対する王権の優位を確立する為、新羅王が興輪寺(後には「黄龍寺(皇龍寺)」)などの造成と振興に邁進していった時代。

  • 仏教は次第に部族会議の間にも浸透していくが、新羅王族が「国王を釈迦如来、王族を釈迦一族と同一視する信仰形態」を望んだのに対して、部族会議を構成する門閥貴族達の間で流行したのは「伝統的若衆集団(古代ボーイスカウト団)の間に弥勒の化身が登場する」とした弥勒信仰であった。その緊張感故に体制側も無碍には「国家仏教仏教を背景とする祭政一致体制)」への移行を持ち出せず、しばらくの間は体制側と反体制側の間で黙々と「ただ黙って寺の数を増やし続ける」静かな競争が続く事になったのだった。

  • 仏教伝来に際して国家仏教仏教権威を背景とする祭政一致体制)導入に反対する地元豪族連合の間で同時進行で氏族仏教仏教権威を援用した氏族祭礼の再建)が広まり定着するという現象は日本においても見られた。

  • 王族側と部族連合側が黙々と何の名分も立てずに寺の数を増やし続ける「(「只管打坐」ならぬ)只管建寺」の時代だったとされている。
    *相手陣営より一つでも多く寺院を建立する事に意義があったのかもしれないが、なにしろ「只管建寺の時代」だから、そういう開設も弁解も気持ちよいくらい存在しない。唯一の例外が「黄龍寺」だが、当時の記録はあくまで「黄色い龍が出現したから喜んでその場所に寺院を建てた(以上)」とそっけなく「この瑞兆によって新羅王の座が神域からも追認された」といった仄めす事さえ許されなかった当時の空気を伝えている(後に王権が安定すると、やがてこの寺は最初から「皇龍寺」という名前だった事になるが、その辺りまで含んで御愛敬と言えよう)。

②「7世紀後半」…隋への朝貢及び留学を通じてその(仏教を基盤とする)先進的かつ精緻極まりない祭政一致体制に触れた王族と伝統的氏族国家の間で大幅な歩み寄りが見られた。それは高句麗百済倭国などの国際的競争の激化にさらされる事で「内輪揉めを優先していては国が滅ぶ」という直感が生んだ疑似ナショナリズム(というよりジンゴイズムに近い)に支えられた熱狂を伴うものでもあり、それこそがまさに新羅に三国統一を達成させる原動力となったのである。

  • より具体的には、支配階層の間における仏教信仰が「護国仏教(というより、その実体は「敵国懲伏宗教」に近い)」に一本化されたり、「伝統的若衆集団(古代ボーイスカウト団)」が「(花郎制度に起源を有する)国仙に主導される不屈の戦士団」に再編されたりしていく。

  • それは実際には伝統的氏族社会の再編開始を意味しており、皮肉にもかかる苦悩が当時の留学ブームと相まって名僧の輩出を支えた(これは既存の伝統的祭政一致体制に全く歯が立たなかった高句麗仏教界においても顕著に見られた傾向だという)。そのうち多くが「護国仏教」の荒れ狂う慶州を嫌って国内の名山に拠って「寺院=道場」を開設する道を選び、この事が新羅ひいては韓半島における「宗教教団=反体制運動の主導側」の伝統の起源となっていくのである。

  • もちろん実際には、当時中国で流行していた華厳宗を採用した彼らのうち主流派は国家仏教仏教権威を背景とする祭政一致体制)樹立に高い関心を有しており、それを実現する為にむしろ国家運営に積極的に関わってきたのもまた事実である。

  • しかし元より華厳教学には、その完成度の割には「如何に生きるべきか」一切教示してくれない(空海当たりが言い始めて定着した日本仏教界の定言に従うなら「それは自らの完成度のみを検証する技術に支えられた設計図の様なもので、その具体的実現方法については何所にも一切書かれてない」)が故に帰依者を禅や密教といった実践的教義に走らせる所があるし、中央の目が届き難い山奥の道場を多数有するという事は、隠れ家にはもってこいという事を意味していた。

  • この事はまた、当時の中国において進行中だった阿弥陀信仰や浄土思想の庶民への広まりが、何故新羅においては日本より先に出現し得たかを読み解く鍵でもある。実は当時の日本において僧侶は純公務員として国家統制下に置かれていたので同様の展開を実践するのに途轍もなく高いハードルを超えなければならなかったのだった。

③「8世紀後半以降」…しばらく華厳宗全盛の時代が続いたが、体制硬直化に従って地方豪族勢力といった国内不満層と結び付いた風水禅の台頭を見る事になる。

  • 唐に独立を認められて以降、しばらくの間両者の間で蜜月状態が続いた。この間ずっと新羅では慶州繁栄の裏側で留学経験を有する国際派知識人(及び国際交易などで成功した新興階層の台頭)の増大と伝統的氏族社会の崩壊(及びそれに伴う地方豪族)が並行して続いていく。

  • そして気付くと国家仏教仏教権威を背景とする祭政一致体制)へスムースに移行する時期を完全に逸していた(地方に拠点を有する仏教教団と全国の地方豪族が手を結んで国家運営の主役となる以前に、都市在住の伝統的貴族階層が伝統的支配力の低下を警戒し始め、自らの権益とを守る為に姿勢の硬直化を起こし始めてしまった)。この過ちこそが唐朝崩壊を契機として到来した未曾有の不景気を契機として新羅が倒壊し、高麗が建国される事を不可避とした遠因となった訳である。

韓国国内では「民衆における浄弥勒崇拝や阿弥陀崇拝に広まりがついに既存支配体制を打ち倒した」とする流説が流れているが、当時この勢力はまだそこまでの力を獲得するに至っていない。むしろ背後で既存秩序を破壊する為に風水禅師達が行ってきた扇動活動の犠牲者と言うべきで、それを主導下彼らもまた念願の国家再建への参画は叶わず平和が訪れると再び在野や山野に逃げ込んで再起の機会を待つしかなくなったというのが当時の実情であった。

 【新羅華厳宗のキーマン】元暁(617年- 686年)

新羅浄土教の先駆者。俗姓は薛、名前は誓幢、新幢である。新羅の押梁郡(現在の慶尚北道)に生まれ、興輪寺の法蔵に華厳を学び、650年, 義湘と共に唐に渡ろうとしようとしたが、高句麗軍隊のために失敗した。661年また義湘と唐に渡ろうとしようとしたが、偶然に骸骨に溜まった水を飲んで真理を悟って帰って来た。その後は華厳学の研究に専念し、240巻もの著作を成した。諡号:和諍国師

その著作の中では『大乗起信論疏』と『大乗起信論別記』が、特に中国や日本でも広く読まれた。その結果、そこに記された本覚論の解釈(人間は皆、先天的に仏性を備えるが、通常はそもそもそれに気付いてない「無覚」状態にあり、発心して「始覚」状態に推移して初めてそれを取り戻す旅へと出発できるとする)は、唐華厳宗第三祖の法蔵や、日本東大寺設立メンバーや、日本天台宗開祖の最澄にも様々な形で継承されていく事になったのである。

また、それと比べれば影響範囲は遙かに未知数だが、この本覚論をさらに発展させる形で「和諍論(人間同士の意見が食い違う場合には、対立し合う陣営それぞれが奉ずる理念を、それぞれ起源まで遡って調べればよい。正しい接点がみつかれば、後にはより正しさを増した融合概念が残るだけである、とする立場)」が発表されている。これが何所まで評価されたのかについては諸説あって定説が確立されてない。

「日本華厳宗」の展開

日本における華厳宗は、第3祖法蔵門下の審祥によって736年に伝えられた。

金鐘寺(後の東大寺)の良弁の招きを受けた審祥は、この寺において華厳経・梵網経に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像奈良の大仏)が建立(743年〜749年)されたのである。この審祥が元暁の弟子だった為に、後に元暁の存在は東大寺を始めとする南都の諸寺院でもてはやされるようになる。そしてこの傾向は、教祖最澄が日本天台宗確立に当たって元暁の著作を深く研究したのと相まって天台宗系の僧侶にも感染していく。

奈良仏教を代表する南都六宗の一つに数え上げられ、もう一つの重要教団たる律宗も実質上傘下に収め、大量の寺領を背景に聖武天皇の御代以降も相応の影響力を保ち続けたが、しかし何故か「国家仏教の企画者」として選ばれる機会は逸っし続ける。

日本が最も「仏教権威を背景とする祭政一致体制」という意味での仏教国家に近付いたのは明らかに称徳天皇の時代であるが、この時代もまずは吉備津真備に「兵隊」として使われ、さらに肝腎のタイミングで陰陽術に長けた藤原仲麻呂や雑密を修した道鏡に抑え込まれてしまう。そして桓武天皇代には、遷都が敢行されるは、謀略に連座して早良親王東大寺別当まで勤めた事のある期待の星)が失脚して亡くなるわで、まるで天命に恵まれていない。後に明恵によって密教思想が取り込まれ、さらに凝然による教学の確立がなされたが「泥棒捕まえて縄」にも程があるという感じである。

三論宗」の伝来

その起源はおそらく経典ごとに学派を立てる「中国式経典仏教」の乱立が始まった南北朝時代まで遡れる筈だが、実際に大成するのは吉蔵が登場する隋代以降である。だからそれが高句麗に伝わって中国本土より盛んになったのも当然それ以降と考えられる。

その最大の特徴は「この世の相互依存関係から独立して存在する真理など一つもない」「なので我々自身は特定の教義など持たず、また他学派がそれを持つ事を許さない(必ず論破してみせよう)」というスタンスにあり、半島統一前の新羅や日本の仏教界においても一斉を風靡したと考えられている。

実際、新羅僧の元暁もその猛威について言及しているし、日本においても奈良仏教を代表する所謂「南都六宗」に2つもこれに連なる宗派が混ざっているのである。「三論宗」そのものをもたらしたのは高句麗僧慧灌で、東大寺南院を中心に展開したとされている。また「三論宗」から派生した「成実論(「俗諦」と「真諦」とを対立させ、俗諦の存在を認めつつもそれは真実界に立ってみれば空であると説く)」を奉ずる「成実宗」が百済僧道蔵によって伝えられ、こちらは元興寺や大安寺を中心に展開したとされている。

法相宗」と「三輪論」と「華厳宗」の乗り入れ

実は仏教における教学の多様性は「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」の間の相違どころではなく、この三宗の立場の違いもそれに該当する。

  • 唯識入門(高崎直道)」によれば「唯識論」は「竜樹によつて大乗の空思想(一切法は空であるといふ見方)が確立したあとで、瑜伽行派と呼ばれる人々の間で次第に形成された思想で「華厳経」「十地品」で説かれていた「三界は唯心」「十二因縁分はただ一心によつている」という教えに基づいて、その唯心の理の観得の方法として発達した 」とされる。ところが、ここでいう「竜樹が大乗の空思想を確立した書物」というのが「三論宗」の最も重んじる「中論」に他ならないのである。

  • 「中論」の特徴は「説一切有部」を徹底論破しようとする点にある。特に「人は『長』を知った時に初めて『短』を知る。あるいは『短』を知った時に初めて『長』を知る。『長』から『短』が派生する訳でも『短』から『長』が派生する訳でもなく、まず『関係の様なもの』が実存するのである」という認識を重視してこの図式を「種/芽」「父/子」といった具象概念から「清浄/不浄」「生/死」「苦/楽」「執着/諦念」「過去/現在/未来」「有/無」といった嘲笑概念にまで広げていく過程で「一切有」を否定し、かつまた「有/無」のうち「無」の側のみを指して「空」とする態度を否定した上で最終的にそうした『関係の様なもの』の総体として「因縁=縁起=空」という概念を提言するのである。これが原点と目されているという事は、唯識論の世界観も華厳経の宇宙観もこの認識を前提として展開されているという事である。

  • 華厳経は、3世紀頃に中央アジア(西域)に突如として現れた系統不明の経典。インドより伝えられてきた様々な経典を独特の観点で編纂したもので、しかも全体のサンスクリット語原典は未発見(「十地品」「入法界品」などについては独立したサンスクリット経典があり現代語訳もされている)。その特徴は一言で言うと(中論をさらに推し進めた形での)「宇宙神」盧遮那仏の君臨であり、仏教というよりインド北部でバラモン階層が練り上げてきたウパニシャッド哲学の「梵我一如」精神の集大成に近い。

  • ちなみに、一旦は「有/無」のうち「無」の側のみを指して「空」としながら、さらにそれを「空」じる事によって「因縁=縁起」に到達する論法は原文には一切なく、もしかしたら中国起源かもしれない。さらに原典について見ていくと中国仏教において「『有/無』のうち『無』の側を指して『空』とする」解釈の原点と目される「般若心経」の該当箇所もそうはなってはおらず、しかも「中論」とどちらが先に執筆されたか現時点では判らない状態にあるという。

  • ところで実際の開闢順序とは逆になるが、興福寺法相宗は「東大寺華厳宗の教義の一部を更に詳細に展開されたもの」と見做す向きが多く薬師寺に到っては東大寺建立以前に何が研究されていたかについての記録自体がないという。高句麗僧慧灌が伝えた「三論宗」にしても東大寺南院を中心とする展開が東大寺建立以前に行えた筈がない。

おそらく日本仏教の原風景がこうなったのは、大陸より招聘された学僧達が大陸における論争をそのまま持ち込んだせい? 般若経は、こういう状況をこそまさに「色即是空即是色」と嘆く訳である。

政争に巻き込まれた律宗 

鑑真の来日(743年〜754年)によって日本の仏教界にも初めて戒律制度が導入されたが、これを契機として日本仏教界の階層化が始まる。事実上、華厳宗の影響下に入った事も状況を悪化させた。

そして平安時代(794年~12世紀末)に入ると「日本仏教界の階層化」に反対する動きが目立ち始めるのである。

状況を日本史側から軽くまとめてみましょう。現代ではリベラル層中心に概ね「奈良時代から平安時代初期にかけての日本仏教の主目的は国家護持で、強力な呪詛力のみが追求され、最後に密教が勝利した」といった理解がなされていますが、実際にあったのはこういう展開でした。 

  • 実は平安時代最初期に最も流行していたのは「世親(ヴァスバンドゥ)」が「倶舎論」で体系化した「説一切有部」を奉じる上部座仏教の「倶舎宗」だった。そういえば「倶舎宗」の道場は聖武天皇の鳴り物入りで建てられた「東大寺」と藤原氏の氏寺を起源とする「興福寺」であり、いかにも「登龍門」らしい。

  • 鑑真が「小乗戒壇」をもたらして以降の日本仏教界では「小乗仏教を修めておいた方が高僧に任官される上で有利」という空気が出来上がっていたせいなのだろうか。後に最澄が対抗して「大乗戒壇」設立にやっきになる。

  • 奈良仏教の影響力拡大に恐れをなして遷都を繰り返してきた桓武天皇は、ここで得度と受戒の条件を定められる権限を活用して「刺客」を送り込もうとする。蘇我氏が建てた飛鳥法興寺を起源とする「興福寺」最大のライバル「元福寺」。そこを活動拠点とする「説一切有部ハンター」こと「三論宗門徒達。実は裏にはさらに(衰退の一途を辿る)百済系渡来氏族の反撃という側面も。またおそらく「河内出身者を中心とする法相派と三論派の超党派勢力」なんてのも存在した。

しかし目的達成までの道のりは思ったより険しかった様です。

http://livedoor.blogimg.jp/otsulocal/imgs/c/b/cb7577a2.jpg

日本後記 桓武天皇 延暦20年(801年)夏四月丙午(15日)

天皇が次の様に勅した。
前年の制(延暦17年九月壬戌条勅)では「年ごとに定員枠のある年分の得度者は若年の者から採用することが慣例になっているが『法華経』と『金光明最勝王経』の音読は学習しても教説を理解してない者がいる状態である。仮にも僧侶となり、課税されないという特権を与えられながら、かえって仏教の戒律を捨て学業を廃しているのである。今後年分の得度者には年齢が三十五歳以上で出家としての心構えが定まり、仏教の知識・修行ともに十分で漢音(かんいん)を修得した僧侶たるにふさわしい者をもって充てるべきである。毎年十二月以前に僧綱と治部省・玄蕃寮が修行を積んだ者を招集し、相対して試験を行い、学習した経典・論書に関して大儀十条の質問をし、五条以上に答えられた者を採り、期日が来たら得度させよ。受戒の日には、さらに試問を行い、八以上に答えられたら受戒させよ」とあるが、人には生まれつき聡い者と鈍い者がおり、学業の達成にも早い者と襲い者がいる。HQあじめから年齢制限を設けると優れた才質の者を採れなくなる恐れがある。また三論宗法相宗とでは教義をそれぞれ異にしており、両者の教えをあらかわきまえる必要がある。そこで今度は年齢が二十歳以上の者を採る事を認め、試験の日には三論・法相の違いについて答えさせ、受戒の時に再度の試験を行う事は廃止せよ。他の点については前例によれ。

日本後記 桓武天皇 延暦23年(804年)春正月癸末(7日)

天皇が次の様に勅した。

勝れた仏教の真理について様々な説があるとはいえ、主旨は同一であるが、三論・法相の僧侶は相手を目にすると、論争を始めている。これは後代の仏教を学ぶ者に教理を競わせ、学問を深めることを意図してと思われるが、聞くところによると諸寺において仏教を学ぶ学生は、三論を学ぶ者は少数で法相宗に賊する者が多く、宗勢の強弱を見て有力な宗派につく学生により教界が犯され、仏教の真理の追究が疎かになっているという、そこで年間の得度枠は毎年三輪・法相ともに5人とし、補充することは認めないとせよ。両宗の学生には諸々の経典や論疏(ろんしょ)を読ませる事とし「法華経」と「金光明最勝王経」は、旧例により両宗ともに読み「華厳経」と「大般涅槃経」はどちらか一つを選択させ、経典と論疏双方に通熟した者を得度させよ。諸々の論疏(ろんしょ)を読んでいても経典を読んでいない者は得度を許さない。経典と論疏(ろんしょ)を広く学び仏教の教義を奥深くまで修得していれば漢音(かんいん)を学んでなくともよしとせよ(延暦12年4月丙子条制においては「漢音(かんいん)の修得」が必須となっていたが条件緩和)。今後は永く以上の決定を恒法とせよ。

【注釈】「『法華経』と『金光明最勝王経』の音読」…どちらも本文の「効用説明」箇所に国家鎮護効果があると書かれており、それで全国に建てられた国分寺の必須アイテムとなった経典。

  • ここにはっきりそう書かれている訳ではないが、そもそも龍樹「中論」に「正しく原文の発音で読み上げないと本来の効用が発揮されない」とある。

  • 時間が経過誰して誰でもそれが出来る様になると「内容を全く理解してないのでは駄目だ」となり、さらに「内容を正確に理解出来てないと駄目だ」と注文が増えていくのは御愛敬。

【注釈】「漢音(かんいん)の修得」条件の強調と緩和…何が理由で強調されたり「別にいいや」となるのかについて深く考察されている例をあまり見た事がありません。当てずっぽうに列記しておくと以下あたりが考えられそうです。

  • 呪術的感覚から当初は漢文を正しい発音で読み上げる事に執着したが、やがてサンスクリット語にそれを求める様になった。

  • 来日して日の浅い日本語の不自由な渡来人や長期留学生(同じ「日本後記」に唐に長期滞在して物凄く学識を高めたが、日本語を忘れてそれを認められないケースが収録されている)を有利にする為に設けられた差別是正条項だったが、むしろ優秀な学生を採用する障害となってきたので条件を緩和した。

  • 生まれてから日本を一歩も出た事がないのに頭から外国を馬鹿にする守旧派高僧が現れ始めたのでそれへの牽制。

【注釈】「三論と法相の違いについて答えさせよ」…実は「中論(講談社学術文庫)」を読んで、この設問の鋭さにやっと気付いた次第。

  1. あちこちで「法相宗は難解だ」という記述を見掛ける。そもそも「上部座仏教と大乗仏法の論争の(上部座仏教側からの)集大成」なのでやさしい筈がない。

  2. 当然、上部座仏教に関する基礎教養もなければ読み解けない。それで「倶舎宗」が立てられたとも。

  3. 実は三論宗」も「上部座仏教と大乗仏法の論争の(大乗仏教側からの)集大成」なので上部座仏教に関する基礎教養もなければ読み解けない。

  4. という事はつまりこの公案の強制には「我々が導入しつつある仏教とは何か」について根本から考えさせる効果があったのである。中国や朝鮮半島では廃れた仏教が日本にだけ残ったのも、もしかしたら玄奘三蔵や嘉祥大師吉蔵が投げ掛けたこの問い掛けを真正面から継承しようとした生真面目さ故だったとも。

【注釈】経典と論疏(ろんしょ)…四書五経といった中国経典の研究は伝統的に「原文と既存の注釈にさらに注釈を付けていく」形で進進行していくので「有名な注釈だけ暗記してそれについてのみ語る」だけで誰でも学識者の振りが出来てしまう。

  • おそらく「とりあえず大乗と小乗の違いを説明させなさい」なる公案が掲示されてからわずか数年で「その問題が解けた程度で鼻高々にしている学僧」が横溢する状況となった事を表している。

【注釈】「華厳経」と「大般涅槃経」…ここにも対比が見られる。

前者は東大寺の奉じる「華厳宗」の最重要経典であると同時に「三論宗」の基礎経典の一つ。

後者は上部座仏教の必須経典に4世紀頃、大乗仏教の瑜伽行唯識派が加筆したもので法相宗の必須経典。

【注釈】「三論・法相の僧侶は相手を目にすると、論争を始めている」…当然の帰結としてそうなる。「上部座仏教大乗仏教の間で数百年に渡って繰り広げられてきた論争」をそれぞれの立場で背負わせた訳だから。

 当時の学僧を「経典がそれらしく読めれば自己満足」なんて段階から辛抱強く数年掛かりで持ってきた桓武天皇(の中の人?)の苦労を忍ばせます。その一方でこうした動きは平安仏教の原点ともなりました。

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【対応例】空海が打ち立てた「真言宗」の場合

空海はある意味「後出しジャンケン」で勝った人。

  1. まず、これまでの分析に表れたこの時代のトレンドを拾い集めてみよう。「呪文としては漢文を正しく発音出来るだけでは甘い。サンスクリット語でなければ」「龍樹は『正しく空の境地に立っている者だけが、完全な呪術を駆使できる(中論の一節)』と言っている。(道鏡の様に)中途半端な雑密を修得した修験者が全然駄目だったのも当然だ」「龍樹は『清浄と汚濁は別々に存在してる訳ではない。両者をも包み込むシステム全体(縁起=空)を見極めてこれを取り込む事こそ重要だ』と言っている。我々にそこまでの発想があるか?」「『華厳経』には確かにその理想に基づいた世界が描かれている。だがそれについて語れるだけでは絵に描いた餅ではないか? 問題は我々自身がその世界にどうやれば参加出来るかなのだ」。

  2. 当時の仏教教学で、こうした問い全てに答えられる仏教密教しかなかった。しかもそれはこの様に「三論宗」の最重要経典でもある龍樹の「中論」を出発点とするものだったので、新しい宗派を立てても「定員が中々埋まらない三論宗の得度枠」を狙うニッチ戦略を取れば奈良の都の「南都六宗」との無用な喧嘩を避けられるという素晴らしい特典付きだったのである。

  3. 真言宗が何故平安時代においてその躍進を待望されながら今一つ延びきれないでいた「三論宗」を吸収合併しながら大躍進を遂げたかというと、こうした当時最強のマーケティング戦略に従ったものだったからであった。

そして出発点はともかく空海が編み出した「十住心論体系(9世紀中盤)」の衝撃は大きかった。

  1. 【動物】性食を貪る事しか知らない迷妄段階。
  2. 儒学】「他人や国家に相応に気を遣う」事を知る段階。
  3. 道教】それらの背後に「絶対的な何か」を感じ始める段階。
  4. 【声聞】「無我の境地」に謎を解く鍵を見出す段階。
  5. 【縁覚】自分だけ助かろうと必死過ぎてそのままでは助からない。
  6. 【法相・唯識】他者の救済を志す菩薩道の意義を悟る。
  7. 【三論・中観】自他の違いも分からなくなるが、戦い続ける。
  8. 【天台】森羅万象を区別する必要自体ないのだと悟る。
  9. 【華厳】無尽円融の立場からの世界観の再構成に成功する。
  10. 真言】その無尽円融の世界で、どう生きれば良いかやっと判る。

これに天台宗比叡山)も華厳衆(東大寺)も三輪宗(旧蘇我氏系寺院)も全く歯が立たなかった。かろうじて対抗意識を燃やせたのは藤原氏系寺院で研究され、相応の政治力を擁した法相宗倶舎宗くらいなもの。
*「東アジア地域最大級の盧舎那仏」を建立しながら日本史に華厳宗が残した足跡というのはあまりにも不明瞭。そもそも空海の「盧遮那仏なんて祈っても何のアクションも起こしてくれない宇宙神(「地球儀」みたいなもので祈願を掛けても何もしてくれない)より大日如来(正しい方法で必死に祈願すれば聞き届けてくれる事もある進化バージョン)を崇めるべしという指摘を受けて東大寺側は密教に傾倒し「盧舎那仏大日如来」なる宇宙観を切り開いていく。

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【対応例】最澄が打ち立てた日本「天台宗」の場合

ある意味、最澄こそ日本仏教のエグゼクティブ・プロデューサー。

  • ただ最澄の場合、現実世界における政治的勝利への執着心が甚だ薄かった。特にどう考えても当時最大のトレンドだった筈の「密教」が最初は視野に入ってなかった辺りプロデューサーとしての素質にも欠けていた事を窺わせる。

  • その代わり彼は「仏教研究の永続性」に強い関心を持ち続けた。そして中国天台宗の「折衷主義」や新羅仏教界の「和の精神に基づく統一」について調べ込んだ上で所謂「五時八教の教相判釈」を通じて「オールインワン仏教」を提唱しつつ「大乗戒壇」を設立して独自権威化を志向する事で、結果として既存の「南都六宗」に頭から喧嘩を売った事になり激しい党争の日々を送る事となる。
    東大寺や大安寺において「倶舎宗」が圧倒的な数の学僧を集めた結果「高僧として叙任される為には小乗に限る」という状況が生じていた事への反動とも。

  • 最大の謎は「和の精神に基づく永久の統一」が不和の原因を永久に内包し続ける事につながるという事に果たして気付いていたかどうか。また「四宗兼学(禅も戒律も念仏も密教も全部修了したら最強)」の強制は学僧に対して常に「おいおい、本当にそれが結論でいいのか? 全部中途半端に終わるだけではないか?」という不安を抱かせてしまう事にどれだけ気づいていたか。

むしろ臨済宗の内包する「全部入りの難易度の高さが生み出す恒常的不安」が後世において融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗臨済宗曹洞宗日蓮宗といった「選択仏教」の母体となった過程まで全て「当初の計画通り」であったなら、まさしく「日本仏教界最強のプロデューサー」とも。

こうした動きには奈良時代における氏族戦争(Clan War)の延長線上で起こったという側面がありました。

そして当時の史料には「石上氏」や「弓削氏」の名前で登場する物部氏が相対的に力を増してきた事が平安仏教にも密教への傾斜を余儀なくされていくのです。