諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

古代日本の息吹①出雲国造とアイルランド人が広めた「Exotic Japan」の原風景

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ドイツ人学者による「平田篤胤出雲国造小泉八雲が世界中に広めたExotic Japanのイメージに関する批判的研究」なんて文書を拾いました。「古事記」のドイツ語版を完成させた人の論文みたいです。

クラウス・アントーニ (Klaus Antoni, ドイツ、テュービンゲン大学教授) 「もう一つの日本」としての出雲 ―虚像と現実―

①「日本人はヤマト王権が排他的に中華文明や朝鮮半島文化の影響下にあった事を認めるべきだ」とあるが、この認識そのものは「メトロポリス(Metropolis、1927年)」におけるヨシワラ・ダンスと同じくらいいただけない。
*そもそも本文の展開とも齟齬をきたしている様に見える。

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  • まず「当時の日本列島には倭人系首長も渡来人もいたので出雲国造ヤマト王権も領民統合の為にその双方に君臨する存在とならねばならなかった」という事情を忘れてはいけない。出雲国造が素戔嗚の末裔たる事を強調するのも、皇室が時宜に応じてアメノヒボコ天之日矛、天日槍)や高野新笠桓武天皇の生母)。これはもう「清朝の支配者である事は中華皇帝・遊牧民族のハン・チベット仏教の最大の施主の三側面をバランス良く兼ねる事だった」というのと同じぐらい歴史的事実。で、上からの押し付けが目に余るほど庶民感情はその逆に動く。これもどの国でも同じ。
    *そもそも「桓武天皇による生母高野新笠の言挙げ」は「藤原仲麻呂新羅討伐計画に巻き込まれた百済王氏宗家の不当な没落」とセットで考えないといけない。
    第6部 百済王家の衰退とその背景

  • そもそも肝心の渡来人がその朝鮮半島文化の影響を否定して「秦の始皇帝の末裔である(秦氏)」とか「漢の霊帝の末裔である(船氏)」とか名乗っていた。しかもしかも「嘘から出た誠」というか遣隋使や遣唐使が往来する様になると、真っ先に中華文明直輸入の先兵となり「日本の朝鮮文化の影響下からの脱却」を主導する事になる。
    *そもそも「現地における支配強化を嫌って日本列島に逃げてきたのが渡来人」という側面を忘れてはならない。室生犀星ではないが、まさしく「ふるさとは遠きにありて思ふもの。そして悲しくうたふもの。よしやうらぶれて異土の乞食となるとても帰るところにあるまじや」の心意気。そもそも「移民は移民先でも祖国への奉仕のみを考え続けるのが道義的に正しい」なる前近代的センチメンタリズムには日本人より欧米人の方が苦労させられてきたのではあるまいか?

  • さらにいうと、そうして必死になって摂取した中華王朝文明には「領土拡大志向」なる破滅の罠が仕込まれていて、これから距離を置く事で「国風文化」といった日本独自文化は成立した感がある。
    *これもまた「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」なるジレンマの顕現の一環。中華王朝文明は中国人以外が歴史の主体となる事を絶対に許さないが、中華王朝文明の模倣者もやはり自分以外が歴史の主体となる事を絶対に許せなくなってしまう。このシステム的欠陥のせいでどれだけ多くの不毛な紛争が勃発し、無駄な命が失われてきた事か。逆を言えば、そうした歴史を積み重ねてきたが故に日本人には欧米人より確実に「中国における中華王朝文明性の復活」に一際過敏な部分がある。

②「愛と性の神でもあった出雲大社の祭神たる大国主命を縁結びの神とする概念は古代の出雲信仰にはなかった。それは最も早い時期としては、徳川時代後期の杵築大社の御師に遡る。現代の出雲は一つの製品のブランド名の一種となってしまい、出雲大社や出雲信仰に何らかかわりのない人に対しても商業的に神前結婚が行われる」という言い回しが出てくるが、この表現には不吉な不穏さを感じる。

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  • 宗教が「王侯貴族の権威付けの見返りで繁栄する」「領主化によって自立する」といった前近代的経済段階から脱却するには、どうしてもサービス化、すなわち「現地における文化英雄化」「冠婚葬祭といった庶民的行事の開催」「鎮魂祭やターミナルケアといった不安除去産業への積極的関与」といった泥臭い側面に足を踏み入れざるを得ない。これを「不純」と全面的に退け続けるだけでは問題は何も解決しない。
    *確かに「穢れ」の領域に足を踏み入れる葬式への関与は宗教学的に飛び抜けて重要な意味を持つ。しかしその一方で病人の看病すら拒絶する潔癖症の宗教というのもまた少数派な訳で、この辺りの連続性まで黙殺するとそれはそれでおかしな事に。

  • その意味において平田篤胤が(キリスト教の経典まで参照して)神道の世界に葬式の概念を持ち込む事で大衆人気を獲得し、出雲神道がその精神を継承しようとした事自体についての是非の判断は非常に難しいものとなる。問題はむしろ、そうしてまで神道を単独のサービスとして完結させたがった理由が「仏教の必要性を日本人から完全に奪う為」だったという事。そして皮肉にもそれに当たってキリスト教の経典を参照した背景には「儒教式は既に仏教に流用されていた(そのまま採用しても二番煎じとしか思われない)」という事情があった。

    第五講 仏教と儒教-4

    *この文書では「最初から神道が浸透していた出雲では江戸幕藩体制下において早くも神仏分離が完遂された事」が手放しに褒められているが、ここで重要なのは薩摩藩では同様の措置が暴力を伴って遂行された事や、逆に同じ倒幕側ながら浄土真宗の強い長州藩においてはむしろ神仏分離が「神道の追放」という形で実行に移された事。上からの宗教統制は必ずといって良いほど暴力や際限なき宗教闘争を引き起こす。平田神学の問題点もそこにあったのであったという事を決して忘れてはいけない。

  • そもそも日本人としては「愛と性の問題」と「縁結びの問題」の問題を切り離して論じようとする辺りに「真の愛の成就は必ず死を伴う」みたいなドイツ・ロマン主義的「古代の息吹」を感じずにいられない。向こうからいわせたら逆に、元々神仏習合の伝統があって今日なお「お盆と正月は和式、クリスマスやハロウィンは洋式」みたいに平然と使い分けてる日本人の方がよほど「古代の息吹」なのかもしれないけど。
    *逆に「愛と性の問題」と「縁結びの問題」を不可分の形で描くのが英米や日本のコンテンツの特徴で、これに反感を覚えるのが欧州大陸系コンテンツという伝統的対立図式が存在する。

しかしこういう部分はあくまで枝葉末節で「島嶼国(インドネシア)や琉球諸島出雲神話における(「根の国」や「常世の国」といった)死後の世界観の連続性」とか「少彦名金毘羅命や大国主命といった出雲の造化の神が醸した神酒が三輪とも呼ばれる所以(三輪山信仰との関連)」とか「古事記に実証文献学にアプローチしたチェンバレンと出雲史観を無条件に受容し出雲国造家に入婿した小泉八雲の対比」とか「その小泉八雲が世界中に広めてしまったExotic Japanのイメージと実際の日本のイメージのズレ」についての再考を日本人に求める姿勢そのものについては素直に頭を垂れるのみ。そして、それならそれでこのサイトの歴史観も全面的見直しを強いられる羽目に?

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このサイトはとりあえず「日本書紀」欽明十三年(552年)冬十月条を重視する立場に立っています。

  • 歴史のこの段階における倭人には、そもそも「神や仏を擬人化する発想」そのものが欠けていた。既に「三輪山信仰」や「天照大御神信仰」や「高木神信仰」は存在していたが、そこでの崇拝対象は「山そのもの」だったり「太陽そのもの」だったり「柱状の神の依代そのもの」だったりしたのである。
    仏教も最初期には「(祖霊の依代たる)氏寺の仏塔そのもの」が崇拝対象となっていた。

  • 歴史のこの時点の倭人にとって「国津神」とは日本の神々の総称に他ならず「天津神」を対比概念として持たなかった。
    *そもそも、おそらくまだ中華王朝より畿内(王や皇帝の住む都の周辺地域)を統治権の源泉と見做す考え方が伝わっておらず、日本でこれに該当するのは大和国奈良県)」で、その地に割拠する畿内豪族(和爾氏/春日氏、葛城氏、巨勢氏、平群氏、波多氏、蘇我氏)こそが「ヤマト大王の藩屏」とする概念自体が存在していなかった。

    http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/gouzokubunpu%5B1%5D.jpg

またこのサイトにおける「狭義の前方後円墳国家(3世紀〜5世紀)」の定義は以下。
*「朝鮮半島への軍事介入」は、例えあったにせよヤマト王権主導というより現地に既得権益を有する葛城氏、紀氏、膳氏、上毛野氏、筑紫君、大伴氏、物部氏といった諸勢力の個別判断によって遂行され、勝手に自滅したりヤマト王権の交易独占を破ったりして前方後円墳国家の破綻を加速させたと考える立場。現地にも植民地があったというより、栄山江流域や蟾津江流域出身の馬韓人や加羅諸国に属する在地協力者が居た程度と考える。そもそも「領土併合」なんて高度な行政技術が全てを席巻する様になるのは6世紀以降。

  • まず歴史的主体となったのは3世紀初頭に纒向を建設した豪族連合。発起人となったのは吉備や伊勢沿岸部の在地有力者など。3世紀後半より九州北部連合や上越地方の豪族、4世紀初旬より山陰地方や山陽地方の海人族、丹波や東海地方の豪族が合流した。そして4世紀後半より佐紀盾列古墳群(奈良市北西部、奈良丘陵の南西斜面の佐保川西岸、和爾氏/春日氏の本拠地)に安定した間隔で大王墓を築造するヤマト王権が登場。
    *4世紀の動きは(日本書紀にのみ記載される)「崇神天皇代の四道将軍」と呼応。5世紀に入ると(おそらく交通網確保の目的で)近江地方から東海地方にかけて「格下の新興中小豪族」が急増するが、これは(古事記日本書紀に登場する)山人族に比定されている。播磨や熊毛(周防沿岸部)や日向(現宮城県)にも該当する動きがあり、全体的にヤマトタケル神話と縁深い。

  • 土師氏による古墳築造法の伝授などによって豪族間の序列が保たれていた。
    *出雲発案。吉備地方が模倣して広めた政治技法。興味深い事にオリジナルの出雲は不参加。

  • その権力の源泉は主として「大陸から伝わる珍しい文物の再分配権」。3世紀初頭より朝鮮半島洛東江流域の産する鉄が重要な意味を為してきたが5世紀中旬を過ぎると半島情勢の不安定化、近江地方などでも鉄鉱石を産する様になった事、砂鉄からの製鋼技術が広まった事などが重なってシステム的に瓦解。
    *実は配分対象となったもう一つの「大陸から伝わる珍しい文物」が、4世紀末より流入量が急増した「渡来人」。古事記日本書紀では百済人が多かった様な描かれ方をしているが、考古学的には(後にその百済に併合された)栄山江流域や蟾津江流域出身の馬韓人や長門(穴門)にあった「謎の国」の果たした役割が大きかったとされる。葛城氏や紀氏がヤマト王朝側の窓口となったが、これも独占に失敗してシステム的に瓦解。

  • 5世紀後半からは伝統的集落の崩壊や地方豪族の没落が進行。その一方で考古学的にも「人制(ひとせい)」と呼ばれる官人制度の原型の痕跡などが認められる様になる(同時代の新羅に同様の制度があり影響を受けたとも。さらなる起源を中国古典「周礼」に求める向きも)。伴造が部民を率いて国政を分担する仕組みが樹立して大伴氏や物部氏といった連姓氏族が躍進。そして6世紀上旬には尾張・近江と上越を結ぶ琵琶湖経済圏と連動し所謂「継体天皇のクーデター」が勃発する。
    *当初は渡来人の管理単位として始まった「品部(同時代の百済に同様の制度があり影響を受けたとも)」と融合し「部民制」に発展。この時代に始まる職制が律令制の伴部にも引き継がれ「酒人→造酒司酒部」「倉人→大蔵省・内蔵寮蔵部」「手人→大蔵省・内蔵寮百済手部」「宍人→内膳司膳部」「氷人→主水司氷部」となったと考えられている。

  • 5世紀後半はまた「河内湾」や飛鳥地方といった倭人の文化レベルでは容易に入り込めない地域に集住してヤマト王権から距離を置いてきた渡来人達が在地豪族化し、これに参画する様になった時代でもある。おそらく「ミヤケ(屯倉・屯家・御宅・三宅・三家)」といった地方行政制度の先駆けも始まり、官僚需要が急増した事とも密接な関係がある。
    *かくして山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡などに割拠して土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた秦氏(奇しくもその分布がアメノヒボコ天之日矛、天日槍)説話のそれと一致する)、東漢氏(倭漢、やまとのあや)や西漢氏(河内漢、かわちのあや)の起源となった船連(船氏)、葛城氏の地盤を継承した蘇我氏などが台頭。

こうして畿内の概念は次第に「山城国京都府京都市以南。ただし左京区広河原、右京区京北は山陰道丹波国)」「河内国大阪府東部)」「和泉国大阪府南西部)」「摂津国大阪府北中部および兵庫県神戸市須磨区以東。ただし高槻市樫田と豊能町牧・寺田は丹波国、神戸市須磨区須磨ニュータウン西部と北区淡河町は山陽道播磨国)」を加え「五畿」に拡大されていきます。むしろ重要なのは逆に丹波・吉備・近江などがあくまでその枠外に置かれ続けた事とも。

大和川・淀川と古代の都

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そして、そうした時代に入ると新たにこんな国も現れます。

御食国(みけつくに)

日本古代から平安時代まで、贄(にえ)の貢進国、すなわち皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料(穀類以外の副食物)を貢いだと推定される国を指す言葉。律令制のもと租・庸・調の税が各国に課せられたが、これとは別に贄の納付が定められていたと考えられる。『万葉集』にある郷土礼讃の歌に散見され、『延喜式』の贄の貢進国の記述、平城京跡から出土した木簡の記述などから、若狭国志摩国淡路国などへの該当が推定されている。

  • 塩や鰒(アワビ)、海草などの海産物は、神事の際などに貢がれる神饌として古くから用いられた。またこれら海産物が豊富に捕れる地域の支配が、地域の権力者によって重要な政治的意味を持ったことは十分に想像できる。

  • 贄の貢ぎが史料として現れるのは、日本書紀大化の改新の詔の其の四のところで、「凡その調の副物の塩と贄(にえ)とは、亦(また)郷土(くに)の出せるに随へ」とある。実際、藤原京平城京の発掘調査から多数の木簡が出土しており、これら木簡のほとんどは都に税として納められた物品を示す記述であった。

  • 木簡の記述には納められた物品の名前とともに貢ぎ先の国名、郡名が記され、それが何の税にあたるか、すなわち租・庸・調の文字が記されている。一部の木簡は租・庸・調ではなく、贄や御贄(みにえ)、大贄(おおにえ)の文字を見つけることができる。

  • また贄を納める義務を負ったものを贄人と呼んだが、贄を納めることで調などが一律に免除されたかどうかは断定できない。しかし神饌の意味する本来の自発的に土地の海産物を神々に貢進したというものから、首長(天皇)に贄を奉じこれを首長が食べることで贄の取れた土地を支配していることを誇示する儀式となった。さらに贄は律令制の下で税のように強制的な収奪へ変化したことが窺える。

  • 大宝律令および養老律令においては、贄の貢ぎに関する記載は見当たらない。しかし『延喜式』には、御食国による贄として貢ぐ内容が詳細に記述されている。

  • 延喜式』によると、宮内省の内膳司(皇室、朝廷の食膳を管理した役所)の条に「諸国貢進御贄」「諸国貢進御厨御贄」などの項目がある。この項には各国に割当てられた食材をそれぞれ毎月(旬料)・正月元旦や新嘗祭などの節日(節料)・年(年料)に一度というように内膳司に直接納めることが規定されていた。

御食国が皇室・朝廷にとって特殊であるという説は、狩野久の研究によるところが大きい。推定の根拠をまとめると以下の3点である。

  • これらの国が田畑の少なさにもかかわらず一国として成立していた
  • 海産物が豊富にとれ、中央政府のあった畿内に地理的に近い
  • 膳氏(高橋氏)や阿曇氏(安曇氏)との関わりが深い

しかし、平城京から発見されている木簡や『延喜式』で贄を納めることを義務付けられていた国は、信濃国下野国など内陸で比較的畿内より遠い国もある。また、海産物以外の山野での収穫物や農作物に関する研究も今後すすめる必要が指摘されている。

若狭国の状況

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延喜式』によると、若狭国は10日毎に「雑魚」、節日ごとに「雑鮮味物」、さらに年に一度「生鮭、ワカメ、モズク、ワサビ」を御贄として納めることが定められている。

また、上述の藤原京跡や平城京跡より発掘された木簡から、調は絹や麻などの糸や布で納められることが一般的だったことが判っているが、若狭国では塩により調が納められていた。

若狭には8世紀以降使用されていたと思われる製塩施設が、船岡遺跡・岡津遺跡(旧大飯郡)などで発見されている。これらの製塩施設は大規模で、周辺住民が日々に使用する塩を作るためというより、時の権力による強制力により労働力が集められて、製塩が行われたと考えられている。

若狭国の地理的特長を見ると、海岸線はリアス式海岸で複雑に入り組んでおり、対馬海流の影響で海産物に恵まれている。一方で平野部は狭く限られており、田畑の面積は少ない。また、若狭国は、8世紀に置かれた郡は遠敷郡三方郡の2郡であり(9世紀に大飯郡遠敷郡から分離して3郡に)、近国で一国二郡は志摩国淡路国とあわせて3国しかなかった。このように田畑の少ない場所が国単位として成立していたことは、皇室・朝廷にとって特殊な場所であったと推定される。

志摩国の状況

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延喜式』によると、志摩国は10日毎に「鮮鰒(なまのあわび)、さざえ、蒸鰒(むしあわび)」を納めることが定められていた。また節日ごとに「雑鮮の味物」の献上も定められていた。

平城京跡から発見された木簡[3]に「志摩国志摩郡」の表記が見られ、当初は志摩国は一国一郡であったと推定される。その後の『延喜式』では答志郡、英虞郡の二郡である。田畑はわずかで、口分田として尾張国伊勢国にあった田が志摩国に割当てられている。先に述べた若狭と同様にこのような小国の成立は、小島が点在した地理的条件とともに、政治・宗教的な特殊事情があったと推定される。

以下でも述べるように、志摩国と内膳司を支配していた高橋氏との間に特殊な関係を指摘する意見がある。また平城京の木簡からは志摩国の贄を納めた氏族として大伴部の名前が多く見つかっている。

淡路国の状況

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延喜式』によると、淡路国は旬料・節料として「雑魚」を贄として納めることが記載されている。

以下でも述べるように、淡路国は海人(あま)を束ね、高橋氏と同様に内膳司の地位を争った阿曇氏が支配していた地域であった。また若狭国志摩国と同様に田畑が少ないにも関わらず一国として成立していた特殊性を見ることもできる。

これらの贄は、都へは上り、下りとも7日間を要したとある。陸路より日数が掛かっており、運搬は船を使って平安京に運ばれたと考えられる。

 膳氏との関連

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膳氏(かしわでうじ)は皇室や朝廷の御饌(みけ)を担当した伴造氏。後になり高橋氏と改めた。

膳氏の出自を示した『高橋氏文』には、景行天皇が東国に行幸したおりに、安房国にて磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと、膳氏の始祖とされる)が蛤を捕り、天皇に料理をして献上したところ、天皇の子孫代まで御食(みけ)を供するよう膳臣を授かったという記述がある。

高橋氏文』そのものが高橋氏の正統性を誇示する目的と考えられるため、全てを史実として受け入れることは困難である。しかし、膳氏(高橋氏)が6世紀には膳職の伴造の地位につき、東国とのゆかりが深いとする説が有力である。

高橋氏文』には始祖の磐鹿六雁命が死去した際に、「稚桜部」(わかさくらべ)の号が送られたとの記述がある。若狭の地名は「稚桜部」が由来であるとする説があり、若狭国との関係も窺える。実際に福井県の膳部山は膳氏の名前が由来であると言われ、膳部山周囲に多数の前方後円墳が残る。このため、一部では膳氏は5世紀から6世紀には若狭周辺の支配者であったとする説が支持されている。

また8世紀以降で高橋人足、高橋子老、高橋安雄の三名が若狭国国司に任命されており、律令制成立以後は、内膳司が直接支配した地域である。しかし高橋氏文の信憑性の程度とともに、膳部山の記載は江戸時代に初めて登場し、膳氏と膳部山との関連性は低いと主張する説もある。

一方、高橋氏は、幾つかの例外を除き、奈良時代から平安時代と長期にわたり志摩国国司世襲している。律令制下の一氏族による国司世襲は、きわめて例外的であった。志摩国国司と内膳司が兼任していたことは、志摩国が御贄を貢ぐことを義務付けられていた「御食国」だったことを示しているといえる。

阿曇氏との関連

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阿曇氏(あずみうじ)は安曇氏とも記し、律令制の下で、高橋氏とともの内膳司の奉膳の職を世襲した。

膳氏とは逆に瀬戸内海、壱岐など西国に影響力をもち、淡路島や小豆島などの海人、海部を支配していたとも言われる。一方で応神記に「海人が騒ぎをおこしたため、安曇連の祖大浜宿称を遣してこれを鎮撫し、海人の宰(みこともち)となる」というような内容もある。

若狭国志摩国と膳氏との関係は、淡路国と阿曇氏との関係にも見て取れるという説も同様になされている。また768年に阿曇氏の阿曇石成が若狭国守を務めている。これは高橋氏との権力争いとともに、道鏡との関連が指摘されている。

海人・海部との関連

阿曇氏が海人を束ねる地位にあったことはすでに述べた。また膳臣配下の膳大伴部も、志摩国の海人・海部を支配していたと考えられる。

万葉集での記述

万葉集の歌の中に「御食国」(「御食津国」、「御食都国」とも)が確認できる。それぞれ伊勢国(読み人不明)、志摩国(大伴)、淡路国(山部)など、その土地を賛美した歌となっている。

天皇がその国・土地を賛美するということは、すなわち該当地域の支配を暗示したものである。贄を貢がせてこれを食べることで贄の産地たる河川・山・海の支配を儀式的に示したものと同様のものと考えられている。

ただこれは海人族の展開としては割と最終段階。全盛期の勢いはこんなものじゃなかったのです。古事記や日本書記からもその片鱗は伺えます。

国産み(くにうみ)

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古事記」や「日本史」が伝える日本の国土創世譚。

中国南部、沖縄から東南アジアに広く分布する「洪水説話」に似た点が多いとされる。
*「洪水説話」…大洪水の後で兄妹だけが生き残り陸地にたどり着く。山や樹木のような高い物の周りをまわって後に性交するが、やり方が正しくなかったために最初は肉塊や動物が生まれてしまう。その後に神々から適切な交わり方を教えられ、ようやく男児や女児が生まれるというもの。

大物主(おおものぬし、大物主大神

日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)。『出雲国造神賀詞』では倭大物主櫛瓺玉命という。大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるとする。別名 三輪明神。

  • 蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。ネズミを捕食する蛇は太古の昔より五穀豊穣の象徴とされてきた。このことから、最も信仰の古い神の一人とも考えられる。古事記によれば神武天皇の岳父、綏靖天皇の祖父にあたる。なお、大国主の分霊であるため大黒天として祀られることも多い。

  • 大物主の信仰の古さは記紀から伺うことができる。古事記による神代の記述によれば大物主が大国主によって三輪山に祀られるのは国造りの段階であり、これは国譲りによって大国主自身が出雲に祀られるより前である。また日本書紀によれば大物主に対する祭祀は崇神天皇の代に中興されたと考えられるが、その崇神天皇の孫にあたる倭姫命によって天照大神が伊勢に祀られた。

  • 日本書紀神功皇后摂政前紀において、気長足姫尊が筑紫に大三輪神社を創祀したところ新羅遠征のための軍兵がうまく集まったとの記述がある。このことから、大物主は水神であるとともに軍神・国の守護神であったことがうかがえる。

  • 日本酒の造り酒屋では風習として杉玉を軒先に吊るすことがある。これは一つには、酒造りの神でもある大物主の神力が古来スギに宿るとされていたためといわれる。

明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされた。明治の諸改革は王政復古をポリシーに掲げていたので、中世、近世のご本尊は古代の神社登録資料にも沿う形で行われたので必ずしも出雲神への変更が的外れでなかった場合が多い。

大国主神大物主神

古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとある。

勢夜陀多良比売との出逢い

古事記・神武紀によると、三島溝咋(ミシマノミゾクヒ)の娘の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れした。勢夜陀多良比売に何とか声をかけようと、大物主は赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いた。彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれた。こうして生れた子が富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメ)であり、後に「ホト」を嫌い比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と名を変え、神武天皇の后となった。

倭迹迹日百襲姫の悲劇

箸墓古墳と関連があるとされる伝承である。倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)は、夜ごと訪ねてくる男性に「ぜひ顔をみたい」と頼む。男は最初拒否するが、断りきれず、「絶対に驚いてはいけない」という条件つきで、朝小物入れをのぞくよう話した。朝になって百襲姫が小物入れをのぞくと、小さな黒蛇の姿があった。驚いた百襲姫が尻もちをついたところ、置いてあった箸が陰部に刺さり、この世を去ってしまったという。

活玉依比売の懐胎

活玉依比売(イクタマヨリビメ)の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚した。しかし活玉依比売はそれからすぐに身篭ってしまった。不審に思った父母が問いつめた所、活玉依比売は、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを告白した。父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると三輪山の社まで続いていた。糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようになったという。

意富多多泥古の祭祀

崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れ、「こは我が心ぞ。意富多多泥古(太田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げた。天皇は早速、活玉依比売の末裔とされる意富多多泥古を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。これが現在の大神神社である。なお、『古事記』では、三輪大神は意富美和之大神とされる。

ここに見受けられるのは「生者と死者が共存する明るい死生観」と「異類婚や彼岸と此岸の交流は不幸しか生まないなる宿命論」の全面対決。しかも次第に後者が勝利していく歴史。例えば「縄文的なるものVS弥生的なるもの」あるいは「南洋的なるものVS中華王朝的なるもの」といった対立軸が想定されます。
*まさにこれが「人は死ねば何の楽しみもない黄泉の国に向かうのみ」とした本居宣長と「いや死者は何処へもいかず生者と共存し続ける」とした平田篤胤の対立軸とも。そして輪廻転生を肯定する仏教にも、究極的には祖霊に奉仕し続ける事だけが生者の喜びとする儒教にもこの問題の解決能力はないと見て取った平田篤胤キリスト教系文献に走ったとも。

*とはいえ実際にはキリスト教世界に独自の解決法がある訳でもない。例えばホメロス叙事詩オデュッセイア(Odyssea)」第11歌「ネキュイア (Nekyia)」には「死んで魂魄が分離した後、魂が天に迎えられて神となる一方で、魄は冥界の怪物と無限に戦い続ける英雄ヘラクレス」なる概念が登場するが、これは古代エジプト人の死生観の影響が色濃い。その一方で古代ギリシャ人だけでなく古代ローマ人も「祖霊は自らを祀ってくれる子孫を失うと怨霊化する」なる土俗的宗教観概念を継承し、これがルネサンス期イタリアでは「ヴェンデッタ(Vendetta、血の復讐の連鎖)」概念として暴走したが、ここまでくると「祖霊に奉仕し続ける事だけが生者の喜び」とする儒教や、江戸時代における敵討ちの概念と大差ない。さらにこれに宗教革命の発端となった「煉獄(Purgatorium)」概念の発明が続く。これも実はプトレオマイオス朝エジプトにおけるユダヤ教古代エジプト的死生観の対決と妥協の産物であり、キリスト教的思想と直接の関係を持たない。そもそもキリスト教では原則として死者は死後天国か地獄に向かうのみ。イスラム教でも死者は最後の審判でどちらかに振り分けられる存在に過ぎない。

*そもそも平田篤胤が渇望した「生者と死者が永遠に共存し続ける世界を肯定する聖典」が存在しないのは、人間というものは原則として「死者の遺志」に直面した時、行動の自由を奪われるか制限される存在だからかもしれない。ここでも「究極の自由は先生の達成によってのみ達成される」ジレンマが表面化してくる。そして死者というのは現実がどれほど変化しようとも決っして妥協しない、ある意味最強の論客なのである。そしてしばしば数的優位すら備えている。

なぜ生者は死者を意識し過ぎると自らの主体性を放棄せざるを得なくなるのか。それはしばしば数的優位すら相手に奪われてしまうから。
アーサー・C・クラーク「2001年宇宙の旅(1968年)」まえがき
「今この世にいる人間ひとりひとりの背後には、30人の幽霊が立っている。それが生者に対する死者の割合である。時のあけぼの以来、およそ一千億の人間が、地球上に足跡を印した」

*究極的にはこの考え方にはエドマンド・バークが「フランス革命省察(Reflections on the Revolution in France、1790年)」で示した「時効の憲法(prescriptive Constitution)」概念しか解決策がない。確かに直近の死者の意見は考慮に値する。だが死者は増え続けるものであり、キャパオーバーした「過去の死者の意見」は次々と削除されていく。

 それでは当時の倭人はこの問題にどう対処したのでしょうか。「古事記」や「日本書記」から読み取れる限りでは、処方箋を書いたのは葛城氏。道教理念に基づいて「生者による現世(常世)の謳歌こそ至高」としましたが、こうしたゾンバルト的解決(「究極的に自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」なるジレンマ故にその理念は国王のみが絶対的自由人として生きる事を許される絶対王政の完成形に行き着き、空中分解を余儀なくされる)こそが前方後円墳体制に終焉をもたらす事になったとも。

ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義(Liebe, Luxus und Kapitalismus、1912年)」

個人が個人を超えて持続する共同体から一人抜け出した時、初めてその個人の生涯がおのれの享楽の尺度となった。個人はおのれ自信が、事物の変化から出来るだけ多くの体験を得ようと欲する様になった。王でさえ己自身になりきり、自らが建てた宮殿に住みたいと欲する様になったのである。

崇神天皇代における「大田田根子(意富多多泥古)」

三輪山祭礼は、澁川郡阿都や和泉といった河内で陶器を焼いている渡来人集落と密接な関係を有する。またそれに関連する葛城氏・賀茂氏は紀ノ川流域と関係が深い。

  • 大物主神に仮託された三輪山そのもの」を神体として奉じる大神神社奈良県桜井市三輪)を最初に祀った人物は、日本書紀では大和国磯城地方(のちの大和国城上郡・城下郡。現在の奈良県磯城郡の大部分と天理市南部及び桜井市西北部などを含む一帯)を本拠地とする三輪君の祖である大田田根子、「古事記」ではその神君(みわのきみ)の祖であると同時に事代主神一言主を祀って奈良盆地南部に栄えた葛城氏や賀茂氏の源流とされる意富多多泥古で、鴨君(かものきみ)の祖であるとされている。

  • いずれにせよ大物主神を父とし(『古事記』では四世孫)、陶津耳の娘の活玉依姫命を母とする大田田根子が発見されたのは「河内の美努村」とされ、御野県主神社(現八尾市上ノ島町)とも陶荒田神社(現大阪府堺市上之、旧名「陶器(すえき)村大字太田字上之」)ともされているが、どちらも周辺に陶器窯遺構が多い事で知られる。

  • また「大」「田田根子」と切り分けて「(物部氏と関係が深い)多氏」出身とし、その多氏が雅楽の世界では京都方・宮中に控えていた大内楽所の名家でもあり、夜中に非公開で行われる宮中神事「御神楽」が魂鎮め(たましずめ)に関係する内容という説と結びつけて考える向きまもある。

  • そもそも葛城氏や賀茂氏は出雲系ではなく河内国を流れる千早川流域から水越峠を越えて「木国」を流れる吉野川から風の森峠を越えてこの地にやって来た外来者という説もある。

  • 出雲系祭神のアジスキタカヒコネを祀る高鴨神社がそう呼ばれるようになったのは葛城川沿いにある葛城御年神社や鴨津波神社と「高地にある鴨神社」というニュアンスで呼び分けられたせいに違いない。十歳、その高鴨神社から葛城川を下った御所市東持田にあるのがスサノヲの子たる大年神の子で穀霊たる御年神を祀る葛城御年神社であり、さらに葛城川を下った御所市中心部にあるのが出雲神話の水神でオオアナムチの子にあたるコトシロヌシを祀る鴨津波神社である。

この鴨津波神社こそが全国のコトシロヌシ信仰の総本社とされているが、そこで行われる祭祀はミマキイリヒコの時代に、三輪山大神神社の祭祀を始めた大田田根子の孫たる大賀茂都美という者が勅命を受けて創始したとされている。この大田田根子がオオモノヌシの血を引くとされているという事は、つまりこの葛城川水系に属する地は賀茂氏到着以前から既にコトシロヌシを祭祀する資格を有する出雲系一族の統括下にあり、後からやってきた葛城氏や賀茂氏の先祖もそれを推戴する形でしか現地支配が出来なかったとも考えられる訳である。

古事記」雄略伝

天皇が美和川に遊んだ際、ひとりの女性を見初めて、やがて迎えるから他の男に嫁ぐなと言い渡した。その言葉を信じた女性は、召されるのを待っているうち80歳になってしまったが、ついに痺れを切らして天皇のところに押しかけた。

天皇は赤猪子をみて、かつての約束を思い出したが、こんなに老いてしまっては「婚ひ」をするわけにもいかぬだろうといって、代わりに歌を贈った。

御諸(みもろ)の 厳白檮(いつかし)が下 白檮(かし)が下 
ゆゆしきかも 白檮原童女(かしはらをとめ)

引田(ひけた)の 若来栖原(わかくるすばら) 若くへに 率寝【ゐね】てましもの 老いにけるかも(お前がまだ若かったなら、ともに寝たであろうが、こんなに老いてしまってはなあ)。

これに対して、赤猪子は次の二首の歌を返した。

御諸に 築(つ)くや玉垣 斎(つ)き余し 誰にかも依らむ 神の宮人
日下江(くさかえ)の 入江の蓮(はちす) 花蓮 身の盛り人 羨(とも)しきろかも(日下江の入り江の蓮のように若々しい人々がうらやましうございます)。

また雄略天皇は吉野に遊んだ際、やはり乙女を見初め、彼女に呉床居の上で舞を舞わせた。

呉床居(あぐらゐ)の 神の御手もち 弾く琴に 舞する女(をみな) 常世(とこよ)にもかも(このまま御前は永久に美しくあれ、この天皇がそう命ずる)。

岩波文庫版の古事記の注釈は、後者について「道教的要素の勝利を感じる」と指摘する。

  • その見解が正しいなら、もう一歩踏み込んで「伝統的シャーマニズムに基づく三輪山祭祀に対する、道教的華やかさに満ちた吉野祭祀の勝利を示唆している」ともいえるかもしれない。

  • まず「葛城氏の台頭期=『初出現』一言主の登場期」に起こった宗教観のパラダイムシフトが解明されるべき。当時、葛城高原に割拠する葛城氏と大陸貿易に従事する紀氏は組んでいた。全体的に見て葛城氏が「道教的華やかさ=大陸的華やかさ」を導入した新しい祭祀スタイルで守旧派勢力を席捲した可能性は充分考えられる。


*もちろん何かしらの形で反動があって、葛城氏は五世紀中半にして没落を始めてしまう(興味深い事に葛城氏全盛期の間だけ畿内で高霊土器や馬韓土器が出土)、そこは見て見ぬ振りを通すのが「古事記」の基本姿勢、むしろそっちをきっちり書くのが「日本書紀」の姿勢とも見て取れる。

一言主 - Wikipedia

葛城山麓の奈良県御所市にある葛城一言主神社が全国の一言主神社の総本社となっている。地元では「いちごんさん」と呼ばれており、一言の願いであれば何でも聞き届ける神とされ「無言まいり」の神として信仰されている。このほか、『続日本紀』で流されたと書かれている土佐国には、一言主を祀る土佐神社があり土佐国一宮になっている。ただし、祀られているのは味鋤高彦根神であるとする説もあり、現在は両神ともが主祭神とされている。

  • 古事記』(712年)の下つ巻に登場するのが初出である。460年(雄略天皇4年)、雄略天皇葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある。

  • 少し後の720年に書かれた『日本書紀』では、雄略天皇一言主神に出会う所までは同じだが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になっている。

  • 時代が下がって797年に書かれた『続日本紀』の巻25では、高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された、と書かれている。これは、一言主を祀っていた賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないかと言われている。
    *ただし、高鴨神は、現在高鴨神社に祀られている迦毛大御神こと味耜高彦根神であるとする説もある。

  • さらに、822年の『日本霊異記』では、一言主役行者(これも賀茂氏の一族である)に使役される神にまで地位が低下しており、役行者伊豆国に流されたのは、不満を持った一言主が朝廷に讒言したためである、と書かれている。役行者一言主を呪法で縛り、『日本霊異記』執筆の時点でもまだそれが解けないとある。

  • また、能の演目『葛城』では、女神とされている。

名前の類似から、大国主命の子の事代主神と同一視されることもある。

 

しかしフランス革命以降もフランス人が「太陽王ルイ14世」を、ドイツ人が「啓蒙君主フリードリッヒ大王」を懐かしみ続けた様に、当時の「畿内豪族」もこの強烈な体験からそう簡単に脱する事は出来なかったのです。
*同様のプロセスは大伴氏が政争から決定的な形で脱落した欽明天皇の御代(539年〜571年?)や、壬申の乱(672年)に勝利した天武天皇の御代(673年〜686年)にも繰り返されたとも。そして前者は「仏教公伝を契機とする蘇我氏物部氏の対立開始」および「畿内豪族神話の形成開始」、後者は「道教の勝利」および「天照大神信仰の起源」となったと考えられている。細部については異論も多いが、とにかくどちらの時代にも「急速に失われつつある圧倒的成功体験の記憶の存続」を求める動きがあった事自体は間違いない。

記紀神話には「大化の改新」以前に、天皇家天照大神を祀ったというはっきりした記述は見えない。実際は大海人皇子(のちの天武天皇)が壬申の乱の時、天照大神に先勝祈願をして勝利をおさめ、これが契機となって天照大神は皇祖神への道を歩みだしたといわれている。天武天皇が戦陣において祀った天照大神というのは、もともとはアマテルミタマとか単にアマテルと呼ばれていた日の神で、日本のどこの村でも昔からそれぞれに信じられていた霊魂である。大空の自然現象そのものの魂、日・月・風・雷・雲であるから、日の神、月の神、風の神、雷の神とも雲の神とも考えられていた。


天津神は大空を舟に乗って駆け下りてきて、めだった山の頂上に到着し、山頂を出発して、中腹をへて山麓におりくる。そこで人々が前もって用意しておいた樹木に(御䕃木(みあれぎ))に天つ神の霊魂がよりつくのである。その天神がよりついた樹木を川のそばまで引っ張っていき、川のほとりに御䕃木が到着すると、神は木からはなれて川の流れにもぐり姿をあらわす。これが神の誕生であり、この状態を御蔭または御生(みあれ)と呼んだ。そして神が河中に出現するその時に、巫女が川の中に身をくぐらせ、御生する神を流れの中からすくいあげ、自ら機織りし作った神衣を捧げ、その神の一夜妻となる。また神が巫女に婚うときには、蛇(竜)体となって訪れると信じられていた。伊勢神宮天照大神もその例外ではない。このように天照大神とは、もともとは蛇神であり男性神であるが、霊的な存在であり、その後神蛇の妻である巫女が祀る側が祀られる存在になったのである。


伊勢神宮天照大神を祭神とする皇大神宮(内宮)と、穀物神である豊受大神を祭神とする豊受大神宮(外宮)から成っている。皇大神宮(内宮)は、伊勢の宇治というところに鎮座しているが、宇治はもともと「川の神」を祀る祭場だったところであり、年に一回、川の神を迎える「滝祭り」をおこなっていた。皇大神宮を参拝する人は、宇治橋を渡ってしばらく神域を歩いて行き、右手に五十鈴川の流れを、そのまま手洗い場にとりいれた石畳に行って、手を洗ってから参拝するのが、昔からの習慣になっている。ここが昔の「川の神」の祭りの聖地だったのである。五十鈴川の川の神は、「滝祭りの神」と呼ばれて、昔はもちろんのこと、現在でも皇大神宮ではたいへん丁寧に祭りをしている。このように大事な神なのに、この神には社殿もなければ特別な施設のない、もともとは姿なき神社であった。ご神体は水底の竜宮にあるといわれ、滝祭りの神は竜、すなわち蛇の姿で現れる水神・川の神と信じられていたのである。このように川の中に生まれる蛇神が、皇大神宮の前身で「伊勢の大神」と呼ばれていた神であった。


古代の神社は、特定の名をつけた神を祀る人々の政治団体であり、そのまま国であり実質的な独立国でした。「伊勢の大神」は遠い昔に天皇家によって攻め従えられた、朝廷の支配に服属した独立国であり、朝貢国でもあった。天皇家に征服されて服従をちかった地方豪族は、自分たちの守護神とともに、天皇に投降した。なぜなら昔は祭政一致であり、村の首長は神を体現する人だったからである。族長の娘は巫女で、神とともに天皇家に投降しなければならず、族長の娘は天皇家にさしだされて采女(うねめ)と呼ばれる女官になった。采女の本質は巫女であって、自分たちの国の神の魂を天皇に捧げ、天皇の身につけるのが仕事とみなされていたのである。また天皇は征服した国の神の魂を身につけることによって、その国に支配権を得ると考えられており、そのような手続きをとうして天皇は日本の大王になることができたのである。


7~8世紀は天武・持統天皇の意志によって、天皇家の神権的絶対性を確立するために、「古事記」「日本書記」を編纂しようと、そのための材料が収集されていた時期である。実は日本神話の多くの部分の原型は、もともとは伊勢の土豪と民衆のものであったらしいことがわかっている。伊勢の地方神話が、大和朝廷への服従の誓いのしるしとして捧げられ、宮廷神話の中に持ち込まれていったものなのである。そのころ天皇家にアマテル(太陽神)の信仰があり、天武天皇が戦陣で決死の思いで太陽神に祈った過去性と、南伊勢の語部(かたりべ)が、宮廷で同じ性質の南伊勢の太陽神の信仰をさかんに物語っていたという現実とが結びあい、この伊勢大神天武天皇によって尊敬されることになった。


壬申の乱のころには、南伊勢では神国造として伝統的権威を度会(わたらい)氏がもっていたので、天武天皇は最初の斎王として大来皇女を、度会氏の居住地である宮川河口におくりこみ、主として宮川の川の神祭りをしていた。やがて、伊勢の土豪の勢力関係が破れ、度会氏のもとにいた宇治土公(うじのつちぎみ)氏が台頭するのに呼応して、都では度会氏につながる天語連(あまのかたりむらじ)をしのいで、宇治土公氏の女系の猿女(さるめ)君が台頭したのである。そのような勢力関係の推移から、伊勢の大神の斎場は宮川流域から五十鈴川流域に移り、天皇家皇大神宮は猿女君の故郷である宇治に定まった。そして壮大な神殿をたてることは、アマテラス神話が実際にあったことという既成事実として民衆に示すためであった。


それでは豊受(とようけ)大神宮(外宮)はどのように成立したのだろうか。外宮が成立した目的は、天照大神に食事を供えることだった。御饌(みけつ)料理である稲を保存していた高倉を宮殿風に造り変え、ここに豊受大神を祀ったのである。穀物神・豊受大神は等由気大神(とよゆけおおかみ)とも、通説では豊宇賀能命(とようがのみこと)とも言われている。実はインドネシアなど南方では蛇のことをウガルといい、宇賀神も蛇神とされているのであるが、外宮には蛇信仰のキーワードがいくつか出てくる。高倉・穀物神・宇賀である。さらに外宮の床下には、古来「秘中の秘」として公開されることのない「心(しん)の御柱(みはしら)」と呼ばれる秘密の柱が立っている。この心の御柱は素木の丸柱で、五色の布で捲かれており、「心の御柱のみ下」こそ、伊勢神宮の最も神聖な場所とされている。前述した通り外宮の御饌殿(みけでん)は南方系出自の穀倉が神殿の原型であり、この心の御柱も後には様々な神が習合されてはいるが、古儀においては男根像そして蛇の造形である。そして外宮の神官は代々度会(わたらい)氏が務めているが、内宮・外宮の成立当時、南伊勢において最も有力な氏族が度会氏であったため、それを切り崩すために外宮を造って彼らに祀らせるというのが朝廷の施策であったらしい。つまり豊受大神と名乗ってはいるが、外宮で祀られているのは、地方神であり蛇神である伊勢大神そのものと推測されるのである。
出雲神話における「心の御柱信仰」は、一般にオホーツク海と接続する東北地方日本海沿岸に分布する「流木信仰」と同源と考えられている。しかしながら南方系神話でもトーテム信仰の延長線上において「柱を立てる」事に特別な意味を見出す宗教文化なら存在した。ある意味両者の邂逅こそが日本宗教文化の大源流だったといってもよい。冒頭で提示したドイツのテュービンゲン大学教授クラウス・アントーニ (Klaus Antoni)も「日本神話成立には数多くの偶然の一致が重要な役割を果たしてきた」と述べている。

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*実は 1世紀より5世紀にかけて日本中に建設されては放棄されてきた環濠集落も、中国や朝鮮半島起源の「環濠集落(堀は水で満たされている)」とシベリア起源の「環壕集落(周囲を囲むのは空)」の複合文化だった事が明らかになっている。こうした「偶然の一致」は、必然性に乏しければ乏しいほどかえって神秘性が増して後世に後を引くものらしい。

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武内宿禰(たけしうちのすくね/たけうちのすくね/たけのうちのすくね)

記紀に伝わる古代日本の人物。『日本書紀』では「武内宿禰」、『古事記』では「建内宿禰」、他文献では「建内足尼」とも表記される。「宿禰」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされる。景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。

なお武内宿禰の系譜に関しては、武内宿禰が後世(7世紀後半頃か)に創出された人物と見られることや、稲荷山古墳出土鉄剣によれば人物称号は「ヒコ → スクネ → ワケ」と変遷するべきで襲津彦の位置が不自然であることから、原系譜では武内宿禰の位置には襲津彦があったとする説がある。

武内宿禰の末裔達

括弧内は日本書紀の名称で、日本書紀にて記述がない場合はなしと表示。

  • 波多八代宿禰(はたのやしろのすくね、羽田矢代宿禰) - 波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部君の祖。

  • 許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね、なし) - 許勢臣(巨勢臣)・雀部臣・軽部臣の祖。

  • 蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね、石川宿禰) - 蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣の祖。

  • 平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね、平群木菟宿禰) - 平群臣・佐和良臣・馬御樴連の祖。

  • 木角宿禰(きのつののすくね、紀角宿禰) - 木臣(紀臣)・都奴臣・坂本臣の祖。

  • 久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ、なし)

  • 怒能伊呂比売(ののいろひめ、なし)

  • 葛城長江曾都毘古(かずらきのながえのそつびこ、葛城襲津彦) - 玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣の祖。

  • 若子宿禰(わくごのすくね、なし) - 江野財臣の祖。

ある意味「古事記」はこれを掲載する為に編纂され「日本書紀」はこれを否定する為に編纂されたという側面も? 平安時代嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑「新撰姓氏録(815年)」にはこうした「氏族社会の格式決定」の仕切り直しという側面もあったが、そもそも(官僚供給の単位を家に求める)律令制度浸透によって氏族社会が崩壊していく過程にあってこうした試みが効力を発揮する事はなかった。

『新撰姓氏録』氏族一覧

そして平安時代末期になると藤原道長が朝廷貴族の格式を決定し、これが決定稿となって後世に継承される事になる。

葛城 襲津彦(かずらき(かづらき/かつらぎ/かずらぎ)のそつひこ)

記紀等に伝わる古代日本の人物。武内宿禰の子で、葛城氏およびその同族の祖とされるほか、履中天皇(第16代)・反正天皇(第17代)・允恭天皇(第18代)の外祖父である。対朝鮮外交で活躍したとされる伝説上の人物で『百済記』の類似名称の記載からモデル人物の強い実在性が指摘される。

①『日本書紀』では「葛城襲津彦」、『古事記』では「葛城長江曾都毘古(曽都毘古)」や「葛城之曾都毘古」と表記される。襲津彦のモデル人物は実在を仮定すれば4世紀末から5世紀前半頃の人物と推測されるが、その頃に氏・カバネは未成立であるため「葛城」というウジ名のような冠称は記紀編纂時の氏姓制度の知識に基づいて付されたものになる。


②他文献では「ソツヒコ」が「曾頭日古」「曾豆比古」「曾都比古」とも表記されるほか、『紀氏家牒』逸文では「葛城長柄襲津彦宿禰」と表記される。また『日本書紀』所引の『百済記』に壬午年(382年)の人物として見える「沙至比跪(さちひこ)」は、通説では襲津彦に比定される。

③系譜に関して『日本書紀』に記載はない。『古事記孝元天皇段では、建内宿禰武内宿禰)の子7男2女のうちの第八子として記載されている。記紀に母に関する記載はないが、『紀氏家牒』逸文では荒田彦(葛城国造)の女の葛比売とする。また『新撰姓氏録』では、右京皇別 玉手朝臣条等においていずれも武内宿禰の子とされている。

④子のうち、娘の磐之媛命(石之日売命)は仁徳天皇皇后となり、履中天皇反正天皇允恭天皇を産んでいる。また『日本書紀』では、襲津彦の子または孫に玉田宿禰古事記なし)を、『古事記』では子に葦田宿禰日本書紀では系譜言及なし)を挙げる。

⑤『日本書紀』では、神功皇后応神天皇(第15代)・仁徳天皇(第16代)に渡って襲津彦の事績が記されている。

  • 神功皇后5年3月7日条…新羅王の人質の微叱旱岐(みしこち)が一時帰国したいというので、神功皇后は微叱旱岐に襲津彦をそえて新羅へと遣わしたが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられてしまう。これに襲津彦は怒り、使者3人を焼き殺したうえで、蹈鞴津(たたらつ)に陣を敷いて草羅城(くさわらのさし)を落とし、捕虜を連れ帰った(桑原・佐糜・高宮・忍海の4邑の漢人らの始祖)。

  • 神功皇后62年条…新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣された。続いて『百済記』(百済三書の1つ)を引用する(『百済記』に基づく一連の主文作成の際、襲津彦の不名誉のため作文を止めたものか)。

  • 百済記』逸文…壬午年(382年)に貴国(倭国)は沙至比跪(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとしたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせたという。また「一云」として、沙至比跪は天皇の怒りを知り、密かに貴国に帰って身を隠した。沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので、妹に使いを出して天皇の怒りが解けたか探らせたが、収まらないことを知ると石穴に入って自殺したという。

  • 応神天皇14年是歳条…百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を加羅に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。

  • 応神天皇16年8月条…天皇は襲津彦が帰国しないのは新羅が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰(へぐりのつく)と的戸田宿禰(いくはのとだ)に精兵を授けて加羅に派遣した。新羅王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に日本に来た。

  • 仁徳天皇41年3月条…天皇百済に紀角宿禰(きのつの)を派遣したが、百済王族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り襲津彦に従わせて日本に送ったという。

⑥『古事記』では事績に関する記載はない。『万葉集』巻11 2639番(原文万葉仮名)には襲津彦に関連してする次の1首が見える。「葛城の、襲津彦真弓、荒木(新木)にも、頼めや君が、我が名告りけむ(かづらきの そつびこまゆみ あらきにも たのめやきみが わがなのりけむ) 」。強弓の典型例として伝説的武将の襲津彦を引き合いに出した歌である。

⑦墓の所在は不詳。奈良県南西部の葛城地方では、襲津彦と関連が推測される古墳として室宮山古墳(室大墓、奈良県御所市室)がある。同古墳は、葛城地方最大(全国第18位)規模の前方後円墳で、5世紀初頭頃の築造と推定される。出土品のうちでは、加耶朝鮮半島南部)産の船形陶質土器が記紀の襲津彦伝承と対応するものとして注目されている。同古墳では武内宿禰の墓とする伝承も古くよりあったが、近年では築造時期から襲津彦の墓と推定する有力視されている。ただし、記紀における襲津彦の人物像のモデル人物は複数存在する可能性があるため、同古墳の被葬者と一対一に対応するものではない。

⑧『古事記』では、玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣らの祖とする。『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。

⑨『先代旧事本紀』「国造本紀」には、次の国造が後裔として記載されている。

こうした文献資料について以下の考証がなされている。

  • 古事記』では「葛城長江曾都毘古」の名で見えるほか、『紀氏家牒』逸文では大倭国葛城県長柄里(現・奈良県御所市名柄か)に住したので「葛城長柄襲津彦宿禰」と名づけたとあり、葛城地方の長柄(長江)地域との深い関係が指摘される。また襲津彦の子孫のうち、仁徳皇后の磐之媛命が履中・反正・允恭を産んだと見えるほか、襲津彦男子の葦田宿禰の娘の黒媛も履中の妃となった見えており、5世紀代における天皇家外戚としての葛城勢力の繁栄が推測されている。

  • 日本書紀』では襲津彦に関する数々の朝鮮外交伝承が記されているが、『百済記』所載の「沙至比跪」の記載の存在から、実在モデル人物を基にソツヒコ伝承が構築されたとする説が有力視されている。一方、襲津彦という人物の実在性には慎重な立場から、あくまでも葛城勢力により創出された伝承上の人物に過ぎないとする説や、朝鮮に派遣された葛城地方首長層の軍事的活動を基に人物像が構築されたとする説もある。

当サイトで重視するのは以下。

  • 当時葛城氏は紀氏と近い関係にあり、かつ紀氏は恐らく長門(穴門)にあった謎の王国とも近しい関係にあった。

  • 葛城氏関連の遺跡からは栄山江流域や蟾津江流域出身の馬韓人の足跡が濃厚に見受けられる。

  • 葛城氏の本拠地とされる南郷遺跡群南部で発見され、その政庁跡と推測されている極楽寺ヒビキ遺跡(奈良県御所市大字極楽寺、5世紀前半)はまさに当時はヤマト大王そのものだったとしか思えない豪勢な造りだが、完全に焼け落ちている。葛城氏の栄華はこの辺りで終焉するが、紀氏や馬韓人の活躍は5世紀一杯続く。ただし繁栄の中心は(ヤマト王権の御膝元というべき)難波津や堺に推移する。

歴史のこの時点で葛城氏の足跡が完全に断たれる訳ではないが、恐らく(様々な意味でやり過ぎた)宗主家は完全に滅ぼされた。全体的展開がフランス国王ルイ14世(Louis XIV、在位1643年〜1715年)の御代に職権を乱用して莫大な私財を蓄え断罪によって破滅した大蔵卿ニコラ・フーケの所業に酷似するが、当時のフランス絶対王政は帯剣貴族サン=シモン公が「いやしいブルジョワどもの長い治世」と評したほど門閥貴族が冷遇され、大抜擢を受けた新興ブルジョワ階層が大活躍した時代でもあったのである。それが絶対王政の完成形にして破局の始まりであったという辺り、日本史における「雄略天皇の御代の功罪」に関する様々な議論と重なる部分が多い。

こうした動向記録においては「史料に何が書き残されたか」より「何が書き残されなかった」が重要。「畿内豪族神話」において(終始宇立の上がらない)阿倍氏や(どうやら欽明天皇の御代(539年〜571年?)には既に没落していたらしい)大伴氏ばかりか、物部氏までもが対象外にされたという事は、この神話が「仏敵」物部守屋が誅殺された「 丁未の乱(587年)」以降、蘇我氏が中心となって形成された事を示唆するとする意見が大半を占めます。そしてこの時代の記録を特徴付けるのは「(信仰対象を古墳から仏塔に推移させての)高木神信仰に基づく領民統合理念の再建」。「新撰姓氏録(815年)」は、ある意味(皇統を至高とする)皇別氏族(王家や帝家、とりわけ日本の皇室の一門の中で臣籍降下した分流・庶流の氏族)と神別氏族(天津神国津神の子孫)と諸蕃氏族(朝鮮半島・中国大陸その他から渡来した人々の子孫)を水平統合しようという試みでしたが、この時代にはどちらも蘇我氏を中心として「(共通の祖先創造による)畿内臣姓氏族統合の試み」と「(高木神信仰を奉ずる)神別氏族と(仏教を奉ずる)諸蕃氏族統合の試み」が二重で走っていた事になります。中華王朝を見習った「畿内優越主義」の浸透はもっと後世になってから(少なくとも蘇我本宗家が滅ぼされた「乙巳の変(645年)」以降)とされていますから、これで新しい時代区分が幾つか獲得された事になります。

  • 継体天皇のクーデター」より大伴氏の政争脱落までにかけての期間(6世紀初旬〜539年?)…要するに「物部氏単独覇権期」の準備期間。一般に「対朝鮮半島政策の失敗で大伴氏は没落した」とされるが、詳細はあくまで不明。

  • 物部氏単独覇権期(539年?〜587年)…物部氏との縁戚関係によって次第に力をつけてきた蘇我氏との争いは氏族内闘争と見る。(渡来形氏族も深く関わる)仏教伝来にまつわる事跡が多いが、物部氏も氏寺を持っていた。
  • 蘇我氏単独覇権期(587年〜645年)…要するに「丁未の乱(587年)」から「乙巳の変645年」にかけての期間。奈良時代(710年〜794年)には闘争の主役となる物部氏(石上氏、弓削氏)や藤原氏(式家・南家・北家)の反撃に敗れる。

肝心の「幽冥界(かくりょ)の大神」大国主の話題は政争に夢中となった人々によって完全に置き去りにされた感があります。しかし、やがて思いもかけない形で反撃が…