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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

古代日本祭政史⑥日本的権力概念には「領主」も「領民」も不在?

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王朝国家論のバリエーションの中には、藤原道長(966年〜1028年)が朝廷貴族の格式を定め、これに組織的永続性を与えた事を重視する流れも存在します。

王朝国家 - Wikipedia

この時代の藤原氏は信仰対象を次第に法相宗から浄土宗にシフトさせていくのですが、それに際して(渡来人の知識寺建立や東大寺造営業務を通して培われた「勧進」の概念に基づいて)普請事業の分配や建立される寺院で勤業する僧侶の供給を実に多方面に任せました。こうして「再配分の采配権」を権力の源泉とした辺りが武家政権にも模倣された事を重視する立場です。
*さらに起源を遡ると、古墳築造を通じて在地有力者が周辺集落の人的動員能力を強めていった「前方後円墳国家(3世紀〜5世紀)」まで遡るとも。そういえば当時のヤマト王権の権力の源泉も「大陸から輸入した鉄製品の配分権」だったのである。藤原氏はそれを「大宰府経由で日本に流入する珍しい文物の配分権」という形で継承してきたとも。

まず「(異民族支配を起源とする)領主が領民と領土を全人格的に代表する権威主義的体制」が実在し、次第にそれが克服されていった欧州的権力概念とは出発点からして随分と違っているのですね。その伝統は資本主義社会においてメリットもデメリットも備えてますが、まぁ良い意味でも悪い意味でも「伝統は伝統」って奴です。

こうした流れも踏まえると、一応「阿弥陀信仰」や「弥勒信仰」についても触れておかねばならない様ですね。

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「弥勒信仰」の起源は一般に以下とされます。そういえば「華厳経(2世紀成立)」も導入部は「菩薩行=求道の旅」となってますね。

  • 菩薩…最高の悟りを開いて,仏になろうと発心して,修行に励む人。弥勒・観世音・地蔵などの高位の菩薩は仏に次ぐ存在として信仰される。

  • 菩薩行…菩薩としてなすべき実践。特に,上部座仏教の声聞(しようもん)・縁覚(えんがく)の自利行に対して,他者に対する慈悲を重視し,最高の悟りに到達しようとする宗教的実践。具体的には六波羅蜜,五行など。菩薩道。

この考え方を前提として弥勒菩薩への信仰が派生する訳です。

弥勒菩薩 梵: maitreya(マイトレーヤ)、巴: metteyya(メッテーヤ、メッテッヤ)

。弥勒は音写であり、「慈しみ」(梵: maitrī, 巴: mettā)を語源とするため、慈氏菩薩(“慈しみ”という名の菩薩)とも意訳する。三昧耶形は蓮華上の塔、賢瓶(水瓶)。種子(種子字)はयु(yu)。仏教において、釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏であり、大乗仏教では菩薩の一尊。一部の大乗経典では字(あざな)が阿逸多 Ajita とされているが、スッタニパータ第五章や、中阿含経中の説本経などの初期経典の記述では、弥勒と阿逸多は別人であり、弥勒は仏陀となるという記別を受け、また阿逸多は仏陀ではなく転輪聖王となるという記別を受けている。

「唯識論師」弥勒 

300年前後に、インドの瑜伽行唯識学派の論師として唯識説を説いた開祖の一人。後世の伝説によって、前述の未来仏としての弥勒菩薩と同一視された。著作に「瑜伽師地論(漢訳説)」「大乗荘厳経論」「中辺分別論」「現観荘厳論」「法法性弁別論」「究竟一乗宝性論(チベット説)」などがある。

チベットでは「瑜伽師地論」は無著菩薩造となっており、『究竟一乗宝性論』が弥勒(マイトレーヤ)造となっているが、漢訳では安慧(スティラマティ)造としている。

上生信仰の対象としての「未来仏」弥勒菩薩

現在仏であるゴータマ・ブッダ釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。それまでは兜率天で修行(あるいは説法)しているといわれ、中国・朝鮮半島・日本では、弥勒菩薩兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した。

弥勒の下生は56億7千万年後とされているが、この気の遠くなる年数は、弥勒の兜率天での寿命が4000年であり、兜率天の1日は地上の400年に匹敵するという説から、下生までに4000×400×12×30=5億7600万年かかるという計算に由来する。そして、後代になって5億7600万年が56億7000万年に入れ替わったと考えられている。他の古い経典では3000年後とするものもあり、その未来仏の出現する時代は厳密には定かではなく「遠い未来」の比喩ではないかとの説もある。


バラモンとして娑婆世界に出世して、シッダッタ同様に出家したのち竜華樹下で悟りを得て、三度にわたり説法を行い多くの人々を救うという(これを竜華三会という)。『弥勒下生経』には、初会96億、二会94億、三会92億の衆生を済度すると説いている。なお、現在の弥勒はまだ修行者(菩薩)だが、遠い未来の下生の姿を先取りして弥勒如来、弥勒仏と呼ばれることもあり、如来形[2]の仏像も作られている。


『観弥勒菩薩上生兜率天経』、『弥勒下生経』、『弥勒大成仏経』の3本で『弥勒三部経』と呼ぶことがある。また、浄土宗系の『無量寿経』には、阿弥陀仏の本願を後世の苦悩の衆生に説き聞かせるようにと、釈迦牟尼仏から弥勒菩薩に付属されている。

仏教の中に未来仏としての弥勒菩薩が登場するのはかなり早く、すでに『阿含経』に記述が見える。この未来仏の概念は過去七仏から発展して生まれたものと考えられている。

下生信仰の対象としての「世直し神」弥勒菩薩

弥勒信仰には、上生信仰とともに、下生信仰も存在し、中国においては、こちらの信仰の方が流行した。下生信仰とは、弥勒菩薩兜率天に上生を願う上生信仰に対し、弥勒如来の下生が(56億7千万年などの)遠い未来ではなく現に「今」なされるからそれに備えなければならないという信仰である。

浄土信仰に類した上生信仰に対して、下生信仰の方は、弥勒下生に合わせて現世を変革しなければならないという終末論、救世主待望論的な要素が強い。そのため、反体制の集団に利用される、あるいは、下生信仰の集団が反体制化する、という例が、各時代に数多く見られる。北魏の大乗の乱や、北宋南宋・元・明・清の白蓮教が、その代表である。

日本でも戦国時代に、弥勒仏がこの世に出現するという信仰が流行し、ユートピアである「弥勒仏の世」の現世への出現が期待された。一種のメシアニズムであるが、弥勒を穀霊とし、弥勒の世を稲の豊熟した平和な世界であるとする農耕民族的観念が強い。この観念を軸とし、東方海上から弥勒船の到来するという信仰が、弥勒踊りなどの形で太平洋沿岸部に展開した。江戸期には富士信仰とも融合し、元禄年間に富士講の行者、食行身禄が活動している。また百姓一揆、特に世直し一揆の中に、弥勒思想の強い影響があることが指摘されている。

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こうした弥勒信仰の起源は先行して流行した阿弥陀信仰とされています。法相宗華厳宗の関係と同じで「由緒正しいながら感情的にマッチしない何か」が大胆なアレンジを経てリニューアルされて改めて広まっていく感じ?

阿弥陀信仰

阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。「浄土教」「浄土門」「浄土思想」「浄土信仰」とも。

  • 阿弥陀仏を対象とする信仰のことで、「浄土信仰」とも言われる。日本では浄土教の流行にともない、それぞれの宗旨・宗派の教義を超越、包括した民間信仰的思想も「阿弥陀信仰」に含めることもある。また阿弥陀仏は多くの仏教宗派で信仰され「阿弥陀信仰」はひとつの経典に制限されない懐の広さを持つが、ともすれば偶像崇拝や、阿弥陀如来のみを尊び、他の仏を排する一神教的信仰思想に陥りやすい側面もある。
  • 「浄土」…中国での認識であるが、思想的にはインドの初期大乗仏教の「仏国土」がその原義であり、多くの仏についてそれぞれの浄土が説かれている。しかし中国・日本においては、浄土教の流行にともない、浄土といえば一般に阿弥陀仏の「西方極楽浄土」を指す様になっていった。
  • 「関連経典」…日本の浄土教では「仏説無量寿経(康僧鎧訳)」「仏説観無量寿経(畺良耶舎訳)」「仏説阿弥陀経鳩摩羅什訳)」を、「浄土三部経」と総称する。また、その他の経典では、法華経第二十三の『薬王菩薩本地品』に、この経典をよく理解し修行したならば阿弥陀如来のもとに生まれることができるだろう、とも書かれている。

その成立はインドにおいて大乗仏教が興起した時代まで遡る。紀元100年頃に『無量寿経』と『阿弥陀経』が編纂されたのを契機とし、時代の経過とともにインドで広く展開していく。しかし、インドでは宗派としての浄土教が成立されたわけではない。

  • 浄土往生の思想を強調した論書として、龍樹(150年 - 250年頃)の『十住毘婆沙論』「易行品」、天親(4-5世紀)の『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』・『往生論』)がある。

なお『観無量寿経』 は、サンスクリット語の原典が発見されておらず、おそらく4世紀から5世紀頃に中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が加味されたと推定される。しかし中国・日本の浄土教には大きな影響を与える。

中国の阿弥陀信仰

中国では2世紀後半から浄土教関係の経典が伝えられ、5世紀の初めには廬山の慧遠(334年 - 416年)が『般舟三昧経』にもとづいて白蓮社という念仏結社を結び、初期の中国浄土教の主流となる。

  • やがて山西省の玄中寺を中心とした曇鸞(476年頃 - 542年頃)が、天親の『浄土論』(『往生論』)を注釈した『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』・『往生論註』)を撰述する。 その曇鸞の影響を受けた道綽(562年 - 645年)が、『仏説観無量寿経』を解釈した『安楽集』を撰述する。

  • 道綽の弟子である善導(613年 - 681年)が、『観無量寿経疏』(『観経疏』)を撰述し『仏説観無量寿経』は「観想念仏」ではなく「称名念仏」を勧めている教典と解釈する。

  • こうして「称名念仏」を中心とする浄土思想が確立。しかし中国ではその思想は主流とはならなかった。

  • その後慧日(680年 - 748年)、善導の浄土教を基盤に、「浄土」と「禅」を並行して修法することを主張する。その影響で中国では浄土教を禅などの諸宗と融合する傾向が強くなり、後の中国における「禅」の大勢となる「念仏禅」の源流となる。

  • その他に法照(? - 777年頃)が、音楽的に念仏を唱える「五会念仏」を提唱し、南岳・五台山・太原・長安などの地域に広める。『浄土五会念仏誦経観経儀』、『浄土五会念仏略法事儀讃』を撰述する。

法然は『選択本願念仏集』において、中国浄土教の法義について、慧遠の「廬山慧遠流」、慧日の「慈愍三蔵流」、曇鸞道綽・善導の「道綽・善導流」と分類している。

日本の阿弥陀信仰

飛鳥時代奈良時代…7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになる。

平安時代初期…阿弥陀仏を事観の対象とした「観相念仏」が伝わり、まず下級貴族に受け容れられた。当時の貴族社会は藤原氏が主要な地位を独占していて、他の氏族の者はごくわずかな出世の機会を待つのみで、この待機生活が仏身・仏国土を憧憬の念を持って想い敬う「観相念仏」の情感に適合していたものと考えられる。

  • 円仁(794年 - 864年)が承和5年(838年)に遣唐使の一員として渡海し留学。中国五台山で法照流の五会念仏を学ぶ。その他にも悉曇密教などを学び、承和14年(847年)に帰国。比叡山において、その五台山の引声念仏を常行三昧に導入・融合し、天台浄土教の発祥となる。常行三昧堂が建立され、貞観7年(865年)には、常行三昧による「観想念仏行」が実践されるようになる。

  • 良源(912年 - 985年)が、『極楽浄土九品往生義』を著す。また比叡山横川(よかわ)を整備した。

平安時代中期…平安時代の寺院は国の管理下にあり、浄土思想は主に京都の貴族の信仰であった。また(官)僧は現代で言う公務員であった。官僧は制約も多く、国家のために仕事に専念するしかなかった。そのような制約により、庶民の救済ができない状況に嫌気が差して官僧を辞し、個人的に教化活動する「私得僧」が現れるようになる。また大寺院に所属しない名僧を「聖(ひじり)」という。
法相宗の開祖ながら道昭はこの意味で「聖(ひじり)」の起源ともされている。

  • 空也(903年-972年)は、念仏を唱えながら各地で道を作り、橋を架けるなど社会事業に従事しながら諸国を遊行する。同時に庶民に対し精力的に教化を行い、庶民の願いや悩みを聞き入れ、阿弥陀信仰と念仏の普及に尽力する。空也は、「市聖」(いちひじり)・「阿弥陀聖」と呼ばれる。また、空也踊念仏の実質的な創始者でもある。

  • 源信 (942年-1017年)は、良源の弟子のひとりで、985年に『往生要集』を著し、日本人の浄土観・地獄観に影響を与えた。『往生要集』は、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的な方法を論じた、念仏思想の基礎とも言える。内容は実践的で非常に解りやすいもので、絵解きによって広く庶民にも広められた。同書は「観想念仏」を重視したものの、一般民衆のための「称名念仏」を認知させたことは、後の「称名念仏」重視とする教えに多大な影響を与え、後の浄土教の発展に重要な意味を持つ書となる。986年には比叡山に「二十五三昧合」という結社が作られ、ここで源信は指導的立場に立ち、毎月1回の念仏三昧を行った。結集した人々は互いに契りを交わし、臨終の際には来迎を念じて往生を助けたという。源信は、天台宗の僧であったが世俗化しつつあった叡山の中心から離れて修学・修行した。

  • 慶滋保胤(931年頃 - 1002年)は平安時代中期の文人で中級貴族でもあった。僧俗合同の法会である「勧学会」(かんがくえ)を催す。また、浄土信仰によって極楽往生を遂げたと言われる人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』を著す。後にはこの『日本往生極楽記』の編集方法を踏襲した大江匡房「続本朝往生伝」、三善爲康「拾遺往生伝」、沙弥蓮祥「三外往生伝」など著された。この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。

平安時代末期…中・下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられる。こうして日本の仏教は国家管理の旧仏教から、民衆を救済の対象とする大衆仏教への転換期を迎える。「末法の到来」概念とも符合する動きだった。

  • 末法」とは、釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としている。この「末法」に基づく思想は、インドには無く中国南北朝時代に成立し、日本に伝播した。釈尊の入滅は五十数説あるが、法琳の『破邪論』上巻に引く『周書異記』に基づく紀元前943年とする説を元に、末法第一年を平安末期の永承7年(1052年)とする。本来は仏教における時代区分であったが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない終末論的な思想として捉えられるようになる。よって世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。ただし異説として、浄土教の広まりをもたらした終末論的な思想は本来は儒教道教などの古代中国思想に端を発する「末代」観と呼ぶべきもので、仏教の衰微についてはともかく当時の社会で問題視された人身機根の変化には触れることのない「末法」思想では思想的背景の説明がつかず、その影響力は限定的であったとする説もある。

  • 関白藤原頼通末法が到来する永承7年(1052年)、京都宇治の平等院平安時代の浄土信仰の象徴のひとつである阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立。阿弥陀堂は、「浄土三部経」の『仏説観無量寿経』や『仏説阿弥陀経』に説かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。「極楽が信じられないなら宇治の御堂を敬え」と当時の謡曲でも謡われた。この頃には阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、定印を結ぶ阿弥陀如来阿弥陀堂建築が盛んになる。阿弥陀堂からは阿弥陀来迎図も誕生した。平等院鳳凰堂の他にも数多くの現存する堂宇が知られ、主なものに中尊寺金色堂、法界寺阿弥陀堂白水阿弥陀堂などがある。

  • 良忍は、(1072年 - 1132年)は、「一人の念仏が万人の念仏と融合する」という融通念仏(大念仏)を説き、融通念仏宗の祖となる。

  • 天台以外でも三論宗の永観(1033年 - 1111年)や真言宗覚鑁(1095年 - 1143年)らの念仏者を輩出。

  • 熊野は修験道の修行地だったのでこの頃までに浄土と見なされるようになり、院政期には歴代の上皇が頻繁に参詣した。後白河院の参詣は実に34回にも及んだ。熊野三山に残る九十九王子は、12世紀 - 13世紀の間に急速に組織された一群の神社であり、この頃の皇族や貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験たちが参詣の安全を願って祀ったものであった。

鎌倉時代…平安末期から鎌倉時代に、それまでの貴族を対象とした仏教から、武士階級・一般庶民を対象とした信仰思想の変革がおこる。またそれまでの貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化と発展を遂げる。こうした末法思想仏教の変革・社会構造の変化などの気運に連動する形で浄土教は飛躍的な成長を遂げた。この浄土思想の展開を「日本仏教の精華」と評価する意見もある一方で、末世的な世情から生まれた、新しい宗教にすぎないと否定的にとらえる意見もある。いずれにせよ平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗時宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に至る。

  • 法然法然源空、1133年-1212年)は、浄土宗の開祖とされる。1198年に『選択本願念仏集』(『選択集』)を撰述し、「専修念仏」を提唱する。1145年に比叡山に登る。1175年に 善導(中国浄土教)の『観無量寿経疏』により「専修念仏」に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み吉水教団を形成し、「専修念仏」の教えを広める。(1175年が、宗旨としての浄土宗の立教開宗の年とされる)。法然の提唱した「専修念仏」とは、浄土往生のための手段のひとつとして考えられていた「観相念仏」を否定し「称名念仏」のみを認めたものである。「南無阿弥陀仏」と称えることで、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生することができると説き、往生は臨終の際に決定するとした。

  • また『選択集』において、正しく往生浄土を明かす教えを「仏説無量寿経曹魏康僧鎧訳)」「仏説観無量寿経(劉宋畺良耶舎訳)」「仏説阿弥陀経(姚秦鳩摩羅什訳)」の3経典を「浄土三部経」とし、天親の『浄土論』を加え「三経一論」とする。

  • 親鸞(1173年-1262年)は、法然の弟子のひとり。『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)等を著して法然の教えを継承発展させ、後に浄土真宗の宗祖とされる。1181年に比叡山に登る。1201年には修行では民衆を救済できないと修行仏教と決別し、比叡山を下りる。そして法然の吉水教団に入門し、弟子入りする。念仏停止により流罪に処され、僧籍の剥奪後は、法然の助言に従い、生涯に渡り非僧非俗の立場を貫いた。赦免後は東国(関東)を中心に20年に渡る布教生活を送り、念仏の教えをさらに深化させる。京都に戻ってからは著作活動に専念し、1247年に『教行信証』を撰述、数多くの経典・論釈を引用・解釈し、「教」・「行」・「信」・「証」の四法を顕かにする。阿弥陀仏のはたらきによりおこされた「真実信心」 を賜わることを因として、いかなる者でも現生に浄土往生が約束される「正定聚」に住し必ず滅度に至らしめられると説く。宗旨としての浄土真宗が成立するのは没後のことである。

  • 一遍(1239年-1289年)は、時宗の開祖とされる。1251年に大宰府に赴き、法然の孫弟子である浄土宗の聖達(1203年-1279年)に師事した。その後は諸国を遍歴し、紀伊の熊野本宮証誠殿で熊野権現から啓示を得て悟りを開き、時宗を開宗したとされる。その啓示とは、はるか昔の法蔵比丘の誓願によって衆生は救われているのであるから、「南無阿弥陀仏」の各号を書いた札を民衆に配り(賦算)、民衆に既に救われていることを教えて回るというものであった。阿弥陀仏の絶対性は「信」すらも不要で、念仏を唱えることのみで極楽往生できると説いた。晩年には踊念仏を始める。

室町時代以降…戦国時代には伝統的惣村の構造変化に便乗する形で土一揆や国人衆を束ねる政治勢力となった時期も存在した。

  • 覚如(1270年-1351年)は親鸞の曾孫で、親鸞の廟堂を寺格化し本願寺教団を成立させたが、その後衰退し天台宗の青蓮院の末寺となってしまう。

  • 蓮如(1415年-1499年)が室町時代本願寺第八世として再興。しかし寛正6年(1465年)に、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺は破却される。文明3年に北陸の吉崎に赴き、吉崎御坊を建立する。もともと北陸地方は、一向や一遍の影響を受けた地域であり、急速に教団は拡大していく。信徒は「門徒」とも呼ばれるが、他宗から「一向宗」と呼ばれる強大な信徒集団を形成した。「一向」は「ひたすら」とも読み、「ひたすら阿弥陀仏の救済を信じる」という意味を持つ。まさにひたすら「南無阿弥陀仏」と称え続ける姿から、専修念仏の旨とするように全体を捉えがちであるが、実際には修験道の行者や、密教などの僧が浄土真宗に宗旨替えし、本願寺教団の僧となった者たちが現れる。一部ではその者たちによって、浄土真宗と他宗の教義が複雑に混合され、浄土真宗の教義には無い「呪術」や「祈祷」などの民間信仰が行われるようになる。よって必ずしも専修とは言えない状態になっていく。それに対し蓮如は再三にわたり「御文」などを用いて称名念仏を勧めるものの、文明7年(1475年)吉崎を退去し山科に移る。蓮如の吉崎退去後も真宗門徒の団結力は絶大で、旧来の守護大名の勢力は著しく削がれた。中でも、加賀一向一揆山城国一揆などの一向一揆は有名である。このため、多くの守護大名は妥協して共存の道を選択する。しかし織田信長などは徹底的に弾圧し、10年かけて石山本願寺を落とし、本願寺教団の寺院活動のみに限定させる。

その後、本願寺教団豊臣秀吉の介入による宗主継承問題を起因として、徳川家康により本願寺教団は東西に分立。

ここで興味深いのは宮下英樹センゴク」といった最近の漫画などでは「本願寺教団が勝てなかった理由」を「信仰の力で銭は集められても、銭が回せなかったせい」としてる辺り。財政基盤を寺領からの徴税でなく、信徒からの御布施にシフトしただけでは足らなかった何か…それは例えば「競争心に火をつける力」あたりでしょうか?
*同様の欠落感は「マックスウェーバーが資本主義の創始者と信じたかったタイプのプロテスタンティズム」にも存在する気がする。「多様化を後押しする何か」とでも表現すべき?

*その意味では寺社の主宰する定例祭祀が職人の奉納品競争、役者や高級遊女の宣伝の場としても利用されていた事の方が重要だったりする。

エンターテイメント史的には、こうしたシステムの末端に現れた以下の動きが重要。
琵琶法師(びわほうし)

平安時代から見られた、琵琶を街中で弾く盲目の僧。琵琶を弾くことを職業とした盲目僧の芸人で、平安時代中期におこった。

  • 起源はアジア大陸から古代の日本列島に渡来した盲人の琵琶法師であるといわれる。奈良時代に端を発し盲僧(盲人僧侶)の組織が古い段階で形成された。
    *ここでは近代以前には眼病による失明者が多かった事を思い浮かべるべきかもしれない。声楽の琵琶楽である盲僧琵琶に対し、中国から奈良時代および平安時代にもたらされた器楽の琵琶楽が雅楽である。盲僧琵琶が宗教音楽であるのに対し、雅楽は芸術音楽として発展した。

  • 日本の琵琶は、古代のアジア大陸よりもたらされたものであるが、その系統には、中国から奈良時代および平安時代にもたらされた器楽の琵琶楽(雅楽、芸術音楽)と、それと同時代ないしそれに先んじてもたらされた声楽の琵琶楽(盲僧琵琶、宗教音楽)との2つがある。琵琶法師は、後者に属し、宗教音楽としての盲僧琵琶を担った。なお、盲人の琵琶法師(盲僧琵琶)から宗教性を脱した語りものを「くずれ」という。
    *声楽の琵琶楽である盲僧琵琶に対し、中国から奈良時代および平安時代にもたらされた器楽の琵琶楽が雅楽である。盲僧琵琶が宗教音楽であるのに対し、雅楽は芸術音楽として発展した。

  • 仏説を語る琵琶法師は天台宗などに属する低級の宗教者であり、仏説座頭、地神経座頭などと呼ばれ、地鎮祭や竈祓いで地神経や荒神経を行った。仏説座頭の活動範囲は後述する平家座頭に比べてあまり広くはなかった。
    *後世、盲僧琵琶は、九州地方の薩摩国鹿児島県)や筑前国(福岡県)を中心に伝えられたが、吉川英史は、輸入地であった筑前から中央に進出して京都にも盲僧組織があったのではないかと推定している。室町時代中期に薩摩盲僧から薩摩琵琶という武士の教養のための音楽がつくられ、しだいに語りもの的な形式を整えて内容を発展させてきた。芸術音楽としては薩摩琵琶が筑前琵琶よりも古いと考えられるが、宗教音楽としては、筑前盲僧琵琶が薩摩盲僧琵琶に先行する。晴眼者の琵琶楽となった薩摩琵琶と、近世以降の三味線音楽の影響のもと明治20年代に筑前盲僧琵琶から筑前琵琶が派生した。筑前琵琶は、筑前盲僧琵琶から宗教性を脱していったもので、明治時代中期に女性を主たる対象とする家庭音楽として確立された。さらに、肥後琵琶については近年まで紹介がなされておらず、詳細は不明ながら、盲僧琵琶の一支流と考えられる。

  • 鎌倉時代には『平家物語』を琵琶の伴奏に合わせて語る平曲が完成した。この時代には、主として経文を唱える盲僧琵琶と『平家物語』を語る平家琵琶(平家座頭)とに分かれた。琵琶法師のなかには「浄瑠璃十二段草子」など説話・説経節を取り入れる者がおり、これがのちの浄瑠璃となった。
    *京都を主たる活動の場としていた盲僧琵琶の影響の下、楽琵琶を導入し、また、声明音楽のなかの「講式」を採用して、いわば盲僧琵琶と雅楽琵琶を総合したのが、『平家物語』による音楽、すなわち「平曲」である。盲僧たちはそれぞれ地域に応じた組織を持ち、室町時代から江戸時代にかけては、平曲の盲人演奏家の組織である当道座(幕府の保護と援助を受けた組織)とは対立したといわれる。

  • 平家座頭はその当初から廻国の芸能者であり、中世には文化人の伝手や紹介状を頼りに、各地の有力な大名の屋敷のあいだを芸を披露して回った。絵巻物などに登場する平家座頭は、多くの場合弟子を連れての二人旅となっている。
    *平曲の起源については、諸説あるものの、一説には鎌倉時代における天台宗の民衆教化のための唱導芸術として成立したともいわれる。また、田辺尚雄による、雅楽の大家である行長、叡山の盲僧で盲僧琵琶の大家生仏、それに声明の大家で蓮界坊浄心の高弟慈鎮の三人の合作であるという説を、吉川英治はすなわち、雅楽と盲僧琵琶と声明との混合による音曲であるとした。また、口説、初重、三重、拾という大きな型で構成された平曲の旋律は、各々、アタリ、ユリ、ツキ、マワシなどの細かな節の肩でつくられており、これらは謡曲古浄瑠璃へも影響を与えたところは大きいという。

また、平曲は、娯楽目的ではなく、むしろ鎮魂の目的で語られたということが本願寺の日記などで考証されている。『平家物語』は、後世の音楽や芸能に取り入れられていることが多く、ことに能の修羅物というジャンルにはこれに取材した演目が多い。

「くずれ」が「平家物語」を奏で出してからが、欧州の吟遊詩人との比較の始まり?