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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【日本共産党】【日本社会党】【日本民主党】恐ろしく入り組んだ略史。民主党(現民進党)とは一体何だったのか?

改めて思う「民主党(現民進党)とは一体何だったのか?」

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とりあえず年表にまとめてみました。

 

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日本社会党(社会民主党)略史

日本共産党略史

日本民主党(1998年〜2016年)略史

社会党55年体制の成立当初は政権獲得を目指した(当時は二大政党制を理想とする考え方が強く、社会党自身も政権獲得は間近いと考えていた)。しかし地域などへの利益誘導を武器とする自民党の一党優位体制が長く続くなか、これに対抗するための地域の世話役活動が衰弱。公明党共産党に支持基盤を奪われる事になる。さらには中選挙区制のもとで、個々の選挙区の獲得議席を安定化させるために候補者絞り込みを行ってきたため議席の現状維持を容認し長期低落傾向を示すようになった。「万年野党」と呼ばれ、支持者にも自民党政権の永続を前提とする認識が広がっていく。
*戦前の社会大衆党より三輪寿壮・河上丈太郎西尾末広浅沼稲次郎らが合流し社会党幹部となっている。

共産党1955年7月 第6回全国協議会(六全協)。従来の中国革命方式の武装闘争路線の放棄を決議。

  • またこの大会で志賀義雄、宮本顕治らの旧国際派が主導権を握った(比喩的に55年体制とも呼ばれる)。宮本らは再統一を優先して個々の党員がどういう機関のもとに活動していたのかは不問とする方針を示し、旧所感派の野坂参三を第一書記として「再統一」を宣言。

民主党1956年 総評に批判的な右派労組が全日本労働組合会議(全労会議)を結成し、三井三池争議では会社側と協調する動きなどを見せる。

  • 左派から見た場合、第二組合、つまり御用組合となる。
  • 全労会議と密接な関係を持っていた西尾末広派と河上丈太郎派の一部は、これを足掛かりに1959年に相次いで脱党し翌年民主社会党(後の民社党)を結成。

社会党1956年7月 第4回参議院選挙。自民61議席に対し、49議席と健闘。

社会党1957年1月 労働者農民党が合流。衆議院160議席となる。

社会党1958年 第28回総選挙。自民287に対して166と保守議席に迫れなかった。

  • 得票数は伸びたものの、保守合同で候補者の乱立を抑えた自民を前に伸び悩む。
  • ただし、後から見れば社会党にとって最高記録であり、また唯一 1/3 を超す議席を獲得した選挙だった。

共産党1958年 第7回党大会。宮本顕治が書記長(後に委員長)となり、この第7回党大会と1961年の第8回党大会で、1950年から1955年にかけての分裂と混乱を「五〇年問題(50年問題)」や「五〇年分裂(50年分裂)」と呼び、その「軍事路線」はソ連・中国の大国による干渉と「徳田、野坂分派」の「政治的クーデター」による、暴力革命が可能という政治情勢が無いにもかかわらず武装闘争を行った極左冒険主義であると規定して批判。外国の干渉は受けないという自主独立路線の始まりとなる。

  • 以後も日本共産党執行部は五全協、六全協での「再統一」宣言や「軍事方針」たる「51年綱領」決議、「北京機関からの指示」およびそれに従って行われた武装闘争などは全て、徳田、野坂分派が党中央を無視して勝手に行ったもので、無効であり、従って「日本共産党の大会とも中央委員会とも何の関係なく、日本共産党の正規の機関が武装闘争や暴力革命などの方針を決めたことは一度もない。」という態度を貫いている。
  • この日本共産党の武装闘争路線と、突然の路線変更は各方面に大きな影響を与えた。党の方針と信じて武装闘争に参加していた党員は、党とは無関係に勝手に不法行為を行った形になり、一部は「党中央に裏切られた」と不信感を持ち、後に日本共産党への「スターリン主義」批判や新左翼運動にもつながっていく。
  • また、以前の「平和革命」の支持者や、マルクス・レーニン主義の暴力革命の原則を支持する一部の知識人や共産主義者、武装闘争に批判的な大多数の国民のそれぞれから、不信感や警戒心を持たれた。公安警察公安調査庁は、日本共産党は「敵の出方論」や暴力革命を実際には放棄していないと見続けており、1986年には日本共産党幹部宅盗聴事件が発覚。これに対して日本共産党は「敵の出方論」は歪曲で]、不法行為によるスパイ行為と批判している。また警察庁の『警察白書』では、現在も共産党を調査対象団体とし、数ページを割いて動静を追跡しているが、これは国会に議席を持つ政党に対しては唯一の扱いである。警察学校の「初任科教養」でも、警察は政治的中立を保たなければならないのに、党の綱領や決定について批判的な講義がされている。一方、破壊活動防止法に基づく調査活動を行っている公安調査庁では、現在では公然情報の整理と分析に留まっているが、時々職員によるスパイ工作が発覚し、党組織や日本国民救援会などの人権団体を通じて抗議活動が行なわれている。共産党が武装路線を放棄した後も1960年代半ばまで、朝日新聞などの全国紙では、政党担当記者が共産党を取材して記事を書くのではなく、警察担当記者が公安情報を元に記事を書くという不正常な状況が続いた。そういうマスメディアに共産党側は「新聞は権力の手先」と反発していたという。
  • さらに日本社会のマイノリティーとも一線を引く。部落解放同盟朝鮮総連は代わって日本社会党に次第に接近。
  • この党大会以降、不破哲三上田耕一郎といった「改革派」が党中央の要職に就任。宮本顕治は1960年代半ばまでに党の指導者と実務面の指導者を二重にして継承する体制を確立し不破哲三に実務面を継承させた(議長宮本、委員長不破体制)。これにより一枚岩体制が確立し、戦前から問題であった内部抗争や金銭的腐敗を一掃し「クリーンな党のイメージ」を打ち出す。

社会党民主党1959年 第5回参議院選挙。東京選挙区で公認候補が全滅するなどやはり伸び悩む。

  • 最右派の西尾末広は、階級政党論、容共、親中ソ路線が敗因と批判。さらに安保改定に反対するなら安保条約に代わる安全保障政策を明確にすること、安保改定阻止国民会議の主導権を総評から社会党に移し、国民会議から共産党を追放するよう要求。逆に、総評の太田薫と岩井章は、共産党との共闘社共共闘)を原則にするよう主張し、両者は真っ向から対立。
  • 当時、日米安全保障条約の改定が迫りつつあり、社会党は安保条約の廃棄を争点に政権獲得を狙う。福岡県大牟田市の三井三池争議も泥沼化し、この三池争議と安保闘争社会党は全精力を傾けて戦った。このなかから、社会党青年部を基礎に社青同日本社会主義青年同盟)が1960年に結成される。三池争議も労働側に著しく不利な中労委の斡旋案が出されるに至り敗北が決定的となり、新安保条約も結局自然成立してしまう。
  • 結局、西尾末広1959年に脱党し翌年民主社会党(後の民社党)を結成。この時、総評の太田薫議長が河上に対して選挙協力と引き換えに、河上派全体が民社党に移らないよう要請したと言われているが、太田の申し出を聞いた河上は激怒して「自分たちは損得のためにやっているのではない」と太田を追い出したのが真相とされる。しかし、河上派の動揺を抑える為に河上は同年の委員長選挙に出馬。鈴木派が推す浅沼稲次郎を僅差まで追い詰めた。予想外の支持が集まったことに河上派の国会議員は満足して河上派の動揺は収まり、河上は社会党の分裂を最小限に食い止めることに成功。その一方で河上を破って委員長に就任した浅沼は刺殺されてしまい(浅沼刺殺後は江田三郎が委員長代行)、翌年、河上が委員長となる。
  • 以降社会党内の派閥対立は安全保障(自衛隊日米安保を認めるか)を巡る意見の不一定がなくなり、マルクス・レーニン主義路線の是非を問うものになる。

共産党1960年 安保闘争

民主党社会党共産党1960年11月 第29回総選挙。

  • 民主党(後の民社党)はこの選挙で議席を40から17へと激減させ、その後しばらく20 - 30議席前後で推移。
  • 社会党にとっては浅沼稲次郎委員長刺殺事件直後。145議席を獲得。1969年に分離した民社党参加者の分を18議席奪い返したが、民社との潰し合いもあり、自民は296議席と逆に議席を増やす。
  • 日本共産党はこれ以降、原則として全選挙区に公認候補を擁立するようになり、その後1970年代初めまで得票率を伸ばし続る。

社会党共産党1961年 ソ連の核実験再開

共産党1961年 綱領草案を巡る論争

  • 日本独占資本を主敵とし、当面する革命を社会主義革命とする「一つの敵」論を主張する春日庄次郎、山田六左衛門ら構造改革派が離脱し、その中の一派共産主義労働者党を結成。春日らは、宮本の専横的な党運営を批判し「一時離党」するとして「日本共産党万歳!」と声明したが、党は離党届を受け付けず除名処分とした。

社会党1963年 第30回総選挙。前回比1議席減の144議席、1967年第31回総選挙では同4議席減の140議席と、予想に反して停滞・微減。

  • 高度経済成長の中、人口の農村から都市への移動は続いており、労働組合を支持基盤とする社会党議席は本来増加するはずであった。これについて石川真澄は、新たな都市流入人口は、相当部分が「常時棄権層」に回る一方、一部は公明党日本共産党など、地域の世話役活動に熱心な政党に吸引され、都市部では次第に多党化現象が顕著になっていったと指摘する。
  • また、田中善一郎などは、この時期の自民党の候補者減と野党の候補者増で、結果的に野党票が増えたと分析する。

共産党1964年 中ソ対立の中で党の「中国共産党寄り路線に反対する」と声明を発表。

共産党1966年 文化大革命発生

  • 同時期に中国共産党と中国政府から日本共産党へ「修正主義」との批判が加えられ、ここでも激しい論争となった。世界各国の共産党でも同じような現象がおきたが中国文革に同調し毛沢東を個人崇拝するグループが各地でつくられ、山口県委員会などは一時中国派の中心になった。
  • 共産党は1966年に、従来の非妥協的親中共路線とたもとをわかち、“現代修正主義”〔ソ連〕と“左派教条主義”〔中国〕との断絶ははっきりし、両派はこのうえない痛烈な表現で直接お互いに指導者に攻撃を加えた。八月には最後に残った二人の日本共産党代表が北京を離れたが、出発のさい紅衛兵に激しく殴打された(アメリカ国務省情報調査局年次報告1968年版)」。この過程で西沢隆二、安斎庫治、原田長司、大隈鉄二、福田正義ら親中共派が党規約にそむいたかどで除名され「日本労働党」「日本共産党(左派)」「日本共産党マルクス・レーニン主義、後の労働者共産党)」「日本共産党(解放戦線)」「日本労働者党」などを結成。国民の支持を仰ぎ議会多数を得ての革命路線への転換以後のこれらの党内闘争において、コミンテルン支部時代に掲げていたプロレタリア国際主義理念などを、日本共産党を飛び出した側が総じて掲げていたが、実質的には武装闘争路線への回帰や外国の政権党の指導を受け入れることを路線として掲げていただけで、とりわけ中国からの日本共産党内部への干渉、多数派工作とその破綻と目されている。

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社会党1960年代後半〜1970年代 社青同内の解放派(のちの革命的労働者協会革労協))など極左派が排除される一方、社会主義協会の影響力が組織的にも強まる。

  • 向坂逸郎を総帥とする当時の社会主義協会は、マルクス・レーニンの「古典」の解釈ドグマを絶対視し、ソ連社会主義の祖国と仰ぎ、チェコ事件でソ連の軍事介入を公然と支持するなど、社会党の党是である中立政策を逸脱する路線をとっていた。また組織的にも独自の綱領と地方組織をもち、所属議員はほとんど持たない一方で、社会党の地方組織の活動家や労働組合の専従活動家などの中心的党員を会員とし、党組織での影響力を強めていた。
  • 親ソ傾向の社会主義協会派の勢力拡大により、本来の左派である佐々木は中国との接近を強めるとともに、構造改革論争以来の仇敵の江田と結び、以後、協会派と反協会派の党内対立が激化。1975年にソ連敵視を意味する覇権主義反対を明記した日中共同声明を成田委員長が結んだことで、両者の対立はさらに激化した。
  • ソ連崩壊後のクレムリン秘密文書公開により、社会党ソ連から援助を得ていたことが明らかにされたが、当時の社会党執行部はソ連の資金援助を否定し続けている。
  • この時期の社会党自治首長選挙において共産党共闘し(社共共闘)、東京都、大阪府など各地で革新首長を誕生させている。社会福祉の充実など一定の成果を残したが、財政悪化を招いたとの批判がいわゆる「保守政党」からされることがある。

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社会党1969年 第32回総選挙。社会党は候補者を26人も絞ったが、140から90へと大きく議席を減らす。特に都市部での落ち込みは決定的で、東京都では13から2議席に激減。また東京都議会議員選挙で公明党に抜かれ第3党となる。

社会党1970年2月11日 日本最初の人工衛星おおすみ」が、東京大学宇宙航空研究所(後の宇宙科学研究所)の鹿児島宇宙空間観測所からL-4Sロケット5号機により打ち上げられる。名称は打ち上げ基地があった大隅半島に由来。

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  • 1966年から観測用ロケットL-3H型に補助ブースターと姿勢制御装置、第4段球形ロケットを追加したL-4Sロケットで打ち上げ実験を開始。1969年に打ち上げられたL-4T型(L-4Sとほぼ同型であるが、第4段の能力を減じているため、衛星打ち上げ手法の確認は出来ても、軌道投入能力はない)1機の打ち上げを含んで、5回の試行錯誤の後ついに成功。その結果、日本はソビエト連邦(当時)、アメリカ合衆国、フランスについで世界で4番目の人工衛星打上げ国となった。その2ヵ月後に中華人民共和国東方紅1号の打ち上げに成功している。
  • なお中国を含め、多くの国は弾道ミサイル開発の副産物として人工衛星打ち上げ技術を習得したが、日本は大学の付属研究所が純粋な民生技術として研究を行い、非軍事目的での人工衛星開発に成功し、なおかつ日本国内では直接的な軍事技術への転用も行われなかったという点で、国際的に特異性である。
  • さらにはL-4Sロケットは世界初の「誘導制御装置が付いていない無誘導衛星打ち上げロケット」であった。これは決して開発能力が無かったわけではなく「誘導装置はミサイル開発に繋がる軍事技術への転用が可能である」と日本社会党などの野党が食い下がり、開発の着手時期が大幅に遅れた為である。もちろん、単に真っ直ぐロケットを打ち上げても地球周回軌道には乗らないため、何らかの方法で機体を制御し、地表に対して水平に向きを変えなくては、衛星を軌道に投入できない。この代替策として独楽の様に機体を回転させる「無誘導重力ターン方式」で軌道に投げ込む方法を取ることとなった。その技術は、後の宇宙研衛星打ち上げロケットに採用されるロール制御モーター「SMRC」に結実する。

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共産党1970年〜1973年 山本薩夫監督作品「戦争と人間三部作」が制作される。

  • 1947年来の共産党員で、1948年の東映第3次争議(会社側が千名以上の解雇を通告したのを契機に組合側が撮影所に篭城。排除の為にアメリカ軍まで軍事介入する展開となった事件)では他の組合指導部16名と一緒に退職を余儀なくされている。とはいえ社会派として反体制的な題材を扱いながらも娯楽色豊かに仕上げる手腕・平衡感覚をを備え、興行的にも常に成功してきた、共産党嫌いだった大映永田雅一東宝藤本真澄といった経営者級プロデューサー達に起用され続けている。
  • 多くの大作を残していることから「赤いセシル・B・デミル」と呼ばれていた。戦後の日本映画独立プロ運動の中心的役割を担うと共にソ連や中国をはじめ各国の映画人との交流を深め、ベトナム人民支援、チリ連帯、反核活動、全国革新懇などにおける運動にも献身的に参加している。
  • この「戦争と人間」でも1時間近くにわたって続くクライマックスの「ノモンハン事件」の場面で実物のソ連戦車軍団が登場。山本監督のスタッフがソ連に撮影への協力を申し入れ、複雑な経緯を経てソ連側の了承が得られ、ボルゴグラード(かつてのスターリングラード)近郊の大平原を舞台に日本軍兵士役を演じるアジア系ソ連軍兵士付きで撮影が許可されたのだという。
    ノモンハン事件(1939年)当時のソ連軍の主力は火砲も装甲も脆弱なT-37戦車やBA-6装甲車だったので対等以上の戦闘が繰り広げられたが、映画に登場したのは独ソ戦でドイツ機甲師団と渡り合ったT72/85戦車なので絶望感が凄まじい。それまで日本軍が「略奪と強姦と民間人殺戮しかしない悪」としか描かれてないので完全に「正義のソ連が悪の日本を倒す」勧善懲悪展開。まぁ、そういうシナリオだったからこそソ連の撮影許可が下りたとも。ちなみに歴史のこの時点において原作含め「従軍慰安婦の悲劇」という観点は一切存在しない。
  • 第三部冒頭にソ連のモスフィルムおよびオゼロフ監督(ユーリー=オーゼロフ)への謝辞が掲げられているが、これは撮影協力もさることながら、ちょうど当時ソ連で製作していた戦争映画の超大作「ヨーロッパの解放」(オーゼロフ監督)のクルスク戦車戦のシーンがそのままこの映画の中に拝借されているから。それだけでなく、そういうシーンの撮影に慣れてない日本の映画人に数々の貴重なノウハウ伝授があったものと推測されている。

共産党社会党1972年 第33回衆議院議員総選挙。

  • 社会党成田知巳委員長、石橋政嗣書記長(成田-石橋体制)のもとで前回の90から118へ戻し、ある程度の議席を回復したものの、完全に議席を取り戻すまでには行かなかった。特に都市部での凋落はひどかった。その一方、地方では自民党社会党議席を分け合う構図はほとんど変わらなかった。ただし、圧倒的に自民党議席が多く、北海道など一定の地盤のある県を除き、2:1以上に議席の格差があった。
  • 共産党は38名の候補者が当選し、議会第3党・野党第2党に躍進。また、同年には田代文久が特別委員会の石炭対策委員会委員長に選出され、共産党議員として初の国会委員長が誕生した。

1972年 朝日新聞記者本多勝一中国共産党のプロパガンダをそのまま伝える「中国の旅」「中国の日本軍」を発表。

共産党1972年 「新日和見主義事件」

  • 党内部で中央委員で青年学生対策部長であった広谷俊二と日本民主青年同盟(民青同盟)幹部であった川上徹を中心とした分派が結成され、それが摘発されたとされる事件。

新日和見主義事件(新日和見分派事件)

1970年代初頭に、日本共産党中央委員であった広谷俊二や民主青年同盟中央常任委員であった川上徹らが中心となり、民青同盟中央委員会を拠点として、党の公式路線に反対するための党内秘密組織(分派)を組織した事件。日本共産党は規約で分派を禁じており、広谷・川上らの分派は1972年5月に党中央によって摘発された。最終的には分派活動に携わったと判断された党員約100名が共産党や民青同盟によって処分に付され、後日党中央は被処分者のものとする思想傾向を「新日和見主義」と命名し批判を加える様になり、これが事件と分派の通称となる。

1972年5月から9月にかけて、日本共産党中央委員会によって、日本民主青年同盟(民青同盟)、全日本学生自治会総連合全学連)、ジャパンプレスサービス、労働者教育協会、日本平和委員会、労組活動家などの党員約600名が「査問」と称する取り調べを受けた。

  • 「査問」対象者の「罪状」は「脱党して新組織を立ち上げようとしている疑い」あるいは「共産党沖縄返還闘争論の理解の誤り」というものから「組織の金を横領した疑い」など多岐に渡る。後に共産党指導部は取り調べた者たちを一括して「新日和見主義的傾向」と定義した。中心的人物の一人川上徹は査問において党に対し自分たち民青中央メンバーが11回大会後の党路線に疑問を持ち、党規約を無視して分派的な会合を持っていたことを自白し、後に著書『素描・1960年代』で、事件発覚後35年を経て事実関係を公表している。
  • 査問対象者の多くが、批判を受け入れる形で「自己批判文」を提出した。また、あらかじめ身体の拘束について「同意」した旨の署名を書かされ、党中央が主張する「容疑」について否認する者は一週間以上の長期に渡って「拘留」された者も少なくなかった。査問期間中、査問の対象者は一室に事実上軟禁の上、監視下に置かれたことなどは、甚大な人権侵害事件であったという指摘も主に『査問』刊行以後になされた。この事件を機に、事件前に組織の要職にあったほとんどの査問対象者は「現場の一党員」として再出発することを余儀なくされたが、事件摘発の規模の割に直後にこの件をもって共産党を離党した者は少ない。

この事件で「査問」された人物の中心は、民主青年同盟や民青系全学連の指導者であった。全共闘運動と対決してきた日本共産党系の学生運動の担い手たちが、むしろ暴力的な学生運動の影響を受けて急進化し、場合によっては共産党中央の指導を拒否して学生・青年分野の指導担当者が独自の論理で運動を展開し始めたことに日本共産党中央指導部が強い危機感を持ったのである。

  • 「国民の多数派」を獲得して「議会を将来にわたって文字通り国民の意見が正しく反映する場としていく」とすると党中央の「人民的議会主義」の路線に批判的立場だった広谷俊二、川上徹らの分派活動であったとするならば、この摘発・排除自体は議会重視の活動を党路線として再確認したものと言える。
  • また、広谷俊二、川上徹らは、大会決定への反対意見を抱いていたにもかかわらず党大会に至る正規の全ての党会議で表明したことは事件摘発まで一度もなく、表向きは「民主青年同盟内の規約改定の年齢制限の項に限った反対意見」だと当時は称し、党の議会重視の路線への反発は何年も経過してから表明されたものであった。
  • 一方、1974年には当時の民青中央常任委員(のち大阪府委員長)が、翌1975年には同じく民青愛知県委員長と、前愛知県委員長が公安警察のスパイであることが発覚した。いずれも、川上徹らによって組織の団結が弱まった所に公安警察が潜入させたもの。彼らスパイ分派はむしろ地方組織の「新日和見分派」摘発を積極的に進めて信任を深めた。 スパイ分派事件は『赤旗』紙上で写真つき記事で公表された。
  • 日和見主義事件は、査問を経て処分された者の多くがその後も党籍を有していたこともあり、その後あまり話題になることはなかった。1980年代なかばになって、いわゆる「市民派」と共産党との関係が構造改革論とのかかわりをもって問われた際、過去の事例として、かれらの主張が回顧されたことがあったくらいであった。

しかし25年目の1997年、事件発覚当時民青同盟中央常任委員であり、各方面分派の中心人物であった川上徹(1990年、日本共産党員の資格に欠ける言動があって、党から除籍)が、自身が党規約違反していた内容は伏せたまま、その体験を市民的感情に訴えるよう綴った『査問』を発表。この時、川上は共産党機関紙『赤旗』紙上に自己の経営する「同時代社」の書籍の広告掲載を依頼し、これを断った共産党の対応をも話題としている。

  • 日本共産党は『査問』刊行に対抗して、1998年1月20日付『赤旗』に反論文「『新日和見主義』の分派活動とは何だったか」を掲載。川上徹の著作は、共産党が分派参加者の自己批判と更生に配慮して、分派の具体的な実態や構成員を公表しなかったことを悪用し、事件をあたかも「冤罪」であるように偽っていると批判した。
  • 民青同盟静岡県委員長を罷免された後、27年間沈黙を守っていた油井喜夫も、川上徹の『査問』刊行に呼応して1998年に日本共産党を離党。1999年に『汚名』を、翌年には『虚構』を著した。新日和見主義分派は「宮本式偽造分派基準によるでっち上げ分派」であり、自身は分派結成にはまったく無実であると主張した上で、自らの体験をもとに事件及び日本共産党が行った査問の実態を告発した。
  • なお、『汚名』出版と同年に、高野孟も自身の個人ウェブサイトで事件の体験を「自分史」の一部として発表。党本部で1週間にわたる査問の結果「反省文」の提出をさせられたが、新日和見主義分派とは無関係と認められ解放されたと回顧している。
  • 2001年に出された川上の『査問』文庫版に加藤哲郎は「査問の背景」と題する解説を寄せている。加藤は「党史上最大の人権侵害事件」と評し、ハンセン病元患者への日本政府の対応にもなぞらえた上で「被害者たちに謝罪するのは、いつになるのであろうか?」と市民社会の論理に従い、川上ら「被害者」に謝罪するよう共産党を諫める論調であった。
  • これら一連の出版物がジャーナリスティックに取り上げられた。事件を従来言われていた理論問題や分派的活動という党規約違反といった観点から論じるのではなく、分派摘発時の党組織の実態がクローズアップされ、事件は日本共産党の閉鎖的体質が最も顕著に現れたものと位置づけるキャンペーンがなされた。共産党側の反論より、川上らの著作を重視し、彼らを被害者とする論調が十年にわたって主流を占めた。

ところが川上徹は35年目の2007年に『素描・1960年代』を刊行。そこで民青本部メンバーは実際に分派とみられる諸活動をしていることを明らかにする。

  • それを読んだ油井喜夫は、『査問』刊行直後の1998年1月20日付『赤旗』紙上での批判が分派の事実関係については正しいものであったこと、川上ら民青本部グループが自分たち民青地方組織の新日和見主義事件連座者にも三十五年間分派の事実を秘匿していたことに衝撃を受け、2008年『実相 日本共産党の査問事件』を刊行し、新日和見主義事件をめぐる動きは新たな段階に入った。
  • 油井は「解放区=民青会館は程度の悪い不満分子の巣窟にすら見える。共産党に指導上の問題や、実情からかけ離れた六中総決議もあった。しかしこころ派分派も民青をおかしくしたと言えないか?(p239)」と川上らを強く批判している。

ちなみに党側の発表によれば、分派活動の内容の実際は以下の様なものだったという。 

「新日和見主義の分派活動とは何だったか(赤旗記事1998年1月20日)」

川上徹らは、当時、党中央委員だった広谷俊二(元青年学生部長)らを中心に、人民的議会主義の立場をより鮮明に打ちだした第十一回党大会決定(七〇年)に反対するための「研究会」を党にかくれて継続的にもち、広谷らがふりまく党中央や党幹部へのひぼう・中傷などを「雲の上の情報」などといって、民青同盟内の党員や全学連その他にひろげ、党への不信をあおりた。

川上徹らは、その活動のさい、ある党員評論家を、「新日和見主義」の理論的支柱としていた。この評論家らは、ニクソン米大統領の訪中計画の発表(七一年七月)や、ドルの国際的な値打ちを引き下げたドル防衛策(同年八月、“ドル・ショック”といわれた)、七二年の沖縄返還協定の締結など、内外の情勢の変動をとらえて、特異な情勢論を展開し、党の路線、方針に反する主張をひろめていた。アメリカが中国との「接近」「対話」を始めたのは、アメリカの弱体化のあらわれだとして、べトナム侵略をつよめるアメリカの策動を軽視するアメリカ「ガタガタ」論、沖縄返還協定で日本軍国主義は全面復活し、これとの闘争こそが中心になったとして、日米安保体制とのたたかいを弱める「日本軍国主義主敵」論、さらには革新・平和・民主の運動が議会闘争をふくむ多様な闘争形態をもって発展することを否定し、街頭デモなどの闘争形態だけに熱中する一面的な「沖縄決戦」論など、どの主張も運動に混乱をもちこむ有害なものだった。

川上徹らは、こうした主張の影響をうけて、“日本共産党は沖縄闘争をたたかわない”“人民的議会主義はブルジョア議会主義だ”などと党にたいするひぼうと不信を民青同盟内にひろげた。

1973年 千田夏光が「従軍慰安婦 正編」を上梓。

  • 従軍慰安婦」なる用語の初出は『週刊実話』1971年8月23日号の記事「"性戦"で"聖戦"のイケニエ、従軍慰安婦」とされる。
  • 千田夏光は自著の中で1964年、毎日新聞発行の写真集『日本の戦歴』を編集時に「不思議な女性の写真を発見し」「この女性の正体を追っているうち初めて慰安婦なる存在を知った」後、この著作に取り掛かったとしている。1985年に同書の解説を書いた秦郁彦は「著者の千田夏光は1942年生まれ、戦場経験は、新聞記者時代にふとしたきっかけで、このテーマと取り組むようになった。全体像をつかむにはまだ不満が残るが、他に類書がないという意味で貴重な調査報告といえよう。」と当時は評価している。
  • 従軍慰安婦 正編』の中には原善四郎(関東軍参謀)に面会し、「連行した慰安婦は八千人」との証言を引き出したとの記述があるが、原の軍歴に間違いがあったため『正論』や『諸君!』で面会した事実に相次いで疑問が投げられた。後に千田は原の軍歴については、原と面会することなく確認しないまま他の書物を引き写したことを認めている。
  • また、同書において麻生徹男軍医を慰安所発案の責任者であるとほのめかすように描いたことについて1996年、麻生軍医の娘である天児郁は千田が「これらの著述は誤りであり、今後誤解をまねく記述はしない」と謝罪したと述べている。天児郁の元には、麻生を慰安婦考案者と誤解し「民族のうらみをはらす」「謝れ」などと娘も含めて罪人扱いする者が大勢訪れたとされる。

「慰安婦20万人説」の発端

千田夏光従軍慰安婦―“声なき女”八万人の告発(1973年)』のp.106に「『挺身隊』という名のもとに彼女らは集められたのである。(中略)総計二十万人(韓国側の推計)が集められたうち『慰安婦』にされたのは『五万人ないし七万人』とされている」とある。

  • この根拠を調べた在日朝鮮人運動史研究者の金英達(キム・ヨンダル)によると、以下の1970年8月14日付けソウル新聞の記事「1943年から1945年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は全部でおよそ20万人。そのうち韓国女性は5〜7万人と推算されている」を千田夏光が誤読して典拠したとされている。このソウル新聞記事における「5〜7万」の推算の根拠は不明であり、確実な資料から判断すると官斡旋による強制性のない朝鮮半島からの女子挺身隊は多く見積もっても4000人ほどと推算されている。
  • 1984年に元『東亜日報』編集局長の宋建鎬(ソン・ゴンホ)が発表した『日帝支配下の韓国現代史』(風濤社刊)でも「日本が挺身隊という名目で連行した朝鮮人女性は、ある記録によると20万人で、うち5 - 7万人が慰安婦として充員された」と述べるに留まる(1969年の報道記録からと見られるという)。
  • 1991年、朝日新聞では「従軍慰安婦」について、「女子挺身隊の名で戦場に連行された」と報道しているように、「慰安婦は女子挺身隊の名で連行された」という間違った言説が広まったが、 高崎宗司によれば、それらは「挺身隊という名のもとに彼女ら(慰安婦)は集められた」と書いた千田の著書を依拠しているとし、 また韓国の歴史家である姜万吉は、慰安婦問題を取り扱っている団体が『韓国挺身隊問題対策協議会』などという団体名にしているなど、慰安婦と挺身隊の混同をしていることについて疑義を呈していた。
  • 1993年、「挺身隊研究会」会長の鄭鎮星 (チョン・ジンソン)ソウル大学教授は「8万人から20万人と推定される慰安婦のうち、絶対多数を占めると思われている朝鮮人慰安婦」とした。また「強制連行」の定義を当時の国際条約に従い詐欺、暴行、脅迫を含めて再定義している。このような朝鮮人慰安婦を「20万」強制連行したという言説については、李栄薫ソウル大学教授は過度の誇張として批判している。
  • 1995年、中央大学教授吉見義明は慰安婦の総数を4万5000人~20万人と推算した。 秦郁彦慰安婦の総数を1993年には9万人としていたが、1999年には大幅修正して約2万人と推算した。

ちなみに韓国における慰安婦問題には「当時、女子挺身隊への動員を免れた朝鮮人富裕層子女への弾劾」から目を逸らす目的で始まった側面もある。この種の怨恨自体は韓国に普遍的に存在し、昨今の朴槿恵非難世論でも改めて蒸し返されたりしている。そもそも今日なお「女は男に従属する事で初めて人間となる」と主張する男性優位主義が根を張る韓国において「女性一人前の日本臣民として認め労働力として動員する」女子挺身隊制度を強行した事自体が、当時の朝鮮社会に想像以上の精神的動揺を与えた事実は揺るがない。当時の新聞記事を見ても「わが国では女子にとって就職は、たちまち男性社員に輪姦されて処女を失う事を意味するなんて噂がまことしやかに流れてい」とか書かれていて驚く。

共産党社会党1973年 東京都議会議員選挙

共産党1975年 統一地方選挙

共産党1975年 文藝春秋誌上で立花隆の「日本共産党の研究」が連載開始。

  • 1976年、この連載に「共産党査問リンチ事件」の裁判記録が掲載された。当時委員長であった宮本顕治と副委員長であった袴田里見が被告となったこの裁判の記事は国会でも取り上げられ、大きな話題となる。

日本共産党スパイ査問事件

治安維持法下の1933年に東京府東京市(現東京都)で発生した日本共産党中央委員であった小畑達夫が死亡し、同じく中央委員であった大泉兼蔵らが負傷した事件。

  • 1933年、当時日本共産党中央常任委員であった宮本顕治袴田里見らが、当時の党中央委員大泉兼蔵と小畑達夫にスパイ容疑があるとして査問処分を行うことを決定し、12月23日、二人を渋谷区内のアジトに誘い出した。
  • 宮本らは針金等で手足を縛り、目隠しと猿轡をした上に押し入れ内に監禁した。秋笹正之輔、逸見重雄らが二人に対して暴行を行ったため、小畑は24日、外傷性ショックにより死亡した。小畑の死体は床下に埋められた。
  • 以上が当時の裁判で認定された内容であるが、さらにその際、無許可で実包を込めた拳銃一丁を携帯したこと、また、別の党員大串雅美にスパイ容疑があるとして、赤坂区内のアジトに12月21日から22日までの間監禁したこともあわせて裁かれている。

戦前の治安維持法の下で行われた裁判であったためGHQから司法省に対し指示があり、判決は無効となり資格回復の措置がとられた。日本共産党側はリンチの存在そのものを否定している。

民主党共産党社会党1976年 第34回総選挙で初めて自民党過半数割れ(ただし追加公認過半数確保)すると、社会党内で政権交代が現実のものとして論議に上った。
*同年2月にはロッキード事件が明るみに出ている。

共産党1979年 第35回総選挙。最高の39議席を得る。

共産党社会党1979年4月 東京都知事選挙革新統一候補の元総評議長太田薫が敗れる。

社会党1980年 衆参ダブル選挙(第36回総選挙・第12回参議院選挙)で自民党が大勝。

共産党社会党1980年1月 社会党公明党日本共産党排除を前提とした政権構想に合意した結果(社公合意)、社会党共産党の連立を前提にしていた民主連合政府構想の実現性が遠のく。 

  • このため共産党は1981年、平和・民主主義・革新統一をすすめる全国懇話会(全国革新懇)を結成し「軍事費を削って福祉にまわせ」「非核の一点で結集を」などと呼びかけ、政党の組み合わせによる「革新共闘」模索ではなく「思想、信条、支持政党、の違いを超えた国民多数の革新的な運動の結集」により、無党派との共同による新たな革新戦線を全国的に追求する様になった。
  • これは、社会党共産党との間で揺れ動く革新浮動層を共産党に取り込むための方便と見る向きもあり、亀田得治(元参議院議員)、成瀬昇(元愛知県評議長)、西岡瑠璃子(元参議院議員歌人)、栗原透(元社会党高知県委員長・高知県議)、矢山有作(元衆議院議員)ら元社会党員も多数参加しているにもかかわらず、具体的な選挙共闘としては愛知県・高知県などを除き余り大きな成果は得られていない。革新懇は全国組織の「全国革新懇」、都道府県や市区町村、学区などの単位で結成されている「地域革新懇」、職場ごとの「職場革新懇」など、様々な単位で結成され、活動しているが、実態は党が名前を変えただけの組織である場合が多く、幅広い結集となっているとは言い難い。
  • なお、共産党が国政選挙で他党や無所属の候補を推薦・支持・支援した例としては、田中美智子、安田純治、陶山圭之輔、喜屋武眞榮、西岡瑠璃子、川田悦子(以上無所属)、島袋宗康、仲本安一、糸数慶子(以上沖縄社会大衆党)らがおり、そのうち田中・安田は当選後、院内会派日本共産党・革新共同」に入っている。
  • 1980年代、日本共産党は「民主連合政府」のスローガンを事実上棚上げし、「非核の政府」という路線にきりかえ、全国の自治体で「非核平和都市宣言」条例の制定運動などを行なった。これは、当時ソ連共産党が全世界的に展開していた「反核運動」と一定程度呼応するものであり、日本共産党ソ連共産党の一定の接近を意味したが、「非核の政府」には日本社会党が反対し、国政においては広がりを欠いた。 

社会党1983年 第37回総選挙で再び与野党議席は伯仲。しかし社会党議席は微増(107から112)にとどまった。

  • 公明・民社は表向き社公民路線を取りつつ、自民との政策協議を重視するようになる(自公民路線)。さらに労働界も、政府に対する政策要求の効果を高める目的で、IMF-JCを中心に社会党支持労組の中からも政策協議路線を後押しする動きが強まり、自民党を中心に政策決定していくことを前提にした政党間関係を構築していくようになる。
  • こうした動きについて日本共産党から「国政もオール与党化」「大政翼賛会の二の舞」などとの批判が浴びせられた。

民主党1983年12月 第37回衆議院議員総選挙

角川商法に後援された大林宣彦監督作品「少年ケニヤ1984年)」に圧勝を飾った宮崎駿監督作品「風の谷のナウシカ1984年)」やコレット・ダウリング「シンデレラコンプレックス( Cinderella complex、1981年、邦訳1984年)」が大流行して日本でも欧州の様な「左翼のエコロジスト(Ecologist)化やフェミニスト(feminist)化」が志向され始めたのがこの時期だったとも。

社会党民主党1985年 中国共産党南京大虐殺記念館を建築

  • 自民党議員浜田幸一によると第11代日本社会党委員長(1991年〜1993年)田邊誠が1980年代に南京市を訪れた際に南京大虐殺紀念館を建設するよう求めたという。浜田はこの要請や総評から南京市への3000万円の寄付によって同紀念館が建設されたと語っている。しかし、1999年11月と12月の阿羅健一のインタビューでは「パールハーバー五十周年のさいに日本の反省を述べたことはあるが、南京事件については知らないので、中国に対して南京事件について言ったことはない」と本人は電話で述べている。
  • 田邊誠は北朝鮮を支持する在日コリアン団体朝鮮総連と親しく総連の外交部門を担う国際局出身で後に総連のトップになる許宗萬自民党金丸信、さらには野中広務山崎拓加藤紘一らと共に日本の政治家の中でも特に北朝鮮と親しい1人だった。

  • 衆議院では社会労働委員会に属し、社会福祉政策の充実を訴えている。一方、社会党内では江田三郎派に属し、次第に右派の重鎮としての地位を築いていった。1977年、社会党国会対策委員長に就任。この時代には自民党金丸信国対委員長とのパイプを築いた(国対政治)。盟友関係は金丸の死去まで続き、互いに「マムシナマズ」と呼び合うほどだったとされている。後に金丸が不正蓄財問題で失脚した後、金丸と仲の良かった田辺もダーティーなイメージで見られたが、側近の船橋成幸は「田辺の私生活は清潔であった」と著書の中で述べている。自民党実力者との交流は、社会党関係者や市民運動家の要求を通しやすくするためにおこなわれていた側面もあった。

  • 1981年1月、水曜会を中心に右派既成派閥「政権構想研究会」結成に参加。会長に武藤山治政審会長を据えたが、同年11月の社会党委員長選で自派の武藤政審会長が飛鳥田一雄委員長に大敗し国対委員長を退任。1982年7月、平林剛書記長の急死で書記長代行に就任。さらに1983年7月には、石橋政嗣委員長の下で書記長に就任した。
  • 一方「政界のドン」金丸信は長く国会対策委員長を務めて日本社会党議員との交流を続け、社会党との連携で党内対立を制する手法を身に付けた。金丸は1980年代末からさらに一歩踏み込み、自民党社会党を解体・再編成して政権交代する二大政党を作るという政界再編構想を抱く様になる。特に「足して二で割る」という絶妙の妥協案は金丸国対とまで評されるほど絶妙なものであった。

社会党1985年 社会主義協会の指導者であった向坂逸郎が死去。社会主義協会内でも現実路線と原則路線との対立が始まる。

  • 執行部は同年12月の党大会で田邊誠書記長を中心に作成された新綱領を提案。協会派の低迷にも助けられて翌1986年1月の採択にこぎ着ける。しかし1986年7月の衆参同日選では社会党が大敗。石橋委員長の辞任に合わせ、田邊誠書記長も辞任。

民主党1985年4月 民社党改名問題

  • 党委員長となった塚本三郎民社党(元民主党の党名から社会主義を連想する「社」の部分を外し、「民主党」などに改称しようとしたが、春日一幸佐々木良作らに猛反対されて実現されなかった。
  • 永末が委員長になると「われわれは、ソーシャリストの集団です」と言明し、原点回帰を目指したが、米沢隆らは「民社の『社』は社会ではなく会社の『社』」と反論。
  • 大内啓伍委員長時代も党名から「社」を外し「民主党」などに変えようとしたが、古参幹部や学者、同盟系労組の反対で頓挫。それに替わって、大内は「民主社会主義」「社会主義」の文言を極力使わない手法を用い“社会主義離れ”を図った。

社会党1986年 激しい論争を経て、石橋政嗣委員長のもと「道」は「歴史的文書」として棚上げされ、新しい綱領的文書である「日本社会党の新宣言」が決定された。

  • 従来の平和革命による社会主義建設を否定し、自由主義経済を認め、党の性格も「階級的大衆政党」から「国民の党」に変更するなど、西欧社会民主主義政党の立場を確立したもの。ただし妥協策として旧路線を継承するとも取れる付帯決議を付加した為に路線転換は明確とはならなず「新宣言」決定後も退潮はとまらなかった。
  • 同年7月の衆参ダブル選挙(第38回総選挙・第14回参議院選挙)は大敗(衆院で112から85)。退任した石橋委員長の後継に土井たか子が就任。議会政党としては日本初の女性党首が誕生した。土井社会党は土井の個人人気と女性候補(「マドンナ」と呼ばれた)を積極的擁立など女性層を中心とする選挙戦術を展開し、消費税導入やリクルート事件、農業政策に対する不満を吸収した「激サイティング!社会党」のキャッチコピーを掲げる。

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民主党社会党共産党1987年 社公民3党が再び接近し連合を結成。

民主党1988年1月 この時の衆議院本会議の席上において、民社党委員長塚本三郎の代表質問により、初めて北朝鮮の拉致疑惑が国会で取り上げられる。

社会党民主党1989年 第15回参議院選挙。46議席を獲得。自民党は36議席しか獲得できず、連合の会と共に、自民党を非改選を含めても過半数割れに追い込み、改選議席自民党を上回った。

  • そもそもこの時竹下登内閣が総辞職を余儀なくされたのは、消費税導入による不人気とリクルート事件発覚のせいだった。竹下は謹慎し、後継総裁には宇野宗佑が就いたが、話を聞かされていなかった金丸は、元・総裁の福田赳夫を、高齢ではあるが後継総裁として擁立に動いていたため面目を失った。最初に宇野ありきの状態だったことを自虐し、自らを「雇われマダム」と評している。
  • とはいえ、宇野政権が1989年参院選過半数割れの大敗により2ヶ月あまりで倒れると最大派閥の会長である金丸が大きな力を持つ様になった。宇野の退陣後、(安倍晋太郎竹下登宮澤喜一中川一郎渡辺美智雄ら)ニューリーダーがリクルート事件の影響で出馬出来なくなったため、野党とのパイプを持つ金丸自身も候補に上がるが、竹下らの反発で潰され、出馬に意欲的であった河本敏夫に電話し出馬を辞退させた。社会党のマドンナブームに関し「バーのマダム(長谷百合子議員のこと)が当選したようだが政治がわかるのか。国家国民のためにならない政治家が生まれるのは問題だ。」と発言した。
  • 結局、河本派の海部俊樹が総理総裁に選出されたが、参議院自民党過半数割れによるねじれ国会において野党との協調が政権運営に不可欠となった状況で、国対族のベテランであり最大派閥経世会の会長たる金丸と、同じく国対族で経世会オーナーの竹下、さらに両者の姻戚で自民党幹事長の小沢一郎経世会中枢3名の権勢が海部首相のそれを凌駕し、金竹小と称された。金丸は竹下派七奉行の中でも特に小沢に目をかけ、1989年8月、竹下の反対を押し切って47歳の若さで自民党幹事長に就任させるなど、小沢の強力な後ろ盾となったが、七奉行の中で最年少の小沢重用は橋本龍太郎梶山静六ら竹下に近い議員の反発を招くことになり、後の竹下派分裂の引き金を引く。
  • 社会党勝利は土井の個人的人気による選挙結果のだった為に土井ブームと呼ばれた。このとき土井は開票速報番組の中で、「山は動いた」という名言を残している。
  • この時の候補者の多くが消費税撤廃を公約としたため、参議院において消費税廃止法案を提出・可決したが、衆議院において廃案になったため実現しなかった。
  • この年、田邊誠元書記長が副委員長に就任。

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社会党1989年 「在日韓国人政治犯の釈放に関する要望」に多数の社会党議員が署名。

共産党1989年元旦 「赤旗」の宮本顕治議長のインタビュー

  • これを機に事実上社会主義革命を棚上げし、二段階革命論に基づいて「資本主義のもとでの民主的改革」を強調するようになった。

共産党1990年7月 第19回党大会

社会党1990年9月26日 北朝鮮有数の景勝地、妙香山の招待所で自民党金丸信社会党の田邊誠、北朝鮮主席の金日成(キム・イルソン)が顔を合わせた。

  • 訪朝は北朝鮮に拘束されていた第18富士山丸の船長、紅粉勇ら日本人2人の釈放と、日朝友好親善が主目的だったが訪朝団に対する金日成の歓待ぶりはすさまじかった。2万人が動員されたマスゲームは代表例で「金丸信先生と田辺誠先生の引率する日本使節を熱烈に歓迎する!」という人文字が表示された。
  • 9月28日自民党社会党朝鮮労働党の3党共同宣言がなされたが、その中に記された「戦後45年間の謝罪、十分な償い」が、戦後における北朝鮮への戦後賠償の表明とみなされたため、後に大きな批判にさらされる。
  • 金丸と金日成は、日本語を用いて差しで対談を行ったが、この時のやり取りは文書として残っていない。日朝の交渉においてはしばしばこの空白の数時間の間に取り決められたといわれる約束が「金丸さんが金日成主席と約束した」という形で北朝鮮側から持ち出される。
  • 田邊誠は北朝鮮による日本人拉致発覚後、北朝鮮側に対し自分をだましていたと抗議し、関係を絶ったとされる。

    http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/421/23/N000/000/003/121624058939016221993.png

社会党民主党1990年 第39回総選挙(2月18日開票)。社会党は60年代後半並みの136議席(公認漏れなどを含めると140)を回復し前進を示す。しかし自民党追加公認を含めて安定多数の286議席を獲得して底力を見せ、社会党がこの選挙で掲げていた政権交代の実現そのものは頓挫。

  • つまり社会党議席増の相当部分は自民党からでなく、他の野党から奪ったもの。逆をいえばこの時期は日本社会党が西欧諸国の社民主義政党のように保守主義政党と政権交代を繰り返すような勢力となる「保守政党と社民政党による二大政党制」へと発展可能だった最後のチャンスだったとも。
  • しかしこの選挙で社会党は定数512に対し149人しか擁立できなかった。社会党内の激しい派閥抗争に加え、長年続いた各選挙区における消極策が今回もあらわれたもの。土井執行部は180人擁立を目標にしていたが、無所属候補や他党系無所属候補の推薦を含めても160人にとどまった。本来なら陣頭指揮をとるべき書記長の山口鶴男さえ自分の選挙区での2人目の候補擁立を暗に妨害する始末で、さらに資金難も候補擁立の障害となった。土井によれば、落選した場合の生活保障ができなかったことを理由に、勧誘を断られるケースが多かったという。
  • それでも社会党内部では議席数の回復への安堵感が強かった為に「政権獲得の意志を持たない万年野党」と批判された。
  • また「社会党の一人勝ち」は共闘路線をとっていた民社党(元民主党)・公明党の離反も招いてしまう。
  • なお、この選挙で特筆すべきは公認候補だけで56人という空前の数の新人が誕生したこと。彼ら90年初当選組(仙谷由人松本龍岡崎トミ子赤松広隆細川律夫輿石東大畠章宏鉢呂吉雄など。但し鉢呂は当選時無所属)は後に民主党に参加し、2009年に実現する民主党政権でも、政権中枢の要職に就くことになる。

社会党民主党1990年 湾岸危機(8月2日〜1991年2月末)発生。自衛隊の派遣が政治課題となる。

1990年8月のイラククウェート侵攻以降、国連安保理は再三にわたって撤退を要求、同年11月、翌91年1月15日までに撤退しない場合は武力行使を加盟国に認める決議を成立させた。

期限切れ直後、米軍を主力とする多国籍軍イラク空爆で戦争が開始された。戦局は多国籍軍の圧倒的優位のうちに推移、同年2月末にはクウェートからイラク軍が一掃されて停戦が成立した。だが、敗北にもかかわらずフセイン体制は存続。フセイン体制をいかにすべきかという問題が残った。

湾岸戦争は問題の解決ではなく、イラク戦争(2003年3月20日〜2003年末)への通過点であった。この戦争が示したのは米軍の圧倒的な強さであった。日本、ドイツ、アラブ産油諸国による戦費の負担も特記されるべきである。米国のたどり着いた軍事力の高みと、当時の経済力の凋落(ちょうらく)を示した戦争でもあった。

民主党1991年10月 自民党総裁

 

  • 「政界のドン」金丸信は当初小沢一郎に出馬を促したが本人が固辞した為に他派の領袖を擁立することとした。
  • 派内の橋本龍太郎が高い一般人気を誇る中で、金丸と小沢は派内の異論を押し切って宮澤喜一を支持。なお金丸本人は渡辺美智雄支持に最後まで拘ったという。東大出身者以外を露骨に見下す癖のあった宮澤を金丸がもともと毛嫌いしていた為だった。しかし、宮澤が当時の世論、財界の圧倒的な支持があったこと、経世会宏池会が長年の蜜月関係にあったことから、渋々宮澤支持に転じたのである。派内の渡辺支持派は金丸が渡辺支持を断念したことにより一気に派として宮澤支持に移行。とはいえ、宮澤を支持するという金丸の報告を派の集会で拍手承認するという段取りだったにもかかわらず拍手がまばらで、金丸が叱りつけてようやく拍手が増えるというぎくしゃくした状況であった。
  • 宮澤政権誕生の功績により金丸は1992年1月、自民党副総裁に就任。宮澤政権の支柱となり、今上天皇中華人民共和国訪問を躊躇う宮澤に「天皇訪中問題について決めるべきはごちゃごちゃ言わず早く決めたまえ」と発破をかけるなど暗躍。

 

民主党社会党1991年 統一地方選挙社会党は敗北、土井は責任を取って委員長は退く。

  • 後任の委員長には田邊誠と上田哲が立候補し、全党員投票による選挙となった。有力支持労組をバックにした田邊有利との観測が強かったが、湾岸危機による安全保障論議を背景に左傾化する党内世論のもと、護憲平和路線の維持を訴える上田が左派主体の一般党員に支持を広げ、田邊は労組からの集団入党者の票でようやく勝利。この選挙結果は田邊執行部の大きな足枷となり、後の党運営を縛るものとなる。第5代委員長(1961年〜1965年)河上丈太郎以来、26年ぶりの右派出身となった田邊誠委員長は自民党金丸信に近く、右派・水曜会のリーダーとして社会党政権交代可能な政党へと脱皮させる人物としてマスコミなどから期待され、田邊もそれに応えるように影の内閣を党内に設置するなど、政権交代を視野にいれた路線を打ち出したが、そのせいで党内活動家やそれと連携する党外の平和運動活動家などの警戒的世論にさらされ、1992年のPKO法案審議では牛歩戦術を連発するなど強硬な対決姿勢を打ち出さざるを得なくなっていく。
  • 同年の東京都知事選では連合の山岸会長が公明党民社党(元民主党)と共に磯村尚徳を担ぐよう社会党執行部に働きかけた。これは山岸会長の持論である社公民路線の定着を狙ったもので、自民党小沢一郎幹事長も磯村を自民党本部の候補として推薦。社公民3党に小沢など自民党の一部が乗る形で実現した細川護熙内閣の構図はこのとき、既に出来ていたといえる。一方、社会党の独自性を強調する土井を中心とするグループは独自候補にこだわる一方で、なかなか候補者を決められず迷走した。土井を都知事候補に擁立し、土井人気を復活させようという動きも社会党の一部にあったが、土井が決断できず、水泡に帰した。社会党は選挙直前にようやく候補者を決定したが、供託金没収点にも満たない惨敗に終わる。

共産党1991年12月 ソ連崩壊

  • 8月のクーデター後に発表されたソ連共産党の解散が発表されると「もろ手を上げて歓迎する」という宮本顕治の発言が発表され(8月31日付毎日新聞によるインタビューでの発言)、その翌日に常任幹部会は「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する - ソ連共産党の解体にさいして」との声明を発表した。
  • 一方、ソ連・東欧諸国の脱社会主義への動きを「歴史の逆行」とも評しており、その整合性に疑問の声が上がる。また1980年代には中国共産党に反論する形で「社会主義完全変質論」を否定して「社会主義の復元力」を主張していたこととも矛盾していた。
  • ほぼ時を同じくして、政府与党や社会党(現在の社会民主党)を含む他の野党、マスコミなどにより「体制選択論」「冷戦終結論」「保革対立消滅論」が大々的に宣伝され、党員の所属する労組・団体の弱体化が進み、党・労組・団体の解散と政治・社会運動からの撤退などの要求を突きつけられるなど、その後の選挙で苦戦を強いられた。
  • 核兵器問題など外交問題をはじめとする諸問題で、ソ連ルーマニアの指導者と共同声明を出したこともある。特に「宮本顕治同志とニコラエ・チャウシェスク同志の共同宣言」は、党内外からきびしい批判にさらされることとなった。

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  • 1994年の第20回党大会では、ソ連は問題もあるが社会主義社会であるとしていた従来の「生成期」論を修正して、「スターリン以後のソ連社会は経済的土台も社会主義とは無縁」で「社会帝国主義的」とした。

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共産党1990年代前半 ネオ・マルクス主義の立場にある一部党員学者が除籍や離党。

  • ネオ・マルクス主義の思潮と党中央との理論軋轢自体は1970年代後半から続いていたが、当時はこれに丸山真男批判の動きも加わった。
  • 当時、法政大学教授であった高橋彦博(政治学)は1993年の「左翼知識人の理論責任」の出版を契機に除籍された。1994年には田口富久治(名古屋大教授、政治学)が同年の党大会における丸山真男批判(大会決議にも含まれる)を契機に離党。

ネオ・マルクス主義とは何か:Internet Zone

「ネオ・マルクス主義」がまとまった理論・思想潮流として登場してきたのは1960年代末からのフランス、イギリス、西ドイツ、アメリカなどにおいてです。一般的には1969年から1970年にかけて英国雑誌「ニュー・レフト・レビュー(新左翼評論)」で、ギリシャ生まれで主にフランスで活動してきた政治学者ニコス・プーランザス(1979年自殺)とイギリスの政治学者ラルフ・ミリバンドとが国家論をめぐる論争をおこなったのが画期になったと見られています。

支配階級と被支配階級との「妥協による不安定な均衡」

プーランザスは、資本主義国家を「政治的支配にのみに還元することは絶対に不可能である」とか、資本主義国家は「支配的諸階級によって独占されているのでもない」というのです。最初の著作「資本主義国家の構造(1968年)」の中で、国家は支配階級と被支配階級との「妥協による不安定な均衡に基礎を置いている」と主張。のちにこの規定を“発展”させ、最後の著作である「国家、権力、社会主義(1978年)」では、国家とは「諸階級および階級的諸分派間の力関係の物質的凝縮」とします。もともとプーランザスは「権力」を“他の階級の利益に対抗して自らの階級の利益を実現する能力”の関係と見ていますから、国家もそうした階級間の「権力」「力関係」にもとづくものとされるのです。

上野俊樹「プーランツァスの国家論」は、このような「力関係の凝縮」というプーランザスの国家理解が科学的社会主義の国家論といかに異なっているかを明らかにして、批判しています。上野氏は階級抑圧の機構としての役割が「国家の一般的本性」であり、国家のどんな活動も「多かれ少なかれ被支配階級の抑圧という支配階級の階級目的に規定されている」ことを指摘して、次のようにプーランザスの国家論を批判しています。

  • 「国家の役割が階級間の衝突を緩和し、その衝突を現存する『秩序』の内部にとどめておくというのは、現存する階級秩序を維持するということであるから、当然こうした国家の機能は支配階級の利益のためにおこなう行為である。国家は現存する秩序を維持するために、従って支配階級の利益を擁護するために衝突する両階級を調停するのであって、衝突する両階級の力関係に従って衝突の原因たる利害関係を調停するのではない(56P)」

つまり、国家が、階級支配の機構として、現実の階級的な力関係を考慮にいれて活動するのは当然です。しかし、そのことと、国家が階級間の「妥協」に基礎を置いているとか「力関係の凝縮」であるということとはまったく意味が異なっているのです。

また国家機構のなかには、議会制民主主義のもとでの国会のように一定の範囲内で階級的な力関係を反映するものもあります(その場合でも支配階級は、階級的な力関係が議席にストレートに反映しないように選挙制度などにさまざまな制限を設けたり、あるいは国会を形骸化して議会内の力関係がそのまま執行権に反映しないようにしています)。しかし、国家権力の背骨ともいうべき軍隊や警察などの強力機構の場合は、支配階級がそれらの機構を特別な体制においており、この組織のなかに階級的な力関係が反映しないことの方が基本です。

プーランザスはまた階級支配の機構と見たのでは国家の「相対的自律性」を論じる余地がないといっていますが、彼のいう「相対的自律性」論は、史的唯物論でいう上部構造(国家)の「相対的独自性」とは似て非なるものであることに注意しなければなりません。史的唯物論は、土台が上部構造を規定し、上部構造が土台に照応することを明らかにしましたが、この関係は、生産関係における階級矛盾と客観的な運動法則が、その発展の過程で自らに照応した上部構造をつくりあげるという意味であり、そうした大枠のなかで上部構造が相対的な独自性をもって土台に反作用することをなんら排除していません。

上野論文は、プーランザスのいう「国家の相対的自律性」論は、経済的土台から切り離された階級闘争という彼の考え方を前提として、その階級闘争からの「相対的自律性」を論じたものであり、実際には「国家の絶対的自律性」論になっていると批判します(5P〜52P)。

「力関係の凝縮」としての国家

国家を「力関係の凝縮」とみるプーランザスの立場からは、国家権力を労働者階級や人民がにぎるという革命の展望が出てこないのは当然でしょう。

プーランザスは、革命の展望をつぎのように考えました。資本主義国家の内部には「闘争」がつらぬいており、執行府と議会、さまざまな省庁、司法府、軍隊などに諸階級・諸階級分派が自己の利益を「結晶化」させている。だから国家は分裂、矛盾している。人民の闘争は、こうした国家の内部矛盾にたいしておこなわなければならない、と。そこから彼は、社会主義への移行において「国家の網の目の中で大衆が常に持っている分散的な抵抗の中心を、それらが国家という戦略的な土俵において実質的権力の現実的中心となるような形で、新たな抵抗の中心を創出・発展させつつ、普及・発展・強化・指導する」という、流動的で断続的な長期にわたる戦略を考えます。

しかし、その過程で左翼が政府を占有しても、ブルジョアジーは国家のなかで支配的な役割をになう国家装置を入れ換えて、実質的な権力を統御することができると、彼はいいます。それではどうするのでしょうか。実際には、人民の勢力が政府をにぎることは、革命における重要な一歩ですが、それはまだ権力への橋頭保です。人民の大多数を革命の側に獲得して、国会を「人民に奉仕する機関」とし、さらに反動的国家機構の根本的変革を実現しなければなりません.こうした展望は、国家を階級支配の機関とみる見地に立ってこそ明らかにできるものです。

しかし、国家を「力関係の凝縮」とみるプーランザスの立場からは、結局その解答をえられません。山口氏は、プーランザスは事実上の「破綻宣言」を出していると、指摘しています(28P〜29P)。

また、プーランザスは、自殺直前のインタビューで、「前衛党概念はプロレタリア独裁(執権)概念および単一政党制概念と相関関係にあります。複数政党制を主張すると同時にレーニン主義的な前衛党概念を主張することはできません(『資本の国家』)」とのべています。しかし、ロシア革命においては結果的に一党制になったとはいえ、それが社会主義における一般的なあり方ではありません。また「プロレタリア執権」の概念は、革命の結果うちたてられる権力の階級的な性格をあらわすもので、そのもとで実際におこなわれる特定の政治制度と混同することは正しくありません。プーランザスは、このように科学的社会主義の創始者たちの本来の考え方をより深く解明するのではなく、逆に反共攻撃に屈服して、革命における民主主義的中央集権制にもとづいた前衛党の役割を否定する立場におちいったのです。

政党は社会運動を指導したり活動の中に取り入れたりする事は出来ない。

またプーランザスは、学生運動や女性解放運動、環境保護運動などの「社会運動」を非階級的なものと見たうえで、階級闘争との「接合」を説いています。しかも、政党はこのような「社会運動」を指導したり、自らの活動のなかにとりいれたりすることはできないというのです。しかし、これは、これら社会運動が直接には民主主義的な性格をもった要求を実現する運動とはいえ、そうした要求が生まれる根本に、現代資本主義の根本的な階級的対立、矛盾があることを理解しない議論です。ここにも、国家や政治を経済的土台から切り離すプーランザスの誤った立場が反映しています。

ネオマルクス主義理論の日本での紹介は、 マルクス主義再生のチャンスであったが、共産党が妨害してつぶした。 ネオマルクス主義が、中心的に論じた国家論は、 その後福祉国家研究の活性化につながったように思う。

社会科学研究の領域では、福祉国家が大きな研究テーマとなり、 活発に議論されたが、最近の共産党は「福祉国家」という言葉を 一切使用しない。昔は、福祉国家とは、資本主義を美化する修正主義、といっていたが、最近はそれも言わない。

また、社会科学・政治でも、大きな政府か小さな政府か、という選択の問題も大きな話題になっているが、今の共産党はこのテーマに応答できない。 共産党は、ネオマルクスを弾圧して以降、国家や政府論への見解を出せなくなっている。 

かつてはマルクス主義研究でも、国家独占資本主義として、 現代資本主義を把握していました。しかし、ソ連崩壊やレギュラシオン学派からの批判で、国家独占資本主義論、 特に全般的危機理論が崩壊しました。

それ以降、多くの党員学者が、福祉国家と言い出したように思います。
社会科学で、国家独占資本主義から福祉国家論への大転換があったように感じます。 実は、最近共産党は、国家独占資本主義という概念を全く使用しないようになっていますね。 科学的社会主義の中で、現代資本主義論が欠落状況になっています。

左翼知識人とマルクス主義

高橋博彦法政大学名誉教授は「左翼知識人の理論責任(1993年)」を主要な原因として、共産党によって査問・除籍されました。この問題の位置づけは、2点。

  • その時期は、共産党丸山眞男批判キャンペーンの真っ最中であり、共産党丸山眞男批判と高橋博彦査問・除籍は、宮本・不破の思惑において、連結しているというのが、私の判断です。なぜなら、丸山眞男『戦争責任論の盲点』は、天皇の戦争責任とともに、共産党の戦争責任を指摘し、共産党がその総括を公表すべきとする見解でした。高橋博彦『左翼知識人の理論責任』は、共産党を名指していなくとも、共産党知識人側の戦争責任と民衆側の戦争責任の存在を指摘した内容でした。宮本顕治が、異様なまでに過剰反応をして、丸山眞男批判キャンペーンを展開した心情と、高橋博彦除籍を強行した暴挙とは、一体の誤りでした。
  • 宮本顕治は、ユーロ・ジャポネコミュニズムが、スターリン批判に留まらず、レーニン批判に深化し、Democratic Centralism放棄に至ることを察知し、日本共産党崩壊の恐怖に打ち震えました。そこから、彼は、日本共産党の逆旋回を決断し、4連続粛清事件で、大量粛清をしました。その最初の粛清事件が「ネオ・マル粛清」です。それは、ユーロ・ジャポネコミュニズムの動向を支持し、党中央の見解と異なる理論を主張し始めたネオ・マルクス主義学者党員たちのほぼ全員を査問にかけ、除名・除籍し、離党に追い込みました。高橋博彦除籍は、その「ネオ・マル粛清」の一環です。

この粛清事件のもう一つの本質があります。それは、マルクス・レーニン主義理論=科学的社会主義理論とその歴史の解釈権は、絶対的真理の唯一の認識者・体現者である宮本顕治不破哲三のみが保有できるものであり、単なる学者党員風情が、厚かましくも、党中央見解と異なる独自の理論や歴史解釈を発表する党員権は、一切ないとするものです。それは、共産党議長・委員長・書記局長が、すべての学者党員、知識人党員の見解にたいする異端審問官であることを、日本共産党とはそういう体質の科学的社会主義政党であることを、党内外に公然と宣言した粛清行為でした。

論争無用の「科学的社会主義」

日本共産党中央委員会発行の『前衛』誌(1994年4月)に発表された足立正恒氏による「体制選択論への屈服と変節の証――高橋彦博著『左翼知識人の理論責任』がしめすもの」において「東欧革命」は「覇権主義」と「命令主義」の破綻による「歴史の逆流」にすぎなかったとする断定が下されている。

「東欧革命」に市民革命性を認める歴史把握が拒否されているのであるが、断定の根拠は日本共産党の決定文書であった。理論的実証的になされないこの断定は、研究者にたいし「東欧革命」の歴史的な把握に関して「市民革命」と書いた踏み絵を踏むように求める結果となっている。

社会党1992年 PKO法案審議。社会党PKO自衛隊とは別組織にすることを条件にPKO法案を受け入れようとし、自民・公明・民社(自公民)の3党は一度は文民による別組織を作ることで合意。

  • このままPKO法案はすんなり成立するかに見えたが、自民党の本心はあくまでも自衛隊によるPKOであった為、民社党公明党の同意を取り付けるとたちまち別組織案を反故とする。ただし民社党は、公明党を味方につけるため別組織案に合意しただけであり、本心は自民党と同じであった。以降社会党ではPKO法案そのものに反対な強硬派が主導権を握る展開に。
  • 一方、民社党公明党自民党と共に内閣信任決議を可決させるなど、実質的与党化を加速させる(自公民路線)。社会党は全衆議院議員の辞職まで打ちだしたものの、最終的には抵抗を諦めた。ただし、それを自ら敗北と認める事もまたなかったのである、

社会党1992年 第16回参議院選挙(7月26日投開票)。自民党の勝利に終わり、社会党・連合は大敗。

  • 社会党執行部は、改選議席を確保できたことのみに着目してまずまずの結果と強弁し敗北を認めなかったが、結局、自民党金丸信の失脚もあって田邊執行部は退陣。書記長の山花貞夫が後任の委員長となった。

民主党1992年3月25日 世界基督教統一神霊協会教祖、文鮮明が特例措置で14年ぶりに日本に入国。

  • 同年同月、金丸信は栃木県足利市山岡賢次の応援演説中に右翼の銃撃を受けるが、弾丸は全て外れ助かった。
  • 文鮮明はアメリカで脱税により1年以上の実刑判決を受けているため、それまで出入国管理及び難民認定法の規定で入国できなかったが、「北東アジアの平和を考える会」という国会議員の会合に出席する名目で田原隆法務大臣から上陸特別許可が下りた。法務省入国管理局が金丸から打診があったことを認めたため、金丸が法務省に対する政治的圧力をかけたのではとの疑惑を生んだ。同月31日、金丸は都内のホテルで文鮮明と会談。同年の埼玉県知事選挙では畑和の後継を巡り、公示直前で土屋義彦の支持を撤回し山口敏夫を担ぎ出そうとしたため反発を浴びた(結果として土屋は埼玉県知事に当選)。また金丸は首都機能移転の推進論者であったといい、反対派の石原慎太郎を強く批判している。

民主党1992年8月 朝日新聞の報道により東京佐川急便から金丸信への5億円のヤミ献金が発覚。

 

  • 同年8月27日に自民党本部で緊急記者会見を行い、副総裁職の辞任を表明し、事態の収拾を図った。しかしこの記者会見は、綿貫民輔幹事長の外遊中に行われただけでなく、竹下派経世会佐藤守良事務総長が独断で仕切って行われたものであった。当時、同党総務局長を務めていた野中広務はこの日、たまたま党本部に出勤していて金丸の緊急記者会見が行われることを知り、驚いて副総裁室に駆け込み、金丸と佐藤に「(綿貫)幹事長不在で、(副総裁の進退に関わる)記者会見をやるのはおかしいではないか。中止してもらいたい」と迫ったという。
  • しかし記者会見は行われ、宮澤喜一政権に大きな衝撃を与える事になる。佐川問題における竹下派内の対応は、裁判で徹底的に戦うことを主張した小沢一郎に対し、竹下側近の梶山静六は略式起訴での決着を主張するなど、二分する形に。小沢戦略なら論理は一貫しているが長期的な体力が必要で、党のイメージダウンも長く続くことになり、梶山戦略は短期で決着がつくように見えた。結局対応に小沢、梶山の二股をかけたことにより両者の対立は決定的なものになり、派閥は分裂へと進んでゆく。
  • 東京地方検察庁特別捜査部は金丸に事情聴取のための出頭を求めたが、金丸はこの要請に応じずに政治資金規正法違反を認める上申書を提出するにとどまった。結局、東京地検は金丸に事情聴取せず、1992年9月28日に同法違反で略式起訴した。翌29日に金丸は東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。逮捕もなく事情聴取すらせず、5億円の賄賂に対するわずか罰金20万円というこの決着に、地検は国民から凄まじい批判を受け、検察庁の表札にはペンキがかけられた。当時、札幌高等検察庁検事長だった佐藤道夫が『朝日新聞』に検察の対応を批判する読者投稿をし、異例ともいえる身内の検察からも批判的な意見が公にでた。刑罰の軽さに批判が大きく、こうした世論の反発の強さから、金丸は10月14日に衆議院議員を辞職、竹下派会長も辞任することとなる。
  • 一方、東京国税局は、金丸の妻が死亡した際に受け取った遺産に着目、日本債券信用銀行日債銀。現あおぞら銀行)の割引金融債「ワリシン」の一部が申告されていないという事実を突き止めた(日債銀内では、金丸を“蟷螂紳士”のコードネームで呼び、申告漏れに協力していた)。1993年3月6日、東京地検は金丸本人と秘書を任意に呼び出して聴取を行い、同日脱税の容疑で逮捕。後に自宅へ家宅捜索を行ったところ、数十億の不正蓄財が発覚。捜索の中、時価1千万円相当の金塊が発見された。“金丸が訪朝の際、金日成から受領した無刻印のもの”と風評されたが、実際には刻印のあるフォーナイン(純度99.99%の金)であったとされる(朝日新聞記者の村山治『特捜検察VS金融権力』)。
  • 逮捕されて2年後あたりから金丸の体調は持病の糖尿病により悪化し、左目は白内障によりほぼ失明しながらも、本人は最後まで裁判を続けるつもりで月に1度から2度、裁判のために甲府市から東京地方裁判所へ通っていた。しかし、金丸のあまりの体調の悪化を心配する家族の申し出により、1996年3月に裁判は停止し、その1週間後の28日に金丸は脳梗塞で死去。

 

民主党1993年〜1994年 政治改革四法を巡る攻防 

  • 1980年代の後半からリクルート事件などを契機として政治とカネのあり方が問われ始めると、小沢一郎後藤田正晴らを中心に自民党内の一部で小選挙区制と政党交付金の導入を主張する政治改革の機運が高まっていった。これには政権交代可能な二大政党制を実現させ「中選挙区制によって馴れ合いに陥っていた(小沢談)」55年体制を打破するという目的があった。
  • 小選挙区制への移行は短期的には最大政党の自民党に有利なものであったため、野党は一斉にこれに反発。一方で自民党内でも、将来的に政権から転落する可能性が高まることや特定団体からの組織支援効果が薄まることなどから反対論が相次ぎ、海部内閣では政治改革四法は廃案に追い込まれた。
  • 1993年、宮澤内閣でも法案が否決されるに至って党内の対立は決定的となり、小沢・羽田孜岡田克也ら改革推進派は内閣不信任案に賛成票を投じて自民党を離党。
  • 首相の宮澤喜一衆議院を解散して第40回衆議院議員総選挙に踏み切るも、自民党過半数を割って政権から転落。この選挙では枝野幸男前原誠司野田佳彦小沢鋭仁ら、後に民主党の主要メンバーとなる議員が政治改革を訴えて日本新党から多数初当選を果たしている。
  • この選挙の結果、小沢・羽田らは、8党派連立による非自民・非共産連立政権を樹立、政治改革四法を成立させた。しかしその後は政党間による対立が表面化し、約1年でこの連立政権自体は崩壊してしまう。 

民主党社会党1993年7月 第40回総選挙。新党ブームに埋没し改選前の136議席から70議席議席をほぼ半減させる。

  • 社会党の有力支持母体であった連合は政権交代を重視し、加盟産別労組の一部は、これを阻害する社会党護憲派・左派候補を露骨に排除する「選別推薦」を行い、新党候補などに票を回した。この「選別推薦」により連合の推薦を受けられなかった議員には、元党首の土井や岩垂寿喜男や上田哲がいる。なお、後に民主党都議会議員となった真木茂は、選別の第一次案を自分が作ったと書いている。
  • 特に都市部では、東京都で11議席から1議席に激減するなど、土井ブームで得た議席を失い、55年体制以来最低の議席数となった。長年の宿敵であった自民党が大敗した選挙であるにも関わらず、社会党は却ってその存在感を失うこととなり、後のことを考えればこれが社会党にとっての"終わりの始まり”となる。
  • 総選挙後に非自民・非共産連立政権の細川内閣に与党として参加。社会党は与党第1党ではあったものの、総選挙で一人負けの状態(他党は共産党が1議席を減らした他は、自民党も含めて全党が現状維持か議席増)だったため首相を出すことができなかったが、一方で無視できるほど力は小さくないという、連立与党内でも微妙な立場となった。閣僚人事においても、主要閣僚は新生党公明党日本新党等、細川護熙をはじめ羽田孜小沢一郎市川雄一ら旧与党内の実力者に独占された。 
  • 1993年7月の第40回衆議院議員総選挙で自民党過半数を割り、1993年8月、社会・新生・公明・日本新・民社・さきがけ・社民連民改連の8党派による細川内閣が発足すると民社党(元民主党)も初めて与党となった。民社党委員長の大内啓伍厚生大臣に就任し入閣。続く羽田内閣でも大内が厚相に留任したが、発足直後に社会党連立政権から離脱し、羽田内閣は少数与党政権に転落。わずか2ヶ月で退陣に追い込まれ、自社さ連立政権の村山内閣発足により10ヶ月で野党に戻った。

社会党1994年 小選挙区制導入に反対した一部議員や党員が離党し、新党護憲リベラル護憲新党あかつきを結成したことで党の弱体化に拍車がかかる(96年には社民党離党者が新社会党も結成)。

  • 細川首相退陣後、新生党公明党との対立から社会党の連立離脱も取りざたされたが、結局は同じ枠組みでの羽田孜政権参加に合意した。しかし首班選挙直後、日本社会党を除く与党各派の統一会派「改新」の結成呼びかけに反発した村山富市委員長(総選挙敗北の責任を取って山花が委員長を辞任したのを承け93年9月に就任)は羽田連立内閣から離脱を決め、羽田政権が少数与党として発足する。
  • 同年6月 羽田連立与党は自民党海部俊樹元首相を首班選に擁立、自民党内の分裂を狙ったが、自民党は村山委員長を首班とする自社連立政権樹立を決定。羽田連立与党との連携を重視する社会党議員も、自党党首首班には抗しきれず、海部に投じた議員はごくわずかにとどまった。政権奪回に執念を燃やす自民党も同様で、決選投票の結果村山の首班指名が決定し、自由民主党新党さきがけと連立した、自社さ政権)である村山政権が発足。
  • 村山首相は、就任直後の国会演説で、安保条約肯定、原発肯定、自衛隊合憲など、旧来の党路線の180度の変更を一方的に宣言(後に1994年9月3日開催第61回臨時党大会で追認)。その結果社会党の求心力はさらに大きく低下し、その後分党・解党をめぐる論議が本格化。

民主党社会党1994年12月 新進党結党により衆議院で第2党から第3党に転落。また消費税の税率を3%から5%にする事を閣議決定

社会党1995年 第17回参議院選挙。16議席しか獲得できず、2年前の衆議院選挙に続く大敗北に終わる。

社会党1996年1月 村山内閣総辞職。同月社会民主党に改称。3月には新党として第1回大会を開催、日本社会党の名称は消滅した。

「排除の論理」と民主党(1996年〜1998年)

次期総選挙に向け、危機感を強めた新党さきがけ代表幹事の鳩山由紀夫ら(内閣不信任案には反対)は、社会党(のち社会民主党)との「社さ新党」を模索。当初は船田元(新進)との「鳩船新党」を検討していたが、船田は保守政党に固執したため断念を余儀なくされる。

その後鳩山は、薬害エイズ問題の対応で世論の支持を集めた厚生大臣菅直人(さきがけ)や前北海道知事の横路孝弘とと接触を重ね、新党結成で合意。鳩山と実弟である鳩山邦夫(新進)、菅直人岡崎トミ子(横路の代理、社民)の4名が「民主党設立委員会」結成の呼びかけ人となった。

しかし鳩山邦夫は社民・さきがけ全体の新党移行を想定しつつも、自社さ政権の中心人物である元首相の村山富市、さきがけ代表の武村正義の参加拒否を主張し、鳩山由紀夫も同調。この対応が「排除の論理」と言われ物議を醸し、その年の流行語大賞にも選ばれる事になったのである。
鳩山由紀夫は自社さ政権成立後、さきがけの代表幹事となって政権を支えた経緯があり、この主張は矛盾したものであった。

とはいえ、さきがけのほとんどの議員(15人)と、社民党の約半数の議員(35人)が参加。両院合わせて57名での船出であり「官僚依存の利権政治との決別」「地域主権社会の実現」を標榜した。そして新党に移行せず存続した母体の社さ両党は1996年衆院選で惨敗を喫したため、実体としてはこの時結成された民主党が「社さ新党」となる。他に山花貞夫海江田万里が所属した市民リーグは解散して参加、新進党からは鳩山邦夫が参加した。数の上では社民党が圧倒的多数だったが、長老議員が多く、党運営はさきがけの議員を中心に、社民党出身の中堅・若手議員が加わって担われた。

排除の論理のしこりが残った上に中曽根康弘に「きれいごとだらけで中身がなくソフトクリームのようにすぐ解ける。」と酷評されるなど船出は必ずしも順調なものではなかった。また、結成当初は第2次橋本内閣への対応が定まっておらず『与党(よ党)でも野党(や党)でもない「ゆ党」』と評されている。しかも菅は第1次橋本内閣で閣僚であったため内閣への協力姿勢を示していた。なお、結成から15年(2011年)までに政策を実現して解散する『時限政党』を標榜していた。

民主党共産党社会党1996年 第41回総選挙。支持労組の大半が民主党支持に転じたが、地方組織のかなりの部分は社民党に残った。

これまでの投稿で指摘してきた「自信をなくした大人達が自らの言葉で語らなくなっていく時期」に該当。そして日本の少年少女達は「自らの五感で感じ得るもの」「金で売買可能なもの」しか信じなくなっていく…

共産党1997年 第21回党大会

  • 無党派と共同して21世紀の早い時期に民主連合政府を実現するとした。

共産党1998年 参議院選挙で15議席を獲得。非改選議員とあわせ予算を伴う法案の提出権を初めて獲得。

  • 1990年代前半の「政治改革四法」には強く反対したが、結局成立し小選挙区制が導入された。
  • 小選挙区での共産党単独候補の当選はきわめて困難なため、苦境に立たされることも予想されたが、1990年代後半には日本社会党からの離反層を取り込み、また集合離散の続いた他党候補者の濫立も有利に作用して一時的に党勢が回復。
  • しかしその後は小選挙区制の定着による二大政党制指向の強まりや総議員定数の削減、日本周辺の国際情勢も相まって国会の議席が後退。『しんぶん赤旗』の発行部数もピーク時の半分ほどにまで減少。
  • 共産党の全選挙区擁立戦術は、与党である自民党公明党選挙協力体制が緊密化するにつれて、結果的に野党間の候補共倒れ、連立与党候補の過半数に満たない得票率での当選という結果を激増させていく。また、共産党候補の供託金没収選挙区も大幅に増え、党の財政を圧迫していく(このため党内でも政党として政党交付金を受け取るべきであるとの意見が党大会前の公開討論の中でも主張されるようになっている)。この間に日本社会党新進党に代わり民主党が野党第1党となっていくのである。

民主党1998年4月院内会派民主友愛太陽国民連合」(民友連)に参加していた民主党民政党新党友愛民主改革連合が合流して民主党(1998年〜2016年)を結成。

民主党2000年6月 第42回衆議院議員総選挙

  • 定数削減があったにも関わらず民主党(1996年〜1998年)は改選前の95議席を大きく上回る127議席を獲得、二大政党時代の到来を宣言した。とはいえ、自公保政権は引き続き安定多数を維持しており、与党を過半数割れに追い込むという狙いは達せられなかった。
  • この選挙では、現行消費税の年金目的税化、扶養控除の廃止と児童手当の金額倍増などが公約に盛り込まれた。

民主党2001年4月 小泉内閣発足

  • 公共事業改革や分権改革を推し進める聖域なき構造改革を掲げたが、これらの改革は民主党(1996年〜1998年)の政策と共通するものを含んでいたため、鳩山は小泉に対し「協力することもやぶさかではない」という姿勢も見せ始めるようになる。以後、小沢が代表に就任する2006年までは、改革の速度や手法を競う「対案路線」で与党と対峙。
  • 同年7月の第19回参院選では小泉旋風の前に伸び悩んだものの、4議席増の26議席獲得し、引き続き党勢を拡大させた。選挙公約には、道路特定財源一般財源化、天下り禁止法の制定、全てのダム建設の一時凍結などが新たに盛り込まれた。
  • 2002年9月、鳩山が代表に再選される。これに関連して中野寛成を幹事長に起用する論功行賞人事が党内の求心力の低下を招き、自由党との統一会派構想の責任を取る形で12月には辞任に追い込まれた。同月、岡田を破った菅が代表に返り咲く。

民主党2003年9月 来る総選挙を前に民主党(1996年〜1998年)執行部が小沢一郎率いる自由党との合流(民由合併)合併に踏み切ることを正式に決断する。

  • 枝野ら強硬に反対を唱える声もあったものの、役員・要綱・党名を据え置くという民主党による事実上の吸収合併という形で決着を見せた。この民由合併により民主党は両院合わせて204人(衆院137・参院67)を擁するまでに党勢を拡大させる。
  • 同年11月、日本初のマニフェスト選挙となった第43回総選挙では、明確に「政権交代」を打ち出し、改選前を40議席上回る177議席を獲得、大きく躍進する。比例区の得票数では自民党を上回った。高速道路の原則無料化、年金制度の一元化、衆議院の定数80削減などがこの選挙から新たに政権公約に加えられた。
  • 2004年、年金制度改革を巡るいわゆる「年金国会」において菅の納付記録に未納期間があることが判明し、代表辞任へと追い込まれた(後に社会保険庁職員のミスよるものであったことが明らかとなり、厚生労働省が謝罪した)菅の後継にいったんは小沢一郎が内定したが、小沢にも年金未納が発覚し、出馬辞退に追い込まれた。
  • 同年5月、新代表に若手の筆頭格であった岡田克也を無投票で選出。間を置かず7月の第20回参院選を迎えた。発足間もない新体制に一部不安視する声もあったが、50議席を獲得し、国政選挙において初めて自民党(49議席)に勝利を収める。この時期から政権選択選挙という言葉が急速に現実味を帯び始めるようになった。

民主党共産党2005年 第44回衆議院議員総選挙

  • 2005年8月、首相の小泉が郵政民営化の是非を問うとして衆議院を解散(郵政解散)。自民党は民営化に反対したいわゆる造反議員との分裂選挙に突入。選挙戦の序盤は「漁夫の利」などとして民主党に楽観的な論評も飛び交い、政権交代を確実視して伝える一部海外メディアもあった。

  • 郵政民営化の是非を争点に選挙戦を展開した与党に対し、民主党郵貯簡保の徹底的な縮小と郵便事業への民間事業者参入促進など2003年以来党が掲げてきた改革案で応えた。また、郵政問題よりも重要な争点として、利益誘導型政治・官僚支配からの脱却、公務員人件費の2割削減、18兆円に及ぶ税源の地方への委譲、大型公共事業の見直しなどを改めて提示し「徹底した無駄削減」と「コンクリートからヒトへ」による大胆な社会構造の変革を訴えた。しかし「造反議員」と「刺客候補」の対決構図が連日のように報道されていく中で政策論争は次第に世論の関心を失い、民主党小泉劇場の前に埋没。結局、改選前を大きく下回る113議席に終わる。岡田は即日代表辞任の意向を表明した。

  • 共産党が47年ぶりに全選挙区擁立(推薦を含む)を中止したため、25選挙区の「共産空白区」が出てきた。「共産空白区」では与党候補と野党候補が大差の付く選挙区が多く、選挙への影響は小さかった。
  • 共産党小選挙区候補者全275名のうち、223名が10%の得票に届かず供託金を没収された。全300選挙区に候補者を立て235選挙区で没収された前回とさほど変わらない結果である。共産党自身については、得票数の減少に歯止めがかかった。投票率が上がったため得票率は下がっている。

民主党2006年2月 堀江メール問題
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  • 岡田の党代表辞任後、後継には菅直人前原誠司が名乗りを上げた。当初は菅有利と見られていたが、最終演説で投票議員の心を掴んだ前原が僅か2票差で選出。前原は「脱労組」「世代交代」を打ち出し、党の再建に着手。当時43歳の前原は清新なイメージを与え、耐震偽装問題で馬淵澄夫による証人喚問が世論の喝采を浴びるなど、新生民主党は順調な出直しを図ったかに見えた。
  • しかし堀江メール問題が起きると、一転して民主党は激しい世論の批判を浴びることになる。情報の真偽を巡って執行部の対応が後手に回ったことも問題を長引かせる要因となり、翌3月にはついに前原が辞任に追い込まれた。これにより、民主党は解党の噂すら囁かれる、危機的な状況に陥ってしまう。

民主党2006年4月 小沢一郎が菅を破り、新代表に就任。小沢は菅を代表代行に指名し、幹事長を務める鳩山と共に「トロイカ体制」と言われる挙党一致体制を敷いた。

  • 小沢体制ではまず小泉構造改革を否定するという大きな政策的転換が図られた。それまで民主党の方針であった経済成長路線は影を潜め、子ども手当ての導入、農家への戸別所得補償といった多額の財政出動を伴う政策が打ち出された。更に2005年総選挙時に掲げていた年金目的消費税を凍結するなど、財源に関して甘い見通しが立てられたのもこの時期である。
  • 地方組織が磐石ではない民主党にあって、小沢は各議員・候補に徹底した地元活動を求めるなど、地盤の強化にも力を注いだ。2007年4月の統一地方選挙を勝利し、7月の第21回参院選でも60議席獲得と大勝。ついに参議院与野党を逆転させる。
  • 小沢は参議院での多数を武器に与党に激しく抵抗する「対立軸路線」を敷き、政権を追い込む戦術を選択した。一方で11月、小沢はねじれ国会の運営に行き詰った福田康夫大連立構想を提案。しかし、予てから「健全な二大政党制」を望んでいた民主党役員会では小沢を除く全ての議員がこれに反対、世論も同様の反応を示した。その後、民主党は2008年のガソリン国会などで抵抗を続け、ねじれ国会の中で有利に戦いを進めた。この頃には首都圏の政党支持率では自民党を圧倒するようになった。

共産党2006年 国政選挙

4月と10月に計三選挙区で行われた衆議院議員補欠選挙で、いずれも独自の公認候補を擁立したが、すべての選挙区で落選、供託金も没収されている。

共産党2007年4月 参議院議員補欠選挙

  • 福島県選挙区で公認候補を、沖縄県選挙区では、民主党社民党などと共同推薦候補を擁立したが、いずれも落選、福島県では供託金を没収されている。
  • 国政選挙で単独での小選挙区当選は困難だが、その一方で市町村合併にともなう各地の地方選挙では着実に当選者を出し、政党所属の地方議員の総数では公明党自民党に次いで第3党の位置を保っている。また他党との協力については東京都多摩地区や青森県沖縄県などで一定の共闘が実現している。国会内では、2007年9月4日に野党の国対委員長会談に復帰し、他の野党との共闘を強化することになった。

共産党2007年9月8日 第5回中央委員会総会

  • 次の総選挙から、すべての小選挙区に候補を擁立するのではなく、その小選挙区での比例区の得票率が8%以上の選挙区に擁立する選挙区を絞り込む(ただし、各都道府県で最低1人は候補の擁立を目指す)方針を幹部会が提案。9月9日、中央委員会はこの提案に賛成し決定した。
  • この背景には、得票率が10%を割ると供託金が没収されることによって、党財政の悪化の原因となっていることがあるとされる。

共産党2008年9月 麻生内閣発足

  • これを受けて総選挙への総決起体制として第7回中央委員会総会を開催。
  • 席上で志位委員長は「働く貧困層」の解消など、自党の語ってきた問題が争点になっていること、自公政権が行き詰まっていること、しかし民主党自民党の政治悪をただす立場にはないから、共産党の躍進が必要であることなどを述べた。
  • また「民主連合政府」が求められていることを強調したが、現時点で他党との協力はないという認識は変わっていない。ただし、国会では是々非々で「問題ごとに協力していく」としている。また、総選挙体制のため中央委員会は、2009年1月に予定していた党大会の延期を決定。

日本共産党2008年 ニコニコ動画に党公式チャンネルを設置

  • この頃からツイッターfacebookに党公式アカウントを取得するなど、このころからネット選挙を意識した試みを行う様になった。

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民主党2009年3月 西松献金問題で小沢の公設第一秘書が逮捕・起訴される。

http://q.hatena.ne.jp/enquetegraph?qid=1236650952&qnum=2&h=140&w=480

  • 民主党(1998年〜2016年)の支持率は軒並み低下。迫る総選挙への影響を避けるためとして5月、小沢は代表を辞任。
  • 次期総理候補を決める代表選挙として大きな注目を集める中、小沢に近い議員らが推す鳩山と岡田が争った。消費税率見直しは4年間議論もしないとした鳩山と、議論は行うべきだとした岡田であったが、参院票の取り込みで優勢に立った鳩山が接戦を制した。初めて表面化した親小沢と非小沢との対立構図であったが、選挙後は岡田が幹事長職を引き受け、選挙後の融和を図れた。小沢の献金問題で一時的に落ち込んでいた政党支持率献金問題の表面化前よりも上昇し、自民党に拮抗する調査も出始めるようになった。

民主党日本共産党2009年 第45回衆議院議員総選挙(8月30日投開票)

  • 7月13日、首相の麻生太郎衆議院を解散する意向を表明。この月、NHKの全国世論調査で初めて民主党政党支持率自民党を逆転。 

  • 7月21日、衆議院が解散され、事実上の任期満了選挙に突入する。鳩山はこの総選挙を「政権交代選挙」と銘打ち、連立をみすえる社民党国民新党と合わせて過半数議席確保を目指した。マニフェストには、前回の参院選で訴えた内容とほぼ変わらぬ政策が盛り込まれた。各種世論調査では終始民主党の圧倒的優勢が伝えられた。結果、絶対安定多数を超える308議席を確保して、結党以来の悲願であった政権交代をついに実現する。308議席は一つの党が獲得した議席数としては戦後最多であった。また比例区の得票も2984万4799票を獲得し、日本の選挙史上で政党名の得票としては過去最高を記録した。

  • 一方共産党小選挙区の候補を大幅に減らした。これは野党共闘目的ではなく、小選挙区では候補者を立てるだけの力がないところがあるという判断から、比例区と支持基盤のある小選挙区に候補を絞り込もうとする方針転換である。代わりに、比例区との重複立候補を増やしたので、比例での候補者数は増えた。
  • また大連立騒動や小沢・鳩山の献金問題などから改めて民主党自民党と「同質・同類の党」と批判し、明確に共闘を否定。さらに2009年6月5日に志位委員長は「どちらが政権の担い手になるかの選択ではなく、21世紀の日本の「進むべき道」の選択が問われていること、その「旗印」を示せる党は日本共産党をおいてほかになく」「「二大政党」の競い合いによる暗黒政治への逆行を許さない一番たしかな力は日本共産党をのばすこと」と述べ、民主党による政権交代は無意味どころか、暗黒政治への逆行になるとの見解を示した。
  • しかし同年7月には東京都議会議員選挙で44年ぶりに議席が1桁(8議席)に落ち込んだ結果を踏まえ、若干路線を修正。民主党内の改憲論や衆院比例定数削減方針に反対する一方で「一致点での協力を追求」と明記。労働者派遣法や障害者自立支援法の抜本改正、後期高齢者医療制度の撤廃、農家への所得補償、米軍基地の縮小・撤去などを挙げ、「(自公両党による)暗黒政治への逆行を許さない」と強調し、民主党を「暗黒政治」の批判対象から外した。
  • 一方、自民党松浪健四郎は、第45回総選挙において、共産党の独自候補擁立が自党有利になるとの見解を示した。選挙区によっては、自民党が直接共産党に擁立を働きかけた事例もある。結果として議席数は現状維持であり得票率は郵政選挙の7.25%から7.03%に後退したものの、得票数では491万9000票から494万4000票と増加。
  • 選挙後発足した民主党を中心とする非自民非共産連立政権に対しては「建設的野党」として「良いことには協力、悪いことにはきっぱり反対、問題点はただす」と是々非々の立場を貫くと主張している。

民主党2009年9月16日〜2010年6月8日 鳩山由紀夫内閣

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  • 第172回国会(2009年9月16日開催)により正式に発足し、社民党国民新党との連立政権が誕生。党幹事長に小沢、内閣官房長官には平野博文が起用された。
  • 鳩山内閣は当初、70%を超す高い支持率を得てスタートした。CO2削減目標の引き上げ、自衛隊インド洋派遣の撤退、公共事業の見直しなどの政策を推し進めるが、同時に幹事長の小沢と鳩山自身に政治資金収支報告書の虚偽記載問題が再燃する。「政治とカネ」を巡る不信に加え、鳩山よりも小沢に実質的な権力が集中する「二重権力構造」や、選挙支援と引き換えに予算配分を行う小沢の政治手法などが党内外で問題視されるようになると、内閣支持率は一転、下降の一途を辿ることとなる。
  • そんな中、行政の無駄をあぶりだすことを目的に事業仕分けが行われ、これが世論から概ね好意的な評価を受ける。しかし子ども手当などの新たな歳出や、不況による税収落ち込みもあって平成22年度予算では過去最大となる44兆円の国債発行をするに至った。
  • 2010年以降、小沢をはじめとする所属議員の政治資金問題で世論の反発が強まった。また、鳩山自身の献金問題も、国会などで厳しい追及を受けた。ただ、これらの「政治とカネ」問題そのものは、政権を揺るがすまでには至らなかった。
  • 内閣にとって決定的な打撃となったのは、前年から徐々にクローズアップされてきたアメリカ軍の普天間基地移設問題であった。移設先を「最低でも県外が期待される」と総選挙時に明言していた鳩山は、沖縄及びアメリカが合意していた辺野古沿岸部へ移設する現行案を白紙に戻し、県外・国外移設の道を探っていた。しかし5月、移設先を見つけることができず、これを断念。失望した沖縄が現行案の辺野古沿岸部案をも受け入れ撤回する事態に発展し、移設問題は大きく後退してしまう(この際、県外移設を求めた社民党が連立を離脱した)。
  • このほか、野党時代の民主党の主張と、与党としての民主党の能力や政策との乖離が徐々に明らかになるにつれ、鳩山内閣への国民の不信はピークに達し、来る参議院選挙では20議席台に留まるという衝撃的な事前調査も明らかとなる。鳩山は事態打開のため、一連の問題の責任を取る形で首相を辞任。

民主党2010年6月8日〜2011年8月26日 菅直人内閣

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  • 後継の代表選挙は、まず小沢の影響力排除を目指す副総理・財務大臣菅直人がいち早く出馬を決め、小沢と距離を置く議員から支持を受けた。これに対し党内最大勢力を誇る小沢グループは中立派として出馬した樽床伸二を支持した。6月4日に行われた両院議員総会では、小沢グループ以外の票を固めた菅が圧勝した。この代表選では小沢の処遇を巡って党を二分する激しい攻防が繰り広げられ、党内には深刻な対立が残ることとなった。
  • 菅内閣は発足にあたり、幹事長に枝野、内閣官房長官仙谷由人など、主要ポストにいずれも非小沢の急先鋒を据えた。政策面では「強い経済、強い財政、強い社会保障」を一体的に実現させていく「第三の道」を打ち出し、財政再建と雇用創出を最大の国家的課題とする方針を表明。併せて消費税率見直し議論の提起、経済効果の薄い一部マニフェストの修正に着手するなど、鳩山内閣の政策方針からは大きな転換を図った。発足当初は、60%を超える高い内閣支持率を記録した。
  • しかし、選挙戦での菅の消費税を巡る発言が二転三転し、2010年7月11日の第22回参院選では現有の54議席から失って44議席に下がり、参院過半数を失うねじれ状態に陥った。小沢グループ参院選敗北の責任は消費税議論を提起した菅にあるとして、総理退陣や枝野の幹事長更迭を迫った。しかし国民の7割超は菅の続投を支持し、これを背景に菅も応じる姿勢を見せなかった。
  • こうした中で迎えた9月の代表選挙に小沢が出馬。小沢による事実上の倒閣宣言であった。財政再建マニフェスト一部修正を目指す菅陣営には菅・前原・野田の各グループに加え岡田が、消費税議論封印とマニフェスト堅持を掲げる小沢陣営には小沢・鳩山・羽田・樽床の各グループが参集し、深刻な党内抗争が始まった。新聞主要四紙が揃って小沢・鳩山を批判し、世論調査でも菅支持が小沢支持の4倍超を記録するなど、戦いは次第に菅優勢へと傾いていった。9月14日、地方議員票と党員・サポーター票で大差を付けた菅が圧勝で再選された。幹事長には外務大臣から転じた岡田が再登板となり、閣僚からは小沢グループの議員は一掃された。この戦いにより党内の亀裂は更に深刻化することとなった。
  • 尖閣諸島中国漁船衝突事件の対応を巡り内閣官房長官の仙谷と国土交通大臣馬淵澄夫に対する問責決議が参院で可決されるなど政局は混乱。これを受けた内閣改造により、2011年1月14日に菅第2次改造内閣が成立。3月11日には東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生し、政権は震災復興と福島原発事故の対応に追われた。
  • 6月1日、「菅首相では災害復旧と復興、原発事故の処理に対応できない」との理由で自民党などが提出する内閣不信任決議案に対し、小沢に近い50人余りの議員が同調する意向を示したが、翌2日の採決前に開かれた党代議士会で菅が辞意とも取れる発言をしたことで小沢グループは自主投票となり、不信任案は否決された。菅はその後、福島第一原発事故の対応にメドがつくまで続投する意欲を示したが、政府・党執行部からも菅への退陣要求が出始めた。
  • 8月26日に菅が退陣を正式に表明したため、民主党代表選が行われ、野田佳彦海江田万里前原誠司鹿野道彦、・馬淵澄夫の5人が出馬した。代表選では小沢と鳩山のグループから支援を受けた海江田が先行し、前原と野田が追う展開となった[20]。第一回投票では海江田が最多の143票を得るが過半数には至らず、野田との決選投票では前原・鹿野陣営の支持を集めた野田が勝利し、第9代党代表に選出された。

共産党社会党2010年 第22回参議院議員通常選挙

  • 日本共産党は民国連立政権の普天間基地移設問題における違約や、菅直人の消費税増税発言などを厳しく批判。しかし、議席を伸ばしたのはみんなの党自民党で、共産党は比例のみの3議席に留まり、また得票数・率共に減らした。その結果、敗北を認める声明を出し「党内外の方々のご意見・ご批判に真摯に耳を傾け、掘り下げた自己検討をおこなう決意」を表明。
  • さらに9月25日〜9月27日に行われた第2回中央委員会総会(2中総)で、志位委員長は参院選での後退を詫び、党員数は40万を維持しているものの、高齢化が進んでいること、党費納入率が62%に留まっているなどのデータを挙げ、党勢の衰退を認めた。その上で、「五つの挑戦」を打ち出し、次期総選挙で650万票を目標とすることを表明。
  • 従来40万人としていた党員数だったが、2012年5月24日、全国活動者会議で志位委員長が報告したところによると「実態のない党員(幽霊党員)」が9万人以上いたためすべて離党させ、2012年5月1日現在で党員数は31万8千人になったと報告。また、国政選挙での供託金の負担を、従来は党中央と地方組織で折半していたものを、6対4に改め地方組織の負担を減らした。
  • 一方この選挙をもって渕上貞雄が引退し、社会民主党社会党所属経験者の国会議員はいなくなった。

共産党2011年3月11日 東日本大震災発生

  • 組織的な被災地支援活動を行い、また岩手県宮城県福島県の被災3県の県議選では復興や原発ゼロを訴え、いずれも前回を上回る議席を獲得。

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民主党2011年8月30日〜2012年12月26日 野田佳彦内閣

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  • 第9代党代表に選出された野田は、2011年8月30日の衆参両院本会議内閣総理大臣指名選挙において第95代内閣総理大臣に指名された。代表選挙当時から消費税率を現行の5%から10%に引上げる消費増税を掲げてきたが、歳出削減が進んでないうえ、景気にも悪影響だとして小沢グループや連立を組む国民新党などから反対意見が噴出。この為に小沢とも良好な関係にある党参院会長の輿石東を『党内融和』の象徴として幹事長として起用(党参議院議員会長も兼務)し、挙党体制の構築に努めた。しかし、閣内では経産相鉢呂吉雄小沢グループから起用された国家公安委員長山岡賢次、防衛相一川保夫らに閣僚の資質が問われる問題が続出する。
  • 民主党議員の松木謙公(著書で2011年中の新党大地入党を示唆)らは、新党大地へ合流、新党大地・真民主を結党した。さらに12月28日、小沢に近い内山晃ら9人の衆議院議員が離党届を提出(認められず除籍処分)、新党きづなを結成。他にも離島が相次ぎ、2011年の間だけで民主党は14人の国会議員を失うことになった。
  • 2012年1月13日、内閣改造を行う(第1次改造)。今国会の最大の課題とする消費増税関連4法案を含む社会保障・税一体改革関連法案を国会で成立させるため、野党との協力関係構築と人心一新、体制強化を目的としたが、改造後も閣内外で問題が頻出。防衛相の田中直紀北朝鮮ミサイル問題に関する失言で、国交相前田武志公職選挙法に抵触する可能性がある問題で、閣僚としての資質が問われ、4月10日に参議院で問責決議案が可決された。
  • また、社会保障・税一体改革関連法案が閣議決定されたことに抗議し政府・党の要職を辞める者が相次いだ。連立を組む国民新党社会保障・税一体改革関連法案が閣議決定された事で連立離脱派と維持派が対立、離脱派で代表の亀井静香らが離党する(金融・郵政改革担当大臣の自見庄三郎が代表となり、連立維持)など党内外で混乱を露呈する事態となった。5月には中国の一等書記官によるスパイ疑惑が政治問題化したこともあり、組閣からわずか5ヶ月余りで、内閣再改造(第2次改造)を行う事態となる。
  • 社会保障・税一体改革関連法案の採決は6月26日に衆議院本会議で行われ、民主党国民新党自民党公明党たちあがれ日本などの賛成多数で可決された。消費増税法案の採決では反対の意を表明していた鳩山、小沢以下57名が反対票を投じ、原口一博小沢鋭仁ら13名が棄権、2名が欠席(病欠した元首相の羽田孜を除く)するなど72名の造反者を党内から出した。
  • 野田は造反者に対して除籍も含めた厳しい処分方針を示唆する。一方で輿石は党内融和と分裂回避を重視する観点から小沢と数回に渡って会談を持つも、消費増税法案の撤回を求める小沢と分裂を避けたい輿石の議論は平行線をたどった。小沢が離党と並んで検討していた党籍を残したまま会派を離脱する案は野田が拒否。院内会派離脱願が受理される可能性がなくなり、7月1日午後に小沢は記者に離党の意思を表明した。
  • 2日、小沢ら国会議員52名(後に2人が撤回し50名)が離党届を提出。3日、党執行部は離党届を提出した小沢ら衆院議員37名を除籍処分とする方針を決定。鳩山は党員資格停止6か月、衆院議員18名には党員資格停止2か月の処分とする方針を決定した。棄権・欠席した衆院議員15名についてはそれぞれ常任幹事会名の厳重注意、幹事長名での注意とした。党倫理委員会での審査を経て、9日、党執行部は小沢ら衆院議員37名の除籍を正式決定。一方鳩山の党員資格停止期間は短縮された。
  • 小沢グループの離脱後も党分裂は収まらず、17日には谷岡郁子参院議員3名が反原発掲げ「みどりの風」を立ち上げる。消費税増税関連法案の採決以後の離党者が55人となり[28]、参議院では第2会派との差が2人まで縮まった。
  • 8月、社会保障・税一体改革関連法案の参院採決が迫り、除籍された小沢らが結成した国民の生活が第一を含む野党会派が、消費増税法案採決を阻止すべく野田内閣に対する内閣不信任決議案を上程。採決前日の8日、野田は、自民党総裁谷垣と公明党代表山口那津男を交えた党首会談で、衆院解散について「近いうちに国民に信を問う」こと、消費増税法案に賛成することで合意。9日、一部を除く自民・公明の各衆院議員が採決を欠席し、内閣不信任案は否決された。
  • しかし、内閣不信任案や消費増税法案は民主党内の造反が相次ぎ、一部議員は除籍された。29日に参院で上程された野田首相への問責決議案は、一転自民党が賛成に回り可決された。9月、大阪維新の会が国政進出を目指し、日本維新の会を結成。党内からも松野頼久らが離党届を提出し合流した。執行部は各議員の離党届を受理せず除籍処分としたが、離党者の増加に歯止めがかからなくなった。
  • 10日、党代表選挙が告示され、一時は再選を狙う野田に対し、総選挙での惨敗を危惧する勢力から環境相細野豪志を候補に擁立する動きを見せたが断念、最終的に野田と元農相・赤松広隆、元総務相・原口、前農相・鹿野が立候補し、野田が1回目の投票で総投票数の過半数となる818ポイントを獲得し、再選された。
  • 10月1日には野田は内閣改造を実施した。野田と代表選で戦った原口・赤松・鹿野の3グループから登用はなく、反発する声や離党者が相次ぐ。しかも3度目となった内閣改造も法相の田中慶秋が早期辞任(事実上の更迭)に追い込まれる。また、野田が自民党前総裁の谷垣らと交わした「近いうちに解散する」という約束をめぐり、解散時期について自民・公明両党と対立。
  • 各社世論調査内閣支持率が軒並み低迷し、求心力を失っていた野田は、日本維新の会などの「第三極」の選挙準備が整う前に解散・総選挙を行うのが得策と判断。11月に入ると自民・公明両党の求めに応じる形で、年内に解散・総選挙を行う意向を明らかにした。
  • 野田は、衆院議員定数削減やTPP交渉参加推進などを党公約として選挙戦に打って出る構えを見せたが、党内では選挙を行えば惨敗必至として反対意見が相次ぐ。しかし11月14日、国家基本政策委員会合同審査会における党首討論自由民主党総裁安倍晋三と対峙した野田は「(衆院議員定数削減法案への賛同の)御決断をいただくならば、私は今週末の16日に解散をしてもいいと思っております」と発言。これを受けて自民・公明両党も野田の提案を受け入れ、事実上16日の衆院解散が確定した。
  • この電撃的な解散決定を受けて、早期解散に反対していた党内から離党届を提出する国会議員が続出。その中には元環境相小沢鋭仁日本維新の会へ移籍)、元農相 山田正彦亀井静香と共に「反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党」結成)ら閣僚経験者もいた。結局この解散を前後しての離党者は11名、2009年9月の民主党政権誕生以後党を離党・除籍された衆参両議員はあわせて103名を数え、民主党は両院で少数与党に転落。

共産党2012年〜2014年 民主党社民党、生活の党など他の左派政党が軒並み不調に陥る中で、ほぼ共産党の一人勝ちの状況が続く。

民主党共産党2012年 第46回衆議院議員総選挙(12月16日投開票)

  • 民主党政権が行き詰まりを見せた2012年9月、安倍晋三自民党総裁に返り咲き、早期の首相復帰が確実となる。自民党は経済政策「アベノミクス」や安保政策などの政策を打ち出した。
  • 11月16日、衆議院は解散され、第46回総選挙が行われた。民主党の執行部は解散前後に離党届を提出した前議員を除籍処分とし、また党公認に際しては党の定める方針に従う誓約書に署名させ、従えない立候補予定者には公認を与えないと決定した。党創設者の一人で7月に消費増税法案に反対していた元首相の鳩山は、消費増税やTPP交渉推進などには従うことができず、総選挙への不出馬と政界引退を表明。

  • 12月4日公示・16日投開票の日程で行われた第46回総選挙において民主党は解散前の230議席を大きく下回る57議席と大きく後退。特に、前回の勝因となった小選挙区で軒並み敗北(獲得議席はわずか27)し、比例も30議席にとどまる記録的な大敗となった。野田内閣の閣僚では官房長官藤村修財務相城島光力総務相樽床伸二文科相田中眞紀子厚労相三井辨雄国家公安委員長小平忠正、金融相の中塚一宏と現憲法下で最多の7閣僚(国民新党で郵政改革相の下地幹郎を含め8閣僚)、さらに3人の首相補佐官、23人の副大臣政務官など政務三役が大量に落選。閣僚経験者でも元官房長官仙谷由人、元農水相鹿野道彦ら、多くの主要議員が落選した。前首相の菅、前衆院議長の横路、元経産相の海江田らは小選挙区では落選したが、比例重複により復活当選。他の党公認候補も苦戦を強いられ、小選挙区では第3位以下の得票数となる候補が続出し、供託金没収となる候補まで出る結果となった。この結果、有力政党としては珍しい参院議員が衆院議員を上回る党内構成となった。

  • 野田は大敗を受けて開票センターとなっていた都内ホテルで会見し「たいへん厳しい結果となった。同志を失ったことは痛恨の極み」とし「全ての責任は私にある」と代表辞任を表明。連合会長の古賀伸明は「敗因は内部抗争」と発言。

  • 野田の代表辞意表明を受けて、12月25日に代表選挙が党所属国会議員のみの投票で行われ、海江田万里馬淵澄夫を破り、代表に選出された。

  • 12月26日午前、野田内閣は臨時閣議を開き、辞表が取りまとめられ総辞職した。民主党を中心とした連立政権(民社国連立政権→民国連立政権)は1198日で終焉。同日午後、第182回国会の首班指名選挙にて自民党総裁安倍晋三が第96代首相に指名され、大勝した前回衆院選から3年3カ月で再び野党に転落した。

  • 新代表の海江田は執行部人事に着手、3年3か月にわたる政権運営を検証する「党再生本部」「党綱領検討委員会」を設置、政策決定機関である「次の内閣」(ネクスト・キャビネット)を復活させ、「党再生内閣」と名付けた。
  • 党勢の立て直しが求められる中、国会議員の離党が相次ぎ、党創設者で議員を引退した元首相の鳩山も「4年間の総括を見る限り、これでは民主党の再生は難しい」と党を批判して、離党を表明。また、2013年4月5日に日本維新の会みんなの党など他の野党との選挙協力を断念したことを明らかにした。これに対して、前原誠司らからは「野党がバラバラに戦っていては自公が喜ぶだけだ」などと批判の声を上げている。
  • 一方、共産党は、前述の政府のTPP交渉参加に反対、歴代政権の原発政策、3党合意で決定された消費税増税法案を特に厳しく批判。同時に護憲、障害者に費用の原則1割負担を求める障害者自立支援法の撤廃などに代表される社会保障の拡充、労働問題の改善、尖閣諸島問題を初めとした領土問題の解決などを強く主張し、民主党のならず、政権復帰をうかがう自民・公明両党とも対決の姿勢を強めた。
  • また前回の擁立方針を改めて、社民党照屋寛徳を支援した沖縄2区以外の全選挙区に候補者を立てる。さらに反TTPを訴えたことから、自民党の支持基盤である農協の一部の支援も受けた。
  • 選挙結果は、前与党の自民党公明党と、右派系野党の日本維新の会みんなの党であった。共産党は1減の8議席(全て比例区)に留まったが、与党の民主党国民新党と左派系野党の日本未来の党社民党議席大幅減となった中では、相対的な善戦であった。といえる。
  • 翌年に控えた参院選に向けて、反アベノミクス、反TPP、反原発、反消費税増税、護憲など自民党の政策に真っ向から対決する政策を掲げ「自共対決」と大胆な方針を打ち出す。参院選の前哨戦として注目された都議会議員選挙(2013年6月23日投開票)では前回の8議席から17議席を獲得。選挙前の第1党から激減させた民主党を上回って第3党、野党では第1党となった。この結果、2009年選挙で失った議案提出権を回復。

民主党日本共産党2013年 第23回参議院議員通常選挙(7月21日投開票)

  • 民主党は候補が擁立できない「不戦敗」(富山・和歌山・山口)を含めて1人区で全敗。改選前44議席から17議席へと減らし、非改選と合わせた参院議席数は59議席と第2党に転落。また青森など13県では県連所属の国会議員がいなくなった。ただし、海江田体制は維持される。
  • 一方、共産党は勢いを維持して反自民の訴えを続ける。また若者を取り込むために解禁直後のネットでの選挙活動や雇用環境対策(ブラック企業批判等)にも力を注いだ。
  • 選挙結果は改選3議席から比例5議席、選挙区3議席を獲得。非改選を含めると11議席となり、議案提案権を9年ぶりに回復。比例代表の得票は2010年選挙の356万票から515万票へと大幅に増加したほか、12年ぶりに選挙区で議席を獲得した(東京、大阪、京都)。3選挙区ではいずれも、民主党と第三極勢力を抑えての議席獲得となった。国政で議席を増加させたのは1998年参議院選挙以来、15年ぶりとなり、党はこの結果を大躍進と肯定的に評価、志位は「自民党と正面から対決して暴走にストップをかける頼りになる政党としておおいに力を発揮していきたい」と述べてた。
  • 一部大手紙は共産党の今回の躍進の背景に低投票率反自民票が共産党に流れたこと、第三極勢力の戦略ミスの影響もあったと論じている。

日本共産党2014年 都知事選(2月9日投開票)

民主党日本共産党2014年 第47回衆議院議員総選挙(12月14日投開票)

  • 安倍は消費税率引上の先送を表明し、この判断の是非を問うとして衆院を解散。民主党にとっては野党転落後初の総選挙となった。12月14日の投開票の結果、小選挙区比例代表合わせて73議席を獲得し、改選前の63議席から10議席増やす。しかし代表の海江田が東京都第1区で敗れ、重複立候補していた比例東京ブロックでも復活当選できず、議席を失った。党としては小選挙区比例代表並立制導入後初の野党第1党首落選となった上、対する与党は3分の2以上を獲得し「一強多弱」の情勢は崩しきれなかった。

  • 当初、海江田は代表の引責辞任を否定していたが、民主党は党規約第8条で役員を国会議員から選ぶと規定している為に12月15日に党代表の辞任を表明。

  • 翌年の1月7日告示、1月18日投票の民主党代表選には、長妻昭岡田克也細野豪志の3人が出馬。岡田と細野が国会議員による決選投票に進み、1度目2位の岡田が1位だった細野に逆転して第10代民主党代表に選出される。

  • 一方、共産党は「自共対決」と銘打ち活発に活動。その結果、前回の2倍以上の21議席を獲得した。比例の得票数は11.37%、票数では600万を超え、小選挙区でも1996年の第41回衆議院議員総選挙以来18年ぶりに議席を獲得(沖縄1区の赤嶺政賢)。参議院に続き衆議院でも議案提出権を獲得。
  • 党はこの結果について「第26回党大会で決定した目標を基本的に達成することができた」「全体として、総選挙の結果は、画期的な躍進といえるもの」という発表を行っている。

共産党2015年 第18回統一地方選挙

  • 前半戦では、選挙が行われた全ての41県府議会で議席を獲得。今までは、共産党の議員が存在していなかった栃木、神奈川、静岡、愛知、滋賀、三重、福岡の各県議会にも共産党の議員が誕生した。非改選の6議会も含めて、全ての都道府県議会で共産党議席を獲得したのは結党以来、初の出来事である。同時執行の17政令市の市議会選挙でも共産党は選挙前の議席数を上回る136議席を獲得、民主党を抜く改選第三党、野党では第一党となった。
  • 後半戦でも勢いは変わらず、東京区議選挙で7議席、一般市議選挙で44議席、町村議選挙で11議席、合計62議席を新たに増やした。これを受けて党は本選挙戦は全体として躍進という結果だったという声明を発表した。

民主党社会党共産党2015年夏〜秋 平和安全法制の審議

  • 反自民の政党による反対運動を主導し、民主党、維新の党、社民党、生活の党の4党と連携を深める。同法案の審議を境目に、共産党は従来の「独り勝ち」方針を改め、安保法制廃止の一点での連立政権を樹立するために選挙協力を行うことを提案した。
  • かつての民主連合政府構想における共産党との政策や価値観の共有よりもハードルを下げた提案であり、社民、生活両党は賛意を示したが、身内に保守系議員を多く抱える民主党は難色を示した。共産党民主党の反対を受けて、連立政権の案件を凍結、翌年の参院選での野党5党の選挙協力を提案。翌年にかけて参議院一人区での統一候補の擁立作業が進んだ。結果、共産党は発表していた一人区の候補者擁立を取り止め(香川県選挙区を除く)、全員を比例区に回す措置をとった。

民主党2015年12月18日 民主党と維新の党が衆議院事務局に統一会派「民主・維新・無所属クラブ」の結成を届ける。

  • 会は人数93名となり、会派代表には民主党幹事長の枝野幸男が就任。
  • 2016年2月22日、岡田と維新の党代表の松野頼久が会談し、民主党が維新の党を吸収合併することで合意。これに合わせて党名・ロゴマーク・綱領を刷新することとなり、新党名の候補には「立憲民主党」「日本民主進歩党」「民主党立憲同盟」「国民党」「憲政党」などが浮上。また、無所属議員や日本を元気にする会・生活の党と山本太郎となかまたちなども参加を呼び掛けられた。党名案は3月4日 - 6日に、両党のホームページとファックスで、国民から一般募集された。世論調査の結果も反映して、3月10日には2つの新党名の案が決まった。民主党側は「立憲民主党」、維新側は「民進党」を提示。3月14日、両党がそれぞれ実施した電話世論調査ではいずれも「民進党」が「立憲民主党」を上回り、新党名を『民進党』とすることに決定した。江田は、党名には「国民と共に歩むという意味」とした。
  • 両党で合併手続が進められ、3月25日、松野・岡田の代表会談で合併協議書に調印。3月27日、民主党・維新の党、それに改革結集の会の一部などが合併された新党として『民進党』結党大会が開催され、これを以て民主党は結党以来18年の歴史に幕を下ろすことになり、「民主党」の党名は旧・民主党時代も含め20年で消滅。

共産党社会党2016年2月20日 社民党の第15回全国大会に志位和夫委員長が来賓として出席。

http://www.sankei.com/images/news/160220/plt1602200023-p1.jpg

民主党社会党共産党2016年 主要選挙に概ね野党5党(3月に民主、維新両党が合併して民進党となってからは4党)の連携体制で臨む。

  • まず4月24日投開票の衆議院北海道5区補欠選挙では、先に決定していた共産党候補の立候補を取り下げ、民進系の池田真紀を、共産・民進・社民・生活推薦の無所属候補として擁立。自民党公認公明党らが支援の和田義明との一騎討ちとなり、前評判と較べて健闘したものの約12,000票差・惜敗率90.92%で落選。
  • 同日行われた京都3区の補欠選挙では、この野党共闘を優先する形で候補者の擁立を見送ったが、民進党公認候補をはじめ、他の候補の支援・推薦には回らず、自主投票とする。
  • 7月10日投開票の第24回参院選では、東京選挙区で1議席を獲得し、比例の5議席と合わせて6議席を獲得。非改選の8議席と合計して14議席となる。比例票は6,016,195 (10.74%)。参議院議員選挙としては、1998年の第18回通常選挙以来、18年ぶりの10%越えを達成した。
  • 参院選直後の東京都知事選挙(7月31日投開票)でも野党統一候補として鳥越俊太郎を擁立、支援したが、選挙の告示直前の出馬(いわゆる「後出しジャンケン」)だったこともあり、準備不足も相まって3位に終わった。
  • 8月9日、10月23日実施の衆院補選のうち、共産党福岡県委員会は、鳩山邦夫元法相の死去に伴う福岡6区の補選に新人で党筑後地区委員長・小林解子の擁立を表明したが、それと同時に民進党などと野党共闘に向けた協議を始める方針を表明。協議の結果次第では、4月の北海道補選と同様に擁立を取り下げる可能性も示唆した。
  • 小池百合子前議員の都知事選出馬に伴う東京10区の補選でも、新人で党豊島地区委員長の岸良信を公認候補として擁立しているが、野党共闘に前向きな姿勢を見せており、民進党側に対し候補統一に向けた協議を呼びかける意向を示している。
  • 10月5日に行われた野党4党(民進・共産・社民・生活)の書記局長・幹事長会談の場で福岡6区は民進党・新井で一本化する事で合意に達し、共産党・小林は翌6日に立候補取り下げを表明、また東京10区は民進党・鈴木で一本化する事で合意に達し、共産党・岸は立候補取り下げを表明した。
  • 10月23日、2選挙区(東京10区・福岡6区)の補欠選挙が投開票され、いずれも与党系候補(福岡6区は無所属候補が当選後に自民の追加公認を受ける)に2連敗。

あえて1行要約すると「最初は共産主義イデオロギーの実現こそが大義名分だったが、今ではそれが何だったかすら思い出せない」でOK?

上遠野浩平ブギーポップパラドックス ハートレス・レッド(2001年)」より

「君 は〝 無為〟なんだよ。何のためでもない存在なんだ。君というものがいることが、他のものにも、そして君自身にすらなんの意味もない ─ ─君には敵が多いだろう。これまでも圧倒的なまでの危機に何度も直面してきただろう。だがその度に君は助かってきた。君に道はない、とか判断されて ─ ─だがそれは違う。君には道がないん じゃない。君は最初から〝 道〟なんかいらないと自らそれを破壊しているんだ。そして……世界に君という可能性を広げていく。先に何も残さないで、ただただ雲散霧消し ていくだけの未来を─ ─だから」

ブギーポップはここで、彼のことを哀れんでいるような、憎んでいるような、 左右非対称の奇妙な表情を浮かべた。

「だから─ ─君は〝 世界の敵〟なんだよ」

 共産主義に正当性があるとしても、それは人を救済する可能性秘めてるから。自らが生き延びるのが目的の全てに成り果てちゃえば、それはカルト宗教以下…じゃなくて?