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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【年表】【オルタナ右翼】【オルタナ左翼】【マイロ・ヤノプルス】【天麩羅特攻隊イエズス会】【メキシコの初音ミク】そもそも「本物」って一体何?

日本のリベラル層を翻弄してきた「アメリカの展開」が、さらなる混迷を迎えつつある様です。果たしてどれだけの人間がついていけるやら…

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mouseketeer.

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  • 「オルタナ右翼(Alt-Right)」にはある種の「自称」という側面もあったが、その本体はあくまで「4chanや8chanやRedditといった匿名テキスト掲示板に潜む扇動家」。あえて正体を明かして公式の場に姿を現した連中は「調子に乗りすぎて匿名性という最大の防御を捨てた馬鹿」という扱い。実際、トランプ次期大統領から「活気づけたい集団ではなく、私は否定する」と宣言されてしまった今では二階に上げられて梯子を外された感もあり「まるでナチス台頭期の突撃隊(Sturmabteilung, 略号:SA)じゃね?」なんて意見もチラホラ。
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    実はさらなる母体はネット上に偏在する、いわゆる「Meme至上主義者」達。オルタナ右翼(Alt-Right)層とは「常に冗談ばかり言い続ける事で自分をHighな状態に保ち続けようとしているが、実は何も信じてないニヒリスト(アニメ・アカウントの男性アカウント中心)」なる基本的性格を共有し、国際SNS上の関心空間では「中道右派」を形成する。
    *国際SNS上の関心空間…米国では最近、Instagramに軸足を置くアカウントが増えてる。それにも関わらず回覧されてくる「問題投稿」は相変わらずTwitterのそればかり。おそらくみんな「本拠地」と「戦場」を使い分けてる。そしてTwitterのタイムラインだけがますます荒廃していく展開に…

  • これに比べたらオルタナ左翼(Alt-left)」は全体規模も小さく、遥かに単純。要するに2016年度大統領選において民主党代表候補の座をクリントンに譲ったサンダース(Bernard "Bernie" Sanders)がトランプ同様、クリントン候補落選運動を展開した連中について「活気づけたい集団ではなく、私は否定する」と宣言し、そうした運動を展開した母体たる無政府主義者(Anarchist)連中もまた(平和的デモを暴動や近隣商店街略奪に発展させては喜んでいる)Nation of Islam残党を完全に切り捨ててしまえば、あっけなく片付いてしまうのである。しかしまぁ、頭ではそれが分かってはいても実践には移せないのが国際的にリベラル派のジレンマだったりもする。

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    *Nation of Islam残党…主にBLM(Black Lives Matter)派に流入。それでFacebook拷問Live事件の通称も「BLMkidnapping」に。

    *この「自浄力の低さこそが現在の勢力規模維持に欠かせない」とつい考えてしまうリベラル層の誤謬こそが、彼らに大衆支持を失わせる主要因となっていたりする。TV業界に至っては「視聴者平均年齢68歳」と揶揄される有様。

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    *実はむしろ国際SNS上の関心空間を本拠地とする(トランプ候補に投票した層と、クリントン候補に投票した層の寄り合い所帯たる)中道派こそが、切実な現実主義(Realisme)からこの辺りの峻別には厳格だったりするのが興味深い。
    ithelpstodream

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    *なにしろ原則としてLGBTQA層と一体化しながら「異性への憎悪に基づく同性愛」や「あらゆる性表現の駆逐を叫ぶ無精主義者」は容赦なく切り捨てる彼らの決然たる姿勢に表れている。「オルタナ右翼のアイドル」マイロ・ヤノプルス(Milo Yiannopoulos)への反応も実に微妙。グループ内の同性愛者達も完全黙殺を決め込んでいるが、もちろんそうした意見が多数派だからといって、それが正解とは限らない。
    mouseketeer.

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    マイロ・ヤノプルス オルタナ右翼の混沌の使者 |神戸 オーパス英語学院

    いまアメリカでは、「日本リベラルの劣化」と同じような現象が起きています。プログレッシブがもはや進歩的(progressive)ではなくなってきているのです。マイロをふくむ多くの発言者は、彼らを regressive(リグレッシブ=後退的)と揶揄しています。

    そんな時代に生きるマイロは、むしろ自分のような人間やオルタナ右翼が、真に進歩的な考え方を持った人間だと主張しています。また、常に時代の先を進んできたゲイ・カルチャーの先頭にいま立っているのも自分だという旨の発言もしています。

    しかし、なぜあえてショッキングな言葉や行動を選ばないといけないのか。それは、アメリカが political correctness に支配されているからです。Political correctness の時代に丁寧な言葉を使ってもメッセージは広がりません。

    いまの時代、丁寧に話しているつもりでも、少しでも差別的に聞こえるような発言をすると、たちまちレイシストのレッテルを貼られて、なおかつリベラルの思考は停止する、あるいは無視されてしまいます。

    それゆえ社会からリアクションを得て、変革を起こすためには、最初から過剰に挑発的かつ攻撃的にならないといけない、というのがマイロたちのロジックです。そしてそれは昔の「性の解放」や「ロックンロール」のように、先鋭的で楽しいことなのだとか。

    このように自己主張の国アメリカでは、様々な意見が衝突することで、良くも悪くも文化が前進します。

    日本の LGBT の権利に関しては、企業や市役所が動き出していますが、そのような機関に法的な力はないので、真のブレークスルーが起こるのはまだまだ先になるでしょう.

    また何も起こらなければ、日本における LGBT の研究も停滞します。他の文系学問のようにガラパゴス化しないか心配なところです。

    マイロ・ヤノプルスの意見に反対するにせよ、賛成するにせよ、彼の主張について議論するのは良い刺激になるかもしれません。

    *実はこうした展開の裏側には「同性婚合法化」がもたらしたGay Culture の保守化という皮肉な側面があるとも。「共産党宣言(Manifest der Kommunistischen Partei、1848年)」で(小売商以上の)ブルジョワ階層と(自作農以上の)農民階層を全人格的に切り捨て「万国の労働者よ団結せよ!!」と叫んだカール・マルクスではないが、要するに革命を起こそうと志す立場からすれば「守るべきものが出来ちゃった奴は裏切る」なのである。

それにしても、日本人の感覚からすると、どちら側もどれだけ本気か分からないのが不安を誘います。町山智浩は「だからむしろ危険。ゲッペルスも同様に実際には何も信じてなかったニヒリスト・タイプだった」と警告。実際「わざわざ本気になるまでもない」辺りが本当に恐ろしいとも。

まさかアメリカのリベラル層、本当に以下の循環のどこがアメリカの病巣なのか気付いてないの?

  • Reddit4chanや8chaに潜む)オルタナ右翼(Alt-Right)が扇動。
  • 釣られたFacebook上の馬鹿が実際の事件を起こす。
  • 対抗して(Tumblrなどに潜む)オルタナ左翼(Alt-Left)が扇動。
  • 釣られたFacebook上の馬鹿が実際の事件を起こす。
  • これに対抗して‥(1.に戻って繰り返し)。

マスコミはスポンサーに逆らえないから仕方ないとしても…

本当にこんな具合に回ってきたから恐ろしい。最近Tumblrでオルタナ左翼(Alt-Left)が過去投稿を大量削除しましたが、彼らが蒔いたプロパガンダ投稿もまた(オルタナ右翼(Alt-Right)が蒔いたそれ同様)出自を喪失したデブリ(Space Debris)同様、これから先何年にも渡ってFacebookの回覧網などを彷徨い続けるのです。

*この措置のせいで過去投稿が穴だらけに…

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こんな時代に「本物」とは何を指すんでしょう?

 

そもそも英語の「Virtual」という言葉。一般に「仮想=実際には無いが、仮にあるものと想定された何か」という意味で使われますが、実際には「実際はそうでなくとも、実質的にはそうであると看做せる何か」を指します。ここには「本物」と「偽物」を峻別しようという態度すら見られないのです。

virtualの意味 - 英和辞典 Weblio辞書
「Virtualを仮想と誤訳した責任は我々にあります」 - Plan9日記

このうち「仮想」については「テンプラ」なんて言い回しも。要するに「衣だけ」。「ファッションXX」なんて表現の先祖筋?

戦後巷の覚書

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テンプラ特攻と云うのが横行して、飛行服に白いマフラーで半長靴を履き、闇市を闊歩し、自分で「オレは特攻隊の生き残りだ」と云つて居るやつ等がおりましたが、これが第三国人とパンパンカールを目の敵にして、因縁を付けている様でした。

テンプラ特攻は、特攻隊の名誉を著しく傷つける、面汚しであつたとおもいますが、闇市の群集はこの連中のやる事を、見て見ぬふりをしていたようです。

本当の特攻隊員だつた人達はそれぞれ復員後に生業に就いていたと聴いております。

ただ、そもそもなぜ「特攻隊騙り」はそんなに多かったのか。

戦後は闇市焼け跡の暴力社会の中で「俺は特攻帰りだ」は「命知らずの危険な男だぜ」というハッタリ、脅しにもなり、それによって権威やパワーが実際にあったのだろう。相当乱暴というか力勝負、任侠じみた世界でもあった戦後労働運動でもしかり、なのではないだろうか。ちなみに、右翼の会合では元特攻隊は上座、だとか…。
*これも「Virtual」の世界? 確かに経歴こそ詐称だったかもしれないが、本当に「狂犬」として振舞えねば説得力を持ち得ない世界だった事は間違いない。

そういえば「テンプラ」自体、本来の起源がよく分かってない日本料理なんですね。

天麩羅 - Wikipedia

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「てんぷら」の語源には諸説ある。

  • ポルトガル語の temperar (動詞:「調味料を加える」「油を使用して硬くする」の意。三人称単数で tempera) または tempero (調理あるいは調味料の意)であるとする説。

  • スペイン語・イタリア語の témporas (天上の日、斎日(en:Ember Days)の意)であるとする説。

  • ポルトガル語の temporras (金曜日の祭り)であるとする説。

  • ポルトガル語の templo (寺の精進料理)であるとする説。

  • テンペラという絵具に由来するという説。

  • ポルトガル語の temporal (一時的な・臨時の)から来たとする説。

  • 油を「天麩羅」(あぶら)と書いていたものが後に音読されるようになったとする説。

  • テンピユラリ(天火揺らり)を語源とするとの説。

また、漢字の「天麩羅」の由来についても諸説ある。

  • 揚げ油の上辺(天)にゆらゆらする小麦粉(麩)さらに羅の印象を寄せ集めた当て字であるとする説。

  • 江戸時代の戯作者山東京伝による「天竺浪人がふらりと江戸に出てきて始めた」ことを由来とする創出という説。

  • 「天麩羅阿希(あぶらあげ)」といわれていたものの「阿希」が取れて読みが変わったものとの説。

揚げ物料理自体の歴史に目を向けると、奈良時代から平安時代にかけて米の粉などを衣にしたものが伝来。その後、16世紀から17世紀にかけて西洋のフリッター(fritter、洋風天ぷら)が伝来したという基本構造自体は揺らがない。

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  • 「てんふら」という名称で文献上に初めて登場するのは1669年(寛文9年)の『食道記』。とはいえ「素材に衣をつけて油で揚げる」料理法は既に精進料理や卓袱料理などで既に日本で確立していた為、以降混同され続ける。

  • 例えば今でも西日本においては「てんぷら」といえば魚のすり身を素上げしたもの(揚げかまぼこのじゃこ天や薩摩揚げなど)を指す地域多く、歴史的には江戸時代までの料理書においては両方を「てんぷら」と称していたとされている。また『鸚鵡籠中記』元禄6年(1693年)1月29日の項に酒肴として記載されている「てんぷら」の様に、どのような料理か詳細が不明なものもある。
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  • まず16世紀に南蛮料理を祖とする「長崎天ぷら」が誕生。これは衣に砂糖、塩、酒を加えラードで揚げるもので、味の強い衣であるため何もつけずに食するものであった。

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  • この「長崎天ぷら」が17世紀に関西に渡り、野菜を中心としたタネをラードに代わりごま油などの植物油で揚げる「つけ揚げ」に発展。

  • 江戸幕府開府とともに江戸に進出し、日本橋の魚河岸で商われる魚介類をごま油で揚げる「ゴマ揚げ」として庶民のあいだに浸透していった。当時の天ぷらはゴマ油で揚げることで魚の生臭さを消し、同時に魚介類の保存期間・賞味期間を少しでも伸ばそうとしていったのである。

  • 寛文11年(1671年)の「料理献立抄」に現代の天ぷらの料理法とほぼ同じものが詳細に明記されている。江戸時代前期、それは「天ぷら屋」と呼ばれる屋台において、揚げたてを串に刺して立食する庶民の食べ物だった。
    *当初の種としては、野菜・薩摩芋・レンコン、次いで江戸前の芝エビや魚が使用された。江戸前の魚介類は多く使用され、野菜を天ぷら種とした物もどちらも「天ぷら」と呼ぶ事が一般的化する。一方、野菜の天ぷらは単に揚げ物、精進料理を元とする野菜の天ぷらは精進揚げとも呼ばれてきた。

  • 天ぷらの作り方を示した文献としては、一般に延享3年(1746年)の「里白精味集」か寛延元年(1748年)の「歌仙の組糸」あたりが初出とされる。江戸時代になってから油の生産量が増え、江戸の屋台で始まった天ぷらのメニューが大衆に広がっていく。

  • 「近代職人尽絵詞(東京国立博物館蔵)屋台の天ぷら屋」には「江戸の三味」と呼ぶ天ぷらの屋台が描かれている。江戸後期には蕎麦・寿司・てんぷらの他、うなぎ屋などの屋台料理も盛んであった。屋台ではなく天ぷら店として店舗を構えるようになったのは幕末近くであった。

  • 明治に入り、料亭や天ぷら専門店が広がると共に大阪にも天ぷらが伝わる事になる。そして大正時代、関東大震災によって職を失った職人が各地に移り各地へ江戸前の天ぷらを広めることとなった。また関西の職人が上京した事から野菜揚げに塩をつけて食べる習慣が東京に広まる。その後、屋台の天ぷら屋は姿を消して、天ぷら専門の店舗が目立つようになった。

下町では一種の総菜屋(あるいは、子供・学生向けのおやつや軽食)としての庶民向けの天ぷら屋も存在しており、織田作之助の小説『夫婦善哉』(とその映画化作品)にもこうした天ぷら屋が登場している。

そして、このうちじゃこ天や薩摩揚げ系については 「16世紀にはイエズス会(Societatis Iesu、MHSI)などの宣教師達が来日。彼らが大斎と小斎を守って肉を食べない時期に食べていた(肉にできるだけ雰囲気を似せた)魚の擂り身揚げが起源」とする説も。またもや「Virtual」の世界…

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*そしてこうした料理の延長線上に現れたのが、これ。

魚肉ソーセージ(Fish Sausage) - Wikipedia

現代ではスケトウダラなどの冷凍すり身50-60%に、豚脂、調味料と香辛料を混ぜ、練り合わせたものをケーシングし、レトルト殺菌釜で高圧高温殺菌を行ったものを指す。必要に応じてデンプン・植物性タンパク・卵白などの結着剤、および酸化防止剤や保存料を加えることもある。

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  • 大正時代頃から洋食普及への対応や魚肉の保存性向上を狙い、日本各地の水産試験場で魚肉を使用したハム・ソーセージ風食品の開発が進められてきた。ツナハムについては戦前のうちに実用化されている。

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  • 魚肉ソーセージは昭和24年(1949年)、愛媛県八幡浜市の西南開発工業協同組合が初めて試作に成功。同組合は昭和26年(1951年)、西南開発株式会社として創立し、「スモークミート」の名で商品化した。翌昭和27年(1952年)には明治屋と契約し全国発売を開始。

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  • その後各社の参入があったが、生産量が大幅に増えたのは水爆実験の影響だった。昭和29年(1954年)3月1日、ビキニ環礁で行われた 15 Mt の水爆実験(キャッスル作戦)により、日本の第五福竜丸をはじめ多数のマグロ漁船が放射性降下物(いわゆる「死の灰」)を浴びて被曝。処理のため多量の放射能汚染マグロが水揚げされたことから消費者が忌避する事態となり、マグロの価格が大暴落してしまったのである。苦境に陥った水産各社は、余剰マグロを原料とした魚肉ソーセージの生産に尽力。安価な魚肉ソーセージは、学校給食に納入されるなど「西の横綱がインスタントラーメンなら、東の横綱は魚肉ソーセージ」と呼ばれる程の大衆食となった。

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  • 昭和37年(1962年)には魚肉ソーセージに関する日本農林規格JAS規格)が制定されている。昭和47年(1972年)には、魚肉ソーセージの国内生産量 (魚肉ハムを含む、以下同様) が18万tを超えピークを迎えた。

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  • しかし、生産量ピーク2年後の1974年(昭和49年)、使用されていた食品添加物の保存料・フリルフラマイド(Furylfuramide、AF2)に発癌性・催奇性が指摘され、使用禁止となってしまう。同年、業界は魚肉ソーセージへの防腐剤の使用を取り止め、代わりに「高温高圧殺菌」「pHや水分活性を調節し過熱殺菌」「従前同様の加熱殺菌をして10℃以下で流通保存」のいずれかの方法を採用。多くのメーカーは「高温高圧殺菌」の方を選んだが1974年(昭和49年)の生産量は12万tへと急落。

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  • さらに、1976年(昭和51年)にはアメリカとソ連が相次いで排他的経済水域の設定を宣言する、いわゆる200海里問題が発生したため、そのころ主原料となっていたスケソウダラの価格が暴騰。原料コストの高騰という問題が起こる。また、徐々に家庭に冷蔵庫が普及し、低温輸送技術が進むにつれ、食肉および食肉加工品が普通に食卓へと並ぶようになり、魚肉ソーセージの保存食肉あるいは食肉代用品としての存在価値が減少、生産量を減らしていったのだった。

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その後、メーカー側の開発・販売努力 (カルシウム・DHA・ビタミン・コラーゲンの添加、アニメや子供向け特撮ヒーローのキャラクター採用) や、健康・ヘルシー志向 (低カロリー・低脂肪・高タンパク) も手伝って、徐々に魚肉ソーセージが見直されるようになったていく。BSE鳥インフルエンザなどで畜肉の安全性に疑問が呈された際にも注目され、一時は需要が急増しフル生産体制になりメーカーは当惑したという。しかし、1990年(平成2年)以降の生産量は5万~8万tに留まっている。
*海外の日本アニメファンの中には、作品中の料理画像ばかり集めてるタイプがいて(爆発画像ばかり集めてるタイプや、新海誠作品中心に「背景画像」「手画像」などを集めてるタイプと合わせて「LGBTQAのQ」グループを形成している)、彼らの間でも「タコさんウィンナー」や「魚肉ソーセージ」は、とりわけ特別視されている。ちなみに「Food Porn」と呼ばれる「超絶美味しそうな料理写真」の主要供給源はPinterestで、こちらはこちらで巨大グループを形成しており「素人」が入り込める隙なんて一切ない。

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*そのせいで彼らから「多くの日本人も知らない様な最新魚肉ソーセージ」を教えられる事もしばしば。
💎 The Fabulous Chubby Funster 💎

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*日本の料理マニアも中々壮絶で手作りに挑戦したりする。

ところで日本へのキリスト教の大規模伝道に成功したのはイエズス会ロシア正教だけといわれています。両者に共通するのは、徹底的に現地習俗を調査し抜いた上で、伝教内容を随時調整していく適応主義(Accomodatio) を採用した事。どうやら日本人はこの手口に極めて弱いらしいのです。
*ただしこの方法論はオリジナルの正統性を危険にさらす両刃の剣でもある。

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*実際「あらゆる宗教のええとこどり」を目指したマニ教(Manichaeism、3世紀〜14世紀?)は、その為に中心を見失って自壊してしまう。こうした中心性を欠けいたもう目的展開は「適応主義」でなく描いた折衷主義(Eclecticism、エクレクティシズム)と呼ばれる事が多い。

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  • ロシア正教の布教成功に関しては、明治期に来日した亜使徒聖ニコライ(Николай (Касаткин)、1836年〜1912年)の人徳が大きい。日本では今日なお「ニコライ堂のニコライ」といった呼称で親しまれている。

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  • 1861年に箱館のロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。元大館藩軍医の木村謙斉から日本史研究、東洋の宗教、美術などを7年間学び、並行して仏教について学僧から学び日本伝教に備えた。さらに東京に移って増上寺僧侶に教えを請う。

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  • 明治5年(1872年)より布教開始。東京を起点として東北中心に集落単位で布教を進めていったのだが、まず現地習俗を徹底取材した上で「どこをどう直せばロシア正教になるかアドバイスする」というコンサルタント的手法によって、単身ながら破竹の勢いで急速に教区を拡大していった。日露戦争(1904年〜1905年)やロシア革命(1917年)によってその勢いを削がれる事がなければ「日本人の少なくとも1/4から1/3はロシア正教」なんて実績を残していた可能性すら指摘されている。
    *その徹底して文化衝突を避ける適応主義(Accomodatio)ゆえに、対露感情悪化と祖国よりの後援喪失に伴う棄教も迅速にスムーズに進んだのが誤算といえば誤算だったかもしれない。そしてそれ故に布教先に一切の軋轢と遺憾を残さなかった。これぞまさしく聖人の御業。ちなみに現在の日本ハリストス正教会の信者は1万人弱程度とされる。

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イエズス会の場合は、同じ事を集団的に成し遂げた辺りに凄味を感じます。

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コスメ・デ・トーレス(Cosme de Torres, 1510年〜1570年)

フランシスコ・ザビエルと共に戦国時代の日本を訪れたイエズス会宣教師。ザビエルの意志を受けて18年にわたって日本で宣教。彼の目指した「適応主義(宣教師が現地の文化に根ざして生きること)」は当時のヨーロッパ人の限界を超えた思想であり、日本におけるキリスト教布教の成功をもたらした。

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  • スペイン・バレンシア地方の出身で若くして司祭となり、故郷を離れてメキシコに渡った。さらにビリャロボス艦隊に同行して東南アジアのモルッカ諸島までやってきた。

  • 1546年、たまたま同地に来ていたザビエルと運命的な出会いをする。ザビエルに心酔したトーレスは共にインドのゴアへ渡り、同地でイエズス会に入会した。

  • ザビエルや日本人ヤジロウと共に日本への宣教を志。1549年8月15日、ついに鹿児島に到着した。ザビエルと同じように日本人に好印象を抱き、宣教への夢をふくらませる。平戸の松浦氏の庇護を受け、京都を目指したザビエルらと別れて平戸に滞在。さらに1551年にザビエルがインド目指して出発するとザビエルから日本布教の責任を託された。日本人ロレンソ了斎などの協力者を得て地道な宣教を続ける。その努力は実を結び、山口や九州の各地で徐々にキリスト教が広まり始める。

  • 彼が宣教責任者として成功したのは、その「適応主義」ゆえだった。これはサビエルの意志でもあった。つまり、日本ではヨーロッパ人の宣教師たちに対して日本文化を尊重し、日本式の暮らしを行うことを求めたのであった。トーレス自身、肉食をやめ、質素な日本食を食べ、日本の着物を着て後半生を過ごした。

  • 戦乱に翻弄されて山口、豊後、肥前などを転々としながら、後続の宣教師たちを教育し、日本人協力者を養成し、信徒の世話をし、仏僧たちの議論に答えていく。1556年には商人だったルイス・デ・アルメイダトーレスの感化によってイエズス会に入会、以後宣教師として盛んに活躍することになる。トーレス自身も九州各地で宣教を続け、1563年には大村純忠に洗礼を授けて初のキリシタン大名とし、またキリシタン布教と不可分の関係にあった南蛮貿易の拠点として横瀬浦(長崎県西海市、1562年)、ついで長崎(1570年)の開港に尽力。ただし長崎に最初のポルトガル船が来航したのはトーレスの没後の1571年であり、彼自身はこれには立ち会えなかった。

  • 1559年にはサビエルの宿願だった京都での布教を果たすべく、満を持してガスパル・ヴィレラ神父らを派遣した。トーレスの時代、戦国時代の相次ぐ戦乱は布教活動において大きなマイナスであった。畿内での宣教はやがて織田信長によって政治的安定がもたらされることで軌道にのることになるが、九州では依然続く戦乱と政治的不安定の影響でなかなか安定した活動が行えなかった。

  • 日本地区の布教責任者として各地を転々と宣教して歩く生活に疲れ果てたトーレスは、1560年代のおわりにインドの上長に新しい布教長の派遣を依頼。これに答えて派遣され、1570年6月に天草に到着したのがフランシスコ・カブラル神父だった。1570年10月2日(元亀元年9月3日)、天草志岐(熊本県天草郡苓北町)で死去。

トーレスが日本に来たとき、1人の信者もおらず、1つの教会もなかったが、彼の死去時には京都、堺、山口、豊後、博多、肥前などに多くの教会と多数のキリスト教徒が生まれていた。サビエルの夢を実現させたのは盟友トーレスだったのである。

フランシスコ・カブラル(Francisco Cabral、 1529年〜1609年)

戦国時代末期の日本を訪れたイエズス会宣教師。カトリック教会の司祭。日本布教区の責任者であったが、日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的であったため、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに徹底的に批判され、解任された。

  • スペイン系貴族の子としてアゾレス諸島サンミゲル島に生まれた。コインブラで学び、インドで軍人として働いていた時にイエズス会と出会う。1554年に入会したが、すでに高等教育を受けていたため、1558年には司祭に叙階されている。

  • インド各地で要職を歴任したのち、コスメ・デ・トーレスの後継者として日本に派遣された。永禄13年(1570年)6月、天草志岐に到着。同行した会員の中にはグネッキ・ソルディ・オルガンティノもいたが、前年度に手違いからインド管区長代理の権限がカブラルとオルガンティノに重複してしまい、これが原因で両者は諍いを起こしていた。2人の対立は日本でも尾を引くことになる。

  • 日本到着後、ただちに日本布教区責任者となったカブラルは、志岐で宣教会議を行い、今後の宣教方針を決定。そこでカブラルの指摘した問題点は「日本においてイエズス会員が絹の着物を着ているのは清貧の精神に反している」ということであった。前任者トーレスは日本においては身なりや服装がきちんとしていない人物は軽蔑されるという事実に鑑みて、宣教師たちにあえて良い服を着ることを奨励していたが、着任早々のカブラルはそういった事情は一切考慮しなかったのである。
    トーレスフランシスコ・ザビエルと同じように、日本人の資質を高く評価し、宣教師たちにヨーロッパ風でなく日本文化に根ざした生活スタイルを求めた(適応主義)。トーレス時代の布教の成功はこの方針による部分が大きかったが、カブラルはこの適応主義を真っ先に否定したのであった。また「服装における清貧主義の徹底」には、それによってドイツ農民戦争(1524年)は起こった南ドイツへの再布教に際して貧農の敬意を勝ち取るのに役立ったという立派な先例もあったのである。

  • 彼は元来インドに赴任した軍人であり、ヨーロッパ中心主義という同時代人の制約を超えることができなかった。頑固で短気として知られていたが、学究熱心でもあり、ヨーロッパ文化とイエズス会を代表するエリートだったが、彼にとってアジア人の一員たる日本人はあくまで低能力な劣等民族に過ぎず、布教においても宣教師を日本文化に合わせるより、「優れた」ヨーロッパ式を教えこむことのほうが日本人にとって良いと考えたのである。
    *カブラルが日本人を評した言葉に以下のようなものがある。「私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で、偽装的な国民は見たことがない。…日本人は悪徳に耽っており、かつまた、そのように育てられている」。カブラルと対立したヴァリニャーノの記述によれば、カブラルは以下のような言動をとっていた。「カブラルは、日本人を黒人で低級な国民と呼び、その他、侮蔑的な表現を用いた。かれはしばしば日本人にむかい、「とどのつまり、おまえたちは日本人(ジャポンイス)だ」というのがつねで、日本人に対して、日本人が誤った低級な人間であることを理解させようとしたのである」。

  • ジョアン・デ・トーレス、ケンゼン・ジョアンと呼ばれた2人の日本人伝道士を従えて、戦乱続く畿内へ視察に赴いた。堺ではすでに活動していたオルガンティノとロレンソ了斎の出迎えを受け、足利義昭との会見に成功。さらにルイス・フロイスを伴って向かった岐阜では織田信長の知己を得て、その庇護を受けることに成功した。フロイスによれば、このときカブラルは眼鏡をかけていたが、岐阜の市民の間に「伴天連は目が四つある」といううわさが広まり、岐阜城の門前は「四つ目」を見ようと集まった群衆で大騒ぎになっていたという。

  • 天正元年(1573年)には山口へ足を伸ばした。ここはトーレスが1556年(弘治2年)に訪れてから誰も宣教師が訪れていなかった地域であったので、信徒の大歓迎を受けた。九州に戻って大友宗麟に洗礼を授けたのもカブラルであった。宗麟は若き日に出会ったザビエルへの追憶としてフランシスコの洗礼名を選んだ。

  • 一見、順調に進んでいるかのようであったイエズス会の布教活動だったが、そのヨーロッパ中心的方針によって日本人信徒と宣教師たちの間に溝ができつつあった。カブラルは日本語を不可解な言語として宣教師たちに習得させようとせず、日本人に対してもラテン語ポルトガル語も習得させようとしなかったのである。それは、日本人がそれらを理解し宣教師たちが話している内容がわかるようになると宣教師を尊敬しなくなる、という理由からだった。さらに日本人が司祭になる道も閉ざしていた。

  • 天正7年(1579年)、総長の名代として日本を訪れた巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、九州においてカブラルから日本人が布教に適していないという悲観的な報告を受けて衝撃を受けた。カブラルは止めたが、ヴァリニャーノはあきらめきれずに畿内へ視察に赴いた。畿内においてヴァリニャーノは多くの優れたキリスト教徒たち、キリシタンの武将たちに会って感激し、日本布教区の問題点が実はカブラルにあるのではないかと考え始める。

  • 視察を終えたヴァリニャーノはカブラルの宣教方針を完全に否定し(カブラルが禁じた)日本人司祭の育成、日本布教区と本部との連絡通信の徹底、トーレスの適応主義の復活を指示した。ヴァリニャーノはトーレスの日本文化尊重の姿勢を絶賛し、宣教師が日本の礼儀作法を学ぶことの重要性を指摘している。

  • カブラルはヴァリニャーノを逆に非難したが、結果として1581年(天正9年)に布教責任者の立場を解任された。カブラルの後任にはガスパール・コエリョが任命され、日本地区が準管区に昇格したため、初代準管区長となった。

  • 1583年(天正11年)に日本を離れてマカオに去ったカブラルは、後にインドのゴアに移り、同地で1592年から1597年までインド管区長をつとめた。1609年4月16日、ゴアで死去。

ある意味、 当時のポルトガル人冒険者の典型のような人物であったとはいえる。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano/ Valignani、1539年〜1606年)

安土桃山時代から江戸時代初期の日本を訪れたイエズス会員、カトリック教会の司祭。イエズス会東インド管区の巡察師として活躍し、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施した。

  • 1539年、イタリアのキエーティで名門貴族の家に生まれる。名門パドヴァ大学で法学を学んだ後、キエーティの司教をつとめた関係でヴァリニャーノ家と親交のあった教皇パウルス4世に引き立てられてローマで働くことになった。

  • パウルス4世の後継者ピウス4世もヴャリニャーノの才能を評価し、より重要な任務につかせようとした。ヴァリニャーノはこれに応えて聖職者となることを決意し、パドヴァ大学で神学を学ぶと1566年にイエズス会に入会。入会後に哲学を深めるため、ローマ学院で学んだが、この時の学友に後のイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィーヴァ (Claudio Acquaviva)がいた。

  • 1570年、誓願を宣立し、司祭に叙階される。1571年から修練院で教えていたが、教え子の中には後に中国宣教で有名になるマテオ・リッチらがいた。1573年、総長エヴェラルド・メルクリアン(エヴラール・メルキュリアン) (Everard Mercurian) の名代として広大な東洋地域を回る東インド管区の巡察師に大抜擢される。
    *イタリア出身のヴァリニャーノが巡察師という重要なポストに選ばれたのは、当時のイエズス会内の2大勢力であったスペイン・ポルトガルの影響による弊害を緩和するためであったといわれている。

  • 1574年3月21日にリスボンを出発し、同年9月にゴアに到着。管区全体をくまなく視察し、1577年9月にインドの視察を終えてゴアを経つ。同年10月19日マラッカに入る。

  • 1578年9月、ポルトガル居留地を確保していたマカオに到着。現地において同地のイエズス会員が誰一人として中国本土定住が果たせなかったことを知る。彼はイエズス会員が中国に定住し、宣教活動をするためにまず何より中国語を習得することが大切であると考え、ゴアにあった東インド管区本部の上司に手紙を書く。この任務にふさわしい人物としてベルナルディーノ・デ・フェラリス(Bernardino de Ferraris)の派遣を願ったが、フェラリスはコーチのイエズス会修道院の院長として多忙をきわめていた為、代わりにミケーレ・ルッジェーリ (Michele Ruggieri) が派遣されることになった。

  • 1579年7月、到着したルッジェーリと入れ替わるように日本へ出発。ヴァリニャーノの指示にしたがってルッジェーリは中国語の学習に取り組み、この任務にふさわしい人材としてマテオ・リッチのマカオへの派遣をヴァリニャーノに依頼、ヴァリニャーノがゴアに派遣を要請したことでリッチがマカオに送られ、ルッジェーリとリッチの二人は1582年8月7日から共同で宣教事業に取り組んだ。

当時の東インド管区の東端に位置する日本(口ノ津港)にたどり着いたのは1579年(天正7年)7月25日。この最初の滞在は1582年(天正10年)まで続く。

  • 日本におけるイエズス会の宣教方針として、後に「適応主義」と呼ばれる方法をとった。それはヨーロッパのキリスト教の習慣にとらわれずに、日本文化に自分たちを適応させるという方法であった。

  • 彼のやり方はあくまでヨーロッパのやり方を押し通すフランシスコ会ドミニコ会などの托鉢修道会の方法論の逆を行くもので、ヴァリニャーノはこれを理由としてイエズス会以外の修道会が日本での宣教を行うことを阻止しようとする。そしてこれが後のイエズス会托鉢修道会の対立につながっていく。

  • 天正9年(1581年)、イエズス会員のための宣教のガイドライン『Il Cerimoniale per i Missionari del Giappone(日本の風習と流儀に関する注意と助言)』を執筆。その中で、彼はまず宣教師たちが日本社会のヒエラルキーの中でどう位置づけられるかをはっきりと示した。彼はイエズス会員たちが日本社会でふるまうとき、社会的地位において同等であると見なす高位の僧侶たちのふるまいにならうべきであると考えた。当時の日本社会はヒエラルキーにしたがって服装、食事から振る舞いまで全てが細かく規定されていたのである。具体的にはイエズス会員たちは、高位の僧侶たちのように良い食事を取り、長崎市中を歩く時も彼らにならって従者を従えて歩いた。このようなやり方が「贅沢」であるとして日本のイエズス会員たちはヨーロッパで非難された。そのような非難は托鉢修道会からだけでなく、イエズス会内部でも行われた。

  • 巡察師として日本各地を訪れ、大友宗麟高山右近織田信長らと謁見。1581年、織田信長に謁見した際には、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)を贈られ、屏風は教皇グレゴリウス13世に献上されたが、現在に到るも、その存在は確認されておらず、行方不明のままである。また、従者として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したためこれを献上し、弥助と名づけられて信長の直臣になった。

  • また、この最初の来日では、当時の日本地区の責任者であったポルトガル人準管区長フランシスコ・カブラルのアジア人蔑視の姿勢が布教に悪影響を及ぼしていることを見抜き、激しく対立。1582年にカブラルを日本から去らせている。

  • ヴァリニャーノは日本人の資質を高く評価すると共に、カブラルが認めなかった日本人司祭の育成こそが急務と考え、司祭育成のために教育機関を充実させた。それは1580年(天正8年)に肥前有馬(現:長崎県南島原市)と近江安土(現・滋賀県近江八幡市安土町)に設立された小神学校(セミナリヨ)、1581年に豊後府内(現:大分県大分市)に設けられた大神学校(コレジオ)、そして1580年に豊後臼杵に設置されたイエズス会入会の第1段階である修練期のための施設、修練院(ノビシャド)であった。

  • また日本布教における財政システムの問題点を修正し、天正遣欧少年使節の企画を発案した。これは日本人にヨーロッパを見せることと同時に、ヨーロッパに日本を知らしめるという2つの目的があった。1582年、インドのゴアまで付き添ったが、そこで分かれてゴアに残る。

  • 1590年(天正18年)の2度目の来日は、帰国する遣欧使節を伴って行われた。このときは1591年(天正19年)に聚楽第豊臣秀吉に謁見している。

  • 日本で初めての活版印刷機を導入、後に「キリシタン版」とよばれる書物の印刷を行っている。

  • 1598年(慶長3年)、最後の来日では日本布教における先発組のイエズス会と後発組のフランシスコ会などの間に起きていた対立問題の解決を目指した。

  • 1603年(慶長8年)に最後の巡察を終えて日本を去り、3年後にマカオでその生涯を終えた。

聖ポール天主堂の地下聖堂に埋葬されたが、その後天主堂の焼失・荒廃により地下聖堂ごと所在不明となる。しかし1990年から1995年の発掘により発見され、現在は博物館として観光用に整備されている。  

最終的に日本は豊臣秀吉バテレン追放令(伴天連追放令、1587年)や、徳川家康キリスト教禁止令(1614年)を通じて次第にキリシタンは弾圧対象となっていきますが、信徒はあくまでその信条を継承し続け、これが明治維新後の「浦上四番崩れ(1867年〜1873年)」への伏線となっていくのです。全体的に見てイエズス会が日本から撤退し「適応主義」が放棄された後のカソリック勢力には長期にわたる撤退戦が待っていただけでした。
*当初背景にあったのは16世紀前後欧州を制覇したスペイン帝国に対する反感。そのスペイン帝国が派遣した使者よりキリスト教圏が夷狄を滅ぼす大義名分を延々と説かれた徳川家康は、この会談の通訳をつとめた股肱の臣下たる三浦按針(William Adams、英国人)に「今日の西洋はあんな狂気が支配しているのか」と問い、「陛下、決っして屈してはなりませぬ。悪魔に魅入られて堕落しつつあるのは彼らの方に御座います」なる答えを得て、ますます気持ちがカソリック嫌悪に向けて傾いたという。ただしこの逸話がプロテスタント側の記録にしか残されていない点は注意を要する。家康の時代には結局、ポルトガル人の寄港地が平戸と長崎に制限されるだけで済んでいるのである。

徳川幕府カソリックに対する不信感が決定的なものとなったのは平山常陳事件(1620年、平山常陳なる人物が船長をつとめる朱印船が2名のキリスト教宣教師を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、台湾近海でイギリスおよびオランダの船隊によって拿捕された事件。元和の大殉教と呼ばれる激しい弾圧の引き金を引いた)以降とされる。幕府は、当時ポルトガルと同君連合にあったスペインとの関係を断ち切り、マカオに対して宣教師を乗船させないように要求したが、それでも宣教師達は日本人への布教をあきらめなかった。日本とスペイン、ポルトガルの主権が及ばない東南アジアの日本町へ渡航し、日本人への布教を行い、朱印船を利用してキリシタンを日本に送り込む方針をとったのである。中には商人や船乗りに変装し、朱印船を利用して日本に侵入する宣教師もいた。この状況を重く見た幕府は、徳川家光の親政が始まると1633年から1636年にかけて、朱印船貿易やヨーロッパ諸国、中国人との貿易の管理・統制を担っていた長崎奉行を2人の旗本から任命し、新しい奉行がポルトガル船の来航する時期に合わせて長崎に赴任する際に「鎖国令(奉行の職務に関する通達)」を発布。禁教と、国際紛争の回避を徹底させようとした。「第3次鎖国令(1635年の通達)」では、日本人の東南アジアへの渡航と、日本町への渡航が全面的に禁止。「第4次鎖国令(1636年の通達)」では、貿易に関係のないポルトガル人およびその家族はマカオに追放され、ポルトガル人は長崎の出島に隔離された。

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*出島を建設した時点では幕府は、ポルトガルとの追放を考えてなかったとされているが、島原の乱(1637年)が起こるとカソリック教徒の結束を恐れた幕府は布教を諦めないポルトガルとの貿易を取りやめることとし1638年、マカオから江戸に派遣されたカピタン・モールの将軍への謁見を拒否。とはいえ現実にはマカオからもたらされる中国産の生糸や絹織物を無碍には諦める訳にはいかず、ポルトガルとの貿易の途絶は躊躇われた。しかし1639年、幕府はオランダ商館長のフランソワ・カロンから「オランダの植民地たる台湾に中国人が渡航している。中国産の生糸や絹織物ならこれ経由で輸入できる」と聞かされ、かつ当時中国への牛馬密輸で栄えていた朝鮮商人も中継貿易者として当てに出来る事が確かめられたので同年「第5次鎖国令(長崎奉行や九州地方の大名などに対するポルトガル船の入港の禁止や沿岸警備体制の構築を目的とした通達)」を発布。1640年にはマカオから日本へ貿易再開を嘆願する使節が派遣されたが、全員捕えられ処刑されている。何の事はない。「江戸時代の鎖国」とは徳川幕府による貿易統制意図と(貿易を伝教の従属物としか考えられない)スペイン=ポルトガル同君連合と(貿易利益のみを追求する)プロテスタント連合の対立を背景とした国際的貿易戦争の一環に過ぎなかったのだった。そしてこの時代日本から輸出された金銀は欧米の価格革命をますます加速させ、日本から輸出された銅は三十年戦争(1618年〜1648年)における青銅砲の原料として有効活用される事になる。またオランダは後にベトナムに養蚕拠点を構築し、生糸輸出事業の利益率をさらに引き上げる事に成功した。

浦上四番崩れ - Wikipedia

現在の長崎市で江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた大規模なキリスト教徒(カトリック信徒)への弾圧事件。慶応3年(1867年)、隠れキリシタンとして信仰を守り続け、キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受ける。江戸幕府キリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって村民たちは流罪とされたが、このことは諸外国の激しい非難を受けた。欧米へ赴いた遣欧使節団一行がキリシタン弾圧が条約改正の障害となっていることに驚き、本国に打電したことから、1873年(明治6年)にキリシタン禁制は廃止され、1614年(慶長19年)以来259年振りに日本でキリスト教信仰が公認されることになった。

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  • ちなみに、「浦上一番崩れ」は寛政2年(1790年)から起こった信徒の取調べ事件、「浦上二番崩れ」は天保10年(1839年)にキリシタンの存在が密告され、捕縛された事件、「浦上三番崩れ」は安政3年(1856年)に密告によって信徒の主だったものたちが捕らえられ、拷問を受けた事件を指す。これより前にも「大村崩れ」など、江戸時代中期には各地でキリシタンが発見され、処刑される事件が起こっていた(1805年の「天草崩れ」もキリシタンの検挙事件であるが、刑死者は発生していない)。

  • 江戸幕府キリスト教禁止を国策とし、全国でキリスト教宣教師・信徒を徹底的に捕縛、仏教へ強制改宗させ、改宗しないものは処刑する政策をとった。もともと長崎はカトリック教会とゆかりがあり、信徒たちが多く暮らしていたが、禁教令をうけた信徒たちは隠れキリシタンとしてひそかに信仰を守り、次代へ受け継いでいくことになった。そんな長崎の隠れキリシタンたちの間には、江戸時代の初期に幕府に捕らえられて殉教したバスチャンなる伝道士の予言が伝えられていた。それは「七代耐え忍べば、再びローマからパードレ(司祭)がやってくる」というものであった。

  • 元治元年(1864年)、日仏修好通商条約に基づいてフランス系居留民の為に長崎の南山手居留地内にカトリック教会の大浦天主堂が建てられた。主任司祭であったパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父は信徒が隠れているのではないかという密かな期待を抱いていたが、元治2年3月17日(1865年4月12日)、浦上村の住民数名が訪れる。その中の1人でイザベリナと呼ばれた「ゆり(後に杉本姓)」という当時52歳の女性がプティジャン神父に近づき「ワレラノムネ(宗)アナタノムネトオナジ(私たちはキリスト教を信じています)」とささやいたので神父は驚愕。これが世にいう「信徒発見」である。彼らは聖母マリアの像を見て喜び、祈りをささげた。神父は彼らが口伝で伝えた典礼暦を元に「カナシミセツ(四旬節)」を守っていることを聞いて再び驚いた。以後、浦上のみならず、外海、五島、天草、筑後今村などに住む信徒たちの指導者が続々と神父の元を訪れて指導を願う。神父はひそかに彼らを指導し、彼らは村に帰って神父の教えを広めた。
    *そもそもパリ外国宣教会(Missions Étrangères de Paris、MEP)は18世紀に北京経由でキリスト教が朝鮮王朝に伝わり、19世紀に教皇が教区化を宣言したのを契機にアジアへと派遣された。その後、あまりの弾圧の激しさに朝鮮王朝からの撤退を余儀なくされるも(現在の韓国の歴史観では、これをやったのも大日本帝国とされている)現地で「日本の隠れキリシタン」の噂を耳にして琉球王朝に移転。日本本土進出の機会を虎視眈々と狙ってきたのだった。
    パリ外国宣教会 - Wikipedia

  • しかし2年後の慶応3年(1867年)、浦上村の信徒たちが仏式の葬儀を拒否したことで信徒の存在が明るみに出てしまい、この件は庄屋によって長崎奉行に届けられた。信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らははっきりとキリスト教信仰を表明したが、逆に戸惑った長崎奉行はいったん彼らを村に返した。その後、長崎奉行の報告を受けた幕府は密偵に命じて浦上の信徒組織を調査し、7月14日(6月13日)の深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら68人が一斉に捕縛される。捕縛される際、信徒たちはひざまずいて両手を出し「縄をかけて下さい」と述べたため、抵抗を予想していた捕手側も、信徒側の落ち着き様に怯んだと伝えられている。捕縛された信徒たちは激しい拷問を受けた。

  • 翌日、事件を聞いたプロイセン公使とフランス領事、さらにポルトガル公使、アメリカ公使長崎奉行に対して「人道に外れる行い」として即座に抗議を行った。9月21日(8月24日)には正式な抗議を申し入れたフランス公使レオン・ロッシュと将軍徳川慶喜大坂城で面会し、事件についての話し合いが行われている。ただし歴史のこの時点において両者の和解が図られた訳ではない。

  • 江戸幕府が瓦解した後の慶応4年2月14日(1868年3月7日)、参与であった澤宣嘉が長崎裁判所総督兼任を命じられ、外国事務係となった井上馨と共に長崎に着任。4月7日(3月15日)に示された「五榜の掲示」の第3条で再びキリスト教の禁止が確認されると、沢と井上は問題となっていた浦上の信徒たちを呼び出して説得したが、彼らに改宗の意思がないことがわかった。沢と井上から「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」という厳罰の提案を受けた政府では5月17日(4月25日)に大阪で御前会議を開いてこれを討議、諸外国公使からの抗議が行われている現状を考慮するよう外交担当の小松清廉が主張し「信徒の流罪」が決定した。この決定に対し、翌日の外国公使との交渉の席でさらに激しい抗議が行われ、英国公使パークスらと大隈重信ら政府代表者たちは6時間にもわたって浦上の信徒問題を議論することになった(『隈公閑話』)。

  • 6月7日(閏4月17日)、太政官達が示され、捕縛された信徒の流罪が示される。7月9日(5月20日)、木戸孝允が長崎を訪れて処分を協議し、信徒の中心人物114名が津和野、萩、福山に移送される事が決定した。以降、明治3年(1870年)まで続々と長崎の信徒達の捕縛と流罪が続く。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなど過酷さと陰惨さ・残虐さにおいて旧幕時代以上であった。キリシタンは浦上地区の管理藩である福岡藩に移送され、収容所となった源光院では亡くなったキリシタンの亡霊がさまよっているともいわれた。
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  • 各国公使は事の次第を本国に告げ、日本政府に繰り返し抗議を行ない続ける。そして翌年、岩倉具視以下岩倉使節団一行が、訪問先のアメリカ大統領ユリシーズ・S・グラント、イギリス女王ヴィクトリア、デンマーク王クリスチャン9世らに、禁教政策を激しく非難され、明治政府のキリスト教弾圧が不平等条約改正の最大のネックであることを思い知らされることになった。欧米各国では新聞がこぞってこの悪辣な暴挙を非難し、世論も硬化していたため、当時の駐米少弁務使森有礼は『日本宗教自由論』を著して禁教政策の継続の難しさを訴え、西本願寺僧侶島地黙雷らもこれにならう。しかし、かつて尊皇攘夷運動の活動家であった政府内の保守派は「神道が国教である(神道国教化)以上、異国の宗教を排除するのは当然である」「キリスト教を解禁してもただちに欧米が条約改正には応じるとは思えない」とキリスト教への反発を隠さず、禁教令撤廃に強硬に反対し続けた。また長年キリスト教を「邪宗門」と信じてきた一般民衆の間からもキリスト教への恐怖から解禁に反対する声が上がったため、日本政府は一切解禁しようとしなかった。なお、仏教界は廃仏毀釈などで神道、およびその庇護者である明治政府との関係が悪化していたため「共通の敵」であるキリスト教への敵対心を利用して関係を改善しようという動きを見せている。

  • 明治6年(1873年)2月24日、日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放した。配流された者の数3394名、うち662名が命を落とした。生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし、1879年(明治12年)、故地・浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てる。
    *信徒達は、この浦上天主堂長崎市への原子爆弾投下(昭和20年(1945年)8月9日)で破壊された事を「浦上五番崩れ」と呼ぶ事もある。

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浦上天主堂の境内の一角には、山口県萩市に配流された信徒らが正座させられ、棄教を迫られた「拷問石」が置かれている。花崗岩の庭の飛び石で、十字架が刻まれている。獄舎では、拷問石の上に太めの茎で編んだ葦簀(よしず)を敷き、全員がその上に座らせられ拷問、説諭を受けた。拷問石は牢番長だった寺本源七が供養のため自宅に持ち帰り、その子孫が保管していたが、1990年(平成2年)に萩教会に譲渡された。その後、「旅」を物語る遺品として譲渡を打診した浦上天主堂に寄贈され、2008年(平成20年)11月23日に石と案内板の除幕式が行われた。翌24日のペトロ岐部と187殉教者の列福式のため、教皇代理として来崎中であったジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿が石を祝福している。

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中でも苛烈を極めたのが、22歳の女性・岩永ツルへの拷問であった。彼女は腰巻き1枚の裸にされ、冬の寒い風の吹く中、震えながら石の上に正座させられた。夜になると裸のまま牢に帰され、昼にはまた石の上に正座させられた。1週間目には身体が埋もれるほどの大雪となったが雪の中に晒され続け、18日目には雪の中に倒れたが、それでも棄教しなかったため、役人は改宗を諦めた。彼女は1873年(明治6年)に浦上に帰った後、1925年(大正14年)12月に浦上の十字会で亡くなるまで、生涯を伝道に捧げている。
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最大の皮肉は1873年に禁教令が解かれ、信仰の自由が認められて後も「隠れキリシタン」の半数以上がカソリックを受け入れず改宗に応じなかった事だった。200年以上もの間司祭などの指導を受けることなく自分たちだけで信仰を伝えていったため、長い年月の中でキリスト教の教義などの信仰理解が失われていき、仏教神道、民俗信仰などとも結びついたり、あるいは地元の殉教者に対する尊崇を精神的な拠り所としつつ、キリシタン信仰当時の聖具からなる御神体や、殉教者が没した聖地などを主要な信仰対象とするものに変化していったせいである。これまでの研究・調査によると大正から昭和30年代の頃までは約2万人~3万人弱の信徒がいたが、近年過疎や高齢化による後継者不足、生活様式の世俗化などによってその数は急激に減少しているという。
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*ちなみにアメリカで「身障者や日本人や黒人や東南アジア人を同じ人間扱いするのはむしろレイシズム」と長広舌を振るって白人至上主義者などから「いずれにせよ有色人種同士が殺し合ってその数を減らす事は国際平和に貢献する」という皮肉な理由で支持されている「韓国左派」は、日本と異なり西洋とこうしたハードな外交経験を経てこなかったが故に中国や朝鮮半島に残ってしまった中世残滓と密接な関係があると目されている。実際、米国メディアの報道や一般の韓国人及び韓国系アメリカ人の所感によれば、背後に北朝鮮や中国(特に中央共産党と対立関係にある東北軍閥)の影を濃厚に感じるという。

日本宣教時代のイエズス会のカテキズモ(指導要綱)が現存しているのですが、その内容がなかなか壮絶。

  • 日本人は肉食を嫌うので、どうしても肉が食べたければ完全に隠し通さねばならないとする。その為の方法論が詳細に掲載されているのだが「骨は完全に砕いて地中に埋めよ」とか、完全殺人マニュアル状態。

  • また「巻貝を喜んで食べない様な宣教師を日本人は信用しない」とし、その食べ方も詳細に掲載されているが、「迂闊に噛むとあの独特の味が口中に広がって大変な事になる。そのまま飲み込め」とか、石田スイ「東京グール(2011年〜)」におけるグールの「人間偽装マニュアル」状態。

笑ってはいけません。彼らの布教に対する熱意が本物で、それがこうした真摯さをともなって実践されたからこそ、その布教は大成功を収めたわけですから。まさしくこれこそが「Virtual」の世界。出自こそ詐称でも、あたかも本物の様に振る舞い続けて暴力社会における敬意を勝ち取った「テンプラ特攻隊」の世界。

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*英語で「チンピラ(punk)」なるニュアンスを備えた接頭語「オルタナ(Alt-)」を冠した「オルタナ右翼(Alt-Right)」や「オルタナ左翼(Alt-Left)」もまた、こうした精神の継承者と考えるべきなのかもしれない。幕末期に良い意味でも悪い意味でも名前を残した新選組もまた、その大半は武士の格好をした農民に過ぎなかったが、むしろそうした出自故に本物の武士以上に苛烈に武士らしく振る舞おうとしたのであった。

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イエズス会の適応主義(Accomodatio)はさらに本質的かつ本格的なもので、それゆえに時期と地域ごとに全く異なる実績を残してきました。

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①巡察師ヴァリニャーノがパドヴァ大学出身だった事に端的に表れている様に、その思考様式の根底には後期ルネサンスを特徴付ける新アリストテレス主義、すなわち科学実証主義の源流たる「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えば実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」なる信念が透けて見える。
*そもそもスペインの信仰的熱狂の延長線上に現れたとされるイエズス会運動自体、それを起こしたのはそれまで惰眠を貪ってきた教会中枢部ではなくバスク地方出身のイグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio López de Loyola、またはInigo Oinaz Loiola、1491年〜1556年)やナバラ王国家臣団末裔のフランシスコ・デ・ザビエル(Francisco de Xavier または Francisco de Jasso y Azpilicueta, 1506年頃〜1552年)といった外縁部の冷や飯喰らい連中だったのである。いうなれば彼ら自身が「テンプラ特攻隊」にして「新選組」。既存の方法論の延長では新教への巻返しなど不可能な事を熟知しており新しい方法論をどんどん取り入れていったのだった。

*そういった具合だったのでイエズス会は自らを軍隊式に組織し、新選組はオランダから輸入した歩兵操典を大いに参照。そういえば平安時代末期日本における律宗の改革にも似た様な側面が見て取れる。

ロシア帝国清朝の国境制定に際して、実質上両国の外交官として活躍する。

ネルチンスク条約(1689年)

康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代(摂政ソフィア・アレクセーエヴナ)のロシア・ツァーリ国との間で結ばれた、両国の境界線などについて定めた条約。清とヨーロッパ国家との間に結ばれた初めての対等な条約で、その内容は満洲(現・中国東北部)での国境を黒竜江・外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の線に定めるというものであった。

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  • 17世紀中頃からヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなどロシア人の探検隊が黒竜江・アルグン川より南下(後の南下政策)するようになり、黒竜江沿いにはアルバジンの要塞が築かれた。このため清と朝鮮王朝の連合軍がたびたび「清露国境紛争」と呼ばれている討伐を行った。清は逃亡者の引き渡しをロシアに求め、さらにロシア人の撤退を求めた。しかし、ロシアはこれを拒否した。

  • 清が討伐軍を本格的に動かし始めたため、ロシアの摂政ソフィア・アレクセーエヴナと顧問のヴァシーリー・ゴリツィンはフョードル・ゴロヴィンを特使として派遣し、1689年にネルチンスクで清のソンゴトゥと交渉を開始。ロシアは清との交易を望み、清は清・ジュンガル戦争(第一次、1687年〜1697年)中であったことからモンゴルのジュンガルを孤立させることを望んだため、利害関係が一致し、交渉が成立したのだった。

  • 対等の条約ではあったが、清にとって有利なものとなった。なぜなら、ロシア側にとっての念願であった不凍港を獲得できなかったからである。2度のクリミア遠征(1687年、1689年)失敗とネルチンスク条約での譲歩は、ソフィア・アレクセーエヴナ摂政政府の威信を失墜させる。9月になるとゴリツィンはシベリアへ流罪となり、ソフィアは修道院に幽閉された。そしてピョートルの母ナタリヤ・ナルイシキナが実権を回復し、1694年に死去するまで国政を運営。その後、ピョートルが親政を開始する。

  • 一方、清朝はロシア関係の事務をモンゴルや内陸アジアの朝貢を扱う理藩院で行うなど、以降ロシアの朝貢国扱いを続ける。その後、1858年のアイグン条約で黒竜江が両国の境界線となり、1860年の北京条約でネルチンスク条約は廃棄された。

両国間では言語が異なるため条約の原文はラテン語からなっており、清側のアドバイザーとして2人のイエズス会員トマス・ペレイラ(Thomas Pereira、徐日昇)およびジャン・フランソワ・ジェルビヨン(Jean-Francois Gerbillon、張誠)が交渉にあたった。イエズス会士は両国の宮廷にいて、条件を詰める調整は彼らが仕切ったと考えられている。

③中米メキシコにおいては現地人に自尊心の拠り所を与える運動で大きな役割を果たす。ある意味それはメキシコ人の民族アイデンティティにグランド・デザインを与えた偉業として記憶されている。

グアダルーペの聖母(スペイン語Nuestra Señora de Guadalupe、英語Our Lady of Guadalupe)

カトリック教会が公認している聖母の出現譚の一つでメキシコで最も敬愛されている宗教的シンボル。瞳にはプルキンエ‐サンソン鏡像が正確に描かれている。当時の技術でなぜ描くことが可能だったのかは不明。近年の調査では、マントの聖母像の瞳部分にはディエゴとおぼしき人物が写っていると主張する人もいる。
植民地期メキシコにおける「グアグルーペの聖母」信仰に関する一考察
グアグルパニスモの理論的唱導者ミゲル ・サンチェス :その著作 と歴史的背景
「マリア」とは誰か?─ 中南米ポピュラーソングを通じてみる「マリア」像 ─
Tumblr上における「Guadalupe」の検索結果
Google上における「Guadalupe」の検索結果

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  • 1531年12月9日、メキシコ・グアダルーペインディオ、フアン・ディエゴの前に聖母が現れたとされる。聖母は、司教に聖母の大聖堂を建設する願いを伝えるよう求めた。病気の親類の助けを求めにいこうとしていたディエゴが話しかける聖母をふりきって走り去ろうとした時、聖母は彼を制止し、親類の回復を告げた。ディエゴが戻った時、病気だった親類は癒されていた。聖母に司教へしるしとして花を持っていくよういわれたディエゴは、花をマントに包み、司教館に運んだ。司教館に花を届けた際、ディエゴのマントには聖母の姿が映し出されていた。

    http://www.tudocente.com/wp-content/uploads/2012/12/virgen-de-guadalupe.jpg

  • 1537年、ローマ教皇パウルス3世は、インディオは理性ある人間として扱われるべきという回勅を発し、植民地におけるインディオへの迫害を禁じたる事になる。そしてフアン・ディエゴは後に列聖され、彼が聖母を見たメキシコ市近郊のテペヤク(Tepeyac)の丘には巨大なグアダルーペ寺院(Basílica de Nuestra Señora de Guadalupe)が建っている。

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f3/Basilica_of_Our_Lady_of_Guadalupe_%28old%29.JPG/350px-Basilica_of_Our_Lady_of_Guadalupe_%28old%29.JPG

  • 聖母はメキシコの民族主義の象徴ともなっており、メキシコ独立革命の指導者ミゲル・イダルゴの蜂起の宣言(ドロレスの叫び)では「聖母万歳」と唱えられている。メキシコ革命の指導者の一人、エミリアーノ・サパタの軍隊は聖母の像を帽子につけていた。

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  • 1994年1月1日、北米自由貿易協定NAFTA)の発効日に「NAFTAは貧しいチアパスの農民にとって死刑宣告に等しい」としてメキシコ南部のチアパス州ラカンドンにおいて武装蜂起したEZLN=サパティスタ民族解放軍もまた口をバンダナで覆った聖母を自らのシンボルとしている。

    http://www.preguntasantoral.es/wp-content/uploads/2013/12/Foto8.jpghttps://s-media-cache-ak0.pinimg.com/736x/9c/17/05/9c1705c5692d5bcd9173863710639da3.jpg

  • グアダルーペの聖母と、キリスト教が入る以前のアステカの女神、トナンツィン (Tonantzin、ナワトル語で〈われらの母〉の意) とを関連付ける見方もある。聖母が目撃されたメキシコ市近郊のテペヤク(Tepeyac)の丘は元々この女神を祀った霊場だったからであり、だから教会内にインディオによる聖母目撃を「悪魔の思い付き」で片付けようとする動きもあったのだが、最終的には「征服者と被征服者の精神的一体化の表れとみなせる」という声が勝ち、1537年にローマ教皇パウルス3世が「インディオは理性ある人間として扱われるべき」という回勅を発し、植民地におけるインディオへの迫害を禁じる事になる。そしてフアン・ディエゴは後に列聖され、彼が聖母を見たメキシコ市近郊のテペヤク(Tepeyac)の丘には巨大なグアダルーペ寺院(Basílica de Nuestra Señora de Guadalupe)が建てられ、次第にグアダルーペ信仰がメキシコ人の間で人気を勝ち取っていったのだった。

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そして今日では、ラテンアメリカ全土から巡礼者が集まる12月12日のグアダルーペ聖母の大祭では、室内においてカトリックのミサが行われる一方で、屋外において沢山のグループがアステカ時代の衣装をまとい、アステカの舞踊を舞う様になったという。

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*国際SNS上の関心空間においてとあるメキシコ人少女が「グアダルーペの聖母は私達にとっての伝統的初音ミクだ」なる発言をしてた。ここで「グアダルーペの聖母」が象徴しているのは「様々な絵姿で描かれ、時として政治的宗教的商業主義的キャンペーンに利用されたり、瀆神表現の対象になったりする事さえあるけれど、それでも決して本質的崇高さが穢される事はない中心概念」。つまり「初音ミク」の「二次創作の世界で好き放題にされているが、それによって大元の商業的利用価値が損なわれる事はない」という部分に呼応する。

*ちなみに「それ原型は女性器崇拝じゃね?」と指摘する事は暗黙的に禁止されている。

④ 南米においてはインディオ教化村を建設し、自らの存続を賭してまでこれを奴隷狩りやポルトガル・スペイン軍の手から守り抜こうとした。

私たちの40年!! あるぜんちな丸同船者寄稿集

パラグアイ、アルゼンチン、ブラジルの三国にまたがるミッソンエス地方に分布するグァラニー伝道施設遺跡群。アルゼンチンとブラジル側が1983年に、パラグアイ国側が1993年にユネスコ世界遺産に登録されている。

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  • この遺跡はポルトガルやスペインからきたローマカトリック教の一派であるイエズス会の宣教師たちが、先住民グァラニー族にキリスト教の教えを説いて、彼らを文明的なクリスチャンに教育しようとした「教化村」の跡地。一般にレドウソン(Reducciones、スペイン語でレドクシオン)と呼ばれていた。この言葉は「保護統治地=再教育をするために隔離した場所」を意味する。

  • イエズス会独特の伝道方式で、インディオを本来の居住地から引き離し、共同生活を営みながら農耕生活を中心とする自給体制をとり、カトリック教を普及させていこうというやり方だ。彼らはこのあたりに住んでいたグァラニー族を集め、村を作って学校、工場、宿舎、食堂、厨房、倉庫、住宅などを建設し、バナナやマンディオカ、マテ茶を植えて生産活動を行った。

  • 当時この地方には30の教化村が作られ、約15万人のグァラニー族インディオが住んでイエズス会士の指導のもとに生活を行っていたのだった。1560年にバイアの教化村を指導するルイース・ダ・グロン神父がインディオの主を集めて、カトリック信者の守らねばならぬことを四か条にまとめたのが、◎一人以上の妻をもたない。◎酒を酔うまで飲まない。◎パジェー(祈祷師)の言葉に従ってはならない。◎人間を殺さない、人間の肉を食べない、というものだったのであるから、よくぞここまでと言わざるを得ない。ポルトガル本国でさえ19世紀初期になっても非識字率90%でほとんどの市民が読み書きできなかったのに対し、その300年も前にイエズス会士達はこの地域においてインディオの子供達に学校で読み書きを教え、楽器を作らせ、それを演奏させて賛美歌を歌わせていたのだった。

  • 17世紀後半から18世紀初旬に建設された各教化村の人口は6000人から1万人程度。18世紀中旬には全人口が30万人近くになっていたようで、歴史家によってはこれを「グァラニー共和国」または「ゼズイッタ(ブラジル語における「イエズス会」)帝国」と呼んでいる。イエズス会士がミッソンエス地方で行った活動は1610年から150年に渡った。

ところでイエズス会はこの地でただ単にインディオ達を教化しただけではない。現地の奴隷狩り部隊と戦い続け、ついにはその完全撃退に成功してもいる。

  • 16世紀後半、ポルトガルからブラジルへ移住して、最初にサトウキビのプランテーションと砂糖工場を成功させたのはユダヤ系移民とその子孫だった。かくして1570年には60箇所しかなかった砂糖農園が1610年には230箇所に増大。16世紀後半には早くも黒人奴隷の導入が始まっているが、その程度では到底労働力不足は補えなかった。

  • かくして南米史上に悪名高き「バンデイランテス」が登場する。彼らは当初金、銀、宝石といった金目のもを探して奥地に足を踏み入れる探検隊だったが、次第にインディオ狩りと奴隷売買に手を染めていった。その名前で呼ばれるようになったのは、それぞれ自分の隊長家紋の旗を掲げて行軍した為といわれている。指揮官にポルトガル人、下士官に混血のマメルコ(白人とインジオの混血)、その下にグァラニー族と敵対するツピー系インジオという構成で100人から200人の隊を組み、16世紀末から17世紀終わりにかけての一世紀に渡って活動を続けた。

  • 彼らの活動を支え続けたのは現地におけるインディオ奴隷需要だった。1580年からハプスブルグ家がポルトガル王を兼ねるようになると、アフリカからの黒人奴隷が値段の高いスペイン王植民地の方に流れる様になり、ブラジル側は労働力不足に陥ったのだった。ちなみに黒人奴隷とインディオ奴隷では値段に4倍の開きがあったという。

  • かくしてイエズス会が次々と教化村を建設していったのと同時期、バンデイランテスの活動も活発化。彼らは当初教化村襲撃は避けていたのだが、1620年代に入るとオランダやイギリスの海上勢力が大西洋を渡るポルトガルやスペインの奴隷船を片端から捕獲する様になって奴隷不足はますます深刻化。それでブラジル総督がインディオ狩りを公認し、サンパウロ住民がバンデイランテスを編成してミッションを攻撃する様になったのだった。中でも壮絶だったのは1629年における悪名高きアントニオ・ラポーゾ・タバーレス隊長率いる900人のグループの攻撃。さらにツピー族インディオ2200人を従えてグアイーラ地区の11のミッションと7箇所のインジオ部落を襲い、1万8千人のグヮラニー族インジオを捕獲してサンパウロまで運んだと伝えられている。彼らはミッション襲撃に際して虐殺を重ねたばかりか、その捕虜をサンパウロに連行する際もその多くを殺戮している。リーダー格と見られるインジオや老人・子供は、もとより幼児を連れた母親に至っては路傍への遺棄を命ぜられたという。

  • 彼らが教化村を襲ったのは、そこにインディオが多数集まっていた事、グアラニー族は素質がよい上、イエズス会士の教育を受けていた為に高価で取引きた事、そして何よりイエズス会士が無抵抗主義に徹していた為、安心して傍若無人に振る舞えたせいであった。バンデイランテスによってグアイーラ地区とタペー地区を合わせたミッションで捕われ奴隷となったインジオの総数は不明だが、一説に20万人ともいわれている。

  • 度重なるバンデイランテスの襲撃にたまりかねた神父たちはローマ法王へ度々直訴したが、ローマ法王パウロ三世がインジオに関しての小勅令を出しても効果ははかばかしくなかった。それでイエズス会士も最後にはインジオ側の武装案を容れ応戦を認めざるを得なくなる。実際の闘いとしてはムボロレーの戦い(1641年)などが有名。これは前回、思わぬ抵抗に遭って不覚を取ったバンデイランテス側からの復讐戦であった。600人のバンデイランテスが700隻のカヌーに分乗したツピー族4000人を動員してウルグアイ河沿いに下降進撃してきたのを、ほぼ同数のイエズス会インディオ軍が迎えうち、相手を粉砕したのだった。

  • 1649年になるとパラグアイアスンシオンに駐留するスペイン軍がミッソンエス地方の三十の教化村を承認し、宣教師以外のヨーロッパ人、混血人の立ち入りを禁止する。これはバンデイランテスに対する一種の宣戦布告で「今後バンデイランテスが混血のマメルコを率いて教化村を襲ってきたら、スペイン軍が相手をする」という意思表示だった。以降、バンデイランテスが教化村を襲うことはなくなる。

しかし18世紀に入るとイエズス会そのものが存続の危機に立たされる事になる。

  • 1750年になるとポルトガルとスペインの両王がマドリード条約(南米植民地の境界線を確定する協議)に調印。この時、ウルグァイ川以東の地にあった教化村に住むグァラニー族はすべて村を放棄してウルグアイ川の西に移住することを迫られたが、ブラジル側になったセッテ・ポーボの教化村は立ち退きを拒否。1753年からスペイン、ポルトガル両王は討伐軍を出し1756年には教化村を崩壊させる(グァラニー戦争)。インディオたちは逃げる際に教会や住居に火を放ち、後には石造りの部分だけが焼け残ったのだった。

  • こうしたイエズス会の抵抗は「独裁者」ポンバル侯の怒りに触れる。彼らは1759年に突如としてブラジル側から追放された。630人が船でポルトガルに送られ、改めて国外追放とされたのである。ポンバル侯はそれでは満足せず、隣接のスペイン王朝に働きかけて1768年、今度はスペイン王が領内からイエズス会士を追放。これによってパラグアイからアルゼンチンにかけて存在した教化村も全て廃墟と化した。さらには他の列強と足並みをそろえて法王庁に働きかけ続け、1773年には法王クレメンス14世を説き伏せて回勅「ドミヌス・アク・レデンプトール((Dominus ac Redemptor)」を発布させてイエズス会を活動禁止に追い込んでしまう。
    *ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ(Sebastião José de Carvalho e Melo, primeiro Conde de Oeiras e Marquês de Pombal、1699年〜1782年)…本国においては「リスボン地震(1755年11月1日)復興の英雄」。植民地においては「イエズス会を滅ぼした悪魔」。まぁ独裁者であったのは事実で、最後にはそれが命取りとなって失脚。

    *考えてみれば薩摩藩を経済危機から救う一方で琉球王朝を地獄に落とした調所笑左衛門(1776年〜1849年)と立場が似ている。彼なしに幕末期における薩摩藩の活躍はなかったし、ひいては明治維新も有り得なかった事を思えばなかなか評価の難しいタイプではある。

しかしイエズス会はこの前代未聞の苦難を生き延びる。

1814年になると教皇ピウス7世の小書簡「カトリケ・フィデイ」によってようやくイエズス会復興が許可される。ここからの復興はめざましく、19世紀のうちに世界中に多くの学校がに設立された。たとえばアメリカ合衆国にある28のイエズス会大学のうち22はこの時期に創立されたか、あるいは他から引き取ったものである。

禁酒法(Prohibition、1920年〜1933年)制定下のアメリカにおいてこれを廃止に追い込んだアイルランド系移民の参謀役として、トーキー映画登場時に世界初の映像倫理規定Hays Codeを制定。
*そう、イエズス会の適応主義(Accomodatio)は、ただ単に目の間の人間を懐柔するだけではない。来るべき時代を見据えて新たな価値観を創造したりもするのである。

Hays Code(1930年)序文

正しいエンターテイメントは国民全体の水準を引き上げ、間違ったエンターテイメントは国民の道徳的理想を引き下げ日々の生活を過酷なものにする。そして(劇場ごとに客層の異なる演奏会や芝居と異なり)フィルムに焼き付けられた映画の上映会は観客を選ばないので(子供もギャングも見に来る為)特に内容を慎重に吟味する必要がある。

  • 書物は冷ややかに説明するが、フィルムは鮮やかに提示する。

  • 書物は言葉を通じて心に到達するが、フィルムは撮影内容の再生結果を眼と耳に同時に届ける。

  • 書物が読者から引き出す反応は当人の想像力と熱意に比例するが、映画が観客から引き出す反応は提示の手際の良さに比例する。

とどのつまり良い意味でも悪い意味でもその影響力は書籍や音楽や芝居より顕著で一方的なのであり、だからその影響の範囲と方向性を「映画を通じて悪行は悪いもので、善行は正しいことであると観客が確信する」形に限定せねばならない。特に悪党に犯罪のヒントを与えたり、人々の心に粗暴な振る舞いや犯罪や麻薬や不実な愛といった悪徳への憧憬を惹起する様な振る舞いだけは絶対に避けねばならぬ。

*否応なく日本宣教時代に起草されたカテキズモから一貫して継承されてきた何かを感じる。南ドイツの貧民時代このHays Code理念が日米のリベラル層の意識を席巻してしまう。 つくずく日本人はイエズス会の適応主義(Accomodatio)に弱い…

こうしてイエズス会の活動を全体から俯瞰してみると「一貫して五感が与える印象を武器として活用してきた」側面が強く浮かび上がってきます。まずこれが「一の矢」。天麩羅における「衣」の部分。

  • 領主への憎悪からプロテスタントに改宗した南ドイツ貧農の前には粗末な僧衣で現れて共感を誘う。

  • 戦国時代日本へは高僧の様な華やかな衣装で現れ、現地から次々と助祭を採用。

  • 中米においては、それまでバラバラに暮らしていたインディオ達に民族統合の旗印を与えて「メキシコ人」を創造する。

  • 一方、南米においては賛美歌を集団統合の道具として活用。

  • 近代アメリカではトーキー映画登場に際して「人を倫理的に堕落させるのでなく、向上させる映画」の基準を制定。

そして相手が交渉のテーブルについて、話し合う準備が整ってやっと「二の矢」たる「言葉と教育」が生きてきます。天麩羅における「タネ」の部分。

  • 当時のアジアでは様々な意味合いでマテオ・リッチの「天主実義(1604年)」が儒学者の必読書となっていた。

  • 江戸時代日本に密入国して捕まったイタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチ(Giovanni Battista Sidotti、1668年〜1714年)と幕府要人新井白石が1709年に対等な立場で学問的対話が交わせたのも、(遠藤周作「沈黙(1966年)」における主人公のモデルとなった)ジュゼッペ・キアラ(Giuseppe Chiara、1602年〜1685年)の著した「天主教大意」と併せ、そうした共通する基礎教養があったればこそだった。

  • 新井白石はシドッチとの会話内容を「西洋紀聞(1715年頃完成)」にまとめた。しばらくは秘かに写本によってのみ伝えられるのみだったが、1807年以来広く流布される様になり、鎖国下ながら日本人の世界認識を広げるのに大いに役立つ。

こうした展開もあっての明治維新だったという事を、日本人は決っして忘れてはいけないのですね。

何かもう、これだけで閉じた系が形成されています。もはや「本物」である事が何の付加価値も生まない世界観…ところで最近、アメリカにおいては多元主義多文化主義をめぐる議論が盛んに行われているといいますが…

アメリカ「多元主義」の系譜---マディソンから行動論まで---

アンティ・フェデラリスト派が保守主義者であったということは、「連合規約」に特徴的な分権型連邦政府の形態に固執したいと考えていたことに認められる。というのも、この規約には、邦議会において実質的に代表される幾つかの政治的統体ないし人民の存在が含意されていたからである。彼らの基本的前提は、個人の自由と共和政治が市民的有徳を行使・維持し得るだけの、経済的・社会的・文化的にかなり同質的な人々からなる狭い地域においてのみ成立し得るとするものであった。こうした地域にあってこそ、人民と政府との緊密な関係や相互の応答と責任の体制が成立し得ると考えられた…彼らの構想からすれば、専制化を制約するためには、政府の構造を簡素なものとし、また、明確な制度的分離をもって均衡化される必要にもあったのである。
*「(地方に分布する農場主が、家父長制と奴隷制を守り抜く為に中央政府の介入を警戒する)ジェファーソン流民主主義」の原風景。

一方、フェデラリストたるマディソンとハミルトンが訴えた人間性のイメージは、自己利益の追求欲の激しさとその多様性のゆえに、同質性が不可能とされるとするものであり、かくして一般的公徳心の可能性が掘り崩され、社会的安定が脅かされるとみなされたのである。こうした「徒党と動揺」の世界にあって、政治秩序、統一性、安全、自由を維持すべきものとすれば、求められることは、強力で活力にあふれ、集権的で独立型の政府と国民主権であるとされた。つまり…彼らの議論にあって、基本的問題とされたことは、現在と歴史とを問わず、多様な社会・経済的利害と能力を基礎として成立する国内の徒党であり、この問題への対応こそが、政治の科学の課題とされたのである。
*「ザ・フェデラリスト(The Federalist Papers、1788年)」が刊行された時点のアメリカはまだまだ「移民の坩堝」と化していなかった。また都市化や工業化によって「都市住民と地方住民」「資本家と経営者と労働者」といった集団間の利害対立が先鋭化してもいなかった。従って(この論文集において最も重要とされる)ジェームズ・マディソン(James Madison, Jr.、1751年〜1836年)が第10篇で論じた「多数派による支配を防ぐ手段を論じ、共和制を拡大していく必要がある」といった問題もまだまだ抽象的にしか意識されていなかった。それくらい歴史のこの時点におけるアメリカ人は均質だったのである。

1.アングロ・コンフォーミティ論

建国当時から南北戦争にかけて、ほぼイギリス系移民が多数派で、英語を共通語とし、アングロ・サクソン流の社会制度で運営されていた。南北戦争後の国家統合の時期から、一九世紀末ごろの南欧・東欧系の非アングロ・サクソン系移民の急増の時期にかけては、このアングロ・サクソン流の生活様式や価値を受け入れることがアメリカ人になることとイコールであった。

2.るつぼ論

1908年、ユダヤ系イギリス人の劇作家イズレイル・ザングウィルが発表した戯曲「メルティングポット(るつぼ)」がブロードウェイでロングランヒットとなり、アングロ・サクソン系だけではない様々な人種がアメリカというるつぼの中で融合し、文化的に新しい人間=「アメリカ人」が形成されるという考え方が広まった。

3.サラダ・ボウル論(文化多元主義

これまでの文化的融合を前提とした考え方を批判する形で提唱された。藤本龍児著「アメリカの公共宗教―多元社会における精神性」はこう記す。「1915年、ユダヤ系アメリカ人の哲学者であるホレス・カレンは、アングロ・サクソンの伝統がアメリカ文化の中心的な地位にあることを認めながらも、それぞれの移民が依然として、自らの属するエスニック集団の伝統的文化に執着していることに注目した。事実、アイルランド系の移民は、カトリックの信仰を保持しており、アーミッシュは、アングロ・サクソン文化とは隔絶した生活を送っている。こうしたことからすれば、アメリカは、同質化された社会なのではなく、異質な文化が、モザイクのように組み合わされた社会であると言えるのである。」。この考え方は文化多元主義は1950年代から60年代にかけての公民権運動の中で多様性を認めるための思想としてリベラル派によって取り入れられ、アファーマティブ・アクションなどの政策に反映されていく。この過程で「民族性」を「私的領域(他者や他の文化からの干渉をまぬがれる事柄)」、「国民性」を「公的領域(他者や他の文化との交渉によって形成されたり維持されたりする事柄)」に位置付ける枠組みが出来上がり「私的領域」においてエスニック文化の多様性を承認しながら「公的領域」において(自由や民主主義といった信条に基づく)共通性を確保したのがアメリカ人と再定義された。

4.多文化主義

1970年代以降になると、アメリカ移民の中心は中南米、アジア等非ヨーロッパ系集団へと推移。「アメリカは西欧的価値観を中心とした国である」という考え方に基づいた多様性を認める文化多元主義が限界を見せ始める。そしてアフリカ系やヒスパニック、アジア系など非西洋系の人々を含んだ新しい思想として多文化主義が登場。「文化多元主義の背景にある西洋的価値観が他の文化を抑圧している」とし「私的領域のみならず公的な領域でもエスニック文化の多様性を承認」するように求めた。そしてこうした動きが人種や民族だけでなく女性、同性愛者、高齢者など様々な社会階層の文化の尊厳と承認の要求へとつながっていく。

それは同時に「黒人らしく生きる権利」「女性らしく生きる権利」といった具合に「(それまで社会の主流派だった)白人男性」との差異を強調した事から「差異の政治」と呼ばれ、固有のエスニシティを主張する運動や、奴隷としての歴史を持つ黒人などの歴史を学ぶマイノリティ教育などが展開していく。その一部は「ポリティカル・コレクトネス」を振りかざして差別語の言葉狩りなどラディカルな活動を行いはじめ、国家としての統一性を重視する保守派と鋭く対立。これが1980年代以降に激化する文化戦争の基本構造となっていく。

その後、黒人運動はBlack EstablishmentとPoor Blackに、女性運動はラディカル・フェミニスト&リベラル・フェミニストと第三世代フェミニストに分裂。「本当の黒人とは何か」とか「本当の女性とは何か」とか問う意義そのものが吹き飛んでしまいます。

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最大の分岐点は黒人公民権運動時代の旗手Nation of Islamが「男尊女卑は黒人が守り伝えるべき伝統文化」なんてアナクロな事を言い出してリベラル派黒人や黒人女性が逃げ出したあたりだったとも。以降「多文化主義」はある種の迷走状態に突入してしまうのです。まさにこういう時代にこそ「イエズス会の方法論」が思い出されるべき?