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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【黒澤明の「蜘蛛巣城」】【エイゼンシュテインの「イワン雷帝」】時の権力と薄氷を踏む思いで共存してきた伝統芸能

黒澤明監督作品「蜘蛛の巣城(1957年)」。

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この作品については、ソ連エイゼンシュテイン監督作品「イワン雷帝(第1作1944年、第2作1946年)」との類似性を指摘する向きがあります。

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確かに、どちらも「後ろ暗い行為に手を染める権力者の苦悩を日本芸能的様式美で表す」アプローチなのは確か。

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  • 実際には「イワン雷帝」のそうした演出の大元もまたやはり日本芸能であった。能や八百屋お七の「人形降り」の世界。来日時、歌舞伎を鑑賞してその見栄切りに感心した記録も残っている。

  • 要するに、魔が差していままさに禍事に手を出さんとしている人が、必死になって自分に向かって「私はこの役割を演じさせられてるだけなんだ!!」と言い聞かせてる感じ。様式美への没入は、そうした細部を人の目からも自分の目からも隠してくれる。ヨセフ・シュターリンは「イワン雷帝第1部」を絶賛したが、そもそもエイゼンシュテイン監督にこの題材でそう演出する様に指示したのも当人だったと見る向きもある。

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  • 何しろスターリンの手は同胞を粛清してきた血で真っ赤に染まってる。同様の経歴の持ち主たるイヴァン雷帝(モスクワ大公1533年〜1547年、初代ツァーリ1547年〜1574年、1576年〜1584年)の「救済」に救いを求めるのは当然の成り行きだったのかもしれない。

    http://forgottencityiram.tumblr.com/post/152387520988

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    マンハイムの「保守主義的思考」の分類に鑑みると、与えられた役割を黙々と機械的にこなすだけのが「伝統主義」。後先考えず、演技内容を全く新しい体系に一斉差し替えようとするのが「進歩主義」。脱線を恐れず、心の赴くままに振舞おうとするのが「ロマン主義」。そして「自分に与えられた役割」からの逆算で演技内容を決めるのが「保守主義」といった具合になるっぽい。そしてスターリンが求めたのが「伝統主義」的アプローチだとしたら、この作品で三船敏郎の演技が追求したのは「ロマン主義化された保守主義」的アプローチって感じ?

この件に関しては、こんな分析も。

シグムント・フロイト「精神分析の作業で確認された二、三の性格類型(1916年)」

シェイクスピアの『マクベス』は、それまでまでスコットランド王だったジェイムズが即位したことをきっかけとして書かれた作品である。素材は知られていたし、他の作家もこの素材を利用した作品を書いている。いつものようにシェイクスピアは他の作家の作品を利用したらしい。彼はこの作品で当時の状況を鋭くあてこすっているのである。

「処女王」エリザベス女王は、子供を生むことのできない〈不生女〉であると噂されていたが、かつてジェイムズが誕生したという知らせを聞くと、悲痛な叫びをあげて「この不毛な幹が」と自分を罵ったそうである。女王は自分に子供がなかったので、スコットランドの王を自分の後継者として迎えざるをえなかったのである。そしてこのスコットランド王はメアリの息子であり、エリザベスはかつて、いやいやながらも、メアリの処刑を命じたのである。政治的な理由のために二人の関係は悪化していたものの、メアリはエリザベスの血縁者であり、かつては彼女の客と呼ぶことができた女性だったのである。

ジェイムズ一世が王位についたことは、不妊が呪われ、[子をなして]世代を継承することが祝福されることを証明する事態だった。そしてシェイクスピアの『マクベス』の筋の展開は、まさにこの対立を土台とする。運命を予言する魔女たちは、マクベスにはみずから王になると予言し、バンクォウには子孫が王冠をうけつぐだろうと予言する。マクベスはこの宿命的な予言の言葉に反逆しようとする。自分が王に即位するという野心の実現だけでは満足できずに、[子孫も王となる]王朝を創設したいたいと考える。みずから敢行した殺害で、[他人に王朝を築かせて]他人を利するようなことはしまいとするのだった。

シェイクスピアのこの劇に、野心から生まれる悲劇だけをみようとすると、この点を見逃すことになる。

実は「イヴァン雷帝(Иван Грозный / Ivan Groznyi)」ことイヴァン4世(Иван IV Васильевич / Ivan IV Vasil'evich、モスクワ大公1533年〜1547年、モスクワ・ロシア初代ツァーリ1547年〜1574年、1576年〜1584年)はエリザベス1世と同時代の人物にして、求婚者の一人だったのです。とはいえ当時のロシアはやっと「タタールの軛(くびき)」から脱したばかりの後進国で、到底結婚相手として選ばれる可能性など皆無だったと考えられています。そして(チンギス=ハーン末裔として領内のタタール(韃靼)系イスラム教徒を束ねる事になった)イヴァン雷帝もまた、王朝創設には失敗する宿命を背負わされていたのでした。

  • 1553年8月末にイングランドから北極海航路で中国を目指したエドワード・ボナベリンジャー号が白海の通過を断念し、ロシア領の北ドヴィナ川の河口(現在のアルハンゲリスク州)に到着。これにより航路が確立され、両国の関係が始まる。

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  • 1555年、ロシアとイングランドは通商協定を締結。イヴァン4世はイングランド商人に関税撤廃、自由移動権、ツァーリの裁判以外の治外法権といった優遇を与え、毛織物、武器、弾薬、火薬の輸入に加え、医師や技術者を招聘する。ところが白海アルハンゲリスク経由によるイングランド・モスクワ会社との貿易は、北極海航路しか利用出来ない限り、1年のうち短期間しか通行が許されない。かくして「ロシア帝国の悲願」バルト海方面への進出が始まる訳だが、歴史のこの時点におけるそれは時期尚早にも程があり、リヴォニア戦争(1558年〜1583年)におけるドイツ騎士団残党との衝突は、北欧諸国やハンザ同盟をも巻き込んだ北方七年戦争(1563年〜1570年)へと発展していく。

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  • 当時のロシアはもう一つ(「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」に立脚する)大貴族連合や聖職者とツァーリの対峙という問題が存在した。1562年に制定された新たな土地法は、それまで貴族の生得の権利とされてきた世襲に制限を加える内容であり、貴族の領地を子供以外の兄弟親族が継承する場合はツァーリの許可を必要とし、また売却や交換の一切を禁じていた。しかし大貴族連合はそれを守ろうとせず、また(当時欧州最大級の大国の一つだったポーランドを敵に回しかねない)リヴォニア戦争に反対し、(オスマン帝国との対決を余儀なくされる)クリミア・ハン国征服を要求し続ける。そういう状況下で1564年12月3日、イヴァン4世は突然家族を連れてモスクワ郊外のアレクサンドロフに移り、退位を宣言。
    *15世紀において「串刺し公(Vlad Țepeș / トルコ語: Kazıklı Bey)」ヴラド3世とその弟たる美男公ラドゥの生涯を翻弄した悲劇の根幹。それはワラキア公国が「東欧の大国(ヴラド3世の時代はハンガリー公国)」とオスマン帝国に挟まれた小国に過ぎず、両者の思惑に翻弄される小国に過ぎなかったという点にあった。当時成立したばかりのモスクワ・ロシアも同様の状況に置かれた訳である。

    串刺し公(Vlad Țepeș / トルコ語: Kazıklı Bey)ことワラキア公ヴラド3世(Vlad III 、1431年〜1476年)オスマン帝国に人質に出された時代にその先進性(高度に中央集権化されたスルタンを頂点に頂く官僚制)に圧倒される。併呑される恐怖から対オスマン帝国強硬派となる一方、自国をオスマン帝国の様に中央集権化したいと願う様になり、諸侯連合と対峙して(彼らに対する)恐怖政治を敷く。「正義王」マーチャーシュ1世による幽閉(1459年〜1474年)から解放された後、反撃に向けての後援を得る為に東方正教会からカソリックに改宗。この措置により故国の支持を失い破滅的最後を遂げる羽目に陥る。

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    美男公ラドゥ(Radu cel Frumos / Radu the Beautiful)…ヴラド3世の弟。ヴラド3世と一緒にオスマン帝国に人質に出された時代にメフメト2世の愛妾の一人とされ、後に大貴族連合の傀儡として擁立される。
    *ちなみに「その筋の人達」には、トルコのTVドラマ「Fatih(ファティフ=トルコ語で「征服者」の意)」にこの役で出演したアンドレイ・ペジック(Andrej Pejic、2014年女性に性転換)嵌まり役として知られているらしい。
    アンドレイ・ペジック - Wikipedia

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    「正義王」マーチャーシュ1世(ハンガリー語Hunyadi Mátyás/ラテン語Matthias Corvinus Huniades、ハンガリー王1458年〜1490年、ボヘミア王(対立王)1469年 - 1490年、オーストリア大公1479年)…オーストリア方面への拡大を望むが故にオスマン帝国との対決を避けた。その立場から対オスマン帝国強硬派のヴラド3世を幽閉し、オスマン帝国と現地諸侯連合が擁立した美男公ラドゥを承認。この無理を通す為、イタリアン・ルネサンスから輸入した出版物を使ったプロパガンダを大規模展開した事が「ドラキュラ公(Vlad Drăculea)伝承」の発端となった。ちなみに子孫に恵まれず、東欧最大のカソリック王統を開闢する夢は絶たれた。

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    この戦いに勝者などいなかった。ワラキア公国はその後オスマン帝国的中央集権国家への道を歩み、現地諸侯はことごとく没落の憂き目に遭う。しかも同時進行でオスマン帝国官僚の政治的腐敗に感染してしまう。ルーマニア北朝鮮独裁国家を現出させたニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceaușescu、1918年〜1989年)とは一体何者だったのか。どうして今になって政治腐敗に激怒する国民達が一斉蜂起し、こうした動きはこれからどういう方向に向かいそうなのか。それを読み取る上でもこうした予備知識は欠かせない。

  • 突然ツァーリが退位した結果、聖職者や大貴族連合は未曾有の無政府状態を現出させてしまい、モスクワの民衆の支持を失う。イヴァン4世はこの好機に付け入って雄弁を発揮。彼らを味方につけて「無制限の無制限の非常大権」を聖職者や大貴族連合に認めさせる形で1565年復位を果たす。それはツァーリは父であり、神に選ばれた存在であり、民衆の安全を守る軍司令官であり、貴族の横暴に対する守護者」と考える精神的伝統がロシアの政治的伝統に再構成された瞬間でもあった。
    *イヴァン4世は1565年1月3日、2通の文書を府主教アファナーシーとモスクワの市民宛に送りつけた。その内容は貴族の売国とそれに癒着する聖職者をなじり、今の自分に許された権限ではツァーリとして統治できないこと、そのために退位せざるをえないことを痛烈な批判交えて訴えるもの。また民衆に対しては深い愛情を示すとともに、欲深き貴族と腐敗した聖職者に苦しめられることでは同じ存在だと自らの境遇を嘆いてみせた。この手紙の内容が民衆の間に広まると、モスクワ中の人々は激怒して府主教や貴族の館を取り囲む。歴史家クリュチェフスキーはイヴァン4世を「16世紀最大のモスクワの雄弁家にして著述家」と評価するが、この手紙はそれらの「作品」の中でもイヴァン4世が命を削って磨き上げた傑作とされている。手紙の内容が広がるにつれて民衆は続々と集結し、貴族にも聖職者にもその勢いを止める手立てはなかった。それで民衆の求めるがままイヴァン4世へ帝位復帰の請願状を届け、退位撤回の条件として「無制限の非常大権」を認める展開となったのだった。

  • しかしながら、こうして復位を果たしたイヴァン4世は既に以前の様な明るい闊達な君主ではなくなっていた。強迫観念に襲われながらの生活が生来の猜疑心を育て、心身に強い悪影響を与えていたのである。そして有名な(聖職者と大貴族連合に対する)恐怖政治が始まる。
    *歴史家クリュチェフスキーは「モスクワに戻ったツァーリは頬がやせこけ、髪と髭が抜け落ちて容貌は一変していた」「以前の人好きのする性格は失われ、人の顔を伺うようになった」といった同時代の証言を紹介している。
  • 手始めに、クレムリンに帰還した当日に大貴族の中でも指導的役割を果たす名門貴族の当主を7名処刑。続いて中央集権化を勧めるため、オプリーチニナ制度の導入を宣言する。これは全国を直轄領(オプリーチニナ)とそれ以外の国土(ゼームシチナ)とに分け、直轄領を自ら選んだ領主オプリーチニキに統治させるシステムで、オプリーチニナに存在していた土地所有者は代替となる土地をロシア辺境に与えられ、立ち退かなければならなかった。このため、ロシア国内はツァーリ派のオプリーチニキと、旧来の貴族たちのゼームシチナに二分される形となるのである。オプリーチニナ地域は独自の貴族会議・行政組織・軍隊が設けられ、ゼームシチナとは違う命令系統を持った。そしてオプリーチニキは富裕層の財産を狙って多くの犠牲者を出し、またイヴァン4世の命令に従って、次々に要人らの粛清を実行していく。主な標的は、モスクワ府主教フィリップ、ノヴゴロド大主教ピーメンらの高位聖職者、ツァーリの従弟で有力なライバルであったスターリツァ公ウラジーミルなどであった。全国会議はその制度の弊害と暴走するオプリーチニキを憂い、1566年には制度廃止の嘆願をイヴァン4世に提出するが、イヴァン4世は嘆願者全員を処刑してこれに応える。
    *しかしながら大貴族連合の勢力はそう簡単には衰えず、ポーランドリトアニア連合の介入を誘致するなどしばしば不穏な動きをみせた。当初は熱狂的にツァーリを支持した民衆も、皇帝から重税を課せられた上にオプリーチニキの略奪と殺戮を目の当たりにして皇帝への敬慕を次第に失っていく。かくしてイヴァン4世は殺害をエスカレートさせるほど内外の敵への不信感を増大させて抱えて孤立する悪循環へと嵌まり込んでいったのだった。イヴァン4世が英国への精神的依存度を高めた背景には、こうした事情があったのである。
  • ところで1555年の通商開始以来、イングランドとの武器弾薬の交易は戦争の継続のため必要不可欠なものとなっていた。外交的にオスマン帝国クリミア・ハン国ポーランドリトアニア同君連合と対立し、スウェーデンデンマークから国交悪化の度に海上封鎖を受ける状況だった為、リヴォニアから奪ったナルヴァ港を利用したイングランドとの交易が生命線となっていたのである。それでイングランド商人にはあらゆる特権が与えられ、またロシアの産物がイングランドの需要を満たす水準でないために膨大な不均衡貿易を余儀なくされていたのである(代わりに狡猾なイングランド外交は「全ルーシのツァーリ」なる称号をいち早く認めていた)。こういう状況を背景にイヴァン4世は1567年、イングランドの使節を通じて相互亡命受け入れ条約と、エリザベス1世と自身との婚姻を申し入れる。だが、イヴァン4世の思惑と異なり、交易にしか関心のないイングランドにとってそれは検討だに値しない提案であり、ただ黙殺されるだけに終わってしまう。激怒したイヴァン4世はナルヴァ港のイングランド独占契約の破棄を宣言したが、イングランドは狡猾な外交によってナルヴァ港の独占利用を取り戻しただけではなく、ロシアが影響力を持つペルシャ地方との独占交渉権とロシア国内の鉄鉱の採掘権を入手。一方ロシアは何一つランドルフに要求を通すことが出来ず、1569年に「ツァーリが亡命するならばイングランドは受け入れる」「共通の敵に対してのみ軍事行動を行う」と一方的に条件を変更したイングランドの親書が届いただけだった。この時イヴァン4世は激情のままエリザベス1世に「汝の国は卑しい商人に支配されており、そなたはその中で何も知らない初心な生娘のままだ」と非難。1570年にイングランドとの交易禁止を宣言するも、当時は露土戦争(1568年〜1570年)の最中であり、たちまちロシアの武器弾薬物資が欠乏する結果になり、英国との関係修復の為にさらにイングランドへロシア全土での免税権、外国銀貨のロシアでの鋳造許可、ロープ工場の設置許可などの特権を与えなくてはならなくなってしまう。
    *江戸幕藩体制下、徳川政権は次第に交易先をオランダに絞っていくがこれはあくまで当時なりの資本主義的原理に従ったまでの話。何しろ貿易を布教とセットでしか考えられないポルトガルやスペインを切り捨るに当たり、朝鮮商人をオランダの競合として迎え入れるといった複雑な策動を遂行している。オスマン帝国並に銃と火薬を備蓄していた当時の日本に欧米列強を軍事的脅威として意識する必要など皆無だったのである。むしろこの問題は19世紀に入ってから表面化してくる。

    *ところがロシアの場合は(当時はイギリス、後にはフランスといった欧州の文化的先進国に対して)強烈なまでに精神依存する一方でその強烈な反動に苦しみ続ける。トルストイイワン・イリイチの死1886年)」はそういう観点から読まれるべき作品だったりもする。

  • それにしても当時のイングランドの対ロシア外交は実にえげつない。四面楚歌状態となったイヴァン4世はイングランド王室との血の結びつきを欲っし、7人目の妻マリヤ・ナガヤと結婚していたにも関わらず、1583年(イヴァン4世53歳)イングランド王室に連なる女性との結婚を望む。この要望を受けたロシア使節は女王の一族のうち、その姪にあたるハンティンドン伯爵の末娘レディ・メアリー・ヘイスティングス(マーガレット・ポールの曾孫)を選び、結婚相手としてイングランドに打診。当時、白海交易にフランス、オランダが参入の意欲をみせていたため、イングランドはただちに可否を返さず「メアリーが天然痘に罹患した」「航海に耐えられる体力が戻らない」等と回答を先延ばし、外交官が白海航路の独占を勝ち取ると結婚の交渉をうやむやにしてしまう。
    *結局、ロシアがイングランド(イギリス)王室から皇妃を迎えるには、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世を待たねばならなかったのだった。
    ニコライ2世 - Wikipedia
    アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后) - Wikipedia

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ac/Nicholas-and-Alexandra-the-romanovs-12206241-581-725.jpg/800px-Nicholas-and-Alexandra-the-romanovs-12206241-581-725.jpg

  • そして1581年、いよいよ悲劇が勃発した。イヴァン4世が後継者であった同名の次男イヴァンを殴り殺してしまうのである。事の顛末は、まず息子の妻エレナ・シェレメチェヴァが妊娠中に正教徒が着るべき服を着ず、また部屋着一枚でいたことにイヴァン4世が激怒し家長権にもとづいてエレナを殴打した事だった。幼少よりシリヴェーストル司祭から「家庭訓」によって「家長権を行使するようにツァーリは国家に対して家長権を行使する」と教えこまれたほどに家長権は絶大であり、イヴァン4世は息子の妻を過去に2度選んでは気に食わず追放している。息子にとって3人目の妻にあたるエレナもイヴァン4世が選んでいたが、これも次第に嫌って暴力を振るうようになっていた。息子のイヴァンは父の様子に気づくと、彼自身も家長権に服さなければならない立場だったが妻を殴打する父の様子は尋常ではなく、その手を抑えずにはいられなかったのである。しかし家長権の行使を止められたイヴァン4世は、これに我を失う。かねてより次男イヴァンが貴族達と友好的関係を築いている事に猜疑心を抱いていたせいともいわれるが、とにかくイヴァン4世はツァーリの象徴とされる錫杖を手にとって振り下ろし、落ち着きを取り戻した時はエレナは震えて座り込み、息子イヴァンは耳を押さえてうめき声をあげていたのだった。またそれを助け起こそうとする家臣ボリス・ゴドゥノフも額から出血しており、イヴァン4世はそれを見て自分が何をしたか理解したが、もはや取り返しがつかなかった。息子イヴァンはそれから数日後に死亡。息子の血を残すはずのエレナのお腹の子も殴打と衝撃により流産に終わり、エレナ自身も死亡。以後、イヴァン4世は息子を殺した罪の意識に苛まれ続ける晩年を送り、肉体的、精神的な衰えから統治も停滞。

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    *結局ツァーリの座は知的障害があり後継者には不適格と認識されていた三男フョードルが継承(在位1584年〜1598年)。王家に一人の後継ぎも残さないまま崩御しリューリク朝は断絶した。この後ロシアはツァーリ不在時代(1610年〜1613年)も含めた動乱時代に突入し、1613年にフョードル1世の甥であり、母アナスタシア・ロマノヴナの家系であるロマノフ家出身のミハイル・ロマノフ(Михаи́л Фёдорович Рома́нов / Mikhail Feodorovich Romanov、在位1613年〜1645年)がツァーリとなる事でやっと安定を取り戻したのだった。
    ミハイル・ロマノフ - Wikipedia

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シグムント・フロイト「ドストエフスキーと父親殺し(1928年)」

ドストエフスキーを道徳的に優れた人間であると評価するために、道徳の最高段階に到達しうるのは、もっとも深い罪を犯してきた人物だけだという理由をあげるとしたら、それは重要な問題を無視することになるだろう。道徳性の高い人物というものは、心の中で誘惑を感じるとすぐにそれに気づいて、その誘惑を退ける人のことなのだ。次々と罪を犯しておいて、それを悔いて高い道徳的な要求を掲げるようになった人物は、あまりに安易な道をたどったのではないかという非難に直面することになる。その人は、道徳性のもっとも本質的な要素である断念を実行できなかったのである。道徳的に生活することは、人間の実践生活の要求するところだからである。

このような振る舞いは、民族大移動の時代の〈蛮族〉と呼ばれた人々のことを思いださせる。当時の〈蛮族〉の人々は、人を殺しておいて、それを悔いるのであるが、悔いるのは、その殺人を犯すことができるための直接の手段にすぎないのである。

イワン雷帝もまた、同じように振る舞ったのだった。このような方法で道徳をごまかすやり方は、きわめてロシア的な特徴なのかもしれない。
*全体像を俯瞰してみるとこれは言い過ぎに思われる。マンハイムも認めている様に、保守主義的思考は元々「大貴族連合が王権を打倒する事によって現出する無政府状態をも理想視してしまう」負の側面を抱えているのである。

イングランド薔薇戦争(1455年〜1485年/1487年)による大貴族の自滅とジェントリー階層なる新たな「王室の藩屏」階層の育成によってこの問題を克服した。

*フランスは公益同盟戦争(1465年〜1477年)やフロンドの乱(La Fronde 1648年 - 1653年)を通じて次第に大貴族連合の勢力を弱めてきたが、新興ブルジョワ階層の吸収に失敗してフランス革命が勃発。最終的に19世紀後半に権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」あるいは「二百家」と呼ばれる新興インテリ=ブルジョワ階層が台頭する事によってやっと安定期に入った。

*日本は戦国時代の地方分権状態を一旦「江戸幕藩体制」という形で留保して自壊を待つ戦略によって「版籍奉還(1869年)」「廃藩置県(1871年)」「藩債処分(1872年)」「秩禄処分(1876年)」「不平士族鎮圧(1874年〜1877年)」を一気に達成。とはいえその過程において「雄藩連合構想=連邦主義(Federalism)」と「公武合体構想=連合主義(Unionism)」と「天皇親政構想=帝国主義(Imperialism)」の葛藤を経験している。

*しかしロシアではいきなりイワン雷帝の時代にオプリーチニナ(直轄領)とオプリーチニキ(直臣)が登場。自らの手を血に染めて聖職者や大貴族連合の直接粛清に着手し、これが以降(聖職者や大貴族連合内での壮絶な殺し合いも含めて)ロシアの伝統となっていく。いわゆる「スターリン主義なるもの」もこれを起点と考えねば話にならない。中華王朝同様、こうした政権は不安定だからこそ急進的にならざるを得ず、それ故に「比較的短命(ただし目盛りはあくまで百年単位)」に終わっていく事を宿命づけられているのだった。

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結局、エイゼンシュテインは「イヴァン雷帝三部作」を撮り終える事が出来ませんでした。粛清場面に政治批判の意図が「発見」され、「イヴァン雷帝」第2部は封印、第3部は製作打ち切りとなってしまうのです。「暴君」の機嫌をとるのは本当に薄氷を踏む思い? とはいえこれはもう題材が悪かったとしか…
*それにしても封印が解かれたのがスターリン死後4年、第1回スターリン批判から2年なんて「影武者(1980年)」の「3年死を伏せよ」状態?

セルゲイ・エイゼンシュテイン監督作品「イワン雷帝(Иван Грозный、第1部1944年、第2部1946年)」

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“イワン雷帝”ことイヴァン4世の生涯を描いた作品。全3部構成で制作される予定であったが、第1部は時の権力者ヨシフ・スターリンから高く評価されたものの、第2部はスターリンを暗に批判した内容であったため上映禁止となって(公開解禁となるのはスターリン死後4年、第1回スターリン批判(1956年)よりさらに2年後)第3部は完成しなかった。第2部のラスト数分がカラー映像になっている。

また黒澤監督も晩年には自ら「権力者側の心理」に嵌まり込んでいったとも。

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橋本 忍「複眼の映像―私と黒澤明」

「乱」 の試写会の会場にて

劇に登場する人物は、作者がある程度の感情移入をしないと、生きては動かないのも事実である。

しかし、それには限界がある。

燃え上がる炎の城から蹌踉と出てくる気の狂ったリヤ王、それが黒澤さんに見えた時から──私はそれに気付いていた。

(映画『乱』の脚本は、リヤ王が、自ら……いや、黒澤さんが、リヤ王そのものになったつもりで書いたのだ)

黒澤さんの狙いはストレートでよく分かる。これならテーマも、ストーリーも、人物設定もいらない。登場人物の思うがまま、意のままに話を進めればいいのだ。しかし、作家と、作品に登場する人物は同一人物でなく、個々の人格を持つ別の人間であり、その心情には作家といえども立ち入ることはできず、推測または想像するしかない。

それを敢えてその気持ちにまでなるのは、明らかに感情移入の限界を超えるため、客観性を失い、登場人物の自我のみの主張に陥り、一人よがりの独善的なものにしかならないのだ。

登場人物の主観のみにより書かれた脚本、客観性が一切一切欠落した脚本、それは第三者には傲岸不遜で、ひどく押しつけがましいものでもある。

『影武者』の公開は1980年(昭和55年)で、『乱』の公開は1985年(昭和60年)だから、五年の歳月の経過がある。だから私は、当然、『影武者』の脚本が先で『乱』が後だと思っていた。

ところが、これはかなり後年になり分かったのだが、『影武者』よりも『乱』の脚本が先に書かれていたのである。しかし『乱』は製作費が高額のため、製作を引き受ける映画会社がなく、仕方がないので『影武者』を書き、『影武者』のほうが早く映画化されたのだという。

脚本としては『影武者』よりも『乱』のほうが早く、順列としては『乱』があって『影武者』である。

脚本としては『影武者』よりも『乱』のほうが早い──シナリオライターの私には、この事実により、失敗作の重なる共同脚本の崩壊にも、一定の秩序と段階のあることを教えられたともいえる。

共同脚本の崩壊は明確に『乱』で始まったのだ。いわば『乱』が前駆であり、それが『影武者』に至り、決定的な失敗作としての形を具象化し、終戦の翌年から始まって39年間続き、23本の意欲的な黒澤作品を映像の世界へ送り出して来た共同脚本もラスト二作品の累積し重層する失敗の肥大化により、その存在意義を喪失し、復活のない、永遠の終焉への終止符を打ったのである。

まさしく「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマそのもの。

そもそも伝統芸能の起源を辿ると、時の権力の装飾として引き立てられた過去が浮かび上がる事が多いのです。

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  • 能楽が高い格式を得たのは室町幕府第3代将軍足利義満観阿弥とその息子の世阿弥の猿楽に感銘を受け、結崎座(観世座)を庇護して以降。狩野派絵師を最初に引き立てたのもまた室町幕府だった。

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  • フランス本国ではルイ14世(在位1643年〜1715年)が引き立て、国営劇場まで建設した事からバレエ芸能の評価が高まった。そして(際限なき低俗化の進行によって)パリでは見限られたそれが見事復権を果たしたのは、ロシア帝国の宮廷で庇護されたからだった。

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  • 「狂王」とまで呼ばれたバイエルン国王ルートヴィヒ2世(在位1864年〜1886年)の「メルヒェン狂い」がなければワーグナーの「楽劇」構想が実現する事はなかった。
    *(バイエルン普澳戦争に敗戦した後、ドイツ皇帝支持表明の見返りにビスマルクが払った賄賂を投じて建てられたといわれる)有名なノイシュヴァンシュタイン城。実は芝居小屋の美術監督にグランドデザインを委託した「防衛性も居住性も一切捨て去ったハリボテ」であり遺言状でも「死後、冥府の私に対する餞として焼き払え」と書かれていたという。http://dramatic-history.com/schloss/neuschwan/neus02.jpg

この悪弊からの脱却は容易な事ではありませんでした。

  • 最初に「芸術家のパトロンからの解放」に貢献したのは「(携帯可能な)小型本」「(人寄せの観光資源でもある)オペラ」「(キャンバス地に描かれ、観客に土産物として売られた携帯可能な)絵画」の三大発明で有名な16世紀ヴェネツィアといわれている(イタリア・ルネサンス晩期)。
    *逆をいえば、レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロが活躍したフィレンツェルネサンスやローマ・ルネサンスにこういう画期的展開はなかった(イタリア・ルネサンス初期〜盛期)。またヴェネツィアがこうした路線を開拓したのは、オスマン帝国によって
    レパント海覇権を奪われ、急遽その経済的埋め合わせを必要としたから。そして最も重要なのは、ここでいう「本の購買層」や「観光客」もまた王侯貴族や教会関係者中心だったという事。

  • そして欧州大陸西部では大不況時代(1873年〜1896年)を通じて消費経済の担い手が王侯貴族や教会から(産業革命によって高まった製品量産力に対応した大量消費者として台頭した)ブルジョワ階層や一般階層に推移。
    *そしてアメリカにおいては、トーキー映画の登場(1930年前後)があらゆるエスニック・グループを横断する巨大娯楽産業として台頭。

  • イタリア総統ムッソリーニがローマ郊外に建てさせた映画撮影所チネチッタ(Cinecittà)。こうした大型スタジオの欧州復興支援目的での再利用に端を発するハリウッドスペクタル史劇の量産。共産圏もこの動きに便乗してスペクタル史劇を量産。
    *同時期の日本でも映画界は黄金期を迎えた。

    仲代達矢が語る日本映画黄金期

    年間の映画入場者数が毎年のように十億人を超えた1950~1960年代は一般に「日本映画の黄金時代」と呼ばれ、邦画メジャーと呼ばれる東宝・松竹・大映東映・日活の大手五社が激しい興行戦争を繰り広げていた。各社は独自に撮影所を持ち、そこでは年にそれぞれ百本近い映画が製作されることになる。そうした中から、大スター、名監督、名脚本家、名スタッフが育ち、凄まじい凄まじい活気と共に彼らの織り成す百花繚乱の映画が観客を魅了していった。
    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-96-4c/uzimusi58/folder/394679/94/20649094/img_0http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-5a-55/mallorcagogo/folder/209971/72/13637872/img_8_m?1433634397http://hurec.bz/mt/%E5%88%BA%E9%9D%92%E5%88%A4%E5%AE%98%E3%80%80%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%AB.jpg

    その一方で当時の映画スターたちはほとんどが特定の映画会社と専属契約を結んでいたため、他社の作品には出ることができなかった。そして一つ当たると次から次へ同じものが来る。仲代達矢は役者になる前から映画を見ながら「外国の役者はどうして作品によって変わっていくんだろう」といったことをいつも考えていたが、それがこのシステムのせいだと思いフリーの立場を通す事にしたのだった。

    *実はこの時代大作映画セットに寄生して安価な「ソード&サンダル映画」を量産してお茶を濁していた製作者達が、このシステムの崩壊後「マカロニ・ウェスタン」や「イタリアン・サスペンス・ホラー」の供給者へと転身していったとも。
    ソード&サンダル - Wikipedia

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黒澤監督映画には、こうした歴史展開が生んだ「徒花」なんて側面もあったわけです。