諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ネタバレなし】「ドクター・ストレンジ」見てきました。この「またかよ、しょうもねぇ」感こそがマーベル・ユニバース?

エンシェント・ワン(Ancient One)「この現実が唯一のものでないとしたら?」
スティーブン・ストレンジ(Stephen Vincent Strange)「私は御伽話や奇妙な力や信仰の力なんて信じはしない」

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Sherlockspeare

こういうケースでは「いつものフィルター」を通すに限ります。

 龍樹 - Wikipedia
イマヌエル・カント - Wikipedia

龍樹やカントを起源とする「人間の認識可能な領域には限りがあり、宇宙の真理や本当の主体はそちら側の領域に存在するかもしれない」なる実存不安。人類はこれを克服すべく様々な思考様式を開発してきた。

  • 華厳経(梵Avataṃsaka Sūtra(アヴァタンサカ・スートラ)3世紀頃、中央アジアにて成立)」の「宇宙神毘盧遮那仏(梵Vairocana(ヴァイローチャナ)=光明遍照)はいかにも第一義諦の象徴らしく超然と存在するだけだが、密教の「大日如来(梵महावैरोचन [mahāvairocana](マハー・ヴァイローチャナ)」は「正しい手順さえ踏めば手が届く」存在へと改変された。

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  • イスラーム哲学(Islamic philosophy)を起源とするスコラ学(scholasticus)は仏陀のいう「縁起の世界」、龍樹のいう「世俗諦の真理」は独立して存在している訳ではなく、動いてるプログラムの背後にそれをコーディングして走らせたプログラマーが存在する様に、神がそういう存在として超然と存在すると考えた。この考え方は後に「神は世界創造に際して最初のプログラムを書いただけだ。その後のメンテナンスは良い意味でも悪い意味でも人間だけが担ってきた」とする理神論(deism)に発展。

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  • カント哲学的ニヒリズムを否定すべくヘーゲルが編み出したのが「人間の幸福は、民族精神(Volksgeist)ないしは時代精神Zeitgeist)との完全なる合一を果たし、自らの役割を与えられる事によってのみ達せされる」という哲学。これに対抗してマルクスは「我々が自由意志や個性と信じているものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」という考え方を提言し、ある意味社会学の祖となったが、皮肉にも彼の名前が冠された「科学的マルクス主義」の実態はヘーゲル哲学に近いものだった。

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  • 同じくカント哲学から出発したアメリカのプラグマティズムPragmatism実用主義)は「神は人間の問題解決に必要なものは全て認識可能な範囲内に置いておいてくださる」という結論に到達した。

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  • 北原白秋は「遊戯に夢中になって時間が経つのも忘れる幼児の心」に仏教用語における「三昧の境地」を見て取った。陽明学左派の李卓吾儒教の基本理念「格物致知」を否定し「童心説(人間は誰でも良心を備えて生まれてくるが、それは成長して知識や道理を刷り込まれるにつれ失われていく)」を提唱した。要するに「人間には元来、誰にでも生得的に第一義諦に到達する能力が備わっているが、世俗諦の侵食を受けてそれを失う」という立場。

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  • 大坪砂男はハードボイルド文学の本質を「あえて泥の大海に蓮の花を探すセンチメンタリズム」と表現した。この「(世俗諦から第一義諦へ突き抜けようとする)求道者が存在するのみで、結果の保証は一切なされない」冷徹な世界観はヴァイマール時代ドイツのエルンスト・ユンガー辺りを嚆矢とする魔術的リアリズム文学の世界とも重なる。

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  • 上掲の「(世俗諦から第一義諦へ突き抜けようとする)求道者が存在するのみで、結果の保証は一切なされない」冷徹な世界観のバリエーションとして「キリスト教におけるイエス・キリスト」「地蔵信仰における地蔵菩薩」「弥勒信仰における弥勒菩薩」「浄土真宗における阿弥陀如来」といった「仲介者に対するクローズ・アップ」がなされた。

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 そして最後にフランスの数学者コンドルセが思い描いた「計算癖(独Rechenhaftigkeit、英Calculating Spirit)の全人格化の理想視」や、「ロシア革命の最終勝者となったボルシェビキの指導者レーニンの、テイラー主義(Taylorism)理想視」などに端を発っする「科学実証主義に立脚する現代社」が到来して世界を覆い尽くす。スタンス的には「(世俗諦から第一義諦へ突き抜けようとする)求道者が存在するのみで、結果の保証は一切なされない」冷徹な現実を直視する姿勢の延長線上に現れたものと看做せる。

原則論的には一応「正しい手順さえ踏めば手が届く」 パターンに分類される展開をたどってますが、以下の問題が続編へと先送りに。

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もうこれは続編を楽しみに待つっきゃない…そういう部分も含めて、まぁ「第一作」としては上々の滑り出しだったかと。こういう部分のコンセプト・ワークがしっかりしてないと観客が素直に楽しめませんからね。その一方で迫り来る「マーベル・ユニバースの宿痾」…(以下自粛)

マーベル・ユニバースって、絶対に「某一族の御家騒動」と「社員が次々と悪への誘惑に負ける某企業」さえなければ、ずっと平和な筈なのにねぇ…でもこの「またかよ、しょうもねぇ」感こそがD.C.ユニバースに対するアドバンテージになってる感も否めない?