諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【與那覇潤】【中国化する日本】【世界三大発明】「中国宋朝こそ近代の起点」なる主張の死角。

那覇潤が「日本は中国化しつつある」という時の中国とは宋朝(960年〜1279年)の事です。そしてこの主張は「そもそも近代は中国から始まったと世界中が認めつつある」という歴史的真実に立脚しているとされています。

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 與那覇潤「中国化する日本:日中文明の衝突一千年史(2011年)」

最新の思想史研究では、ヨーロッパの近代啓蒙主義を、宋朝(960年〜1279年)で体系化された近世儒学のリメイクとして考えます。「神」の概念抜きで純粋に人間の理性を信奉する宋明理学の教えが、西洋近世の哲学者たちが中世のキリスト教的世界観を脱する上でも触媒になったからです(井川義次『宋学の西遷』)。また「西洋ルネッサンスの三大発明(火薬・羅針盤活版印刷)は、実はどれも宋代中国の発明だ」という話は、高校の先生でも気の利い利いた方なら教えてくれたでしょう。しかしプロの経済史研究者はそこからさらに進んで、

①なぜヨーロッパのような「後進地域」が、宋朝中国という「先進国」を奇跡的に逆転して、産業革命を起こせたのか? を、探究しているのです(E・L・ジョーンズ『ヨーロッパの奇跡』)。

つまり、技術の面でも思想の面でも西洋近世の水準にとっくに達していた中国を、近代(近世の後半期)のヨーロッパは一時的に追い抜いていたにすぎず、現在の中国の台頭なるものはいわば、世界がもとの状態に戻りつつあるだけだと捉えたうえで、

②近代には西洋が中国を凌駕するという、異常な事態が生じたのはどうしてであり、いかにしてそのような、例外的な時代は終焉を迎えたのか?

という問題に答えようとするのが、大学レベルの近代史の新しい基本線になりつつある。こういう「従来の歴史観の下では思いつきもしなかった問い」を立てて、かつそれにきちんと答えることが、大学では歴史学の目標とされているのです。

十七世紀後半の中国に滞在したイエズス会の宣教師、フィリップ・クプレは、儒学の思想を解説し、経典の翻訳を載せたラテン語の著書を刊行している。この新著で井川義次が扱う書物の一つであるが、そこで『論語』の表題は「理性的に論ずる人々の言葉」と訳されているという。これは決して誤訳でも、西欧の哲学用語に無理やりひきつけた曲解でもない。そのことを、この本は古典中国語(漢文)で書かれた原典と、ラテン語訳とを照らしあわせる作業によって、丹念に明らかにしている。

そのころ中国の儒学思想は、全宇宙の運行と生命の営みを支える「理」を中心とした、朱子学宋学)の壮大な哲学体系に、変貌(へんぼう)をとげている。しかも明朝末期には、その「理」をみずからの内に備え、外界の事物に関する「理」を把握できる、人間の「心」の主体性へと、朱子学者たちの関心が向かっていた。これを反映した経書解釈が、人間の理性の力を重視しようとする、同時代の西欧の知識人を惹(ひ)きつけたのである。

ドイツで活躍した哲学者、クリスチャン・ヴォルフは、こうした宣教師たちによる儒学経典の翻訳に基づいて、神の存在を前提とせずに、人間の理性が世界の法則をよみとり、秩序を支えてゆくことを、高らかに説いた。その発想が、フランスの『百科全書』やカントの哲学に代表される、十八世紀の啓蒙(けいもう)思想に大きな影響を与えてゆく。

もしかしたら(フランス啓蒙主義を支えた)理神論(deism)が、以下の様な考え方である事を理解していないのかもしれません。

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  • 理神論とは、一般に創造者としての神は認めるが、神を人格的存在とは認めず啓示を否定する哲学・神学説である。

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  • 神の活動性は宇宙の創造に限られ、それ以後の宇宙は自己発展する力を持つとされる。人間理性の存在をその説の前提とし、奇跡・予言などによる神の介入はあり得ないとして排斥される。18世紀イギリスで始まり、フランス・ドイツの啓蒙思想家に受け継がれた。

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    *しかも「中華王朝文化の欧州への伝播」のクライマックスは「中華王朝における封禅の儀」を模倣したとも見て取れるジャコバン独裁政権主催の「最高存在の祭典(La fête de l'Être suprême、マクシミリアン・ロベスピエール発案の1794年5月7日法令に基づいて6月8日にテュイルリー宮殿で遂行される)」だったのかもしれない。そしてこうした祭典には華夷序列を再確認し、身分制護持の重要性を参列者に印象付ける役割も担われていたりする。
    最高存在の祭典 - Wikipedia
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本当は中華王朝というより(文化面で先輩格に当たる)イスラム諸国向けの理論武装みたいですが、とにかくそう簡単に韓国の熱狂式愛国者式の「日本のあらゆる文化の起源は韓国なのだから、日本は未来永劫韓国に頭が上がらない」論は成立しないのです。

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 実際、フランスで絶対王政化が進行した17世紀後半に参照されたイデオロギー朱子学だけではありませんでした。同じくらいオスマン帝国の統治原理も関心を集めているのです。それではどっちの影響が濃かったのか? 調べれば調べるほど「びっくりするほど内容が酷似していて、どちらを選んでも大差ない」という恐るべき結論に。

  • ここでまず注目すべきなのは、スンニ派古典思想の完成者にしてスーフィズムイスラム神秘主義)の大成者たるアラビア哲学者にして大法学者たるガザーリーアラビア語ابو حامد محمد ابن محمد الطوسي الشافعي الغزالي、Abū Ḥāmed Muḥammad ibn Muḥammad al-Ṭūsī al-Shāfi'ī al-Ghazālī 、ラテン語アルガゼル(Algazer)、1058年〜1111年)の歴史的登場が朱熹(1130年〜1200年)に先んじている点。ニザーミーヤ学院が生んだ最大級の精鋭の一人。この人物の思想がオラトリオ会修道士のニコラ・ド・マルブランシュ(Nicolas de Malebranche,1638年~1715年、奇しくもルイ14世と生没年が一緒)の手によって欧州にちゃんとした形で伝わるのは17世紀に入ってからだが、一応それ以前から欧州貴族の子弟の間では、アリストテレスプラトンといった古代ギリシャ思想の入門書作者としてそれなりにその名を知られていたらしい。そして彼の理論がフランスにおける絶対王政形成にどれだけ影響を与えた見定める辺りが最近の欧州歴史学の重要トピックの一つに数えられているのである。
    *大学の設置は9世紀の東ローマ帝国に始まり、10世紀にはイスラム諸国の間でも広まる。欧州にも設置されるようになるのは12世紀以降で、当初はアラビア語文献やヘブライ語文献の翻訳で手一杯。

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    ニザーミーヤ学院 - Wikipedia
    ニザーミーヤ学院
    ガザーリー - Wikipedia
    ガザーリー

    テキサス州のダラスでお会いした方に、かつてイラクで日本の会社の社員としてビジネスに携わり、その後米国に移住して飲食店などを経営していらっしゃる方がいました。

    その方が経営されている店の一つにお招きいただき、たっぷりおもてなしいただいたのですが、ご一緒にお出ましになった奥様が、イラク人。で、私がイスラーム思想について研究しているというと早速話が弾んだあとに、奥様と日本人の夫との間での、数十年繰り返されてきたと思われる宗教論争が始まりました。

    これが実に面白い(と言っては悪いですが)。

    日本の相対主義的・不可知論的な宗教・倫理・世界観と、イスラーム教の啓示の絶対性と哲学の論理を組み合わせた「絶対に正しい」とされる論理との間で、延々と行き違いが続くのです。

    私も同様の行き違い・堂々巡りを繰り返す「対話」を、学生の頃にアラブ世界に出向いて、向こうの学生たちと夜を徹して議論していた頃に嫌という程体験しましたので、ご夫婦で一生続けておられるのを見ると、なんだか微笑ましく感じて、思わず忍び笑いをしてしまいました。

    そして、イラク人の奥様が、真のイスラームを分かっていない(と感じる)夫に理解させようとする内容と論理が、まったくガザーリーがこの本で論証する内容とそのための論証方法と、同じなんです。

    それはもちろん、ガザーリーが啓示と理性の対決で、イスラーム教徒の立場からは必然と見える論理を、行き着くところの極限まで考えたからであり、現代の議論はそれをなぞって、繰り返しているのです。

    現代の人々が直接ガザーリーを読んで真似しているというよりは、啓示という観念を護持したまま哲学的論理を取り入れれば、自ずから可能な結論は似てくるため、ガザーリーが考えたことが自然と繰り返されるのですね。ガザーリーがたどり着いた結論と、結論に至るための論理的過程は、啓示と理性の間に必然的に立ち上がる問題に対する、ガザーリーの結論です。ガザーリーはこの共通の問題について、最も先の先まで考えた人であった。だからのちの時代の人はガザーリーの論理を直接知っているか知らないかに関わらず、同じようなことを言うのです。

    啓示と理性の間での、啓示の優越性への信念や、啓示が理性と同じだけ合理的であると当時に、理性では到達的できない超越した絶対の真理を備えている、という信念、これらは「穏健派」であれ「過激派」であれ、共通しています。

    啓示と理性の間に価値の優劣がなく、平行線上にあるということは、奥様は決して受け入れず、神が示した真理である啓示と、人間が考えたにすぎない誤謬を含むものとしての理性を、優劣をつけて理解している。このことは穏健派が自信を持って穏健派でいるために不可欠の基盤です。しかし究極的には過激派が武力・強制力を持って真理を地上に実現させようとする時に、この明確な真理への信念と、優越性の観念が、正統性を与えることにつながってしまう場合がある。それが難しいところです。
    イラク人の沖様が述べているのはまさしく「神の英知は無謬だが、現世に流出する過程で誤謬が累積していき対立する正義や悪が生じる」としたガザーリーの流出論=スンニ派古典思想そのもので、これがイスラム穏健派の基本的立ち位置という次第。

    ペルシャ出身で、40歳に至るまで膨大な量の古代ギリシャ・ローマやペルシャの古典の叡智に依存するムゥタズィラ学派に属していたガザーリーに課せられた課題。それは当時、新プラトン主義に立脚しスンニ派を圧倒する勢いを見せていたシーア派神学を一刻も早く論破せねばならないという使命感であった。彼の特異性はシャーフィイー派法学者として実践倫理の世界を熟知し尽くしていた一方で、当時(蓮っ葉な反体制的修行者の間で流行していた)スーフィズムイスラム神秘主義)にも本気で入れ込んでいた点にある。同様にスーフィ(イスラム神秘主義者)として歴史に名を残した弟の影響ともいわれるが、とにかく彼は当時動員可能だった全知識を結集し、全てを統合する新たなアシュアリー神学を編み出す事に成功。その効果が絶大なるがゆえにシーア派スーフィズムイスラム神秘主義)受容を不可避とされ、やがてスンニ派教学の総本山だったエジプトのアル=アズハル学院ですら13世紀以降スンニ派教学の本拠地へと転じていく。
    アル=アズハル大学 - Wikipedia
    アズハル学院

    http://www.pahoo.org/culture/numbers/year/img0909-01.jpg

  • どうしてそこまで華々しい勝利が飾れたのか。それはスーフィズムイスラム神秘主義)が瞑想やシャーマニズムや聖人崇拝といった当時の土俗信仰の併呑に適した体系を完備していたから。同時期における世界規模でのハドラマウトアラビア半島南岸部)商人の進出と各泊地での伝教成功を支えたのはまさにこのシステム。特にアジアにおいては単なる土俗信仰ばかりか原ヒンドゥー教学や仏教教学も生半可な知識では太刀打ちできなかった様である。
    オスマン帝国(دولتِ عليۀ عثمانيه, Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye、1299年〜1922年)の時代に入ると中央アジア起源のマートゥリーディー神学とハナフィー法学が国学と定められるが、ハドラマウト商人の尽力もあってアジア沿岸地域は今日なおアシュアリー神学とシャーフィイー法学が圧倒的優位を誇り続けている。

  • イスラム商人は既に唐代から内陸の中央アジアと海路を通って広州(カンフー、広東省のみならず華南地域全体の経済中心地)や泉州(ザイトン、福建省)などに到達し、外国商人が居住する居留地(蕃坊、蕃港)やモスクを築いて活発に活動して大食(タージー)と呼ばれていた。そして宋代(960年〜1279年)に入ると中国商人も東南アジアやインド洋といった南海に積極的に乗り出す様になる。
    *また漢代まで遡る内陸交易(絹馬貿易、農耕民の漢人側が絹・綿・茶など、遊牧民匈奴側が馬・羊などを交易品として供出)は、中央アジアで広く活躍していたソグド商人が仲介した。
    ムスリム商人/イスラーム商人
    諸地域世界の交流

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    イスラム商人が主に用いたのはダウ船(dhow)と呼ばれる全長12m~15mの木造帆船で、アラビア海を起点としながら季節風を利用してインドとの交易も行い、さらに東南アジア、中国にも次第に足を伸ばしていったのである。1本か2本のマストに一枚ずつ逆風でも先に進むことのできる大三角帆(ラテンセイル)を備え、船員は季節風や星に関する豊富な知識を有していた。最大規模は300t程度、積載可能な積み荷の量は180t程度で、600頭のラクダが荷物を運んで砂漠を旅するのに匹敵する商品を一挙に輸送する事が出来たとされる。
    ダウ船 - Wikipedia

    http://imagecache2.allposters.com/images/MEPOD/10119461.jpg

    *一方、宋代の船の大きさは米の積載量である石(ないし料)で表される。外洋船では大型船が積載量5000~10000石・乗組員50~600人、中型船が1000~2000石・20~300人、小型船は数十人から十数人規模まで。河川を航行する船は、航行する河川や役割によって大きな差異があり、20000石を積める大船もあれば200石規模の小船もあった。数百人規模の船では、船長を網手といい、その下に上級船員として雑事(事務・会計の長)・直庫(武器庫の長)・三老(水夫の取りまとめ)・火長(方位測定・櫓櫂を扱う水夫の監督)などがいた。おそらく海洋航路進出当初にはイスラム商人に知恵を借りたと推測されている。

    http://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-5d-cd/taptior/folder/1321457/22/53450122/img_5?1345950568

    *ただ羅針盤については、3世紀頃から中国国内において「指南魚」と呼ばれる方位磁針相当の磁力を持った針を木片に埋め込んで水に浮かべる装置が使われていたとされる(名前に「魚」とつくのは、多くの場合木片を魚の形に仕上げ、魚の口の部分が南を向くようにしたからとされる。記録上の初出は沈括の「夢渓筆談(11世紀)」。当時の記述では方位磁針が24方位だったが、後に現在と同じ32方位に改められる。それまでイスラム商人は水平線から北極星の角度を測ることによって、緯度を測定するカマルと計測道具を用いており、以降も現代まで併用を続けている。
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  • 道教には存思法(神々の観想法)があり、仏教には禅宗の座禅があってスーフィズムの瞑想や神秘主義と極めて相性が良かった。それで仏教界は仏教界なりに、道教界は道教なりに「スーフィズム的なるもの」の要素を取り込んで人気を博した様である。若い頃は(イスラム教徒の多い)泉州で帳簿係を勤めており、儒教禅宗を両修していた朱熹はこうした動きに対抗すべく、それまでばらばらに学説や書物が積み上げられ、矛盾だらけだった儒教を理論的に体系化していったとも。
    *その過程でテキストを五経(易経詩経書経・春秋・礼記)でなく四書(大学・中庸・論語孟子)へと絞り込んでいく。

  • 修行法として静座(静坐)なる行法が導入され重視されたのも対策の一つ。しかしまだまだ足りない。何しろイスラム教は「タウヒードアラビア語توحيد, トルコ語Tevhid, ラテン語Tawḥīd, Tawheed, Tauheed」すなわち「一化の原理=世界観や存在論といった価値観の根本」を単刀直入に鋭く詰問してくる教学である。仏教道教ならそうしたアプローチに即応可能なノウハウの蓄積があるが、儒教にだけそれがない。この根本的欠陥を補う為に程伊川の性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)に立脚し「自己と社会、自己と宇宙は、“理”という普遍的原理を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれる」として「ミクロコスモスとマクロコスモスを道徳的に統合する神秘主義的アプローチ」の基礎を固めたたのだった。
    *12世紀インドのヒンドゥー教学の世界で起こった「バクティ運動(Bhakti movement、ヴィシュヌ神のような至高神への絶対的帰依を表明する大衆運動)」にも同種の社会的同調圧から型抜きされた感がある。おそらく朱熹自らは意識していなかった。当事者の言及も(人気取りの為に瞑想がもたらす即身成仏性を強調する)当時の仏教道教の対応の軽薄さに我慢がならず「もっと世界の本質を的確に突く内容でなければ駄目だと考えた」といった内容。

    *対抗改革(カトリック教会の組織を建て直してプロテスタントの教勢拡大を食い止めようとした運動)の尖兵として組織されたイエズス会。その創始者ロヨラもまた、プロテスタントへの攻撃といった表面的なことでなく、まず会員の一人一人が自らのカトリック信仰そのものに対して内面的に向き合い改心する必要性を感じたのだった。それで方法論として「霊操」と呼ばれる霊的指導プロセスを編み出す。これは沈黙のうちに行う一ヶ月の黙想のプログラムで、それを授かる者は毎日異なるテーマについて黙想し、司祭による定期的な指導を受けながら、神が自分に望まれていることは何かを考えていくのである。大源流こそ「清めから照らし、統一へとすすむヨハネ・カッシアヌスと砂漠の教父たち以来の神秘主義の伝統」にのっとっていたが、一般の人が実生活の中で行えるように、さらにはカトリック教会の内的刷新に貢献できるようにデザインされている点にこそ意義があった。内容の詳細はともかく、同じ状況に置かれた人間の発想そのものは概ね似通っているといえよう。スーフィズムの大成者ガザーリーをも含めて。

  • さらに「理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、まったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は“不離不雑”の関係である」とし、「気が運動性をもち、理はその規範・法則であり、気の運動に秩序を与える」としてこの理を究明することを「窮理」とよんだ。
    朱熹の学風はこの様に表面上「できるだけ多くの知識を仕入れ、取捨選択して体系化する」といった理論展開しか考えてない様にしか見えない内容だったので、後に「非実践的」「非独創的」と批判される事になる。その一方で静坐(瞑想)にばかり依存する姿勢を戒めた当たりは(法学者の顔も有していた)ガザーリーとも重なる。

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ちなみにイスラム教学は、その内容が原理主義に近づくほど「タウヒード(一化の原理)」の対概念たる「シルク(shirk、多元性)」を忌み嫌う様になっていきます。同じ時代精神の産物なせいか、朱子学もこの剃刀の様に鋭利で扱いの厄介な側面を確実に抱え込んでしまった側面があったりして。

司馬遼太郎「街道をゆく 28 眈羅紀行」

朱子学は、宋以前の儒学とは違い、極端にイデオロギー学だった。

義体系であり、別の言葉で言えば正邪分別論の体系でもあった。

朱子学が得意とする大義名分論というのは、何が正で何が邪と言う事を論議する事である。しかしながら、こういう神学論争は年代を経ていくと、正の幅が狭くなり、鋭くなり、ついには針の先端の面積ほどもなくなってしまう。そして、その面積以外は邪としか考えられなくなっていくのである。

朱子学というのは大義名分について論じ始めると一切の妥協を許さぬ方向へ人を駆り立てる。カミソリのような薄刃を研ぎにいで、自傷症のように自らを傷つけ、他も傷つける思想なのである。

日本で朱子学的名分論を主流とした「水戸学」は、幕末の志士たちに大きな影響を与えたにもかかわらず、維新後の明治政府の要職に水戸出身の姿は見えない。水戸維新が成る前に藩内で佐幕派の諸生党と勤王激派の天狗党が血みどろの内部抗争を繰り広げ、惜しい人材から次々と一人残らず殺されていったのだった。

ところで「世界三大発明」がそう呼ばれる様になったのは、まさにその登場が世界を変えたから。例えば、大航海時代が始まったのも、それまで既に「羅針盤」が普及していたからといった認識。

それでは他の二つについてはどうでしょうか?

紙の製法の伝播

紙の製法はタラス河畔の戦い(751年)で、アッバース朝軍に捕えられた唐の捕虜に紙職人がいたことからイスラム圏に伝わり、757年にはサマルカンドに製紙工場が説地された記録が残る。

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  • 以降、紙の原料として亜麻を使ったり、サイズ剤として小麦粉から作ったデンプンを使うなどの工夫をこらしながら次第にイスラム世界全体に知られる様になり、バグダッド・ダマスカス・カイロ・フェズなどの各都市にも製紙工場が造られ、その技術は1100年にはモロッコまで伝わった。その過程でイスラム世界で主要な筆記媒体となり、ヨーロッパへも輸出されている。

  • 1144年には、当時タイファ(イスラム諸王国)の支配下にあったイベリア半島のシャティヴァに、ヨーロッパ初の製紙工場が造られた。

  • 16世紀までヴェネツイアがオスマン帝国(1299年〜1922年)と欧州諸国への主要供給元として台頭。ルネサンス出版文化の規模拡大に大いに貢献。ただし次第にその市場をオランダやオスマン帝国とカピチュレーション(恩恵的待遇)を結んだフランスに奪われていく。

一方、早期よりスルタン配下の官僚達による文書行政の整備が始まったオスマン帝国の関心は不思議と印刷技術には向けられず、中華王朝同様「公文書は全て手書き」という非効率な状態がずっと後世まで続く。
*17世紀後半以降文化的経済的衰退が始まる事と密接な関係があると目されている。

 火薬の伝来

火薬については既に中国唐代(618年 - 907年)の文献「真元妙道要路」に「硝石・硫黄・炭を混ぜると燃焼や爆発を起こしやすい」という記述がある。

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  • 1250年代にはモンゴル帝国のイラン侵攻に際して中国人技術者が操作する投石機で、火薬弾が投げられた記録がある。

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  • 日本人が初めて火薬を用いた兵器に遭遇したのは13世紀後半の元寇において。当時の様子を描いた『蒙古襲来絵詞』写本には、元軍が用いた「てつはう」と呼ばれる兵器が描かれているが、この「てつはう」の文字(とモンゴル兵)は江戸時代の加筆とする説もある。

    http://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-7f-00/sa341gazelle/folder/526905/48/2953448/img_0

  • 1280年には、地中海東部のマルクス・グラエクスとシリアのハッサン・アッ・ラムマが中国の火器、火槍について記述。この時代までにイスラム文明圏のシリア、マムルーク朝も火薬に関する豊富な情報を有する様になっていた。
    *ここでは割と「後にオスマン帝国の鉄砲・大砲隊に殲滅されるマムルーク朝でさえも、火薬の存在自体は知っていた」という認識が重要。歴史に転回点を与えるパラダイム・シフトに結び付けられない限り、こうした知識はそう役立つものではない。

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  • モンゴル帝国の遺跡から1288年当時の青銅製の銃身が発掘されており、この時期から既に火槍から銃への進化が始まっていた事を推測させる。スウェーデンにおいて1326年当時の壷型の銃が発見されているが、これはモンゴル帝国に支配されていた南ロシアから伝わった銃が変形したものと考えられている。

    https://pbs.twimg.com/media/CWWitfuVAAEihvU.jpg:small

  • 同1326年にはフィレンツェで大砲が開発され、以後、ヨーロッパでは大砲が発達。その一方でイベリア半島では1330年代までに銃だけでなく大砲も使用される様になっていた。

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  • オスマン帝国コンスタンティノポリス包囲戦(1453年)では有名なウルバン砲を筆頭に口径の大きな重砲が城壁破壊に際して決定的役割を果たしている。
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  • 百年戦争(1337年/1339年〜1453年)もその末期には次第に火砲が重要な役割を果たす様になっていった。特にフランス軍によるボルドー占領に続いてフランス王国ブルターニュ国連合軍とイングランド王国軍の間で遂行されて百年戦争の掉尾を飾ったカスティヨンの戦い(Bataille de Castillon,1453年)は有名である。この時フランス側は7000人〜10000人の兵士に陣地を塹壕と矢来で囲ませ300門の砲(おそらく石弓矢、臼砲、小火器を含む)を矢来の隙間に並べてイングランド騎兵隊を迎撃。たまたま司令官のシュルーズベリーの馬を殺し乗り手をその下敷きにして重傷を負わせる戦果が上がったものの、決定的打撃を与えるには到らず、その役割はブルターニュ公ピエール2世が派遣した騎兵隊の右側面からの攻撃が果たさざるを得なかった。
    *また火砲はノルマンディーとボルドーからのイングランド軍撤退の支援にも役立ったとされている。
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  • 15世紀後半には、石の弾丸に替わる鉄製の弾丸や、燃焼速度の速い粒状の火薬などの新テクノロジーの発達もあり、また小型で軽量ながら馬匹で運搬可能な強力な攻城砲も出現。
    *それまでの攻城砲は巨大なカスタムメイドの兵器であったので(たとえばコンスタンティノープルの城壁を打ち破ったウルバン砲は戦場から200km強離れた首都エディルネで鋳造されている)時代の画期となった。

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  • 史上最初に火砲の集中投入が決定打となったのは薔薇戦争の一環として行われたテュークスベリーの戦い(Battle of Tewkesbury、1471年)かもしれない。ランカスター朝側が王弟グロスター公リチャード(後の国王リチャード3世)率いるヨーク朝側砲兵隊によって壊滅的打撃を受けたのは、ランカスター朝側指揮官のサマセット公が無能過ぎたせいとされている。ブルゴーニュ公シャルル突進公を破ったスイス傭兵達は偵察能力にも秀でており、火線が最も集中する法学からの突撃は避けたからこそ勝ったのであり、長篠合戦の武田軍は後方に回り込まれ、その方角からの突撃以外の全ての選択肢を奪われた時点で敗北していたともいえる。
    *ここで興味深いのは欧州においてはシェークスピア史劇にも、当時の絵画にもこうした火力集中が戦局を握る時代への推移が一切描かれていないろいう事である。それを認める事はある意味、トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)において襲来するイスラム騎兵隊を恐怖の眼差しで見上げ、同等以上の騎兵戦力を養うのを最優先課題とする事から始まった欧州封建制度の伝統と歴史を全否定する振る舞いと思えたのかもしれない。貴族にとっては現在の特権と表裏一体の関係にある矜持の源が失われるのが恐ろしかったのかもしれない。

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  • これらの先例を研究してファルコン砲(車輪付きの砲身の長い砲)を開発し、近代軍の先駆けとなる騎兵と手銃兵と弓兵と槍兵を連動して動かす戦術を採用したブルゴーニュ公シャルル突進公(在位1467年〜1477年)である。しかしその軍隊規模は数万人単位での密集突撃を武器とするスイス槍兵を相手取るにはあまりにも小規模すぎた。頼りの野砲も毎射撃ごとに一人か二人殺すのが精一杯であり、1476年にはフランス国王に雇われたスイス傭兵にグランソン、ムルテンで破られ、さらにロレーヌ公ルネ2世の雇ったスイス傭兵と交戦したナンシーの戦いの渦中であえなく戦死。
    織田信長も第三次長島侵攻(1574年)では殲滅戦の最終局面で鉄砲の力を過信し過ぎて死兵の捨て身の突撃を防ぎ切れず庶兄たる織田信広や弟の織田秀成など多くの織田一族が戦死し,700〜800人(信長公記)または1,000人(フロイス日本史)ほどの犠牲を出してしまった、まだまだ運用面において試行錯誤が多かった時代だった。

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  • 1494年にナポリの王位継承権を争ってフランス王シャルル8世がイタリアに侵入したとき、フランス軍は牽引可能な車輪付砲架を備えた大砲を引き連れていた。この大砲が旧来の高い城壁を一日の戦闘で撃ち崩してしまうので、盛り土の土塁によって大砲の撃力を吸収することを目的とした新たな築城術が発明される事になる。
    *一方、近代的な意味での大砲は15世紀末までにはほぼ完成を見ており、1840年代までは瑣末な改良を除いて本質的には同じ設計のものが使われ続ける。

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b3/Map_of_Geneva_in_1841.jpg

一方、手銃の分野で火種(火縄など)を手で押し付けるタッチホール式から火縄式への進化が起こったのは15世紀ドイツとされる。
*写真はドイツのタンネンベルク城跡から出土した現存最古の銃、通称「タンネンベルク・ガン」。
http://livedoor.blogimg.jp/koichi0024/imgs/f/4/f4ab9cdb.jpg
*砲身約32センチ。口径15~6ミリ。青銅製の鋳造の筒で、火薬と弾を込めて、根元の小さな穴から火縄などで着火するという非常にシンプルな構造。

  • ポーランド王国リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団の間で「タンネンベルクの戦い/グルンヴァルドの会戦(1410年)」が遂行された時点ではあくまで騎兵対騎兵の戦いだった。主にリプカ・タタール人で構成されるリトアニア軽騎兵を囮としてドイツ重装騎兵隊を囮に沼沢地に誘い込んで分断しポーランド重騎兵で各個撃破。ちなみに第二次世界大戦当時のポーランド船でもポーランド軍は同様の戦術を駆使して相応の成果を挙げている。
    *13世紀後半におけるモンゴル軍のポーランド侵攻が引き起こした大幅な人口減を補う為に大量に招聘されたドイツ系移民とドイツ騎士団の圧政下で喘ぐプロイセン商工民の意向を受けての戦いだった。両地域の歴史はこの様に最初から入り組んでいる。

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  • 火縄銃に関する最古の記録はオーストリア写本「Codex Vindobana 3069(1411年)」に記されたZ字型のサーペンタインロック式機構の記載である。また1430年代に描かれたサーペンタインの金具の図も現存する。マッチロック式に分類されるこれらの小火器の発射構造は、バネ仕掛けに火縄を挟んで保持しておき、発射時には火縄に火をつけ、引き金を引いてバネ仕掛けを作動させ、発射薬に点火するというものであった。

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  • フス戦争(1419年〜1439年)最中の1420年代初頭よりフス派側が手砲(Hand Cannon)と装甲馬車(Tabor、Wagenburg)を組み合わせた戦術を用いる様になって当時の騎士による突撃戦術を完膚なきまでに打ち破った。チェコ人傭兵ヤン・ジシュカ(タンネンベルクの戦いにも義勇兵として参戦)が編成したフス派軍隊は貴族と庶民が団結した国民軍の原型というべき存在で、国王の私兵に過ぎないヨーロッパ諸国軍に対して無敵を誇ったとされる。
    *1431年に行われた対フス派十字軍ではポーランド王国から6000人のフス派義勇兵が駆け付けてボヘミアのフス派を支援したし,1431年から1435年にかけて行われた「ポーランド王国ドイツ騎士団の戦争(Polish–Teutonic War)」では、フス派を中心にボヘミアから7000人の義勇兵がやってきてポーランド王国に味方している。

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  • 15世紀半ばにはシア・ロック式(sear lock)とスナッピング式が発明され、ヨーロッパではシア・ロック式が主流になり、日本にはスナッピング式が伝わりさらに独自に改良されていく事になる。火縄銃の最古の分解図(1475年)はシア・ロック式だった。

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  • 火縄銃の呼称ハックバス(独)アーキバス(英)アルケブス(西)は、はじめタッチホール式に反動を吸収するフックをつけたものを指したが後に火縄銃の意味になる、またマスケットという呼称は初出の1499年には重量級の火縄銃を指したが後にありとあらゆる銃に使われる呼称になった。

  • こうして技術革新が進む一方では昔気質の軍事貴族イングランドにおいては薔薇戦争(1455年〜1485年)で互いに潰し合う形で、フランスにおいてもフロンドの乱(1648年〜1653年)で蜂起した帯剣貴族や法服貴族は一枚板にまとまれず内紛で自滅を余儀なくされる形で歴史の表部隊から消え去っていく。その一方で軍役から解放された東欧の貴族達は再版農奴制を採用して農場領主化する一方で、常備軍の将校や官僚の供給階層へと変貌を遂げていくのであった。 

新たな変化を引き起こしたのはスペインの軍制改革だった。

  • レコンキスタを完遂しイベリア半島の過半を支配下に置く様になったスペイン王国は,1494年におけるフランスのイタリア半島侵攻を契機にイタリア戦争が勃発するとアラゴン王国による継承権を理由にこの戦争に介入。しかしゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバを総司令官するスペイン軍はセミナラの戦いでフランス重騎兵とスイス傭兵を主力とするフランス軍に敗北してしまう。

  • 当時のスペイン軍は山岳地域でのゲリラ戦に特化し、剣と円盾を装備した歩兵と、ヒネーテ(Jinete)と呼ばれる軽騎兵を中心としていたが、これを契機に円盾と剣を廃止し、スイス槍兵同様にパイクを持たせた。さらに槍兵に密集隊形(方陣)を組ませ、周囲と両翼に袖のように投射兵(クロスボウ、銃)を配置。さらに士官の数を増加させ、それまでたった1人の士官が兵士100人から600人を指揮していた状況を兵士300人につき4人から6人の士官が付く様に改善して部隊運用性を高めている。

  • この新式スペイン軍は「チェリニョーラの戦い(1503年)」でフランス軍を破ることに成功したが、その鍵となったのは野戦築城(より具体的には塹壕線)による敵部隊の突撃阻止と、火砲の集中投入による殲滅の組み合わせ。火力の集中投入は「チャルディラーンの戦い(1514年)」でも見られたし、宣教師の口づてで織田信長の耳に伝わり「長篠の戦い(1575年)」につながったとも。

「チェリニョーラの戦い(Battle of Cerignola、1503年4月21日)」

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  • 正規軍同士の戦争で火力が重装騎兵を破った史上初めての戦い。スペイン軍の兵力は諸説あるが、騎兵1600名、歩兵6000名程度で丘の上に陣を取り、周囲を塹壕と土塁で補強していた。他に500名前後のアルケブス(火縄銃)を装備したドイツ人傭兵がおり、この部隊はマクシミリアン1世が派遣した援軍であった。砲は13門。これに対しフランス軍は、騎兵650名、歩兵7000名、砲26門。銃兵も存在はしていたが歩兵の主力はスイス槍兵だった。

  • フランス軍は前日の軽騎兵による妨害で十分な偵察ができず、塹壕の存在を察知出来ず、まずこれが最初の禍根となる。

  • 最初に動いたのはフランス軍の騎兵。スペイン側は騎兵が塹壕で停止したところを大砲の斉射によって混乱させようとしたが、突如としてスペイン軍の火薬庫の一つが爆発。驚いた砲兵が予定より早く斉射を行ってしまった事から失敗に終わる。

  • 代わりに力を発揮したのがドイツ傭兵で、塹壕で停止した騎兵を火力で射すくめて指揮官を戦死させている。フランス軍は次いで歩兵を前進させ、塹壕を突破せんとスイス槍兵に3度にわたって突撃を仕掛けさせたが全て撃退されスイス槍兵の指揮官も戦死。あまりの損害の多さに撤退を開始したフランス軍をスペイン軍は直ちに追撃。フランスの遺棄していった大砲を全て鹵獲した。

  • この戦いによるフランス軍の損害が3000名を超えた一方のスペイン軍の損害は100名前後に過ぎず、スペイン軍はフランス軍をナポリから追い出してその全土を制圧。1504年、戦力を再編できぬフランス軍はイタリアから撤退し、第二次イタリア戦争は終結したのである。

「チャルディラーンの戦い(Battle of Chaldiran、Chaldoran あるいはÇaldıranとも。1514年8月23日)」

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  • 6万から20万の大軍を擁するオスマン帝国軍と、それまで宗教的情熱を武器に無敵を誇ってきたサファヴィー朝軍のクズルバシュ(サファヴィー教団に深く帰依するトルコ系部族長に指揮される騎馬軍団)4万が衝突した戦いである。

  • 夜明けとともにクズルバシュの怒濤の様な猛攻が始まり、オスマン帝国軍右翼を守るアナトリア騎兵軍を突き崩しかけたが、やがてイェニチェリと鎖でつないだ大砲を軍勢の中央に配置したオスマン帝国軍が騎兵をことごとく撃ち倒しててッ劣勢を挽回。

  • 右翼も救援に回ったイェニチェリ鉄砲隊の活躍で形勢逆転。9月にはタブリーズを占領する戦果を上げたが、補給の困難と遠征による疲れや軍勢内部に徐々に広がった厭戦気分から深追いをさけて退却せざるを得なくなった。

  • 以降はサファヴィー朝マムルーク(奴隷戦士)の近衛兵団とイラン系砲兵を主力とする様になりクズルバシュは失脚を余儀なくされる。

「第一次パーニーパットの戦い(The First Battle of Panipat、1526年4月21日)」

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  • 戦象1,000頭を含む100,000人以上の大群を擁する北インドの覇者ローディー朝が、動員数こそ12,000人程度だったが鉄砲や大砲を有効にバーブルの軍勢に敗れムガル朝創始につながった。

  • インダス川を渡河したバーブルは自軍の一部を民家の多いパーニーパットに置く一方、木の枝で覆い隠した壕で自軍を保護し、実数が悟られないように隠蔽。また自軍の前面に多数の荷車を縛り付けて並べた「防壁」をつくり、荷車の間ごとについたてを作って鉄砲や大砲を発砲できるようにした。

  • 実戦ではローディー軍がバーブル軍の布陣の固さに攻めあぐねて躊躇した隙を突いて側面と背後から攻撃。これに連動する形で前面から鉄砲や大砲の連続射撃で16,000人以上を殺したという。

長篠の戦い(1575年)」

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  • 三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000が衝突。

  • 信長軍は一説に拠れば3000丁もの火縄銃を用意し、野戦築城によって「三段構えの陣」を構築した上で武田側の後背地たる鳶ヶ巣山を奇襲で占拠し無謀な突撃以外の選択肢を封じて圧勝した。

「テルシオ(Tercio、スペイン方陣)」の登場

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  • スペイン軍はさらにパイクと小銃を組み合わせた先陣を工夫して「パドヴァの戦い(1525年)」においてフランス軍を分断し総崩れに追い込んだ。そしてこれ以降スペインはフランス同様に「常備軍問題」を抱える事になり、多大な軍事費出費を余儀なくされる事となる。その多くは新大陸から掠奪してきた金銀で賄われ、ハイパーインフレを引き起こす事に。

  • その軍事的優位は16世紀末まで続いたが、17世紀に入るとネーデルラントのマウリッツ・ファン・ナッサウがテルシオを破る新式軍隊を編成し、事前訓練の徹底による柔軟な機動力を武器とする「オランダ式大隊(Dutch battalion)」を編み出した。

    http://darkroom-cdn.s3.amazonaws.com/2015/06/AP-Belgium-Waterloo-Photo-8.jpg

  • その軍事改革は兵士を供給したザクセン選帝侯国経由で北欧に伝わりスウェーデンのグスタフ2世アドルフがさらに研鑽してブライテンフェルトの戦い(1631年)における神聖ローマ皇帝軍のスペイン方陣に対する勝利を現出させる事になる。

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オラニエ公マウリッツ・ファン・ナッサウ(Maurits van Nassau, 1567年〜1625年)

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  • スペインからの独立戦争(八十年戦争)を始めたオランダ総督オラニエ公ウィレム1世の次男で、フィリップス・ウィレムの弟、フレデリック・ヘンドリックの兄。父の死後、戦争において中心的な役割を果たした。死に臨んで「2プラス2は4である」ということを自己の信条にしたほどの合理主義者で、自らの軍隊に徹底した訓練を行うと共にそのマニュアル化を行った。これがヨーロッパ各国の軍隊に多大な影響を与えたことから「軍事革命」とも評価される。

  • 1567年にドイツ西部のディレンブルクで生まれた。父はウィレム1世、母アンナはザクセン選帝侯モーリッツの娘。母方の祖父の名を取ってマウリッツ(モーリッツ)と命名され、父方の叔父のナッサウ=ディレンブルク伯ヨハン6世の元で育てられた。

  • 1584年に父の暗殺後、1585年にホラント州とゼーラント州の総督となった。当初はイングランドから派遣されたレスター伯ロバート・ダドリーがオランダを率いていたが、指導力不足から1587年にイングランドに帰国するとマウリッツがオランダを率いる立場に置かれ、1590年にユトレヒト州・ヘルダーラント州・オーファーアイセル州総督も兼ねるようになる。

  • 戦争はスペイン領ネーデルラント総督のパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼがオランダの都市を奪い続けていたが、1588年のアルマダの海戦でスペインが敗北、翌1589年にスペイン王フェリペ2世がフランスの内戦(ユグノー戦争)に介入してパルマ公をフランスへ出兵させたため、その隙に都市奪還を図り1590年にブレダ、1591年にデーフェンター、ズトフェン、ナイメーヘンを、1592年にスティーンワイカーラント、1593年にヘールトラウデンベルフを奪還してオーファーアイセル州・ヘルダーラント州・北ブラバント州を回復、1594年にはフローニンゲン州も取り戻してオランダの領土を拡大、1597年までに再び北部7州をまとめ上げた。1596年にはイングランド・フランスとグリニッジ条約を締結、2国からオランダの承認・対スペイン同盟締結でオランダの地位を固めた。

  • 教養人でもあった為に古代ローマ帝国時代の軍事に関する文献を踏まえつつ、自らの軍隊に独自の教練を施して軍の強化に成功し、1597年のトゥルンハウトの戦い、1600年のニーウポールトの戦いで勝利を重ね、八十年戦争を優勢に進めた。

  • しかし1603年から参戦したスペインの将軍アンブロジオ・スピノラが南部の都市を奪還して回り、1604年にグリニッジ同盟が解散、スペインが国家破産を宣言するなど深刻な財政難に陥っていたスペイン・オランダ両国は次第に戦争を継続することが困難になり、1608年よりハーグで和平交渉が行われ、最終的には1609年にアントウェルペンで12年間の休戦協定が成立した。

  • 戦時中の1602年にオランダ東インド会社が設立されてオランダ人がアジアに進出、毛織物貿易が盛んに行われ、オランダは黄金時代を迎えることとなる(オランダ海上帝国)。一方で、父が暗殺されたようにオランダ内部では絶えず政争が続いていて、休戦協定はホラント州法律顧問のヨーハン・ファン・オルデンバルネフェルトが商人層を代表して結んだが、庶民派とマウリッツは協定に不満で両者は対立関係となった。

  • 宗教問題でもカルヴァン主義の予定説をどう解釈すべきかが政治問題に発展、オルデンバルネフェルトは予定説を柔軟に解釈すべきとする寛容派に属したが、マウリッツは厳格に解釈しようとする厳格派に肩入れした。1618年に開かれたドルトレヒト会議で厳格派が主流となり、ドルト信仰基準が採択され、1619年にオルデンバルネフェルトを処刑して自らの政権を維持した。

  • 1621年に停戦が終わるとスピノラと再戦、1624年にスペイン軍に包囲されたブレダを救援しようとしたが、翌1625年、決着が着く前にハーグで57歳で死去。生涯独身を通し嫡子がなかったため、家督と地位は異母弟のフレデリック・ヘンドリックに受け継がれたが庶子にウィレム、ローデウェイクがおり、ローデウェイクの息子である孫ヘンドリックはオランダ侵略戦争、大同盟戦争、スペイン継承戦争で従軍してアウウェルケルク卿と名乗り、この家系はナッサウ=アウウェルケルク家として続いた。

マウリッツの軍事革命

  • 従兄のナッサウ=ジーゲン伯ヨハン7世(叔父ヨハン6世の子)と共に行った一連の軍事訓練は、「軍事革命」とも評価される画期的なものであった。もちろん、従来の軍隊にも軍事訓練はあったが、マウリッツはその訓練を非常に精緻なものとした。

  • 例えば、銃を扱う際にもその動作を数十にまで細分化し、かけ声に合わせて一斉に動作できるようにした。また、行進の規則を定めることで、指令に従って軍団が迅速に陣形を変えることを可能にした。こうした訓練は、非戦闘中の兵士の士気を維持させることにもなった。

  • また訓練を通じて、元来は傭兵の寄せ集めでしかなかった軍隊の中に、ある種の連帯意識を形成させることにも寄与した。しかもこれらの訓練マニュアルは秘密裏にされず、書物として刊行された(『武器の操作、火縄銃・マスケット銃・槍について、オラニエ公マウリッツ閣下の命令によって著す』、日本語未訳)。そのため、諸外国がマウリッツの基本教練を参考にして、自国の軍隊を鍛え上げるようになった。

  • さらにマウリッツは、パイク兵の方陣(テルシオ)による白兵戦が主流であった当時のヨーロッパの陸戦を刷新し、歩兵・騎兵に砲兵を加えた三兵戦術の基盤を築いた。

  • マウリッツが生きている間は、それでも名将スピノラ率いるスペイン軍との戦闘は五分五分といったところであったが、彼の死後、オランダは当時ヨーロッパ最強の軍事大国であったスペインとの八十年戦争を乗り切って完全独立を果たす事になる。

  • マウリッツはまた、将校を育成するための士官学校も創設した。この士官学校の卒業者の中には、後にバルト海一帯の覇権を握るスウェーデン王グスタフ2世アドルフに仕える者もおり、スウェーデン軍の強化は、この卒業生の功績によるものも大きいと推測されている。このように軍事史におけるマウリッツの影響は、オランダ一国にとどまらずヨーロッパ全体に広まった。加えてマウリッツは、軍隊にシモン・ステヴィン、ジャック・アローム等の優れた数学者・技師などを招き、新兵器の開発も振興した。

  • そして17世紀における銃剣の登場が次の時代の画期となる。それまで槍兵に護衛されながらでないと戦えなかった銃兵が、自ら素早く白兵戦に突入可能となって兵の運用に柔軟性がもたらされたからだった。

「銃剣(Bayonet)」の語源として名高いフランスの古都バイヨンヌ(Bayonne)。

https://i1.wp.com/www.defensemedianetwork.com/wp-content/uploads/2013/02/19-C-US-bayonets.jpg

  • スペイン国内のナヴァラ、フランス国内のガスコーニュ同様にバスク文化の影響が色濃い。現在のデンマークから840年にヴァイキングが到達。9世紀から10世紀にかけてヴァイキングの侵攻を継続的に受け続けた。その守護聖人たる聖レオンはノルマンディー地方カランタン出身で、10世紀にヴァイキングによるバイヨンヌ侵攻の際に殉教。しばしば切られた首を自ら手にして立っている姿で描かれる。

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  • アキテーヌ公領に吸収されていた1152年、女性領主であるアリエノール・ダキテーヌがのちのイングランド王ヘンリー2世と再婚したことにより12世紀から15世紀にかけてはイングランドの支配下に置かれ、スペイン国境に近い軍事的要衝でもあった事から英仏百年戦争(1337年〜1453年)の時代には激しい争奪戦が繰り広げられた。その影響で武器生産もさかんとなる。

  • アドゥール川やバイヨンヌ港の整備が進むとタラ漁や捕鯨といった漁業およびその加工業で潤った。16世紀後半にはイベリア半島からユダヤ人たちがサンテスプリに移り住み、彼らがもたらした技術と知識によってチョコレートの生産が始まる。

  • 17世紀に入るとこの地で起こった農民同士の紛争から偶然「銃剣(Bayonet)」が発明された。興奮した農民がマスケット銃銃口にナイフを差込み、相手に襲い掛かったのが最初と伝えられる。当時のマスケット銃は有効射程が100m程度と短い上、装填にかなりの時間かかり発射間隔が長かった。それで射撃と射撃の合間に敵の歩兵や騎兵の突撃を受ける可能性が高く、一端詰め寄られたら近接戦闘の手段が剣しかないのでひとたまりもないので、銃兵は常にパイク(槍に似た長い棒状の武器)を装備する槍兵にを置く必要があったのである。しかし銃剣の採用により銃兵は敵の歩兵や騎兵の突撃を独力で迎撃することが可能となり、役目を失った槍兵も銃兵に更新する事で全歩兵が銃兵化され戦闘能力の向上につながった。
    *例えばワーテルローの戦い(1815年)では、仏軍騎兵の突撃を受けた英軍の小銃手が方陣を組んで、銃剣を突出し槍衾とする事でこれを防ぎ切った。馬は訓練しても尖ったものに対して突っ込むことを恐れる為、この戦術は極めて有効だったのである。

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  • 1854年にはパリと鉄道で結ばれ、ビアリッツで休暇を過ごす人々の観光拠点となった。20世紀に入るとフランコ独裁政権からの庇護を求めてスペイン・バスクが到来し小バイヨンヌに移り住んでいる。経済は一時的に低迷したが近郊のラックに油田が発見され、石油関連産品や周辺地域の農作物などの輸送の要として活況を取り戻しつつある。

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  • 現在は生ハム(復活祭の時期に見本市が開催される)やバスク伝統の仕込み杖(Swordstick)の生産、13世紀より7月から9月にかけてバイヨンヌ闘牛場で開催されてきた闘牛(フランス国内でも特に歴史が古い)で有名。また近年はサーフィンをはじめマリンスポーツのリゾートとしての再開発も進み、観光業も重要な収益源となっている。
    *Swordstickの携帯は18世紀から19世紀にかけて欧州富裕層の間に流行したファッションでもあって、しかも女性にも人気で散歩用のステッキや日笠に仕込んだりしてたらしい(マラッカの木材の鞘とステンレス鋼の刃が最高峰だったそうな。どうやら18世紀に英国がインドを植民地化した結果、旧デリーのイスラム寺院の庭に立つデリーの鉄柱に驚異的耐候性をもたらすウーツ鋼が「再発見」され、十字軍の時代から憧憬の対象になってきたダマスカス剣への興味が再燃した事も背景にあるらしい)。ただし当時の技術では鞘の固定が不十分で事故が頻繁に起こっていた模様… 

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一方、日本において鉄砲は1543年(天文12年)に種子島に伝来したことから、種子島銃あるいは単に種子島と呼ばれた。

  • 近年では、東南アジアに広まっていた火器が1543年(天文12年)以前に倭寇勢力により日本の複数の地域に持ち込まれ、伝来当初は猟銃として用いられていたとする説がある(宇田川説)。

  • 他方欧米には欧州の瞬発式火縄銃が日本に伝えられて改良発展したものが、逆に東南アジアに伝えられ、それらが手本となって日本式の機構が東南アジアに広まったものとする説もある(ニッケル説、ブレーヤ説)。

  • 何れにせよ複雑な発射機構の無い鉄砲自体は遅くとも16世紀初頭に伝わっていた事が文献に残っている、関連して火薬が15世紀後半の日本で生産されており朝鮮との交易の際に輸出品となっていたことが文献から窺える。

  • 戦国時代以降、日本では近江の国友、同じく日野、紀州の根来、和泉の堺などが鉄砲の主要生産地として栄え、多くの鉄砲鍛冶が軒を連ねた。根来のみは織田信長豊臣秀吉による紀州攻めの影響で桃山期以降衰退したが、国友・日野・堺はその後も鉄砲の生産地として栄え、高い技術力を誇り続ける。また城下町において、鉄砲足軽や鉄砲鍛冶が集中して居住した場所は「鉄砲町」と呼ばれ、現代でも地名に残っている。
    鉄砲町 - Wikipedia

日本の武器弾薬の備蓄量はたちまちオスマン帝国に匹敵する規模に達したが、国内統一完了後、不思議なまでにそれを悪用しようとする動きは見られなかったのである。

 要するに「世界三大発明(羅針盤・紙・火薬)」で問われるのは「誰が発明したか」ではなく、「それを実社会に組み込んで活用しながら改良を重ねてきたのは誰だったか」という事。

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  • 羅針盤…旅行・物流革命の象徴(時計の発達とも関係が深く、最終的には「時刻表に従って運用される船便や鉄道が、時計を携帯する人間や荷物を定められたスケジュールに従って運ぶ世界」を現出させる)。

  • …事務・出版革命の象徴(文書行政、科挙の様な試験教育、小冊子(パンフレット)合戦、精彩な解剖図や建築図や美術書や博物図鑑、そして大衆娯楽やタイアップ広告などの世界)。

  • 火薬軍事革命の象徴(「騎兵や槍歩兵の密集突撃(君主と騎士の動員契約)」から「鉄砲や火砲を大量に装備した歩兵隊(国家が養う常備軍)」へ。その過程で「大貴族連合に対する王権の勝利」や「税収改革」や「官僚制の導入」などを必然的に伴うことになる)。

確かに宋朝は中華王朝史上(というか世界史上)初めて以下の三本柱が揃った国家として賞揚されるべきなのかもしれません。しかしながらそれは、逆を言えば「それを自力で発展させ得ない古代国家の限界」を露呈させたともいえるのです。

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  • 貿易立国…唐代までの貿易は割と外国商人任せ。内陸部ではソグド人、臨海地域では(インド南岸を本拠地とする)タミル商人や、大食(ターク=(アラビア半島南岸を本拠地とする)ハドラマウトらアラビア商人)や、百済商人/新羅商人/唐人など。だが宋代からは中国商人が直接海外進出。
    *ただし、中国共産党が2014年以降目指す様になった「一帯一路」路線みたいにユーラシア大陸全体を横断する様な大規模な体制を実際に樹立したのはモンゴル帝国(1206年〜1634年)。しかも清朝1616年〜1644年〜1912年)みたいに、その運営ノウハウの全てを継承してる訳ではない。だから進む先々で血の雨を降らせ続ける。中国商人の海外進出は宋元代に始まり、明代の海禁策が「倭寇化」という展開を生む。その一方で清朝代は(新大陸からの作物伝来を契機とする)大開拓時代となり、海方面にも溢れた難民が華僑の先祖筋となった。こういう状態を背景に国内経済が発展し、山西省出身の山西商人(豊富な資金を背景に皇族とも密接に関わり、政府資金の運用にも関わる)や安徽省出身の新安商人などが台頭。その一方で地方経済は郷紳に分割された。

  • 文書行政…「士大夫階層=科挙」と殿試で選定される直臣集団。
    *ただし、実際に「神格化された皇帝を直臣たる官僚団が支える絶対王政的システム」を世界で最初に実現したのは、アケメネス朝ペルシャ(紀元前550年〜紀元前330年)。この国がアレキサンダー大王の東征(紀元前334年〜紀元前323年)によって滅ぼされるのと前後して「戦国時代中国における西の大国」秦において同様の変化が始まったのである。①「遺臣流入」説。②「ヘレニズム化したギリシャ人が伝えた」説。③「並行進化説(多民族を絶対権威に裏付けられた法の支配下に置かねばならない要件が同じなので同様の発達を遂げた)」などが指摘されている。

  • 常備軍…中世までは騎士や騎馬民族に所領を与え、有事に際して動員する方式だった。一方宋の兵制は基本的に傭兵制(募兵制)。武官の待遇は文官に劣り、さらに唐末から五代期にかけて頻発した将軍達の軍閥化を警戒するあまり、文官の統制下に置かれたばかりか、逃亡予防の為に兵士の顔には(罪人に課される様に)刺青が彫られた為、兵士の社会的地位は著しく低下し「良い鉄は釘にならず、良い人は兵にならず」とまで言われる展開に。結果的に、膨大な人数を誇ったが、質的には脆弱で宋史を通して大きな活躍はしなかった。その一方で不十分ながら(近代的軍隊制度に近い)職業軍人制度・保障制度も確立していたが、モンゴル帝国(1206年〜1634年)に逆らったせいもあって一旦完全に解体されてしまい、明や清に継承される事はなかった。
    *制度としての起点を欧州大開拓時代(11世紀〜13世紀)における騎士修道会の成立に見る向きもある。その運用は(イスラム諸国との一進一退の戦いなので領土獲得の望みが薄く)継承すべき所領を持たない領主の次男や三男・遍歴騎士の集まりが悪かった中東・イベリア半島方面の戦場を支える要として始まった。確かに英仏百年戦争(1337年 /1339年〜1453年)をフランス側勝利に導いた「リッシモン元帥の常備軍」に先行する歴史上ユニークな存在で「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」からの脱却過程で重要な役割を果たした事実は否定出来ない。

    騎士修道会大航海時代が始まった発端であるばかりか、ある意味「フランス外人部隊の先祖筋」という側面もあったりする。ドイツ統一の母体となったプロイセン王国チュートン騎士団と縁深い。

司馬遼太郎の様に自力発展が頓挫した理由を科挙朱子学に求める立場もあります。

司馬遼太郎「街道を行く28 耽羅紀行」

科挙」これは、中国ではじめられた高等官選抜のための試験制度のことである。

隋の時代にはじまって、清の末期(1905年)にようやく廃止された。1300年という歴史をもつ。

科挙の歴史こそ中国権力史の側面そのものであり、やがてヨーロッパ人がこの試験を基礎とする中国官僚(マンダリン)の制を知ったとき、その組織と運営の精妙さにおどろくのである。

同時に、中国文明を大停頓におとしいれた制度上の元凶のひとつにもなった。

上代のように農業国家の時代はまだよかった。

16世紀や17世紀ごろから、世界の経済や思想が騒然としはじめて、価値観が多様になる気配を示しはじめたころでもなお、中国と朝鮮は世界史に背をむけ、独創を排し、朱子学一価値に固執し、知性を牢獄に入れているとしか言いようのないこの制度を頑固につづけていた。

朱子学は、宋以前の儒学とはちがい、極度にイデオロギー学だった。正義体系であり、べつのことばでいえば正邪分別論の体系でもあった。朱子学がお得意とする大義名分論というのは、何が正で何が邪かということを論議することだが、こういう神学論争は年代を経てゆくと、正の幅がせまく鋭くなり、ついには針の先端の面積ほどもなくなってしまう。その面積以外は、邪なのである。

科挙を受験するほどの人は、まずぼう大な中国古典を暗誦せねばならない。その解釈は朱子の註のみによるのである。しかるのちに、針のさきほどの正義にむかっておのれの知性を凝縮せねばならない。

以上は、単に準備段階にすぎない。

洪量な暗誦訓練がおわったあとに、文章の訓練がはじまる。文章こそ合否のかぎになる。

むろん、文章は名文でなければならない。

名文といっても、自分の文体ではいけない。

煩瑣な日本舞踊でもおぼえるように、型をおぼえ、型によって演じなければならない。

型はきまっている。

「八股文」

といわれる愚劣なものである。

以下、八股文についての説明をいそいでするが、このくだりは読者は読みながすほうがいい。説明ですら、この地上で何の役にも立たぬものである。

この作文形式は、まず破承という第一形式からはじまり、ついで起講、入題となる。以上三つの型が、文章の導入部分である。第四番の形式が、起股、第五番目が虚股、第六番目が中股、第七番目が後股で、この四個の型が文章の中心をなしている。第八番目がむすびであるところの結束である。舞踊が煩瑣であるように、八股文はもうすこしわずらわしくしてある。前掲のうち〝股〟という文字のついた四個の型を書くときには、それぞれ〝比〟とよばれる対句を用いねばならない。〝魚ハ水ニ飽キルナク、鳥ハ林ヲ厭フナシ〟といったような修辞である。
*ウィリアム.H.マクニール「ヴェネツィア――東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797(Venice: the Hinge of Europe, 1081-1797、1974年)」によればオスマン帝国の公文書にも同様の傾向が見られ、それも17世紀後半からの衰退の遠因の一つになったという。

科挙においては、八股文の形式をそなえない答案ははなから落第になる。試験官としては数多い答案を見るわずらわしさが、避けられるのである。その点、高度の意味での○×式といっていい。

むろん、受験生は、八股文に習熟してやってくる。

科挙の試験に通れば大官になり「清官ニシテ三代」(清らかにやっていても子孫三代までの財産ができる)といわれるほどだったから、全中国、全朝鮮の知力と気に満ちた者はみなこれにいどみ、四十、五十をすぎてもなお浪人という人も、都鄙にたくさんいた。

時代にして、中国は1300年、朝鮮は約950年これをやりつづけてきたのである。その頭脳の中には、十分エラスムスになりえた者もいたろうし、ニュートンになりえた者もいたはずであったが、すべてが型どおりの盆栽の松にさせられてしまった。

李氏朝鮮の官僚申維翰は、通信使として1719年に日本に使いした人で、われわれ後世の者に、すぐれた日本紀行『海游録』(東洋文庫・姜在彦訳注)を遺してくれた。まことにみごとな文章だが、日本を見る観察態度が裸眼ではなく、いわば朱子学的であり、さらには科挙の及第者的であることが、小さな瑕瑾である。

「日本には、科挙試によって人を採用する法がなく、官は大小にかかわらずみな世襲である。奇材俊物が世に出て自鳴することのできない所以である。民間人のなかで恨みを抱きながら世を去るもの、多くはこのたぐいである。」

とある。

申維翰には申しわけないが、もし日本に科挙の制度があったとしたら、江戸時代の多様さはなかったであろう。

江戸期は、形だけは朱子学が官学だったが、他の学問が弾圧されるということはなかった。
*皮肉にも陽明学(中華王朝の陸王学、朝鮮王朝の江華学)や法学に至っては基本文献含め日本にしか残っておらず明治維新後に日本から再輸出となるのである。そういう状況下において毛沢東韓非子のファンになるというのが興味深い。ちなみに清朝考証学や日本古学の影響も受けた朝鮮実学(17世紀〜18世紀)は、管子「牧民論」に基づいて元代の漢人官僚張養浩が書いた「牧民忠告(1300年頃)」を継承し、丁若鏞(1762年〜1836年)が「牧民心書」を残している。その影響は江戸時代日本にも及び、明治維新後も内務省にその理念が継承されたとされる。何故管子「牧民論」だったかというと法家文献が弾圧によって散逸した後、民政の参考になり得るテキストがそれしかなかったからだという。
管子「牧民論」
*「衣食足りて礼節を知る」の原典。原文は「倉満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」。

三事忠告

江戸期は、キリシタン禁制のほかは、学問・思想は、高麗朝や李氏朝鮮とくらべてはるかに自由だった。

たとえば、申維翰と同時代の日本の学者である荻生徂徠(1666年~1728年)は最初は朱子学から出てやがてその道徳的自然論を排撃し、経験科学的な思考法ともいうべき古文辞学を確立した。こんにちの人文科学のはしりといってよく、その系譜から太宰春台や服部南郭など多くの思想家や学者が出て〝自鳴〟した。
清朝考証学の影響を受けて朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と喝破し、それに立脚した古典解釈を批判する様になったとも。流石に清代に入ると「科挙合格用の朱子学だけでは駄目だ」という声が高まったのだった。
荻生徂徠 - Wikipedia

かれらはみな世襲の人たちではない。江戸期は封建制ながらも、すぐれた学者の多くは農家、浪人、商家、医家から出た。申維翰の世代よりわずかにあとの三浦梅園(1723年~1789年)はいまの大分県の国東半島の百姓医の出で、自然科学を独習し、それにもとづく条理学をうちたて、さらには〝反観合一〟という弁証法的論理学を創造した。

もし中国や朝鮮のような科挙の制度があれば、徂徠も梅園も出なかったにちがいない。

またこんにちの世俗思想からみてもなお毒性のつよい思想である山片蟠桃(1748年~1821年)は大坂の富商の番頭で、その経済思想の上に立っていっさいの神秘主義を排する「無鬼」の論をたて、素朴唯物論的な世界観を提唱した。おなじく大坂の商家の人である富永仲基(1715年~1746年)は、大乗仏教を洗いつくし、比較哲学的な方法を用いて〝大乗非仏説〟(大乗仏教は釈迦の教えではではない)という説を展開した。
*「大乗非仏説」もあるいは清朝考証学の影響を受けていたかもそれない。
大乗非仏説 - Wikipedia

江戸期におけるこれら人文科学的な〝百家〟の〝争鳴〟がなければ、とうてい明治期の新文化の導入はなしえなかったにちがいない。

結論をいうなら、ある意味オスマン帝国やフランス絶対王政の先行モデルではあったと主張するのは容易ながら、かえって最近中国共産党が広めてる「中国宋朝こそ近代の起点」説を否定する結果に陥ってしまう展開に。