読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「国民国家」概念の起源④ フランス式「王的支配」と英国式「王的・政治的支配」の到着地点

英国薔薇戦争(1455年〜1485年 / 1487年) 当時の法律家ジョン・フォーテスキューの政治理論の中核をなすフランス式の「王的支配(Dominum regale)」理念と英国式の「王的・政治的支配(Dominium regale et politicum)」理念の鋭い対峙。

https://i2.wp.com/brewminate.com/wp-content/uploads/2016/05/Batavian01.jpg

その背景には王の「秩序構成権力」と対峙される人民の「正義構成権力」の内容の国ごとの違いがあったともいわれています。

  • 【フランスの場合】「領主が領地と領民を全人格的に代表する農村主義的伝統」が深く根付いたこの国では「人民」は、伝統的共同体の最小単位たる「農村」「教区」「(職業単位に存在する)ギルド(職人組合)」などに細かく分断され、それまで全くと言ってよいほど一体感を持ち合わせていなかった。絶対王政機に入ると伝統的農村の解体が進行してサン=キュロット(浮浪小作人階層)の様な新興貧困階層が自然発生したが、政治的代表者を持たなかったが故にその待遇が改善される事はなかった。その一方で農作物や畜産物の流通網は(王権に擦り寄る事に成功した)既得権益者が独占を続け、その矛盾を解消すべく宮廷で重農主義者が台頭したりしたが、問題解決にはあまり役立たなかった。要は18世紀段階では既に「伝統的社団間の利害不一致を国王が裁定する」なる伝統的統治形態そのものが時代遅れとなりつつあったのである。

    *サン=キュロット(浮浪小作人)階層…革命戦争勃発後、彼らが兵士供給階層として注目を集める様になり、当時は最も急進的なジャコバン派を自らの政治的代表者として選択した事、ナポレオン戦争終焉までにその多くが(従軍の見返りとしての恩給によって)自作農となって保守化し、自らの政治的代表者としてナポレオン皇帝の血縁者たるルイ・ナポレオン(後の皇帝ナポレオン三世)を選んだ事などがフランス政治史を思わぬ形で振り回していく展開となる。

    *ちなみに選挙が実施されるとかえって(組織票による圧倒的動員力を誇る)王党派の勢いはかえって増した。ルイ・ナポレオン大統領が皇帝ナポレオン三世に即位して第二帝政(1852年〜1870年)を開闢したのも、彼らの影響力を振り切る為だった。

    *(赤旗をシンボルとする)急進共和派が「選挙は絶対悪、暴力革命だけが正義を実現する」とか「人類平等を実現する為、プロレタリアート階層はブルジョワ階層と農民階層を皆殺しにせねばならぬ」とか言い出したのも同様の経験に基づく。かかる「国民への不信感」から出発したからこそ共産主義国家は、必然的に大量虐殺や密告政治を伴う様になった。まさしく「ヴァンデ/リヨン/トゥーロンの虐殺からクメールルージュを経て天安門広場まで」そうした歴史が一貫して続く事になる。

    *最終的にフランスで勝利を収めたのは(三色旗をシンボルとし、新興インテリ=ブルジョワ階層の安定志向に担保された)穏健共和派だった。赤は急進共和派、白は王党派、青は「その他」。ある意味「国王が(目に見えてる部分が全てとは限らない)諸勢力の対立を調停する」フランス絶対王政の伝統の延長線上に現れた考え方とも見て取れる。

  • イングランドの場合】「二重大権(double majesty)ゲルマン起源説」にせよ、ジョン・フォーテスキューの「王的・政治的支配(Dominium regale et politicum)」論にせよ、そこで「正義構成権力」として念頭に置かれているのは「諸侯(Barons)」である。
    *英国人が大日本帝国の江戸幕藩体制解体、とりわけ秩禄処分(1876年)に激しい心理的不安を覚えたのは何故か。それはマグナ・カルタ(1215年)61条「保証条項(security clause)」に「不当な差押さえ(distraint)への抵抗権」が規定されており、まさにその伝統に抵触する内容だったからである。
    第一次バロン戦争(1215年〜1217年) - Wikipedia
    第2次バロン戦争(1264年〜1267年)- Wikipedia

  • 神聖ローマ帝国においては(軍事力の主体の国軍への推移によって)従軍義務から解放された「諸侯」が(再版農奴制履行を含む)領邦国家化への道を歩んだ。地域によっては「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」がかえって強化されたりもしている。

    一方「ブリテン島の諸侯」は、フランスとイングランドの国境が不明瞭だった時代まで遡っても以下の様な特質を有していた。①国王の大陸での軍事活動については従軍せず費用を負担するのみ。②ノルマン・コンクエスト(1066年)に伴う所領細分化により「地主(領主)」「経営者(管財人)」「労働者(小作人)」の役割分担が早くから始まった。③従って「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」どころか「切捨御免」の様な専権が発生する事もなく、内戦に際しても「国民の生命と財産の棄損を可能な限り回避する」伝統が育った。

    ノルマン・コンクエスト(1066年) - Wikipedia

    征服王ウィリアム1世は所領を与える際、まとまった一地域を与える代わりに各地の荘園(マナー manor)を分散して与えた。

    征服が少しずつ進んだことによる必然でもあるが、このため一地域を半独立的に支配する諸侯は生まれなかった(王族などに例外はある)。

    諸侯は所領が分散しているため反乱を起こしにくく、また支配地域の安定のために王の力に頼る必要があったため、王権は最初から強かった。

    一方、諸侯はお互いに頼りあうことになるため、王に対しても協力して対抗しやすく、後にマグナ・カルタイングランド議会の発展につながる要因となっている。

    また全国の検地を行い、課税の基礎となる詳細な検地台帳(ドゥームズデイ・ブック)を作り上げた。当時のフランス、ドイツ、イタリアは大諸侯が割拠する封建制であり、イングランドの体制は西欧で最も中央集権化が進んでいた。

  • ブリテン島の諸侯」そのものは薔薇戦争(1455年〜1485年 / 1487年)における同士討ちが祟って衰退し、清教徒革命期(狭義1641年〜1649年、広義1638年〜1660年)を経てジェントリー階層に主座を譲ったとされている。

    だが実際の推移は意外にも不明点が多い。そもそもブリテン島にあっては思うより身分や職能分担の流動性が高く「大日本帝国の江戸幕藩体制解体」の様な「大手術」が滅多に見られないせいである。ハンガリー出身の経済人類学者カール・ポランニーも「大転換 (The Great Transformation1944年)」の中で英国の囲い込み運動を詳細に分析し「後世から見れば議論や衝突があったおかげで運動が過熱し過ぎる事も慎重過ぎる事もなく適正な速度で進行した事だけが重要なのであり、これが英国流なのだ 」と指摘している。

    *18世紀末から19世紀にかけて、貴族的功利主義の延長線上においてコンドルセジョン・スチュワート・ミルが「(王権や伝統的身分制でなく)数理にのみ忠誠心を誓う臣民」なる概念を樹立していくが、すでにそれ以前からブリテン島住民は「数理(経済活動上の効率)によってのみ集散する人々」だったのであり、この事が産業革命に伴う産業構造の変化への柔軟性を産んだとも。同様の変遷は日本だと(各戦国武将ごとの自給自足経済に癒着した)御用商人達が(参勤交代の為の交通インフラ整備に便乗して形成された全国規模の富商・富農のネットワークたる)株仲間に駆逐されていくプロセスに見て取れる。実際には時期ごと、地域ごとに多様な展開を辿った為、英国における経済活動の推移同様、全体像把握が極めて難しい。ここで重要なのは「数理(経済活動上の効率)によってのみ集散する人々」が観測されなかったり(公文書では黙殺されてるだけのケースも含む)、あるいはそういう人々が徹底して冷遇(甚だしい場合には弾圧)される国では近代化が確実に遅れるという事。もちろん前近代イングランドにも江戸幕藩体制にもそうした側面は確実に存在したが(日本のリセット主義は「(伝統的身分制度崩壊を防ごうとする)徳政令」の様に真逆に働く事もあった)、ここではポランニーの指摘する通り「運動が過熱し過ぎる事も慎重過ぎる事もなく適正な速度で進行した事だけが重要」なのである。

    徳政令 - Wikipedia

  • むしろその流動性の高さゆえに貴族階層もメンバーの入れ替わりが激しく、だからこそかえって「領主(土地所有者)は土地経営者となっても労働者となってもいけない」なる原則が厳守された事こそが英国身分制の本質だったかもしれない(そして近代が到来すると「地主」が「融資家」に変貌し「ジェントルマン資本主義」が成立)。その一方で、日本において「戦国武将(領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統に基づく支配者)の割拠状態」再来を恐れる徳川幕府が、あらゆる手段を講じて「武士の領主化」に歯止めを掛け様としたのと重なる。
    代官 - Wikipedia

    貴族的功利主義のもう一つの顕現形態が単なる血統維持や政略結婚に止まらない「性選択(Sex Selection)」。この概念を19世紀後半に定式化したのもまた「英国人」のダーウィンだったという辺りが興味深い。要するに羽振りの良い新興産業階層を一族に取り込み続ける事で家勢を維持し続ける戦略の事。古くは(同様の制約を負わされていた)ヴェネツィア貴族にも見て取れるという。

    ところで「階級間対立の鬱屈を回避する為の無礼講」を伝統行事として重視してきた国は意外と少なくない。古代アテナイのディオニューシア祭やヴェネツィアのカーニバルの起源は「船主と船長と乗組員の懇親会」。徳川幕府もまた江戸時代に入ってから花見の慣習を庶民にまで広げ「身分を超えた無礼講」に仕立て上げた。ブラジルでも近年に入ってからは上流階層がリオのカーニバルの黙殺をやめたり「ビーチではみんな水着一枚」なるスローガンを流行させたりして、せっせと「国民統合」に励む様になった。
    ディオニューシア祭 - Wikipedia
    ヴェネツィア・カーニバル - Wikipedia
    花見 - Wikipedia
    リオのカーニバル - Wikipedia

    この部分が英国は独特で「無礼講文化」の代りに「貴族に対する庶民のスノビズム」を軸とするモチベーション創造が為されてきたのである。産業革命の推進力は「砂糖入り紅茶と白パンへの憧れ」だったし、庶民の娯楽として始まったフットボールも「パブリックスクールの行事」に組み込まれた。この辺りの思考様式が良くも悪くも「英国的上品さ」の大源流という訳である。
    フットボール - Wikipedia
    ラグビー - Wikipedia
    パブリックスクール - Wikipedia

  • 18世紀末から19世紀にかけて(貴族的功利主義の延長線上において)コンドルセジョン・スチュワート・ミルが「(王権や伝統的身分制でなく)数理にのみ忠誠心を誓う臣民」なる概念を提唱して「労働者や女性を対等の人間として扱う」運動が盛り上がると展開はさらに独特な形で推移した。(それまで単なる地主の利権代表者に過ぎなかった)保守党がプリムローズ運動を通じて労働者と女性を味方につけた結果「選挙権が拡大するほど(進歩主義寄りの筈の)自由党労働党が追い込まれる」という番狂わせが起こってしまったのである。

    *残念ながら大日本帝国に伝播した「数理にのみ忠誠心を誓う臣民」運動は女性解放運動につながらなかった。山縣有朋が目指したそれは「(国民皆兵制と戦時借款返済の為の課税に立脚した)軍役負担の平等」「(戦場の実力主義に担保された)軍人と(文官高等試験という身分や門閥を問わない少数精鋭エリート抜擢手段に担保された)官僚の人間解放」に終始したし、日本の政党政治立憲政友会の(江戸時代より実力を蓄えてきた富農・富商層に起源を有する)在地有力者を「我田引鉄」戦略によって懐柔しながら選挙権拡大を果たしてきたのだった。

    *そして第一次世界大戦特需が終焉した1920年代後半から、次第に「軍役負担(のみ)の平等」と「軍人と官僚(のみ)の人間解放」の負の側面が表面化してくる。ある意味それはスイス独立運動(1291年〜1648年)やフランス革命戦争(1792年〜1802年)やナポレオン戦争(1803年〜1815年)の再来だったといってよい。
    スイスの歴史(マリニャーノの戦い(1515年)でフランスに敗北するまで「増殖するウイルスの如く」盲目的に隣国を併呑し続けた)
    フランス革命戦争(国家総動員体制の整備が完了した1794年前後を境として侵略戦争に変貌した) - Wikipedia
    ナポレオン戦争(日本の昭和軍人はナポレオン皇帝の「戦争をもって戦争を養う」発言に感動したが、近代戦はこの方針では戦い抜けなかった) - Wikipedia

    *そして日中戦争(1937年〜1945年)が、大日本帝国にとってまさしく半島戦争(1808年〜1814年)の再来となってしまう。この段階ではもはや取り返しのつかない状態まで事態が進展していたが「軍役負担(のみ)の平等」と「軍人と官僚(のみ)の人間解放」の弊害が表面化していく過程が、そのまま「政党政治家と財界人が国家経営を投げ出していく過程」と表裏一体にあった事もまた忘れるべきではない。
    半島戦争(石原莞爾は日中戦争がこの展開の再来となる事を予期し、無謀な策動を慎む様に警告し続けたが若手参謀達から「我々は石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っているだけだ」と嘲笑されてしまったという) - Wikipedia

 日本の戦前の歴史(要するに「大日本帝国の時代」)を反省する上で「国民国家体制樹立過程において、大日本帝国はアメリカの連邦主義や(皇帝ナポレオン三世の)フランス第二帝政(1852年〜1870年)や(プロイセン宰相ビスマルクの)ドイツ帝国(1870年〜1918年)や英国保守党黄金期(1874〜1906年)からの「ええとこどり」を試みた」というファクターは欠かせません。「和洋折衷」というか壮絶なまでの「洋々折衷」状態。

アメリカの連邦主義

f:id:ochimusha01:20170326105406j:plain

f:id:ochimusha01:20170326091426j:plain

こうした状態を理解するにはまずそれぞれのオリジナルがどういうものだったか理解しないといけません。特にフランス式「王的支配(Dominum regale)」理念と英国式「王的・政治的支配(Dominium regale et politicum)」理念のそれぞれから、どういう影響を受けたかが重要となってきます。

1294夜『ビゴー日本素描集』清水勲編|松岡正剛の千夜千冊

f:id:ochimusha01:20170326092519j:plain

JAIRO | 国民国家の始原 : ジョン・フォーテスキューの政治理論についての一考察

「王国のために王が与えられるのであり,王のために王国が与えられるのではない」

前章までにフォーテスキューの支配論のなかから,機能面に着目して秩序構成権力と正義構成権力の2つの権力を析出した。ここで注意しておきたいのは,王的権力が行使されるのが王的支配で,王的権力と政治的権力が行使されるのが王的・政治的支配であることは確かだが,その内容は複合的な関係にあることだ。

前述のとおり,フォーテスキューは人間集団には支配者が必要であると考えていた。それは原罪前から明らかだが,ましてや原罪後の秩序形成の論理からすれば,王の存在は自明のことであった。したがって,フォーテスキューにとって政治的支配が存在しないことはありえても,それが単独で存在することはありえなかった。

そこで「王的支配」と「王的・政治的支配」という2つの支配形態が構想されたわけだが,では王的支配において政治的権力はなくなるのであろうか。もしなくなるとすれば,ニムロドのような暴君の専制的支配ということになるだろうが,それを王的支配と呼んでいないことはすでに見たとおりである。支配と権力の関係は一体どうなっているのであろうか。機能から析出した2つの権力の点から検討してみたい。

秩序構成権力と正義構成権力の2つの機能的な意味での権力は,フォーテスキューがトマス・アクィナスの『神学大全』から取り出した2つの支配権,すなわち,一方における原罪とともに発生したところの「支配している者自身の利益と善のために他人を利用するときに生ずる」奴隷支配のような支配権,他方における無垢の状態において存在していたところの「自由人を善あるいは共通善に向けて統治し方向づける」支配権に符合する。

フォーテスキューによれば,2つの支配権のうち前者は,非理性的な者に脅しを与えて命令に従わせ,それに従わないという罪を犯した場合は罰を与える懲罰権力(potestas puniendi)であり,アウグスティヌスが論じた支配権と同じである。後者は共通善に向けて導く威厳(dignitas)のことであり,アリストテレスが知的に卓越した者を支配者と呼ぶ際の支配権と同じである。

この2種の支配権について,フォーテスキューは原罪後と原罪前の違い,換言すれば王的権力に基づく支配権と政治的権力に基づく支配権の違いと解釈する。原罪前の政治的権力に基づく支配には裁判権力も隷属もなく,威厳によって光り輝くだけの卓越とそれへの服従があるだけであり,原罪後にその罪のゆえに暴力による支配が生じ,そこから処罰する権力が生まれたというわけである。威厳による支配は政治的権力と同様に原罪後も残るので,王的・政治的支配において威厳と裁判権力ないし懲罰権力が支配権となることは分かるが,王的支配において威厳はなくなるのだろうか。
*どうやらこの辺りの描写にイングランドの法概念が、その後「法実証主義(Legal positivism)」に向かうヒントが隠されてるっぽい。

これに関して王の義務から考えてみる。それについてフォーテスキューは,「王の全権力は彼の王国の福利に差し向けられるべき」であり,福利とは「外部の者の襲撃からのその王国の防衛,ならびに内部の者による侵害と強奪からの王国住民とその財産の守護」であると述べる。また別の箇所では,「王の義務は剣によって悪人を粉砕し,善人を守って慈しむことにあり,したがって王は,戦う義務だけでなく裁く義務も有す」と述べる。

要するに,王の義務は福利の実現であり,その政策の柱が「彼の人民の戦争を戦うこととその人民をもっとも正しく裁くこと」である。ここでポイントとなるのは,「人間の精神が果たすもっとも高尚なこと」とされた「裁くこと」である。

「裁くこと」には法と懲罰が含意されている。懲罰については,王的権力に由来することは前述のとおりであり,それゆえに「王の権威なしには法を創造することはできない」ことになる。この場合の「王の権威」とは王的権力の起源に由来する権威である。では,法とは何か。フォーテスキューはローマ法の『学説彙纂』を参照しつつ,法(jus)の語源は正義(justitia)であり,その発生源となった意味を刻印されていると述べる。続いてアリストテレスを引き合いに出し,正義と自然法は本質的に同一の善を有し,どちらも人間を徳に向かって秩序立てる役割を果たすのであり,そうした徳を完全に実行することが最高善と呼ばれる幸福であると論じる。

人定法はこのような論理により「人間社会を統一する平和と平和の絆である愛が涵養され,保持される」ように,人間を徳へと向かわせる以外の働きをもたない。政治的権力による法の制定だけでなく,王的権力においてもこのような意味の人定法,すなわち「王法」を制定することができる。

それゆえにフォーテスキューは,王は「正義」の人であり,王の職務は「立法者」として「人間が有徳になる」ことをもたらすことにあると述べる。王は正義が必要とされるときは自分自身が「生きている法」にならねばならなかった。イングランドの王は政治的権力に基づくだけでなく,このような意味での王でもあるゆえに,王は「戴冠式において彼の法を遵守することを宣誓によって義務づけられている」とフォーテスキューは論じる。

これらのことから,王的支配であっても,政治的権力の機能である「正義構成権力」を王がもつことが分かる。つまり王は懲罰権だけでなく,法を制定する威厳ももつ。威厳をもつということは,共通善に向けて導く権能と義務を有するということだ。かくして王の存在は単に秩序を形成する権力者にとどまらず,共通善を実現するところの権威的主体でもある。

王が神に似ている理由はそこにある。そもそもそのような威厳は,フォーテスキューが「始原的正義」と呼ぶところの,原罪以前の神の豊かな恩寵に由来する。堕罪後に恩寵を奪われた後も,正義そのものは不変な徳として継続しているが,そうした最高善を実現する正義は誰よりも王によって担われる。「すべての人間は神に似れば似るだけ,それだけ一層善くなるのであるから,すべてを統治している神に似ている人間の統治者である王よりも,より善くあるいはより神聖な者はいない」とフォーテスキューは言う。しかし,だからといって王が神に取って代わることはできない。

威厳の源は人民と呼ばれる政治的共同体にあるからだ。

アリストテレスにおいて共通善は政治的動物としての人間が政治的共同体においてのみ達成できる最高善を意味し,さらに「全体は部分より先にある」ので,この共同体は個人より本源的である。トマス・アクィナスと同様にフォーテスキューもそれを受け継いでいる。したがって,王と王国の関係は「結果と原因の関係」であって,「王国のために王が与えられるのであり,王のために王国が与えられるのではない」し,そしてまた「王国が消滅するよりも前に,王はあらゆる危険に自ら身を委ねなければならない」と,共同体の福利ないし善の実現が何よりも優先されることが説かれる。

「王的支配」と「王的・政治的支配」の違い 

以上のことから,王的支配と王的・政治的支配の違いを論じることが可能になる。王的支配は王的権力に基づく支配だが,そこには政治的権力の機能である正義構成権力も含まれている。王的・政治的支配は立法を政治的権力に委ねる王的支配である。したがって,機能の点から言えば,双方とも支配に必要な要素を有している。

そのことを前提にして,フォーテスキューは「王権に基づいてのみ支配している王の威厳および地位と,王権に基づき政治権力によって統治している王の威厳と地位が,これらの王達の一方を他方に優位させるのではない」と,2通りの王の権力と権能は等しく,2通りの支配形態が対等であることを述べ,続いてどちらが優位するかを決めるのは「支配している者の善と正義だけである」とする。

「人民の同意により最良のやり方で制定された政治的な法は,最良の君主によりこの上なく衡平に公布された王的な法と等しい効力,さらには等しい徳をもつ」というわけだ。だから,「最良の王」が支配しているときは,「拍手喝采」すればよいし,ましてや「自分の財を知らない頑固で恩知らずな人民」に対しては,彼らの「頑迷さが抑制されるように」王権のみの支配にすべきと述べる。人民に発する権力はつねに正義構成権力として機能するわけではないので,人民が愚かでそれが見込めない場合は,王権がすべての権力を掌握するほうが望ましいというわけである。

しかし,実際のところ,フォーテスキューは王的支配よりも政治的・王的支配を推奨している。「王的に統治する王よ,あなたの人民を政治的にも統治するようにできうる限り励め」とフォーテスキューは言う。その理由を整理すると,第1に王は「多数の人々の英知に教えられ,さらに多数の人々の賢慮に支えられて有能になる」ことにある。その例として,300人の元老院議員による助言によって大帝国を築いたローマ,民の声に耳を傾けたソロモン,そしてその反対の例として,賢者の助言を疎んじて父の王国の10以上の部族を失ったソロモンの息子レハブアムがあげられている。ただ,この理由は,前述の民が愚かな時は王的権力により支配すべきという言からすれば,理論上状況に左右されるものであろう。

第2に,王的権力と政治的権力によって統治する王の法は,キリストと祝福された者たちを支配する神の法に似ていることにある。「政治的統治は,もしそれが無垢の状態と呼ばれる人間本性の完全な状態を言うのならば,王的支配に優先される」という『君主の統治について』の第2巻・第9章の言葉を,フォーテスキューは引用している。その引用箇所はトマス・アクィナスが書いたものではなく,ルッカのプトロマエウスが書いた
ものであることは,今日明らかになっているが,原罪前の状態がすべての思考の基軸にあるというフォーテスキューの見方を完全に言い表しており,本来は政治的権力のみによって統治されるべきであり,先に引用した「王が下す個々の判決においてすべての市民の同意が欠けることがあってはならない」という理念の根拠を示している。

第3のよりリアルで政治理論において意義ある理由は,王的権力の制御にある。フォーテスキューによれば,人は誰も罪を犯しうる。謙遜と中庸を捨てて野望との略奪へと走ることもあれば,欲望によって放蕩や不貞に陥る,欲望や性急な激怒によって盗みや殺人に至ることもある。こうした罪は人間の不能から生じる。王もまた然りであり,善をなすこともあれば悪をなすこともある。

王が自分の欲望と気まぐれによって支配すれば,それは「民を圧迫する」暴君である。そこでフォーテスキューは,王国の内外の敵からの防衛と福利の実現ができる有能な王とできない無能な王の区別をする。無能な王を機能的な側面から言えば秩序構成権力と正義構成権力の双方とも,あるいはどちらか一方を行使できない王である。ニムロドは前者の権力しかもたない支配者だった。だから彼は暴君であった。フォーテスキューは自分自身の感情や欲望を制御できる王は自由で有能であり,それができない王は不自由で無能であると言う。王が無能になることを防ぐためにも,「専制の機会を王から遠ざけるように王国の舵がとられるべきだし,容易に専制へと陥ることができないように王の権力が制御されるべき」であるとされた。

このような立論のうえで,「王的に支配している王の権能は執行の点で困難が多い」うえに「王自身にとっても人民にとっても安全性が低い」として,フォーテスキューは政治的権力を取り入れた支配が望ましいとする。問題は権力そのものではなく「濫用する者の魂」にあり「悪しき行動をとる」という点では,政治的権力に基づく王よりも王的権力によって支配する王のほうが自由になしうるので,前者の王は後者の王のような「自由な手綱」をもたず,容易に暴君には変身できないからである。

「人民を政治的に統治することは軛ではなく自由であり,民衆のみならず王自身にとっても最大の安全であり,王の不安を少なからず軽減するものである」とフォーテスキューは述べる。このような意味でフォーテスキューが政治的権力を擁護する際,彼が念頭に置いていたのは,15世紀にはかなりの発展を遂げていたイングランド議会であったと思われる。

不思議なことに,フォーテスキューの著作のなかに「議会」という語はあまり使われていない。J・L・ガレスピーによると,フォーテスキューの全著作の中で「議会」という語は6回しか出てこない。8回も議会代表に選ばれているにもかかわらず,である。その理由については諸説あるが,しかし彼が政治的権力の場として議会を考えていたことは「イングランドの実定法は君主の意思だけでなく全王国の同意も得て制定される」と述べた後,それが賢明さに満ちている根拠を,ローマの元老院の300人を超える人々から構成される議会が,厳格な形式と英知をもって実定法を制定することに求めていることから明らかである。イングランドの実定法の制定や変更が「王国の庶民と貴族の同意なしには行えない」と述べていることからも,議会を想定していたことが窺える。そしてその際,議会には「君主の怠慢と彼への助言者の怠惰」から,人民に危害が加えられたり,その利益が損なわれたりすることを防ぐ役割が与えられている。

第4の理由は,フォーテスキューが王的支配よりも政治的・王的支配を薦める背景には,イングランドをフランスから擁護するという意図があったという,現実政治的な理由である。フォーテスキューによれば,王的権力のみによって統治するフランス国王の場合,兵士は必要な経費も支払わずに行く先々の村や都市で宿営し,食糧などの必要物資もそこで徴発する。そして村や都市は兵士の給料のために膨大な金額を支払うほかに,別の賦課金や塩や葡萄酒などの物品の献上も強要され,平民は食べることがやっとの状態に置かれている。それに対してイングランドの場合,他人の家に無断であるいは無料で宿泊することも,同意なしに財産を所有者から入手することもないし,議会において示される同意に基づく法を無視した課税や賦役はできない。それゆえにイングランドでは自分の労働によって生み出すいかなる収益も強奪されることなく享受でき,住民は裕福な暮らしを営むことができる。これが政治的権力と王的権力による統治が生み出す利点であるとされる。

「国家主権者」という概念の登場

以上,フォーテスキューの支配論の分析を通して,王的支配の中心にあるのが武人の暴力に起源をもつ王的権力であり,その機能的な核となっているのが秩序構成権力であること,そして政治的支配の中心にあるのが人民という集合体に起源をもつ政治的権力であり,その機能的な核となっているのが正義構成権力であることを論じ,続いて,王的支配には正義構成権力も含まれること,そして王的支配と王的・政治的支配は権力でも機能でも対等であるが,フォーテスキューは王的支配よりも王的・政治的支配を推奨していたことを明らかにした。

  • 王的権力と政治的権力という権力論の見地からそれを考察する場合,それは確かに抑制均衡論になっている。フォーテスキューが王的・政治的支配を推奨した理由としてあげた王的権力の制御論に見られるように,王が欲望にまかせて暴君になる可能性を肯定しつつ,それを抑える政治的権力の役割を明示した点で,これまで多くの論者が論じたように,制限君主政論や立憲君主政論といったフォーテスキューの思想の特徴づけは正鵠を射ている。
    *逆を言えば英国人は「エジプトの征服王ラムセス2世」とか「太陽王ルイ14世」とか「ナポレオン皇帝」といった「歯止めの効かない大帝」に基本的反感を有する?

  • しかし,その理解だけでは,2つの権力がまったく別個のものであることを詳細に論じた意味が汲み取れないのではないだろうか。この点で王的権力と政治的権力を二重大権として読み取ったハンソンの解釈は重大な進展であった。ハンソンはそれをイングランドの中世法学に由来するものとした。双方の起源的意味に照準すれば,おそらくそれは正しいであろう。しかし,その2つの権力が別個のものであることは,秩序構成権力と正義構成権力という機能的な権力観にまで遡ってはじめて理解できるであろう。

フォーテスキューはそのことを明確に自覚していた。それは,王がもつ秩序構成権力は神や善とは無関係に,むしろそこからすれば悪である暴力に起源をもち,人間が社会を形成する限りつねに存在し続けるのに対し,人民という集合体に起源をもつ正義構成権力は,そうした秩序構成権力を統制し抑止する作用をするが,それができずに秩序構成権力をもつ王の自由意志に委ねられる場合があると論じたことに,もっとも明白に表れている。

http://yoiko.verse.jp/ch.jpg

  • カール・シュミットの用語を使えば,国内で反乱や内戦が起こったとき,外国の侵略を受けたときといった,いわば「例外状態」においては,政治的権力によって法を制定する時間的余裕がないうえに,軍事的事態という性格から言っても,支配者に決定を任せ「決断」を待つしかない。そのような場合である。「政治的に支配している王は,彼の王国の主たる成員の同意なしに彼の法を変えることはできないが,しかし法が欠落している場合は法の代わりをすることができる」というフォーテスキューの言は,まさにこうした2つの権力の関係を示している。

  • このような秩序構成権力と正義構成権力の2つの権力観から見れば,王的権力と政治的権力の2項対立はイングランド法学を超え出て,ソクラテスソフィストの論争に始まる西洋政治思想の伝統に根差すものと理解することができる。古代ギリシア以来の多くの哲学者を立論の論拠としてあげていることからすれば,フォーテスキュー自身がそれを強く意識していたと思われる。この視点に立って西洋政治思想史を概観するならば,正義構成権力観はソクラテスの後,プラトンアリストテレスストア学派キケロなどに受け継がれ,その一方でソフィストが唱えた秩序構成権力観は,古代末期のキリスト教思想家アウグスティヌスのなかで再生し,中世の教会法学のなかで命脈を保ったと言える。そして双方の思考の基盤となっていたのが自然法的な思想であった。

  • 12世紀ルネサンスの後、「秩序構成権力」と「正義構成権力」の2つの権力観があることを示したのがトマス・アクィナスであった。しかし,彼はそこにとどまり,2つを対峙させたり,合成したりすることはなかった。それをしたのがフォーテスキューであった。この合成が王的・政治的支配という理論である。この理論の歴史的意義は,イングランドのその後の歴史的展開のなかで明らかになる。

  • イングランドでは,このような秩序構成権力としての王的権力は,フォーテスキューの死後10年も経たずに戴冠したヘンリ7世に始まる絶対王政のもとで強化されることになるが,具体的には王の下での行政組織の拡大と支配の一元化となって現れた。行政組織の拡大は重商主義経済とともにすでに15世紀から始まっていたが,16世紀はそれが飛躍的に進んだ世紀であった。それを促進したのは国内外の戦争と資本主義経済の発展であった。

こうした事情は大陸でも同じである。

https://encrypted-tbn3.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQk4nZXXzibpmfnpHvYzxEh1ixZVL58xv2mtDdHNb68LpQrt_jo

  • 都市間の戦争が激しかったイタリアのフィレンチェで外交官も務めた思想家マキアヴェリは,1510年代に執筆された『君主論』のなかで,独自の起源をもつ権力に依拠した政治という営みを明らかにするなかで,そのような支配者の権力装置を「国家 stato」と呼び,その後,権力機構と認識される行政組織は「国家」と呼ばれることになる。かくして1532年に『君主論』が刊行される。

  • それから半世紀近く経った1576年,ユグノー戦争の真只中でフランスの政治的統一を求めるジャン・ボダンは『国家論』を刊行し,国家の「絶対的かつ恒久的な権力」である主権を説いた。主権という概念の意義は,王的権力において王という人格と結びついていた秩序構成権力を王から切り離し,国家という権力機構に帰属させたことにある。20世紀になってフリードリッヒ・マイネッケが説いた「国家理性」も、このような権力論的国家観の延長にある。

一方,正義構成権力である政治的権力についてはどうか。

http://pds.exblog.jp/pds/1/201409/08/87/e0170687_1824614.jpg

  • イングランドでは16世紀の絶対王政期においても,それの起源となった人民という集合体は議会を通じて一定の権力を行使し続けた。その頃のイングランドは国家機構を整備しつつ,内乱の危機を何度も乗り越えながら国家統合を推し進めていた。そしてそれと表裏の関係で,国内の人民のなかに共同体意識が芽生えるようになっていた。その背景にあったのは,バラ戦争によって多くの貴族の家系が途絶えたこと,資本主義の発展により力をつけたジェントリ階級が,社会の流動化を進めるとともに政治に参加するようになったこと,そして何より宗教改革が招いたローマ教会やカトリック諸国との敵対により,内部の結束をはかる必要があったことである。

  • このような状況のなか,16世紀後半に「国民 nation」という言葉が今日的な意味で用いられるようになる。それは「人権」や「人民主権」といった近代民主主義の基礎となる言葉が政治的用語として登場する市民革命の前であった。それの早期の例がエリザベス女王の議会演説であったことから分かるように,国民とは権力機構としての国家に対応する権力主体としての集合体であり,政治的権力の起源となる「人民」の発展型である。

    国王演説 - Wikipedia

以上より,国民国家とは,秩序構成権力が国家という統治機構に集約され,正義構成権力が国民という集合体に担われる政治形態を意味するとすれば,国家と国民が結合した国民国家の原型は16世紀のイングランドに出現し,そしてそれの理論的原型は,フォーテスキューの王的・政治的支配という概念のなかに見い出すことができると言えよう。

国民国家(nation state)概念の起源

しかしながら国民国家(nation state)という言葉はイングランドではあまり使われなかった。フランスのように国家と国民を分節化し,国家主権や国民主権といった言葉で政治を論じるのはかなり後のことである。最後にその点についてふれておきたい。

国民国家(Nation State)の要諦は「主権、国民、国境」

多くの論者がここにフォーテスキューの中世的思考の限界があると指摘するのは,もっともなことである。ただし「議会における国王」という原則はそれ自体に民主的な原理を含み持つので,市民革命の後もその原理を保ちつつ,民主主義を漸次的に実現する基盤になった。フォーテスキューの理論に基づいて言えば,そうした民主化の進展は,秩序構成権力が国王から国家という統治機構に移行するのに合わせ,正義構成権力が国王から国民へと移っていくプロセスを意味したのであった。

ところで日本においては南北朝時代(1336年〜1392年)の混乱を公武合体体制によって制した室町幕府(1336年〜1573年)の時代に律令の運用が時の権力に阿(おもね)った恣意的な内容になり過ぎ、これが室町幕府の権威を傷付けて戦国時代を準備したという話もあります。要するに日本の政治が最もフランス絶対王政的「王的支配(Dominum regale)」に近付いた時期とも。

  • 第3代将軍足利義満(在職1368年〜1394年)は南北朝の合一を果たし、有力守護大名勢力を押さえて幕府権力を確立し絶対君主的立場を勝ち取った。北山文化の構築者でもある。

    f:id:ochimusha01:20170326125117j:plain

    *明朝が陪臣(天皇の家臣)との通交は認めない方針の為、両国の間に正式に国交を樹立すべく応永元年12月(1394年)に太政大臣を辞して出家してから明皇帝に日本国王として冊封され、応永11年(1404年)から勘合貿易を開始した事でも歴史に名を残した。遣唐使の廃止以来、独自の政策を採っていた公家社会では朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったが、義満の権勢の前では公の発言ができず日記などに記すのみであったという。フランス国王フランソワ1世(1515年〜1547年)が、神聖ローマ皇帝カール5世(Karl V., 在位1519年〜1556年)/スペイン国王カルロス1世(Carlos I., 在位1516年〜1556年)に対抗する為、平然とオスマン帝国皇帝スレイマン1世(Sultān Suleimān-i evvel, 在位1520年〜1566年)と平気で手を組んだのを想起させる。
    足利義満 - Wikipedia

  • 「籤引き将軍」第6代将軍足利義教(在職1428年〜1441年)の治世は正長の土一揆後南朝勢力の反乱など、室町幕府を巡る政治・社会情勢が不穏だった時期に該当するが、父義満の施策に手本を求め、越智氏・箸尾氏といった有力国人ともども後南朝勢力を討伐し(大和永享の乱、1429年)、延暦寺を屈服させ(1433年〜1435年)、鎌倉公方足利持氏を追い払い(永享の乱、1439年)、斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏、今川氏といった有力守護大名家督継承に積極的に干渉する一方、意に反した一色義貫や土岐持頼といった守護大名を誅殺。幕府権威の復興と将軍親政の復活を相応に果たしている。
    *ただしこうした強権的施策のせいで巷に疑心暗鬼が充満し、嘉吉元年(1441年)6月24日に赤松満祐・教康父子親子に誘き出されて暗殺されてしまう(嘉吉の乱)。
    足利義教 - Wikipedia

  • 第8代将軍足利義政(在職1449年〜1473年)も、当初は祖父の3代将軍足利義満や父の政策を復活させようと試み、鎌倉公方(後に古河公方足利成氏関東管領上杉氏との大規模な内紛(享徳の乱、1455年〜1483年)に対しては成氏追討令を発して異母兄の堀越公方足利政知を派遣するなどして積極的な介入を行った。更に政所執事伊勢貞親を筆頭とする政所・奉行衆・番衆を中心とする将軍側近集団を基盤として守護大名勢力に対抗して将軍の親裁権強化を図ろうともしている。しかしやがて三魔と呼ばれる乳母の今参局(御今)、育ての親とも言える烏丸資任、将軍側近の有馬持家(おいま、からすま、ありまと、「ま」がつく3人を三魔と称した)や母・重子と正室・富子の実家の日野家、有力な守護大名等の政治介入が本格化。将軍として政治の主導権を握るのが不可能となっていく。
    *幕府の財政難や土一揆の連続もあり、結果として幕政を正室の日野富子細川勝元山名宗全らの有力守護大名に委ね、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人として歴史に名を残す展開となった。

    f:id:ochimusha01:20170326125734j:plain

  • 応仁の乱(1467年〜1477年)で叔父の足利義視と将軍職をめぐる対立候補として擁立された第9代将軍足利義尚(在職1473年〜1489年)は、乱後は衰退した幕府権力を回復すべく2万の軍を率いて近江守護六角行高(高頼)征伐に向かったが(長享・延徳の乱、1487年、1491年)、六角氏はゲリラ戦で対抗。陣中にてあえなく病死。
    *治世末期は次第に酒色や文弱に溺れるようになり、政治や軍事を顧みなくなった。その一方で側近を重用して専ら政治を任せたため、幕府権力が専横される結果を産んでいる。長享3年(1489年)3月26日巳の刻(午前10時)、近江鈎の陣中で病死した。死因は過度の酒色による脳溢血といわれるが、荒淫のためという説もある。享年25(満23歳没)。
    足利義尚 - Wikipedia

  • 第10代将軍足利義材(在職1490年〜1495年) / 義稙(在職1508年〜1522年)は、ある意味「室町時代最後の将軍」と目されている。前管領畠山政長と協調して独自の権力の確立を企図し、擁立の功労者であった富子や、もともと香厳院清晃(後の足利義澄)支持派だった細川政元(一時管領となったがすぐに辞任)と対立。同年8月、義尚の遺志を継ぎ、政元の反対を押し切って六角高頼征伐を再開、みずから近江国に出陣して高頼追放には成功した。明応2年(1493年)2月には応仁の乱終結後も分裂状態が続いていた畠山氏の内紛に介入を決意。畠山政長の対抗者・畠山義就が死去したのに乗じ、またもや政元の反対を押し切って義就の後継者・義豊を討伐するべく畠山政長らを率いて河内国に赴いた。しかし同年4月、京都に残っていた細川政元日野富子伊勢貞宗らが清晃を11代将軍に擁立して、義材を廃するクーデター(明応の政変)を敢行。以降13年にわたる逃亡生活を続けた後に周防国大内義興の支援を得て、永正5年(1508年)に京都を占領、将軍職に復帰したが、大内義興周防国に帰国すると管領・細川高国(政元の養子)と対立。大永元年(1521年)に細川晴元・細川持隆を頼り京都を出奔して将軍職を奪われ、大永3年(1523年)逃亡先の阿波国で死去。
    *政元のクーデターの最大の原因は、義材が将軍就任時は政務は当時管領だった政元に任せると言いながら、成長すると自ら政務を行おうとしたこと、すなわち将軍と管領のどちらが幕政の主導権を握るかにあったとみられている。いずれにせよこの政変で政元は、以降将軍権力は奉公衆などの軍事的基盤が崩壊し傀儡化。ただし幕政を掌握した細川氏内部でも伊勢氏との協調を唱えてきた細川氏重臣上原元秀が暗殺されるなど動揺が続く。そうした状況下、幕府政所頭人で山城守護伊勢貞陸(伊勢流故実の大成者で将軍義尚の養育係や将軍義澄の後見人的立場を歴任した伊勢貞宗の子)が京都に残留した幕府の官僚組織を掌握しており、政元との間で駆け引きが繰り広げられた。貞陸もまた富子の要望で義澄を後見する役目を担っており、義澄や政元の決定も貞陸の奉書作成命令をなくしては十分な有効性を発揮することが出来なかった為である。これに関連して明応の政変直後に貞陸が義材派の反撃に対抗することを名目に山城国一揆を主導してきた国人層を懐柔して山城の一円支配を目指し、政元も対抗策として同様の措置を採った。このため、国人層は伊勢派と細川派に分裂してしまい、翌年には山城国一揆解散に追い込まれる展開となる。さらに近年では、同年に発生した今川氏親の家臣伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵攻が、義澄に叛逆した異母兄である堀越公方足利茶々丸を倒すために、政元や上杉定正と連携して行われたとする見方が有力になっている(早雲と伊勢貞宗は従兄弟に当たる)。このように、明応の政変は中央だけのクーデター事件ではなく、全国、特に東国で戦乱と下克上の動きを恒常化させる契機となる、重大な分岐点だったのであり、応仁の乱と並び、戦国時代の始期とされることが多い。
    足利義稙 - Wikipedia

    伊勢家は、伊勢貞親の代で急速に権勢を高めます。貞親は8代将軍足利義政の養育係を務めました。義政の父義教は義政5歳の時に発生した嘉吉の乱で犬死していたため、本当の親子のような関係を結んでいたようです。そのため、伊勢貞親は側近として政治にも大きな影響力を持つようになりました。財政と裁判だけでなく、幕府直轄軍である奉公衆、将軍周囲の世話をする申次衆、官僚である奉行衆の指揮権さえも握っていたのです。

    伊勢貞親が権力を伸ばしたのは、何も側近だったから、というだけではありません。彼は本当に有能な人物でありました。このころ、義教が死んで幕府の権威が落ちたことで守護からの献金が減少し、幕府財政は窮乏していたのですが、その状況に対応するために貞親は分一銭制度を考案し、幕府財政の建て直しに成功してました。このほかにも、幾つかの新しい収入源を発掘しています。

    分一銭制度は、かなり複雑です。一言でいうならば、これは条件付きの徳政令でした。債権債務の争いが生じた際、その額の一割を先に幕府に手数料として納めればその人を保護する、というものです。例えば、土倉Aが農民Bに100文を貸していて、争いが生じたとき、土倉Aが先に幕府に一割の10文を納めれば幕府は土倉を保護し、農民Bに強制的に支払わせます。一方、農民Bが先に幕府へ10文を納めれば、徳政令が威力を発揮し、債券は放棄される、という具合です。どう転んでも幕府には10文が入るという、本当に賢い制度でした。

    このような側近が強いということは、守護大名の力が弱いということ、つまり、義政が将軍親政を行っていたことを意味しています。しかし、その貞親が1466年に文正の政変で義視の追放に失敗すると赤松政則らとともに失脚して伊勢に逃亡し、義政の親政は終わりを告げました。代わりに権力を持ったのが、守護大名である細川勝元山名持豊だったのです。

    伊勢貞親の息子、伊勢貞宗は父貞親が文正の政変で出奔した際、その代わりに政所執事に就任しました。彼もまた、9代将軍義尚の養育係を務めました。温和な性格であったといわれ、義政の信任を得て、義尚政権では幕政を統括していたようです。応仁の乱後に発生した奉公衆と奉行衆の対立を抑え、幕府の崩壊を食い止めたり、また息子貞陸を山城守護に擁立するなどの活躍が見られます。1489年に義尚が、翌年に義政が相次いで亡くなると、亡父と義視との関係が悪かったことから政元と共に義澄を新将軍に擁立しようとしますが、日野富子の鶴の一声で新将軍が義視の子である義材に決まると、確執を恐れた貞宗は隠居し、政所執事の職を貞陸に譲りました。このとき貞宗46歳、貞陸23歳でした。

     また、伊勢貞宗は有職故実、つまり朝廷や武家の習慣や儀式に造詣が深いことでも知られています。隠居した彼は伊勢に戻っておとなしく著作活動に専念、武家礼法を確立します。これが後に徳川幕府で採用されることとなる伊勢流となるのです。

     しかし、時代は彼を休ませてはくれません。1493年に細川政元明応の政変を起こすと、日野富子の意向で貞宗は新将軍義澄の後見人となり、幕政に復帰します。たびたび政元の動きを阻止するなど、活躍を続けました。1496年に同世代である日野富子や父の側近赤松政則が亡くなっても、1507年に政元が死んでも、彼は生き続けました。そして1509年、ついに66歳で死去します。

    その子伊勢貞陸(さだみち)もまた、1489年から政所執事を務めました。それより前の1485年から山城守護をも務め、明応の政変後には古市澄胤を守護代として国一揆を滅ぼすなどの活躍が見られました。この時は政元が反発して貞陸を更迭しようとしましたが、父貞宗がこれを阻止したおかげで、守護職を維持します。国一揆を滅ぼした貞陸は、山城を分国化し、税を取り立てるようになりました。元来政所執事という立場である故、財政関係はお手の物だったようです。

    しかし、伊勢家は守護大名では無く、率いる武士は幕府直属の奉公衆、そしてこれも明応の政変で弱体化していました。これが災いして、1495年の畠山家被官の誉田氏の侵入を防ぎきれず、政元臣下の赤沢長経の力を借りることとなりました。山城の北半分の守護代を赤沢長経とすることで政元と妥協し、これを駆逐したのです。さらには、1497年に古市澄胤が筒井順賢らに敗れると、南半分の守護代も交代し、これもまた政元臣下の香西元長が就任します。その結果、山城における政元の影響力が増し、貞陸は以前ほどの力は見られなくなりました。

    また、彼は”幕府組織”を代表とする立場として、義材派と義澄派の争いには比較的中立であったようです。義材が明応の政変越中へのがれた際は京都にとどまり、さらに後に義材が将軍職を回復した際も敗れた義澄には従わず、京都にとどまって幕政を支えています。また、特筆すべきこととして、彼もまた有識故実に精通し、いくつもの著作が残されています。

    守護大名とは別の立場で、戦争に関与することなく幕政を支えていた伊勢家一族。こうした人々の地味な尽力があったからこそ、混乱の時代において幕府が命脈を保つことができたのです。

とてもじゃないけど「秩序構成権力(将軍)と正義構成権力(守護大名)の鋭い対峙」なんて言えない有様。まぁ日本史上にはイングランド薔薇戦争(1455年〜1485年 / 1487年)やフランスの公益同盟戦争(1465年~1477年)に該当する「大貴族連合の自滅展開」が存在しなかったのです。だから戦国時代(1467年/1493年〜1590年)や安土桃山時代(1573年〜1603年)を経て江戸時代(1603年〜1868年)の徳川幕藩体制に至る訳です。ここで興味深いのが「室町公武合体制の恣意的な律令運用に対する反感の充満が、戦国武将の間に(各地の先例や慣習に十分配慮した)公平な法運用を流行させた」展開。

分国法 - Wikipedia

戦国時代に戦国大名が領国内を統治するために制定した基本的な法典である。単行法と並んで戦国法を構成する。分国とは中世における一国単位の知行権を指す語であり、知行国に始まる概念であるが、室町時代中期以降に守護大名国人一揆による一国単位の領国化が進み、分国支配が形成されていった。そうした分国支配の一環として、領国内の武士・領民を規制するために分国法が定められた。

分国法には、先行武家法である御成敗式目および建武式目の影響が見られるが、一方では、自らの分国支配の実情を反映した内容となっている。分国法が規定する主な事項には、領民支配、家臣統制、寺社支配、所領相論、軍役、などがある。

また、分国法は、戦国大名の家中を規律する家法(かほう)と、守護公権に由来し国内一般を対象とする国法(こくほう)に区別される。

ライシャワー「日本史(Japan The Story of a Nation, 1978年)」によれば、江戸幕藩体制下においてはこうして生まれた諸藩の法制度が相互影響を与え合い、次第に均質化していくプロセスが見受けられるという(「法専制国家」仮説)。どうやら欧米人の歴史感覚では、どうしても「黒船が来航したから(欧米列強の脅威に対抗すべく)徳川幕藩体制を解体して近代的中央集権国家にリニューアルしました」なんて日本人の胡乱な歴史観は受け入れ難い模様。それこそ「フランス革命に謝れ!!」という話とも。

実はアンシャンレジーム打倒後のフランス法の世界においても(絶対王政下において恣意的に特権階級に有利な判決を下し続けた)高等法院の判決への不信感の高まりから、同様の展開があったのです。

フランス法 - Wikipedia

そもそも近代フランス法における自然法原理主義は(絶対王政下において恣意的に特権階級に有利な判決を下し続けた)高等法院の判決への不信感に端を発っしている。

  • フランスにおける近代法典の編纂は全国の慣習の徹底的調査から始まった。その結果制定された法律は「フランスの伝統ある慣習の中から自然法を理性の従うところによって発見し、これを写し取って実定法の形にしたもの」と解釈され、高度に抽象的かつ理論的な体系を有する点に特徴がある。

  • のみならず、ルソーの人民主権論においては、制定法は主権者である国民の一般意思の表明とされ、これが議会の優位・制定法万能主義に結びついた結果、英米法とは異なって判例法源性が否定されるまでになったの(同様の見地から、判例の拘束力も事実上のものにすぎないとされる)。

こうした特徴を有するナポレオン5法典が、フランスの憲法と異なり若干の修正を受けてつつも「フランス国民の慣習、常識に従ったもの」として現在まで継承され続けている。

ある意味、イングランド法と対極の概念。薔薇戦争(1455年〜1485年 / 1487年)や清教徒革命(狭義1641年〜1649年、広義1638年〜1660年)において幾度となく「権力者が入れ替わる都度、法体系もガラリと入れ替わる現実」を思い知らされ、法実証主義(英legal positivism, 独 Rechtspositivismus)を「正解」に選んだのと真逆の歴史的展開。それでも双方からの「ええとこどり」を試みたのが当時の日本人だったのです。

ボアソナード(Gustave Émile Boissonade de Fontarabie、1825年〜1910年)

フランスの法学者、教育者。ヴァル=ド=マルヌ県ヴァンセンヌ出身。父ジャン・フランソワ・ボアソナードパリ大学教授で著名な古典学者(ギリシャ語の研究)。日本の太政官法制局御用掛、元老院御用掛、外務省事務顧問、国際法顧問、法律取調委員会委員等を歴任。勲一等旭日大綬章受章。呼称については、ボワソナード、古くはボアソナド、ボワソナドとも表記される。明治初期に来日したお雇い外国人の一人。幕末に締結された不平等条約による治外法権に代表される不平等条項の撤廃のため、日本の国内法の整備に大きな貢献を果たし「日本近代法の父」と呼ばれている。

f:id:ochimusha01:20170326102913j:plain

パリ大学・大学院卒業後、同大学院助手を経てグルノーブル大学法学部教授(1864年)、パリ大学法学部助教授(1867年)、1873年 パリ大学法学部アグレジェ。普仏戦争(1970年〜1971年)ではパリに篭城。

f:id:ochimusha01:20170326102825j:plain

明治6年(1873年)、来日。司法省明法寮(翌年、司法省法学校に改組)で教鞭をとる。

  • 明治政府の最大の課題は日本の近代化であった。そのためには不平等条約撤廃の前提として列強各国が日本に対して要求していた近代法典(民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法の5法典)を成立させる必要があった。

    明治政府が旧民法編纂に至った経緯

    近代以前の日本においても、中国式の法典である律令法の大宝律令が8世紀初頭に成立して、民法の規定もその要部を占めていた。

    • 12世紀末より武家時代が始まると律令法はその効力を失い、これに替わって鎌倉幕府室町幕府による式目や、江戸幕府の徳川百箇条などが民事裁判に活用されたが、必ずしも全国的に普及していなかったり、その規定の大部分は刑事法的な禁令であったから、細目については地方ごとの慣習にゆだねる部分が多く、日本全国に広く通用する裁判規範としての民法典が存在するとは言い難い状況であった。

    • また、封建制の下では一般庶民は平等な権利主体とはされておらず、民事上の問題が生じた場合には当事者間の話し合い(相対)による解決が付かない場合にのみ「お上からの恩恵」として仲裁に乗り出すという名目で民事裁判が行われたものであり、民衆を法的に救済する制度ではなかった。

    明治維新が為ると、明治元年(1868年)の五箇条の御誓文において、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」ということが新政府の基本方針の1つとなり、早くも明治3年(1870年)には太政官に制度取調局を設置し、長官に就任した江藤新平を中心として、当時の世界最先端であったフランス法を範として、法律制度の整備が推し進められた。

    • そこでは、人民の権利を確保して不公平をなくすことと、地方ごとの法制度を全国的に統一することで、種々の不便を無くし社会基盤を整備することとが意識された。

    当時、一国の統一的な民法典が無いという状況自体はイギリス・ドイツ・スイス・ロシアなどにおいても同様であったが、日本が特に成功を急いだのは、諸外国との不平等条約を改正して一日も早く治外法権を撤去したいというのは、当時一般社会の熱望する所であったが、改正を行うには民法・刑法をはじめとする近代的な諸法典を制定するという事が、条件の1つとなっていたからである。

  • 日本政府はヨーロッパで評価の高いナポレオン・ボナパルトの諸法典をモデルとすることを決め、有意の人物を捜していたが、ボアソナードがパリの川路利良ら司法省の西欧視察団(8人)に法律の講義をしていたのがきっかけで明治政府により法律顧問として招聘を受けた。
    *19世紀に執筆された探偵小説の多くがフランスを舞台に選んでいる。フランソワ・ヴィドック(Eugène François Vidocq、1775年〜1857年)の働きもあり、フランスの警察制度が最も整備が進んでいたからだった。日本の警察制度もその影響を色濃く受けている。
    フランソワ・ヴィドック - Wikipedia

  • 当初日本に渡航することに難色を示していたが、パリ大学の教授ポストが当分空かないことなどの事情から日本渡航を決意したといわれている。

  • ボアソナードは、来日後、法律顧問に就任し、司法省法学校において10年にわたってフランス法の講義をしたが、自然法原理主義者であった。
    ボアソナードの講義について、加太邦憲は「以って自ずから秩序無く、時には横道に入り、遂には本道への戻り道を失することありて、到底初学の者には了解し難く」と述懐しておりボアソナード流の講義に慣れるまで苦労したようである。また、ボアソナードは講義をするにあたって法律書など一切携行してくることはなく、前日の講義の末尾を学生に尋ねその続きを講義するといった形で講義をしていたと加太は記している。ボアソナードに先立ち初の法律政府顧問としてフランス人弁護士ジョルジュ・ブスケ (Georges Hilaire Bousquet) がフランスから招かれフランス法の講義をしていたことについて加太が「大幸福」とその感想記していることからも、ボアソナードの講義は高度で且つ難解であった。

  • 彼は、単に外国法を丸写しするような法律の起草には反対して、日本の慣習法などを斟酌して日本の国情と近代的な法制との合致を重んじた態度で法典整備を進めるべきだと主張して、時の司法卿大木喬任から信任を得て、日本の国内法の整備にあたる様になった。
    *まさにこれがフランス流の自然法原理主義法学者の発想とも。
    有地亨「旧民法の編纂過程にあらわれた諸草案 -旧民法とフランス民法との比較検討の準備作業として-(1973年)」

明治9年(1876年)、勲二等旭日重光章

  • ボアソナードは、当時国際法にも通ずる数少ない人物であったため、明治7年(1874年)の台湾出兵後の北京での交渉に補佐として、日本側代表大久保利通に同行。条約締結の成功に貢献した。これを受け、瑞宝章授与。現在も法務省赤レンガ棟の資料室で一般公開されている。

明治12年(1879年)、公式に拷問が廃止される。

  • 明治初期の刑事手続では、江戸時代の制度を受け継いだ拷問による自白強要が行われていたが、これを偶然目にした彼は自然法に反するとして直ぐさま明治政府に拷問廃止を訴えた(1875年)。

  • お雇い外国人の中で拷問廃止を訴えたのはボアソナードだけだったと言われている。

明治13年(1880年旧刑法と治罪法の制定。

  • 法典の編纂はまず、刑法典と治罪法典(現在の刑事訴訟法)から行われた。その理由は、江戸時代までは各藩が独自の法度を制定し、藩によって刑罰がまちまちであったためその統一が急務であったからである。

  • 明治期に入り明治政府が仮刑律(1868年)、律綱領(1870年)、改定律例(1873年)と立て続けに刑事法の制定を行ったのも刑罰権を新政府が独占するためである。しかし、その骨子は従前同様中国法を直接継受して作られたもので、これまでの日本における律令と大きな違いはなく、改定律令は西洋刑法思想を取り入れ律的罪刑法定主義ともいわれるほど個別の犯罪要件を個別的に明確に規定していたものの近代刑法と呼ぶに及ばないものであった。

  • そこでボアソナードに母国フランスの刑法、治罪法を模範として刑法典ならびに治罪法典の起草が命じられたのである。ボアソナードは近代刑法の大原則である『罪刑法定主義』を柱とした刑法、ならびに刑事手続の法を明文化した治罪法をフランス語で起草し、それを日本側が翻訳するという形で草案をまとめた。起草された草案は元老院の審議を経て旧刑法(明治13年太政官布告第36号)、治罪法(明治13年太政官布告第37号)として制定され、2年後施行されるに至った。

同年、民法草案』の発刊を開始。

  • 明治10年(1877年)および11年(1878年)、司法省民法編纂会議の下で編纂されていた民法草案が一応の完成を見たが(いわゆる「明治11年民法」)、ほとんどフランス民法の引き写しの様な内容で修正すべき点が多いという理由で廃棄されることとなった。
    *江藤が征韓論に敗れて下野した後に司法卿となった大木喬任が司法省に民法編纂局を設置して箕作麟祥等に命じて編纂せしめたものだが、当人も納得がいってなかったという。

  • 刑事法の編纂が決着したことから、明治12年(1879年)より当時司法省の顧問でもあったボアソナードが司法卿大木喬任の命により民法典の起草に着手(ボアソナード原案)。
    *なお、家族法の部分については伝統や習慣の影響が極めて大きいため日本人の手によって起草。

  • なお、民法典の起草にあたって重要な参考資料とするために、大木は全国の慣例や習俗を2度に渡って調査し、『全国民事慣例類集』を編纂している(これは全国各地の習慣を各土地の長老や有力者から聞き取り調査したものをまとめたもので、幕末から明治期における日本の風俗や習慣を知る上で貴重な史料である)。 

明治14年(1881年)5月、東京法学校(法政大学の前身)の講師となる

  • 1883年9月には東京法学校の教頭として着任。10年以上に渡り近代法学士養成と判事・免許代言士(現在の弁護士)養成に尽力し、法大の基礎を築いたため、法政大学の祖とされている。また、明治法律学校では刑法、治罪法、自然法、相続法の講義を行い(通訳は杉村虎一)、東京大学法学部では旧民法の草案について講義するなど、日本の法学教育に大きく貢献した。

  • 民法起草者の一人で「日本民法典の父」といわれる梅謙次郎(法政大学初代総理)、明治法律学校(現明治大学)の創設者岸本辰雄らに多大な影響を与え、弟子の宮城浩蔵は東洋のオルトランと呼ばれた。ちなみにオルトランはボアソナードの師である。

明治15年(1882年)、朝鮮で壬午事変が勃発。

  • ボアソナードは外交顧問として軍乱勃発直後より何回も諮問を受けており、同年8月9日付の「朝鮮事件に付井上議官ボアソナード氏問答筆記」では、日本にとって最も恐るべき隣国はロシアであると説き、日本、中国、朝鮮が提携するアジア主義をすすめた。

明治19年(1886年)、井上外相による条約改正案での反対運動

  • 明治16年(1883年)、井上馨外務卿は、内地を外国人に全面開放、治外法権を全廃、日本の法規を欧米諸国にならって完備、日本裁判所に外人判事を置き外国人が関係する事件には外人判事の数を多くする、との条約改正案をまとめ、列国会議に提出。

  • 明治19年(1886年)5月、伊藤首相・井上外相の体制のもと、列国共同の条約改正会議で改正案を審議。内閣法律顧問のボアソナードは、この新条約草案は旧条約より甚だしく劣る、との意見書、谷干城農商務大臣も強硬に反対。
    *同年には旧東京大学帝国大学と改称しイギリス法学を導入し始めると元老院民法編纂局は閉鎖されることとなり、大木が内閣を介してボアソナード草案を元老院へ提出するも、審理は外務卿井上馨の要請により保留され、新たに設置された外務省法律取調委員会が草案を審理することとなった。ちなみにボアソナード民法草案はこの年までに日本各地の慣習調査と日本人委員との討議を経て財産編と財産取得編とが脱稿され、Project de code civil pour l'empire du Japonと題する、フランス語版が成立していた。

  • さらにボアソナードや谷の意見書が民権派の手にも渡ると、新条約反対をとなえる建白書が元老院に殺到。7月29日に政府は条約会議の無期限延期。反対運動は、条約問題をこえて井上馨の欧化主義を基本とした外交政策そのものに対する転換・言論集会の自由・地租軽減を要求する内容に拡大した(三大事件建白運動)。

  • 同年9月17日、伊藤総理は井上外相を更迭、12月末には内相が保安条例を改正して発動し民権家の逮捕や帝都追放などを実施する一方、改進党大隈重信の外相入閣を行うことで運動を沈静化させようとしたが明治22年(1889年)12月18日の大隈外相暗殺未遂事件につながってしまう。

明治23年(1890年)、民法(明治23年法律第28号及び第98号の旧民法)公布

  • 大木の後を継いだ司法大臣の山田顕義は、民法典編纂事業を外務省法律取調委員会の手に移して自ら委員長に就任し、改めて民法の編纂に取り掛かり、財産権、財産取得編の主要部分、債権担保編、証拠編をボアソナードに起草させる一方(一部を除き現行民法の財産法部分に相当)、人事編及び財産取得編中の相続・贈与・遺贈・夫婦財産契約に関する部分(ほぼ現行法の家族法部分に相当)は特に日本固有の民族慣習を考慮する必要があるということから、熊野敏三、磯部四郎などの日本人委員に起草させた。

  • 明治21年1888年)にはボアソナード担当部分の草案(再閲民法草案)が成立し、明治22年(1889年)には元老院の議決を経て翌明治23年(1890年)4月に『民法財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編』(明治23年4月21日法律第28号)として公布、残部についても同年10月に『民法財産取得編・人事編』(明治23年10月7日法律第98号)として公布され、双方とも明治26年(1893年)1月1日から実施すべきものと定められた。

     

  • この法律28号、第98号がいわゆる旧民法である。旧民法の条数は各篇ごとに第1条から始まる体裁となっていたが、全てを併せると1762条に及ぶものであった。

     

  • もっとも、この民法典編纂事業の最中にも多数の単行法令が出されており、また単行成文法が無い場合においても慣習により、慣習も無い場合は条理に従って裁判すべきものとされていた(裁判事務心得3条)。これら単行法や条理の解釈においては、イギリス法の影響もあったが、フランス法及び自然法論の影響が特に強かったと考えられている。

  • なお、商法の編纂は、明治14年(1881年)に太政官中に商法編纂委員を置き、同時にドイツ人ヘルマン・ロエスレルに草案の起草を命じた。該草案は2年を経て脱稿し、その後取調委員の組織などに種々の変遷があったが、結局元老院の議決を経て、明治23年3月27日に成立、翌24年(1891年)1月1日より施行されることとなっていた。

  • しかしながら民法典論争の結果施行が延期され、結局施行されることなく、民法が公布・施行され、これにより旧民法は廃止された。

    民法典論争(1889年〜1892年)

    明治22年(1889年)から明治25年(1892年)の日本において、旧民法(明治23年法律第28号、第98号)の施行を延期するか断行するかを巡り展開された論争。この論争と同時期に刑法典・商法典を巡る論争(刑法典論争・商法典論争)も行われて、旧刑法の全面改正と旧商法の施行延期が行われた。このため、3つの法典を巡る論争をまとめて「法典論争(ほうてんろんそう)」と呼称する事がある。

    • 1890年の旧民法・商法は、不平等条約改正を急ぐあまり、帝国議会開設前に編纂を完了し十分な審議が尽くされなかったとして、延期派から様々な批判が展開されるようになった。

    • 公布前の1889年(明治22年)5月、イギリス法系の(旧)東京大学法学部出身者で組織される法学士会は春季総会において『法典編纂ニ関スル意見書』を発表するとともに、拙速な法典編纂を改め、さしあたり緊急に必要のある事項に限って単行法を施行するにとどめ、後日十分な審議を経た上で包括的な法典を完成させるべきことを内閣や枢密院に働きかけることを議決した。この意見書ならびに議決の影響で民法や商法の施行をめぐる議論が活発化したことから、この意見書並びに議決が実質的に民法典論争(商法も含む)のきっかけである。

    • これに対し、旧民法の編纂者の磯部四郎は論文『法理精華ヲ読ム』を発表し、施行断行を訴えた。この他にこの時期発表された著名な論文として、施行断行派のものでは、井上操の『法律編纂ノ可否』がある。他方、施行延期派のものは増島六一郎の『法学士会ノ意見ヲ論ズ』、江木衷の『民法草案財産編批評』などがある。
      *関西法律学校の創設者である井上は、磯部と同じくフランス法系の法学校の出身であり、増島は開成学校の、英吉利法律学校の創設者である江木は(旧)東大法学部の出身でありいずれもイギリス法系の学校である。

    • 明治23年11月、第1回帝国議会が開かれ、産業界から商法の施行が早すぎ対応がとれないとの理由で「商法実施延期請願書」が出されると、帝国議会は明治24年1月1日施行予定の商法を民法と同じ明治26年1月1日施行に延期することを決定した。

    • 商法の施行延期が決定されたことで論争はさらに勢いを増し、施行延期派からは、旧民法自然法思想に立脚していたことに対して、法の歴史性・民族性を強調した歴史法学からの批判、旧民法の条文が冗長で、無用の条文が多すぎるとの立法技術上の批判、欧米の最先端の理論を研究して民法を制定すべきなのに、最新のドイツ民法草案が全く検討されていないという批判、日本古来の家族制度を始めとする日本の伝統・習慣にそぐわないという内容に関する批判などがなされた。日本の慣習・風俗に合わないということから特に激しく攻撃されたのは、相続法における限定承認の他、財産法における消滅時効であった(但し、両方とも大きな修正を受けることなく明治民法に継承されている)。

    • 同年、帝国大学憲法学者穂積八束がドイツ留学から帰国すると、論文『民法出デテ忠孝亡ブ』を発表し、「我国ハ祖先教ノ国ナリ。家制ノ郷ナリ。権力ト法トハ家ニ生マレタリ」「家長権ノ神聖ニシテ犯スベカラザルハ祖先ノ霊ノ神聖ニシテ犯スベカラザルヲ以ッテナリ」と説き、法による権利義務関係を否定し、日本伝統の家父長制度を否定する婚姻を基調とした家族法を批判した。この論文はそのタイトルのため最も注目を集め、民法典論争の象徴ともいえる論文である。

    • 施行を翌年に控えた明治25年(1892年)、法典論争はピークに達し、論争は法律論にとどまらず資本主義経済の矛盾の問題、国家思想や国体の位置づけなどにも及び、商法典論争と相まって一種の政治対立の様相さえ呈するようになった。

    • 同年5月、第3回帝国議会において民法典論争は政治的な決着がはかられた。貴族院議員村田保によって民法商法施行延期法案が貴族院に出され、断行派議員と延期派議員との間でも激しい論戦が繰り広げられたが、富井政章の演説が寄与したこともあって同案は圧倒的多数で貴族院を通過、衆議院でも賛成多数で可決するに至りここに民法典論争は決着をみたのである。

    その後、施行延期派から富井に加え穂積陳重穂積八束の兄)、施行断行派から梅謙次郎という3人の帝国大学教授が法典調査会の委員に選任され、第一編から第三編の財産法については旧民法の根本的修正を基本方針として、ドイツ民法の草案や他にも30か国に及ぶ他の国の民法をも参照して、現行の民法(明治29年(1896年)法律第89号)が起草され、明治31年(1898年)になって施行された。なお第四編・第五編の親族法・相続法については、外国人に対しては適用が無い為不平等条約の交渉に支障が少ないということで、後日別個に議会に提出して成立するという形を採っている(明治31年法律第9号)。

  • ボアソナード自身が起草した草案は施行されることこそなかったが、民法典の出来る前には、一時事実上の法源として法曹・法学者に研究・利用された。当時の国家試験の主要科目でさえあったという。また、物権や債権、財産権などの原理原則は現行民法に受け継がれ、全条文のうち少なくとも半分くらいはフランス法の影響があると主張する論者もいる(星野英一など)。そのため、現在においてもフランスに留学する民法学者が少なくない。

  • フランス法を基礎にした民事訴訟法についても施行されず、1890年にはドイツ法を基礎にしたヘルマン・テッヒョーの民事訴訟法草案に基づく刑事訴訟法(明治23年10月7日法律第96号)が施行された。こうした英独のお雇い外国人の活動により、日本法におけるフランス法理論の影響は薄められることになる。

明治28年(1895年)、勲一等瑞宝章。帰仏。南仏コート・ダジュールに位置する保養地アンティーブに居を構える。

明治42年(1909年)勲一等旭日大綬章

明治43年(1910年)、当地にて死去。墓地もアンティーブに所在する。

 結果としてどうなったのでしょうか?

民法典論争 - Wikipedia

これらの論争がどういう意義を有するかについては、日本史の教科書や民法の通俗書等を中心に、もっぱらドイツ系の穂積八束とフランス系の梅謙次郎の政治的イデオロギーの対立として記述する書籍も散見される。

しかし、後述するように、そのような単純な二項対立の構造で理解すべきではなく、純粋な学問的論争の他に、学閥争い、政治的争いの性格を加えた複雑の要素が絡んだものであるとの理解が民法学者の通説的な理解である。

フランス法派とイギリス法派の対立

明治維新後の日本がまず最初に取り入れようとしたのはフランス法であった。明治五年に始めて司法省の明法寮に法学生徒を募集してフランス法を教授したのが初めである。

しかし一方で、帝国大学の前身である東京開成学校では、明治七年からイギリス法の教授を始めることとなった。このことが法典論争の遠因となっている。

民間にもイギリス法律を主とする東京法学院(中央大学の前身)、東京専門学校(早稲田大学の前身)等があり、またフランス法を教授する明治法律学校明治大学の前身)、和仏法律学校(法政大学の前身)等があって、それぞれ多数の卒業生を出していたから、法典論争の生じた時点では、日本の法律家は英仏の二大派閥に分れていたのである。

なお、明治二十年、法科大学にドイツ法科も設けられたが、法典論争の時点では卒業生を輩出していなかったため、ドイツ系の法律家はまだ極めて少数であった。大日本帝国憲法プロイセン流のものとして成立したために、民法もまたドイツ及びプロイセンの法思想の強い影響を受けて成立したものであると説明されることがあるが、民法典論争の当時ドイツ法の思想はほとんど入ってきておらず、フランス法学派に相対するドイツ法学派という構図を描くのは困難であるとも指摘されている。

民商両法典の争議に関し、英法派の法律家はほとんどみな延期派に属し、仏法派は概ねみな断行派に属していたから、論争は仏法派閥と英法派の争いという一面を有していた。ただし、仏法系の出自でありながら独自の立場から延期派に属した例外的人物として富井政章、木下廣次がいる。また、断行派のほとんどの論者は旧民法の内容それ自体についても全面的に擁護の立場をとっていたが、旧民法の財産法部分につき、内容それ自体には批判的であった例外的人物として、梅謙次郎がいる。

延期論者であった穂積陳重からは、感情論や英仏両派の学閥の争いであったという面は認めつつも、ドイツと日本の2つの法典論争の共通性を重視し、巨視的に見れば自然法学と歴史法学の対立にほかならないとしてその学問的性格を強調する見解も主張されており、後世においても一定の支持を得ている。一方、そのような学問的性格を否定し、もっぱら職業的利害関係から来る感情的な争いであるとの評価もある。

法典論と非法典論の対立

ところで、英法派は旧民法のみならず、独法系の旧商法にも反対しており、一方仏法系の多くが属する旧民法の断行派は旧商法についても断行派であった。

つまり、梅謙次郎が強調したように、仏法派と英法派、断行派と延期派の対立は、そもそも一国の統一的な法典を制定すべきか、それともかつてサヴィニーが主張したように、必要に応じて単行法の制定のみにとどめて判例法・慣習法の発展によって暫時補いつつ、学問の発展を待つべきかというという法典論と非法典論の対立でもあり、日本における法典論争の当時激しく議論されていたものであった。ただし、すべての延期論者が非法典論を採ったわけではなく、例えば穂積陳重は英法派の出自ながらドイツ留学によってドイツ法学の影響を受け、明治23年に著された『法典論』において独自の法典論を採っており、後の法典編纂事業における理論的支柱となっている。 

フランス民法典の老朽化とドイツ民法草案の登場

かつて世界の最先端の法典として各国の法典に影響を与えたフランスのナポレオン民法典であったが、100年間の年月を経て次第に欠点が明らかとなり、時代に合わなくなりつつあったから、各国においてフランス法をそのまま採用することはできず、その克服が課題となっていた。

日本の民法典論争の時点では、当時の世界最先端のドイツ民法草案が世に出ていたから、それを参照することなく、もっぱらフランス民法典をベースに作成された旧民法は、陳腐で日本社会の実情に適合しないものと受け止められた。

タイ民商法典の起草者も、日本の民法典論争を評するにあたってこの観点を強調している。

不平等条約の改正事業と帝国議会の創設

民法典論争は、条約改正の交渉の為に何よりも法典の早期成立を目指すべきだとする即時断行派の立場と、単なる条約改正の道具としてではなく、法典編纂もそれ自体重要な国家事業であるから慎重に検討すべきであるとする延期派の対立でもある。

不平等条約の改正は明治政府にとっても急務であった。東洋の法で裁かれることを嫌う欧米列強は、不平等条約ことにその治外法権について、現地の国が近代的な法典を有しておらず、裁判の予測可能性がたたないことを名目としていた。

そこで、外務卿の井上馨を中心とした政府間の交渉によって、西洋人を裁判官として採用する混合裁判所を採用することを条約改正の条件とする合意に達したが、むしろ安政不平等条約よりも劣悪であるとして日本国内の反発を招き、ボアソナードにすら反対されて変更を強いられるほどであった。

このように、条約改正事業への国民の不信感があるところへ、帝国議会の審議にかけて時間を費やすことを嫌って、議会の成立する直前に駆け込み的に法典を成立させて公布したため、そのような政府の手法は国民の多くの反発を招き、法典編纂事業それ自体への不信感を誘発するに至った。それが延期派が最終的に多数派を形成するにいたった社会背景であると考えることができる。

フランス・ドイツ・旧民法における保守的性格

ローマ法、及びそれを祖とするフランス・ドイツ・旧民法への評価の違いがあることが、民法典論争の性質を理解することを困難にしている原因の一つである。

ドイツ民法に限らず、フランス民法典をはじめとする典型的な近代市民法は近代家父長制を基礎とするところから出発しており、戸主を家長とし、妻に対する優越的な夫権を定める点で家族主義的でありながら(特にナポレオン民法典において夫権優位と家庭内の男女不平等、婚外子の差別的取り扱いが徹底されていた)、しかし一方で先祖の祭祀を代々継承する大家族的な「家」ではなく、もっぱら婚姻を中心とした同居の世帯をその対象として想定し、戸主の財産を家ではなく個人財産とする点で個人主義的であり、旧民法も例外ではなかった。この個人主義的部分を穂積八束は批判したのである。

また明治20年(1887年)頃、伊藤博文に提出されたものとみられるロエスレルの意見書においては、フランス民法個人主義・民主主義に傾きすぎ、革命相次ぎ政情不安に晒されたが、一方、農村社会を基盤として成立したゲルマン・ドイツ民法の方が親族関係を厚く保護するなど保守的性格を持ち立憲君主制と親和的であるから、当時の日本により適合すると主張されていた。

ところが、1888年に公表されたドイツ民法第一草案は、ゲルマン法を立法化したものではなく、19世紀の法思想たる個人主義自由主義と、パンデクテン法学の成果に基づきローマ法を抽象化して再構成したもので、フランス民法典における以上にローマ法的であり、その自由主義の故に社会主義者から批判され、その個人主義と非ドイツ性の故に団体主義を基礎とするゲルマニストから批判されたものであった。

そこで、穂積陳重や富井政章らにおいては、農村由来の団体主義を基礎とするゲルマン・ドイツ民法ではなく、民法典論争の時点で世に出ていたザクソン民法やドイツ民法第一草案に範を採りつつ、法典の構成・順列は法典の基本的指針を示す極めて重要なものであるとの認識を前提にフランス民法・旧民法は身分法を規律する人事編を主部に置くことで、強固な家族制度を基礎とする身分による権利義務の変動を中心とし、ローマ法以来の封建時代の残滓を受け継いでいる点で不当であり、家族制度が衰退し始め、個人間の取引が活発になってきている日本の社会状況においては、取引法たるドイツ民法の主義を採用すべきであるとして、八束らとは逆に、個人主義の観点から旧民法を批判していた。

このように延期派も呉越同舟であったが、結論的には旧民法を廃してドイツ民法へ接近すべきという点では一致しており、明治10年代後半から20年にかけての文化・経済・政治的なドイツへの接近、特に明治憲法体制という背景が、ドイツ式のパンデクテン方式を採用すべきという穂積陳重・富井らの主張が結果的に受け入れられやすい背景となったのではないかとの主張がある。

もっとも、ドイツ法を全面的に採用すべきという主義に伊藤が立ったわけではなく、旧民法施行延期が決まったのちには、一国の法に固執することなく、参照できるものはできるだけ広く参照して修正案を制定すべきと主張している。憲法行政法・訴訟法等においてはともかく、明治政府が政治的にプロイセンを模範としたことと、明治民法がドイツ法およびドイツ法学の影響を受けて成立・発展したこととの因果関係は必ずしも明らかでない。

星野・中村論争

民法典論争の評価を巡っては、戦後の一時期に激しい議論となったことがある。

戦後のかつての通説は、法典論争において特に激しく攻撃されたのが旧民法人事編であったことから、延期論を採用して新たに制定された明治民法は当然に人事編において保守的に変容したという事実認識を所与の前提としており、マルクス主義歴史観の影響の下、平野義太郎の流れを汲む星野通によって、旧民法断行派と延期派の争いを、梅謙次郎に代表されるブルジョワ民主主義的民権派と、穂積八束に代表される保守的封建的国権派というイデオロギーの争いであると主張されていた[47]。現在でも、このような見解を当然視する説明が断定的に採用されることもある。

これに対して中村菊男は、手塚豊の研究に依拠しつつ、星野説は実証的な根拠を欠いているとして激しく批判し、結論としては不平等条約改正に対する政治的立場の違いによる争いがその本質であると主張した。

民法と明治民法とでイデオロギー的な大転回があったとすれば、旧民法人事編と明治民法家族法との内容が大差無いことと矛盾するというのである。

すなわち、旧民法家族法の第一草案は、磯部ほかフランス法系の学校で学んだ日本人の手によるものであったが、再調査案、元老院提出案を経て「慣習にないこと」(三浦安)、「美風を損しますること」(小畑美稲)を徹底的に削除するという立場から、既に思い切った大修正が行われていた。

また、法学者の伝統的通説によれば、八束らによる激しい批判にもかかわらず、明治民法家族法領域に限っては旧民法の抜本的改修を経ることなく継承していると考えられている。

富井政章

親続編調査の方針は先に目録を議する時に略々極まつたことと思ひまするに依つて重ねて述へませぬ、一口に申せば一方に於て弊害なき限りは従来の制度慣習を存することにし、又一方に於ては社会の趨勢に伴つて社会交通が開け其他種々の原因よりして社会の状況か少しく変れば直ちに法典を変へねはならぬと云ふやうなことにならないこと……を以て編纂することか必要てあらうと考へます、既成法典は此二点から見れは多少修正を加ふへき点はありませうけれとも、根本的に改正を加へねはならぬと云ふ程の点はないやうに思ひます。

穂積八束による「民法出デテ忠孝亡ブ」のような、個人の権利義務関係の規律を中核とする近代法典の整備に反対する立場は法典委員会において全くの少数派であり(例外は八束のような主張を多少法律的に構成して述べた英法派の江木衷)、八束も自身が認める私法の素人であったこともあって、八束も法典調査会査定委員として参加した民法典編纂の結果に実際に反映された様子はほとんど見られない。

一方、現に社会慣習としての家制度が存在する以上、法律によって強引にその廃止を図ることこそすべきでないものの、他方明治維新後の社会変動によって、旧来の家制度は暫時瓦解することが予想されるから、法律によって永続的に家制度を保全すべきでもなく、近い将来の家族法改正を見越して過渡的な暫定規定を置くべきだという認識で明治民法起草委員三者は一致していた(ただしその具体的方法において対立があった)。

富井政章
昔かしの家族制は私は断言します、今日及び今日以後の社会には到底適しない、固より今日法律を以て家族制度を砕くといふことは宜しくありますまい……唯だ無闇に家族制度を強くすると云ふ方に偏傾してはならぬと云ふことに確信しております。

そこで、むしろ明治23年10月に公布された旧民法人事編は、民法典論争を経て成立した明治民法とほとんど同等の半封建的民法であったとする中村・手塚説は、「確定したといってよいと思われる」と評されるまでに学会の支持を得ている。

戦後の民法家族法大改正の起草委員を務めた我妻榮も、民法典論争の結果、明治民法は民主主義・個人主義に立脚する旧民法を駆逐して半封建的家族制度の復活を実現したとする学説に対しては、八束らの主張を充分に入れない修正案が議会を通過したことの説明がつかないと批判している。

もっとも、熊野や磯部らが起草したフランス法の影響の強い身分法第一草案が、その後の修正によって、より日本固有法としての性格を強めたことを認めつつも、明治民法のみが妻側に対してのみ夫婦の同居義務を明記していることを例に挙げて、旧民法よりも明治民法の方がなお保守的内容であったと反論する見解も有力である。

昭和27年に始まったこの星野・中村論争は、両者が自説を撤回することなく終息したが、星野も、中村が提起した旧民法人事編における草案の変質という問題提起を肯定せざるを得なくなった。

このようにして成立した明治民法家族法部分は、家制度そのものにおいて保守的性格を残しつつも、家を権利主体とするのではなく、個人の権利義務関係で割り切ったものであったから、八束には不満の残るものであった。そこで、八束の影響を受けた教育界を中心として、旧民法と同様に改めて批判と改正論が浴びせられることとなる。

よくある誤解について

民法出デテ忠孝滅ブ」と書かれることがあるが、原文では「亡ブ」である。この穂積八束論文が有名なため、しばしば民法典論争は八束が起こしたものと誤解されることがあるが、実際には明治22年5月の法学士会意見書に始まるものである。

八束が「ボアソナード民法」や「ボアソナード案」を批判したとする書籍[61]があるが、前述のように八束が批判したのは主としてはもっぱら日本人委員の起草になる旧民法人事編及び財産取得法中の相続に関する部分(明治23年10月法律98号)であるとみられており、司法省時代のボアソナードの仏文の原案ではない。ただし、この身分法(家族法)部分についても、ボアソナードの影響を強調する学者が少なくないため、このような呼称も誤りとは言えないが、これらは全く同一のものというわけではないので、旧民法をそのように言うのはあくまで通称・俗称であることに注意が必要である。

とりあえず、よくネットを流れてる「大日本帝国は最初から天皇を頂点に頂く冷酷無比な侵略遂行国家として設計されていたのであり、一切の残滓も残すべきではない」論と比較してみましょう。

「日本の家父長的家制度について 農村における「家」の諸関係を中心に」

家父長的家は中世から始まり、また近世に武士階層で定着したが「家父長的家制度」つまり家父長的家を制度化にしたのは近代の明治時代である。

戦後は封建産物として批判の対象になったので、主に明治期の「家父長的家制度」が、中世からあったにも関わらず、なぜ明治期の「家父長的家制度」が批判対象になるかという疑問を持つ人は少なくないであろう。

その原因は主に2つあると私は思う。

  • 明治政府は色々な制度に関してはヨーロッパの先進的な法律を受け入れて、近代国家を作りあげにも関わらず、家制度は封建性の「家父長的家制度」をとった。

  • 明治政府は近代武士階層の封建的な家父長的家を制度化することで、それを全国民に押し付けた。 

明治政府は戸籍制度を中心とした諸制度を通じて、家父長的家制度を規定したが、その主な内容はつぎのように纏めることができる。

  • 住居地によって戸籍を再編成し、家族の地位順は戸主を一番に、下は儒教的な順番で尊属、直系、男性を上に、卑属、傍系、女性を下という親族集団の配列にした。これは戸主優位の確立と戸主が家族員に対する統制を可能にした根拠を提供した同時に、家の中の秩序と各家族員の地位を明確にしたものであると思われる。

  • 家族員を統制できる優位に立つ戸主は家父長であることを決めた。

  • 家の相続は基本的に嫡出長男相続制をとることで兄弟争いや家産の細分化を防ぐことで家自体の存続を保てるように規定した。

明治政府は諸制度を通じて家父長に家に統制権を与えてあげるのはなぜなのかという疑問を持つことになるが、ここでは明治国家の中央集権の統制手段を見てみたい。

  • 明治政府の中央統制は天皇―政府―府県―区長―戸長―戸主という統制構造を通じて行われたが、戸主=家父長はその統制の末端的な存在として位置づけられたのである。つまり明治政府はこのような統制構造を通じて家々までその統制が行き届くようにという考えであったと思われる。

  • このような統制は明治政府の目標である「富国強兵」の実現のためだが、富国強兵の手段としては「地租改正」と「徴兵制」の実施が必要となり、また地租改正と徴兵制の課題の解決は国民統制が必要となる。

この国民統制を実現可能にしたのはまさにこの「家父長的家制度」であると考えられる。

それでは、両者を付き合わせてみまたいと思います。
日本軍隊漫画絵葉書

f:id:ochimusha01:20170326154638j:plain

  • 徴兵制」「地租改正」もそうだが、大日本帝国時代の制度は壮絶な論争と妥協の繰り返しを通じて決まったものが多く「誰か(善意からでも悪意からでも)一人でトップダウン的に決めた」とは到底言えない事が多い(良い意味でも、悪い意味でも)。

  • そもそも日本の農村の起源は室町時代に発祥し、戦国時代を生き延びてきた惣村。20世紀に入ってからも「水争い」などを集団で戦い抜く「戦争マシーン」としての機能を残しており、民法にはその現状を追認したに過ぎない側面もあったりする。
    水争いと「農」の秩序-「農」を科学してみよう-近畿農政局整備部

  • 大日本帝国の法律は、19世紀後半当時諸外国に存在した数多くの近代法から「ええとこどり」を狙ったもの。歴史のその時点において特に新しいものでも古いものでもなかったし、検討の主眼も「富国強兵達成の為」というより「不平等条約撤廃の条件を満たす事」が最優先課題に掲げられていた。

  • ただあえていうなら、そもそも「国民国家」なるシステムそのものに「(国民から必要なだけ兵力や労働力や資金を徴用して戦い続ける)総力戦遂行マシーン」としての側面が埋め込まれているとも。だからどの国のどの法律を選んでも「そうとも見える仕上がり」になるのは不可避だったとも。それが分かってるから「世界平和実現の為、人類は国民国家なる時代の一斉放棄に走るべき」なる極論まで存在するとも。
    *そもそも「収入印紙」は「八十年戦争(1568年〜1609年、1621〜1648年)を戦い続ける為のオランダの徴税手段」から始まってるし「(議会制民主主義の起源たる)責任内閣制」の起源すら「英国が対仏戦争を戦い抜く為に戦時借款を無限に発行し続けられるシステム」に由来する。

そういえば欧州大陸は「国民国家ナショナリズムも全面禁止された時代」を経験してます。「(国王と教会の権威下)領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統への回帰」が理想視された、ナポレオン戦争後の王政復古時代(1815年〜1848年)…キリスト教普遍史観の延長線上において「独立した個人」なる概念すら否定され「人間の幸福は絶対精神(absoluter Geist)との完全合一を果たし、自らの役割を与えられる事によってのみ得られる」とされたヘーゲル哲学の生まれた時代…「近代の超克」論の辿り着く先も、概ねやっぱりこの辺りなんじゃないでしょうか?

Ratio04(2007年11月29日発行)小林敏明「近代の超克」とは何か

マルクス主義については、マルクスエンゲルスの資本主義批判がドイツでなくイギリスの労働者階級の観察から生まれた事実を見逃してはいけない。彼らはナショナル・エコノミー(National Economy)を批判するが、ここでいうナショナル(National)もまた具体的にはイギリスの事である。つまり彼らの「資本主義=近代」批判は、あくまでヘルムート・プレスナーいうところの「遅れたネーション(Nation)」からイギリスという「進んだネーション(Nation)」に向けられた「他者の眼差し」から出発しているのである。だからこそ資本主義の個々の問題や矛盾を列記する代わりに「資本主義=近代」の本質や根本的メカニズムそのものに注目した。そしてその全体を一つのシステム、固有の限界を有する閉じたパラダイムとして認識し、これに本質的で根本的な批判を加える展開を選択した。

森の中にいる限り、森全体の形は見えない。それが見えるのは森の外に身を置いた観察者、すなわち「他者の眼差し」をパースペクティブとして備えた者だけである。マルクスはこの観点をイギリスとドイツの発展落差を通じて獲得した。「革命」に拘泥し続けたルクセンブルグもまた、そのドイツよりさらに発展の遅れていたポーランド出身だった。

またかねてからアミンの従属理論が指摘してきた通り、革命を成功させた国のほとんどはイギリスの様な先進国ではない。ロシア、東欧、中国、朝鮮、ベトナムキューバ。「近代=資本主義」的発達という観点からすればむしろ周辺的地域の方が圧倒割合を占める。冷戦体制崩壊後のラテン・アメリカ諸国でも、まだまだマルクス主義への共感が色濃く残る。様するにこれらの地域において「近代=資本主義」は「他者」なのである。

ただし本当に完全な「他者」なら、そもそも視界に入る筈もない。その一方で、これから(自分達も)向かう先という意識もちゃんとあり、だからこそ「(自分達は)遅れている」という意識もまたつきまとう。そしてこうした構造こそが超克型思考の温床となるのである。

廣松渉「<近代の超克>論」

廣松は、視点をこの座談会を超えて、もっと広いところに向ける。この座談会とほぼ並行する形で、京都学派のメンバーによる座談会が中央公論誌上で展開されたが、それに目を向ける一方、京都学派の個々の論客の思想の変移をたどり直しながら、京都学派に共通する反近代・反西洋の要素を剔抉しようとするのである。

それらをもとに京都学派の反近代主義=近代の超克というべきものを定義すると、それは次の三つのテーゼからなると廣松はいう。政治においてはデモクラシーの超克、経済においては資本主義の超克、思想においては自由主義の超克、がそれだ。これらを超克した後で待っているものは何か。それが政治における全体主義、経済における統制主義、思想における復古主義をさすのは自然の勢いだろう。かくして京都学派は、日本ファシズムを理論的に合理化した。その合理化はけっして外在的な理由にもとづいたものではなく、京都学派に内在する論理の必然的な展開であった、と位置付けるわけである。

それにつけても…

f:id:ochimusha01:20170326170922j:plain

  • フランスの法概念は「王的支配(Dominum regale)」理念から「自然法原理主義(Le droit naturel)」の世界に。
    *フランスのWikipediaに「自然法概念は(パリ大学で教鞭をとったトマス・アクィナスを重視した)スペイン・サラマンカ学派に由来する」とあった。おそらくフランチェスコ・デ・ヴィトリア(Francisco de Vitoria、1485年〜1546年)が「インディオについて(De Indis、1539年)」において人間の権利を自然権として根拠づけ、異教徒たるインディオ(インディアス先住民)の権利を擁護し、これに端を発する万民法国際法)を国家の法の上位に位置づけたのを重視する立場。どの切り口においても、あくまで「人間の良心を信じる」ところから始まっている。

  • 英国の法概念は「王的・政治的支配(Dominium regale et politicum)」理念から「法実証主義(Legal positivism)」の世界に。
    *チャールズ・ディケンズは「英国法の優れた法理の一つは、それ自体のために取引をすることにある」という格言を残したらしい。欧州に多数存在する大陸法系の法域とは異なり、英国法は「自らの義務を信義に従い誠実に履行すべきである」とする「契約当事者の黙示的義務」を「かかる義務はあまりにも不明確すぎるため、拘束力を持たせられない」という理由で原則として認めてこなかったという。この「その実在が証明不可能である以上、良心への言及に意味はない」と割り切るWYSWYG(What You See is What You Get)感こそが米国実用主義Pragmatism)にも通じる実証主義の真骨頂?

本当に両者の「ええとこどり」を狙うと何処に向かう展開となるんでしょうね?

さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…