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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

アメリカ独立戦争とフランス革命① マサチューセッツやバージニアが主導した米国独立戦争

18世紀は「ジャコバニズム」「ボナパルティズム」「フェデラリズム」といった後世繰り返し使われ現代なお人間の行動様式をさまざまな意味で規制し続けている諸概念が誕生した時代でもありました。

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毛沢東定理(ある無名時代の農村調査に基づく考察)

伝統的大地主は、原資が豊かで政治関与や金儲けに関する経験も豊富な事から各時代の権勢と適度な距離感を保ちつつ、経済構造の変化に伴う新興産業台頭の波にも案外上手についていく事が多い。

一方、新興産業台頭に伴う成り上がり組は経験不足と身分的不安定を補うべく、その時代の権勢に過剰なまでの忠誠を誓う事が多い。

革命への動員が容易なのは、この双方のグループから脱落した不合理を恨み起死回生の機会を狙う脱落組である。

混迷に満ちた18世紀末の欧米史を読み解く上で、この指摘は大いなる指針となりそうです。というより現在なお頼れる基準が他にないというのが正解なのかもしれません…

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【英】【葡】1703年、ポルトガルとメシュエン条約を締結…イギリス代表メシュエンJohn Methuenとポルトガル代表アレグレテ侯爵との間に調印された通商条約。

  • わずか3条からなり,ポルトガルが奢侈(しやし)禁止令を解いてイギリス毛織物製品の輸入を認める代償として,イギリスはポルトガルのブドウ酒をフランス産よりも1/3安い関税で輸入するというもの。
    藤谷哲也「メシュエン条約」
  • この条約は,ポルトガル産ブドウ酒の輸出による対英貿易赤字の是正,イギリス船に対するポルトガルからの往路の積荷確保を目的としていたが、イギリスからの毛織物流入はワインの輸出量増大を遙かに上回って国産毛織物産業が壊滅的な打撃を受け、徐々にポルトガルはイギリス経済の従属下におかれていく。

  • 17世紀末にポルトガルのブラジル植民地で金鉱が発見されゴールド・ラッシュが発生したが、その利潤もほとんどがイギリスに流出。さらにイギリスはポルトガルを通じてブラジル植民地へも市場拡大を果たす事に成功した為、所謂「ポルトガル海上帝国」はイギリス帝国の傘下に組み込まれてしまう展開となる。

【英】1714年ハノーヴァー朝ジョージ1世(ハノーファー選帝侯を兼ねる)が即位…英国ではトーリー党政権は崩壊し、ホイッグ党寡占政権が誕生した。「ウォルポールの平和」の始まりである。

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  • 英国初代首相となった初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール(1676年〜1745年)…これを契機に初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール(Robert Walpole 1676年~1745年)が陸軍支払長官に就任。1715年にハーレー・シンジョンらトーリー党員を弾劾して没落に追い込み、ジャコバイトの反乱も鎮圧してホイッグ党の優位を確立した。同年に第一大蔵卿に就任したが、大北方戦争を巡る外交政策でチャールズ・タウンゼンドと結託してジェームズ・スタンホープサンダーランド伯チャールズ・スペンサーと対立、1717年に第一大蔵卿を辞任してスタンホープが後任の第一大蔵卿に就任した。
    帝政ロシア三十年戦争(1618年〜1648年)への介入を通じて絶対王政フランスに次ぐ強大な主権国家として台頭したスウェーデン王国大北方戦争(1700年〜1721年)で破る形で台頭してきた。

    大英帝国清教徒革命(狭義1641年〜1649年、広義1638年〜1660年)以降、その経済基盤を大西洋沿岸地域やインドの海外植民地へと推移させていく。

    *その一方で本国の手が及ばない地域では現地大国と手を結んできた。最初のパートナーとして選ばれたのは(英国同様にオランダやスペインを競争相手とする)ポルトガル帝政ロシアだったが、そのうち帝政ロシアが「バルト海の新たな覇者」となって強大化しユーラシア大陸全体を舞台とするグレート・ゲームに勝利して英国の既得権益を脅かす様になると、今度は「アジアの新たな覇者」大日本帝国と結ぶ様になる。大英帝国の「脱欧州戦略」あるいは「現実主義外交」の伝統は、まさにこうした歴史の積み重ねを通じて編み出されてきたのだった。

    モスクワ会社(英Muscovy Company、露Московская компания)

    モスクワ大公国会社とも呼ばれ、イギリス(当時はイングランド)で初めての勅許会社として設立され、当時のモスクワ大公国(モスクワ国家、ロシア・ツァーリ国)との貿易を独占した。後のイギリスのアジア向けの東インド会社、新大陸向けのハドソン湾会社などの先鞭をつけ、後にロシア会社(Russia Company)とも呼ばれた。

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    • イングランドではメアリー1世 (イングランド女王)、モスクワ大公国ではイヴァン雷帝の時代の1555年に、イギリスで初めての勅許会社として設立され、当時のモスクワ大公国との貿易を独占した。

    • 設立のきっかけになったのは、ロシアの北を回り中国や香料諸島へ達する最短航路(北東航路)を探索していたリチャード・チャンセラーが1553年に白海沿岸にたどり着き、モスクワへと到着した出来事である。彼はイヴァン雷帝に謁見し、イングランドに戻るとセバスティアン・カボットやヒュー・ウィロビーら航海者や商人とともにモスクワ会社を設立した。

    • イングランドからは、スカンジナビア半島の北を回って白海アルハンゲリスクの港へ向かう航路をとり、陸路と河川でヴォログダ、コストロマを経てモスクワへ向かったが、この航路は冬は海氷で閉ざされ、多くの危険が伴った。モスクワ会社はヘンリー・ハドソンらを雇って、なおも北東航路を探索させているが、失敗に終わっている。

    • この会社には、ジェローム・ホーセイも深く関係した。後のイギリスのアジア向けの東インド会社、新大陸向けのハドソン湾会社などの先鞭をつけた。後にモスクワ大公国がロシアに発展するようになると、ロシア会社(英語:Russia Company)とも呼ばれるようになった。

    • 1590年代になって、オランダのウィレム・バレンツが北東航路の開拓途上でスピッツベルゲン島を発見しクジラの理想的な漁場であることを確認したため、以後はオランダとイギリスの船団による北極海捕鯨競争が繰り広げられた。イギリス船団の主な運営者はモスクワ会社で、捕鯨船や私掠船などを大量に北極海に送り、オランダ船から獲物を横取りする活動を繰り広げた。戦争一歩手前の激しい捕鯨競争は、1618年にスピッツベルゲンの分割と沿岸海域での捕鯨独占権の相互承認で一段落し、1630年代後半にはスピッツベルゲンのクジラは枯渇していった。

    • ロシア側の事務所はトヴェルスカヤ通りに置かれ、そこには聖アンデレ聖公会教会も建設され、あたりはモスクワにおけるイギリス人のコミュニティ-の中心となっていた。

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    1917年のロシア革命後、この会社は事実上機能しなくなり、現在はロシア側に聖アンデレ聖公会教会とも関連した慈善事業団体としてのみ残っている。 

  • しかし野党活動を続けスタンホープ政権を動揺させた末、1720年に陸軍支払長官に再任されて政権に戻り、南海泡沫事件で政治家としての力量を発揮し、1721年にスタンホープが急死、サンダーランドが信用を失ったため再び第一大蔵卿に就任し、事実上の首相として1721年から1742年までの21年間に及ぶ長期政権を運営する。対仏融和策、地租軽減政策でステュアート朝の復活を目指すジャコバイトの脅威を利用してホイッグ寡頭体制をしく。

  • 1730年代末よりおりからの政治腐敗や消費税拡大、対フランス平和政策などが原因で政権が傾き、1741年における総選挙ではスコットランドコーンウォールなどで敗れ、与野党の差が縮まった。そのため、当時の国王ジョージ2世の慰留にもかかわらず、翌1742年に第一大蔵卿を辞任。このことから、議会内で優勢な勢力が内閣を組織して議会に対して責任を持つという、議院内閣制(責任内閣制)の基礎がつくられた。引退後は初代オーフォード伯となり、1745年に死去。

  • 第4代オーフォード伯爵ホレス・ウォルポール(1717年〜1797年)は彼の三男で、その政治的実績より、詩人トマス・グレイを伴った豪勢なフランスとイタリアへのグランドツアー(当時、英国貴族の子弟は大陸での遊学を通じて教養を深めるものとされていた)、ストロベリー・ヒルに建てた別荘を改築して友人を集め(工事は1750年頃から数十年にわたった)、1757年頃から併設した印刷所で自作やグレー作品や友人達の作品を次々と印刷出版する事で生み出した中世ゴシック回帰ブーム、そうした一連の動きの結晶としての英国ゴシック・リヴァイヴァル小説の嚆矢としての「オトラント城奇譚(1764年:当人談によれば「ある日見た夢を忠実に再現した中世古城を舞台とする幻視小説)」発表などの趣味的生活で知られる。
    *家名継承には無関心だったので彼の代でオーフォード伯爵家は断絶したが、この「オトラント城奇譚」を残した事でソクラテスプラトンが憧憬したところの「恒常的なるもの」に爪痕を残す事に成功。またこの人物は「セレンディピティ(何かを探していると偶然別の何かを発見する能力)」という造語の発明者としても知られる。

    *18世紀初頭にフランスのアントワーヌ・ガランがフランス語訳を広めた千夜一夜物語の世界に傾倒し、同様にゴシック・リヴァイバルの講師となった「ヴァセック(1786年)」をフランス語で執筆したウィリアム・トマス・ベックフォード’(1760年〜1844年)もまたホイッグ党寡頭政治を支えた大物政治家にして砂糖成金の息子だった。彼もまた同棲者疑惑を契機に自領に引き籠もり、そこで趣味的生活を送る道を選んだ1人である。

    ティツィアーノに代表される様なイタリア・ルネサンス時代における絢爛豪華でエロティックで異教秘儀的な絵画文化が死や失脚と隣り合わせの生活を送る軍人貴族や金遣いの荒いメディチ家などをパトロンとする事で支えられていた様に、良い意味でも悪い意味でも当時の文化は「零落に向かいつつある成功者の末裔の趣味への没頭」に支えられていたのである。だからその果実の一つ足るロココ趣味もまた、当時の人々から胡散臭い目で見られる事を免れ得なかった。

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    *江戸幕藩体制下にあっても、幕末活躍した西国諸藩においては、それに先行して様々な財政改革が履行され、それぞれ相応の成功を収めている。どうやら「主権国家の成立」は地域を問わず「(近世到来による経営破綻回避を志向する)財政的主体の登場」と不可分の関係にあるらしい。というよりこの時期に「経済が政治(領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統)の従属物に過ぎない段階」から「政治(外交)が経済的要請の従属物に過ぎない段階」へのパラダイムシフトを経験した主権国家のみが近代以降「列強」に残ったとも。

    *フランスもようやく第二帝政時代(Second Empire Français、1852年〜1870年)に入って追いついたし、新興のイタリア王国Regno d'Italia、1861年〜1946年)や大日本帝国(1868年〜1945年)やドイツ帝国(Deutsches Kaiserreich、1871年〜1918年)ばかりかアメリカもこれに混ざろうとした。かくしていわゆる「(化学、電気、石油および鉄鋼の分野で技術革新が進んだ)第二次産業革命(Second Industrial Revolution、1865年〜1900年頃)」の時代が到来するのである。

 

【米】1730年代早期より ジョージア植民地への英国人大量入植が始まる。

ジョージア州の歴史 - Wikipedia

イギリスの議会議員のイギリス人ジェイムズ・オグルソープがイングランドの清貧に甘んじる立派な人たちのために、混雑する債務者刑務所の代案として、この地域を入植地に使うというアイディアを推進。オグルソープとその他のイギリス人慈善家は1732年6月9日にジョージア植民地の被信託人として王室の勅許を確保した。

この植民地は債務者によってあるいは債務者のために設立された訳ではない。しかし、ジョージアが債務者や受刑者の植民地として造られたという誤った認識が続いた。被信託人達は「我々自身のためではなく、他人のために」というモットージョージアへの入植者を選別。1733年2月12日、HMSアン号で最初の開拓者達が後にサバンナ市となる場所に上陸。

ライト知事は1766年にジョージアに有るものついて次のように書き記した。

最小の重要性のある製造者もいない。毛糸と綿糸の混ざった荒い手織りの布少量。貧しさの酷い人々の中では、自分達が使うための綿糸と毛糸のストッキング少量、ニグロのための靴、および臨時の鍛冶仕事。絹、亜麻布、毛織物、靴、ストッキング、釘、鍵、ヒンジおよびあらゆる種類の道具といった物資全てはイギリスからおよびイギリスを通じて輸入された。

1735年から1750年まで、イギリス領アメリカ植民地の中でも特異なジョージア被委託者達は公的な政策としてアフリカ人奴隷を禁止した。しかし隣接するサウスカロライナ植民地で奴隷に基づくプランテーション経済の富が成長する様子が見せられ、植民地人に使える労働力よりも奴隷はより利益を生むものになった。ヨーロッパの経済状態が改善され、年季奉公で移民して来ようという白人が少なくなった。白人の多くは低地帯の気候と病気によって死亡率が高かった。

1749年、植民地は奴隷制禁止を撤廃。1750年から1775年までに、農園主は急速に奴隷を輸入したので、奴隷人口は500人足らずからおよそ18,000人までに成長した。アフリカ人は低地帯中にダム、堤など灌漑設備の念入りな土木工事を行うための知識と材料技術を持っており、米とアイの栽培を助けた。後にサトウキビが栽培品目に加わった。

ジョージアの農園主は主にアフリカの米を育てている地域、現在のシエラレオネガンビアおよびアンゴラから奴隷を輸入した。これらアフリカ人は米作の経験があり、その技術を植民地に持ち込んで、商品生産の成功に役だった。

サウスカロライナの農園主はジョージアの当初の開拓者よりも富裕であり、南に移住してきて植民地を支配した。彼らはサウスカロライナ低地帯の慣習や制度を持ち込んだ。農園主はその大規模な海岸プランテーションには高い確率で不在であった。夏の低地帯では罹患率の高い「病気の季節」に家族を高度の高い地域にしばしば連れて行った。

大規模プランテーションが普及し発展することで、ジョージアの海岸社会はバージニアよりも西インド諸島のそれに近いものになった。アフリカ生まれの奴隷と近接する地域から来たアフリカ人の人口比率が高くなった。サウスカロライナジョージアの「米海岸」の奴隷はユニークなガラあるいはギーチー文化(ジョージアではギーチーが通常使われる)が発展し、アフリカの言語、宗教および文化の遺産の重要な部分が保存された。この文化は低地帯や島嶼部で発展し、そこではアフリカ系アメリカ人奴隷が後に綿花プランテーションで働いた。アフリカ系アメリカ人の影響は料理や音楽に強く南部文化の一体的な部分となった。

1760年代、アメリカ独立戦争前の10年間、イギリスはジョージアの18,000人の白人植民地人を近くにいる10,000人の敵対的インディアンで脅した。総督のジェイムズ・ライトは人気があったが、ジョージア市民はボストン市民と同じ政治的道筋を歩き、かれらの権利と理想的共和制について独自に概念を発展させていく。

それは印紙税を課するようなイギリスの行動で侵犯されており、1765年にジョージア市民もこれを非難した。恐ろしかったのはボストン茶会事件のあとでイギリスがボストンを懲罰に及んだ事である。多くの植民地人が次は自分達の番だと怖れ、事実そのような展開を迎える事になったのである。

【米】1734年(米)ベンジャミン・フランクリンが『貧しいリチャードの暦』という名の格言入りカレンダーを発案して広める。

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  • それまでアメリカには毎年カレンダーを買い換える習慣そのものがなかった。
    *欧州には中世より「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」を代表格と時祷書(キリスト教徒が用いる私的な聖務日課書で、祈祷文、賛歌、暦などからなる)文化が存在したし、ルネサンス期にはノストラダムスなどが著した「神秘的箴言を鏤めた暦書」を識字層がこぞって毎年買い求めていたが、そうした慣習が新大陸の植民地まで広まる事はなかったのである。

  • 移民したのがプロテスタント中心だった事、栽培する作物の違いから農事暦として全く役に立たなかった事などとも関係があるかもしれない。

    ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin, 1706年~1790年)

    その勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加といった事跡の全てが18世紀における近代的人間像を象徴するとされる人物で『フランクリン自伝』はアメリカのロング・ベストセラーの一つ。己を含めて権力の集中を嫌った人間性は、個人崇拝を敬遠するアメリカの国民性を超え、アメリカの父として讃えられるが、その原点は案外こんな所にあったのかもしれない。

    • そのキャリアを1718年に『ニュー・イングランドクーラント』紙を印刷出版していた兄のジェームズの徒弟となる事から始め、次第に記者や編集者として頭角を現していった。同紙は自由主義的論調が特徴で、それによって兄が投獄された際には代わりに発行人となった事もある(1723年1月に総会(ジェネラル・コートがジェームズにボストン市内での印刷を禁止する命令を出した際に印刷屋の名義を兄からベンジャミンに替える事で発行を継続)しかしやがて兄と袂を分かちボストン、ニューヨーク、フィラデルフィアを経てロンドンに向かいそこで植字工として働いた。

    • 1726年に帰国し印刷業を再開したが、1729年にはもう植民地時代もっとも読まれていた『ペンシルベニアガゼット』紙を買収している。1731年にはフィラデルフィアにアメリカ初の公共図書館フィラデルフィア組合図書館)を設立して大成功を収めた。これを規範にアメリカの他の都市にも図書館が開設されるようになる。

    • 1734年にはウォーター・ストリートのタン・タヴァンのフリーメイソンリーフリーメイソン)のロッジでグランド・マスターに選ばれ、1743年にはアメリカ学術協会を設立。1748年以降は印刷業から手を引き、ペンシルベニア植民地議員や郵便総局長といった公職に専念しながら啓蒙思想の普及に努める生活を送る様になる。1751年にはフィラデルフィア・アカデミー(後のペンシルベニア大学)を創設。

    ペンシルベニア州アメリカ合衆国において最も歴史のある州の一つ。ヨーロッパ人として最初にペンシルベニアに入ってきたのはスウェーデンやオランダの入植者であったが、ペンシルベニアと命名したのは、チャールズ2世(在位1660年〜1685年)。クエーカーでイギリス人のウィリアム・ペンがSylvaniaと名付けたものをウィリアム・ペンの父ウィリアム・ペン卿に敬意を表して改称した。ペンシルベニア州には、自由の鐘や独立記念館が有名で独立宣言や合衆国憲法が立案された場所である事からアメリカ合衆国発祥の地と呼ばれることもあるフィラデルフィア市と、重要な河港を持つピッツバーグ市の、2つの主要都市がある。

【蘭】1740年10月、オランダ東インド会社統治下のバタヴィアで「血河事件」が起こる…江戸幕府との交易衰退(および砂糖の国産化振興)を招く契機ともなった事件でもあった。

1742年、ローマ教皇ベネディクトゥス14世(在位、1740年〜1758年)が勅書「エクス・クオ・シングラーリ(Ex quo singulari)」を発表。

  • これと1744の勅書「オムニウム・ソリチトゥディウム(Omnium solicitudinum)」によって「イエズス会の適応主義」を全面否定し、結果として東洋における宣教活動の急速な衰退を招いた。

【葡】1755年、リスボン地震が勃発する。

【英】【普】1756年、外交革命(独: Umkehrung der Allianzen, 英: Diplomatic Revolution)…17世紀以来の対立関係・宿敵であったハプスブルク家ブルボン家が、七年戦争(1754年〜1763年)を前に同盟を結んだ。(大英帝国より資金援助を受けた)プロイセン王国に対抗する為だった。

【英】 1757年(英米ベンジャミン・フランクリンが植民地の待遇改善を要求するためにイギリスに派遣される。

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  • この時、彼の科学的な業績を称えオックスフォード大学にて名誉学位を授与されている。

    有名なライデン瓶と凧を使った電気実験は1752年に行われ、その成功をもってロンドン王立協会の会員となる事を許された。他にも避雷針、フランクリンストーブとして知られる燃焼効率の良いストーブ、ロッキングチェアー、遠近両用眼鏡、グラスハーモニカなどを発明したが特許は取得せず、社会に還元している。

  • 政治家らしい顔を見せる様になるのはフレンチ・インディアン戦争(1754年〜1763年)が勃発し、イギリス軍の軍需品調達に奔走する様になって以降だった。ほどなくオルバニーの会議で植民地の連合計画を提案。

【英】1765年(英)英国東インド会社ムガル帝国よりベンガル、オリッサ、ビハールでの租税徴収権を獲得。

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  • これを次第に拡大する事で最終的にムガル皇帝は単なる年金受領者となり、インドは英国の植民地となる。

  • オランダの起こしたアンボイナ事件(1623年)によってオラ東南アジア方面からの撤退を余儀なくされて以降の英国はインド方面に活路を求めた。その先兵となった東インド会社ボンベイマドラスカルカッタに商館を設置し要塞化していったが、これに対抗スべくフランスもカルカッタの近くにシャンデルナゴルを建設し、18世紀初めにはイギリス勢力を圧倒する事になる。

  • ガンジス川下流域のベンガル地方は、ムガル帝国時代、絹や木綿の産地であり、藍(インディゴ)やアヘンなどの集散地でもあった。ムガル帝国はこの地に太守(ナワーブ)を置いて支配したが、1707年にアウラングゼーブが死ぬと帝国は裂状態となって、その中でこの地の太守は実質的に独立した。かねて対立関係にあったベンガル太守は、東インド会社の要塞化問題を機に軍事衝突事件を引き起こす。それはたちまち英仏代理戦争の様相を帯びる事になったのだった。

【英】1757年6月23日、プラッシーの戦い…イギリスの軍人ロバート・クライブが東インド会社の軍隊を率いて、フランス勢力と組んだベンガル太守のシラージュ・ウッダウラとカルカッタの北方プラッシーで交戦した。

  • ロバート・クライブの率いたイギリス東インド会社軍は僅かに欧州人兵士950人・セポイ2,100人と9門の砲・100人の砲兵を有していたのみで、これに対してフランス東インド会社と同盟していたベンガル太守のシラージュ・ウッダウラは6万を超す歩・騎兵力と40人のフランス兵が操作する重砲を含む53門の砲を装備して戦いに臨んでいた。

  • しかし、ベンガル太守側兵力の大部分である35,000人の歩兵と15,000人の騎兵を提供していた前ベンガル太守のミール・ジャファールはイギリス東インド会社に内通しており、ベンガル太守に忠実な部隊は5,000人に過ぎなかったため、実際の戦闘はほぼ互角の兵力で戦われる事になった。
    * ミール・ジャファールの名前は、現代の南アジア一帯で“裏切り者”の代名詞として広く使われている。とはいえ当時はまだ明瞭な形でナショナリズムが成立していなかった事も忘れてはならない。

  • ひどく暑くじめじめした日の07:00頃にベンガル太守側の砲撃で開始された戦闘は、昼になって大雨に見舞われて小休止し、イギリス東インド会社軍は素早く装備を雨から防いで雨が上がるまで待機した。しかしベンガル太守軍の兵士達は日頃の訓練不足と、情況の変化に柔軟に対応できないヒンドゥー教徒特有の性質から豪雨の中に火薬樽や銃・砲を放置し、水浸しとなった火薬は着火しなくなってしまった。

  • 雨が止んだ14:00頃から反撃を開始したイギリス東インド会社軍を前にして、ミール・ジャーファルの5万の大部隊は何もせずに傍観し、シラージュ・ウッダウラの部隊は火薬が水浸しで着火せず火器が使用できない状態のままイギリス東インド会社軍に一方的に攻撃されて惨敗した。この戦いでのイギリス軍の損害は、セポイ22人が戦死し50人が負傷したのみで、ベンガル太守軍は500人が死傷し、フランスはインドから撤退することになる。

  • プラッシーの戦いで、イギリス東インド会社がフランス・ベンガル太守連合軍を破ったことで、イギリスのインド支配は本格化する。その後、イギリスは、ミール・ジャーファルを新しいベンガル太守を任命するが、徐々に傀儡化していった。1764年10月、前年ベンガル太守の座を追われたミール・カーシムとアワド太守シュジャー・ウッダウラ、ムガル皇帝シャー・アーラム2世が東インド会社軍とブクサールで戦い、イギリスが勝利した。

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【米】1766年00月00日 ロジャー・シャーマンコネチカット植民地議会の上院議員に選出される(~1785年)。

コネチカット植民地(Connecticut Colony)

1636年から1776年まで、北アメリカ現在のアメリカ合衆国コネチカット州の領域に存在したイギリス領植民地。

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当初は川の植民地 (River Colony)と呼ばれ、ピューリタン貴族の受け入れ地として1636年3月3日に組織化された。初期のオランダとの闘争後、1630年代後半までにイギリスが恒久的な支配権を取った。今日のコネチカット州にあった2つのイギリス植民地、セイブルック植民地が1644年に、ニューヘイブン植民地が1662年にコネチカット植民地に併合された。

  • この地域に入った最初のヨーロッパ人は1614年にロングアイランド湾を通り、コネチカット川を遡って今日のハートフォードまで行ったオランダ人探検家アドリアン・ブロックの遠征隊だった。このときその地域に住んでいたピクォート族に遭遇。

  • 1620年代までに、ニューアムステルダムからのオランダ人交易業者がコネチカット川沿いに毛皮交易基地を設立し、その中でも著名な所は現在のハートフォード内、パーク川がコネチカット川に合流する地点に作られた「良い希望の家」(英語:House of Good Hopeオランダ語:Huys de Goede Hoop)だった。

  • 1630年までに、北アメリカでオランダの強力な競争相手だったイギリスがニューイングランド東海岸に幾つかの開拓地を創った。1620年のプリマス植民地、1623年のニューハンプシャー植民地および1630年のマサチューセッツ湾植民地などだった。イングランドジェームズ1世ニューイングランド評議会の議長第2代ウォリック伯爵ロバート・リッチに、ナラガンセット湾から西に太平洋岸までの地域への入植権を認可した。
  • 1631年、ウォリック伯はこの認可を北アメリカにおける逃避場所になりうる所としてイングランドにいる15人のピューリタン領主に譲渡した。この特許を受けた者達の中に、初代セー・アンド・シール子爵ウィリアム・ファインズやブルック卿、ジョージ・フェンウィック大佐等がいた。1635年、特許受権者達はマサチューセッツ湾植民地総督の息子、ジョン・ウィンスロップ・ジュニアを「川の植民地知事」として任命した。

  • ウィンスロップは1635年10月にボストンに到着し、オランダがコネチカット川河口の「パスベショーケ」(アルゴンキン語で河口という意味)と呼ばれる場所の占領を計画していることを知った。このオランダに対抗するために、ウィンスロップはエドワード・ギボンズ中尉とサイモン・ウィラード軍曹の指揮で20人の大工と他の作業者を小さな船に乗せてコネチカット川河口に派遣した。この遠征隊は11月24日に河口近くの西岸、今日のオールドセイブルックに上陸し、オランダの紋章を刻みつけてある木を特定した。彼等はその紋章を剥ぎ、楯を描きニッと笑っている顔を描き入れた。大砲のための砲台を建設し、小さな砦を造った。オランダ船が数日後に戻ってくると、大砲とイギリス船を見付けて撤退した。ウィンスロップはこの地点をファインズ(セイ子爵)とブルック卿に因んで「ポイント・セイブルック」と改名した。

  • 1630年代にはイギリス人開拓者がニューイングランドの他の植民地からコネチカット川渓谷に移ってきた。1633年、ウィリアム・ホームズが1群の開拓者を率いてプリマス植民地からコネチカット川渓谷に入り、オランダの交易基地から北数マイルにウィンザーを設立した。1634年、ジョン・オールダムと一握りのマサチューセッツの家族がオランダの交易基地から南数マイルにウェザーズフィールドの地域に仮寓を建てた。次の2年間にマサチューセッツのウォータータウンから30家族がウェザーズフィールドでオールダムの追随者達に加わった。この地域のイギリス人人口は1636年に脹れ上がった。牧師のトマス・フッカーがリチャード・リスリーを含む100人の開拓者と130頭の牛を導き、マサチューセッツ湾植民地のニュータウン(今日のケンブリッジ)からコネチカット川の両岸に入り、古いオランダの砦とはパーク川を挟んで対岸にハートフォードを設立した。1637年、コネチカット川沿いの3つの町、ウィンザーハートフォードおよびウェザーズフィールドがピクォート戦争を戦うために共通の政府を樹立した。これらの開拓者達は自分達の規則と規制による新しい教会の社会を樹立したいと考えた。歴史家のヘンリー・S・コーンに拠れば[1]、「彼等は民衆によって選ばれていない執政官の権力に不満だった。しかし、彼等はその持っている土地を拡げたいとも思った。」
  • 1638年夏、これらの町ではコネチカット基本条例を書き上げ、政府の原則、権力および構造を決めた。これらは1639年1月14日にコネチカット委員会に採択され、トマス・ウェルズによって公式記録に書き写された。コネチカットは1662年に王室勅許を受け、公式の王室領植民地になった。

  • ニューヘイブン植民地は異なる政体だったが、1662年の勅許のもとにコネチカットに併合された(ニューヘイブン植民地の住民は1565年1月5日に初めてコネチカットの支配を認識した可能性がある)。ニューヘイブンはイングランド王チャールズ1世を告発し1649年に死に至らせた判事のうち3人を匿っていたので、イングランドから大きな圧力を受けたためにコネチカットと合併した。この勅許が後に差し押さえられることになったとき、ある市民がオークの木の幹にそれを隠した。

  • ニューヘイブン植民地は1641年のレナペ族との協定により、デラウェア川の東西両岸の全域を所有すると主張することになった。この植民地は現在のフィラデルフィアで最初の何らかの形で開拓を始めた。その地域に住むニュースウェーデンやニューアムステルダムの住人がその開拓地を燃やし、そこはマサチューセッツ湾植民地によって否認された。ニューヘイブン植民地はこの試みから撤退したものの、そのレナペ族との協定で、デラウェアの東西に大西洋から太平洋まで全ての土地、いわゆる海から海までというコネチカットの領有権主張の根拠になった。

著名なピューリタンの牧師トマス・フッカーとマサチューセッツ湾植民地知事ジョン・ヘインズが、1636年にハートフォードまで100人の人々を引率し、これがコネチカット植民地の創設者と考えられることが多い。

  • フッカーが1638年5月31日に政府の原則についてその信徒達に行った説教が、その年後半にコネチカット基本条例を書いた者達に影響を与えた。この基本条例は、1630年代のコネチカットに住んでいた唯一人の訓練を積んだ弁護士であるウィンザーのロジャー・ルドローが起草した可能性があり、事務官トマス・ウェルズによって公式記録に書き写された。

  • ダベンポート牧師と商人のセオフィラス・イートンがニューヘイブン植民地の創設者と考えられている。ニューヘイブン植民地は上記のように1660年代にコネチカット植民地に吸収された。

  • 植民地初期では、知事がその任期を続けて務めることができなかった。このために20年間というもの、ハートフォード出身のジョン・ヘインズとエドワード・ホプキンスが交互に知事を務めた。1640年代と1650年代にはやはりハートフォード出身のジョージ・ワイリーズ、トマス・ウェルズおよびジョン・ウェブスターが短期間知事の座に座った。

  • マサチューセッツ湾植民地創設者の息子、ニューロンドンのジョン・ウィンスロップ・ジュニアがコネチカット川近辺に点在した開拓地をまとめて単一の植民地にするときに重要な役割を果たした。ウィンスロップは1659年から1765年までコネチカットの知事を務めた。また1662年勅許取得の提唱者でもあり、この勅許でニューヘイブン植民地をコネチカットに併合した。ウィンスロップの息子フィッツ・ジョン・ウィンスロップも1698年から10年間知事を務めた。

  • ロジャー・ルドローはオックスフォードで教育を受けた弁護士でありマサチューセッツ湾植民地の副知事であったが、この地域を開拓する権利を高等裁判所に請願した。ルドローは土地の権利に関する論争を収めるためのマーチ委員会を宰領した。フッカー、ウィンスロップなどとの協力で1650年コネチカット基本法の起草者とされている。ルドローはコネチカットの初代副知事だった。

  • ギルフォードのウィリアム・リートはコネチカットに併合される前のニューヘイブン植民地知事を務め、ジョン・ウィンスロップ・ジュニアが1675年に死んだ後はコネチカット知事も務めた。両方の植民地知事を務めた唯一人の者だった。

  • ミルフォードのロバート・トリートは、コネチカットエドマンド・アンドロス卿によるニューイングランド自治領に併合される前後で知事を務めた。その父、リチャード・トリートはこの植民地の初めに特許をうけた者の一人だった。

  • この植民地では18世紀に一連の強力な知事が現れ、それらの者は死ぬまで毎年再選された。フィッツ・ジョン・ウィンスロップが死んだときは、ウィンスロップのニューロンドンにおける牧師、ガードン・ソルトンストールが知事に選ばれた。ソルトンストールはコネチカットで知事に選ばれた唯一の牧師であり、ピューリタンの牧師は公職に就けないという一般にあった誤解を覆した。ソルトンストールが死んだとき、副知事であるハートフォードのジョセフ・タルコットが知事になった。タルコットが死んだときも、副知事だったミルフォードのジョナサン・ローが知事職を継いだ。ジョナサン・ローが死んだときは、ウィンザーのロバート・ウォルコット副知事が知事になった。ウォルコットはアメリカ独立宣言の署名者オリバー・ウォルコットの父であり、1754年のスペイン船事件におけるその役割の故に選挙で落選した。ウォルコットの後継者、ノーウォークのトマス・フィッチは七年戦争の間植民地を指導したが、フィッチも1766年の印紙法拒否で強く出なかったために落選した。フィッチを破って当選したハートフォードのウィリアム・ピトキンは自由の息子達の支持者でもあり、また元知事ロジャー・ウォルコットの従兄弟でもあった。ピトキンは1769年に死に、レバノン出身の商人ジョナサン・トランブル副知事が後を継いだ。トランブルもまた自由の息子達の支持者であり、独立戦争の間も知事に選ばれ続け、1784年に引退した。この年はアメリカ合衆国のイギリスからの独立を認めたパリ条約調印から1年後だった。

マサチューセッツ湾植民地と同様、コネチカットは植民地における国教会としての会衆派教会を作ったピューリタンによって設立された。税金が地元の牧師達を支え、日曜の礼拝に出席できなかった植民地人は罰金を取られた。

  • 1708年まで、会衆派教会コネチカットで唯一の合法宗教だった。しかし、その年に「分別有る異議」を認め、著名なところではイングランド国教会やバプテストのような特定の非国教徒については、彼等の教会に献金するという条件で、国教を支えるための税金を払わなくともよいものとした。また1708年には、セイブルック綱領を採択し、地元の信徒団から教会の主権を奪い、それを植民地全体に拡がる牧師によって運営される協議会の手に委ねた。

  • 1701年、植民地議会は新しく会衆派の牧師を育てるという使命を持つ大学の設立を承認した。キリングワース、セイブルックおよびウェザーズフィールドと移った後で、1716年に恒久的な場所としてニューヘイブンに設立された。

  • 1718年、ボストンで生まれた富裕なイギリス人実業家イライヒュー・イェールからのかなりの額の寄付の後で、大学の名前はイェール大学と改められた。1720年代初期、大学の牧師ティモシー・カトラーが教官の1人や隣接する教区の牧師2人と共に、イングランド国教会に改宗したと告発され、イェール大学で宗教論争が起こった。1722年、大学の理事会は大学の正当性を強制すると決断し、カトラー牧師や問題のある教官を解任し、今後は全ての教区牧師や教官がセイブルック綱領への同意を宣言しなければならないという決議案を採択した。

  • 18世紀中頃の大覚醒は植民地中に衝撃を与え、会衆派教会を分裂させた。覚醒を奉じる者はニューライツと呼ばれ、これに反対する者はオールドライツと呼ばれるようになった。ニューライツはそれまでの牧師によるしばしば情熱の無い礼拝に不満を抱き、多くの町で別の宗教団体あるいは教会を設立する請願をおこなった。オールドライツはこれらの試みに反対し、ニューライツは分別も無い(その礼拝では感情的な性格があるため)し、異議を唱えているのでもない(彼等は会衆派教会であり続けた)と主張した。

  • 覚醒を抑圧しようとしたオールドライツは植民地議会を説得して巡回法を成立させ、移動する牧師が町の牧師からの招待無くしてコネチカットの町で説教を行うことを禁じた。多くの歴史家達はこの法が植民地における政治問題に火を付けたと考えている。

  • アメリカ独立戦争の間、植民地イングランド国教会信徒の多くはフェアフィールド郡に集中しており、ロイヤリストであり続けた。ある国教会信徒ブリストルのモーゼス・ダンバーは反逆者として有罪宣告され、ロイヤリストであるために絞首刑になった。

  • 会衆派教会は革命期間のコネチカットでも国教会であり続けたが、「分別有る異議」を持つ教会として、時と共に支配力を弱まった。1818年のコネチカット憲法の採択によって、会衆派教会は国教会ではなくなり、遂にコネチカットには政教分離が訪れた。

この地域は後に、ピクォート戦争と呼ばれるイギリス人と先住民族の間の血腥い戦争の舞台となった。これは、チャーターオーク事件と呼ばれるニューイングランド自治領の地元権威に屈服するのを拒否した伝説的出来事と共に、新世界に自治政府を打ち樹てるために重要な役割を演じた。

【英】【米】1764年04月05日 英国議会が「砂糖法」を可決する 

  • アメリカ歳入法(英: American Revenue Act)あるいはアメリカ関税法(英: American Duties Act)とも呼ばれる。当時の英国では7年戦争およびそれに連動する形でアメリカ植民地で展開したフレンチ・インディアン戦争(1754年〜1763年)で負った莫大な負債をどうするかが最大の課題だった。

  • 砂糖法の制定以前にも糖蜜法(1733年成立)があったが、これは英領でない植民地から輸入される糖蜜に1ガロン当たり6ペンスを課すことによって英領西インド諸島産の糖蜜を保護するためものだった
    *ただし植民地の課税逃れのために実際に徴収されることはなかった。

  • それに対して砂糖法は、関税率を1ガロン当たり3ペンスに減額する一方、徴税の強制力を強めたものであるが密貿易者とそれを取り締まる職員にはまだまだ甘い内容だった。

  • 七年戦争が始まると初代チャタム伯ウィリアム・ピット(William Pitt, 1st Earl of Chatham, 1708年~1778年:大ピット)が当時の内閣の実質的な指導者となったが地所ハノーファーのある欧州大陸にしか関心を持たないジョージ2世や戦争指導力に欠けるニューカッスル公と意見があわず辞職。

    初代チャタム伯ウィリアム・ピット(William Pitt, 1st Earl of Chatham, 1708年~1778年:大ピット)

    1735年にホイッグ党庶民院議員に当選し、政界入り。ウォルポール首相の「軟弱外交」を批判するタカ派若手政治家として頭角を現し、庶民院で影響力を拡大させた。

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    1757年から1761年にかけて第2次ニューカッスル公爵内閣で南部担当大臣を務め、七年戦争を実質的に指導し、インド亜大陸や北アメリカや西インド諸島などの植民地でフランス勢力を駆逐することに成功し、大英帝国の基礎を築いた。

    その後、首相(在任1766年〜1768年)も務めたが、この時には大きな業績は残していない。

  • しかし大ピットは「偉大なる庶民」と呼ばれるるほどの強い世論の支持により復帰し、今度はニューカッスル公と共同で政権を維持。国務大臣・外相として戦争を指導。その際に欧州大陸での展開は同盟国のプロイセンに対する資金援助に止め、フランスとの戦争についても深入りせず、北アメリカ大陸とインド等の植民地での対フランス戦争(フレンチ・インディアン戦争カーナティック戦争)に兵力を集中する事で決定的勝利を導き出した。ただし英国の国庫も空っぽになってしまったのである。

    第3代ビュート伯ジョン・ステュアート(John Stuart, 3rd Earl of Bute, KG, PC, 1713年〜1792年、トーリー党、首相任期1762年~1763年)

    スコットランド貴族の家に生まれ、ジョージ3世が皇太子の頃にその家庭教師を務めていた。ジョージ3世が7年戦争中の1760年に即位すると、その立場を利用して政敵に代わって宮廷内で実質上の首相の立場を得た様な権謀術数家。

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    • ウィリアム・ピット(大ピット)能力主義の人材登用で戦争を有利に運んだが権威主義には反抗的でジョージ3世から「反逆のラッパ」と揶揄されていた。ジョージ3世から不興を買い下野を余儀なくされる。

      ニューカッスル…戦争に必要な資金を議会の承認の下で調達し続ける役割を担ったが単独での戦争指導力には欠け、大ピットが下野した後は完全にレームダック化した。

    政党政治的な「愛国王」の理念に則ってウォルポール以来の「ホイッグ党寡頭支配」を終焉させ、万年野党だったトーリー党からも閣僚登用を行った。また元々インドで知事の子供として生まれた事もあってロバート・ウォルポールの平和外交政策に批判的で急進的な商工業者グループ「青年愛国者」のリーダーとして知られた「海洋派=自由貿易主義者」だった。

    七年戦争における対スペイン政策を利用して1762年5月には実際の首相にも就任ししてパリ条約で七年戦争を英国に有利な形で終結させる事に成功する。
    *「七年戦争における対スペイン政策」…そもそも大ピットが辞任した直接の理由はフランス宰相ショワズールが植民地戦争でスペインに協力を求める動きを見せた時にスペインとの開戦を主張してジョージ3世と議会を敵に回した事だった。結局スペインはイギリスに宣戦したが、逆にイギリスが強力な海軍力をもってスペイン植民地たるハバナやマニラを占領する結果となる。戦後のパリ条約ではスペインがフロリダをイギリスに割譲する代わりにこれらの両地域はスペインに返還された。

    しかし彼がスコットランド人であるが故の不人気もあり、それまで続いていたホィッグ党優越の時代の終焉はそう簡単には訪れなかった。まずは世論から「もっと有利な講和が可能だったのではないか」等と批判され、当時の新聞などのメディアや庶民院議員ジョン・ウィルクスの攻撃の恰好の矛先とされる。それでもジョージ3世の信任は全く揺らがななかったが、七年戦争講和後の財源としてリンゴ酒への消費税導入が議会を通過すると国民の反発はいや増し、1763年4月に辞任を余儀なくされてしまう。

  • 具体的にはどれくらいの負債だったのだろうか。戦争開始前には7,500万ポンドだったそれは戦争終結時点の1763年1月には1億2,260万ポンド(当時の税収総額の約半分)にまで膨れ上がっており、しかも還付期限が1764年初頭に迫る借金だけで8億ポンド以上という有様だったのである(その多くを英国政府は国債発行で賄ってきた)。さらに戦争が終わった1763年2月、ビュート伯が首班を務める内閣は、植民地にイギリス陸軍の正規兵1万名を駐屯させておく決断を下ししたが(同年5月からポンティアック戦争が勃発した事を考えてみても、この判断は正しかった)。当時、大陸の植民地と西インド諸島で軍隊を維持していくための費用推計額は毎年約20万ポンドに達していた。それに対してこの時提案された歳入増加計画は毎年推計78,000ポンドの域を超えるものではなかったのである。すなわち当時の英国政府はこの時、植民地が利益に繋がるとか負債の償還に貢献するなどとは一切期待しておらず、ただ植民地の防衛のためにアメリカ人が幾らかでも費用を負担してくれたら嬉しいと考えていたに過ぎなかったのだった。
  • ところでこの法案が可決される当時英国首相だったジョージ・グレンヴィルは、強力な指導力を発揮出来る立場になかった。ビュート伯の影響力が1765年頃まで少なくとも宮廷内では残留した上、就任直後におこったウィルクス事件に強い態度で臨んだ事が結果として王室と政府の威信を傷つける結果に終っていたからである。

    ジョージ・グレンヴィル(George Grenville, 1712年~1770年 ホイッグ党員 任期:1763年~1765年)

    1741年にホイッグ党庶民院議員として政界入りし、閣僚職を歴任した。

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    第3代ビュート伯爵ジョージ・ステュアートの辞職後、ビュート伯の推挙で首相(在任1763年〜1765年)に就任。1763年にはジョン・ウィルクスを「一般逮捕状」で逮捕したことでウィルクス事件を引き起こした。1765年には印紙法で北アメリカ植民地人の反発を買い、この反発がアメリカ独立戦争の遠因となった。イギリス国内でもビュート伯の傀儡政権と見做されて批判に晒された。1765年の摂政法をめぐって国王ジョージ3世とも対立したため、2年ほどで退陣を余儀なくされた。

    在職中に爵位を受けなかった首相はウォルポール以来。大ピットは妹ヘスターの夫で、小ピットは甥に当たる。

  • すなわち砂糖法(課税対象は後にワイン、コーヒー、衣類などに広げられた)も、これに続いて1765年に可決された印紙法(新聞・パンフレットなどの出版物、法律上有効なあらゆる証書、許可証、トランプのカードなどに印紙を貼ることを義務付ける内容)も(庶民派議員の仕切る)下院内のコンセンサスに基づくものと考えられる。当然激しい反発があるばど予想だにされていなかったし、これを機に本国と植民地の隔たりが大きくなってゆき、やがてアメリカ独立戦争に至るとは考えられていなかった。

【英】【米】1770年03月05日 ボストン虐殺事件(Boston Massacre)が勃発…マサチューセッツ植民地のボストンでイギリス軍が民間人5人を射殺した事件。既に植民地住民は3年前の1767年に成立したタウンゼンド諸法に強い不満を持っており、英国軍と植民地の民間人の間の軋轢を一掃深めた。

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  • 事件はキングストリートで始まった。かつら製造業の若い弟子エドワード・ガーリックが、イギリス軍の士官ジョン・ゴールドフィンチ大尉に散髪代の支払いが遅れていると訴えた。ゴールドフィンチ大尉はその日に支払いを済ませていたのだが、ガーリックに返事をしようとしなかった。ガーリックは1時間後にも苦情を大きな声で訴えていたので、税関の外で歩哨に立っていた兵士ヒュー・ホワイトがガーリックを呼びつけて頭を殴った。ガーリックの仲間が叫びだしたので、イギリス軍の軍曹が彼らを追い払った。弟子達は近くにいた者達を集めて戻ってくると、歩哨に侮蔑の言葉を浴びせ雪玉やくずを投げ始めた。 ホワイトは警衛部隊に応援を頼む知らせを走らせた。その日の当直トーマス・プレストン大尉は第29歩兵連隊から伍長1人と兵士6人を出動させ、自身も直ぐに現場に向かった。暴徒は数が増え、石、棒、氷の塊を投げ続けていた。一団の水夫と造船所の職工が大きな薪を持って現れ群衆の前面に出て兵士達に向き合った。周りの教会の鐘が鳴り、ボストン市民の群衆が更に大きくなり、威嚇的になった。 騒動の最中にヒュー・モントゴメリー兵士が氷の礫を受けて倒れた。彼はマスケット銃を空に向けて威嚇弾を放った。彼が後に弁護士に語ったところでは、その時「撃て!」と叫んだという。1人を除いた兵士が群衆に向けて発砲した。無差別の銃撃で11人が被弾した。即死は3人、数時間後に1人、また2週間後に1人が死亡した。他の6人は命を取り留めた。死者:ロープ製造業サミュエル・グレイ、水夫ジェームズ・コールドウェル、混血の水夫クリスパス・アタックス、17歳のサミュエル・メイブリック(群衆の後ろにいたが跳ね返り弾を受けて翌日死亡)、30歳のアイルランド移民パトリック・カー(2週間後に死亡)。事態の収拾のために翌日イギリス軍当局はすべての軍人を町の中心部からボストン港のキャッスル・アイランド砦に移すことに同意した。

  • 事件後、プレストンと兵士たちは逮捕され、サフォーク郡地方裁判所で裁判が行われた。ジョン・アダムズ、ジョシア・クインシー2世(Josiah Quincy II)、ロバート・オークミュティ(Robert Auchmuty)の3人が弁護側についた。サンプソン・サルター・ブロウワーズ(Sampson Salter Blowers)は陪審員の選定を行った。そしてマサチューセッツ植民地の首席検事、サミュエル・クインシー(Samuel Quincy)と私立弁護士ロバート・トリート・ペインはボストンの町当局に雇われる形で検察側についた。陪審員全員をボストン町外の者から選んだため、裁判は1ヶ月遅れて始まった。まず、陪審員はこの事件における射殺はプレストンの命令によって行われたものではないと判断し、プレストンを無罪とした。次いで1人の兵士が銃を全く撃たなかったという事実があったため、検察側は兵士各人の罪を証明しなければならなかった。この段階で、陪審員は6人の兵士を無罪とし、モントゴメリーとマシュー・キルロイ(Matthew Killroy)の2人の二等兵を殺人で有罪とした。本来ならば死刑に処せられるはずであったが、「聖職者の特権」(benefit of the clergy)というイギリス法の規定により減刑され、親指への烙印だけで終わった。

    ジョン・アダムズ(John Adams、1735年~1826年)

    マサチューセッツの裕福だが敬虔な清教徒家庭出身の弁護士。大陸会議にはマサチューセッツ湾植民地の代表として出席し、1776年に大陸会議がアメリカ独立宣言を採択するときに指導的な役割を果たした。また大陸会議からヨーロッパに派遣され、イギリスとのパリ条約締結では交渉の主役となり、またアムステルダムから重要な借款を得る中心人物ともなった。

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    こうして独立に貢献したことで、ジョージ・ワシントンの下で副大統領(初代、1789年から1797年の2期)を務め、また第2代大統領(任期1797年〜1801年)にも選出されることになった。アメリカ海軍創設者でもある。

    大統領としての任期の間、自身の連邦党(アレクサンダー・ハミルトンが率いる一派)内部での抗争と、新しく頭角を現したジェファーソン流共和主義者との党派抗争に悩まされることになった。

  • 一方、サミュエル・アダムズら独立派は、この事件を「ボストン虐殺」と呼び、反イギリスのプロパガンダとして用いた。彼らはこの事件によって浮かび上がった問題は犠牲者の数の多少ではなく、イギリス政府が軍隊を常駐させ、イギリス議会によって制定された、植民地の法制度に真っ向から反する法律を軍隊の力によって施行しようとする政策にあると主張している。カーを除く4人の合同葬は、その当時の北アメリカでは最大の群集の集まりとなった。翌1771年から1783年にかけては、ボストン町当局はこの事件を忘れないために毎年この事件が起こった日に式典を行った。アメリカ独立宣言の文中にもボストン虐殺事件に対する不満が述べられている。しかし、この事件の裁判で弁護を勤め、のちに第2代大統領となったジョン・アダムスは、その弁護について「私の人生の中で、最も勇敢で、寛容で、人間的で、公平無私な行動であり、また国に対して行った最善の行いのひとつであった」と述べた。しかし同時に、アダムスはこの事件の歴史的重要性についても認識しており、「アメリカ独立の礎となった」と述べている。

    サミュエル・アダムズ(Samuel Adams、1722年~1803年)

    マサチューセッツの裕福だが敬虔な清教徒家庭の出身。反英思想の急先鋒にしてアメリカ共和政治の原則を形作った精神的主導者の最初の一人といわれる。

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    1688年の名誉革命ジェームズ2世を排除しオランジュ公ウィイリアムを王位に就けた事を正当化するジョン・ロックの著書「統治二論」に特に影響を受け、そこにある人間は生まれながらにして「生き、健康であり、自由であり、所有する」自然権を持っているという概念に魅了されたあまり修士論文に「国家が保護してくれないとすれば、執行官に対する反抗は法に適っているや否や」と書いた人物。

    ちなみにアメリカ独立宣言起草者に名前を連ねるジョン・アダムズとは従兄弟同士の関係にあった。

  • それまで英国側支持者だったジェイムズ・ボードインが、この事件を契機に英国を激烈に非難する論説を発表している。

    ジェイムズ・ボードイン(James Bowdoin II 1726年~1790年)

    マサチューセッツ州の裕福な商人出身。後にサミュエル・アダムズやジョン・アダムスとともに1780年マサチューセッツ憲法成立に関与した。

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  • 今日では、この事件が起こった場所は、「ボストン虐殺地跡」としてフリーダムトレイル沿いの名所になっている。ボストン虐殺地跡はデボンシャー通り(Devonshire Street)とステート通り(State Street)の交差点付近、旧州会議事堂の真向かいに位置している。

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【米】1772年「様々な主題による詩、宗教と道徳(Poems on Various Subjects, Religious and Moral)」が発表される。

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【英】1773年、当時ベンガル太守だったウォーレン・ヘースティングズ(Warren Hastings, 1732年~1818年)が英領インドの初代総督に就任。東インド会社における英国領インド統治体制樹立への着手者として知られる。

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  • 英国東インド会社の変質は一般に「プラッシーの戦い(1757年6月23日)」で勝利して欧米列強の影響を好まないベンガル太守スィーラジュ・アッダウラ(英国管轄下のカルカッタ要塞を攻撃する一方で、フランスとオランダに対しては上納金の引き上げを要求していた)の排除に成功して内政干渉色を強め出した段階まで遡れるとされる。1765年のアッラーバード協定では遂に、イギリス東インド会社ベンガル太守の軍備保有を禁止し、ベンガル、オリッサ、ビハールの財務長官に就任してインド亜大陸における「太守」となった。

  • しかしこうした動きの結果、イギリス東インド会社は豊かな税収を得るどころか却って追い詰められる事になってしまう。配当金の引き上げ(従来の配当率は7から8%程度であったが、ベンガル獲得によってその株が本国で投機対象となり1771年には、12.5%まで引き上げられてしまった)、アメリカ植民地における「主力商品=茶」の売上不振(大量購入した商品がまとめて不良在庫品に)、新規業務の急増(ベンガル人口2000万人に対する統治と徴税業務、南インドマイソール王国や北インドのマラータ同盟と対抗する為の軍事費など)、ベンガル飢饉の発生(1770年。人口の25%が餓死する事態となった)などがその主要因であった。当時の東インド会社の社員のほとんどが貿易以外門外漢で沿岸地帯の居住区の外へ出たがらず、現地職員が私腹を肥やす為の私貿易を最優先と考え続けた事から問題解決の目処はなかなかつかなかった。

  • 事態が動き始めるのは東インド会社の取締役会の決定に基づいてウォーレン・ヘースティングズが初代ベンガル総督に就任した1772年以降である。当時「知識の蓄積、なかんずく、われわれが征服によって支配を行使する人びととの社会的コミュニケーションによって得られる知識は、国にとって有益」「われわれが目指すべきインド統治の方針は、できる限り古代インド以来のインドの習慣と制度に従いつつ、われわれの法律をインド人の生活、社会、国家の諸問題に適用すること(同年における取締役会への業務報告)」といった有名な言葉を残したこの人物は、インドの文学や芸術を愛好し、現地文化重視政策で頭角を顕し英国政府から総督に任命される事になったのである(~1786年)。

  • とはいえ当時の東インド会社職員にインド人の生活や社会に精通している者など皆無に等しかったので「(法体系の整備、徴税制度の整備、軍備の増強を三大柱とした)インドの慣習に従った諸制度の改革」はイギリス独自のものとなった。またすぐには経営回復が達成出来なかった事がアメリカ植民地への茶の押し売りに結びつき「ボストン茶会事件(1773年12月16日)」を契機としてアメリカ独立戦争( 1775年4月19日~1783年9月3日)を誘発してしまう。

  • 法体系整備にあたってヘースティングズはヒンドゥー法典編纂委員会を創設し(1776年)、サンスクリットで述べられていた様々な判例を一つずつ調査する膨大な翻訳作業に着手する。これを契機にヒンドゥームスリムがインド国内で明確に区別される様になり、英国で東洋学研究が盛んになり始めた。

  • 徴税制度の改革については正直、ヘースティングズの時代には大半の徴税業務を現地インド人に任せる体制から脱却出来ないままだった。抜本的な改革が行われたのは第3代総督チャールズ・コーンウォリスの時で、徴税業務を担っていたインド人全員を解雇してイギリス人に入れ替えると同時に高い給料と年金を保証し、上級職独占を認める代償として私貿易禁止を誓わせた。こうした動きは次のリチャード・ウェルズリー総督の代にフォート・ウィリアムズ・カレッジ(カルカッタ)やヘイリーベリー・カレッジ(英国本国)が創立されて実際の業務に着任する前にインドの諸言語を学習する機会が与えられる様になった事で完成されたが、上級職からインド人を排除するという人種差別的決定は後に階級的憎悪を孕ませる事になる。

  • 軍備の増強については海外派兵はないことを約束した上で宗教とカーストに配慮した糧食を支給して現地インド人を「スィパーヒー」として雇い常備軍としての訓練を施す事で達成された。1789年段階で、10万人強だった陸軍は、ナポレオン戦争時代までに155,000人の歩兵と騎兵を擁する大軍に成長するが、それは同時に兵士の反乱や抗議に対する警戒を一層強める必要が生じた事も意味していた。
    セポイ(sepoy)…元々はカースト制中の一定階級の呼称でこの階級から編成された部隊であることからそう呼ばれる様になった。積極的に火器(小銃)を導入しその多くは歩兵として戦闘に参加したがインドが多湿な環境であった為、火打ち石式より確実に着火する火縄式が大多数を占めており、それは第一次世界大戦で英軍として戦うまで変わらなかった。

  • 東インド会社はこうして商事会社と徴税業務や治安維持業務を兼ね備えた行政機関として生まれ変わりつつ、次第に英国政府の管理下におかれ行政業務を義務付けられていったのである。そして独立戦争によってアメリカを失った1783以降は、閣僚の1人を責任者とする監督局が設置されるまでになる。

  • そうした動きと同時進行で東インド会社は1799年にマイソール王国を屈服させ、マラーター同盟との戦争に入った。1803年にはデリーを占領し、マラーター同盟の北部への野望を粉砕。1817年にはマラーター同盟に帰属していたグジャラートやマハーラーシュトラを東インド会社の領域とした。さらにアルコット、アワド、ニザームといった藩王国ベンガル時代さながらの軍事保護条約を締結。さらに、フランス革命勃発による本国の混乱を好機と見て東南アジアやビルマへの進出を開始し、フランス革命軍がオランダを占領した1795年以降はマレー半島を拠点に1826年までにマラッカ、ペナン、シンガポールを中心とする海峡植民地を形成するまでに到った。
    *江戸幕藩体制を震撼させたフェートン号事件(1808年10月)はその途上での事だったし、シンガポール建設(1819年1月に人口わずか150人だったこの島に当時英国東インド会社で書記官を務めていた英国人トーマス・ラッフルズが上陸して建設開始)もオランダへの占領地返還後もマレー半島海域に影響力を残す為の苦肉の策だったのである。 

    トマス・ラッフルズ(Sir Thomas Stamford Raffles、1781年〜1826年)

    イギリスの植民地建設者でシンガポールの創設者。父はベンジャミン・ラッフルズ、母はアン・リデ。二番目の妻ソフィアとの間に5人の子供を授かった。

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    • 14歳の時からロンドンの東インド会社で職員として働き始め、1805年当時プリンス・オブ・ウェールズ島と呼ばれていたマレー半島ペナン島に赴任し、マレー語を習得する。1811年、ナポレオン戦争当時フランスの勢力下にあったジャワ島へ英領インドから派遣された遠征軍に参加し、ジャワ副知事(lieutenant-governor)に任命され、統治に当る。このとき、ジャワ島の密林に眠るボロブドゥール遺跡を発見する。1815年にジャワ島がオランダに返還され、イングランドに帰国。この間、1817年に『ジャワの歴史』を著し、同年ナイトの称号を授与された。『ジャワの歴史』以降、「トマス」という名の使用をやめ、ミドル・ネームである「スタンフォード」を好むようになる。

    • 1818年、スマトラにあったイギリス東インド会社の植民地ベンクレーンにベンクレーン副知事として赴任した。当地において、マレー半島南端の島シンガポール地政学上の重要性に着目、ジョホール王国の内紛に乗じてシンガポールを獲得した。同島の開港は1819年2月6日のことである。

    • 1822年から1823年までシンガポール東部に留まり、自由貿易港を宣して植民地の建設にたずさわった。また、鎖国中の日本と接触を図るが失敗に終わっている。1823年にはイギリスに帰国し、1826年ロンドンで死去した。

    植物学・動物学・歴史学など、当時の諸科学に多大な興味を寄せており、ジャングルの調査をみずから組織している。世界最大級の花「ラフレシア」は、発見した調査隊の隊長であった彼の名にちなんでつけられたものである(学名は、ラッフルズと同調査態に同行したアーノルドにちなみ、「ラフレシア・アーノルディー」と名づけられている)。

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【米】1774年、アレクサンダー・ハミルトン独立革命に関する最初の公的文書を発表。

  • サミュエル・シーバリーの大陸会議非難を反駁した論文『大陸会議の措置に関する敵の中傷に対し、その措置を全面的に擁護す』がそれで、1775年2月にはさらに大陸会議を擁護し、愛国派の見解を表明した『その農民の見解を論駁す』を、同年6月には『ケベック法に関する所見』を発表し、イギリス本国が植民地支配を強めるためにカナダのカトリック教徒を利用する計画がある事を批判した。同年10月にはさらに大衆の印刷業者への暴行を非難している。

    アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton, 1755年~1804年)

    出自ははっきりいって良くない。英領西インド諸島のネイビス島においてカリブ海の小商人にまで零落したスコットランド貴族とユグノーの末裔とされる内縁の妻の間に生まれ、しかも後に父の破産によってさらに苦境に追い込まれている(1768年に兄とともに孤児となり、そのキャリアをニューヨーク承認のセント・クロイ島支店の店員として始めている)。他のアメリカ合衆国の「建国の父」達がそろって「成功した入植者=名門富裕層」出身だったのとは対照的であり、彼が後に連邦主義者(強力な中央集権による統制主義)となった背景として興味深い。

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    その人間観形成に大きく寄与したのはスコットランド哲学であり、とりわけデイヴィッド・ヒューム功利主義の影響が大きかった。ハミルトンの政治制度にかかわる主要論文の基調となっている「あらゆる人間は悪人である」がヒュームの『人間本性論』からであるのは言うまでもない。かくしてハミルトンはデモクラシーを危険視して(直接選挙の原則禁止など)それに制限を課す制度づくりを提唱する事になる。アダム・スミスの影響もかなり強い。

【英】【米】1774年(英米) 英国議会が米国側の言う「耐え難き諸法(Intolerable Acts、あるいは高圧的諸法(Coercive Acts))を次々と可決。

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  • 主に港に停泊中のイギリス船に侵入し、イギリス東インド会社の船荷の紅茶箱をボストン湾に投棄したボストン茶会事件(1773年12月16日)に対する制裁を主目的としたボストン港法(東インド会社が破棄された茶が弁償されるまでボストン港は閉鎖される)、マサチューセッツ統治法(マサチューセッツ政府のあらゆる役職者はイギリス政府あるいは国王によって指名される。また今後タウンミーティング活動は厳しい制限下に置かれる)、裁判権法(総督は公正な裁判が受けられないと考える時、他の植民地あるいはイギリス本国に裁判の地を移す事が出来る)、宿舎法(アメリカに駐留する英軍兵には効率的な住居があてがわれる)、ケベック法(ケベック植民地のフランス系カトリック教徒住民は選挙による植民地議会を開く事を禁じられる代わり領土の拡大を認められる)を指す。

  • イギリスからの移民が大多数を占める植民地人は元来親英的であり、アメリカ独立戦争が勃発した時点でさえ独立を支持する愛国派が自営農民や中小工業者らを中心として植民地人口の3分の1ほど、忠誠派が3分の1、残りは中立派といった有様だった。当時の英国がこの様な強硬的姿勢に打ってでなければ歴史は変わっていたかもしれない。

  • ボストン茶会事件」の翌年には、より節度のあるティーパーティー(茶会)事件がノースカロライナ州エデントンで起きている。ペネロープ・バーカー婦人は、イギリスの課税政策に対する植民地の抵抗を支援するために会議を主催し、これに51名の女性が参加したのだった。この会議では茶箱が壊されることも、紅茶が供されることもなかったが、この日起きたのは、歴史的にはより大きな出来事だった。バーカー婦人が主催した会議は、英領北アメリカでの女性による初めての政治会議だったからである。

  • この二つのティーパーティー事件はイギリスの世論を強く刺激した。ジョン・ウィルキーやエドマンド・バークのようなホイッグ党の有力者は、ジョージ三世や国王が任命した政府とは袂を分かってアメリカの立場を支持した。だが、ボストンの秩序が乱れていること、それまで聞いたこともないエデントンの女性たちの活動を知ったイギリス人の多くは、植民地アメリカは暴力的で野蛮だと考えるようになった。 イギリスの作家サミュエル・ジョンソンは、植民地のティーパーティー事件、イギリスの課税に反対する運動を批判し「これらの反愛国的な偏見は一部の徒党勢力による愚かな堕落を意味する」と切って捨てた。

  • はっきりとした歴史的証拠は存在しないが「サミュエル・アダムズこそボストン茶会事件の主導者」という噂が絶えない。少なくともこの事件をあらゆる手段を用いて政治利用した事実までは揺るがない。

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  • ボストン茶会事件では342箱の茶箱が海中に投棄されたが、その被害総額は1,000,000ドルにも上るといわれた。その損害額故に、この事件については植民地人の間でも賛否がわかれ、ベンジャミン・フランクリンなどは私財を投げ打って東インド会社の賠償請求のうち原価分(茶税分を除く)の賠償を試みている(結局交渉がまとまらず、賠償には到らなかった)。

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  • 1769年からアルベマール郡選出のバージニア植民地議会議員となったトーマス・ジェファーソンは第一次大陸会議に向かうバージニア代表団向けに「耐えがたき諸法」に反対する決議文を書き起こし、さらにそこでの主張を拡大する形で処女出版物『イギリス領アメリカの権利に関する要約』を発表した。そこにおける耐え難き諸法への批難は当初こそそれが合法かつ合憲かという事に焦点を当てていたが、やがて「植民地人には自分達を治める自然の権利がある」という急進的な考えに到ったのだった。さらには「英国議会は英国のみの議会であり、植民地において立法する権限は無い」とし、ジョージア3世についても「王は人民の召使であり、主人ではない」とはっきりと述べられていた。実際には革命を提唱するまでには至っておらず、植民地を「英領アメリカ」と呼んでいるが、それでも、この小冊子がアメリカ独立の理論的枠組みを作ることに貢献したのは明らかであり、これ以降ジェファーソンは最も思慮深い愛国的代弁者として注目される様になっていく。

    トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson, 1743年~1826年)

    バージニア入植者の中でも特に古い名家出身。アメリカ独立宣言(1776年)の主要な作者であり、アメリカ合衆国の共和制の理想を追求したことで最も影響力のあったアメリカ合衆国建国の父の一人とされている。

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    共和制を推進し、イギリスの帝国主義に対抗する偉大な「自由の帝国」の陰にある力としてアメリカの姿を描いた。首都ワシントンD.C.で就任演説を行った最初の大統領である。

    第3代アメリカ合衆国大統領(1801年〜1809年)としてルイジアナ買収(1803年)やルイス・クラーク探検隊(1804年 - 1806年)を進めたが、辞任後の米英戦争1812年〜1815年)につながるイギリスおよびフランス両国との緊張関係を増すことになった。

    政治哲学者として啓蒙時代の人物であり、イギリスやフランスの多くの知識人と知り合いだった。共和制の美徳の体現者としてヨーマン(独立自営農民)を理想化し、都市や金融家を信用せず、州の権限や厳しく制限された連邦政府に賛成した(ジェファーソン流民主主義の名祖)。25年間アメリカ政界を牛耳った民主共和党の創設者かつ指導者でもあった。

    バージニア州の歴史 - Wikipedia

    17世紀初頭から英国人入植が始まり、1619年にはジョージ・イアードリーがバージニア知事に就任した。新世界で初めての選出された議会となる植民地議会(House of Burgesses)が創設され、1619年7月30日に最初の会合がジェームズタウンの教会で開かれた(現在のバージニア州議会下院はこの植民地議会に起源がある)。

    同年にはバージニア会社が開拓地の人口を増やす為に男性開拓者の妻候補として90人の独身女性をジェームズタウンに送っている。この時までは、家族と共に到着していた女性だけが妻であり子供達であった。

    また同年には2隻のイギリス私掠船によって「20名余りの」アンゴラ人が植民地に到着した。おそらく植民地では初めてのアフリカ人で、ヨーロッパからの多くの年季奉公人と共にすでに植民地の主要生産品となっていたタバコ産業の拡大に貢献した。これらの黒人は年季奉公として扱われたが、これがアメリカにおける奴隷制の始まりとなる。ただしアフリカ人やヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷の大々的輸入はこの世紀遅くまで起こらなかった。

  • また後に「ザ・フェデラリスト」の共著者として頭角を現すジェームズ・マディスンは、1776年から1779年にかけてバージニア邦議会議員を務める過程でトーマス・ジェファーソンの弟子と目される様になった人物でバージニア信教の自由法の起草を手伝う事でバージニア政界における最初の名声を確立している。この法はいかにもイングランド国教会からの免許を受けずに説教をしたことで逮捕されたバプテストの説教師達の弁護からそのキャリアを始めたマディスンらしく、イングランド国教会を非国教化し、宗教的事項について州の強制権限を排除する内容だった。

    ジェームズ・マディスン(James Madison、1751年~ 1836年])

    プランテーション農場主出身。第4代アメリカ合衆国大統領(1809年〜1817年)。対外宣戦布告をした初の大統領であり、また戦災により首都から避難した唯一の大統領でもある。

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    ジョン・ジェイおよびアレクサンダー・ハミルトンと共にザ・フェデラリストを共同執筆し「アメリカ合衆国憲法の父」と見なされる。1788年にザ・フェデラリストの3分の1以上を執筆しており、これは今でも憲法に関する影響力ある解説になっている。政治理論家としての最も明確な信条は、新生間もない共和国が多数の専制から個人の権利を守るために抑制と均衡が必要ということだった。

    アメリカ合衆国下院の指導者として新しい連邦政府を組織化するためにジョージ・ワシントン大統領と密接に動いた。1791年にはアメリカ合衆国財務長官アレクサンダー・ハミルトンと袂を分かち、トーマス・ジェファーソンと共に「共和党」(後の民主共和党)を創設した。

【英】【米】1774年 トマス・ペインがロンドンでベンジャミン・フランクリンに紹介され、人物証明書を持たされてアメリカに移住。

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トマス・ペイン(Thomas Paine 1737年~1809年)

月刊誌『ペンシルベニア・マガジン』の編集主任となり、1775年1月には600人だった購読者を2ヶ月後には1500人に増加させた。植民地の政治問題に触れ、クエーカー教徒の完全な平和主義を批判し、若者への就職準備金や老人への年金支給が必要なことをといた論文などが書かれたのと同時に、ペンシルベニア州議会に対し独立要求をけしかけている。

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ノーフォークのセットフォードにコルセット製造業者の子として生まれ、13歳から父親の店で職人としての修行を開始。16歳の頃に船乗りになる為に家出をしてから船員・コルセット製造・収税吏・教師と職を転々とした後で1772年に収税吏の賃金の実情についてパンフレットを執筆。1764年にジョシュア・レノルズとサミュエル・ジョンソンが結成した「ザ・クラブ(のちの文学クラブ The Literary Club)」の創立会員だったアイルランド出身の女流作家オリヴァー・ゴールドスミスと知り合いとなった。フランクリンに紹介されたのはそうした人脈のせいと思われる。

【英】【米】1775年4月19日 レキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)が勃発…アメリカ独立戦争の始まる契機となった英米間の戦闘。

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  • 英国軍が、ボストン北西に位置するコンコードにあったアメリカ植民地民兵部隊の武器庫の接収作戦を実施。それに反発すべく動いた植民地民兵隊と武力衝突し、レキシントンとコンコードにてイギリス軍と民兵隊の激しい戦闘が行われ、植民地軍はイギリス軍を撃破した。規模は小さいながらアメリカ独立戦争の緒戦を飾るものとなった。

  • 独立戦争前、マサチューセッツにおける反英抵抗はサミュエル・アダムズアジテーションジョン・ハンコックの通常商業貿易と密貿易(タウンゼント諸法の圧迫から逃れる為にガラス、鉛、紙、紅茶などを扱い、1768年に英国より戻った持ち船のスループ船リバティが所得法違反の廉で英国税関に取り押さえられた時には、積荷を期待して待っていたボストン市民が激高し暴動を起こしている)の収入に拠ってまかなわれていた為、ボストンの人々は「サミュエル・アダムズが文書を(新聞に)ポストし、ジョン・ハンコックがその配達料金を支払う」というジョークまで作ったとされる。

     

  • ジョン・ハンコックが単なる反抗の財政的援助者から英国支配に対する公的批判者に転身したのはボストン虐殺事件から4年経った1774年3月5日の英国弾劾演説以降だった。同年マサチューセッツ植民地議会の議長に満場一致で選ばれ、安全委員会を主宰する様になった事からマサチューセッツ民兵が組織可能となる。そして「英国東インド会社によって輸入される紅茶のボイコット」が昂じてボストン茶会事件につながる訳だが、両者の関係ははっきり言って良く分からない。

  • 1775年4月、英国軍に逮捕される可能性が高まったハンコックサミュエル・アダムズがボストンを抜け出してレキシントンのハンコック=クラーク・ハウスに滞在。夜中にポール・リビアが起こしに来て英国軍が夜明けに到着することを告げる(この時、英国総督トマス・ゲイジ将軍はハンコックとアダムズを反逆罪で逮捕するように命じていた。戦闘後、ゲイジは英国王室に対する忠誠を表明する者には恩赦を下す旨宣言したが、むろんハンコックアダムズだけは例外であった)。

  • 4月18日、フランシス・スミス中佐の指揮で約700のイギリス軍正規兵に、マサチューセッツ民兵が武器を隠していると報告のあったコンコードの倉庫を確保し破壊せよという命令が出た。植民地の愛国者達はこの日の数週間前に、イギリス軍が捜索を行おうとしているという情報を掴んでおり、軍需物資のすべてではないがほとんど全部を安全な場所に移していた。イギリス軍の遠征の前の夜にもその作戦計画の詳細を掴んでおり、この知らせは直ぐに民兵達の間に流されていた。

  • 最初の銃弾はレキシントンで日の出とともに放たれた。民兵は数的に劣勢だったので撤退した。数時間後コンコードのノースブリッジにいた別の愛国者兵がイギリス軍の3個中隊と交戦し損害を与えた。野戦での数回の戦闘後に今度は数的に劣勢になったイギリス軍が撤退した。民兵達はその後も陸続と集まり続け、ボストンへ向けて撤退するイギリス軍を追ってかなりの損害を与えた。スミス遠征隊はコンコードからレキシントンに向かう途中で、ヒュー・パーシー指揮の増援隊の援護を受けた。総勢約1,700名となった遠征隊は撤退中も激しい銃火に曝されたが、最終的にはなんとかチャールズタウンまで辿り着いた。

  • イギリス軍は軍事機密を保つことに失敗し、敵対的地域での作戦行動に必要な速度にも欠けていた。結果として武器弾薬の押収はほとんど失敗した。イギリス軍の多くはボストンに撤退できたが、その夜からマサチューセッツ民兵が周辺地域を抑えて、ボストン包囲戦の始まりとなった。

  • 「一発の銃声が世界を変えた」("shot heard 'round the world")という有名な言葉はラルフ・ウォルド・エマーソンの「コンコード賛歌」に出てくる。

【米】1776年01月10日、トマス・ペインフィラデルフィアで執筆した政治パンフレット「コモン・センス(Common Sense、「常識」の意)」の初版が1部2シリングで販売され、1000部印刷された初版がたちまち売り切れる。その後3ヶ月で12万部を売り切り、その年の末までに56版を数え15万部が売れた。

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  • 植民地の権利を守らない英国の支配から脱し、アメリカが独立するという考えは「Common sense(常識)」であると説いた。英国王政の起源をノルマン・コンクェストに求め、人民の支持なき王の「神聖性」を否定しようとする一方、英国経済からの離脱が経済に悪影響を与えるとの懸念に対し「独立によって自由貿易を採用すれば、より合衆国経済は繁栄する」とした。

  • この本を読むまでジョージ・ワシントンが植民地独立に反対の立場だった事は有名である。

    ジョージ・ワシントン(George Washington、1732年〜1799年)

    バージニア州出身の軍人、政治家、黒人奴隷農場主、米国初代大統領(任期1775年〜1783年)。妻であるマーサ・ワシントンは貞淑で公式の儀式をきちんと行って先例を開いたため、初代ファーストレディと見られている。

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    1754年、フレンチ・インディアン戦争(1755年〜1763年)の開戦を招いた前哨戦に従軍。戦闘が本格化するとオハイオ領土奪還を試みたイギリス軍のブラドック遠征(1755年)、デュケイン砦のフランス軍排除に成功したジョン・フォーブスの遠征隊(1758年)に参加した。

  • 独立宣言が発布されるとトマス・ペインペンシルベニア連隊に入隊し、将軍付の秘書・副官となった。ワシントンに紹介されて2年間その下で働き「危機(Crisis)」と呼ばれる一連の小冊子や論文記事を出版し続ける。1777年4月から1779年1月までは連邦議会外務委員会の書記をつとめ、1779年11月にはペンシルベニア州議会の書記に任命された。この時滞納されていた賃金1690ドルを支払われると、ペインはそのうちの500ドルをワシントン軍に寄付した為、この例にならう者が続出。議会による銀行設立が可能になったという。1780年3月にペンシルベニア州議会が可決した奴隷廃止法案の前文を書き、7月4日にペンシルベニア大学から名誉博士号を贈られた。1784年には、独立に対する貢献により、ニューヨーク州よりニューロッシェルの農園を贈られている。

【米】1776年07月04日、アメリカ独立宣言が第二回大陸会議(the Continental Congress)によって採択される。

福沢諭吉訳 アメリカ独立宣言

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【葡】【蘭】【普】1778年(露蘭端普)オランダ総督オラニエ公ウィレム5世(Willem V van Oranje-Nassau, 1748年~1806年)が武装中立同盟(League of Armed Neutrality)創設に至る動きに参画。

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  • 1776年にアメリカ独立戦争が始まるとオランダは表向き中立を取りながらアメリカを密貿易で支援してきた。やがてそれが発覚して英国との関係が険悪化する。

  • アメリカ独立戦争を背景とする英国の対米海上封鎖(中立国船舶捕獲宣言)への不満が高まり、まずは1778年に中立国スウェーデンが中立国船舶の保護を訴えた。そしてさらに翌1779年にはイギリスの政策に対抗してロシア女帝エカチェリーナ2世アレクセーエヴナ(Yekaterina II Alekseyevna 1729年~1796年)が中立国船舶の航行の自由と禁制品以外の物資輸送の自由を宣言を行う。

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  • この提唱による参加国は北欧を中心にロシア・スウェーデンデンマークプロイセンポルトガルの5か国。植民地政策でのイギリスとの対立や、当時盛んになった啓蒙思想に共鳴したことが同盟参加の鍵となった。この同盟の結成により、アメリカ独立戦争は国際化し、フランス・スペイン・オランダからも宣戦布告されていたイギリスは孤立する結果となり、アメリカの独立を間接的に支援する形となった。

  • 武装中立同盟には、フランス経由で独自に訪米してジョージ・ワシントンの下で監察長官を務め、アメリカ軍のために最初の軍事教練本を書いたシュトイベン男爵の母国プロイセンも参加していた。フリードリヒ2世(Friedrich II 1712年~1786年)の戦争初期の支援(英国の港を経ずしてアメリカとの貿易を始める事に興味を示し、プロイセンでアメリカの代理人が武器を買うことを認めたりしている)は当時のアメリカでも大変評判が良かった。

    シュトイベン男爵=フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン (Friedrich Wilhelm Ludolf Gerhard Augustin von Steuben、1730年~1794年)

    アメリカ独立戦争ではジョージ・ワシントン将軍に仕えた。大陸軍に軍隊の訓練と統制の基本を教えたことでその功績を知られている。

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    • プロイセン王国の陸軍士官。33歳になった1763年、ほんの思いつきで陸軍大尉のまま除隊。翌年、ホーエンツォレルン・ヘッチンゲンの王宮で執事となった時に男爵号を贈られた。

    • 廷臣として1771年にお忍びでフランス王国へ行く王子に同行。この時は借金できることを期待していたが資金造りに失敗し、負債を抱えたまま1775年にドイツへと帰国。

    • 運命を変えるべく仕事を求めてオーストリアや、バーデン、フランスなどの国外軍隊に求職活動を行う。そしてパリにベンジャミン・フランクリンが居るのを知って、アメリカの大陸軍ならば仕事が見つかるに違いないと考えた。

    • 1777年夏にパリに向かった時には幸運にもフランス陸軍長官のクロード・ルイの紹介状を得た。ルイはプロイセン参謀本部員として訓練に関わったシュトイベンの潜在的な能力を十分認識していたのである。フランクリンからワシントンに宛てた手紙の中では「プロイセン王に仕えた中将」とシュトイベンの軍歴にしては大げさな言い方で紹介されている。旅行費用を集めてマルセイユから出港し1777年9月26日、ニューハンプシャーポーツマスに到着。12月1日にはボストンで法外に歓待された。大陸会議は当時フィラデルフィアを追い出され、その年の冬と翌1778年2月5日にはペンシルベニアのヨークで開かれていたが、シュトイベンもこれに同行。大陸会議は当面無給でシュトイベンの志願を認め、2月23日、バレーフォージにいたワシントンに付くように指示した。

    • シュトイベンは英語を話さなかったが、フランス語で何人かの将校と話ができた。アレクサンダー・ハミルトンナサニエル・グリーンはこの面で大きな助けになった。この二人はシュトイベンが兵士の訓練計画を作るのを助け、3月には総司令官の許可を取り付けた。1781年にはイギリス軍のジョン・アンドレ少佐に対するスパイ容疑で軍法会議に出席。同年、少将としてヨークタウンの包囲戦に参加した。

    独立戦争の終了後、幾つかの州から土地の提供申し出を受けたが、最終的に大陸会議が年金$2,500を負担。1783年にアメリカ市民となった。

  • さらにフリードリヒ2世はアメリカの成功を予言し、アメリカ合衆国を認知することを約束し、フランスと同様にアメリカの外交官を受け入れた。プロイセンはロシアなど隣国がアメリカに派遣する軍隊を起ち上げる時に干渉し、フリードリヒ2世はプロイセン国内でアメリカのために徴兵することを禁じた。また、プロイセン国内の道路をアンハルト=ツェルプストの軍隊が通ることを禁止し、ハウ将軍が1777年から1778年にかけての冬期にワシントンの軍隊を潰すために必要としていた部隊の到着を遅らせている。

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    とはいえバイエルン継承戦争(1778年~1779年)が勃発すると、フリードリヒ2世はプロイセンと英国の関係に神経質にならざるを得なくなった。アメリカの船舶はプロイセンの港に接近することを止められる様になり、パリ条約(1783年)に調印するまで公式にアメリカ合衆国を認知していない。戦後になっても「アメリカ合衆国は共和国として運営するには大きすぎるので、間もなくイギリス議会に代表を送って大英帝国に復帰するだろう」と予言したりしている。

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【米】【仏】1778年2月6日、仏米同盟条約が締結される 

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  • アメリカ独立戦争の最中に結ばれたフランスとアメリカ合衆国の間の防衛同盟。イギリス軍に攻撃された場合に互いの軍事的な支援を無期限に約束した。

  • パリのオテル・ド・クリヨンで、フランス国王ルイ16世と、当時のアメリカ合衆国政府を代表する第二次大陸会議の代表団が仏米友好通商条約と共にこの条約に調印したもの。原則として1800年のモルトフォンテーヌ条約の締結まで続いたとされるが、ルイ16世フランス革命で処刑された事もあり、1798年にはアメリカ合衆国議会が条約を無効としたりもしている。

  • 1776年にアメリカの英国領13植民地が独立を宣言した時、最も同盟者として有望だったのは皮肉にも「七年戦争フレンチ・インディアン戦争」でアメリカ大陸領土の大半を英国に奪われたフランスだったのである。なにしろ英国と長い間敵対関係にあり、植民地争奪戦でもライバル同志だった訳であり、それに加えてフランス指導層自身もまた1763年のパリ条約締結で英国勝利に終わった「七年戦争フレンチ・インディアン戦争」の結果を覆すべく新たな英国との戦争の機会を虎視眈々と狙っているという有様であった。

  • フランスの外務大臣エティエンヌ=フランソワ・ド・シュワズール公爵(Étienne-François de Choiseul 1719年~1785年)はスペインとの同盟し、フランスとスペインの連合軍で英国を侵略する道を模索していた。それで1770年に起こった南大西洋フォークランド危機に際して戦争を始める用意を整えていたが、ルイ16世が英国海軍の動員を恐れてショワズールを解任した事から、計画は一旦白紙に戻る事となる。

  • 最初に条件の模索を始めたのはアメリカのジョン・アダムズで、それは当初独立達成後の植民地とフランスの間で締結されるべき通商条約という体裁を取って射た。とどのつまり植民地へのフランス軍進駐やアメリカ各地におけるフランスの権限回復までは盛り込まない立場である。そしてついに1776年09月25日の大陸会議ではベンジャミン・フランクリン率いる在欧使節団(独立戦争期間中、パリ社交界を中心に遊泳つつ欧州諸国との外交交渉に奔走)に「アダムズが起草した条約を元にフランスに条約締結を求めよ」という命令が下り、その原稿は条約モデルとして正式な認可を受ける事になったのである。かくして使節団はフランスとの互恵的貿易関係の樹立を目指す一方で直接軍事的支援を受ける可能性については強く否定する方針を採択する事となった訳だが、逆をいえば貿易に際しての最恵国待遇をどう扱うか、付加的な軍事支援を求めるかなどは交渉上のオプションとして残される事になった。さらに使節団にはスペインの代表団にアメリカがアメリカ大陸上のスペイン領への野望が無いことを確信させ、米西同盟を締結する事も奨励されていた。

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  • こうした動きに対するフランスの態度は決して一貫していた訳ではない。アメリカが独立宣言を発し英国がボストンを明け渡したという情報がもたらされた時期には同盟に積極的だったが、英軍がニューヨークでジョージ・ワシントン軍に勝利したという情報が届くと当時のフランスの外務大臣だったシャルル・ブノワ・グラヴィエ、ヴェルジェンヌ伯爵(Charles Gravier, comte de Vergennes 1717-1787)がアメリカとの正式な同盟条約の調印を延期している。当時ベンジャミン・フランクリン率いる使節団は、機密通信員会(フランスにおけるアメリカ側の同調者を盛り上げるために大陸会議が設立した機関で、アメリカ植民地が目指す共和主義的単純モデルのフランス社会におけるアピールを主目的としていた)の援助もあってヴェルジェンヌから秘密の借金と内密の軍事援助を引き出す事には成功したが、スペインとの同盟交渉段階にあったので、アメリカとの正式な同盟条約を巡る締結交渉の無理強いは控えざるを得なかったのだった。

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  • 好機が巡ってきたのは英軍がサラトガの戦い(1777年9月~10月)がジョン・バーゴイン将軍(John Burgoyne 1722年~1792年)指揮するイギリス軍の降伏に終わって「サラトガ方面作戦(英軍によるカナダからの侵攻作戦)」の遂行が不可能となり「英国がフランクリンに秘密の和平提案を行っている」という噂が大きく流れたタイミングだった。フランスはこの機会を捉えてスペインとの交渉を放棄し、アメリカとの正式な同盟の検討を始めることにしたのである。ルイ16世から公式の同盟交渉を始める了解を得た事からアメリカは1778年1月にイギリスの和解提案を拒否し、友好通商条約と同盟条約の調印に繋がる交渉をまとめる事に成功したのだった。

  • フランスがアメリカ合衆国を独立国家として公式に認め、同盟条約と友好通商条約を結んだ事を英国政府に正式に伝えた4日後の1778年3月17日、英国はフランスに宣戦布告余儀なくされる。そしてこれが引き金となって1779年4月12日には(フランスにジブラルタル、フロリダ、メノルカ島の奪取に際しての援助を約束させた)アランへス条約調印後のスペインも英国との戦争状態に突入(スペイン帝国領内で同様の叛乱が相次ぐ事を恐れるスペインは、ブルボン家族同盟の一員としてフランスと一緒に戦う事に同意しただけで、この時点ではアメリカ合衆国独立を承認していない。とはいえ以前から既にニューオーリンズの重要な港を通じてアメリカの反乱軍への武器やその他物資の供給を続けてきたいた)。さらには1780年12月には英国がネーデルラント連邦共和国に宣戦布告する事態となる。

  • フランスはアメリカとの同盟条約調印後、大陸軍が喉から手が出るほど必要としていた武器、弾薬、制服を供給する様になった。さらには西インド諸島での軍事力を増強する事で英国がカリブ海方面にも軍事資源を裂かざるを得ない状況を生み出したしジャン=バティスト・ド・ロシャンボー伯爵(Jean-Baptiste Donatien de Vimeur, comte de Rochambeau 1725年~1807年)の指揮する10,800名の陸軍とフランソワ・ド・グラス伯爵(François Joseph Paul, marquis de Grasse Tilly, comte de Grasse 1722年~1788年)の指揮するフランス艦29隻がジョージ・ワシントンラファイエット侯爵の指揮する軍隊と合流した事は、バージニア植民地東岸における英軍最終拠点だったヨークタウンの包囲戦(1781年10月)でチャールズ・コーンウォリス卿(Charles Cornwallis, 1st Marquess Cornwallis、1738年~1805年)の率いる英軍を降伏に追い込む上で重要な役割を果たし、北アメリカ大陸における地上戦を実質的に終わらせる事に成功したのだったことができた。英国はこうしたそれぞれの敵国に対して個別に和平交渉を行おうと画策。しかし結局スペイン、フランス、アメリカ合衆国は協調姿勢を崩さず1783年のパリ条約で戦争が終結する事になったのだった。

    マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ, ラファイエット侯爵(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette、1757年~1834年)

    第3代アメリカ大統領となったジェファーソンは、独立戦争を通じてラファイエットを良く知っており、「ラファイエットの弱点は人気と評判に対して飢えきっていることである」と評している。「両大陸の英雄」と称賛されたときから、いつも人々の注目を浴びることを願い、それがその後の彼の行動を律したといわれている。

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    1757年、代々、軍人で戦死が多い裕福な貴族(侯爵)の子として、オーヴェルニュ地方のシャヴァニアック城(現在のシャヴァニアック=ラファイエット)で生まれた。父は彼が2歳の時、七年戦争に従軍して、先祖たちと同様に戦死している。

    14歳で軍隊に入隊し、16歳で、2歳年下の貴族(公爵)の娘と結婚。

    1776年、アメリカ独立戦争が勃発すると支援を求めて来仏したベンジャミン・フランクリンに会ってその考えに共鳴し、周囲の反対を押し切って自費を投じて船を購入し、義勇兵としてアメリカへ渡った。19歳の時のことである。

    1779年にはフリーメイソンへ加入。参入儀式をジョージ・ワシントンが執り行った。いったん帰国後、1780年、帆船「エルミオンヌ号」に乗って、再度アメリカに渡った。

    アメリカの独立を決定的にした1781年のヨークタウンの戦いで重要な役割を果たす。翌年フランスに帰国すると「新大陸の英雄」と称えられ、一躍名声を得た。

【英】1780年12月00日(英蘭)「第四次英蘭戦争」が始まる(~1784年)…フィールディングとバイラントの事件中に「禁制品をフランスに運ぶ」オランダ商船拿捕を契機に英国がネーデルラント連邦共和国に宣戦布告する事態となった。

 

  • オランダが国力を伸ばし世界有数の海洋貿易国になるにつれ、もう一つの海洋貿易国たる英国との権益の衝突が激化していった。

  • 1652年から1674年にかけて3度も英蘭戦争があったのはその影響だったが英国はこの戦争でで世界貿易のリーダーシップを手に入れるどころか1688年の名誉革命でオランダ総督ウィリアム3世(William III of Orange 1650年~1702年)をメアリー2世の共同統治者として迎える破目に陥っている。

  • しかし皮肉にもオランダの大商人がロンドンを新たな貿易拠点として使用するようになると本国の経済成長が次第に鈍化し始めた。さらにはウィリアム3世がいかなる英蘭艦隊もみなイギリスの指示に従い、オランダ海軍はイギリス海軍の60パーセントに抑える様に定めた事、1688年から1713年にかけて今度は英国と同盟してフランスやスペインとの戦争を2回も通算20年にも渡って続ける破目に陥った事などが重なって国力が著しく疲弊し1720年頃には既に世界海洋貿易のリーダーシップを英国に明け渡し始めていたのだった。
    *ウイリアム3世が1688年から1702年までの20年余、英蘭に同君統治状態をもたらした事が全ての発端という辺りが皮肉めいている。

  • 1780年頃となると英国の総生産量はとうとうオランダ共和国のそれを上回るまでになっていた。
    *開戦前のオランダ海軍は20隻程度の船しか保有しておらず、艦隊も存在しない有様だったし、あわてて18世紀最後の25年間だけで95隻の戦艦を建造したとはいえ英国がそれに倍する艦隊を保有し続けた結果、数的優勢が覆る事はなかった。

  • しかしそれでもオランダは自国からの移民も多い北アメリカ大陸における貿易では一定の存在感を示し続けてきたし(というより商売独占を阻む厄介者としてフランスやポルトガルなどと一緒くたに英国から厄介視され続けてきた)まだしばらくの間はケープ・コロニー、セイロン島、マラッカの様なアジアとヨーロッパを結ぶ交易上の重要拠点を保持し続けていく。
    *ここで意外と無視出来ないのが江戸幕藩体制下において「南蛮旗本」と呼ばれてきた日本との関係かもしれない。その日本ですら幕末期に入ると開国を通じて欧米列強の存在を知るとオランダを見限ってしまうのである。
  • こういう状況に業を煮やした英国はプロイセンの軍事的圧力を理由に共和国を保護国化し、その植民地も全てまとめて手中に収めようと考える様になった。その一方でオランダにとって英国との同盟関係の喪失は現政権の不安定化およびプロイセンやフランスといった隣接する軍事大国的脅威の増大を意味した。
    *こうした流れがオランダ系移民と英国系移民の利害が衝突したボーア戦争1880年〜1902年)、ひいては大日本帝国を味方に引き込んでの日露戦争へとつながっていく。

【米】1778年04月07日(米仏) ベンジャミン・フランクリンがパリでヴォルテール(Voltaire, 1694年~1778年)をフランマソヌリに入会させてフリーメイソンの一員とする事に成功する。

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  • 百科全書派の学者の一人でもあったヴォルテールは人間の理性を信頼し、自由を標榜する啓蒙思想家の立場から前時代的封建的権威主義の痕跡を数多く引き摺るフランスの政治や政府や文化を嫌悪する一方で英国王立教会の「言葉(つまり聖書、教会、古典といった権威の引用)によらず(実験や観測に基づく証拠の積み重ねで事実を確定していく)」というモットーに集約される科学主義や経験哲学に強い憧憬心を抱いていた。

  • 理神論の立場からの教会の腐敗やキリスト教の悪弊に対する弾劾は徹底しており、没後、パリの教会が埋葬を拒否したほどである。結局、スイス国境近くに葬られたが、フランス革命中の1791年にジロンド派の影響でパリのパンテオンに移された。

  • ところでフランクリンと供に独立宣言や合衆国憲法制定に関与したロバート・R・リビングストンもまたフリーメイソンであり、ニューヨーク・グランド・ロッジの最初のグランド・マスターになった(1784年~1801年)事からマンハッタンにあるグランド・ロッジの図書室にはリビングストンの名前が付けられている。

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【米】1780年06月15日 ジョン・アダムズを中心に起草されたマサチューセッツ憲法憲法制定会議を通り、住民がこれを批准。

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  • ジョン・アダムズサミュエル・アダムズおよびジェイムズ・ボードインが「1780年憲法の序文」に次のように記した。「我々マサチューセッツ市民は感謝の心で偉大な世界の創造者の善意を認め、神の摂理の中で慎重にまた平和に機会を与えられ、不正や暴力や驚愕も無く、原始の明白な厳粛なる盟約を誓う。新しい市民政府の憲法を作るにあたり、我々自身と子孫のために神の示すところに従い、マサチューセッツ憲法として権利の宣言と政府の構築に同意し規定し成立させるものである」

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  • マサチューセッツ奴隷制を廃止する最初の州になった。新しい憲法では政治の場に宗教を介入させないこととしたが、教会を支持させるために地方税の納入を義務付けた。非会衆派教会に所属するものは自分の教会に税金を払った(どこの教会にも属さない者は会衆派教会に払った)。バプテスト指導者アイザックバッカスはこの条項に激しく抵抗し、人々は宗教を支援する財政的なことについては選択の自由があるべきであるとした。

    アイザック・バッカスと分離主義

【英】【米】1783年、パリ条約(Treaty of Paris)締結によってアメリカ独立戦争終結

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  • 英国は米国の独立を承認し、ミシシッピ川より東をアメリカ領とした。なおアメリカに与したスペインおよびフランスとの間にはヴェルサイユ条約が締結されている。
    *ベンジャミン・ウエストが描いた使節団の絵画は、自国の敗北を恥じたイギリス使節団がポーズを拒否した為、未完成となった。

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  • この条約の草稿作成はジョン・ジェイが手掛けた。

    ジョン・ジェイ(John Jay 1745~1829年)

    ニューヨークの豊かな商人家庭出身でアメリカ独立戦争期間中は外交官として活躍した人物。後にハミルトンの連邦党に合流し連邦最高裁判所の初代長官となる。

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  • この直後からアメリカ側では「仏米同盟条約中で軍事同盟を終わらせる期日を決めなかったのは失敗だったのでは?」という声が挙がり始める。特に財務長官アレクサンダー・ハミルトンを首魁と仰ぐ連邦党は1789年に始まったフランス革命を条約を公式に破棄する機会と捉え動き始めた。
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  • 実際ヨーロッパ諸侯の間にはフランス革命中にルイ16世が処刑された時点でこの条約は破棄されたと考える合意が存在したが、当時アメリカ合衆国大統領を務めていたジョージ・ワシントントーマス・ジェファーソンは「フランスの支配体制が変わっても条約は有効なままである」と宣言する。しかしながらそれに続いたワシントン大統領の中立宣言と1794年に制定された中立維持法によって実質的に条約の軍事条項は無効化。この事が二国間の関係を次第に悪化させていくのだった。
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【米】1783年04月03日(米仏端)ベンジャミン・フランクリン使節団がパリで中立国のスウェーデンとアメリカ・スウェーデン友好通商条約を締結する事に成功する。

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さて、ここまでの歴史の流れを要約してみましょう。

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  • ホイッグ党員の寡占支配がもたらした「ウォルポールの平和(1713年〜1739年)」時代が終焉した英国においては、七年戦争(1754年〜1763年)が始まると海洋派トーリーが主導する形でフレンチ・インディアン戦争(1755年〜1763年)やプラッシーの戦い(1757年)などの対フランス植民地戦争が遂行され、国庫が空になってしまう。
    *この事が「英国のアメリカ植民地に対する課税強化」につながるが、実際に負わせようとした額はそう大きなものではなかった。むしろ英国政治を「内向き志向」の絶対王政復活派や「英国ファースト」派の下院議員が掌握した事が事態悪化の端緒となったとも。

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  • 英国のアメリカ植民地に対する課税強化は1764年に始まるが、歴史のその時点ではサミュエル・アダムズ(Samuel Adams、1722年~1803年)やジョン・ハンコック(John Hancock、1736年〜1793年)の様なマサチューセッツ州の一部急進派が騒いでいるに過ぎず、しかも彼らは一度たりとも主流派とならなかった。
    ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin, 1706年~1790年)らによる英国本土への植民地待遇改善要求自体はそれ以前の時代にまで遡るが、当時のアメリカ植民地においてはまだまだ「王党派」が多かったのである。その意味においては「ボストン虐殺事件(Boston Massacre、1770年)を契機としてアメリカ独立戦争が始まった」とは到底いえない。

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    *こうした意味合いにおいて「ボストン派」の果たした歴史的意義は幕末日本において尊王攘夷熱を全国に伝える役割を果たした水戸藩士のそれに近いが、彼らに対する現代アメリカ人の評価は(東海岸のインテリ層への伝統的反感も手伝って、極左思想支持者を除いて)あくまで低い。

    船戸与一「神話の果て(1985年)」

    アメリカ合衆国の政治を左右するのは民主党でも共和党でもない。大統領がどっちの党から選ばれるかなどほとんど重要ではない。問題はどっちの地域から選ばれるなのだ。

    第35代大統領J.F.ケネディ(任期1961年~1963年)が暗殺されてからワン・ポイント・リリーフのG.フォード(任期1974年~1977年)を除いてL.ジョンソン(任期11963年~1969年)、R.ニクソン(任期1969年~1974年)、J.カーター(任期1 1977年~1981年)、R.レーガン(任期1981年~1989年)と全て南部諸州から選出されている。

    アメリカ合衆国を建国以来支配してきたのはシカゴからボストン、ニューヨークに到る東部エスタブリッシュメントだったが、今やそれは南部諸州にとって替わられた。政治、経済、文化を含めた壮大な権力移動(Power shift)が完了したのだ。南カリフォルニアからテキサスを経てノースカロライナに到る南部諸州を支えているのは農事産業、軍事産業、電子技術産業、石油・天然ガス産業、不動産・建設産業、観光・レジャー産業で、これらは六本の柱(Six pillars)と呼ばれている。

  • 米国独立戦争(American War of Independence、1775年〜1783年)を真の意味で不可避としたのは「ボストン茶会事件(Boston Tea Party、1773年12月16日)」に対する懲罰的態度をを剥き出しにした英国政界における絶対王政復活派や「英国ファースト」派下院議員の「内向き志向」だった。それと当時の欧州を席巻していた啓蒙主義に立脚した「英国人」トマス・ペインのアジテーション

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    *まさしく冒頭で掲示した毛沢東定理いうところの「既得権益を甘受してきた階層は、没落の可能性を目の当たりにしただけで容易く革命家供給階層に変貌する」なる冷徹な分析そのもの。こうした歴史的段階に至って初めて後日「ジェファーソン流民主主義」を支える事になる「家父長制や奴隷制の伝統を守るべく中央政権の介入に抵抗する」農園主達の動員が果たされたのだった。

    ミニットマン - Wikipedia

    アメリカ独立戦争当時の民兵アメリカ独立戦争当時から組織され、招集されると1分(minute)で駆けつけるという意味で、ミニットマンと呼ばれるようになった。

    • アメリカ独立戦争当時のアメリカ人男子は、狩猟によって食料を得るために、幼少期から射撃術を習得している者が多かった。彼らの使用するライフル銃は、入植当初こそドイツ製が主流を占めていたものの、次第にアメリカ大陸東部の森林地帯に適合するような改造が施されてゆき、戦争開始時には弾丸の種類こそ旧式の球状ではあったものの、その初速は731メートル/秒を超えるまでになった。

    • また、狩猟に長けた者の多くはアメリカ先住民の持つ生活の知恵を借用し、衣類や道具類に関しても、軽量簡素で目立たないものを好んで利用した。以上の理由から、独立戦争当時のアメリカ民兵には、潜在的に狙撃手としての能力を備えた者が多数存在したものと思われる。

    • つまり、ミニットマンの主要な軍事行動は、単独、あるいは少数グループによる狙撃であった。これならば、正規の軍事訓練を受けていない者でも、狩猟経験さえあれば戦場に投入することが可能だった。ただし、当時の猟銃は装填に時間がかかったため、平地で自身の姿が敵兵に見える状況下での狙撃は自殺と同義だった。

    従って、ミニットマンが最も活躍した場所は東部諸州の森林地帯だった。森の地形を熟知した民間狙撃兵は、イギリス軍に多大な被害をもたらした。

    *とはいえ現代アメリカ人は「奴隷制農場主こそがアメリカ独立運動の主役だった」という現実を直視するのを好まない。最近ベンジャミン・フランクリンアレクサンダー・ハミルトンといった「かかる歴史的現実と無縁だった国父」にスポットライトが当たる様になったのは、そうした経緯に基づく。それはそれとしてイタリア統一三傑が「マッツィーニ(思想家)」「ガリバルディ(軍人)」「カブール(現実主義政治家)」であり、明治維新三傑が「吉田松陰(思想家)」「西郷隆盛(軍人)」「大久保利通(現実主義政治家)」だったとされる枠組みにおいてアメリカ独立戦争三傑が「サミュエル・アダムス(思想家)」「ジョージ・ワシントン(軍人)」「アレクサンダー・ハミルトン(現実主義政治家)」だった事になる展開は揺るがない。

  • また「アメリカ植民地連合の最終的勝利」が(英国の対米海上封鎖(中立国船舶捕獲宣言)に煮え湯を飲まされた)オランダ総督オラニエ公ウィレム5世(Willem V van Oranje-Nassau, 1748年~1806年)やスウェーデンデンマーク、政治的に大英帝国と複雑な利害関係にあったロシア女帝エカチェリーナ2世アレクセーエヴナ(Yekaterina II Alekseyevna 1729年~1796年)やプロイセンらによる武装中立同盟(League of Armed Neutrality)結成、さらには当時英国のライバルだったフランス絶対王政との仏米同盟条約(1778年2月6日)とも密接に関係してくる事実もまた否定は出来ない。当時はある意味、世界史を「主権国家間の競争」が動かす様になった最初の世紀であり、ベンジャミン・フランクリンやジョン・アダムスはまさにそうした背景を巧みに利用して英国を敗北へと追い込んでいったのだった。
    *そして19世紀に入るとフランス革命戦争(1792年〜1802年)やナポレオン戦争(1803年〜1815年)ポルトガルやオランダの脱落が決定的となり「総力戦」を経験した大英帝国帝政ロシアの間における覇権争いが激化する展開に。

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かくして「欧州王侯貴族の私利が国際外交を動かす時代」からの脱却は、フランス革命勃発を待たずして既に始まってしまっていたとも。

ある意味、この景色こそが「主権国家から国民主権国家への移行」なる歴史展開の原風景だったとも。