諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ジェントルマン資本主義】イギリスの帝国主義化と大日本帝国の軍国主義化の思わぬ相似点

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はてなブログアクセス解析によれば、私のこれまでの投稿のうち「ジェントルマン資本主義(gentlemanly capitalism)」関連のものが安定して検索されている様です。そもそも、それは一体何だったのでしょう? 

本記事では、最初に「自由貿易帝国主義論」と「ジェントルマン資本主義論」のそれぞれの概要に関して記述した上で、それぞれの理論とその相違について言及してゆきたい。

それでは、まず「自由貿易帝国主義論」の概要に関して説明したい。「自由貿易帝国主義論」とは、20世紀半ばにロビンソン、ギャラハーの二人によって打ち立てられた理論であり、19世紀を貫いて存在した「自由貿易」による帝国主義(非公式な支配を多様した)という一連の連続性論である。ロビンソン、ギャラハーの二人は、その理論の中で、当時イギリス帝国が進めた自由貿易を通じた、東インド会社の統治によるインドや、19世紀の南アメリカ統治を事例として挙げ、「非公式帝国」という概念を用いて、イギリスの帝国主義の膨張について説明した。

この理論は、レーニンが提唱した「帝国主義」の理論を覆す内容であった。レーニンは、産業資本が蓄積(集積)されて、独占化した産業資本が生まれ、その独占化した産業資本と銀行資本が融合した金融資本が国内よりも高い利潤率を求めて植民地に資本輸出され、そこから超過利潤を獲得するという仕組みを説明し、1880年代から資本主義は、その最高の発展段階として帝国主義に移行していったと主張した。またそのさらに発展段階として、金融資本は国家と結びつき、国家に対して、資本輸出された地域を政治的に併合していったものとして、帝国主義を捉えた。そのような点で、ロビンソン、ギャラハー自由貿易帝国主義論は、「資本主義」が「帝国主義」を生み出すと捉えたレーニンの古典的帝国主義論を、覆すような内容であった。

彼らの理論の背景には、前述してきたような、これまでの伝統的な帝国主義論、とりわけマスクシストによる「帝国主義・19世紀末段階論」、また「帝国主義・経済要因(資本輸出)論」への強い不信感があった。彼らはまた、19世紀を「反帝国主義的な自由貿易主義の時代」と「帝国主義の時代」に2分する捉え方を批判し、そこに連続性を求めた。彼らは、そうした段階論の批判という文脈の中で、彼らは「19世紀末のアフリカの分割」に焦点をあて、「戦略論」、「現地の危機論」を生み出し、イギリス帝国は、周辺(現地の危機)に中心部(本国)の政治が巻き込まれていったとう解釈を展開した。また、ロビンソンはこれに関連し、帝国主義支配が可能かどうかは周辺側に現地協力者(コラボレーター)がいるかどうかであるという、周辺理論も展開させた。これに関して、具体的な事例を挙げるとすると、アフリカにおける植民地支配が争いの元となるボーア戦争や、インド統治が挙げられる。特に、19世紀後半から20世紀前半においてイギリスが推進した世界政策である3C政策の際の、3都市、カイロ(Cairo)、ケープタウン(Capetown)、カルカッタ(Calcutta 現コルカタKolkata)のうちの一つである、ケープタウン(Capetown)におけるオランダとのケープ植民地をめぐるボーア戦争は、まさに、周辺に中心部が巻き込まれていったという状況を指ししめていると言えよう。そのような理論の展開から、彼らは「自由貿易帝国主義論」として「自由貿易」と「帝国主義」の膨張の関係性を説明した。

次に扱う「ジェントルマン資本主義論」はケイン、ホプキンズによって打ち立てられた理論である。彼らはその理論の中で大きく以下二点について、強く言及している。一点目は、1699年の名誉革命の時から1850年までの次期においてイギリス政治経済の中で重要だったのは、資産資本家、いわゆる中産階級またはブルジョワジーと呼ばれる層ではなく、ジェントルマン(土地貴族階級)であったという点である。そして、二点目は、そのジェントルマン(土地貴族階級)たちは、1850年以降に、ロンドンのシティの金融サーヴィス部門の人々と結びつき、イギリスの政治経済をコントロールしたという点である。そのような文脈で、彼らは19世紀末でのイギリス経済構造の変化(金融・サーヴィスへの)と帝国膨張の間に強い因果関係があることを主張した。

彼らもまた、これまで構築された、イギリス帝国史観における「資本主義」「産業資本主義」「余剰資本」等の概念を払いのけ、理論の展開していった。彼らはインガムが主張したシティは単なる金融の中心地ではなくなり、商業・サーヴィスを中核とする、いわゆる「国際商業資本主義」の活動拠点であり、「帝国」と「シティ」の関係性を、より広域な世界的な商業的諸関係の一部としてみなす考え方をとった。

また彼らの理論の中で登場する、1850年以降の、ロンドンのシティの金融サーヴィス部門の成長については、C.リーが、その点の説明をしている。リーは英国の成長地域を3つのタイプに分類する。第一は、産業革命が始まったとマンチェスターランカシャーを中心とする繊維産業地域である。第二はウェールズと北部を中心とした鉱山業・金属加工業地域であり、第三は、ロンドンを中心としたイングランド南東部のサーヴィス産業地域である。リーが、成長の最も急速であったと注目したのは、第三の首都圏サーヴィス地域であった。こうしたイギリス経済は、非常に大きな統一セクターとしてのサーヴィス経済の存在と、他のいくつかの地域的なかつ、規模の小さい製造業経済の存在との、対極的かつ多元的な様相みせてゆくこととなる。彼の捉えたイギリス経済のシティと、他の周辺地域との関係性、「地域性」というのは、まさにケイン、ホプキンズが主張した「ジェントルマン資本主義論」の根底に根ざしている考え方と言えるであろう。

これまで、述べてきたロビンソン、ギャラハーらによる「自由貿易帝国主義論」とケイン、ホプキンズらによる「ジェントルマン資本主義論」の理論を比較して捉えると、後者である「ジェントルマン資本主義論」は、ロビンソン、ギャラハーが、「自由貿易帝国主義論」の中で主張した「非公式帝国」を発展させたものと言えるが、ロビンソン、ギャラハーが「周辺」にイギリス帝国拡大の要因を見出したのに対し、ケンズ、ホプキンズは「シティ」というイギリス帝国中枢にその要因を求めた点で、大きく異なると言えよう。ジェントルマン資本主義論では、そのジェントルマン(土地貴族階級)たちのシティにおける経済的、政治的活動を、その要因として捉えている。

以上をもって「自由貿易帝国主義論」と「ジェントルマン資本主義論」の概要及び、それぞれの理論の違いとしたい。

これまでの投稿内容と重ね合わせてみましょう。
大英帝国の功罪 Empire

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  • そもそも英国ジェントルマン階層の経済基盤は伝統的に羊毛輸出産業であり、17世紀以降は(砂糖成金)やネイボッブ(nabob、インド成金)がそれに加わった。16世紀と18世紀にピークを迎えた囲い込み(enclosure)も含め、ここまでが「英国式農本主義」の時代だったといえる。

    *英国政治史の興味深い点は、歴史のこの時点において既に責任内閣制の萌芽が見て取れる辺り。それは「国王元気で留守がいい」伝統の産物でもあった?

  • こうした「国保勢力」に反旗を翻したのがマンチェスターやランカスターを中心とする(機械式工場制に基づく綿織物の大量生産に成功した)新興産業階層で「1850年以降のジェントルマン階層の金融シフト」は、自由貿易を志向する彼らに対する「保護貿易既得権益として甘受してきた地主層の政治的敗北」を契機としている。
    *ここで興味深いのが「マンチェスターが歴史的経緯からオランダ系移民を大量に迎えた地域」だったという事。そこに最初から「発想の差異」が派生したという考え方。

    *(東インド会社がもたらす)キャラコの禁輸は、むしろマンチェスターの「キャプテン・オブ・インダストリー」達に勝機を与えたといわれている。

    *フランス絶対王政下における宮廷料理改革(地中海沿岸地方から輸入される高級香辛料からの脱却)、および江戸幕藩体制化下における木綿・生糸/絹織物・砂糖の国産化に対応するプロセスとも。

    *ただし、こうした軽産業の黄金期がそのまま続いた訳ではない。

  • そして大英帝国は「ロンドンのシティの金融サーヴィス部門の成長」を中心とする「国際商業資本主義時代(19世紀後半〜20世紀初頭)」に突入する。ユーラシア大陸全体を舞台にロシアとの間に「グレート・ゲーム」が展開した時代。自由党アイルランド独立問題に振り回されて自滅する一方、英国保守党が南アフリカボーア戦争1880年〜1902年)を泥沼化させ、大英帝国そのものを衰退させていった時代。

    *ここまでの英国史を「スペインを商業上の仮想敵と設定しつつ、オランダとの関係清算を図ってきた」と要約する向きもある。

    ボーア戦争に取材したホブスンの「帝国主義論(Imperialism: A Study、190年)」は、そこに「(帝国の介入を待望する)植民地の冒険商人や現地入植者と(内政面の行き詰まりを華やかな海外進出によって隠蔽したがる)内地政治家の不誠実な同盟が帝国のリソースを恣意的利用によって食い潰していく政治的犯罪行為」を見出した。その現実に根差したリアリズムと異なり、何の根拠もなく「資本はその基本的な性質に基づいて拡大再生産を繰り返しながら膨張する。それが集中と独占をもたらし、金融資本が産業資本と融合した寡頭的支配、すなわち帝国主義的段階に入ると腐敗が加速し最終的には死滅する」と決めつけたレーニンの「資本主義の最高段階としての帝国主義(1917年)」は、まさしく総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)の徒花に終わる事になった。

    *やがて国際金融の中心地はロンドンからニューヨークに推移。日英同盟(1902年〜1923年)に基づいて日露戦争(1904年〜1905年)を戦った大日本帝国が、その一方でロンドンにおいて戦争借款を断られ、ニューヨークでそれを獲得した時期が一つの転回期に当たっている。

こうして見返すと「関東軍革新官僚に引き摺られる形で戦争の泥沼へと突入していった)大日本帝国末期の軍国主義」って、実は「東インド会社や「アフリカのナポレオン」セシル・ローズに牽引される形で本国を衰退に向かわせた)英国型帝国主義」と数多くの共通点を抱えている気がしてきます。
*この見立てにおいては「(フランス革命を途中から乗っ取って恐怖政治を敷いた)ロベス・ピエール率いるジャコバン派=(ロシア革命を途中から乗っ取って民主集中制を完成させた)レーニン率いるヴォルシェビキ=(ヴァイマル共和制が独裁化し強権体制化していく過程を途中から乗っ取った)ヒトラー率いるナチス=(昭和維新を途中から乗っ取って総力戦体制を完成させようとした)大日本帝国革新官僚」といった重ね合わせが成立する。ただし大日本帝国におけるそれは、他と比べて恐ろしく「完成度」が低かったとも。

案外重要なのは戦中期の1943年時点において、食糧増産計画が一向に進まない事に業を煮やした軍部が「農地国有化」計画を打ち出したところ、「聖戦(日中戦争と太平洋戦争)遂行は、自らの既得権益を守り抜く為の戦い」と認識していた農民層の猛反発を食って即日撤回と謝罪に追い込まれたエピソードかもしれない。

  • 当時の日本には確実に戦争の泥沼化を(満州国で着実に成功を収めつつあった)ソ連型経済に移行する好機と見て取った人間もいた。

  • しかしながら、そうした発想は開拓民や兵士の供給階層だった当時の日本農民の逆鱗に触れ、決して遂行を許されなかったのである。

ちなみに戦間期に日本を訪れたナチズムを熱狂的に支持するオーストリア人ジャーナリストは、日本がまだまだ自由主義経済の痕跡を完全に払拭出来ないでいる事に衝撃を受けている。大日本帝国は「ナチス・ドイツ基準において」全体主義国家のあるべき姿を全くといってよいほど体現していなかったのであった。
*この事実が現代日本人にもたらすのは「希望」なのか「絶望」なのか…

そういえば戦時下の大日本帝国においては、英国東インド会社に関する研究書が禁書扱いにされました。当時の大本営が最も恐れていたのは、このファクターからの批判だったのかもしれません。