諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【社会進化論(Social Darwinism)】②「社会段階発展説」の歴史。

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今回はこの投稿の続き。

以下の説明からの再出発となります。

政治体制が封建制絶対王政共和制へとかわり、一方で産業革命による産業構造の変化によって不安定な立場に置かれた労働者階級ブルジョア階級という新しい階級構造が誕生した19世紀。一方では科学の発達によりニーチェのように無神論的な考え、個人主義自由主義的な思想もまた誕生していた。そういった社会状況において「種は不変の存在ではなく進化する存在である」とする生物学的な考えと「政治体制は変わっていく」という歴史哲学的な考えが同時代に現れ、この二つの思潮が合流したものが社会進化論となったのである。

実際19世紀欧州で盛んになったのは「歴史段階発展説」ですが、これにはそこに到るまでの長い歴史があります。そもそも実際の歴史から「見掛け上」読み取れるのは「(ローマ教会を正当化する)教学(~10世紀)→(ローマ法を研究する)法学(11世紀~14世紀)→(教学と科学研究の分裂を防ぐ方便としての)アリストテレス主義(14世紀~16世紀)→(教会の護持する地動説と決別して天文学大航海時代の航海能力発展に寄与した)科学実証主義(15世紀中旬~17世紀中旬)/(主権国家の形成と戦争維持に貢献した)経済実証主義(17世紀~18世紀)」といった流れなのですが…

こうして全体像を俯瞰してみると欧州における近代の準備は到底、単純な「社会段階発展説」に帰せられる様な内容ではない様にも映りますが、それまで「国王と教会の権威の絶対視」を強要されてきたのに、いきなりそれから解放されたばかりの人々がそれについて直接語れる様になるまでには相応の時間を必要としたのでした。

スコットランド啓蒙主義の「段階的発展説」

フランス人哲学者ヴォルテールをして「われわれは文明に関するアイデアのすべてについて、スコットランドに頼っている」と言わしめたスコットランド啓蒙主義。歴史分野では文明の「自然発展」に関するメタ社会学的な議論を持ち出す傾向が強く、自らはそれを「自然な歴史」あるいは「推測的な歴史 (onjectural history)」と呼んでいた。このアプローチを創始したのはデビッド・ヒューム (1757年)で、アダム・ファーガソン (1767年)、ジョン・ミラー (1771年)、アダム・スミス (1776年) らが発展させるうちに発展段階説のフォーマットが整えられた。

たとえばスミスは、4 つの経済段階を通って進歩するものとして歴史を見て政治や社会構造はそれに伴うとした。

狩猟採集段階-田園遊牧民段階-農業封建主義段階-製造業段階

最後の製造業段階こそがスコットランドがこれから入ろうしている段階で、それは分業と商業拡大によって達成されるとした。

スコットランドの学者達は同時に「叙述的」歴史も追求。デビッド・ヒュームHistory of England(1754年~1762年) を皮切りにロバートソン(1759年, 1769年)やファーガソン(1783年)が試み、そのスタイルがイングランドにおいてもエドワード・ギボンローマ帝国興亡史(1776年)に採用される事になる。

アダム・スミスの「四段階発展説

  • 狩猟採集段階
  • 田園遊牧民段階
  • 農業封建主義段階
  • 製造業段階

そう、始まった段階では「発達段階説(推測的歴史)」も「叙述的歴史」も(あくまで実地調査に基づく検証を前提としない)ディスクール(語り口調)のバリエーションに過ぎず、大切なのは「スコットランドはこれからどうすべきか」なる結論だけだったのです。

コンドルセ公爵の段階発展説

フランス革命期の内紛の犠牲となった「古典自由主義の父」フランス人数学者コンドルセ侯爵(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年~1794年)は遺言ともいうべき「人間精神進歩の歴史(1792年)」の中で科学は天文学、占星学、純粋数学、神学といった人間の精神と社会活動から離れている学的領域から、やがて、文学、経済学、論理学、社会科学といった人間の行動と生活を論理的に究明する人文科学を経て、心理学や社会科学に到達すると書き残した。

かかる「歴史上次第に開放されてきた人間精神」の発展を最大限妨げない方法として「古典自由主義の大成者」英国人数学者ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill,1806年~1873年)が「自由論(On Liberty,1859年)」の中で「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならず、これを妨げる事が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定される」なる考え方を提言。事実上これが古典敵自由主義(Classical Liberalism)のモットーとなる。

コンドルセ伯爵の「三段階発展説

  • 天文学、占星学、純粋数学、神学といった人間の精神と社会活動から離れている学的領域
  • 文学、経済学、論理学、社会科学といった人間の行動と生活を論理的に究明する人文科学
  • 心理学社会科学

ジョン・スチュアート・ミルは「コンドルセ侯爵の遺言」のうち(ある種のディスクールに過ぎない)歴史観ではなく、その精神そのものを継承したといって良いでしょう。

③サン=シモンの「段階的発展説」

産業者(les Industriels)」理念を提唱したサン=シモン(Claude Henri de Rouvroy、Comte de Saint-Simon,1760年~1825年)は「産業階級の教理問答(catechisme des Industriels,1823年〜1824年)」の中で独特の民族史観を語っている。

  • フランスの王侯貴族の先祖はノルマン人である。彼らはある日突然フランスにやってきて現地のゴール人を力ずくで支配下に置いた。とはいえ武力に加え優れた文化や技術も持っていたので、征服は必ずしも悪い側面だけではなかった。
  • しかしゴール人は慎重に全てを学びながら次第に農場経営や商業や工業の実務を握る様になっていく。遂には法律の制定や運用、所領の出納管理といった支配体制の根幹まで丸投げする様になり、ノルマン人の末裔達は単なる高級遊民となり果ててしまう。
  • そして今やゴール人の末裔達は遂にフランスの殆どを掌握する事になった。彼らこそまさに未来のフランスを担うべき産業者達(les Industriels)である。今はバラバラに分断されているが、団結さえすればこの国を手に入れられるのである。

その一方でシャルルマーニュ大帝の末裔を自認する元大貴族(すなわちフランク人)だったサン=シモンは王制の存続については比較的寛容で「産業者間の利害対立を巡る紛争の調停役として有用なら残せばいい」なる立場を表明している。

サン・シモンの「三段階発展説

  • フランク人によるゴール人の支配。
  • ノルマン人によるゴール人の支配(国王自体はフランク人の末裔)。
  • ゴール人の独立(フランス国王は有用なら存続)

この「君主の存在を容認する」現実主義的態度が彼の思想を七月王政(1830年~1848年)に容認させ、かつ「馬上のサン=シモン皇帝ナポレオン三世を実践者として獲得させたのです。

またこうした展開の背景にはフランスにおける民族史観教育の充実があったのでした。

またサン=シモンが歴史に名を残した理由は、まさにその歴史的進化主義に賭ける熱意にあったとも。

1816年8月、18歳となったコントは秘書を募集していたサン=シモンの下で助手を務めるようになった。毎月300フランを支給される契約となっていたが、サン=シモンが破産状態で経済難にあることを知るとコントは俸給を辞退して、数学の家庭教師をしながらサン=シモンを支えるようになった。それだけの魅力を知ったためである。

サン=シモンは伯爵位を持つ貴族出身の人物で革命前までは裕福な生活をしていたが、革命の動乱の中で零落しており、コントが出会ったときにはすでに56歳で困窮した老人であった。16歳で軍に入隊してアメリカ独立戦争に参加して名を馳せた人物で、フランス革命期には投機家として活動していたが、投機を危険視するフランス政府によって逮捕され、リュクサンブール宮殿の監獄に投獄されている。知人や友人をギロチン刑に奪われていくなか、ロベスピエールテルミドールの反動で処刑され、釈放された後もナポレオン帝政、王政復古を経験。当然ながら啓蒙思想が説く悪戯な観念に反感を抱いており、老齢に達しながらも情熱に燃えて多くの弟子を抱えて「反革命(合理主義に基づく「秩序と進歩」)」を柱に科学・産業・政治の再編を模索していた人物であった。ナポレオン戦争終結した1815年以降、ジャン=バティスト・セイをはじめとする気鋭の学者達とサロンで交友し「これからは無意味な革命や戦乱の時代ではなく、産業と経済発展の時代である」と説いて回った。その様な人物が愛弟子コントの新しい「」となり、科学的手法による「社会再組織」という考え方を彼にもたらしたのである。

コントが1817年初夏に友人ヴァラに送った手紙。

君は、まだ誤った政治方針を信じているのです。この方針は、僕も君と同じように信じていたもので、それを捨ててから一年にしかなりません。僕の見るところ、君の政治学は、人権の理論、『社会契約論』の思想、前世紀の啓蒙思想家の体系を基礎としているものです。君に言いたいのは、こういう理論、こういう思想、こういう体系は、誤って理解され、今日では虚偽となっているということです。こういう重大な主張を一通の手紙で証明することがほとんど不可能では君にも分かるでしょう。

しかし、せめて、次の事実―今まで、君は気づかなかったでしょうが、これこそ正しい哲学の鍵なのです―に深く注意してもらいたいと思うのです。即ち、すべての人間の知識は、世紀から世紀へ発展していくものであるということ、或る国民の各時代の政治制度や政治思想は、その時代のその国民の知識の状態に相対的たらざるを得ないものであるということです。もし君がこの主張を歴史的知識に照らして真面目に検討してくれたら、それをすぐに受け容れてくれるでしょう。また、もし君が受け容れてくれたら、或る世紀の政治学は、その前の政治学ではあり得ず、従って、18世紀政治学は、まさに18世紀に相応しいものであったため、もはや現代に相応しい政治学ではないという結論が必然的に出てくることが分かるでしょう。要するに、君のすべての一般思想、特にすべての社会思想は、根本的に誤った思想、即ち、絶対者の思想に感染しているのです。この世界に絶対的なものは一つもなく、すべて相対的なのです…

君にお勧めしますが、誤った政治思想の方針を脱却するには、まず、すべての科学のように、政治学においても、すべては観察された事実を基礎とすべきものであると考えることで…一切の曖昧な仮定的な思想を除去できるでしょう。ルソーの「社会契約論」のような本は、あまり読まないようにし、ヒュームの「国史」やロバートソンの「カール5世」のような歴史書をもっと読むことです。それから経済学の勉強、即ち、アダム・スミスセイの経済学の著書の勉強を始めることです。

こうしてスコットランド啓蒙主義が始めた「進歩史観」が、サン=シモン経由でオーギュスト・コントにインストールされる展開を迎えるのです。

とはいえ…

オーギュスト・コントの「段階的発展説」

オーギュスト・コント(Isidore Auguste Marie François Xavier Comte,1798年~1857年)」は著書「実証哲学講義(Cours de philosophie positive,1830年~1842年,全六巻)」で、当時の社会状況を説明する際にこの時代大きな発展を遂げていた生物学(生理学)の諸概念を援用。社会動学社会静学という二つの社会学を構想した。ダーウィンの「種の起源(1859年)」自体は発表されていなかったが、ラマルクなどの進化論が知られており、進化についてのアイデアを取り込んでいる。

  • 社会静学有機体としての社会を研究する。
  • 社会動学は「三段階の法則」に従って発展してきた社会発展を研究する。

こうした考えはジョン・スチュアート・ミルを通じてイギリスにも伝えられることとなった。

オーギュスト・コントの「三段階の法則(Loi des trois états)」

人間は精神の変化に従って神学(想像的)-形而上学/哲学(理性的・論理的)-科学(観察、実証的)の三段階を経る。

社会は軍事的(物理防御重視)-法律的(基礎的ルール重視)-産業的の三段階を経る。

オーギュスト・コントは「コンドルセ侯爵の遺言」の段階発展説を形式的に受容しただけで、その精神、すなわち数理的直感に基づく「人間の最大限の解放が人類の最大限の発展につながる」という考え方を受容する事を拒絶。その代わり「(人間を律する至高の倫理規範としての)実証主義哲学」を提唱しましたが、その全体像が姿を表す事はなく、またそれを完成させようとする後継者も現れずに終わります。従って(王制の存続を容認する)サン=シモンと袂を分かってまで樹立した「(他の産業者に超越する形で実証主義哲学を修めた科学者集団が国家を統治する)科学者独裁構想」もまた絵に描いた餅に終わらざるを得ず、後世におけるA・E・ヴァン・ヴォークト非Aの世界(The World of Null A,1948年)」「非Aの傀儡(The Pawns of Null-A/The Player of Null-A, 1956年)」やフランク・ハーバートデューン(Dune)シリーズ(1965年~1985年)」の様な衒学的スペース・オペラ(ワイドスクリーン・バロック)に題材を提供するだけに終わった感が強いという有り様に。

  • ちなみに「非A」のAはアリストテレス哲学の略。(それを超越するという)当時流行していたルフレッド・コージブスキー一般意味論からインスパイアされる形で導入された。カルト主教スレスレだし、実際A・E・ヴァン・ヴォークトには新興宗教団体それに入信していた時期もある。「数理を全否定可能なほど正しい何か」についての追求は、しばしばそういう結末を迎えるものである。

在野の人」ながらその言葉に耳を傾けた人が多かったのは「(不当な理祐による)エコール・ポリテクニーク校中退」という肩書きのせいだったとも。その一方でそのエコール・ポリテクニーク校の教授だったコーシー(Augustin Louis Cauchy, 1789年~1857年)の不遇を受けたエヴァリスト・ガロア(Évariste Galois, 1811年~1832年)やニールス・ヘンリック・アーベル(Niels Henrik Abel,1802年~1829年)は生前認められないまま夭折し、再評価されたのはずっと後世になってからとなったのでした。

ある意味、当時のフランス・インテリには「教育の平等(に名を借りた学歴差別)」概念の受容があったばかりで、古典的自由主義の精神そのものは伝播しなかったとも。

⑤フリードリヒ・リストの「段階的発展説」

19世紀ドイツの経済学者フリードリッヒ・リスト(Friedrich List, 1789年~1846年)はドイツ歴史学派に属し国民的体系(national system)、国民的改革体系(national innovation system)の諸理論を発展させた。欧州統合の理論的先駆者であり、その思想が欧州経済共同体の礎となる。

国民国家

同時代の歴史家アダム・ミュラーと「国家は人間が基本的に必要とする一つのものであるのみならず、人間が必要とする至上最高のものである」という見解を共有していた。国家は国民を保護しなければならないだけではなく、国民性のあらわれそのものであった。「全世界をわがものとするも、国民性が損なわれることあらば何の得るところがあろうか」とも書いている。

発展段階論

国民が経過しなければならない発展段階を5つに分けた。原始的未開状態牧畜状態農業状態農工業状態農工商業状態である。その国民がどの発展段階にいるかによって、国家が果たすべき役割は異なる。諸国民の間には無限の差異があり、どの国家でもそれぞれの使命を持つ。未開国民を文明化し、弱小国民を強大化するのがすべての国家の使命である。

保護貿易

かつての重商主義をドイツの情勢に適用し、ドイツを国民として統一し、自由な国民とするためには単なる農業国であってはならず、商業国として独立するためには自国の工業を興さなければならない、と主張。国際貿易で後進工業国がイギリスに太刀打ちするためには、国家による干渉が必要であるとの結論は、アメリカのアレクサンダー・ハミルトンなどの見解とも一致する。

農業制度論

イギリスは工業のための原始蓄積として、農村から過剰人口が流出するにまかせたが、「ドイツはイギリスのようにはなり得ないし、またそうなってはならない」。そしてそのために国内の零細農業を排し、中産農場主を創出する政策を説く。彼らの存在は社会主義への防壁となり、国家を偉大なものにする保障となるであろう。

政治経済学

政治経済学」は、国民にそれ自身の使命を自覚させるためにあり、経済状態が推移するにつれて変化しなければならない。経済学は静態的なものではなく、より現実の変化に適合したものへと発展しなければならない。アダム・スミス自由貿易のために十分成長したイギリスのためにその経済学を考え出したが、それは「国民」「国家」の役割を度外視する「万民経済学」である。ドイツの現在の発展段階に適合した学問ではない。

歴史学

歴史が示す実例を用いて国家への警告とする。ある経済政策、国家の行動が妥当かどうかの基準を普遍的な経済理論にではなく、過去の事実に求めるというこの態度は、シュモラーなどのドイツ歴史学派に受け継がれた。

フリードリッヒ・リストの「五段階発展説

  • 原始的未開状態
  • 牧畜状態
  • 農業状態
  • 農工業状態
  • 農工商業状態

同じドイツ歴史学派に属するカール・ビュッヒャーの「三段階発展説

  • 家内経済
  • 都市経済
  • 国民経済

批判的継承とはいえスコットランド啓蒙主義の影響が色濃く感じられます。

ハーバート・スペンサーの「段階的発展説」

社会進化論は19世紀のハーバート・スペンサーに帰せられる。

  • 思想史的に見れば、目的論的自然観そのものは古代ギリシア以来近代に至るまでヨーロッパには古くから見られるが、人間社会が進化する、あるいは自然が変化するという発想はなかった。
  • しかしラマルクダーウィンが進化論を唱え、スペンサーの時代にはそれまでの自然観が変わり始めていた。

スペンサーは進化を「一から多への単純から複雑への変化」と捉え自然(宇宙,生物)のみならず、人間の社会、文化、宗教をも貫く第一原理であると考えた。

  • 自然は一定した気温でなく寒冷と温暖を作り、平坦な地面でなく山や谷を作り、一つの季節でなく四季を作る。
  • 社会も単純な家内工業から複雑化して行き機械工業へと変化する。
  • イギリス帝国が分裂してアメリカが出来る。
  • 芸術作品も宗教の形態も何もかもすべてが単純から複雑への変化を辿る。

そして、こうした流れ全体を単なる雑多化ではなくより大きなレベルでの秩序形成とみなすのである。

  • 未開から文明への変化もまた単純から複雑への変化の一つである。
  • その複雑さ、多様性の極致こそが人類社会の到達点であり目指すべき理想の社会である。
  • こうした社会観に立つあるべき国家像は自由主義的国家でしかあり得ない。

このような考え方が当時の啓蒙主義的な気風のなかで広く受け入れられたのだった。

スペンサーの段階的発展説

  • 単純(画一的で貧相)
  • 複雑(多様で豊か)

21世紀になってLGBTQA層が「男女の性別は離散的に存在するとは限らない」説明用に準備したQieer球の概念と比較すると統計学における「平均を中心とする分散(確率論的揺らぎ)」の概念が組み込まれていないので、全体像が何だか大変な事になってしまっています。

この楽観主義を「ホイッグ史観的」と揶揄する向きもあります。

またスペンサーの社会進化論は伝播の過程で変質し、適者生存・優勝劣敗という発想から強者の論理となり、帝国主義国による侵略や植民地化を正当化する論理になったという指摘も受けています。

帝国主義という時代区分は概ね1870年代から第一次世界大戦(1914年~1918年)までとされる。我々はこの区分を世界政策の時代と把握し、その意味でそれ以前のより欧州中心主義的で自由貿易主義的だった時代、戦闘的膨張傾向の少ない、まだ全体としては国民国家的だった時代と区別しようとする。その一方でこの基準に基づいてそれに続いた全体主義的体制、ブロック経済の時代とも切り分け様とする。しかし歴史的時間区分とはあくまで便宜上の規定に過ぎず、実際の時間は常に連続して流れているものである。

社会学者で哲学者でもあるハンナ・アーレントは「全体主義の起源(The Origins of Totalitarianism、1951年)」の中で「帝国主義というのは、ブルジョワジーが資本主義の競争・生産原理を政治の世界に持ち込む事によって起こった」と述べているが、これは帝国主義イデオロギーの核心を突いている。つまり軍事力に支えられた経済拡張という考え方で、今日我々が社会的ダーウィズム、あるいは政治的ダーウィズムと呼んでいる世界観とほぼ一致する。国家、民族、種族間の「生存競争」および強者の権利を指導原理として、いわゆる弱肉強食による自然淘汰を人間社会にも応用しようと思想傾向が広まり、社会的影響力を備えるに至ったのは他ならぬこの時代であった。

言い換えれば倫理的衝動、責任感、使命感、そして名誉欲といった要因が競争略奪の精神と奇妙な形で結びついて、それを推し進めたのである。そしてこうした動機がイデオロギーに擬結すると「白色人種の使命」とか「世界ミッションに対する揺るぎない信念」といった体裁をまとう様になった。無論こうした考え方の中にどれほど多くのいかがわしい魔力と政治利権が潜んでいるか、イデオロギー/脱神話化の教育を受けた読者諸賢に多くの説明は不要であろう。だからこそここではあえて、そうした使命感的イデオロギーが当時は熱狂と献身と信念に支えられ、実行に移されたという確固たる事実を指摘せざるを得ない。自分達は普遍的文明を東アジアに流布しているのだ、などという西洋人の人道主義的使命感は、もちろん純然たる実務家、現実的政治家、マルクス主義者にとって言語道断の暴論であろう。だが当時はそれが初めは素朴かつ強引なやり方で、後には反省の色を濃くしながら控えめに、ただし決して疲れ衰える事なく実践に移され続けたのだった。

何故ならこの原理は当時れっきとした科学理論に基づくとされ、その最盛期には実際に科学理論的性格を帯びていたからである。経済学、地政学、人類学、人口論統計学などが帝国主義イデオロギーの形成に参画し、その正当性を理論付けた。国家と国民、君主と臣下といった言い方に変わって、次第に「生存権」「広域」「新天地」「中心地域」「場所不足」「土地獲得の必然性」といった言葉が使われだした。それまではロマノフ家とホーエンツォルレン家のやりとりとか、ペテルブルグ政府とベルリン政府の関係だとか、ロシアとドイツの外交といった事があれこれ取り沙汰されてきたが、19世紀に入るとやおら「東方政策」などという言い回しが台頭してきて世の中を席巻してしまったのである。

以下はWikipedia社会進化論」の項目からの引き写し。

  • ドイツに進化論を広めた功績で知られるドイツ人生物学者エルンスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel, 1834年~1919年)は国家間の競争により、社会が発達していくという内容の社会進化論を唱えた

  • 英国の人類学者フランシス・ゴルトン卿(Sir Francis Galton,1822年~1911年)は、人為選択(人為淘汰)によって民族の退化を防ぐために劣った遺伝子を持つものを減らし、優れた遺伝子を持つものを増やそうという優生学を提唱し、これは人種差別・障害者差別の正当化に使われた

    本来社会進化論的観点から言及されたものではなかったが、ニーチェ思想が与えた影響も無視できない。ルサンチマン超人力への意志といった概念であるが、遺稿力への意志は妹エリーザベトの反ユダヤ主義による恣意的な編纂の面が大きい。これらは後世のナチズムによって原義とは違った解釈がなされ、優生学的政策の他、ドイツの生存圏を拡げ維持する理論として展開された

マルクス主義経済学の「段階的発展説」

共産主義もまた社会進化論パラダイムに則っていた。現にカール・マルクスは、進化論が唯物史観の着想に寄与したとしてダーウィン資本論の第一巻を献本している。マルクスは、あくまで社会進化論が資本主義の存続を唱う点と一線を画し、資本主義自体が淘汰されると説いている。

小谷汪之「ダーウィンと唯物論」

唯物論エンゲルスは『種の起源』が出版されると、すぐさま読んで、その感想を盟友マルクスに次のように書き送っている(マルクスへの手紙」、1859年12月11日か12日付)。「ところで、いまちょうどダーウィンを読んでいるが、これはなかなかたいしたも
のだ。「目的論」はこれまである一面にたいしてまだうちこわされていなかったが、
これがいまなしとげられた。(大月書店『マルクス・エンゲルス全集』29巻409ページ)」
ダーウィンが「目的論」的自然観を打ち壊したことによって、唯心論(あるいは観念論)に最終的な打撃が加えられたとエンゲルスは評価したのである。マルクスが『種の起源』を読んだのは出版後一年たった1860年11月12月のようだが、『種の起源』によって「はじめて、自然科学のなかの『目的論』が、致命的な打撃を受けた」とラサール宛の手紙(1861年1月16日付)に書いている(同、30巻467ページ)。

弁証法唯物史観に従ったマルクス経済学の「段階的発展説

同じくスコットランド啓蒙主義を批判的に継承したバリエーションの一つですが(フリードリッヒ・リストら歴史学派の流れかもしれない)、この種の言説の多くが「後進国たる自国に産業革命を導入するにはどうしたら良いか」を主題とするある種の方便(すなわちそれを無視しても成立する主張)だったのに対し、むしろそうした自助努力を放棄して嘲笑し(マルクス自身英国に亡命して以降故国ドイツの事を考えなくなり英国の展開だけを対象に「資本論」を執筆)「先に資本主義を実現した国家から共産主義化していく」と勝手に予言した挙句の果てに外す(実際に共産主義革命が起こったのはむしろ帝制ロシアや中華民国といったさらなる後進国だった)という醜態を曝す展開に。

⑧ラッサールの「段階的発展説」

マルクス主義と異なり「社会民主主義の父」ラッサールは暴力革命を前提とせず、社会は連続的変化があるのみと考えました。「既得権の体系全2巻(Das System der erworbenen Rechte、1861年)」に記された「私的所有」概念の段階的発展史は以下。

  • 古代に現れた政教一致体制…神殿に君臨する神官団が領土も領民も全人格的に代表する権威主義体制。経済人類学者カール・ポランニーいうところの「政治も経済も全て社会に埋め込まれている段階」であり、ラッサールはまずその登場自体を「神が領土と領民を全人格的に代表する段階からの脱却」と捉えた。神殿を破壊されても信仰を存続させるにはそれを個人単位で内面化するしかないが、それは神殿の求心力を低下させるので衰退/消滅(キリスト教徒には分かりにくい例だが、要するにヘブライ民族が辿った運命を示唆している模様)。

  • 中世に現れた封建体制…「領主が領土と領民も全人格的に代表する権威主義体制」「ギルドが商業利権を全人格的に代表する権威主義体制」。国家が生命の安全や私的所有や商売の自由を保障する様になり、特定の庇護者に依存する必要がなくなって衰退/消滅。

  • 資本主義体…互いに個人として地主と小作人、資本家と労働者が対峙する社会。これがどういう帰結を迎えるか現段階では予想もつかないが、これまでの人類の歴史から考えてそう酷い事にはならないと信じるしかない。

弁護士だったが故の法的側面からのアプローチ。ラッサール自身は夭折してしまいますが、彼の後継者達はドイツ帝国からの相応の福祉の見返りに(収入制限選挙によって議会の議席を独占する)ブルジョワ階層と対峙する道を選択。国内外の「正統派マルクス主義」を激怒させます(19世紀末における修正主義の勝利)。こうして「ドイツ社会民主党(SPD)」の波乱の歴史は幕を開けたのです。

ラッサールによる「私的所有概念の段階的発展説

  • 未開状態(伝統的共同体の営みに全個人が埋め込まれている)
  • 古代神殿宗教(神殿の神官団が土地とそこに住む信者を全人格的に代表している)
  • 中世封建制(領主が領土と領民を、ギルドが全商権を全人格的に代表している)
  • 資本主義社会(互いに個人として地主と小作人、資本家と労働者などが対峙し合う)

歴史段階の切り分け方自体はマルクス主義経済のそれと重なってきます。あえてかもしれません。

⑨T.クーン「パラダイム論」への到達から逆算した「段階発展説」

ベルギーの認知心理学M・ドゥ・メイは「科学とは何か」「科学知識はどのような特質をもち、どのように獲得することができるか」をめぐる議論、すなわち「科学論」の発展を次の四段階にまとめている(ドゥ・メイ、1990年)。

  • モナド論的段階(古典的実証主義)…科学知識に関する素朴かつ古典的な見方である。また、おそらく多くの科学者は暗黙のうちにこの科学観を採用している。「モナド(単子)」は17世紀ドイツの哲学者ライプニッツの用語で「宇宙を構成する(それ以上の分割が不可能な)最も単純かつ完全な要素」とされる。科学者は、観察を通じて「モナド的事実=互いに切り離された単純な事実やデータ」を、収集し記録する。科学知識の体系はそのようにして集められたカタログのようなものとみなすことができる。こうして科学知識は科学者の営々たる努力を通じて確実に増大していき、カタログは日増しに分厚くなっていく、と考えられる。このような考え方は「実証主義(positivism=プラス主義)的科学論」と呼ぶことができる。

  • 構造論的段階(論理実証主義)…モナドな事実やデータは、実際上、単独では判別できないか、あるいは意味不明の場合が多い。経験によって得られた多くのモナド的な事実やデータの間に見出される何か特別の様式、すなわち論理ないし構造が、明らかにされて初めて意味が与えられると考えることができる。かくて第一次大戦後のウィーンに現れた「論理実証主義」と呼ばれる人々は「科学知識の本質=知識を知識たらしめている論理や構造」にあると考え、論理学や数学の助けを借りながら、科学知識の構造の分析に努めた。

  • 文脈論的段階(科学の科学)…1930年代頃から科学史家や科学社会学者らによって提出された見方で「科学や科学知識の本質=事実やデータから科学知識が生み出され、それらが利用されていく文脈」と考える。例えば個々の科学知識の成立と特定の文化的・社会的・経済的利害関心との関連が熱心な論議の対象となってきた。さらに「科学者集団」に関する数量的な研究も含めて、多くの社会学的研究がなされた。「科学という営みそれ自体を、さまざまな手法を用いて科学的に分析すること(科学の科学)」が精力的になされてきたわけである。しかし、科学をとりまく文脈は多種多様であり、科学の発展にとって、また個々の科学知識の成立にとって、どの文脈が決定的な役割を果たしたかは、しばしば確定し難い。
  • 認知論的・解釈学的段階(パラダイム)…1960年代初頭に提起されたクーンの「パラダイム」は従来の科学論に強烈な衝撃を与えた。一方1970年代以降認知科学の展開は、クーン以降の科学論との間に接点を作り出すに至った。なぜなら、「事実やデータは、観察者が選択した“世界モデル”に応じて、総合的に分析されて了解される」という認知科学における知見は、科学者も自らの世界モデルによって世界を分析し了解していることを強く示唆しているからである。実際、クーンの科学論の基礎になっている「パラダイム」とは、観察者=科学者の世界モデルに他ならないとみることもできるのである。さらに、晩年のクーン自身も気付いていたように「パラダイム世界モデルを通じての科学研究と科学知識の獲得のプロセス」に解釈学的解釈(hermeneutic interpretation)の可能性をみてとることもできる(クーン,1994年)。もし、このことを認めると自然を対象とした知識人間や社会を対象とした知識との間には、本質的な違いは存在しないことになる。

このように、現在の科学論は、パラダイム論の登場をきっかけにして、自然科学のみを対象とするのではなく、認知一般に、また、知識一般に開かれた論議の場となっているのである。

T.クーン「パラダイム論」への到達から逆算した段階的発展説

  • 近世(17~18世紀)~近代(19世紀~20世紀初頭)において主流だったモナド論的/神義論(Theodizee)的段階(古典的実証主義)
  • 第一次世界大戦(1914年~1918年)以降現れた構造論的段階(論理実証主義)
  • 1930年代頃から科学史家らが提唱を始めた文脈論的段階(科学の科学)
  • 1960年代初頭T.クーンが提言を開始し、1970年代以降認知科学の発展によって主流派の座を占める様になった認知論的・解釈学的段階(パラダイム)

これまで実在が確認されている「社会段階発展説」を拾い集めるとこんな感じになるという話。そんな感じで以下続報…