諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

映画「メッセージ」観てきました③ この作品における「未知との遭遇」とは?

今回は切り口を変えて「日本人のSF精神は英米人のそれに敵わないかもしれない?」という話題から始めたいと思います。

ところが海外では割とヘプタポッド(7本脚)が、この生物の仲間扱い。

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どこからこの違いが生じたのでしょうか?

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そもそも筋金入りのSF精神の持ち主なら、ヘプタポッド(7足脚)がロバート・A・ハインライン「宇宙の戦士(Starship Troopers、1959年)」における主敵アレクニド(蜘蛛に似た宇宙生物共産主義のメタファーとも)の様な「人類に対する不倶戴天の敵」と映っても、アーサー・C・クラーク幼年期の終り(Childhood's End、1953年)」における「オーバーマインド(主上心)」の様な「人類の進化を見守る優しい庇護者」と映っても駄目な気がする。

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  • ロバート・A・ハインライン「宇宙の戦士(Starship Troopers、1959年)」…戦争否定派からその軍国主義的思想を弾劾され「二等兵物語に宇宙服を着せただけ」と弾劾されたが、実は作中で述べられる「軍役なくして選挙権なし」なる思想の当時における最大の画期は「白人優越主義の崩壊=ダイバーシティ(多様化)到来の予言」にあった。なにしろ原作で次第に戦場英雄として名を為していく主人公のジョニー(ジュアン・リコ)からしてタガログ語母語とするフィリピン系。「軍事的効率が最優先とされる社会では能力主義が徹底され人種・性別による差別が完全に撤廃される」とし、ユダヤ人、日本人、ドイツ人、イタリア人、アラブ人、ヒンドゥー教徒(インド人)、インドネシア人、ヴェトナム人などあらゆる人種が性別に関係なく全く平等に活躍する。ただし「経済的成功」が「政治的成功」に直結すると「資本主義的腐敗」の温床となるので「軍役」が絡められている。
    *当時のリベラル層は「だが共産主義はこうした問題すべてを平和的に超克する!!」と反駁したが、実際の共産主義諸国はさらに酷い「(「宇宙の戦士」における人類の主敵たるアレクニドに揶揄された様な)国民を平等に人間扱いしない軍国主義国家(ただしインテリ=ブルジョワ階層が政治的特権を独占しているという点においてはリベラル層の理想郷)」だったのである。

    それは「白人優越主義や父権主義の黄金期」として回顧される事が多い1950年代アメリカに登場した最大級の痛烈なアンチテーゼに他ならなかった。確かにそれは誰の目から見ても「ユートピア」には映り様がない世界ではある。しかし誰もが絶対的に拒絶すべき「ディストピア」だったのだろうか?
    *歴史上の最大の皮肉、それはこうした「経済至上主義=軍事至上主義」に対する弾劾者として台頭してきた筈の新左翼運動やヒッピー運動が最終的に「白人優越主義や父権主義のへの憧憬心」からの脱却に失敗し、黒人公民権運動も「白人を皆殺しにするまで人類平等の理念は達成されない」とする黒人至上主義や「男尊女卑は黒人が守り抜くべき固有文化」と主張する保守主義に転落していった辺り。「アメリカにおけるリベラリズムの死」は元来、そこまで遡って考え直さねば解決のし様がない「ゴルディアスの結び目(Gordian Knot)」なのだった。

  • アーサー・C・クラーク幼年期の終り(Childhood's End、1953年)」…この作品で提言された「(将来人類を待つ進化が)未来を想い出させる」なる画期的ビジョンは、そのイマジネーションが「(宇宙的意思の代理人に過ぎない)オーバーロード(上帝)の容姿や振る舞い」にまでしか及ばず「(宇宙的意思そのものというべき)オーバーマインド(主上心)」は完全に想定外だった辺りに独特のアイロニーが仕込まれていた。
    *人類は本当に自らがその進化段階に到達するまで「ああ、こういう感じだったのか(So, this is what it feels like.)」と実感する事は出来なかったのだった。

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    そしてテッド・チャン「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1999年)」全体を彩るラナ・デル・レイの楽曲めいたにおける主題の一つであるメランコリックな色調はこれを等身大な形で継承した作品とも。
    こちらの世界観の肝は「(現実が過酷過ぎて)誰にも(上から目線で)優しく振る舞う余裕なんてない」点にあり、そこに絶望だけでなく救済も潜んでいる辺り。自らは「進化」から取り残され続ける「産婆役」のオーバーロード(上帝)、はからずしも自分の生涯全てを覗いてしまった言語学者…

    428夜『地球幼年期の終わり』アーサー・C・クラーク|松岡正剛の千夜千冊

②さらにホラー方面にも造形が深ければ 「エクソシスト(The Exorcist、1973年)」がどういう作品だったかも思い出すべきかもしれない。

「実は『エクソシスト』は少女に悪魔が取り付く話だから大ヒットしたのではない」と看破したのはたしかスティーブン・キングだった。

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本当は、それまで可愛かった娘が、思春期(12歳)になった途端、汚い言葉を吐き、親に暴力をふるい、セックスをし、自傷行為に及ぶようになる、という親の恐怖を描いていたから、あれほどヒットしたのだと考えたのである。

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そしてその思いつきがスティーヴン・キングの処女作「キャリー(Carrie、1974年、映画化1976年)」を生んだとも。

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 *「親にとっては娘の思春期突入は怪物化」「何が正常で何が異常かは主観として存在するに過ぎない」といったテーマ性は以外にも新海誠映画「君の名は(1916年)」とナ・ホンジン監督映画「哭声/コクソン(2016年)」の共通点だったりする。特に後者は深夜父親が娘のネグリジェを捲り上げて「瘢痕」を確認する場面で娘が「私の父親は深夜、娘のパンツを懐中電灯で覗き見する変態だ!!」と叫び出す場面などでそれを強く意識している。

  • ちなみに大人と同じくラナ・デル・レイに熱狂する米国少女達は「Video Game」なんて「客観的に醒め切った」陰鬱な作品など選ばない。国際SNS上で彼女達が私によく回覧してきたのは以下。

    *この辺りの歌詞世界を把握してると、どうして彼女達が「NORZA(2011年)」のみを選んで(韓国芸能界が韓民族精神を再注入して世界にそれを広める広告塔に仕立て上げた)2ne1の以降のアルバムにも(Sufaceのテーマ曲をこのアルバムから採択した)マイクロソフトのCMも(スキャンダルの連続でジャスティン・ビーバーを喪ったスクーター・ブラウンが仕掛けた)CLの単独デビューも猫またぎしたか浮かび上がってくる。「RAVE(熱狂状態への没入)」をこよなく好む彼女達が最も大嫌いなのは「子供の喜ぶ危険な遊戯を換骨奪胎して安全化して懐柔しようとする大人の上から目線」であり、彼らは揃って無意識のうちにこの絶対触れてはならない逆鱗に触れてしまったのだった。


    *そういえばオーストラリア制作のミュージカル映画「Les Miserables(2012年)」に熱狂しながら「Do You Hear The People Sing」は大嫌いと公言して憚らなかった彼女らが好んだのは「Red and Black Song」だった。これもこれで「挽歌」の一種ではある筈なのだが、あえて「不協和音の除去」が行われてない辺りが気に入ったらしい…

    *もちろん一番喜んで回覧してたのは、これだったのだけれど。

  •  この点においてテッド・チャン「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1999年)」に描かれる母娘関係は割とガチ過ぎて2016年の映画化に際しても完全に映像化されたとは言い難いところがあったりする。


    そもそも「時空間を超越したエイリアンとのファーストコンタクト」と「親と子の邂逅」を重なる仕組みそのものが空前絶後過ぎて、すこしでも無理すると読者が次々と脱落?
    テッド・チャン「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1999年)」

    断片1

    あなたがはじめて歩くことを覚えるときから、わたしたちの関係は一方通行的であることを、わたしは毎日のように見せつけられることになるでしょう。あなたはしょっちゅうどこかへ駆けだしていくようになり、戸枠にぶつかったりひざをすりむいたりするたびに、わたしはその痛みをわがもののように感じてしまう。知覚神経は痛みをはっきりと伝えてくるのに、運動神経はこちらの命令をまったく伝達してくれない、わが身の延長部としての放浪の脚が一本、育ちはじめているような感じがしてくる。なんと不公平な。これでは、わたしに似せた動くヴードゥー人形に進んで生を与えようとしているようなもの。婚姻届にサインをしたときは、こんなことはわかっていなかった。これはその取り引きの一部なんだろうか?
    *原作においてはここで「(宇宙人との邂逅インターフェイスたる)ルッキングラス」の設定が生きてくる。

    そしてまた、あなたが笑っているのを目にするときが、たびたびあるようになって。それはたとえば、あなたが近所の子犬と遊んでて、両家の裏庭を分ける金網のフェンスのあいだから手をつっこんでいるようなとき。あなたは笑いすぎて、そのうちしゃっくりをしはじめるでしょう。子犬はお隣りの家のなかへ逃げこんでしまい、あなたの笑い声はじょじょに鎮まって、息が継げるようになってくる。すると、子犬はフェンスのほうへひきかえしてきて、またあなたの指をなめはじめ、あなたはきゃあきゃあ言って、また笑いはじめる。それは、想像だにしなかった、このうえなくすてきな声、自分が噴水か泉にでもなったような気持ちにさせてくれる声になるでしょう。

    そう、こんどもしその声が心に浮かんできたら、みずからの身の安全など眼中にないその楽しげな声に、わたしは心臓麻痺を起こしそうになるでしょう。
    *映画販においては、ヘプタポッド(7足脚)の一員たるアボットが最初から自分の死を知りつつも自らの使命の完遂に尽力する。ほとんど「(大半の人間が不毛な戦争の途上における戦死を予見しつつ自らの運命を従順に受容する)バガヴァッド・ギーター(成立紀元前5世紀頃〜紀元前2世紀頃)」の世界?

    断片2

    「なぜ?」

    あなたはくりかえし問いかけるでしょう。あなたは三歳になっていて。

    「おやすみの時間だから」

    わたしはくりかえし、そう言うでしょう。あなたをお風呂に入れて、パジャマを着させるところまではたどり着くのだけど、そこからさきにはいっこうに進めなくて。

    「でも、眠くないもん」

    あなたはぐずりだす。本棚のところに立って、ヴィデオを観ようとテープを一本とりだしにかかる。寝室へ行かされないでおくための、あなたの最新の陽動作戦。

    「そんなことはいいの。とにかくベッドへ行きなさい」

    「でも、なぜ?」

    「わたしがママで、そのわたしがそう言ったから」

    ほんとうに、わたしがそんなせりふを吐くことになるのかしら? だれかお願い、わたしを撃ってしまって。

    わたしはあなたを抱きあげ、情けない声でたえず泣きじゃくるあなたをこわきにかかえてベッドへ運んでいくのだけど、わたしのなによりたいせつな存在がみずからの苦痛の種と化していくことになる。こどものころ、自分が親になったときは、ちゃんと筋の通った答えをしよう、自分の子は知性を持ち、ものを考えるひとりの人間として扱おうと決めた誓いのすべてが瓦解していく。わたしは自分の母親と同じ存在になりつつある。それに抵抗することはいくらでもできるけど、その長く恐ろしい斜面を滑りおちていくのをとめるすべはないでしょう。

     断片3

    あなたが五歳のとき、幼稚園から帰ってきたあとの午後のできごとが心に浮かぶ。わたしが答案の採点をしているあいだ、あなたはクレヨンで塗り絵をしているでしょう。「ママ」

    あなたはなにかをおねだりするときのためにとってある、つとめてさりげない口調をつかって話しかけてくる。

    「ちょっときいていい?」

    「もちろん、いいわ。言ってみて」

    「あたし、ええと、ほめてもらえるかしら?(Be honnered)」

    わたしは採点中の答案から顔をあげる。

    「それ、どういう意味?」

    「学校で、シャロンが、自分はほめてもらえることになったって言ったの」

    「ほんとう? なにでほめてもらえるかは言ってた?」

    「あの子のおねえさんが結婚するときにほめてもらえるんだって。ええと、ほめてもらえるのはひとりだけで、自分がそのひとりなのって言ってたわ」

    「あ、わかった。シャロンは花嫁の付きそい(Made of Honor)になるって意味ね?」

    「うん、そうなの。あたし、ほめてもらえる(made of honner)かしら?」

     断片4

    あなたのおとうさんがハワイでの会議に出席することになるとき、あなたは六歳になって、わたしたちはあなたをそこへ連れていくことになるでしょう。あなたはとても興奮して、何週間もまえから旅行のしたくにとりかかるの。ココナツや火山やサーフィンのことなんかをわたしにたずねたり、鏡のまえでフラダンスフラダンスの練習をしたりして。持っていきたい衣類やおもちゃをどっさりスーツケースに詰めこんで、自分で長いあいだ持ち運べるところを見せようと、家中それをひきずってまわってね。

    あなたのスーツケースにはもうまったく余地がなくなってしまって、それでもまだお絵描きセット(エッチアスケッチ)はぜったいに置いていきたくないからって、わたしのバッグに入れていってもらえないかと頼むことになるでしょう。

    「そんなになにもかも持っていく必要はないでしょ」

    とわたしは言う。

    「あそこには楽しいことがすごくいっぱいあるから、そんなにたくさんおもちゃを持ってってもそれで遊んでる時間はないわよ」

    あなたは考えこむ。一所懸命に考えるときはいつもそうなるように、左右の眉の上にくぼみをつくって。それからやっと、詰めこむおもちゃをへらすことに同意するんだけど、期待感はかえっていや増すことになって、「いますぐハワイに行きたい」って、ぐずりだす。

    「待つほうがいいことだってあるのよ」

    とわたしは言う。

    「熱望すればするほど、実際にそこへ着いたときの楽しみが大きくなるものだから」 

    あなたは口をとんがらせるだけでしょう。

     断片5

    あなたが十二歳のとき、自分の出自に関してあるシナリオを口にするのが心に浮かぶ。

    「おかあさんがわたしを産んだのは、おかねをはらわなくていいメイドが手にはいるからでしょ」

    クローゼットから電気掃除機をひっぱりだしながら、にがにがしげにあなたは言うでしょう。

    「そのとおり」

    とわたしは応じる。

    「十三年まえ、これくらいの年月がたったらカーペットに掃除機をかけなくちゃいけなくなるって気がついて、そういう家事をするにはこどもを持つのがいちばん安あがりでらくな方法だろうと思ったというわけ。さ、いい子だから、さっさとやってしまって」

    「こんなの、もし母親じゃなかったら法律が許さないのに」

    あなたは電気のコードをひっぱりだして壁のコンセントにプラグをさしこみながら、そう言う。
    父親が「娘が変わり果ててしまった」事に衝撃を受ける展開はここにも内包?

     断片6

    あなたに新しい服を買ってあげようと、いっしょに車でショッピングモールに出かけるときのことが心に浮かぶ。あなたは十三歳。ある瞬間のあなたはまるっきりこどもで、他人の目をまったく意識することなくシートにだらんとすわっていて、ある瞬間のあなたは、訓練を積んだファッションモデルのように、わざとらしいさりげなさで髪をかきやったりしているでしょう。

    わたしが車を駐車しにかかると、あなたはわたしに指図をはじめる。

    「オーケイ、ママ、クレジットカードを一枚よこして。二時間たったら、ここ、この入り口のところで落ちあいましょ」

    わたしは笑いだす。

    「だめよ。クレジットカードは全部、わたしが持っていく」

    「うっそー」

    あなたは全身で憤懣を表す。わたしたちは車を降り、わたしはモールの入り口へと歩きはじめる。わたしが頑として譲ろうとしないようすを見て、あなたはあわてて作戦を変更するでしょう。

    「オーケイ、ママ、オーケイ。ついてきていいわ。ただ、いっしょだって見られないように、ちょっと離れてうしろを歩いてね。もし友だちと出会ったら、あたしはとまっておしゃべりするけど、ママはそのまま歩いてって。いいでしょ? あとから追っかけて、ママを見つけるから」

    わたしは途中で足をとめる。

    「なによそれ? わたしはお手伝いさんでもなければ、いるのが恥ずかしい変てこな親戚でもないわよ」

    「でも、ママ、いっしょにいるところをだれかに見られるのはいやなの」

    「それ、どういうこと? あなたのお友だちにはとうに会ってるでしょ。みんな、家に来てるじゃない」

    「それはまた別」

    わざわざ説明しなくてはいけないことが信じられないようすで、あなたはいう。

    「いまはショッピングに来てるんだもの」

    「それはおあいにく」

    といったとたんに、爆発。

    「ママったら、あたしがよろこぶようなことはなんにもしてくれないんだから! あたしのことなんかどうだっていいのよ!」

    わたしといっしょにショッピングに行くのを楽しんでいた時代から、まだいくらもたってはいないというのに。成長のある段階からつぎの段階へのこの急激な変化は、わたしを驚かせてやまない。あなたといっしょの毎日は動くターゲットを狙いつづけるようなもの。あなたはいつも、わたしの予想するよりさきへ行っていることでしょう。

    断片7 

    あなたがハイスクールの二年生のときに、ふたりですることになる会話が心に浮かぶ。あれは日曜日の朝で、わたしはスクランブルエッグをつくってて、あなたはブランチのためにテーブルテーブルのしたくをしているでしょう。あなたは、まえの晩に出かけたパーティのことを話しながら、笑いだして。

    「ったくもう」

    とあなたは言う。

    「あいつらったら、冗談でもなんでもない口調で、体重が問題だなんて言いだすんだから。あたしは男の子たちよりたくさんは飲まないようにしてるってのに、なんとか酔っぱらわせようってする子がまわりにうじゃうじゃいて」

    わたしはどっちつかずな愛想のいい表情を保とうとつとめてる。懸命にそうつとめてる。そしたら、あなたがこう言いだすでしょう。

    「ねえ、ママったら」

    「なあに?」

    「ママだって、あたしぐらいの歳のころは、まったくおんなじことをやってたんでしょ」

    わたしはその手のことはなにもやっていなかったけど、それをそのまま言ったら、あなたのわたしへの尊敬の念は完全に消えうせてしまうでしょう。

    「いいこと、ぜったいに運転はしちゃだめよ。もし車に乗せてもらうにしても──」

    「当然でしょ。それくらいわかってるわ。あたしはおばかさんだと思ってるの?」

    「ううん、まさか」

    わたしが思ってるのは、あなたは明らかに、いやっていうほど、わたしとはちがってるということ。そのことはまたもや、あなたはわたしのクローンにはならないということを思い起こさせてくれるでしょう。あなたはすばらしい子、日々のよろこびの源泉であり、わたしが自分だけでつくりだしたらなっていたような人間にはけっしてならないだろうと。
    *ここで「わたしが自分だけでつくりだしたらなっていたようなクローン人間にはけっしてならない事」の救済性が浮上してくる…

     断片8

    あなたが十四歳のときのことが心に浮かぶ。あなたは学校のレポートを作成するのにつかっている、落書きだらけのノートパソコンを手に自分の寝室から出てくるでしょう。

    「ママ、両方ともが勝つ場合っていうのは、なんと呼ぶの?」

    わたしは、コンピュータと書きかけの書類から目をあげる。

    「それ、政府が交渉ごとによくつかう、双方満足の解決(Win-Win Situation)というやつのこと?」

    「数学の言葉で、それを表す術語があるの。パパがここにいたころ、よく株式相場のことを話してたでしょ? そういうときにパパがつかってた言葉」

    「うーん、聞いたことがある気はするんだけど、どう呼んでたかは思いだせないわね」

    「わからないと困るの。その言葉を社会科のレポートにつかいたいから。呼び名がわからなきゃ、情報をサーチすることもできないでしょ」「残念だけど、わたしにもわからないわ。パパに電話をかけたらどう?」

    あなたの顔つきから察するに、なかなか電話をする気にはなれないのでしょう。このころ、あなたはおとうさんとあまりうまくいっていなくて。

    「ママが電話して、きいてくれない? あたしの代わりだとは言わずに」

    「あなたが自分でかけるのがいいと思うんだけど」

    あなたはいきりたつ。

    「なによ、ママ。ママとパパが別れてから、あたしはぜんぜん宿題を手伝ってもらえなくなったのよ」

    いろんな状況で離婚のことを持ちだしてくるものだと、わたしは驚くばかり。

    「宿題を手伝ってあげたこともあるじゃない」

    「百万年ほどまえのことでしょ、ママ」

    そんなせりふはやりすごすことにして。

    「これも、できれば手伝ってあげたいけど、どう呼ばれていたかが思いだせないしね」

    あなたはぷりぷりして、自分の寝室へ帰っていくでしょう。
    *原作でも映画でも重要な意味を有する展開を迎えるエピソード。子供は決して親に勝ちたがってる訳ではない。自分の居場所を見つけたがってるに過ぎないという現実が背景にあって初めて、両者は妥協の余地を得るのである。

     断片9

    あなたの瞳はわたしのようなくすんだ茶色ではなく、おとうさんのような青になるでしょう。男の子たちはその瞳を、わたしがあなたのおとうさんにかつてそうし、いまもそうしているようにのぞきこんで、それと黒い髪との対比に気がついて、わたしがかつてそうし、いまもそうであるように驚き、また魅了されるでしょう。あなたはたくさんの男性に求婚されることになって。

    あなたが十五歳のとき、ある週末をおとうさんのもとで過ごしたあと、あなたがそのころデートをしている男の子たちに関しておとうさんがさんざん質問を浴びせかけてくるのをいぶかしみながら、帰宅してくるときのことが心に浮かぶ。あなたはソファにひっくりかえって、最近の世の常識とかけはなれたおとうさんの言い分をひとつひとつ並べたてるでしょう。

    「なんて言ったと思う? パパったら、〝ティーンエイジャーの男の子がどういうものかはよおく知ってる〟なんて言うんだから」

    目をぎょろっと上にむけて。

    「あたしは知らないとでも思ってるの?」

    「そんなことでわるく言っちゃだめ」

    とわたしは言う。

    「なんといっても、おとうさんなんだから。そんなふうに言わずにはいられないのよ」

    わたしはそれまで、あなたのお友だちとのつきあいかたを見てきたから、あなたが男の子にたらしこまれるなんてことをそれほど心配するわけではない。どちらかというと、その逆のほうがありそうだ。わたしが心配するのはそちらのほうでしょう。
    *よく考えてみたら案外酷い事を言ってる。

    「パパは、あたしがいつまでもこどもでいてほしいと思ってる。この胸がふくらんできてから、あたしに対してどうふるまったらいいのかわからなくなっちゃってるのよ」

    「そりゃまあ、そういう体の発達はおとうさんにとってはショックだもの。立ちなおるための時間をあげなさい」

    「もう何年もたつのよ、ママ。立ちなおるのにどれくらい時間がかかるっていうの?」

    「わたしの父がわたしのそういうことに慣れてきたころの話をしてあげるわね」
    *この辺りで米国のSFファンは「日本の魔法少女物」との関連に気づく事になる?

     断片10

    あなたが大学を卒業するときに撮る写真が心に浮かぶ。その写真のあなたは式典用の角帽を小粋にかぶって、片手をサングラスに添え、もう一方の手は腰にあてがってガウンのまえを分け、その下に着ているタンクトップとショートパンツをさらけだした格好で、カメラにむかってポーズをとっているでしょう。

    卒業式のことが心に浮かぶ。ネルソンとあなたのおとうさん、それになんとかという名の女性が勢ぞろいするという悩みの種はあるにしても、そんなものは二のつぎ。あなたに級友をつぎつぎに紹介され、だれかれとなくひっきりなしに抱擁を交わすことになるその週末を通して、わたしは驚きのあまり声も出ないありさまになってしまう。わたしより背が高く、こちらの胸が痛むほど美しくなったあなたが、噴水式水飲み器にとどくようにといつもわたしが地面から持ちあげていたあの女の子と同じ、いつもわたしのクローゼットからとりだしたドレスと帽子と四枚のスカーフを身にまとって寝室から転がるように駆けだし駆けだしていったあの女の子と同じだなんて。

    そして、卒業式がすむと、あなたは金融アナリストとしての仕事をするために職場をめざすでしょう。わたしには、そこであなたがしていることは理解できないでしょうし、おかねに魅了されるあなたの気持ち、職を提示されたときの交渉であなたが要求した破格の給料についても、やはり理解できないでしょう。わたしとしては、あなたが金銭的報酬にとらわれない仕事に従事してくれるほうがいいけど、べつに不満があるわけじゃない。わたし自身の母親にしたところで、なぜわたしがハイスクールの英語教師だけをしていられないのかは永遠に理解できないのだから。あなたはあなたがしあわせになれることをすればいいし、わたしがあなたに望むのはそれがすべてなの。

    *まぁ何というか「男性=父親」の立場からすれば「出鱈目超人の集団に混じって、それでもなおかつ「ただの人類」代表として五分に渡り合う最強戦士」すら付け入る隙がない有様?
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    *しばしばカート・ヴォネガット・Jr.の「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを(God Bless You, Mr. Rosewater, or Pearls Before Swine 1965年)」「スローターハウス5(Slaughterhouse-Five, or The Children's Crusade: A Duty-Dance With Death、1969年)」 と対比されるが、当事者の時間感覚を吹き飛ばす心的外傷後ストレス障害(Post Traumatic Stress Disorder、PTSD)的ジレンマを「母と娘の物語」に仕立て直した点こそがテッド・チャンのオリジナリティ。

こうした状況を背景に2011年には以下の国際的大ブームが訪れる訳です。
*もちろん武内直子美少女戦士セーラームーン(1992年〜1997年)」や「少女革命ウテナ」の影響は欠かせないにせよ。

初音ミク オリジナル曲 「ローリンガール」 (sm9714351) - ニコニコ大百科

①2000年代から「国際SNS上の関心空間」を覗いてきて驚いた事の一つ。「魔法少女まどか☆マギカ(2011年〜)」におけるQBの以下の台詞が、いわゆる「アニメ漫画GAMEファン」の枠内を超えて「(普段はStar Treck関連投稿の回覧などに熱中している)SF Geek衆(大学生および元大学生中心でTRPGとかも大好き)」の間でまで回覧されていた事。

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第8話

「この国では、成長途中の女性のことを、少女って呼ぶんだろう?」
「だったら、やがて魔女になる君たちのことは、魔法少女と呼ぶべきだよね」

第9話

「勘違いしないで欲しいんだが、僕らは何も、人類に対して悪意を持っている訳じゃない」
「全ては、この宇宙の寿命を伸ばすためなんだ」
「まどか、君はエントロピーっていう言葉を知ってるかい?」
「簡単に例えると、焚き火で得られる熱エネルギーは、木を育てる労力と釣り合わないってことさ」
「エネルギーは形を変換する毎にロスが生じる」
「宇宙全体のエネルギーは、目減りしていく一方なんだ」
「だから僕たちは、熱力学の法則に縛られないエネルギーを探し求めて来た」
「そうして見つけたのが、魔法少女の魔力だよ」
「僕たちの文明は、知的生命体の感情を、エネルギーに変換するテクノロジーを発明した」
「ところが生憎、当の僕らが感情というものを持ち合わせていなかった」
「そこで、この宇宙の様々な異種族を調査し、君たち人類を見出したんだ」
「人類の個体数と繁殖力を鑑みれば、一人の人間が生み出す感情エネルギーは、その個体が誕生し、成長するまでに要したエネルギーを凌駕する」
「君たちの魂は、エントロピーを覆す、エネルギー源たりうるんだよ」
「とりわけ最も効率がいいのは、第二次性徴期の少女の、希望と絶望の相転移だ」
ソウルジェムになった君たちの魂は、燃え尽きてグリーフシードへと変わるその瞬間に、膨大なエネルギーを発生させる」
「それを回収するのが、僕たち、インキュベーターの役割だ」
「この宇宙にどれだけの文明がひしめき合い、一瞬ごとにどれ程のエネルギーを消耗しているのか分かるかい?」
「君たち人類だって、いずれはこの星を離れて、僕たちの仲間入りをするだろう」
「その時になって、枯れ果てた宇宙を引き渡されても困るよね?」
「長い目で見れば、これは君たちにとっても、得になる取引のはずだよ?」
「僕たちはあくまで君たちの合意を前提に契約しているんだよ?」
「それだけでも充分に良心的なはずなんだが」
「騙すという行為自体、僕たちには理解できない」
「認識の相違から生じた判断ミスを後悔する時、何故か人間は、他者を憎悪するんだよね」
「君たち人類の価値基準こそ、僕らは理解に苦しむなあ」
「今現在で69億人、しかも、4秒に10人づつ増え続けている君たちが、どうして単一個体の生き死ににそこまで大騒ぎするんだい?」
「これでも弁解に来たつもりだったんだよ?」
「君たちの犠牲が、どれだけ素晴らしい物をもたらすか、理解して貰いたかったんだが、どうやら無理みたいだね」
「まどか。いつか君は、最高の魔法少女になり、そして最悪の魔女になるだろう」
「その時僕らは、かつて無い程大量のエネルギーを手に入れるはずだ」
「この宇宙のために死んでくれる気になったら、いつでも声をかけて。待ってるからね」
*ヘプタポッド(7本脚)は「あなたの人生の物語(1999年)」においては「(大航海時代のスペイン人の如き)自らの言語を広める事にしか興味を抱かない視野狭窄の宣教師」的な存在としてのみ描かれるが、映画販(2016年)においては「将来の我々自身を救う為」の一言が添えられた。その狭間において「まどマギ」のこの「超生命体が人間を家畜の様に扱って来た」設定は世界中のSFファンを戦慄させたという展開こそが興味深い。



 

 

  • 2011年といえば時はまさに国際SNS上の関心空間の暗黒時代(The Dark Age)」。誰一人として後に何が「正解」と認定されるかなど知らず、かつまた2017年時点においてなお結論は出ていない。少女間の党争が激化し(特に「Belieber(Justin Bieberの狂信的ファン層)」と「(旗印に「初音ミク」を選んだ)Naruto/Avatar派」の衝突は「4chan派とTumblr派の戦争」を超えた「仁義なき戦い」の様相を呈した)、(当時の私も含めた)ウォッチャー層も約半数が選択肢を誤って生き延びられなかった恐るべき死に満ちた時代だったのである。
    *「ウォッチャー層も約半数が選択肢を誤って生き延びられなかった」…まぁおそらく大半はすぐに別アカウントを建ててリブートしたんだろうけど。ちなみに「4chan派とTumblr派の戦争」といえば2014年のそれが有名だけど、その前哨戦は2011年頃(すなわち国際SNS上の関心空間の成立期)にまで遡り、2014年のそれは「(それまでの歴史的経緯の結果)4chanTumblrの二足草鞋アカウント」が増えた結果起こったとも推測されている。

    選択肢を誤った」といえば、当初はこうした「闘争的少女層」から熱狂的支持を受けたCLAMP原案Production I.G制作作品「BLOOD-C」やザック・スナイダー監督製作脚本作品「Angel Wars(Sucker Punch)」が途中から見捨てられ、大ゴケした時代でもあったのである。
    *何というか「エログロでなければ生き延びられない。エログロなだけでは生き延びる資格がない」なんて陳腐な標語が具現化した様な毎日だったが彼女達が最終的に追い求めていたのはあくまで「破滅の美学」でなく「救済の可能性」だったという次第。

  • 当時は誰もが「自分は来たるべき次世代の思考様式の確立を目指している」的な自意識を共有していた。年齢層も存外幅広くTV版「魔法少女まどか☆マギカ」最終回には「どうしてまどかママはまどかもほむらも殴り倒して自分が魔法少女に変貌して世界を救済しなかったのか?」「パパ、ママ、いつまで自分が人生の主役のつもりに浸ってるの?」「それにつけても、まどかパパの不甲斐なさは何だ。あれでも男なのか?」「主夫となる道を選んだまどかパパに対するとばっちりは私達が許さない!!」なんて(ジェンダー問題まで複雑に絡み合った)母娘/父娘論争まで起こったものである。
    *こうした観点から鑑ると神山健治ひるね姫〜知らないワタシの物語〜」が「父親観点のファンタジー」、テッド・チャン「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1999年)」/ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督映画「メッセージ(Arrival、1016年)」が「母親観点のファンタジー」という基本的制約を抱えている事実は動かないのである。

    *それでは「息子/娘観点のファンタジー」が、ただひたすら「既存の家長的権威の打倒」に終始するかというと(特に21世紀に入ってからは)そうでもない。上掲の「まどマギ」論争も「(それぞれ父親/母親/息子/娘といった立場からの)対等な立場からのポジショントーク」に終始する辺りが21世紀的ダイバーシティなのであって、民族問題やLGBTQ問題も(反動としての超克思想を乗り越えて以降は)概ね最終的にはこんな感じの「試行錯誤を通じての力の均衡状態の樹立」以外の何者も目指してしなかったりする。

    2015年6月26日にアメリカの連邦最高裁判所同性婚憲法上の権利として認めるとする判断を示し、この判決により全米で同性婚が事実上合法化された時、国際SNS上の関心空間に見受けられた興味深いやり取り。

    • 「不謹慎だがあえていわせてもらう。これでまた少し世界が狭くなった。我々は一体何処に向かっているのだろう?(それにつけてもバイは淫乱)」

    • 「確かに気持ちは分からないでもない。同性婚が法的に認められたという事は、これからは同性愛者も一夫(婦)一妻(夫)制の貞操概念に敬意を払わねばならなくなった事を意味するのだから。(それにつけてもバイは淫乱)」

    • 「これからの時代もストレート家族が子供世代に異性婚に基づく価値観を刷り込むのを弾劾し続けるなら、ゲイ家族も子供達に同性婚に基づく価値観を刷り込むのを弾劾されなきゃならなくなる。そうした時代はゲイ家族に生まれ育ち苦悩の末に「私、実は異性が好き」とカミングアウトする子供達だって登場してくるんだ。本当にたまらないものがあるよなぁ。もはや我々は一方的被害者ではないんだよ。(それにつけてもバイは淫乱)」

    まぁ一般日本人だと、そもそもこの「それにつけてもバイは淫乱」連呼についていけないかも。むしろそこには同性愛者と異性愛者が同時にそれを唱和するのを楽しんでいる感すらあったのだが、これも明らかに一般日本人の想像の範疇を超えている。
    *そのサド侯爵の如く精神性の一切を捨ててストレートに肉体的快楽を追求する態度、独得の美学追求によって全体像を統合しようという態度を特徴とする(コスプレーヤー流入を受容した)トランスジェンダー界隈ともまた異なり、LGBTQ界隈でもちょっと浮いていたりするのである。別に倫理的に弾劾される事はなく、むしろ「個性」として尊重されていたりするのだが、まぁ「同性婚の合法化」によって「乱交派」が切り捨てられた事実に変わりはなく、その時に異性愛者か同性愛者を問わず真っ先に「線引きの向こう側」として想起されたのが「(相手が一人では満足出来なさそうな)バイセクシャルの皆さん」だったという次第。

    そもそも父親側/母親側のファンタジー」と「息子側/娘側のファンタジー」は表裏一体の関係にある。両者を分けるのは「どちら側を主体的に振る舞う主人公」に見立てるかというトリミング問題に過ぎないとも。だからこそ「その物語がどちらの側から描かれた内容か」「反対側の観点からもちゃんと物語として成立しているか」が、より厳しく確かめられる様になっていく。

    *そういえば当時国際SNS上の関心空間を席巻した「新世紀エヴァンゲリオン(1995年、旧劇場販1996年〜1997年)」におけるアスカのセリフ「どうして子供なんて産む気もないのに毎回生理がくるのよ!!」が気付くと壊滅していた(まさかサーチ結果が0件とは!!)。そういう投稿に敏感に反応した「中二病」アカウントが以降壊滅したというのが正しいとも。だけど(当時同じくらい人気だった)こっちは残った不思議…

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  • むしろ当時において最も重要だったのは「カウンター・カルチャーに傾倒すれば無条件に正義が成立する(大義名分が立つ)」なる幻想の消失だったとうべきかも。
    *19世紀末を席巻した「TV系サイバーパンク作家」も「ニューエージ的ファンタジー作家」もこの変遷を生き延びられなかったのである。

    *ところでスタニスワフ・レムソラリスSolaris、原作1961年、タルコフスキー監督による映画化1972年)」において異星の超生命体に弄ばれた「男達が女に抱くイメージの断片」は、ストルガツキー兄弟「ストーカー(原作1977年、タルコフスキー監督による映画化1979年)」における「(超自然的力が渦巻く危険地域の)案内人の娘(遺伝子異常によって通常の人間と大きく異なった外観と能力を備える)」に結実。以降「案内人」は自ら危険地帯に「(娘を「治癒」してくれる筈の)願望機」を探し求める様になる。こうした「人間に似た宇宙人の到来をイデオロギー的に拒絶した」作品群に「あなたの人生の物語」の大源流を見る向きもある。そういえば1990年代から2000年代にかけては「超知性が人間の知性に似ている必然性はない」事実が確実に周知されていった時代でもあったのである。

  • こういう意味合いにおいても色々と厳しい時代だった2011年において、それにも関わらずある種の強烈な(それも娘側からの容認を得た形での)シンボルとして国際的に君臨する事になったのが「まどかのママ/パパ」のイメージだったという次第。
    *絶対「私もそのうち大人みたいに酒を飲んで煙草を吸う様になりたい!!」なんて憧憬心が根底にあったのは公然の秘密? まぁ「(何かと大人の真似をしたがる)健全な子供」ってそんなもの?
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    *ところで最近は検索しても全然引っかからなくなった「まどかパパ」どこいった?
    https://68.media.tumblr.com/18c2ef728e5ee02a65c00fcc6eea8321/tumblr_n9xdaxfI7L1scy3x6o1_1280.pngf:id:ochimusha01:20170623121424p:plainf:id:ochimusha01:20170623121450p:plainf:id:ochimusha01:20170623121514p:plainf:id:ochimusha01:20170623121329p:plain

 ②それではこの系譜が現在どうなってるかというと…何と2017年時点前半時点では「Logan(2017年)」一色だったりするから困る。
*今度はママどこいった?


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*「ああ、こういう感じだったのか(So, this is what it feels like.)」…何この「究極のドライ・マティーニ追求の旅」最果てバージョン?

どうやらこの次元の戦いはこうして今後もなお果てしなく続いていく模様。ならば日本人もまた、そろそろ本格的に思い出すべきなのかもしれません。

  • 魔法少女」の概念そのものがアメリカのエンターイメント起源であった事。

  • 「ロリータ」の概念の大源流もまた帝政ロシア生まれの米国文学者ウラジーミル・ナボコフの手になる「ロード・ムービー風小説」として名高い「ロリータ(Lolita、1955年)」だった事。
    *「ロリータ」はヨーロッパからアメリカに亡命した中年の大学教授のハンバート・ハンバートが獄中で書き残した「手記」という形式をとっているが、そこで最初に綴られるのは「少年時代に死別した恋人アナベル・リーへの思い出」。さらなる源流にエドガー・アラン・ポーが透けて見える仕掛けとなっているのである。

    *そして、こうした「ロリータの概念」の起源を知る層はそれを近松門左衛門の心中物(道行物)やC.L.ムーア「シャンブロウ(Shambleau、1933年)」と結びつけて考えていた事。

    *こうした路線の一つの終着地点が(日本の新聞記事からのインスパイアに端を発する)デビッド・スレイド監督映画「Hard Candy(2005年)」であり(「ハイラックス物」なるジャンルを確立した)クジラックス(quzilax)の「ろりともだち(2011年)」だったのは、ある意味当然の帰結だったとも。より純化された形における究極の破滅願望…
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ある意味、こっちの系譜こそが「大源流」である事(そしてその筋に「出戻り」として認められてきたからこそ国際性を獲得して来た事)を忘れては日本のエンターテイメント界に未来はない?