諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

アートと漫画の違いとは② 「制御不能状態へのアンビバレントな感情」の象徴としての猫

なぜかGoogleで日本語の「アート」を検索すると上位に出てくる画像。とどのつまり「反体制」こそがアートの真髄?
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*こうした流れの系譜が欧米の無政府主義アートに端を発する事はいうまでもない。

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一方、英語の「My Brothers Hasband(弟の夫)」で検索すると永田カビ「My Lesbian Experience with Loneliness(さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ)」がセットで引っ掛かってきたりします。

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そういえば高橋留美子らんま1/2(Ranma 1/2、1987年〜1996年)」や志村貴子放浪息子(2002年〜2013年)」や東村アキコ海月姫(2008年〜)」を筆頭に「LGBTQ入門編」なるジャンル、ほぼ国際的に日本人漫画家の独占状態にあったりするのです。

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*こうした作品群に共通する特徴は「正当な権利に基づく激烈な抗争を経て何かを勝ち取る」英雄譚の真逆のアプローチ、すなわち「何が正しいか当人も分かってない(しばしば不安まみれの)試行錯誤の結果、一定の境地に辿り着く」展開が共感を呼んでいる辺り。「自分にとって何が正しいかは自分で決めるしかなく、その判断結果についてのみ責任を負えばいい」といった当たり前の事が自然体で描かれているだけなのが、それがかえって新鮮と受け止められた。上掲の日本漫画はまさにそうした形で歴史ある欧米文化の後背を奇襲する事に成功したといえる。

*日本では最近「若者の中二病離れ」が指摘されているが、そもそも「大人に補足されるのを恐るあまり、アンドロメダ病原体の如く予想外の変遷を遂げ続ける」のが若者文化。特に国際SNS上の関心空間上の女子アカウントの間で継承されてきた「(ハリーポッターの)トム・リドルは私」「(劇場販新編の)暁美ほむらは私」「(シン・ゴジラの)鎌田君は私」「(ファンタステック・ビーストの)オブスキュラスは私」と連呼する伝統は確実にその延長線上に現れた?

*それにつけても国際SNS上の関心空間の女子アカウントが「弟の夫」の場面の中で一番喜んで回覧してるのが「熊さんが容赦無く熊さんを食べた」場面だというのが何とも…とにかく「可愛いものと猟奇の組み合わせ」は見逃さない?

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*「肉を口にする者は全て潜在的殺人者」なる極論を含め、そもそもアートの世界は常に「他の動物を食べて存続する動物」としての人間の在り方についてのイメージから重要な掲示を与えられてきた。「中二病問題」もまた遡っていくとその領域まで辿り着く。

そもそも「アート」とは誰かがそう認定する事によって成立するもの。そして誰が何をそう認定してきたかについて確かめるには、まずその制作環境の変遷史を正確に掌握しなければなりません。

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①アーティストの生活がパトロンの個別出費に支えられていた時代。
*特にルイ14世(在位:1643年〜1715年)の庇護下で独自発展が始まり、ココ・シャネルのパトロネージュを受けたバレエ・リュス(Ballets Russes、1909年〜1929年)を介して現代文化に接続されるという点で重要。

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  • 上は王侯貴族や聖職者といった相応の権力者の依頼、下は(写真が発明されるまで文学史上大きな役割を果たしてきた)肖像画や記念画に至るまで、特定の発注者が自らの装飾の為にそれを求める形式。その内容は当然、発注者の意向を大きく受けたが、そんな時代でも「製作者が描きたい題材を描かせてくれる発注者を探す」という抜け道がないでもなかった。

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    ヴェネツィア派の重鎮ティツィアーノ(Tiziano Vecellio、1488年/1490年頃〜 1576年)は「明日をもしれぬ栄衰の日々を送るうちに自らの欲望を忠実に追求する様になった」イタリア傭兵隊長(単数形コンドッティエーレ(condottiere)、複数形コンドッティエーリ(condottieri))の閨房や書斎を飾る為に当時としてはエロティック過ぎる(公務の装飾に相応しくない)絵画を後世に多数残した。

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    *「ロココ絵画の完成者」とされるフラゴナール(Jean Honoré Fragonard、1732年〜1806年)は、フランス宮廷芸術の主流が質実剛健を追求する新古典主義へと推移した時代にあってあえてそれに背を向け(王宮における立身出世を諦めた)田舎貴族をパトロンに選ぶ事によって田園生活や(その一環として組み込まれた、人間の本能に忠実な)ラブ・ロマンスを描き続ける事に成功した。

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    *オランダ黄金時代を象徴するレンブラント「夜警(De Nachtwacht、1642年)」は(「発注者=登場人物」を均等に引き立たせなければならない筈の)肖像画/記念画としては欠陥品もいいところ。それについては「発注者を激怒させ、作者の評判を落とした」とする説と「発注者自らがそうした逸脱を喜んで受容した」とする説が並行して伝わる。
    夜警 (絵画) - Wikipedia

    レンブラントは、市民隊の隊長バニング・コックと隊員17名の計18名により制作を受注した。バニング・コックは薬剤師の一人息子だったがフランスで法学を学び、アムステルダムに戻って市民隊(自警団)隊長になっていた。彼は富裕な商人・船主・貴族のフォルケルト・オーヴァランター(Volckert Overlander)の娘と結婚し、彼の死後はその遺産や領主の地位を継いでおり、この絵が描かれた後の1650年にはアムステルダム市長にまでなった人物だった。

    レンブラントに発注した18人の名は中央右後方の盾に描かれている。その他、鼓手、少女、少年などが絵の中には描かれたほか、左側には絵が切り詰められる前はあと2人ほどの傍観者が描かれていた。この時の支払いや受注の記録は全く残っていないが、発注者たちの記録によれば各人が100ギルダー、計1,600ギルダーレンブラントに払われた。これは当時の肖像画の報酬としては大きな額である。

    この絵はレンブラントを含む画家たちに市民隊が発注した7枚の集団肖像画のうちの1点であり、新しく建てられた火縄銃手組合集会所の宴会場に掲げるために発注された。研究者の中には、レンブラントや他の画家たちに対する絵の発注は、フランスの王妃マリー・ド・メディシスの1638年のオランダ訪問に合わせてのものだったと考えている。彼女は当時フランスを追われた身だったが、彼女はアムステルダムで派手な歓迎を受けている。

    この絵を発注した隊員たちが、支払った額と同じ様な平等さで各人を描かなかったレンブラントに不満を持ち、これが『夜警』以後の受注減やレンブラントの人生の転落の始まりになったという言い伝えもあるが正確ではない。レンブラントは妻サスキアが『夜警』完成と同じ年の1642年に死去したことや、『夜警』などの大作の受注で財をなしたことで翌1643年から仕事のペースを落とし、美術商としての仕事や絵画のコレクションに力を入れた。しかし絵画売買のトラブル、絵画購入やぜいたくのための借金、サスキアの死後に召使と恋愛してサスキアの実家のオイレンブルフ家と険悪な関係になったこと、などでレンブラントは疲弊し、画家の仕事も画商の仕事もうまくゆかなくなってゆく。

  • 安定した受注制作体制の構築などを目的とした「スタイルブック」の発展形

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    *盛期ルネサンスの三大巨匠といわれるレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロ、ベルギーが世界に誇るルーベンス(Peter Paul Rubens、1577年〜1640年)などがそれぞれ大規模な工房を営んでいたのは有名だが、そこで共有されていた筈の「スタイルブック」が世間に公表される事はなかった。まぁ「(工房が生き延びる為の)重要な飯の種」なのだから門外不出化もやむを得ない。その代わり解剖学的知識や透視図画法などなら遥かに広範囲で共有されたのが西洋絵画の基礎となる。

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    安土桃山時代より次第に日本最高の芸術的権威としての立場を確立していった狩野派の「スタイルブック」もそれ自体が流出する事はなかったが、鳥山石燕の妖怪画の様な「流出派閥」を生んでいる。詳細は不明だが高山寺に伝わる鳥獣人物戯画(12世紀〜13世紀)にも「スタイルブック」的側面なら確実に存在した。「北斎漫画(1814年〜1878年)」に至ってはまさに「スタイルブック」そのものである。日本における漫画文化の源流をこの辺りに求める向きもある。

    鳥獣人物戯画 - Wikipedia

    京都市右京区高山寺に伝わる紙本墨画の絵巻物。国宝。鳥獣戯画とも呼ばれる。
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    現在の構成は、甲・乙・丙・丁と呼ばれる全4巻からなる。内容は当時の世相を反映して動物や人物を戯画的に描いたもので、嗚呼絵(おこえ)に始まる戯画の集大成といえる。特にウサギ・カエル・サルなどが擬人化して描かれた甲巻が非常に有名である。一部の場面には現在の漫画に用いられている効果に類似した手法が見られることもあって、「日本最古の漫画」とも称される。

    成立については、各巻の間に明確なつながりがなく、筆致・画風も違うため、12世紀 - 13世紀(平安時代末期 - 鎌倉時代初期)の幅のある年代に複数の作者によって、別個の作品として制作背景も異にして描かれたが、高山寺に伝来した結果、鳥獣人物戯画として集成したものとされる。

    作者には戯画の名手として伝えられる鳥羽僧正覚猷(とばそうじょう かくゆう)が擬されてきたが、それを示す資料はなく、前述の通り各巻の成立は年代・作者が異なるとみられることからも、実際に一部でも鳥羽僧正の筆が加わっているかどうかは疑わしい。おそらく歴史上無名の僧侶などが、動物などに仮託して、世相を憂いつつ、ときには微笑ましく風刺したものであろう。

    現在は甲・丙巻が東京国立博物館、乙・丁巻が京都国立博物館に寄託保管されている

    鳥山 石燕(1712年〜1788年)

    江戸時代後期の画家、浮世絵師。妖怪画を多く描いた。
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    正徳2年(1712年)頃に誕生。姓は佐野(さの)、諱は豊房(とよふさ)。字は詳らかでない。船月堂、零陵洞、玉樹軒、月窓と号す。
    狩野派門人として狩野周信及び玉燕に付いて絵を学び、また、俳諧師・東流斎燕志に師事した。

    安永5年(1776年)に著した『画図百鬼夜行』により、妖怪絵師としての地位を確かなものとすると、同年、続けて『今昔画図続百鬼』を刊行。さらに安永10年(1780年)には『今昔百鬼拾遺』を、天明4年(1784年)には『百器徒然袋』を世に出した(これら4作品は全て3部構成である)。主に鬼子母神に奉納された「大森彦七」のような額絵や、『石燕画譜』のような版本が著名であるが、錦絵や一枚絵の絵師ではなかった。しかし、フキボカシの技法を案出、俳人としても広く活動した。また、弟子も多く喜多川歌麿恋川春町、栄松斎長喜といった絵師や黄表紙作者を育てた。
    天明8年(1788年)、死去。墓所台東区元浅草の光明寺法名は画照院月窓石燕居士。

    石燕の描く妖怪画は、恐怖心よりもむしろ微笑みや奇妙さを誘う作風が特徴。石燕の画業は後世にも多くの影響を与えており、石燕の手による妖怪をモチーフにして創作活動を行う者もいる。現代日本人の妖怪のイメージは漫画家水木しげるの画に拠るところが大きいが、その画も石燕の作品に取材したものが少なくなく、日本人の思い描く妖怪の原型は石燕の著作に端を発するといっても過言ではない。

     

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    「 北斎漫画(1814年〜1878年)」

    葛飾北斎が絵手本として発行したスケッチ画集。海外では「ホクサイ・スケッチ」とも呼ばれる。
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    初編の序文によると、1812年秋頃、後援者で門人の牧墨僊(1775年 - 1824年)宅に半年ほど逗留し300余りの下絵を描いた。これをまとめ1814年(文化11年)、北斎55歳のとき、名古屋の版元永楽屋東四郎(永楽堂)から初編が発行され好評であった。その後1878年(明治11年)までに全十五編が発行された。人物、風俗、動植物、妖怪変化まで約4000図が描かれている。北斎はこの絵のことを「気の向くままに漫然と描いた画」とよんだ。ただし、絵手本集という企画自体も北尾政美の『略画式』から着想を得ている。

    この絵手本は国内で好評を博しただけでなく、1830年代ヨーロッパに磁器、陶器の輸出の際、緩衝材として浮世絵と共に偶然に渡り、フランスの印象派の画家クロード・モネゴッホゴーギャンなどに影響を与えたとされる。
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  • そして資本主義的発展を全面否定する共産主義圏においては国家間の競争が全てとなった総力戦体制期(1910年代後半〜1970)をピークに独裁者ないしは国家を称揚する芸術のみが存続を許される展開を迎えた。

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    *同時期、ポーランドのスタワニフ・レムやソ連ストルガツキー兄弟はそれが(欧州絶対王政期を席巻した)人間(権力者)中心主義(Humanism) の継承に他ならない事を看過。「人間に認識可能な領域を超越した(人間にとっての)不条理の超自然的意思」の提唱によって抵抗した。その影響も受けながら資本主義圏においては所謂「TV系サイバーパンク運動」が展開。

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    *その一方で資本主義圏においては新左翼運動、黒人公民権運動、ヒッピー運動、中南米における政争の泥沼化などを背景に「あらゆる権力に対する永久の反逆の継続こそ正義」と考える無政府主義的芸術運動が台頭する。「地母神のイメージ称揚によって家父長制に対抗する」図式が世界中に横溢した時期でもあった。ある意味「やがて万能の人工知能が人類全体を支配下に納める」と恐る現代のシンギュラリティ(Singularity)不安の大源流とも。

②1580年代以降オスマン帝国との商戦に破れてレパント交易の利権から締め出され、新たな収入源を求めざるを得なくなったヴェネツィア共和国に端を発する「三大発明」。
*全体的に今日でいう「観光立国」コンセプトが漂うが、歴史のこの時点で「観光客」となり得たのはまだまだ王侯貴族や聖職者の子弟といった富裕層だった。

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  • (携帯可能で安価で大量流通に適した)小型本…アルドゥス・ピウス・マヌティウス(Aldus Pius Manutius 1450年頃〜1515年)の工房が手掛けた古典全集に端を発するが、やがて出版文化の中心はオランダやフランスに推移していく。

    http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/60/Aldus_in_His_Printing_Establishment_at_Venice_Showing.jpg

    *ここで案外侮れないのは医学分野や建築分野における高精度出版物発展の過程が百科全書時代を経て「画集出版」なるイノベーションを引き起こす事。そしてこの流れが「エロティズムの解放」と重要な共依存関係にあった事。

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    *江戸幕藩体制下における日本の浮世絵文化もまた(江戸時代中期以降における製紙業界の過当競争が生んだ紙価格の暴落を背景としての)出版文化の未曾有の繁栄抜きには語れない。消費量増大を志向する戦略が「子供の消費者化(絵本や折り紙や双六といった子供向け商品の登場と定着)」「トレーディング・カード化(コレクション性の高い組絵の流行)」「広告媒体化(出版物自体は無料で頒布されるが特定の商品の知名度を引き上げる)」といった消費文化を加速させた。

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  • (カーニバル同様、重要な人寄せの観光資源となった)豪華な劇場で上演される形式のオペラ…その後、欧米列強諸国が王立劇場を建設し自国文化発展の拠点とする流れに繋がっていく事になる。

    http://livedoor.blogimg.jp/kzfj0409/imgs/1/5/15efba68.jpg

    *その源流はルネサンスフィレンツェにおけるギリシャ悲劇の再評価にまで遡るが、当時のアプローチはあくまで異教秘技的で商業的発展とは無関係だった。その一方で、こうした試みはバイエルンルートヴィヒ2世のパトロネージュを得たリヒャルト・ワーグナーの手になるバイロイト祝祭劇場(Bayreuther Festspielhaus、1872年〜1876年)建設に至る展開を迎える。

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    *その一方でートーヴェン(Ludwig van Beethoven、1770年〜1827年)は基本的に譜面販売によって生計を立てた最初の音楽家となった。実はモーツァルトWolfgang Amadeus Mozart、1756年〜1791年)が生きた時代との最大の画期はまさにここにある。19世紀に入ると「パトロンと音楽家の関係」そのものに変化が生じ、音楽家は良い意味でも悪い意味でも「より多くの自由」を甘受し得る立場へと変貌していくのだった。

  • (キャンバス地に描かれ、観光客に土産物として売れる携帯可能な)絵画…当初の売れ筋は「風景画」や「美人画(高級遊女の肖像画)」で、この傾向は浮世絵の基本的トレンドとも重なる。

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    *ただし江戸期日本の場合はその後「町娘(ブルジョワ階層の妻女)」や「官女(花嫁修行の一環として大奥や大名屋敷への奉公に上がり文化レベルを著しく高めたブルジョワ階層の子女)」といった新興消費者層が台頭。「イケメン役者のブロマイド的作品」が主題の重要な一角を占める様になっていく。

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    レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロが活躍したフィレンツェルネサンスやローマ・ルネサンスの時代(イタリア・ルネサンス初期〜盛期)がどれほど偉大であったとしても、こうした「パトロン(消費者)と芸術家(製作者)」の関係を一変させる様な大変革以前の展開に過ぎなかった事実は揺らがないのである。日本には(大量生産された)版画浮世絵全てをコマーシャル作品として位置付け(一点物の)肉筆浮世絵のみを芸術とみなす立場もあるが、そうした作品ですら多くは「パトロンの特注によって執筆されたコマーシャル作品」であった事を忘れてはならない。

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産業革命到来によって大量生産・大量消費の時代が始まり、消費の主体も王侯貴族や聖職者からブルジョワ階層や一般庶民へと推移した時代。
*まず最初の変化は「食生活」に現れた。そしてもちろんそれだけでは終わらなかったのである。

  • 最初に訪れた変化は「ハッピーエンドで終わる物語」の需要増だった。「究極の自由」を追求する芸術家にとって新たな受難の時代が始まったのである。
    *それはシャーロック・ホームズアルセーヌ・ルパンジェームズ・ボンドといった(商業的にも有意義な)人気キャラは作者にも殺せなくなる時代の始まりでもあった。「人気作品はどこまでも連載を引き延ばし続ける」ジャンプ・システムの大源流。

    *こうした「多幸感の時代」は世界恐慌1920年)の到来によって一旦断末魔の最後を迎えたかの様に見えたがフランク・キャプラ監督のスクリュー・コメディやウォルト・ディズニーの大予算長編アニメーションの投入によって不死鳥の如き復活を遂げている。

  • こうした時代の到来は新たなタイプの芸術家像を生み出した。ブルジョワ婦人がファンクラブを結成し、キャラクター・グッズを群がる様にして買い漁った「超絶技巧派ピアニスト」フランツ・リストFranz Liszt、1811年〜1886年)。また日本にも江戸時代から贔屓の芸人を後援する「連」を組織する慣習があった。

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    *「売れないアイドルを応援する(売れたらファンをやめる)ドルオタ」みたいな近代的要素もここには絡み合ってくる。
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    *商業至上主義の時代(1960年代〜1990年代)に入ると「(芸術家が芸術家としての主体性を保ち続ける為に)消費者に対する捕食動物の一種として君臨する」図式が浮かび上がってくる。国家間の競争が全てだった総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)から国民総動員の概念を継承しつつ、多様化の広まりによってその夢が潰えていく端境期固有の現象だったとも。

  • その一方では「無産階級こそが芸術の主体たるべき」なる運動がこうした時代性の反動として高まってきた側面も。「革命の時代」だった19世紀が生んだ最大の妖怪、すなわち「現実社会への顕現」の可能性を徹底的に拒み抜く事によって永遠の生命を得たオーギュスト・ブランキの「一揆主義(putchism)」の亡霊。

    ロンドン・コーリング – ザ・クラッシュ:The Clash – London Calling – マジックトレイン ブログ

    *なまじ自分も同種の「闇」なら潜ってきた身なので当たりがつく。「反安倍派」の脳内に流れ続けているのは恐らくこの種の音楽。皮肉にも製作者側の方がこの境地からの逃げ足が遥かに早かった。

    *19世紀における政治的浪漫主義者同様、彼らは自分達が蛙の姿煮の様に「若者=絶対権力に対する絶対叛逆者」の立場から「老人=他人の自由の一切が許せない偏狭な守旧派」に転落していく過程が自覚出来なかったのだと推測される。どうしてオーギュスト・ブランキの「一揆主義(putchism)」やエンルスト・ユンガーの「魔術的リアリズム(Magischer Realismus)」のみが現代まで生き延びたのか、「ソドムの市(Salò o le 120 giornate di Sodoma、1975年)」や「フェリーニのカサノヴァ(Il Casanova di Federico Fellini、1976年)」 が何を描こうとした作品かについても一顧だにした事がないのであろう。


正直、何が芸術(アカデミズムの対象)で何がポルノ(アカデミズムの敵)かなど、各時代の評論家などが前後の時代との脈略も考慮せず定めたりするのが常で、追求しても歴史的連続性を炙り出す事すら出来ません。

むしろ果てしない時代の変遷を通じてずっと実在してきたのはパトロン(消費者)と製作者(作品供給者)の真摯なる対峙関係でした。それも「発注者の発注どうり作品が仕上がれば発注者側は満足する」といった単純な関係ではなく、猫の飼い主と猫の様に「全く言いなりにならないからこそより愛着がわく」複雑怪奇な共依存関係だったのかもしれません。

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*そもそも誰が自分が本当に欲しいものを正確に理解しているといういうのだろうか。ヘンリー・フォードいわく「みんなは自分たちが何を望んでいるのか、こちらが言うまでは大抵わからないものだ(馬車についての顧客アンケートから自動車は生まれない)」。それはフランス的行動主義、すなわち坂口安吾いうところの「肉体主義=肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」の世界。アートの世界もまたこうした施行様式のバリエーション?

それでは(同様に複雑怪奇な共犯関係にあった)総力戦体制期(1910年代後半〜1970年代)も産業至上期(1960年代〜1990年代)も過ぎ去った「多様化の時代」には何が残ったのでしょうか?

ここで冒頭に掲げた日本の一部漫画に顕著な「正当な権利に基づく激烈な抗争を経て何かを勝ち取る」英雄譚の真逆のアプローチ、すなわち「何が正しいか当人も分かってない(しばしば不安まみれの)試行錯誤の結果、一定の境地に辿り着く展開」「自分にとって何が正しいかは自分で決めるしかなく、その判断結果についてのみ責任を負えばいいという立場への到達」といった物語の重要性が急浮上してくる訳です。ある意味、これこそがあえて「残酷無比な現実世界」を支配する勢力均衡論に立脚する道を選んだ「ポスト・リベラリズム」の萌芽とも?

ここに「他者との関係の積み上げ方のスタイル」とか「現実を左右する量子論的揺らぎ」とか「制御不能状態へのアンビバレントな感情」みたいな20世紀までの哲学が組み込みあぐねてきた諸概念のある種の「取り込み完了」を見る向きもあります。それは「(ナポレオン戦争によってフランスからのゴシック小説供給が絶たれ)自らがラブコメ元祖となった」ジェーン・オスティンいうところの「究極の意味では善人も悪人も実在しない全てが灰色の世界」。人気のオーストラリア俳優が共演した「英国製ミュージカル映画レ・ミゼラブル(Les Misérables、2012年)」の「Red and Black Song」は合唱するのに「(フランス国家を連想させる)Do You Hear The People Sing」は完全に黙殺する絶妙なバランス感覚。

ところで私はこの投稿で主にどの国について語った事になるのでしょうか。もしかしたらこの問題についての答えは各国単位でなく各国文化の相互影響(およびイノベーションによる作品発表環境そのものの変化)の中にしか存在し得ないのではないでしょうか。その事を改めて証明しただけの様な気がしてなりません。

*なにしろ「オランダの解剖図鑑起源の日本妖怪」なんてのまで存在する。江戸時代の絵師は蘭学の分野にまで興味を有しており、そこから様々な題材を積極的に取り入れていた。

がしゃどくろ - Wikipedia

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*また近年に入ってからも国際SNS上に流出した「二口女」画像が「過剰ダイエットのせいで鬱屈した食欲が爆発して怪物化した妖怪」なる新たな定義を獲得した。タイプとしては「自らを核爆弾の一種の様にイメージする」中二病的イメージのバリエーションに分類される。
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もしこうした展開がグローバリズムの本命でないのだとしたら、今日言われているグローバリズムとは一体何者という事になるんでしょうか?

ちなみにWikipediaにおける「芸術」の項目の内容と比較してみましょう。

芸術(げいじゅつ、希: η τεχνη、techné、羅: ars)

藝術の略式表記。表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。文芸(言語芸術)、美術(造形芸術)、音楽(音響芸術)、演劇・映画(総合芸術)などを指す。

  • ギリシャ語の「τεχνη techné(テクネー)」やその訳語としてのラテン語の「ars(アルス)」、英語の「art(アート)」、フランス語の「art(アール)」、ドイツ語の「Kunst(クンスト)」などは、もともと単に「人工(のもの)」という意味の医術や土木工学などの広い分野を含む概念で、現在でいうところの「技術」にあたる。現在でいう「芸術」は、近代以前には、単なる技術と特に区別して呼ぶ場合「よい技術、美しい技術」(beaux arts, schöne Kunstなど)と表現され、本来の「art」の一部を占めるに過ぎない第二義的なものであった。
    *「パトロンからの発注(ニーズ)なしに作品が存在しない世界」においては、製作者側が「表現の自由」に拘泥する意味も待たない。この観点は「大衆芸術」の分野において改めて蒸し返される事になる。その一方で「表現者=消費者」となる次元に注目した(二次創作の世界の規定にも使えそうな)「限界芸術論」なる分野も存在する。

  • 18世紀ごろから加速する科学技術の発展とともに、それまで「ものをつくる」という活動において大きな比重を占めた装飾的な部分よりも、科学的知識を応用した実用性の向上が圧倒的な意味をもつようになる。これにともなって各種の技術は分業化と細分化が進み、現代でいう技術(technics,technology)に再編されるのに対し、建築などの人工物を装飾する美的要素がこれと分化独立しながら、従前の「art」という呼称を引き継ぐことになった。
    *案外「(フランス中心主義を核心とする)啓蒙主義」から「(特定の個人が自らの認識範囲を主体的に再統合しようとする)ロマン主義」に至る流れがそれ以前の時代とそれ以降の時代を分けているのかもしれない。「個人」が存在しない世界には「芸術家」もまた存在し得ない。

  • 日本語における「芸術」という訳語は、明治時代に西周によってリベラル・アーツの訳語として用いられたことに由来する。現在では、英語の音写「アート」が用いられることも多い。正字表記では「藝」だが、第二次大戦後の日本における漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により、「藝」が「芸」と略記されることになった。なお、「芸」は、もともと「云」を声符として「ウン」と読み、ヘンルーダ等の植物をあらわす別字だが、本来「藝」の字とはまったく関係がない。また「藝術(芸術)」なる新語が登場して以降、近代以前の『伝統藝術』を芸道と呼んだり、また芸能とも呼ぶ様になったが「藝術」とは意味が異なるものとして想定される場合もあり、語用統一されていない。なお芸能は、芸術の諸ジャンルのうち、人間の身体をもって表現する技法と定義され、職業として芸能に携わる者を芸能人と呼ぶが、これは「身体藝術」とも「舞台藝術」ともまた異なる概念である。
    *「藝」の原字の「埶」は、「木」+「土」+「丮」からなる会意文字で、人が両手に持った植物を土に植えるさまを表す。のち、植物であることを強調するため「艸」が加えられ「蓺」となり、さらに「云」が加えられて「藝」となった。「芸」はその中央部を省略した略字である。本来、植物を植えることを意味したが、転じて技芸・技能一般、特に文芸を表すようになった。

R.G.コリングウッドは『芸術の原理』において、今日は本来のあり方を外れた擬似芸術に覆われているとし、それらは人生のための芸術である魔術芸術と芸術のための芸術である娯楽芸術という類型に分けることができるとした。

  • 魔術芸術とは芸術がもたらすさまざまな感情の刺激によって人々を実際の政治や商業などの実際的な狙いを持つ活動へと仕向ける種類の芸術と定義される(例えば教会のための芸術や軍楽などを含む)。
    *「国王や教会の権威の装飾」と「販促目的の装飾」を一緒くたに扱おうとする試み自体は極めて興味深い。
  • 娯楽芸術とは実際的な狙いがない活動へと仕向ける単に感情を高揚させるだけの芸術である。
    *ある意味Hello Kitty!や初音ミク(Hatsune Miku)の様な「それ自体は空」と表現されるキャラクター群を頂点とするフィクション世界の展開がこれに該当するとも。メキシコ人に言わせればグアダルーペの聖母もこの範疇に含まれる。

ヨーロッパの美術史ではこの魔術芸術と娯楽芸術が拮抗してきたとコリングウッドは概括し、真の芸術がその両方から脅威に晒されてきたと考えた。本来の芸術とは魔術や娯楽から分離されたもので、表現的で想像上の、ある種の言語であるとした。
*逆にここでいう「(魔術や娯楽から分離された)本来の芸術」というのが何を指しているか良くわからない。

  • 詩人・批評家のボードレールは、絵画論においてそれまでの歴史画を批判し、マネの平面性などに「近代性(モデルニテ)」を見出した。フーコーは、このボードレールの批評に近代芸術の発祥をみている。
    *「マネの平面性」…マネが目指したのはティツィアーノにまで遡る伝統的な象徴制や寓意性の拘束からの解放だった。そういえば日本絵画は狩野派まで遡っても同種の高速を受けた歴史が存在しない。日本絵画はそういう意味でもフランス絵画の世界に重要な刺激を与えたところがある。

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  • ダダイズムの影響をうけたマルセル・デュシャンは既成の商品であった便器を逆さに展示して「噴水」と名付けた作品を発表し「芸術」がひとの観点によることなど、その定義、芸術という概念そのものを問い直した。以降、20世紀を通じて、「反芸術」「コンセプチュアル・アート」なども産まれた。
    *総力戦体制期(1910年代後半〜1970年代)から産業至上期(1960年代〜1990年代)にかけて国際的に盲目的に進行していた「均質化」圧力に対するカウンター・カルチャーという側面も存在した。それゆえに以降の「多様化の時代」には勢いを失った側面も。

  • 「権威に認められた高尚な活動」が芸術であると誤解されることがあるが、そうではない。権威とは芸術作品を世に広めたり後世に遺したり芸術活動を推奨することを目的とした組織であり、そのために特にその価値がある芸術作品を認め知らしめるだけで、芸術を定義しているものではない。
    *この問題「ならば反権威的なら芸術として成立するか」という問題と表裏一体の関係にある。そもそも既存権威が崩壊すると、概ねそれまでこれと敵対してきた反権威運動も同時に崩壊する。まさしく「国王や教会の権威に対する絶対的敵対者」たらんとした19世紀政治的浪漫主義が辿ったのと同様の「人を呪わば穴二つ」の道。

ある活動や作品が芸術であるか否かについて、必ずしも誰もが同意する基準があるとは限らない。表現者側では、その働きかけに自分の創造性が発揮されること、鑑賞者側ではその働きかけに何らかの作用を受けることなどが芸術が成り立つ要件とされる。これに関して、表現者側では、自分の作品を構成するにあたり、先人の影響を受けたり、既に様式が決まっている表現方法、媒体を用いたりすることはよく行われるので、必ずしも表現の内容が完全に自分の創造性にのみよっているとは限らない。また鑑賞者側が、その表現が前提としている様式の暗号を知らないと働きかけはうまくいかない。
*ここで重要なのが、特に異文化間において「表現者側が鑑賞者に望む効果」と「鑑賞者が特定の表現から得る効果」のズレが発生しまくる事。そして(上掲の「二口女」のケースの様に)そうした誤読が次々と発生する余地が無数に存在する状況こそが、例えば国際SNS上の関心空間といったオープン空間においては「低エントロピー状態」に該当するという事。「不気味なもの、あり得ないものから目が反らせない神経症的状況」に立脚したドイツ・ロマン主義がフランスに伝わって政治的浪漫主義を生み、その崩壊後にエドガー・アラン・ポーやサド公爵の自己承認欲に立脚する文学からボードレール象徴主義を、フローベール写実主義文学を生み出す。むしろ一般的な意味合いにおけるグローバリズムの進行は、この種のポテンシャルを無駄に枯渇させる方向に進行する。

 何だか「(人の感性を同化させる)教養論」と「(感性共有の不可能性から出発する)絶対他者論」がコンフリトを起こしている様です。まさにそうした領域こそがアートの最前線とも。ならば上掲の漫画群もまたアートでOKという事になる?