こういう人を見掛ける度に私は「ぶらんこの絶好のチャンス/ぶらんこ(Hasards heureux de l'escarpolette、1767年頃)」を巡るエピソードを思い出してしまうのです。
まーた謝罪を求めちゃう人か。どんだけ不寛容なんだ。というか、「全ての人にとって鑑賞する価値のあるもの」なんてゾッとするんだが。完全に全体主義者じゃないか。 pic.twitter.com/4dLOLlD1mC
— かふお (@kafuka_tan) March 1, 2019
以下の一連のツィートの一部。
難しい時代になりましたね。手塚治虫だと思って安心して読んでたらレイプだのバイオレンスだの、なにこれひどい❗って言われかねない。
— 手塚るみ子 (@musicrobita) February 28, 2019
「会田誠さんらの講義で苦痛受けた」女性受講生が「セクハラ」で京都造形大を提訴(弁護士ドットコム) https://t.co/n192AX4Lm4 @YahooNewsTopics
表現の自由は、誰かを傷つけてもいい自由ではない。誰も傷つけずに表現することはできるし、むしろそれこそが全ての人にとって鑑賞する価値のあるものになるのだと思う。誰かを傷つけた時、それに向き合わずに、「これで傷つくお前が悪い」と開き直ったとき、表現者の資格は失われる。 https://t.co/66LzHQgfHi
— Sophia (@studentFem_N) February 28, 2019
あまりの暴論に私の心は深く傷ついた。
— 葉隠覚悟 (@kakugo_sidem) March 1, 2019
他にも同様の人がいるのにブロックされているようだが、貴方も自身の言葉の暴力に向き合っていないのでは?
どうせ私もブロックするのだろうが、それこそが貴方自身のダブルスタンダードを証明するものに他ならない。
ここにある様にあなたの表現は一定数の人を傷付けたと思われます。私も傷つきました。よって,あなたに表現者の資格はありませんので,呟きをやめてください。これがあなたの基準ですよ
— 明るいスバル (@ginsubax) March 1, 2019
あなたのツイートは手塚るみ子さんに対して傷つける言葉の表現です
— ボト (@botomeze) March 1, 2019
そしてその言葉は創作に様々なことを教えられ、感じてきた私もとてもとても傷つきました
私と手塚るみ子さんに謝罪してもらいたいです
ブロックなされるでしょうが…
貴方は言論統制を行ってきた古来からの独裁者と何ら変わりません
「誰も傷つけずに表現することはできる」なら、私は犬が死ぬ場面を見ると傷つくので、南極物語は放送禁止にして下さい!人が死ぬ描写も傷つくので、はだしのゲンもNHKの戦争特集も禁止して下さい!って成り立っちゃいますよね。まさか「私が認める表現だけは許す」なんて傲慢なことは思ってませんよね https://t.co/supcYbiPFe
— 水戸泉・2/24コミックシティく27b (@mittochi) March 1, 2019
「誰も傷つけずに表現することはできる」というのは誤りとはも言い難い(少なくともアンパンマンで傷ついた、という人は過分にして知らない)。ただそれが絶対善で無いのも自明の理だしそこは批判の対象になりうる。 https://t.co/5syaT6wVdN
— 悪胡瓜 (@walkyurie) March 2, 2019
アンパンマンの顔が怖い、見たくないって泣く子供もいますよ。だから【きりがない】って書いてるの。 https://t.co/nv2O8v12NK
— 水戸泉・2/24コミックシティく27b (@mittochi) March 2, 2019
ところで「ぶらんこ」の発注者は、キャンバス右下に描かれている足フェチの田舎貴族。 つまり実は「歴史的に最も著名なパンチラの性的消費を巡る実例の一つ」とも。
- そもそも産業革命が浸透して大量生産品の大量消費が重要な意味を持つ様になり、庶民こそが消費の主体の座を勝ち取った19世紀後半に入るまで、原則として芸術家はブルジョワ=インテリ=政治的エリート階層から発注を受ける形でしか生計を立てる事が出来なかった。そういう時代の最中に生きたフラゴナールは、実は「宮廷において新古典主義芸術が勝利してロココ調芸術の駆逐が決まった」時点で既に作家生命を終えていてもおかしくはなかったのである。
- 彼の作家生命を救ったのはジョルジュ・ソレルが「暴力論(Réflexions sur la violence、1908年)」の中で触れた「フォルス(暴力によって裏付けられた体制側のイデオロギー強要)に対抗する形で形成されるヴィオランス(あらゆる手段を用いて在野で遂行される創造的イデオロギー回避運動)」の反動的盛り上がりだった。 新古典主義運動とは要するに古代ギリシャ・ローマ時代の質実剛健の精神へと回帰する事によって中央政権の威信を回復しようとした政治的運動であり「地方貴族の没落と宮廷貴族への権力集中」「国王が恣意的に選んだ廷臣の横暴と、その座を巡っての水面下における権力闘争の激化」などを非難する声を押さえ込もうとする意味合いも備えていたのだが、同時に中央宮廷における血で血を洗う権力闘争に加わる術を持たず、所領への逼塞を強要されながら次第に零落していく地方貴族の反感を掻き立てる要素もタップリと備えていたのである。
そんな感じで以下続報…