諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【2020年代的風景】「全ての人にとって鑑賞する価値のあるもの」概念はナチスまであと1歩?

こういう人を見掛ける度に私は「ぶらんこの絶好のチャンス/ぶらんこHasards heureux de l'escarpolette、1767年頃)」を巡るエピソードを思い出してしまうのです。

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以下の一連のツィートの一部。

ところで「ぶらんこ」の発注者は、キャンバス右下に描かれている足フェチの田舎貴族。 つまり実は「歴史的に最も著名なパンチラの性的消費を巡る実例の一つ」とも。

  • そもそも産業革命が浸透して大量生産品の大量消費が重要な意味を持つ様になり、庶民こそが消費の主体の座を勝ち取った19世紀後半に入るまで、原則として芸術家はブルジョワ=インテリ=政治的エリート階層から発注を受ける形でしか生計を立てる事が出来なかった。そういう時代の最中に生きたフラゴナールは、実は「宮廷において新古典主義芸術が勝利してロココ調芸術の駆逐が決まった」時点で既に作家生命を終えていてもおかしくはなかったのである。
  • 彼の作家生命を救ったのはジョルジュ・ソレルが「暴力論Réflexions sur la violence、1908年)」の中で触れた「フォルス暴力によって裏付けられた体制側のイデオロギー強要に対抗する形で形成されるヴィオランスあらゆる手段を用いて在野で遂行される創造的イデオロギー回避運動)」の反動的盛り上がりだった。 新古典主義運動とは要するに古代ギリシャ・ローマ時代の質実剛健の精神へと回帰する事によって中央政権の威信を回復しようとした政治的運動であり「地方貴族の没落と宮廷貴族への権力集中」「国王が恣意的に選んだ廷臣の横暴と、その座を巡っての水面下における権力闘争の激化」などを非難する声を押さえ込もうとする意味合いも備えていたのだが、同時に中央宮廷における血で血を洗う権力闘争に加わる術を持たず、所領への逼塞を強要されながら次第に零落していく地方貴族の反感を掻き立てる要素もタップリと備えていたのである。

そんな感じで以下続報…