諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【不可視の壁】「タブーより弱きもの」?

やっと思い出しました。下記投稿に登場する黒人アーティストが実際に用いた表現は「黒人は芸術史上長らくモチーフとして不可視(Invisible)の存在だった」というもの。この辺りを扱うには、どうやら「タブー(Taboo)」と「ニーズ不在(Neesless)」の間に新しい歴史述語を設ける必要がありそうなのです。

今回の投稿の発端は以下のTweet

しかし反論多数。

サロンの審査員は、はらわた煮えくりかえっていたんですね。「ルネサンス時代はよかった……」みたいなことを、当時を生きてもないくせに言ってた。その時期にはちょうど「ボンペイ古代遺跡の発見」という出来事もあって、民衆も過去の作品に興味が湧いており、「新古典主義」という「ルネサンスの時代にならった絵を描け」といった思想で作品を評価したわけですね。

実はここは違ってて「新古典主義」の起源は18世紀中旬まで遡ります。

新古典主義(Neo-Classicism)

18世紀半ばに古代ギリシャ・ローマ芸術・文化の復興を謳ってローマで発生、直ちにヨーロッパ全土ならびに新大陸アメリカにまで広がり、19世紀初頭まで続いた芸術・文化運動の一大潮流のこと。

古典を制作の手本とすることは、ルネサンス以降の造形芸術にとって基本であるが、新古典主義の「新しさ」、つまりそれまでの古典の模倣と異なる点は、17世紀のイリュージョニスティックなバロックと18世紀の華やかなる宮廷美術のバロックに対する反発から生じたため、それらを否定するような古典の手本を意図的に選択したことにある。その基本的理念は、芸術家は「正しい理性と強い倫理観」によって社会を正さねばならないため、高潔な徳を具現化したギリシャ・ローマの古典芸術を模範とすべしという点にあった。このような強い道徳観・倫理観のため、新古典主義のこの態度を、18世紀末にその絶頂を迎えた啓蒙運動の反映とみなす声もある。

18世紀半ばから行なわれたヘルクラネウムポンペイなどの発掘作業や、それによってなされた考古学的発見や古代美術に関する書物が次々と刊行され、人々の古代に対する関心は増していく傾向にあった。そうした時勢のなかで、ドイツの考古学者で美術史家のヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンが1755年に『ギリシア美術模倣論』を出版、この中で「高貴なる単純さと静穏なる偉大さ」とギリシャ美術の本質を説き、新古典主義の典拠となった。これによってヴィンケルマンは新古典主義の主導的理論家とされ、この著作を発表後ローマに移住、すでに同地にいたドイツの画家アントン・ラファエル・メングスやスコットランドの画家ゲーヴィン・ハミルトンなどが彼の賛同者となった。彼らは、ヴィンケルマンの理論の下、新古典主義の礎となる絵画様式を形成した。

新古典主義をさらに発展させ、結実させたのはフランス絵画における新古典主義の先駆、ジャック=ルイ・ダヴィッドであろう。そしてその追随者であるジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルによって、この様式は完成を見ることとなった。

×ボンペイ夜話。○ポンペイ夜話。

発端となった反論一覧。

ドイツ・ルネサンスの巨匠デューラーと同世代であるが、グリューネヴァルトの様式は「ルネサンス」とはかなり遠く、系譜的には「ルネサンス」というよりは末期ゴシックの画家と位置付けるべきであろう。

ドイツとなるとこっちの話も。

そして

そんな感じで以下続報…