諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【最も単純な数理】面積はベクトル?

最近「デカルト座標系=直交座標系(rectangular coordinate system)」の話を繰り返していますが、その基本がこれ。17世紀以前まで遡れないのが案外重要…

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多変量解析の手法の一つ因子分析では「斜交座標系(oblique coordinate system)」なんて概念も出てきます。

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こうやって「人類の複雑な数理を扱う能力」は飛躍的向上を遂げてきたんですね。

人間が経験主義的方法論によって到達し得る限界」を乗り越える試みについて、これまでの投稿ではこんな具合にまとめてきた。

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  • 最初にデカルト象限が提言された時点では、その対象はこの空間における互換性が保証された幾何学と記号代数学くらいと考えられていた。

  • 人文分野からこれに風穴を開けたのがナポリ出身の「近代歴史哲学の創始者」ジャンバッティスタ・ヴィーコの主著「新しい学 Principi di scienza nuova(1725年)」。「数学が無から仮説を積み上げた結果である様に、歴史は無から人間の行為事業を積み上げたものである」という観点が年表のデカルト象限へのマッピングを可能としたのだった。
    *最近、中国古典の記述から地名と年代のセットを抽出し、これをソートする事で湖南地方に起こった中華文明が周代(紀元前1046年頃〜紀元前256年)、春秋時代(紀元前770年〜紀元前403年)、戦国時代(紀元前403年〜紀元前221年)を経て「秦の始皇帝による中華統一(紀元前221年)」に至るまでどの様にその活動の中心地を遷移させてきたかを明らかにしようとするプロジェクトがあった。様するにこういうのが「実証的人文科学」の原風景。

  • そして以降は「史料批判やアンケート技法といった)観測結果をどうプロッティングするかに関する技術」や「(標準分布と比較や評価次元検出などといった)こうした観測結果の集合体から有意味情報を引き出す(統計)技術」について研鑽が進行。次第に実証主義的人文科学の体裁が整っていく。
    *「白衣の天使」にして「ミス軍務省」のナイチンゲールなどの活躍によってそれが国家経営に不可分な技術という認識が確立したのも大きいとも。

  • これはある意味、詩集「草の葉(Leaves of Grass、1855年〜1892年)」で有名な米国詩人ホイットマン、および「堕落論」によって敗戦後の日本を風靡したフランス文学坂口安吾などが奉じたある種の行動主義、すなわち「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」なるイデオロギーの顕現。ジョン・スチュアート・ミルが「自由論(On Liberty、1859年)」の中で主張した「(進化は時間と死の積み上げによってのみ達成される。すなわち)文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならず、権力がこれを妨げる事が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定される」式の思考様式の実践面といえる。
    *ところでここで述べている様な(欧州の貴族的功利主義を起源とする)行動主義は、その性質上欧州博物学の伝統に沿って独特の科学主義の源泉となる事がある。英国の進化生物学者ドーキンス(Clinton Richard Dawkins, 1941年〜)の利己的遺伝子の様な形で…

  • ただしジャンバッティスタ・ヴィーコ(Giambattista Vico, 1668年〜1744年)が切り拓いた実証科学的人文科学には「(歴史に実際の足跡を残してきた)人間の具体的足跡そのもの」ではなく「(「厳格な史料批判を経た歴史史料」といった形での)言語化あるいは数理化された当人もしくは第三者による観測結果」しかプロッティング出来ないという本質的問題点が存在した。

    ヴィトゲンシュタインが「事象の総体としての世界は(一切の矛盾を原則論的に全て外部に追いやる事に成功した)言語空間として存立している」なる前提に立脚する論理哲学の分野を構想したのも、この矛盾に対する処方箋の一環。この世界には(その相互関係が必要にして十分なだけ記述可能である限り)「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」が共存しても別に構わないという立場。

    *その一方で実証主義人文科学は「各個人の様々な評価のN次元上へのプロッティングする」多変量解析なる新たな統計分野も開拓してきた。こうした意味空間方面での数理の発展があったからこそ数多くの心理検査が発明され「(人間の判断を模した)人間の様に振る舞う(第二世代までの)人工知能」が実現したのである。
    *しかしながら1990年代以降のいわゆる「第三世代人工知能」は別にこうした歴史の延長線上に現れた訳ではなく、ここにある種のコペルニクス的展開がある。要するに「人間を模すのではなく、目的を達成する為の純粋な形での数理を追求する方が遥かに成果を出しやすい」という事実が周知される様になったのである。とはいえ人類はまだまだこうした新たな展開に全然追いついているといえない。
    第二世代人工知能の亡霊がもたらす”AIの冬” - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)

ところでデカルト象限(N次元)概念の完成者ガウス(Carolus Fridericus Gauss、1777年〜1855年)も「数学は科学の王女であり、数論は数学の王女である」と述べている。上掲の様な「デカルト象限(N次元)に何をどうプロッッングするのが正しいか」なる疑問の数学版が整数論なのかもしれない?

ここで重要なのが、こうした統計学的展開に「ベクトルの内積演算」を巡るイメージ能力が深く関わってくるという点…

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①「標準偏差」はベクトルの長さの一種。

②「相関係数」とはN次元空間上におけるベクトルの角度の一種。

③「回帰分析」ではベクトルの長さと傾きからその射影を算出する。

④「主成分分析」では分散を最大にするベクトル角度を算出し、これを用いてN次元評価軸の次元数を減らす(各次元の重要度に序列をつけ、優先度の低い次元の情報を切り捨てる)。

*そしてもちろん20世紀後半に始まるデータサイエンス発展にこうした数理は欠かせない。

 対応が遅れているのは、むしろ「数理と人類が実際に生活している現実空間をどう対応させるか?」という問題の方?

私の投稿では「二項対立状態を入れ替えてみる」「二直線間を結ぶ最短距離が直線とならないなら、そこに概ね認識空間の歪みが潜在している」といったある種の幾何学的観念操作から時系列を再構築し「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」を炙り出す展開が多いのであえて要約してみた次第。そして、この発想の大源流を辿ると以下に辿り着くのです。

実証主義的科学の起源は、15世紀末から16世紀初頭にかけてパドヴァ大学ボローニャ大学の解剖学部中心に広まった新アリストテレス主義哲学、すなわち「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えば実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」に始まる。トマス・ホッブスの法実証主義ガリレオ・ガリレイの天動説やデカルト代数幾何学もこれに由来する。

そのさらなる起源を辿ると12世紀にイベリア半島出身のイスラム哲学者イブン・ルシュド / アヴェロエス(1126年〜1198年)が提示した「全能の逆説(omnipotence paradox、ユークリッド幾何学に対する非ユークリッド幾何学の存在が暗示されていた)」、およびスコラ学やラテン・アヴェロエス主義を介してのその晩期イタリア・ルネサンス(1480年頃〜16世紀前半)におけるリヴァイバルに辿り着く。

イブン・ルシュド(abū al-walīd muḥammad ibn ʾaḥmad ibn rušd, 1126年〜1198年) - Wikipedia
全能の逆説(omnipotence paradox) - Wikipedia
アヴェロエスの「知性単一論」 | borujiaya

アヴェロエス × アヴィケンナ

*「全能の逆説(omnipotence paradox)」…実はそこに既に「ユークリッド幾何学に対する非ユークリッド幾何学の存在」が暗示されていたとも。
全能の逆説(omnipotence paradox) - Wikipedia

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どうしてこういう考え方が国際的にコンセンサスとして共有されていないかというと、以下の様な「常識」と完全に矛盾してるせい。

今日の欧米文明は既にこの段階から次第に脱却しつつあるが「西洋文明のええとこどり」によって近代化に成功した日本は、同時に識らず識らずのうちにこうした欧米文明の暗黒面もそのまま疑う事なく継承してしまい、今日なおそれに拘泥し続けているという…

ここで急速に浮上してくる「誰がギリシャ・ローマ文明の継承者だったか?」問題…実は日本も「ユーラシア大陸文明圏」の一員として案外古代から巻き込まれていたりして…
*日本神話と古代ギリシャ神話に案外共通点が多いのは「古くから地中海 / 黒海 / アラビア半島沿岸の仲介を成立してきたアフリカ北岸からユーラシア大陸南岸にかけて中継貿易網」のせいとも。そしてさらに日本い仏教伝来とともに伝わった法華経は(地中海やオリエントにおけるそれの延長線上に現れ、インドにも伝播した)古代資本主義の産物だったりするという次第。そう、法華経だけでなく、当時はそもそも「資本主義的発展が既存秩序を脅かし、貧富格差の拡大をもたらす」問題が数多くの宗教展開の発端となってきたのである。東ローマ(ビサンチン)帝国とサーサーン朝ペルシアの戦争が泥沼化すると代替交易ルートとしてアラビア半島南岸が栄え、その後進的な内陸部への浸透がもたらす諸矛盾がイスラム教が開闢される契機となった様に。そしていざイスラム帝国が建設されると、古代ギリシャ・ローマ文明時代の古典を継承するサーサーン朝ペルシアの遺臣達や(東ローマ(ビサンチン)帝国帝国の宗教迫害を逃れ)シリアで隠遁生活を送る有識者層も領民として抱え込む事になり、「新参」のイスラム教学と「古参」の古代ギリシャ・ローマ文明遺産の矛盾を解消を目指すムゥタズィラ学派(8世紀〜13世紀)を国学として選択せざるを得なくなった様に。かつまた東ローマ(ビサンチン)帝国のセルジューク朝(1038年〜1308年)に対するマラズギルトの戦い(1071年)での大敗や、それに続くアナトリア半島失陥、およびイベリア半島におけるムラービト朝(1040年〜1147年)やムワッヒド朝(1130年〜1269年)の強勢が十字軍運動(11世紀末~13世紀)およびレパント交易振興が引き起こしたイタリア半島に資本主義的発展をもたらした結果、厳律シトー会(トラピスト会、1098年)やドミニコ修道会(1206年〜)やフランチェスコ修道会(1208年〜)が設立された様に。この流れは日本史においては「鎌倉新仏教の設立ラッシュ」に該当する。

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ムゥタズィラ学派(al-muʿtazilah) - Wikipedia
シトー会 - Wikipedia
ドミニコ会
フランチェスコ会

*そういえば、日本においてはそもそも「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の食み出し者だった禅宗(特に曹洞宗)や一向宗法華衆は教団維持費を「中央集権体制から下賜される所領からの徴税」に頼らない新システム、すなわちそれを旦那衆からの御布施に頼る代償に冠婚葬祭といった公的サービスを司る「葬式仏教」が開発されてきたのである。この過程が存在しなかった欧州においては中央集権実現の為に「所領からの徴税」に胡坐をかく教会から既得権益を取り上げる運動が激しく燃え盛ったのとは雲泥の差。とはいえ「体制側の要請に胡坐をかく」側面は日本においてすら皆無ではなく、それが明治時代における「廃仏毀釈」運動勃発の主要因となる。

ビスマルク宰相の「文化闘争(Kulturkampf)」
文化闘争(1871年〜1878年) - Wikipedia

葬式仏教 - Wikipedia
葬式は、要らない、か? - 住職日記

こうやって「全てが数値化されていく世界」は産声を上げたのです。

人類がそう考えた方が都合の良いものは全てベクトルとしてイメージして良くなった」時代というのは案外歴史が浅く、今日なお抵抗勢力を抱えているという話…