これまで投稿してきた歴史観と関係してくるのでピックアップ
新年の原稿を書きました。「パワーとは何か」という実体の変容と新たな認識の必要性について。/2018年、「権力の時代は終わった」と認識することから始めたい https://t.co/8oVho9bgu2
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) 2018年1月1日
「権力の終焉」(モイセス・ナイム)という本がある。2013年に刊行されて、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグが選書する「ブッククラブ」の栄えある第1回課題書にえらばれた。邦訳は2015年に日経BPから出ている。紹介文から引用すると、「経済、政治、社会、ビジネスなど、あらゆる分野における権力衰退の要因と影響を明らかにする」ということが書かれている本だ。
これまでの国民国家のパワーはつねに「上意下達」だった。大統領や首相から独裁者に至るまで、上座にいる権力者が国民に上から指示し命令し、規範を押しつけた。管理する権力者側とされる側は、分離した存在だった。だから「殺す側と殺される側」「権力者と反権力」といった対決の論理が成立したのだと言える。この二項対立で社会や政治を語る人は、いまの日本にもたくさんいる。
ところが、インターネットの普及や、国から国への移動が容易になったことなどさまざまな要因で、この構図が変わってきている。さまざまな情報が手に入るようになったから、たとえば終身雇用の会社に勤めている人でも「会社の中のことしか知らない」というようなことはない。外の世界をかんたんに知ることができれば、支配はしにくくなる。「権力の終焉」はこう書いている。
「現代はかつてないほど広い範囲で、かつてなく安い費用で、移動したり、学んだり、他人とつながったり、通信したりできる資源と能力が得やすくなった。そんな状況が人々の認識や感情に与えているインパクトが、豊かさ革命と移動革命の相乗効果によって大幅に増大している。この事実が、世代間の意識、そして世界観の隔たりを否応なく際立たせているのである」
国家のパワーが相対的に下がって、さまざまな小さなパワーが相対的に増大し、そこでは国家権力というただひとつのパワーではなく、さまざまなパワーの相互作用というようなものへと変わっていくことになる。
もちろん政府や自治体が統治機構としての意味をなくすわけではない。法律や警察権を背景にしたパワーは今後も続く。でも統治機構のパワーは、人々や組織などさまざまなパワーの間の相互作用としてしか生成されなくなる。小さなパワーが相互につながり、さまざまなパワーゲームを行うことによって生まれてくるネットワーク的なものが、新しい統治の形態になる。
そもそも「大きな政府」や大企業というのは、20世紀初頭の二つの世界大戦のためにつくられたものだ。国民全員が参加する総力戦を戦うためには、パワーを国家に集中させることが必要なのだ。そして同時に、総力戦のためにはすべての産業が効率良く、戦争のために生産しなければならない。だから中小企業をどんどん合併させて、大企業に集中させた。
この大きな政府や大企業という仕組みが、戦争が終わってからも高度経済成長を成し遂げるために有利に働いたというのは、経済学者の野口悠紀雄さんが「1940年体制 ―さらば戦時経済」という名著で書いている。でも高度成長はとっくに終わり、総力戦が起きないかぎりはもはや強大なパワーの集中は必要なくなった。そして実際、「権力の終焉」に書かれているようにパワーは分散する方向に進んでいるし、米NICが指摘しているように、未来はますますパワーが分散する世界になる。
こういう時代認識が、もっと多くの人に共有されてほしいと私は思う。もはや「強大なパワーが存在し、それに勇気を持って立ち向かう」という構図では、社会を的確に認識することはできなくなっているのだ。2018年は、この認識の共有とその議論をもっと進めて行きたい。
なるほど…これまでこのサイトで採用してきた歴史区分と突き合わせてみましょう。
①総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)‥総力戦概念の登場によって国家間の競争が全てとなった。冷戦への移行によって延命が図られた感がある。
*ユーラシア大陸各所における覇権を巡って英国とロシア大陸が衝突した19世紀のGreat Gameに端を発するが、次第に米露対決の形に推移していく。
- 「総力戦体制期」なる概念そのものは、公的には「産業革命がもたらした大量生産・大量消費の経済構造が消費の主体を王侯貴族や聖職者といった伝統的インテリ層から資本家や工場経営者や自営業者といった新興産業階層やホワイトカラー(中間管理職や事務職や技術職)やブルーカラー(末端労働者)に推移させた」ベル・エポック時代(1890年代〜1910年代前半)到来による欧州の経済規模の爆発的拡大が欧州における東西格差を押し広げ、これを遠因の一つとして勃発した第一次世界大戦(1914年〜1918年)による被害から1970年代まで完全回復に至らなかった特殊状況を背景としている。
*軍国主義者(右翼)と社会主義者(左翼)が共闘して(容易く絶対主義者に変貌する)自由主義者を狩った時代でもあった。
*與那覇潤「中国化する日本 増補版 日中「文明の衝突」一千年史」は、日本におけるネオ封建制(再版家父長制)の台頭に注目するが、実際にはアメリカの1950年代においても(新興移民の巣窟と化した)都心部を脱出して核家族単位でマイホームを持つ様になった中間階層の価値観保守化が進行している。これを推し進めたのは「第一次世界大戦遂行の為のプロテスタント陣営とカソリック陣営の野合」「管理経営浸透によるホワイトカラー層の経済状況向上」、そして「愉快な家族/一ダースなら安くなる あるマネジメントパイオニアの生涯 (Cheaper by the Dozen,原作1948年〜1950年、映画化1950年〜 1952年) 」、「パパは何でも知っている(Father Knows Best、ラジオドラマ1949年〜1954年、TVドラマ1954年〜1960年)」、「ザ・ハネムーナーズ(The Honemooners、1950年代TV放映)」といった父権的ホームドラマ(次第に供給メディアが映画からTV番組に推移)の大流行。
*しかしこうした動きは同時に「ネオ封建制(再版家父長制)」に反感を感じる新世代の若者達を各国で静かに急増させてきたのであった。
日本における一つの区切りがこの事象。
東大安田講堂陥落(1969年1月)と、その後処理に伴う東大受験の中止があった年、TVの娯楽番組は大幅な変革に着手した。
- 「白土三平の忍者アワー」の突然の打ち切りとアニメ版「サザエさん(1969年〜)」の放映開始。
- 学習誌が「冷戦を背景に世界滅亡危機を煽るSFジュブナイル小説」の代わりに藤子不二雄「ドラえもん(1969年〜)」などの連載が開始される。
- 股旅物の人気凋落を受け、TV版最終回にテキ屋の主人公を殺したら苦情が殺到し、そのフォローとして映画版「男はつらいよ・シリーズ(1969年〜1998年)」が封切られる。
一般には「当時のメディアは(安田講堂陥落と東大受験中止の報道に接して)急激に保守化した視聴者の趣向に対応すべく、慌てて改変を行った」と説明される事が多い。そしてこの年に始まる「サザエさん」や「ドラえもん」や「男はつらいよ・シリーズ」は、どれもその後ずっと続く長寿番組へと成長していく。
①産業至上主義時代(1960年代〜2010年代?)‥おそらくその起源は戦前の「産業報国運動」にまで遡る。要するにそれは総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)を構成する重要な「埋め込まれた一部」として出発したのであった。
- 1970年代に入ると次第に「体制側と反体制の無限闘争」が政治の主題ではなくなっていく。その一方で市場経済を個々の商品というより商品供給企業の販売戦略やマスメディアによるプロモーションが牽引する様になり、ある種の「例外状態(Ausnahmezustand)」が現出。それまで産業界を牽引してきた「(究極的には売価ゼロを目指して人件費や設備投資費も含む原価を限りなくゼロに近づけていく)松下幸之助の水道哲学」に成り替わる形である種の絶対主義体制が敷かれる展開を迎える。
*ここでいう「絶対主義体制」は要するに「総力戦体制時代」には「容易く絶対主義者に変貌する」という理由で軍国主義者(右翼)と社会主義者(左翼)が共に狩った自由主義に由来する。著名な成功例としては「ディズニー・ランド」を建築したウォルト・ディズニー、「iPod」「iPhone」を成功させたスティーブ・ジョブズ辺り。日本でいうと「角川商法」でヒット作を次々と生み出した角川春樹辺りの名前が挙がる。
- バブル崩壊(1991年〜1993年)や角川春樹逮捕(1993年)を経てその権力は漁夫の利的にマスメディアに集中する様になった。その一方で産業界は「松下幸之助の水道哲学」に回帰。後者には従来の反体制派も追随。
この時代の重要な区切りとなったのはオウム真理教サリン散布事件(1994年〜1995年)や阪神・淡路大震災(1995年)など。
監督によると、タイトルや歌詞をあえて曲解し悪意に満ちた映画に仕立て、いつか来る未来に生きるということをイメージして制作したという。
③インターネット自由主義時代(1990年代〜?)…その起源自体は総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)以前まで遡る。要するにインターネットの国際的普及によって初めて「(右翼からも左翼からも「容易に絶対主義に転じる」という理由で狩られてきた)それ」が個人単位で実践可能となったとも。
私は人間がその生きて行く状態を一人一人に異にしているのを知った。その差別は男性女性という風な大掴おおづかみな分け方を以て表示され得るものでなくて、正確を期するなら一一の状態に一一の名を附けて行かねばならず、そうして幾千万の名を附けて行っても、差別は更に新しい差別を生んで表示し尽すことの出来ないものである。なぜなら人間性の実現せられる状態は個個の人に由って異っている。それが個性といわれるものである。健すこやかな個性は静かに停まっていない、断えず流転し、進化し、成長する。私は其処に何が男性の生活の中心要素であり、女性の生活の中心要素であると決定せられているのを見ない。同じ人でも賦性と、年齢と、境遇と、教育とに由って刻刻に生活の状態が変化する。もっと厳正に言えば同じ人でも一日の中にさえ幾度となく生活状態が変化してその中心が移動する。これは実証に困難な問題でなくて、各自にちょっと自己と周囲の人人とを省みれば解ることである。周囲の人人を見ただけでも性格を同じくした人間は一人も見当らない。まして無数の人類が個個にその性格を異にしているのは言うまでもない。
一日の中の自己についてもそうである。食膳に向った時は食べることを自分の生活の中心としている。或小説を読む時は芸術を自分の生活の中心としている。一事を行う度に自分の全人格はその現前の一時に焦点を集めている。この事は誰も自身の上に実験する心理的事実である。
このように、絶対の中心要素というものが固定していないのが人間生活の真相である。それでは人間生活に統一がないように思われるけれども、それは外面の差別であって、内面には人間の根本欲求である「人類の幸福の増加」に由って意識的または無意識的に統一されている。食べることも、読むことも、働くことも、子を産むことも、すべてより好く生きようとする人間性の実現に外ならない。
巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、もしくはエトワアルの広場の午後の雑沓初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に対して、足の入れ場のないのに驚き、一歩の後に馬車か自動車に轢ひき殺されることの危険を思って、身も心もすくむのを感じるでしょう。
しかしこれに慣れた巴里人は老若男女とも悠揚として慌てず、騒がず、その雑沓の中を縫って衝突する所もなく、自分の志す方角に向って歩いて行くのです。
雑沓に統一があるのかと見ると、そうでなく、雑沓を分けていく個人個人に尖鋭な感覚と沈着な意志とがあって、その雑沓の危険と否とに一々注意しながら、自主自律的に自分の方向を自由に転換して進んで行くのです。その雑沓を個人の力で巧たくみに制御しているのです。
私はかつてその光景を見て自由思想的な歩き方だと思いました。そうして、私もその中へ足を入れて、一、二度は右往左往する見苦しい姿を巴里人に見せましたが、その後は、危険でないと自分で見極めた方角へ思い切って大胆に足を運ぶと、かえって雑沓の方が自分を避けるようにして、自分の道の開けて行くものであるという事を確めました。この事は戦後の思想界と実際生活との混乱激動に処する私たちの覚悟に適切な暗示を与えてくれる気がします。
様するにここでも「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」が回っているらしいのです…