諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】21世紀における「王子様」像の在り方について

多様性と多態性を重視する第三世代フェミミズムの国際的拡大は「男子は生物学的に殲滅されるべきである」とまで主張を先鋭化させたウルトラ・フェミニズムを抜きにしても「男子は何の為に存在しているのか?」について改めて厳しく問いかけてくる方向に煮詰まりつつある様です。

f:id:ochimusha01:20180208181129j:plain

  • 昔の王子様は荊の壁を乗り越えて眠り姫に辿り着いてキスさえすれば、それで勝てた。ところが今日では荊の壁が最初から存在しない一方、眠り姫は最初から自発的に好きで引き篭もってるだけで「おうよ、本当に外の世界がそんなに面白いなら、妾(わらわ)にもちゃんとわかる様にプレゼンしてみろや」とか上から目線で言い出すのである!! まぁ確かに「顧客の要求を読んで、それを満たす」のが資本主義(産業至上主義)の基本な訳ですが…
    *「顧客の要求を読んで、それを満たすのが資本主義の基本」…欧州では一般にこの考え方が浸透するのはボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821年〜1867年)やフロベール(Gustave Flaubert 1821年〜1880年)辺りが(自らの変態性を社会に承認させるべくマーケティング技術を駆使した)サド公爵や(世界初の自活した作家になるべく炎上商法まで駆使した)エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809年〜1849年)を(再)紹介して以降となる。

    *一方、考えてみたら日本文化は「天の岩戸」神話からしてそんな感じだった。

  • 女子側もここまで徹底した「専守防衛」の姿勢はそれなりに犠牲が大きいらしく「ダメよ、閉じこもってたら壁の絵とのお話を始めちゃう。「頑張れジャンヌ!!」」「私も完璧じゃない。付け入る隙なら幾らだってある!!」「男はどんなに頑張っても臭いけど、我慢する!!」とか自問してたりする。
    *そんなに男は臭いのか? 教えてディズニー!!

    *男子も「命奪うより、心奪いたい」とか考えていたりする。だが基本的に臭い…

    *その一方で女子は「臭くない男子」が「それまで女子を餌食にして生きてきた捕食動物」である可能性が高い事も意識しているらしい。そんなに男子は臭いのか…

  •  そして最後に辿り着くのが「パプリカ(2006年)」や「インセプション(Inception、2010年)」といった、まさに真実が何かもう分からなくなってしまった世界。2000年代において既にここまで話は煮詰まっていたのだった。


    *考えてみればそもそもの起源は「実証主義的人文科学(Positive Humanities)」の発祥にまで遡る。まずデカルト象限(N次元評価)の概念が生じ、これの人文科学への応用過程で物理学同様「事象そのものでなく、その観測結果しかプロッティング出来ない」限界に突き当たる。

    人間が経験主義的方法論によって到達し得る限界」を乗り越える試みについて、これまでの投稿ではこんな具合にまとめてきた。

    f:id:ochimusha01:20180112172800j:plain

    • 最初にデカルト象限が提言された時点では、その対象はこの空間における互換性が保証された幾何学と記号代数学くらいと考えられていた。

    • 人文分野からこれに風穴を開けたのがナポリ出身の「近代歴史哲学の創始者」ジャンバッティスタ・ヴィーコの主著「新しい学 Principi di scienza nuova(1725年)」。「数学が無から仮説を積み上げた結果である様に、歴史は無から人間の行為事業を積み上げたものである」という観点が年表のデカルト象限へのマッピングを可能としたのだった。
      *最近、中国古典の記述から地名と年代のセットを抽出し、これをソートする事で湖南地方に起こった中華文明が周代(紀元前1046年頃〜紀元前256年)、春秋時代(紀元前770年〜紀元前403年)、戦国時代(紀元前403年〜紀元前221年)を経て「秦の始皇帝による中華統一(紀元前221年)」に至るまでどの様にその活動の中心地を遷移させてきたかを明らかにしようとするプロジェクトがあった。様するにこういうのが「実証的人文科学」の原風景。

    • そして以降は「史料批判やアンケート技法といった)観測結果をどうプロッティングするかに関する技術」や「(標準分布と比較や評価次元検出などといった)こうした観測結果の集合体から有意味情報を引き出す(統計)技術」について研鑽が進行。次第に実証主義的人文科学の体裁が整っていく。
      *「白衣の天使」にして「ミス軍務省」のナイチンゲールなどの活躍によってそれが国家経営に不可分な技術という認識が確立したのも大きいとも。

    • これはある意味、詩集「草の葉(Leaves of Grass、1855年〜1892年)」で有名な米国詩人ホイットマン、および「堕落論」によって敗戦後の日本を風靡したフランス文学坂口安吾などが奉じたある種の行動主義、すなわち「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」なるイデオロギーの顕現。ジョン・スチュアート・ミルが「自由論(On Liberty、1859年)」の中で主張した「(進化は時間と死の積み上げによってのみ達成される。すなわち)文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならず、権力がこれを妨げる事が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定される」式の思考様式の実践面といえる。
      *ところでここで述べている様な(欧州の貴族的功利主義を起源とする)行動主義は、その性質上欧州博物学の伝統に沿って独特の科学主義の源泉となる事がある。英国の進化生物学者ドーキンス(Clinton Richard Dawkins, 1941年〜)の利己的遺伝子の様な形で…

    • ただしジャンバッティスタ・ヴィーコ(Giambattista Vico, 1668年〜1744年)が切り拓いた実証科学的人文科学には「(歴史に実際の足跡を残してきた)人間の具体的足跡そのもの」ではなく「(「厳格な史料批判を経た歴史史料」といった形での)言語化あるいは数理化された当人もしくは第三者による観測結果」しかプロッティング出来ないという本質的問題点が存在した。

      ヴィトゲンシュタインが「事象の総体としての世界は(一切の矛盾を原則論的に全て外部に追いやる事に成功した)言語空間として存立している」なる前提に立脚する論理哲学の分野を構想したのも、この矛盾に対する処方箋の一環。この世界には(その相互関係が必要にして十分なだけ記述可能である限り)「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」が共存しても別に構わないという立場。

      *その一方で実証主義人文科学は「各個人の様々な評価のN次元上へのプロッティングする」多変量解析なる新たな統計分野も開拓してきた。こうした意味空間方面での数理の発展があったからこそ数多くの心理検査が発明され「(人間の判断を模した)人間の様に振る舞う(第二世代までの)人工知能」が実現したのである。
      *しかしながら1990年代以降のいわゆる「第三世代人工知能」は別にこうした歴史の延長線上に現れた訳ではなく、ここにある種のコペルニクス的展開がある。要するに「人間を模すのではなく、目的を達成する為の純粋な形での数理を追求する方が遥かに成果を出しやすい」という事実が周知される様になったのである。とはいえ人類はまだまだこうした新たな展開に全然追いついているといえない。
      第二世代人工知能の亡霊がもたらす”AIの冬” - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)

    ところでデカルト象限(N次元)概念の完成者ガウス(Carolus Fridericus Gauss、1777年〜1855年)も「数学は科学の王女であり、数論は数学の王女である」と述べている。上掲の様な「デカルト象限(N次元)に何をどうプロッッングするのが正しいか」なる疑問の数学版が整数論なのかもしれない?

    *そして19世紀後半以降の(それまで欧米精神を支えてきた)国王と教会の権威失墜が科学主義(Scientism)や、産業革命がもたらした大量生産・大量消費スタイルが消費の主体を王侯貴族や聖職者といった伝統的インテリ=ブルジョワ階層から新興産業階層(資本家・工場経営者)やホワイトカラー(中間管理職・事務職・技術者)やブルーカラー(工員や肉体労働者)に推移させるとデフレ信仰(Deflationism)なる概念を発祥させるのである。

    *デフレ信仰(Deflationism)…ナポリ経済哲学が広まって「国家」が経済を動かす主体として意識され始めた絶対王政時代においては、既にその一部として(兵器や兵装の消費者としての)軍隊や(紙を消費する文書行政の主体としての)官僚制の消費活動が相応の役割を果たしていた。

    19世紀に入ると「王侯貴族や聖職者といったランツィエ(rentier、不労所得階層)でなく、実際に生産活動に携わる産業者同盟(les indutriels)こそが国家経営の実権を掌握すべき」とするサン=シモン主義が台頭し、その裏付けとして学校で民族史観教育が始まる。

    サン=シモン主義は「労使一体」を強調する全体主義的傾向が特徴のテイラー主義(およびこれに心酔してマルクスグノーシス主義的/無政府主義的人間解放論を放棄したレーニン)を介して科学的マルクス主義に継承されたが「資本主義がもたらす貧富の差の拡大の阻止」こそが政治の主題だった時代が1960年代までに一段落すると自壊を余儀無くされる。

    *しかしながらT型フォードの大量生産(1908年〜1927年)がもたらしたモータリゼーションの時代における消費者の関心は、次の瞬間にはもう既に「自分らしい車探し」すなわち多様性と多態性の追求に移ってしまったのだった。旧共産主義圏で人気の「共産主義瘡蓋(かさぶた)論」や、その象徴としてのトラバント(1958年〜1991年)の人気凋落にもこれに重なる部分がある。こうした展開は「どうしてフォルクスワーゲン・タイプ1(1938年〜2003年)は、同様に2,100万台以上も生産されながら後世における人気凋落を免れたのか」といった問題と併せて検討されるべきである。

    フォード・モデルT - Wikipedia

    f:id:ochimusha01:20180209064959j:plain

    トラバント - Wikipedia

    f:id:ochimusha01:20180209065552j:plain

    フォルクスワーゲン・タイプ1 - Wikipedia

    f:id:ochimusha01:20180209071114j:plain

    その一方で資本主義世界においては特定の商品というより、それを供給する企業の販売戦略やマスメディアの宣伝が「例外状態(Ausnahmezustand)」的に消費市場を牽引する「産業至上主義時代」が訪れたが、1990年代における経済危機を契機に信頼性の喪失が始まってしまう。

    例外状態 - Wikipedia

    その一方で記憶媒体やメモリの容量の急拡大が新たな商品群を生み出し、1990年代以降のインターネット普及が消費者にマスメディアを介さない情報収集手段を獲得。

    「企業の販売戦略やマスメディアの宣伝の例外状態(Ausnahmezustand)化」は、その反動として「 「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」なるカール・マルクスグノーシス主義(反宇宙的二元論)的人間解放論から出発したヒッピー世代の「消費ニヒリズム」も生み出してきた。

    こうした「消費ニヒリズム」が広まって2010年代後半にはとうとう「報道そのものが信じられない」時代に突入。

    まぁ男も女も原則として「自分達が信じたいもの」しか信じないのである。その限界を超えるべく、今日も「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」が回っているのだった。

これ1950年代の「太陽族」ブームからの積年の課題とも。

石原慎太郎狂った果実(1956年)」より

「大人達が俺達にそっくり受け渡そうとする考え方や感じ方を見てみろよ。俺達にピンとくるものが一つでもあるかよ」

「まったくお手上げだね。俺たちは俺たちに合ったやり方で生きてくよ」

 「俺たちが、思い切ったことをしたくても、正面切ってぶつかる何があるんだよ?」

「要するに退屈なのよ、現代ってのは」

「そうだよ、そうなんだよ。その退屈が俺たちの思想ってもんで、その中から何かが生まれるかもしれない」

もはや1950年代には男子は自分が何をすべきか分からなくなっていたのである!! ちなみに「太陽族」の前身は太宰治「斜陽(1947年)」のベストセラー化から生まれた「斜陽族」。かくして「大日本帝国敗戦に伴って廃止された華族の没落を描いた物語」は「明るい未来が全く想起出来ず、湘南に集って悪ぶる上流家庭の子弟達の物語」へと継承され、さらには「GHQが設計図を引いた)大学卒業が身分保障を伴わなくなる時代への移行に対する反発として勃発した学生運動」に受け継がれていったのでした。
*そして「学生運動は所詮、男女差別の克服に無関心」と見切った竹宮恵子が創始した「大泉サロン」を震源地とした少女漫画革命が、1990年代以降世界中に波及して「多様性と多態性を重視する」第三世代フェミニズムに基本理念として受容されていく。

かくして現実の貴族主義が断末魔を上げながら滅びていく一方「庶民のプリンス(王子様)やプリンセス(お姫様)への憧憬心」はむしろ洗練化される展開を迎えます。

とりあえずディズニー、問答無用でディズニー…
*「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」としたカール・マルクスグノーシス主義(反宇宙的二元論)的無政府主義的人間解放論の重要な別解…

叡智の光_N2-反宇宙的二元論とヤルダバオート

人は王子様に生まれつくのではない。王子様になるのだ?