諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

20世紀は遠くなりにけり① 産業史の主役は今も「国家」や「企業」?

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ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義(Liebe, Luxus und Kapitalismus、1912年、和訳1987年以降)」によれば、自由主義の躍進はアヴィニョン捕囚(1309年〜1377年)時代に教皇が連日の様に開催した饗宴、ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化(Die Kultur der Renaissance in Italien, ein Versuch、1860年、和訳1925年以降)」によればそれに続いた教皇庁の領主化から始まったとされています。まさしく1970年代に入って再発見される「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマの顕現過程。20世紀前半に軍国主義者(右翼)からも社会主義者(左翼)からも等しく「容易く絶対主義に陥る危険思想」と恐れられた所以。

究極の個人主義? ところが実際の歴史はこれまでのところむしろ国家や企業やマスメディアがそれを勝手に代行する形で刻まれてきたのです。まさしく「実証主義(英legal positivism, 独Rechtspositivismus)の父」トマス・ホッブズリヴァイアサン(Leviathan、1651年)」の世界。
*そもそも産業革命の大量生産・大量消費スタイルの普及により、消費の主体を王侯貴族や聖職者といった伝統的インテリ=ブルジョワ階層から庶民にシフトしたのが19世紀後半。人類はまだまだこの変化を完全には消化し切れてない?

真の意味で「各個人が自らの多様性と多態性を追求すべき」なる理念が時代のメインストリームとなり得たのは、インターネット普及が始まった1990年代以降とも。そういう観点から「現代日本に至る商業史(Commercial History」をざっくりまとめるとこんな感じになるのです。

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*大元は以下だが、こちらは政治的流れのみに注目した内容。

  • 20世紀初頭の日本に根付いた自由主義思想は、第一次世界大戦特需終焉の象徴としての関東大震災(1923年)や世界恐慌到来(1929年)を契機に軍国主義者(右翼)と社会主義者(左翼)から挟撃される形で一時的衰退を迎える。この苦境を生き延びたのは総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)に埋め込まれる形で居場所を得た「産業報国運動」となる。

    *19世紀後半から20世紀前半にかけては戦争報道こそが新聞の部数を伸ばしたので軍人と新聞社の結託が見られた事、「大衆小説の人気キャラ」シャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパンが第一次世界大戦(1914年〜1918年)に際しては愛国的英雄として振舞う事を期待された事実から決して目を逸らしてはならない。

    *その一方で「平和の方が金になる」財界人は一貫してこうした動きへの反発を続けたが、不況や恐慌が到来する都度、彼らは国家や社会に対する影響力を大幅に削がれ、戦争抑止力として機能しなくなる展開を迎えてきたのだった。

  • 戦後復興期にはこの精神が「(特定の社会インフラ的製品を、売価ゼロを目指してひたすら製造過程を効率化していく)松下幸之助水道哲学」へと継承され、高度成長を牽引。しかしながら「自動車産業がT型フォード一色に染まる展開」が、かえって「自分らしい車」を求めての選択の自由、すなわち消費者の嗜好の多様化と多態性を引き出してしまった様に、まさにこの展開こそが新たな時代を準備してしまったのだった。
    毛沢東主義(Maoism)とアンディ・ウォーホルYMOを結ぶのは「人間の個性獲得を絶対悪として憎悪する」大同思想…

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  • かくして(社会インフラを為す)特定商品に代わって商品供給企業の販売戦略やマスメディアの広告が主導する様になり産業至上主義時代(日本では1960年代〜?)が訪れる。

  • だがこうした展開は、同時にかつて軍国主義者(右翼)と社会主義者(左翼)が共に弾劾した自由主義の暗黒面、すなわち「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマをも表面化させもしたのである。すなわち…
    *例えばウォルト・ディズニーの「Magic Kingdom(魔法王国)」…

    *例えばメディアミックス技法を駆使した「角川商法」によって、コカイン密輸事件に連座して逮捕される直前まで日本国民全体に自ら監督を手掛けた「REX 恐竜物語(1993年)」を「ジュラシック・パーク(Jurassic Park、原作1990年、映画化1993年〜)と同グレードの作品と信じ込ませる事に成功していた角川春樹

    *例えばiPodiPhoneを成功させたApple社長スティーブ・ジョブズ

    *例えば良い意味でも悪い意味でも「メディア王」として君臨してきたルパート・マードックベルルスコーニ

    ルパート・マードック(Keith Rupert Murdoch、1931年〜) - Wikipedia

    オーストラリア系アメリカ人の実業家でメディア・コングロマリットニューズ・コーポレーション(現在ではエンターテインメント関連事業は21世紀フォックス、出版関連事業は新しいニューズ・コーポレーションに分社化)を所有する世界的なメディア王として知られる。21世紀フォックス及びニューズ・コーポレーションの株主、代表取締役という立場でテレビや新聞、映画、雑誌、音楽産業、インターネットなどを中心とした世界に散らばるメディア企業を率いる。長年オーストラリアを拠点としていたが、1986年にアメリカ合衆国でFOXテレビを創設した際に連邦通信規則との関係でアメリカに帰化

    シルヴィオ・ベルルスコーニ(Silvio Berlusconi、1936年〜) - Wikipedia

    王政時代のイタリア王国ロンバルディア州ミラノ市の中流家庭(父は銀行員)出身。元々は実業家であり、戦後イタリアで1960年代から1980年代にかけて建設業と放送事業で財を成した企業家でもあった。特に後者については「イタリアのメディア王」と呼ばれるほどの権勢を誇り、国内の民放局を殆ど独占しているとされている。総資産は約78億ドル(世界第118位)で、2011年時点で世界有数の資産家の1人でもある。
    *例えば「欧州に日本アニメを紹介した立役者」だったりもする。

    9年間にわたりイタリアの首相に相当する閣僚評議会議長(第51・57・58・60代)を務めた、政界再編(タンジェントポリ)後のイタリア政界を代表する政治家の1人である。また1994年からフォルツァ・イタリアの初代党首を務め、2009年の自由の人民(自由国民党)結党後も同党党首を務めたため、両党党首の通算在任期間は約17年にも及んだ。

    自らの事業の一角を占める新聞・テレビ・インターネットなどを通じて有利な政治活動を行っているとしばしば非難を受けている。また首相としての権限を使用してメディア統制を進めているともされており、DDL intercettazioni(通信傍受法)可決に反対してイタリア語版ウィキペディアが一時更新を停止する事件が起こっている。汚職疑惑、性的スキャンダルなどの問題行為も取り沙汰されている。
    これらの汚職疑惑、性的スキャンダル対する追及を受け未成年者売春罪と職権乱用罪で起訴された上に、2010年以降の経済危機における対処を批判され苦境に立たされ、2011年に欧州連合に公約した国家財政緊縮法案のイタリア議会下院可決後に退陣すると発表、同時に政界引退を表明したが、その影響力はなお衰えていない。
    *その「絶対君主」振りはフランス革命勃発に関与し、2月/3月革命(1848年〜1849年)以降のフランス本土に強い影響力を残したオルレアン家を連想させる。

    *まさしく「太陽王ルイ14世が遺言で述べた様に「絶対君主は成功して必要悪として生き延び続けるか、失敗して絶対悪として滅ぼされるか」の世界。ある意味、この時代を代表する強烈な「絶対君主達」が最後の一人まで死に絶えるまで「産業至上主義」時代は続くのかもしれない。

    要するに「総力戦体制時代」なるもの、まず新時代についていけない国や人の脱落こそが序章だったかもしれない。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(在位1888年〜1918年)、「中華帝国皇帝」袁世凱(1859年〜1816年)、「怪僧」ラスプーチン(1869年〜1916年)、大日本帝国武断派寺内正毅・長谷川好道)達…

  • しかしながら、それでもこうした潮流は1990年代に入るとソ連崩壊や経済危機の連続を背景に産業至上主義は新たな段階に突入する。

    「デフレ信仰」…「高度成長期=総力戦体制時代」への回帰を志向した「究極的には売価ゼロを目指して(人件費や設備投資を含む)原価を限りなくゼロに近づけていこうとする松下幸之助水道哲学」の暴走状態。

    *ただしこうした展開は時として「競争の質的変化」を引き起こす。江戸幕藩体制下日本における製紙業の過当競争が産んだ未曾有の出版文化振興、砂糖産業の過当競争の産物ともいうべき「カロリー革命」、19世紀米国における不毛な鉄道開発競争が残した電信インフラ、そしてコンピューター技術の発展を支えてきたメモリ開発競争…

    「産業ニヒリズム…西洋文明全体に対する懐疑からカウンターカルチャーとしての鈴木大拙の「日本的霊性」やインドの瞑想文化やマルクスフロイト主義に傾倒したヒッピー文化の延長線上に現れ、上掲の「デフレ信仰」と(少なくとも部分的には)合流。

    *ある意味、フランス3月革命(1830年)が結局はブルボン家からオルレアン家への王統交代に終わった事に失望し「国王や教会の権威に対する無限闘争」を宣言した青年フランス(政治的浪漫主義、小ロマン派)運動が「敵の消滅」によって自らも対消滅を余儀なくされていった歴史を彷彿とさせる。「旧世代の絶対者達が中々退場しない状況への苛立ち」は、それが何を生もうが「敵」が消え去れば存続不可能となるのである。フランスにおける(理性偏重主義に対する反動としての)象徴主義運動や自然主義運動、「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」としたカール・マルクスグノーシス主義(反宇宙的二元論)的で無政府主義的な人間解放論は、まさにそうして出現した「焼け跡状態」を埋める為に発明されたともいえる。

    *「マルクスフロイト主義」…上掲の「(科学的マルクス主義からは完全に除去されてしまった)マルクス元来の人間解放論」の延長線上に「人間は自由に振舞っている様に見えて無意識や超自我の命令に従っているに過ぎない」とするシグムント・フロイト精神分析理論が現れて、ドイツ社会学の起源となったとする考え方。民族的自尊心から「英国保守主義の父」エドマンド・バークや「フランス社会学の父」デュルケームから受けた影響について一切言及したくないドイツ・アカデミズムのジレンマの産物とも。戦後日本においてはここから出発したマックス・ウェーバーの「鉄の檻」理論が独自の発展を遂げ、1990年代には「エヴァンゲリオンの赤い海」へと到達する。

    その一方でこうした「焼け跡状態」こそが「純粋に数理を追求する」機械学習(第三世代人工知能)や(グローバル市場を見据え現在急成長の)植物工場の様な異次元のコストダウン手段が台頭する契機となった事も見逃せない。

    1990 年代に入って普及し始めたのが施設園芸と水耕栽培を組み合わせた植物工場です。これまでの養液制御、温度制御に加えて光環境も制御要因として加え、地上部の光、温度、湿度、二酸化炭素、地下部の培養液組成、温度環境などを制御することによって、季節や場所にかかわらず年間を通じて作物にとって最適な環境を維持し、連続的に生産することが可能になりました。また、栽培棚を多段にすることで単位面積当たりの収穫量を何倍にも向上させることができます。水耕栽培を高度に集約することによって、驚くべき効率を実現することができるのです。

    2050 年には地球人口は90 億人になるといわれており、人類が持続的成長を続けることは食料生産の観点からも難しくなってくると言われてます。いかに生産効率のよい「農地」を確保するかは、大きな課題となっているのです。気候変動や土壌環境に影響されない植物工場は、人類の食料生産を支える重要な技術になる可能性を秘めています。さらに、現在の日本は、農業の担い手不足という深刻な問題も抱えています。その点についても、植物工場は少人数で管理することができることから、今後の日本の食料生産において重要な技術になることが考えられます。通年で安定的に、かつ安心安全な質の高い作物を生産できるという点は、食産業にとっても大きなメリットとなるでしょう。

  • また1990年代より本格化したインターネットの普及、特に2000年代中旬からのトラフイック急増が契機となり「国家も企業も敵として叩く単独覇権者(絶対王政システム的には自殺行為)」にまで成長したマスメディアが「老人向けの時代遅れの歴史遺産」に転落する一方、「直接個人同士が繋がるソーシャル空間」を巡る国家と企業の競争が加速する事になる。

    改めて「国家」…

    改めて「企業」… 

     そして「データ利用法」を巡る論議

    *一見「検索覇者」グーグルより「ソーシャル覇者」フェイスブックの方が有利に見えるが、関心空間を巡るインフルエンサー問題で自打球。とはいえこの分野で最後に勝ったのは子会社のインスタグラムで、結局顧客は流出させてない。Spotifyも最終的にはAppleに敗れたしAGFAの強さは確かに本物…

様するにここでも自由主義の普遍化を巡って「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」が回っている様なのですが…

この最終サイクル、元来は「多様性と多態性を尊ぶ」個人の自由主義の勝利過程でならねばならない筈なのです。

与謝野晶子 母性偏重を排す(1916年)

私は人間がその生きて行く状態を一人一人に異にしているのを知った。その差別は男性女性という風な大掴おおづかみな分け方を以て表示され得るものでなくて、正確を期するなら一一の状態に一一の名を附けて行かねばならず、そうして幾千万の名を附けて行っても、差別は更に新しい差別を生んで表示し尽すことの出来ないものである。なぜなら人間性の実現せられる状態は個個の人に由って異っている。それが個性といわれるものである。健すこやかな個性は静かに停まっていない、断えず流転し、進化し、成長する。私は其処に何が男性の生活の中心要素であり、女性の生活の中心要素であると決定せられているのを見ない。同じ人でも賦性と、年齢と、境遇と、教育とに由って刻刻に生活の状態が変化する。もっと厳正に言えば同じ人でも一日の中にさえ幾度となく生活状態が変化してその中心が移動する。これは実証に困難な問題でなくて、各自にちょっと自己と周囲の人人とを省みれば解ることである。周囲の人人を見ただけでも性格を同じくした人間は一人も見当らない。まして無数の人類が個個にその性格を異にしているのは言うまでもない。

一日の中の自己についてもそうである。食膳に向った時は食べることを自分の生活の中心としている。或小説を読む時は芸術を自分の生活の中心としている。一事を行う度に自分の全人格はその現前の一時に焦点を集めている。この事は誰も自身の上に実験する心理的事実である。

このように、絶対の中心要素というものが固定していないのが人間生活の真相である。それでは人間生活に統一がないように思われるけれども、それは外面の差別であって、内面には人間の根本欲求である「人類の幸福の増加」に由って意識的または無意識的に統一されている。食べることも、読むことも、働くことも、子を産むことも、すべてより好く生きようとする人間性の実現に外ならない。

与謝野晶子 激動の中を行く(1919年)

巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、もしくはエトワアルの広場の午後の雑沓初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に対して、足の入れ場のないのに驚き、一歩の後に馬車か自動車に轢ひき殺されることの危険を思って、身も心もすくむのを感じるでしょう。

しかしこれに慣れた巴里人は老若男女とも悠揚として慌てず、騒がず、その雑沓の中を縫って衝突する所もなく、自分の志す方角に向って歩いて行くのです。

雑沓に統一があるのかと見ると、そうでなく、雑沓を分けていく個人個人に尖鋭な感覚と沈着な意志とがあって、その雑沓の危険と否とに一々注意しながら、自主自律的に自分の方向を自由に転換して進んで行くのです。その雑沓を個人の力で巧たくみに制御しているのです。

私はかつてその光景を見て自由思想的な歩き方だと思いました。そうして、私もその中へ足を入れて、一、二度は右往左往する見苦しい姿を巴里人に見せましたが、その後は、危険でないと自分で見極めた方角へ思い切って大胆に足を運ぶと、かえって雑沓の方が自分を避けるようにして、自分の道の開けて行くものであるという事を確めました。この事は戦後の思想界と実際生活との混乱激動に処する私たちの覚悟に適切な暗示を与えてくれる気がします。

そして最新の話題展開に目を向けると…

 どうやら、まだまだ分析が全然足りてない模様?