最近の投稿と関連が深いのでメモがてらコレクション。
「性の領域は極めて私的な領域であり、公権力が介入すべきでない」とは言われるが、にも関わらず人類の多くの文化圏で性への介入があるのには理由があるだろうと私は考えている。私が見るに、ある個人が性をどう捉えるかは、それ以外の人の自尊感情や自己肯定感に、大きな影響を与える
— ultraviolet (@raurublock) 2018年1月30日
ある人が不倫やポルノ等の是非について「問題無い」と考えていたとして、それがその人1人の問題に閉じるかと言うと、私が見るに、どうもそうではない。ある個人が「考え」を持っていることが、他の人の自尊感情や自己肯定感に結構なダメージを与えることがあり、すると「介入しろ!」てことに
— ultraviolet (@raurublock) 2018年1月30日
これを突き詰めて考えると、「思想の自由は、ホモ・サピエンスという社会的動物と、相性が悪く、ところどころで相反する」ということになろうかと思う。おそらく「性」以外の領域でもそういうことは時々ある。その種の問題について人類は昔から、正解のない綱渡りを続けてきた
— ultraviolet (@raurublock) 2018年1月30日
これまでの投稿における「自由主義とは何か? なぜそれは絶対王政まがいの強権体制に堕してしまうのか?」 「社会自由主義とは何か? 何故それはいとも容易くナチズムまがいの全体主義体制に堕してしまうのか?」なる設問とも関わってくる重要な提言ですね。まさしく「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマの典型的顕現例…
こうした投稿を通じての一つの発見。それは実は「(専制と紙一重の)真の個人主義」と「社会自由主義(反自由主義)」と「各個人の実際の自由度」は、N次元評価空間において直交(というよりおそらくは斜交)する別々の評価軸なのかもしれないという辺り…
ただし、ここでいう「(専制と紙一重の)真の個人主義」なる次元上での展開は「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」を描くとも?