海外でも大人気となったあだちとか「ノラガミ(2011年〜)」における神様の定義…
まずは大前提。神と人間の個人的関わりは直接接触がある期間に限られ、距離が開くと速やかに全てが忘却の彼方へと消え去っていく。
- 信者の信仰の形態が神の状態に直結する。例えば多額の寄進を受ければ金持ちに、多数の神社が建てられたら土地持ちになる。
- 自分の事を覚えてくれている氏子(信者)が一人もいない状態で死んだ無名神は、この世から存在した履歴ごと抹消されて消え去る。逆に安定して氏子(信者)が存続する有名神なら、死んでも死んでも再生し続けるが(全体像を俯瞰すると矛盾だらけの存在となる事を余儀なくされる為に)その都度の記憶欠落が不可避。
- 神とは必ず何かしらの形での人間の願望の顕現なので、それ自体は全て善とされ一切の罪から解放されており、その行動が問題となった際にも決して自らは罪に問われない。代わりに神を善導する立場にある「神器」が罰されるのである。
*「それ自体は必ず何かしらの形での人間の願望の顕現なので、全て善とされ一切の罪から解放されている」…これドゥルーズ=ガタリの「一切の哲学はそれぞれ相応の背景を有するので一切批判の対象とされるべきではない」なる指摘と密接に関係してくる気がする。批判されるとしたら常に「哲学そのもの」ではなく「哲学者」?
*「神器」…その神に選ばれた元人間の家臣団。武器や防具でもあり、神は彼らを介して人間界に介在する。元来は放置しておくと人間界に害を及ぼすのみの亡霊に過ぎないが、名を与えられその記憶を封印する契約が結ばれてる間だけ暴走が抑えられ、有効活用される。
- 神器は原則として時期ごとに排他的に一人の神にのみ仕える。そうでない神器は必然的に「野良=正統性を失った蔑まれる存在」と目され忌避される。実際、「野良」は神から(正規の神器には到底任せられない)汚れ仕事を密かに任される事が多い。
作中にはそのエスニックさが受けて日本に土着した金髪碧眼で洋装の「渡来神」、本家を騙って信者獲得を狙う「詐欺神」、クライブ・バーカー「キャンディマン(Candyman、1992年)」の様な「都市伝説が続く限り犠牲者の物語を蓄積しながら語り継がれていく祟り神」、「神化して広大なネットの海を漂いながら炎上商法で信者を増やす仮想アイドル」などもバリエーションとして登場。
*物語中で繰り返されるのが「地上におけるアイドル・ビジネスとの相似性」。
最近、ここでいう「神」とは「作品」の事ではないかという疑問が脳内で急浮上…
これは言うぞ、絶対言っとくぞ
— 47AgDragon(しるどら) (@47AgD) 2018年3月22日
作者は作品を絶対に貶めるな、いいか、絶対だぞ
それは好きになってくれた誰かをコケにするのと一緒だから、他人を馬鹿にする行為と同じだから
当然、売れてないって言い方もそう、お前の好きなものは社会に認められてないんだって言われてうれしいファンいないよ?
これアマチュアプロ問わず、基本的に覚えといてほしいことだと思いまする
— 47AgDragon(しるどら) (@47AgD) 2018年3月22日
まあアマチュアは苦しくなっちゃったら気を付けてても出ちゃうの仕方ないかなーって思うんだけど、プロや商業作品ではホント矜持として禁句な所ので、愚痴や感傷、続巻呼びかけでもあんまお勧めしないっす_(´ཀ`」 ∠)_
好きなものが、全然知らない他人に面白くないとか言われてもつらいのに、作者にそれ言われるとファンは大ダメージなので、そこはエンタメとして踏ん張ってもらえると嬉しいなーと思います
— 47AgDragon(しるどら) (@47AgD) 2018年3月22日
むしろ、なんかキャンペンしようキャンペーン(*´ω`*)
ちなみに俺も初仕事のころにこれやらかしまして、後から見てやべー、直したいーってなったんですが、有名な方に「出たものが受け手にとってはすべてだから、それをよくないっていうのは受け手に対する冒とくだし、それを良しとして受け取った制作陣にも失礼だよ」って言われて大反省した覚えがあります
— 47AgDragon(しるどら) (@47AgD) 2018年3月22日
じゃーどうするんだって話にもなりますが、そういうのを踏まえて次回や盛り上げにつなげていくしかないです
— 47AgDragon(しるどら) (@47AgD) 2018年3月22日
世の中のだいたいのことって、みんなのそういうもやもやしたものを昇華していくことでよくなっていくので、失敗重ねてから大ヒットって人も多いし、地道に繋げていくといいかなって思います
でも我慢するとストレスたまらない?って人は、まず変換を覚えるといいです
— 47AgDragon(しるどら) (@47AgD) 2018年3月22日
基本的に創作は「なら自分がやっちゃる」なので、そう言う不満は基本的に創作の種でする
そう言う不満を理想に変換するエネルギーにするのが創作の大きな点でもあります
創作の種を自分で捨てるのはもったいないのですな
そんでもなんかこう、ツライので吐き出したいときは作品とは別にしておきましょ
— 47AgDragon(しるどら) (@47AgD) 2018年3月22日
自分のことと作品は別だし、他人の気持ちや人生まで巻き込みたいわけじゃないからね
実際、変に周りにネガティブふりまかないだけで助かる命(作品や作家や受け手)があるので、どーしてもやりたいときはオフレコとかノートにぶちまけましょ
— 47AgDragon(しるどら) (@47AgD) 2018年3月23日
あとそれホント創作の種
誰もやらないとか満足しないから創作することが多いと思うので、満足したら創作しにくくなるよ、ホント
無限の渇望大事
「これ好きだな」と思った絵を作者が卑下しまくっているのを目撃してしまうと悲しくなりますからね……あれは絶対にしないようにとこころがけております
— 瑠璃ららこ@お肉系絵描き (@rara_toybox) 2018年3月22日
あれ、受け手からすると、俺の見る目なかったのかな…って思ったりするんですよね…(´;ω;`)
— 47AgDragon(しるどら) (@47AgD) 2018年3月22日
*ここで言及されている内容は、明らかに「(高低差や電位差とぃた)差異こそがあらゆる運動エネルギーの源(これが尽きると、以降何の変化も期待不可能な熱的死状態に到達)」なる熱力学的エントロピー論まで含んでいる。
ならば「神器」とは…「神器」とは…よく考えてみたら、かなりヘーゲル哲学における「人間の幸福は、民族精神(Volksgeist)ないしは時代精神(Zeitgeist)とも呼ばれる絶対精神(absoluter Geist)と完全なる合一を果たし、自らの役割を与えられる事によってのみ達せされる」に近い概念だったりするのかもしれません。
*ヘーゲル哲学はさらに人間が「事象の地平線としての絶対他者」との合一を果たすには、ある種の「個人としての死」を経る必要があるとする。これは禅の修行における「個我を超越し真我に到達する為の神秘的プロセス」とも重なってくる…
カントとヘーゲルは、近代のドイツ思想の二大巨頭だが、その思想的な関係はどうなのか。カントが、不可知な物自体に対する現象の立場だったとすれば、ヘーゲルの立場は物自体を可知化したといえる。しかし物自体は可知化し得るのか。ヘーゲルが絶対的観念論といわれる秘密もここにある。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) 2018年3月17日
オカルトは、カントのいう不可知な物自体の探索だった。オカルトの誤謬は人間が生きたまま物自体へ行けると考えたことだ。それに対してヘーゲルは死ぬ必要があると言った。それが精神現象学だがヘーゲルのいう死は観念的なものでしかなかった。しかし、問題は実際の死は本人にはあるのかということだ。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) 2018年3月17日
そしてもしかしたら…「ミザリー的熱狂的ファン」以前に「製作側」のメタファーだった? そしてもちろん、ここでいう「制作側」は二次創作も含んでいるという次第…あれ、気付くともう日本の高天原神話と全然関係ない世界に突入してる…いずれにせよ一刻も早くの連載再開を希望します。