人間は、総じて、根拠のある事実を求めるかもしれないが、実際は、それは関係性や構造において、自分を越えたものとしてあるだけで、個別的には、推論と直感があるだけだろう。人間は常に、推論と直感のキャッチボールをしているといえる。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) 2018年3月27日
形而上的世界は、このような推論と直感の加乗から生まれるのだろう。正岡子規の古今批判に対して蓮田善明が古今的世界に見た、先験的失恋という現実は、この加乗を生み出すものだ。だからその形而上的世界は、先験的失恋という現実を超えるのだが、現実を肯定する悲哀が残る。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) 2018年3月27日
とっさに思い出したのが、カール・マルクスと同時期に反ヘーゲル哲学の論陣を張ったキルコゲールの「時空間を超えた彼方で自己実現の目標として待つイエス・キリスト像」そして宮沢賢治がそれに対する憧れを文学として表現した法華経における「久遠の仏」概念…
不安の概念は、ある特定のものに関係しているところの恐れやそれに似た諸概念とは全く違ったものである。不安とは可能性の前の可能性として自由の現実性である。-不安の概念-
— Søren Kierkegaard (@Kierkegaard_jp) 2018年2月14日