諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ゾンビランド佐賀】【化猫の怨念】【大隈重信】実は廃藩置県を待つ事なくそれ以前に既に…

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それ以前に佐賀といえば化猫騒動。発端となったのは江戸幕藩体制開始時の藩主は龍造寺家だったのに、いつの間にか鍋島家に変わっていた事。しかも、当時のルールではそれは改易必死の展開だった上に「龍造寺家の末裔による直訴」なんて致命的展開まであったのに幕府はあえて放置。それで庶民が想像力をたくましくして「実は龍造寺家復興運動は忠義心にかられた化け猫の復讐劇だった」なんて奇想天外な物語を発想し、これが怪談本や芝居の題材にまでされてしまう展開を迎えたのでした。

しかも幕末維新期、フェートン事件(1808年)対応失敗の屈辱を晴らすべく苛烈な財政再建役人を5分の1に削減し、磁器・茶・石炭などの産業育成・交易(密貿易)に力を注ぐ)と軍備の近代化に邁進し母方の従兄弟にあたる薩摩藩島津斉彬にも影響を与えた「蘭癖のそろばん大名」「肥前の妖怪鍋島直正閑叟)の義兄で(江戸藩邸守旧派と幾度も衝突しながら反射炉建設、アームストロング砲や「日本初の実用蒸気船蒸気船」凌風丸の製造、日本初の天然痘ワクチン導入などを実質的に主導した「幕末のダビンチ」鍋島茂義は龍造寺家末裔の武雄鍋島家の出身だったのです。「化け猫が幾度でも蘇ってくる」恐るべき伝統…

鍋島直正(第10代佐賀藩種1830年〜1863年) - Wikipedia
鍋島茂義(1800年〜1863年) - Wikipedia
鍋島茂義と蘭学
凌風丸 (建造1863年〜1865年、就航1865年〜1870年) - Wikipedia

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アームストロング砲 - Wikipedia

日本では佐賀藩がこの砲の製造を試みたといわれるが、実際に製造した砲がアームストロング砲と同等のものだったかについては、戦時中の金属類回収令により佐賀藩製造とされるアームストロング砲が供出で失われたために検証が不可能となり議論が分かれている。これはアームストロング砲の製造にはパドル炉、圧延機、加熱炉、蒸気ハンマーなどの大規模な設備が必須であり、当時のイギリスですら最新最高の設備を持った工場でしか生産できないような物だった。当時の佐賀藩がイギリスに匹敵するほどの設備を持っていたとは考えにくいためである。

精練方に務めていたアームストロング砲の製造に成功したと記した「からくり儀右衛門」こと田中久重の記録によると、鉄製の元込式の6ポンド砲である。また、福岡日日新聞社の北島磯舟によると、32本の施条が刻まれていたとされる。古写真も残されており砲身の構造こそ不明だが、元込め式であるのは写真で確認可能である。

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ただし戦争とは情報戦でもあり「北朝鮮の核ミサイル開発状況」同様、その実態にかかわらず戦況を左右する。黒船来航(1853年)に際してペリー艦隊が「日本の表玄関」長崎を避けて浦和に現れたのは、佐賀藩がこれをズラリと長崎港湾防衛拠点に並べていた(そういう情報を積極的に国内外にも流していただけで、実際どうだったかは未確認)せいともいわれ、こうした説が存在する時点でもう確かにフェートン号迎撃失敗の汚名返上には十分役立っている。

黒船来航 - Wikipedia

当時の人口は、アメリカが1833年に約1416万人、清が約4億人、日本が1834年に約2760万人であった。まさにこの圧倒的人手不足状態こそが伝統的にアメリカの「対外進出作」と積極的移民誘致政策の原動力となってきたのである。

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そして、こうした 「殺されたって殺されたって、残留する怨念の強さから幾度だって蘇ってくる」「しかも蘇る都度、最先端技術を導入してパワーアップする」恐るべき化け猫気質は、最終的に佐賀県出身の政治家大隈重信1838年〜1922年)に憑依して日本全土を制圧するまでに至ったのです。
*「足が1本ないくらいが、全身に栄養が回ってちょうどいい」は名言。

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  • 長年「薩長幕府に対するカウンター」を看板に政治的キャリアを積んできた関係から、大隈重信には「政治家としての経験値がべらぼうに高いトランプ大統領あの独特の成り上がり感はそのまま)」という側面も存在する。

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  • 実際、とある歴史解説書が大隈重信マーガレット・ミッチェル風と共に去りぬGone With the Wind、1963年)のヒロインたるスカーレット・オハラとの同時代性を指摘していた。要するに(目の前に横たわる諸問題について適切な処方箋を見出せない)既存道徳に囚われず、次々と(当時の常識においては)破天荒な振る舞いと大博打に打って出て成功を収める大悪党。山本周五郎赤ひげ診療譚1958年)」を原作とする黒澤明監督作品「赤ひげ1965年)」に登場する赤ひげ先生のスタンスもまさにこれだが、さらに起源を辿るとフランスにおけるオノレ・ド・バルザック人間喜劇」シリーズの自称義賊ヴォートラン(Vautrin)や「馬上のサン=シモン」皇帝ナポレオン3世あたりに辿り着く。
  • ところで原作のスカーレット・オハラアイルランドから移民してきた一族の末裔だったが、映画化に際してこれにネイボッブ(英国におけるインド成金)の外観が与えられた。白人とインド人が結婚するとしばしば「肌は白く瞳の色も薄いが髪の色は黒でチリチリ」の子供が生まれてくるが、その典型例がビビバン・リーなのである。その事が歴史上どういう意味を有するか誰もちゃんと考察してない。
    *「ネイボッブの娘」はシャーロット・ブロンテジェーン・エア(Jane Eyre、1847年)」においてはヒロインの恋敵、すなわち「発狂して幽閉されており、その後ロチェスター宅の火災で消し炭に変わってしまう本妻バーサ」として登場してくる。そこには「ネイボッブの娘」特有のエスニックでエロティックな雰囲気に対する英国本土淑女の嫉妬心の様なものが感じられる。外国人のナイスバディ死すべし、慈悲はない!!

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    実はこうした「(到底偶然とは思えない観測上の不手際」は(白人側からのアジアに対する神秘的エロティズム投影の影響を色濃く受けた)エマニュエル夫人がブームが日本へも上陸した時代に登場した「日本初のグラビア・アイドル」アグネス・ラム(中国系ハワイ人)の名前を冠し、黒髪を靡かせつつ(やがて、よりエスニックな緑色に変更)その肌の色はあくまで白かった高橋留美子うる星やつら」におけるラムを筆頭にお雪や弁天の外観についての考察にまで及ぶ。
    *特に弁天の大源流たるサラスバーティを擁するヒンドゥの諸概念そのものがデンジャラス。何せシヴァ神の神妃にして(インド=アーリア系諸族の証たる)純白の肌の持ち主たるパールヴァティーは、激昂する都度肌の色が(ドラヴィダ系鼠族の証たる)浅黒く増すにつれドゥルガー、カーリィと破壊力を増していくのである。

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    *意外にも司馬遼太郎が当時の雰囲気について「外国人っぽいとして(蝦夷の末裔たる刻印として)彫りの深い東北人が再評価された時代でもあった」なる重要な証言を残している。そういえば「鬼」だけでなく「天狗」にも外国人起源説があるのだ。

    *その一方で面堂終太郎が転校してきて以降の「うる星やつら」には、面堂終太郎のハートを射止めたがってるクラスの女子が主人公諸星あたるに対して「お前がラムのダイナマイトボディに対する日本の防波堤だろうがよぅ」と発破をかける場面がある。少しでもラムが面堂に関心を持つと即リンチ。しかも話はそれだけでは終わらず、その面堂に「男装の麗人」のライバルが現れる…国際SNS上の関心空間に滞留する匿名女子アカウントの間に「女は観賞用(熱狂対処としての推し)と実用(実際の自分にとっての恋愛対象)を使い分ける」なるコンセンサスが生じた契機とも。

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大隈重信 (1838年〜1922年)- Wikipedia

幕末までの水面下での活躍

天保9年(1838年)2月16日、佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人砲術長) を務める上士の家柄。
*後に(土佐系人脈の)吉田茂に見込まれて政界入りした元大蔵官僚で、総理大臣として高度経済成長と東京オリンピックを実現した池田勇人を生んだ家系でもある。

7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学(後に復学を許されたが戻らず)。この頃、枝吉神陽から国学を学び、神陽が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣江藤新平らと参加した。安政3年(1856年)、佐賀藩蘭学寮に転じた。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。

長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。そして慶応元年(1865年)、佐賀藩が長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)にて、副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。またフルベッキに英語を学んだ。 このとき新約聖書アメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けた。また京都や長崎に往来して、尊王派として活動した。

 グイド・フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck、あるいはVerbeek、1830年〜1898年) - Wikipedia

オランダ出身ながらアメリカ合衆国に移民し、日本に宣教師として派遣され活躍した法学者・神学者・宣教師。日本で発音されやすいようフルベッキと称したことから、現在に至るまでこのように表記されている。

1859年オーバン神学校を卒業時、同門のブラウン、シモンズと一緒に米国オランダ改革派教会の宣教師に選ばれた。直後の3月22日長老教会で按手礼を受けるが、翌日改革教会に転籍して、正式に米国オランダ改革派教会の宣教師に任命された。4月18日にマリア・マンヨンと結婚し、5月7日にサプライズ号で、ブラウン、シモンズと共に日本へ向けてニューヨーク港より出帆。

上海に一時寄港した後、ブラウンとシモンズは先に神奈川に渡り、上海に妻マリアを残して11月7日に、日本語習得のために長崎に一人で上陸した。フルベッキは長崎の第一印象を「ヨーロッパでもアメリカでも、このような美しい光景を見たことはない」と記している。長崎では聖公会のジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズに迎えられ、崇徳寺広徳庵に同居した。その後、12月19日に妻マリアを上海より呼び寄せた。1860年1月26日には長女を授かり、エンマ・ジャポニカ命名するが、生後2週間で死去する。
*「ヨーロッパでもアメリカでも、このような美しい光景を見たことはない」…遠藤周作「沈黙」において活写された五島列島の景色と重なってくる。というか、当時日本に乗り込んだ宣教師達は実際に隠れキリシタンの存在を掘り当てるのである。

長崎では、開国後も依然としてキリシタン禁制の高札が掲げられており、宣教師として活動することができなかった。しばらくは私塾で英語などを教え生計を立てていた。1862年には、自宅でバイブルクラスを開いた。また1861年から1862年にかけては佐賀藩大隈重信副島種臣がフルベッキの元を訪れ、英語の講義を受けている。1863年文久3年)の生麦事件をきっかけとした薩英戦争の時は上海に避難して、1864年に長崎に戻った。また大隈重信副島種臣はこの頃から、フルベッキから英語の個人授業を受けている。大隈はフルベッキの授業によってキリスト教に興味を抱いたと述懐している。

1864年元治元年)には、長崎奉行より幕府が長崎につくった長崎英語伝習所(フルベッキが在籍した当時は洋学所→済美館→広運館などと呼ばれた)の英語講師への招聘があり、フルベッキは教師として幕府に雇用された。また、この幕府の英学所「済美館」とともに、佐賀藩が設置した致遠館でも教鞭を取っており、彼に師事して集まった学生達の姿はフルベッキ群像写真(上野彦馬撮影)として継承され、現在も長崎歴史文化博物館で展示公開されている。

済美館の教え子には何礼之、平井希昌がおり、また大山巌も学生の一人であったといわれている。何礼之はその後私塾を開き、前島密陸奥宗光高峰譲吉、安保清康、山口尚芳らを輩出した。何礼之私塾の塾生はフルベッキのアドバイスや援助も受けていた。

慶応3年(1867年)11月、佐賀藩前藩主の鍋島直正等と親交があった関係で、佐賀藩がフルベッキを雇用することになった。しかし佐賀藩が外国人の立ち入りを認めなかったため、フルベッキのために長崎に藩校「蕃学稽古所慶応4年8月25日以降は致遠館)」が設立された。英語、政治、経済などについて講義をしている。また、オランダで工科学校を卒業した経歴から工学関係にも詳しく、本木昌造の活字印刷術にも貢献している。同年には佐賀藩家老の村田若狭と弟綾部恭に洗礼を授け、1868年には仏僧清水宮内に洗礼を授けた。伊藤博文はフルベッキの門弟だったといわれることもあるが、伊藤は長崎に長期滞在したこともなく、直接の関わり合いを示す文書は残っていない。しかし伊藤はフルベッキが滞在していた大徳寺に宿泊したことがあり、フルベッキの弟子である何礼之の弟子、芳川顕正大徳寺に呼び寄せて英語を学んでいたことから、両者の間に何らかの接触があったと見られている。またほかに相良知安、山口尚芳、本野盛亨らを輩出している。

慶応3年(1867年)から4年(1868年)にかけては薩摩藩土佐藩によるフルベッキの引き抜きが行われようとしたが、大隈らが1000両の給金を支払うよう藩にかけあったことで決着している。明治元年1868年)には岩倉具視の子、岩倉具定と岩倉具経が門弟となり、致遠館で学んだ。

1869年(明治2年)2月13日に、フルベッキは突然明治政府より、大学設立のために江戸に出仕するように通達を受ける。到着したばかりの後任宣教師ヘンリー・スタウトに伝道を引き継ぎ、江戸に向かった。江戸では、法律の改革論議の顧問と大学の設立の仕事だった。

1868年6月にフルベッキは大隈重信に、日本の近代化についての進言(ブリーフ・スケッチ)を行った。それを大隈が翻訳し、岩倉具視に見せたところ、1871年11月に欧米視察のために使節団を派遣することになった(岩倉使節団)。直前までフルベッキが岩倉に助言を与えていた。1877年には、日本政府より勲三等旭日章を授与された。

1868年に復興した開成学校(旧幕府開成所)の教師を務めながら、学校の整備を行い、1869年12月には大学南校と改称した(1873年には再び開成学校)。

大学南校在職中の1870年10月から1873年まで教頭を務め、規則や教育内容の充実に努めた。大学南校在職中の1871年明治4年)10月5日、明治天皇より学術の功績への感謝と更なる発展への期待を希望する旨の勅語を賜わる。1872年には、福井藩明新館で教師をしていたウィリアム・エリオット・グリフィスを呼び寄せて、化学の教授をさせた。ダビッド・モルレーが文部省より督務官として召還されたときには大変信頼し、高橋是清に家を探させた。

1873年明治6年)に政府左院において翻訳顧問となり、1875年(明治8年)から1877年(明治10年)まで元老院に職を奉じた。この間の1874年(明治7年)にラトガース大学より神学博士の学位を授与された。しかし、宣教師としての活動に意欲を見せるようになり、1877年(明治10年)9月に官職を退き、東京一致神学校や華族学校(学習院)の講師を務めた。

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 慶応3年(1867年)、副島と共に将軍・徳川慶喜大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛の上、佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた 。

明治元年1868年からの活躍と明治十四年の政変1881年での失脚

明治維新に際しては小松清廉の推挙により明治元年1868年)、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。キリスト教禁令についてのイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、明治2年1869年)からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。

当時、各藩が戊辰戦争の軍費調達等のため贋貨を鋳造し、大量に流通させたため経済に影響を及ぼしていました。

日本は会談で贋貨の回収と近代貨幣制度の導入を国際公約するとともに、外国人の抱えた贋貨の正貨への等価交換を保証しています。この会議が新貨幣発行や造幣局の設置のきっかけとなったと言われています。

なお、各国との事前交渉や通貨改革への取り組みは大隈重信の主導で行われています。「高輪談判」が行われる前、大隈は各国との交渉を行う一方、貨幣改革案をとりまとめますが、大久保利通が反対します。討幕後も薩摩藩土佐藩が贋貨鋳造に関わっていたため新政府の信用が失墜するのを恐れての事です。

大隈は追い詰められますが、病に倒れていた木戸孝允の説得により大久保は事の重大さを認識し改革案を了承します。薩摩藩は自らが建白書を提出し薩摩藩での贋貨鋳造の事実を明らかにしたことで処分を免れます。贋貨鋳造をせずに軍資金調達した長州藩は怒りますが、維新の大義のためと責任追及はうやむやになりました。

  • 浦上信徒弾圧事件(浦上四番崩れ、1867年〜1873年)の際、イギリス公使ハリー・パークスは「日本の行っている事は野蛮国のすることであり、今すぐ信者を開放し、信教の自由を認めよ」と抗議してきた。その対応に手をこまねいていた明治政府は、交渉役に、英語が話せ、キリスト教の知識もあった大隈を選び派遣した。しかし当時大隈はまだ31歳だったため、パークスは「大隈ごとき身分の低い小役人とは話はできぬ!」と激怒したという。しかし大隈は「一国の代表者である私と話したくないと言うのなら、抗議は全面撤回とみなす。また、あなたの言うことは、国際法で禁止されている内政干渉である」と言い返し、互角に渡った。パークスは日本を極東の小さな島国ぐらいにしか思っていなかったため、日本の若者の口から“国際法”や“内政干渉”という単語が出てきた事に驚いたという。さらに大隈は「或る歴史家は言う、欧州の歴史は戦乱の歴史なりと。又或る宗教家は言う、欧州の歴史は即ちキリスト教の歴史なりと。この二者の言うを要するに、キリスト教の歴史は即ち戦乱の歴史なり。キリスト教は地に平和を送りし者あらずして剣を送りしものなり。キリスト教が生まれて以来、ローマ法王の時代となり、世に風波を惹起して、欧州の人民を絶えず塗炭の苦に陥らしめたのは是何者の所為なり」と続け、今の日本でいきなりキリスト教を開放すれば混乱が起きるとして、パークスを説得した。大隈はこのことが大きく評価されて政界の中心へと躍り出たが、その一方で信者であった浦上村の農民3,384人は20藩に分けて移され、牢に入れられてキリシタン信仰を捨てるように説得や拷問を受ることになった。
    遠藤周作も「女の一生(1982年)」でこの浦上四番崩れに取材している。もしかしたら「沈黙(1966年)」において妖しい役割を果たすた長崎奉行井上筑後守のモデルはこの時の大隈重信とも。

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次いで、大蔵大輔となり、鉄道・電信の建設、工部省の開設などに尽くした。同年、三枝綾子と再婚。明治3年(1870年)に参議に補され、1872年(明治5年)には、伊藤博文らと協議し、官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立を決めた。1873年明治6年)5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。

富岡製糸場は1872年(明治5年)、明治政府が設置した日本初の本格的な器械製糸工場だ。当時、外国への最大の輸出品は絹の元になる「生糸」だったが、輸出急増に伴って、質の悪い生糸が粗製濫造されることになり、日本の生糸の評判が下がっていた。

そこで明治政府は、外国人技術者の指導により、西洋式の器械を導入した近代的な製糸場を作ることにした。製糸工場の模範となることで日本の製糸業の近代化を進めるのが狙いだ。当時の日本は、生糸の輸出でヨーロッパの機械製品や軍事物資を買っており、外貨を獲得するために質の良い生糸の大量生産は欠かせなかった 。

 元祖ブラック企業

製糸工場というと、1968年に山本茂実が発表したノンフィクション「あゝ野麦峠」などの影響で、苛酷な労働環境と思われる印象が強い。世界遺産指定が有力になった直後、ブロガーのちきりん氏は「元祖ブラック企業」と評していた。

しかし、各種報道によると実際には富岡製糸場は、少なくとも設立当初の官営時代は1日8時間労働で夏冬の長期休暇があるなど、明治期の労働環境としては世界でも異例なほど恵まれていた。日本の民営工場の模範になることを目指した官営施設だったため、採算を度外視して福利厚生にも力を入れていたようだ。

ただし富岡製糸場が官営工場だった時代は、115年の歴史のうちのごく一部だ。創業19年後の1891年には、三井家に払い下げられ民間工場となった。その後、1902年に原合名会社、1939年に片倉製糸紡績会社(片倉工業)と経営母体は変わっていった。民営化されたことで、繁忙期には1日あたりの勤務時間が約12時間になるなど、労働環境は厳しくなったようだ。

1874年(明治4年)には、ウィーン万国博覧会の参加要請を日本政府が正式に受け、博覧会事務局を設置、大隈重信が総裁、佐野常民が副総裁となり、明治になって政府が初めて参加した万国博覧会となり、近代博物館の源流となった。出展品選定にはシーボルト兄弟、主に次男のハインリッヒ・シーボルトがあたり、日本館は連日大盛況の成功を収めた。

ウィーン万博とジャポニスム | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場

ジャポニスムは、1850年代にパリのブラックモン(F. Braquemond)が陶磁器の詰め物に使われていた北斎漫画を目にしたことが始まりと言われている。日本と西洋文明が出会った19世紀後半、万博もその舞台となった。

1862年の第2回ロンドン万博では日本コーナーが設けられ、イギリスの駐日公使であったオールコック(R. Alcock)の収集品が展示された。また、1867年の第2回パリ万博には幕府と薩摩藩佐賀藩が出展し、日本女性3人がキセルで一服する様子などが見られる茶店が人気であった。

明治政府がはじめて正式に参加した万博は、1873年のウィーン万博である。新しい日本を全世界にアピールしなければならないという使命はこれまでの万博よりも強くならざるをえなかった。1,300坪ほどの敷地に神社と日本庭園を造り、白木の鳥居、奥に神殿、神楽堂や反り橋を配置した。産業館にも浮世絵や工芸品を展示し、名古屋城金鯱鎌倉大仏の模型、高さ4メートルほどの東京谷中天王寺五重塔模型や直径2メートルの大太鼓、直径4メートルの浪に竜を描いた提灯などが人目を引いた。

これらの選定は、日本人が独自に行ったわけではない。オーストリアの公使館員であるシーボルト(H. Siebold)により推薦された、ドイツ人のお雇い外国人ワグネル(G. Wagener)の指導によるものであった。ワグネルは、日本では近代工業が未発達であるため、西洋の模倣でしかない機械製品よりも、日本的で精巧な美術工芸品を中心に出展したほうがよいと判断し、日本全国から優れた工芸品を買い上げた。また、シーボルトは東洋のエキゾチシズムをアピールするには、人目を引く大きなものが良いと勧めたのである。

彼らの目論見どおり、神社と日本庭園は大いに評判となり、展示物も飛ぶように売れ、うちわは1週間に数千本を売りつくした。皇帝フランツ・ヨゼフ一世と皇后エリーザベトも来場し、建設中の反り橋の渡り初めを行った。一行はカンナの削りくずに興味を持ち、女官に丁寧に折りたたんで持ってかえらせたと言われている。万博終了時には、イギリスのアレキサンドル・パーク商社が日本庭園の建物のみならず、木や石の全てを買いあげるほどであった。

ウィーンでのジャポニスムはその後、1890年代の分離派、クリムト(G. Klimt)の日本文様を意識した絵画などに受け継がれてゆく。ちなみに、アレキサンドル・パーク商社と契約した起立工商会社は、ウィーン万博を契機に日本政府が作らせた会社で、日本の工芸品を売ることで外貨獲得に貢献した。1878年の第3回パリ万博では、日本の田舎屋を再現して好評を得るが、この万博で起立工商会社の通訳を務めた林忠正は、後に美術商としてパリのジャポニスムの立役者となった。

 *こうしてジャポニズムはフランスだけでなくドイツにも伝播したのだった。

柴田道子「フランスにおけるジャポニスムのある側面について」

エミールの旅行記『日本散策─東京・日光─』のつぎのようなくだりには,こちらが思わず赤面してしまうほど日本人とその芸術が褒めあげられている。

「このように自然を崇拝し,理解している民族は,あらゆる誤りと悪趣味から救ってくれる慎重さや敬意や愛情,そして確信をもたないかぎり芸術に手を染めないし,また模倣に手を出すはずはない。だからこそ,日本のプリミティブアートは本質的に誤りがなく,調和がとれていて,無駄がないのだ」

まさに手放しの褒めようだが,彼らの心底には違いを違いとして受容し,それを楽しみ,そこから学ぶという本質的にリベラルな感性が流れていたのだろう。引用が続くが,同じ『日本散策』の中に,エミールの書いたつぎのような件がある。

「極東にいるヨーロッパ人の中には,滞在した土地を見聞きし,学ぼうとする人々と,何も見たり聞いたり学ぼうともしない人々がいる。言葉がわかる人々は,伝説を集め,風俗を学び,習慣の中に入り込み,その土地の友達を作り,滞在している国に身を委ねる。それから,自分の国の言葉や家具や料理を,どこへ行っても捜そうとする人々は,接触する住民を取るに足らないものと考え,風景には目を閉ざし,地方の細部に背を向け,自分たちと異なるものはすべてばかばかしいと見ているのだ。大多数がこの後者なのである」

まさに,言葉はわからなくても前者の側の旅人であるエミールは,時間の許す限り,日本独特の乗り物である人力車・籠を乗り継いで,日本人の日常生活の中へと切り込んでいく。立ち寄った海辺の茶店のそまつなたたずまいながらも,悠揚迫らぬ穏やかな接待,通りがかりに垣間見た,庭での開放的な若い娘の行水風景,さらには半裸の人力車夫たちの威勢のいい陽気な振る舞い……。普通の西欧人なら,即座に違和感や居心地の悪さを感じて眉をしかめるような,こうした日本の風俗習慣に対しても,彼は逆にそこに日本人の繊細さやおおらかさ,そして賢さを見出していく。こんな彼の旅が楽しくないはずはない。
*当時欧米人が残した旅行記には必ずといって良い程「人目を気にしない若い娘の行水」「ほとんど全裸に近い車夫や飛脚の明るい表情」についての記述がある。よほど印象的だったのだろう。

大隈の下には伊藤博文井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳って大久保利通らを牽制した。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。
*すごいな歴女集団、大隈夫人となった三枝綾子の生涯の掘り起こしを通じて当時独特のバロック的雰囲気を掴もうとしたりしてる。「何と陪臣の田舎侍風情が旗本の我が娘に求婚だとぉ? だが時代は変わった。現にそんな人物が今や外国官副知事という高官に登り詰めている。決断の早いお母様だった。そして結果この判断は大正解だった」…ああこれぞ「元祖ラブコメ作家」ジェーン・オスティンが描いた「時代の変遷を生き延びる為、次の時代を担うエリートを結婚相手に選び続ける宿命を帯びた」英国ジェントリー階層の婦女の生き様なのである。そして「あっという間にまるでさらわれるようにして大隈重信の妻となった三枝綾子。ところが築地梁山泊には常時30人、多い時は50人もの食客が居る。日夜談論を戦わし、その常連は近所に居を構えたという伊藤博文井上馨、山形有朋、に五代友厚渋沢栄一もいたらしい。大隈はどしどし人に会い、意見を聞く。そうすることで自身の思考も固まり、施策立案のヒントを得ていたのでしょう。新婚でありながら、これだけ人の出入りの多い邸宅を取り仕切り、生さぬ仲の娘を育て、姑に仕えるのは大変な事だったでしょう。賢夫人の誉れの高いエピソードは数知れず。佐賀の乱で刑死した江藤新平の遺児を引き取り、養育しております。明治22年、大隈が外務大臣の時遭難した爆弾事件の犯人で自殺した玄洋社員木島恒喜の法要には必ず御香料を送る、これは普通の人にはちょっと真似のできないことよ。有名なのは大隈遭難の折、50日間帯を解くことなくその看病に当たった、壊疽のおそれから右足切断の事を医師団から云われた折も躊躇なく決断をし、大隈の命を救った云々…」。まさしく歴史の息吹が聞こえてくる感じ…

築地場外市場の歴史「築地梁山泊」

民部省を吸収合併させて大蔵省を一大官庁とした大隈は地租改正などの改革に当たるとともに、殖産興業政策を推進した。征韓論には反対し、その後、殖産興業と財政改革という点から、明治8年1875年)10月には、大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出したりしている。また、単独でも財政の意見書を提出している。さらに、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった。

地租改正とは1873年に明治政府が行った「土地と租税」の改革のことだね。

村ごとに土地台帳ってのを作成して、土地を持っている地主は地価の3%をお金で支払うことに変更したの。

これって地主に対しては結構つらくてさ。常に3%ってことは、景気が良くても悪くても3%支払わないといけないわけだからさ。

明治政府は江戸幕府の土地を引き継いだんだけど、今まで通り農民が納めるお米に頼っていたの。でも、地域によって税率もバラバラだし、米じゃん。年によっては豊作もあるし、凶作もあるから、安定しないんだよね。そこで、地租改正に乗り出したわけだ。

ところが1874年から1877年にかけて各地で地租改正に反対する農民一揆がおきた。特に茨城県真壁での真壁騒動や、三重・愛知・岐阜・酒井での伊勢暴動ってのは、非常に大きな一揆で、伊勢暴動では処罰者が5万人も出たよ。そして1877年には明治政府が税率を2.5%に軽減。「竹槍でドンとつき出す二分五厘」と言われたよ。

その一方で地租改正が遂行された事で「人々が土地を所有する」という前提が作られたわけだね。この結果、土地ってのは天皇の所有物で人々はお借りしているだけ!とう公地公民思想ってのは崩れることとなり、土地が個人の財産となったわけ。すると売り買いをしたり、担保に入れたりと土地に流動性が生まれたんだね。また土地をたくさん持っている地主はそれだけ、税金を支払っていることになるから参政権だったりに影響を及ぼすことになるわけだね。

また会計検査院創設のための建議をおこなっており、会計検査院明治13年1880年)3月に設立された。明治14年1881年)には、正確な統計の必要性を感じ統計院の設立を建議、設立し、自ら初代院長となった。
五味川純平人間の條件(原作1956年〜1958年、仲代達矢主演の映画版1959年〜1961年)」「戦争と人間(原作1965年〜1982年、映画化1970年〜1973年)」において「全てが狂っていく戦前において唯一の良心として機能した」とされる共産主義者は「統計の結果のみを信じ、それが軍部の暴走を否定するので対抗した科学的な人々」と描写されたが、その第源流がここにある。さらなる起源をコンドルセ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年〜1794年)やジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill、1806年〜1873年)の数理至上主義的政治学に求める事も可能かもしれない。

*もちろん実際には「死の天使」ナイチンゲールを筆頭に近代的軍事活動や(反体制側の蜂起を確実に鎮圧する仕組みも内包した)都市計画そのものが統計学に立脚する集-立(Ge-Stell)システム(後期ハイデガーいうところの「特定の意図に従って手持ちリソースを総動員しようとする体制」)に従って遂行されてきたのである。

*またマンハイム進歩主義を「究極的には(選挙権拡大、民族格差や男女格差や貧富格差の制度的是正といった)与えられた課題が数理の徹底によって解決可能な内容にされる事にのみ意識を集中し、残りは視野外に追いやる思想」とし、これへの反感から「(歴史的経緯を含め)全体を俯瞰する視野をあくまで手放さない」立場を選択した貴族主義者や(収入制限選挙によって議席を独占し、議会を自らの既得権益を守る道具としてのみ運用してきた)前近代的ブルジョワ階層を保守主義者とした。それに対して共産主義者達は後者への反感もあって両者の「ええとこどり」すなわち「社会における科学的マルクス主義の全人格化だけが人類を救済する」なる路線を採択する事になる。

自由民権運動に同調して国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と国会の即時開設を説く一方、開拓使官有物払下げを巡りかつての盟友である伊藤ら薩長勢と対立、大隈自身の財政上の失政もあり、明治14年1881年)10月12日、参議を免官となった。いわゆる明治十四年の政変である。大隈は、10月15日付で辞表を提出した。

在野での活躍① 立憲改進党の結成と早稲田大学創建1882年

野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治15年1882年)3月には小野梓とともに立憲改進党を結成、尾崎行雄犬養毅、矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。また10月、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した。ただ、明治17年1884年)の立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している。明治20年1887年)、伯爵に叙された。

外務大臣から総理大臣へ

大隈の外交手腕を評価する伊藤は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選び、明治21年1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した。 同年、黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が反対派の抵抗に遭い、明治22年1889年)10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、右脚を切断するとともに辞職した。右脚の切断手術は、ベルリン大学医学部で日本人初のドクトルを取得した順天堂医院院長の佐藤進や大隈夫妻の主治医であるドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツらによって行われた(「ベルツの日記」)。

明治29年(1896年)、 第2次松方内閣(「松隈内閣(しょうわいないかく)」と呼ばれる)で再び外相に就任するが、薩摩勢と対立して翌年に辞職。

明治31年1898年)6月に板垣退助らと憲政党を結成し、同年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。俗に言う「隈板内閣わいはんないかく)」である。しかし旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じ、また文相・尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職すると、後任人事をめぐって対立はさらに激化する。後任文相に旧進歩党の犬養毅が就いたことに不満を持った旧自由党の星亨は、一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成した。またアメリカのハワイ併合に対して「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とマッキンリー大統領に言わしめるような強硬姿勢を示して外交危機を招いた。結局、組閣からわずか4か月後の11月8日、内閣は総辞職する羽目となり、大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いることとなった。

在野での活躍② 南極の地名にその名を残す「始球式における空振り」先駆者

明治40年1907年)いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。

大隈湾(Okuma Bay) - Wikipedia

南極大陸からロス海に突き出たエドワード7世半島の西岸、ロス棚氷との接続部にある湾。白瀬海岸の一部にあたる。イギリスのロバート・スコット率いるディスカバリー号の探検によって発見された。

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1912年、日本の南極探検隊を率いる白瀬矗中尉によって、大隈重信に因み「大隈湾」と命名された。大隈重信は白瀬の南極探検の重要な支援者であり「南極探検後援会」の会長を務めていたのである。大隈湾(Okuma Bay)という命名は、1933年にアメリカ地理学協会によって認められ、国際的な名称となった。なお、大隈湾を含むエドワード7世半島西岸一帯は、1961年に白瀬海岸Shirase Coast)と名付けられている。

*ちなみに「大隈湾」は沖縄県北部国頭村にあるJALプライベートリゾートの呼称でもある。元々は米軍の保養施設でしたが1977年にその一部が日本に返還されて1978年開業。朝鮮戦争ベトナム戦争で戦死した米兵の幽霊とか出るらしい。現地で療養中に亡くなった?

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明治41年1908年)11月22日にアメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の試合における大隈重信の始球式は記録に残っている最古の始球式とされている。大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまったが、早稲田大学の創設者、総長、政治家である大先生の投球をボール球にしてはいけないと考えた早稲田大学の1番打者がわざと空振りをしてストライクにした。これ以降、1番打者は投手役に敬意を表すために、始球式の投球をボール球でも絶好球でも空振りをすることが慣例となった。
*「何事にも歴史あり」である。

Bert van Aalsburg (アメリカ 男性)

どういうわけか、俺の国では野球試合の開会式のために出てくる、フレディvsレザーフェイスを見ることができない。どんなチームオーナーでもいいから、この種のプロモーションに興味を持つようになってくれ。

だがもちろん化け猫は死なず。しかも、立ち去りも消え去りもしない政界への奇跡のカムバックと国民に愛された「成り上がり者の大言壮語」)。

第一次護憲運動が興ると政界に復帰した。大正3年(1914年)にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、76歳で、2度目の内閣を組織(第2次大隈内閣)。与党は立憲同志会、大隈伯後援会→無所属団→公友倶楽部、および中正会である。

時の大隈内閣は、文政一元化の名のもとに内務省の所管であった伝染病研究所の文部省移管を強行、北里柴三郎所長以下部長・研究員は抗議し、全員辞職した(伝染病研究所移管事件)。大正5年(1916年)には、伝染病研究所は東京帝国大学医学部附置研究所となり、野に下った北里の北里研究所としのぎを削ることになった。

7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保を求めて、8月23日に対独宣戦布告をおこない、翌年1月には外相・加藤高明と共に対華21ヶ条要求を提出した(ただし、その後日本側は、第五号の7項目を除外)。この間の1月12日には、乗車していた馬車に福田和五郎らの一味8人に爆弾を投げられているが、爆弾が不発だったために事無きを得ている。内相・大浦兼武の汚職事件(大浦事件)が起こると、8月には自身が外務大臣を兼任して内閣を改造し心機一転を図るが、政権は次第に国民の支持を失っていった。改造の際に「いったん辞表を提出し天皇の慰留により留任」というこれまでの藩閥政治家と同様の型をとったことやそれに対する弁明も批判された。さらに政府に対する元老の圧迫が激しさを増し、大正5年(1916年)10月、遂に内閣は総辞職、以後大隈も政界から完全に引退した。

退任時の年齢は満78歳6か月で、これは歴代総理大臣中最高齢の記録である。また、再び首相に就任するまでの16年というブランクは歴代最長記録である。この間、大正5年(1916年)7月14日に侯爵に陞爵され貴族院侯爵議員となる。

死してなお仲達を走らせる化け猫の本懐

大正11年1922年)1月10日に胆石症のため早稲田の私邸で死去。享年85。1月17日に私邸での告別式ののち、日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催された。その名が示すように、式には約30万人の一般市民が参列、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。この3週間後に同じ日比谷公園で行われた山縣有朋の「国葬」では、山縣の不人気を反映して政府関係者以外は人影もまばらで「まるで官葬か軍葬」と言われ、翌日の東京日日新聞は「民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じたほどだった。

とどのつまり廃藩置県によって佐賀藩が成立する以前、既に江戸幕藩体制下の佐賀藩そのものがゾンビランドだったという事? しかしながら佐賀県人のモットーは、あくまで「全てのものに終わりがあるなら、死にすら終わりがあるのが道理」とかだった?
ネクロノミコン (Necronomicon) の歴史 - Wikisource