諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【防弾少年団(BTS)】【BOBBY】【東京ゲゲゲイ】「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマの勢力拮抗による克服について。

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残念ながら韓国芸能界は、その伝統主義への拘泥ゆえに2ne1「Norza2011年)」が国際的に切り開く事に成功した「女子のホンネ」路線の衣鉢を継ぐ事に失敗。その隙を突いて見事に油揚をさらう鳶となったのが、日本の東京ゲゲゲイ辺り?


かくして韓国大手芸能事務所の迷走が始まる。何が「ぶーしゃからか」だ、そいつは岡村靖幸じゃねぇか…

  • 東京ゲゲゲイで凄いと思うには「勝手にしやがれ1977年)」の沢田研二や「プレイバックPart21978年)」の山口百恵、「飾りじゃないのよ涙は1984)」の井上陽水といった歴史上の人物が挙げてきた成果をしっかり取り込んできてる辺り。恐るべき「老人殺し」の達人?

    勝手にしやがれ (沢田研二の曲) - Wikipedia

    プレイバックPart2(山口百恵の曲) - Wikipedia

  • いやむしろ、このスタンス故にブリテッシュ・ビート(1970年代末より1980年代初頭にかけて存在したニューロマンティックの一部とロンドン・パンクの一部を同じ音楽ジャンルに分類する日本音楽界独自のエレクトロ・ポップ認識)の延長線上においてアン・ルイスを和製レディ・ガガに仕立て上げ様とした「ラ・セゾン作詞山口百恵、作曲沢田研二)」を重要な源流の一つとするJ-ROCKの的ダンディズムに別バージョンが構築出来たというべきかもしれない。「ラ・セゾン」の下敷きに選ばれたUltra Vox「New Europian1980年)」は確かにニューロマンティックとロンドン・パンクが共存可能だと感じさせる稀有の名作だが、肝心の英国でこうしたアプローチが認められる事はなく、ニューロマンティックとロンドン・パンクはそれぞれ個別に衰退への道を歩む事になる(というかザ・クラッシュジョー・ストラマーも、ザ・ポリスのスティングも後にレゲエに走った為、ブリテッシュ・ビート概念はむしろレゲエ要素も加わった別の形で完成する)。かくしてこの路線は後に生存バイアスによって日本独自の路線として世界に再認識される展開を迎える事になるのだった。
    *それにつけても「New Europian」と同じ曲に聞こえる「ラ・セゾン」が、アレンジ面におけるブリテッシュ・ビート的要素の完全抹消に成功する一方、歌詞面においてニューロマンティック分野が備えていた退廃性の再導入に成功している辺り、実に恐ろしい。というか、どうしてスラッピング・ベースの音が聞こえるのかなぁ「ラ・セゾン」。後藤次利? 本当に訳がわからないよ…

    その日本でもYMO坂本龍一が追求する「欧州的ダンディズム」路線と細野晴臣高橋幸宏が追求する「テクノ・ポップの本懐」路線の対立が激化して「散開」に追い込まれている。両者の融合を目指す路線はそれだけ困難に満ちていたのである。なにしろ当時の他の成功例ってヴァージンVS星空サイクリング1982年)」くらいしか印象に残ってない…育ったリスナーはむしろ思いっ切りロンドン・パンク寄りに舵を切ったブルーハーツ狩撫麻礼を支持した感も。

    いずれにせよ「J-POP的」とか「J-ROCK的」というジャンル認識はフランス料理におけるデミグラ・ソースや米国におけるキャンベル・スープ的ワイルドカード概念で、庶民向け食堂や家庭向けレトルト食品の世界ではとりあえずこの味がフォルス(体制側の統制)として強要してくる画一性に盲従していれば一定の市場性が約束される代わり、新たな味を開発して独自性を打ち出したい新進気鋭の料理人の心が死ぬ。そこで「フォン・ド・ボウに一旦戻ってデミグラ・ソースが切り捨ててきた味の可能性を再発掘するアプローチ」が重要となってくる訳である。

    *このニュアンスにおいて既に「なろう小説」は体制側、すなわちフォルスを発揮してクリエーターに統制を強要する立場にある。カール・シュミッツいうところの「友敵関係(Freund-Feind Verhältnis)」が必ず行き着く果て。

    フォルス(体制側の統制)としてのデミグラソース的スタンス。それはまさに無人島におけおける蟹型ロボットの進化論的実験の結末として「大型で鈍重な権威主義人工知能が思いつきで打ち出す抽象概念を実現すべく、実労働に赴く無数の小型ロボットが無意味に大量消費される程、神の国は近づいたと勘違いする様になる世界観」をある種のディストピア像として打ち出したジョン・ウィンダムのSF短編の世界。かかる単純化が横行する時代はしばしば「ヴィオランス(フォルスに抵抗する反体制運動)としてのミニマリズム(最小主義、自給自足主義)」へと行き着くが、困った事に市場経済的には「社会インフラへのタダ乗り(Freeride)」問題を含んでしまう。

  • かかる状況下、東京ゲゲゲイはロンドン・パンク全盛期、これに対抗/対応すべくスティング率いるThe Policeが「見つめていたいEvery Breath You Take、1983年)」などで打ち出した「変態路線」を継承する事にも成功した。要するにロンドン・パンクも商業的に成功したらフォルス(体制側の統制)の側に堕してしまった状況に対してスティング(および彼に賛同したスタジオ・ミュージシャン達)は「絶対にフォルスの側にはなり得ないほどいかがわしい何か」をぶつけてきたのである。これは「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマが勢力拮抗によってのみ緩和される水平展開に対する垂直展開といえる?

    ポリス「見つめていたい」はストーカーの曲か | ナリーン♪の庭


    *だんだん「化猫」要素が強くなる…まぁこれも国際化の一環?

そして韓国音楽界においては大手芸能事務所の瞑想を尻目に、その影響下にないヒップホップ業界が大いに伸長したのです。しかもそのタイミングは米国においてM.I.A.旋風が(奇しくもニューロマンティック創始者のスティーブ・ストレンジがその流行終焉後に向かったイビサ島のパーティ文化に起源を有するとされる)マドンナやレディ・ガガなどの限界を露呈した直後だったりする訳で。

  • 完全に失速したM.I.A.路線を復活させるべくあえて「(トラブった要素は全て切り捨てる目黒のさんま」路線を採用して成功したのが防弾少年団BTS)。

  • 個人的には同じM.I.A.リスペクト系でもあえて「所詮遅れてきた俺たちなんて一生二流以下かもしれねぇけどよ」なるプロレタリア的(体制側の統制たるフォルスへの精一杯の抵抗としてのヴィオランス的)なシフトダウンからの吹き上がりについては、ライバル・グループのBOBBYの方が上だと思ってる。
    *で何故か「全部盛り」にするとレゲエのRAVE乗りが表面化してくるという…

彼らもまた反日かもしれないけど、こういうルサンチマンを燃料に食べてる連中がついでに反日だって、別にどうって事はない? それはそれとして本国市場と中国市場が要求してくる重たいファルス(自主規制)を突破して、ちゃんと国際的に通用する何かを提供してくる韓国音楽のアプローチ自体は相応の尊敬に値します。なにしろ、それに対峙する日本音楽の最大の強みがこうした拘束のない「自由」だという事を明らかにしてくれる訳ですからね。

まさしく魑魅魍魎百鬼夜行状態…しかもそれはもはや如何なる体制に対するヴィオランスでもないという…