「神話世界に男女平等など存在しない」という仮説が存在します。現実として存在してきたのは「男権主義/男尊女卑の世界と母権主義/女尊男卑のイニチアシブ争い」だけだというんですね。これに関連して国際SNS上でコンセンサスを勝ち取ったのが以下辺りの指摘。
これをエンターテイメント世界における倫理規定に翻訳するとこんな感じになるのかもしれません。
- 男の本質は馬鹿で変な事。それを全面的に肯定しつつ、そのネガティブな側面がもたらす「世界の終わり」を如何に回避するかがクリエーターの腕の見せ所。
- 女の本質は意地悪な事。それを全面的に肯定しつつ、そのネガティブな側面がもたらす「世界の終わり」を如何に回避するかがクリエーターの腕の見せ所。
- 最近のトレンドは「さらに両者を両立させる」事。そのネガティブな側面がもたらす「世界の終わり」を如何に回避するかがクリエーターの腕の見せ所。
実践するとどんな具合になるか。最近、国際SNS上で人気を勝ち取ったのがこの投稿。
@Imo_ha_umai
— 一宮ちとせは楽をしたい[e.g.31] (@I__want_) 2016年10月16日
蛇の愛はヘビー…
「私が悪いって言うのー?!」「あ、これダメなやつだ…」に吹きました。ある意味、人類にとって最も身近な「世界の終わり」ってこの瞬間? 国内外問わず私も含めてコアファンが多く、バレンタインにチョコをもらったりするらしいです。
@Imo_ha_umai pic.twitter.com/LHdYiO2foD
— 依茂歩※元IMO (@Imo_ha_umai) 2017年2月5日
それは英国ジェントルマン階層のサヴァイヴァル・ノウハウの精髄ともいうべき「ジェーン・オスティンのラブコメ三原則」すら「その側面についての女子側からのフォロー」にしか見えなくなってくるほどの恐ろしさ。
*まぁ「第1原則」は完全に逆手に取られちゃってる訳だけど。
- そもそも日本に仏教が伝来した際に「法華経」がイニチアシブを獲得したのは「龍娘の即身成仏」の場面に女性層が夢中になったから。紫式部「源氏物語(11世紀成立)」といった日本の女流王朝文学はここから出発し「女子は意地悪したい本性を無理やり押さえ込むべきではない。むしろ逆に全面的に開放し、その感情を蕩尽して「賢者モード」に入ってこそ成仏する」なる恐るべき結論に到達する。
*歴史のこの時点でもう「男とか女とか現世に下らない形で執着し続けてるのはむしろ貴方の方ではないですか?(少女のおっぱいが引っ込んで股間にむくむくとちんこが生えてくる)」とかやってる恐ろしさ。世界よ、これが仏教だ!?
*近年では曽根富美子「親なるもの 断崖(1992年)」のリヴァイヴァルにその片鱗を感じた。「本当は怖いグリム童話」とかの系譜。最近の国際SNS上における「女子は可愛いものと同じくらい猟奇が好き」なるスローガンの先駆け。
*まぁ「男子は馬鹿で変だという本性を押さえ込むべきではない。むしろ逆に全面的に開放し、その感情を蕩尽して「賢者モード」に入ってこそ成仏する」の逆転バージョンに過ぎないから、男子も無碍には否定出来ない構造という…よく考えてみたら、マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督の過去の短編作品の基本コンセプトもこれ?
- ドイツ古典主義のマスターピースの一つとされるフリードリヒ・フーケ「ウンディーネ(Undine、1811年)」のテーマも一言で要約すると「人間界への憧憬心に振り回されていたウンディーネが、それに対する完全なる幻滅を経験して本来の完全な姿(アンドロギュヌス的両性具有状態)へと回帰していく物語」となる。
*ある意味「錬金術の父」パラケルスス(Paracelsus、1493年〜1541年)の到達した結論もこれで、その起源を遡ると12世紀プロヴァインスにおける先進的な「セファルディム系ユダヤ人」と後進的な「アシュケナージ系ユダヤ人」の同居が生んだ「カバラ(Cabbala、ヘブライ神秘主義)」の影響も受けつつ14世紀ケルンで花開いた「ゲルマン神秘主義(German mysticism)」にまで辿り着く。
ドイツ神秘主義 - Wikipedia
*概ね「龍娘」の肌の色は人種を超越した深縹色(こきはなだいろ)。ウンデーヌの髪色は赤髪・金髪・銀髪・青髪と様々だけど、どれも珍しいか現実には有り得ない方向性を示唆している。パラケルスいうところの「精霊性」って、直感レベルではそう表現される?
- シャーロット・ブロンテが「ジェーン・エア(Jane Eyre、1847年)」で提示した「ウェルダンまで求めるから悲劇的結末が不可避となるのです。女子はミディアムで我慢すべきです」なる「中庸(Mesotes)主義」は、むしろ吉田秋生「吉祥天女(1983年〜1984年)」における「でも結局、焼き過ぎちゃうのよねぇ。ま、仕方がないか」なる地母神的解決とか、石田スイ「東京喰種トーキョーグール(Tokyo Ghoul、2011年〜)における「半殺しの定義って何だと思う? で、骨かと」に至る残酷な結末を迎える事に。
*あらゆる欲望解放が許される国際SNS上において、とあるSlash(腐女子)の放った「私達は野郎共が空想上の美少女達に何をしでかそうがあえて追求などしない。だから私達が空想上のイケメンや美少年に何をしようが絶対に追求するな」なる宣言が重要な要石となっている。しかしおそらくこれは最初から「非対称戦(asymmetric war)」なのだ。男子の直感はそう告げている。
*まさか「サスペリア(ガチ)」や「エクソシスト(もどき)」のテーマが挿入されるなんて…でもそれが実に似合うのが「ジェーン・エア」の元来の世界観だったりして。 - クリストファー・ハンプトン「太陽と月に背いて(Total Eclipse、1968年、映画化1995年)」を発見したSlash(腐女子)の第一声が概ね「ショタ攻め!! そんなのもあるのか!!」だったりする。
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そもそも海外女子が「切れたら怖いが、その復元能力で全てチャラにする東方仗助」とか「痛みなんて全部消しちゃえば良いと信じ込んでいた美樹さやかさん」とか「バーサクヒーラー明日奈」を好むのはこの辺りの心情と関係があるらしい。
なぜここまで長々と書いてきたかというと…
しばらく様子見してたんですが、以下の展開がほぼ確定。
- 国内外問わず世界中において誰一人として「レッドタートル (英題The Red Turtle、仏題La Tortue rouge)」について「男が(楽園を脱出しようという)馬鹿な思いつきを放棄し、女が(それを阻止しようという)意地悪を止めたら、そこが楽園となる」なる見解を表明する事はなかった。
- それはマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督自身も同じだったらしく「不自然な平和の連続」に続き(鬱積した矛盾の爆発とも見て取れる)大津波の場面となる。
改めて「男女平等の不可能性」が論証される結末に到達しただけで、それは観客が望むものではなかったという事?