原作小説・スピンオフ小説読破組が順調に増え続けているせいでしょうか。これまでの投稿の中では「君の名は」+「倭文神・天羽槌雄神」辺りの検索が好調な様です。
@hanemimi 宮水神社、倭文神(しどりのかみ)を祀っていて、機織の祖神とされている(古語拾遺)。別名を天羽槌雄神と言い、まつろわぬ神である星神香香背男(ほしのかがせお)を平らげた(日本書紀)。明らかにティアマト彗星に備えるべく歴史を過ごしてきた一族なので深刻にヤバい。
— どみにをん525 (@Dominion525) 2016年10月20日
小説って大概初出の漢字にふりがなを振ってそれ以降はもう読めるだろってふりがなを振らないけど、「倭文神建葉槌命(しとりのかみたけはづちのみこと)」と「葛城倭文坐天羽雷命(かつらぎのしどりにいますあめのはづちのみこと)」が同時に出てきてその後も出てくるの鬼畜すぎない?
— onu( ╹‿╹ ) (@onu28) 2016年10月18日
宮水は倭文神の末裔。ムスビに祈るもの。時の綾をたぐって来し方と行く末とに心寄り添わずもの。そなたの背なには、時の流れの中にある、すべての宮水の女が添うておると知るがよい。
— カ フェラ テ (@YDK_47) 2016年10月15日
ところで、年表をまとめる作業には「何がその網を逃れるか」明確にするという側面が確実にあります。「君の名は」のケースでは、あえて「ムスビの神」を記述対象外としました。まぁその定義からして「時空を超越して人と人を結びつける謎の存在」ですから、迂闊に近づくとヘーゲルの民族精神(Volksgeist)・時代精神(Zeitgeist)理念みたいに「人間にとって自己実現とは、これと完全に一体となってその枠内に自らの役割を得る事である」なんて恐るべき結論に至りかねません。
でも逆に、これと適切な距離を保つには相手の正体もそれなりの形で見極めておく必要があったりもするのですね。結構面倒くさい作業だったりするので、続きはここまでの描写で何か心の琴線に触れるものがあった方のみお読みください。
日本神話における別天津神の一柱。『古事記』では高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、『日本書紀』では高皇産霊尊と書かれる。また葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(たかぎのかみ)という名で登場。
別名の通り、本来は高木が神格化されたものを指したと考えられている。「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神である。女神的要素を持つ神皇産霊神と対になり、男女の「むすび」を象徴する神であるとも考えられる。
『古事記』によれば、天地開闢の時、最初にアメノミナカヌシが現れ、その次にカミムスビと共に高天原に出現したとされるのがタカミムスビという神である。子にオモイカネ、タクハタチヂヒメがいる。
アメノミナカヌシ・カミムスビ・タカミムスビは、共に造化の三神とされ、いずれも性別のない神、かつ人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている。この造化三神のうち、カミムスビとタカミムスビは、その活動が皇室・朝廷に直接的に大いに関係していると考えられたため、神祇官八神として八神殿の第一と第二神殿で祀られた。
『日本書紀』では天地初発条一書第四に「又曰く〜」という形式で登場しており、その他では巻十五の「顕宗紀」において阿閇臣事代が任那に派遣され壱岐及び対馬に立ち寄った際に名前が登場する。また、『延喜式』「祝詞」・「出雲国神賀詞」では「神王高御魂命」とされている。
アマテラスの御子神・アメノオシホミミがタカミムスビの娘タクハタチヂヒメと結婚して生まれたのが天孫ニニギである。このことからタカミムスビは天孫ニニギの外祖父に相当する。
アマツクニタマの子であるアメノワカヒコが、天孫降臨に先立って降ったが復命せず、問責の使者・雉(きぎし)の鳴女(なきめ)が参るとこれを矢で射殺する。その矢はタカミムスビの元まで届き、彼がその矢を射かえすと、矢はアメノワカヒコを討ったという。
一方『古事記』では、即位前の神武天皇が熊野から大和に侵攻する場面で神武天皇を助けた高倉下の夢にタカミムスビが登場する。タカミムスビはアマテラスより優位に立って天孫降臨を司令する。このことから、タカミムスビが本来の皇祖神だとする説がある。
高御産巣日神(たかみむすびのかみ)は、日本でに2番目に生まれた神です。(アメノミナカヌシの次。)名前が長いからか、「高木神(たかぎのかみ)」とも呼ばれてます。
ぶっちゃけ、ミナカヌシよりいっぱい出番あるし、アマテラスにも頼られてるし、実質この人が最高神なんじゃ・・・って思っちゃうようなカミサマです。実際に、タカミムスビ最高神説もありますが、一般的には、高天原の最高神がアマテラスで、最高指令神がタカミムスビだと言われています。
別天津神(ことあまつかみ)
最初に生まれた3柱の神様を「造化三神(ぞうかのさんしん)」、プラスその後に生まれた2柱を「別天津神(ことあまつかみ)」と呼ぶので、タカミムスビも、そのうちの1柱。
別天つ神はみんな「独神(ひとりがみ)」ってっゆう、性別の無い神様なのですが、タカミムスビは男神の属性を持っています。カムムスビを女神として、男女対の神として考えられてきたようです。
なので、「タカミムスビ」と「カムムスビ」の「ムスビ」を男女の「結び」とする考え方もあります。
そして「産巣日(むすび)」には、苔が生すなどの「むす」→生産、生成、生命の誕生
+
「び」→太陽。って意味と、
「結び」→えっち。
って2つの意味があります。
「結ばれること」と「産まれること」を同じ言葉に込めちゃうあたり、なんだか古代の日本人らしいセンスを感じます。
高木神
「古事記」だと高御産巣日神、「日本書紀」だと高皇産霊尊と書かれるタカミムスビ。
その他、高木神って呼ばれていることから、まんま「背の高い木の神」なんじゃないかと言われています。
で、「高い木」+「太陽」+「生命」の意味を合わせて、ざっくりと「モノを生み成す生成力」の神様と言われているけど、アバウトすぎてあんまりメジャーになりませんでした。
ミナカヌシと比べると出番がたくさんあるタカミムスビ。
でも一番最初の「天地開闢」から「オオクニヌシの国譲り」くらいまでは影が薄い神様です。一方、カムムスビは、出雲神話の時に大活躍しているコトから、元々は別の地方の神様だったんじゃないかと言われています。
タカミムスビが活躍し出すのは、国譲りでアマテラスがワガママを言い出すあたりから。常にアマテラスの近くにいて、アマテラスの指示は一度タカミムスビに通してから、他の天つ神に伝えられています。
実は、この2柱のカンケイが卑弥呼とその弟のカンケイに似ている。という事で、アマテラス→卑弥呼、タカミムスビ→卑弥呼の弟が元ネタ説。なんてのもあります。
- 『天地開闢』…アメノミナカヌシが生まれ姿を隠し、タカミムスビが生まれ姿を隠し、カムムスビが生まれ姿を隠す。あとはもう、しばらくの間出てきません。
- 『オオクニヌシの国譲り』…オオクニヌシに国を譲ってほしいとアメノワカヒコを送り込んだアマテラスだけど、8年もアメノワカヒコが帰って来なかったので、キジの遣いを送りました。でも、そのキジも帰ってこなくて、代わりに血の付いた矢が高天原に飛んできます。「まさかワカヒコが遣いのキジを殺したの??」と、ビックリしたアマテラスとタカミムスビは相談して「アメノワカヒコに邪心があるならこの矢があたるように!」と言って、タカミムスビが出雲の方に矢を射返します。そこで、邪心のあったアメノワカヒコは死んじゃいました。
- 『カムヤマトイワレビコの東征』…国譲りが無事に行われ、タカミムスビはしばらく出番が無いのですが、初代神武天皇が東征する途中で、熊野で気絶してしまい、ピンチを迎えた時にまた登場します。熊野に住んでたタカクラジさんの夢に突然、アマテラス、タカミムスビ、タケミカヅチが現れます。そしてアマテラスが「私の子たちがピンチなの助けてよっ!!」とタケミカヅチに伝えると「いや、わざわざ自分が降りなくても、タカクラジに剣を届けさせましょう。」と言って、タカクラジの倉に剣を落としました。タカクラジが夢から覚め、倉でその剣を見つけ、急いで神武のところに向かい、剣を渡すと、元気になりました。すると元気になった神武に、タカミムスビが「神武くん、道案内のサポートに八咫烏(やたがらす)を送るからちょっと待ってて。」ってお告げをします。その八咫烏のお陰で神武たちは道に迷わず先に進めました。さらに、神武たちがラスボスを倒そうとした時も「金の鳶」を送ってくれたり、上からいろいろサポートしてくれました。
タカミムスビには2柱の子供がいます。「オモヒカネ」と「タクハタチヂヒメ」。そして、「タクハタチヂヒメ」と、アマテラスの長男の「アメノオシホミミ」が結婚。2柱の間に天孫の「ニニギ」が産まれます。
古事記だと、アメノオシホミミがそれとなく「下に降りるの嫌だ。」って言い出して、代わりにニニギが降りますが、日本書紀だとタカミムスビが「いや、ニニギにしよう。ニニギのがいい。絶対ニニギ。」と言い出し、ニニギが降りる事になります。
このタカミムスビの日本書紀での発言から、皇祖神(天皇の元々のご先祖さま)はアマテラスじゃなくて、本当の皇祖神はタカミムスビなんじゃないか。って説があります。
とは言っても、タカミムスビもニニギのおじいちゃんなわけで、皇祖神っちゃ皇祖神。巷では、「本当の皇祖神はタカミムスビなのか、アマテラスなのかどっちなんだ!!」って論争があるんですけど、個人的には「別に2柱共でいいんじゃん。」なんて思っています。なんならイザナギも入れてあげればいいと思う。
『古事記』では和久産巣日神、『日本書紀』では稚産霊と表記される日本神話の神名。「ワク」は若々しい、「ムスビ」は生成の意味であり、穀物の生育を司る神である。『古事記』では食物神のトヨウケヒメ(豊受比売神)を生み、『日本書紀』ではその体から蚕と五穀が生じている。五穀・養蚕の神として信仰されており、他の食物の神と一緒に祀られることが多い。愛宕神社(京都市)、竹駒神社(宮城県)、安積国造神社(福島県)、麻賀多神社 (千葉県)などで祀られている。
- 古事記…神産みの段に登場。イザナミ(伊邪那美命)が火の神・カグツチ(火之迦具土神)を生んで火傷をし、病に伏せる。その尿(ゆまり)から、水の神・ミズハノメ(弥都波能売神)が生まれ、次にワクムスビが生まれたとしている。食物(ウケ)の神である、トヨウケヒメを娘とする。
- 日本書紀…第二の一書に登場する。イザナミが火の神・カグツチを生んで死ぬ間際に、土の神・ハニヤマヒメ(埴山姫)と水の神・ミズハノメを生む。そこでカグツチがハニヤマヒメを娶り、ワクムスビが生まれたとしている。そして、この神の頭の上に蚕と桑が生じ、臍(へそ)の中に五穀が生じたとしている。
『古事記』のオオゲツヒメ(大気都比売)や、『日本書紀』第十一の一書のウケモチ(保食神)のような、食物起源の神話となっている。しかし、この2柱の神の場合は、殺された死体から穀物が生じているのに対し、ワクムスビの場合は殺される話を伴っていない。このため、かつてはワクムスビの単純な形が古いとされていたが、現在は、「ハイヌウェレ型神話」が簡略化され、結末の部分だけが残されたものといわれている。
考古学的立場からすると遺跡の編年史と直接関係しない「ワクムスビ」はとりあえず視野外。「高木神」の方は(上越地方から日本海沿岸にかけて広がる)流木信仰や(出雲大社のそれが有名な)心の御柱信仰(聖域から剪り出した神木を依代として山霊を水路運び出し、目的地で再生させて以降はその神木を御神体として崇める)などが、古墳築造や飛鳥寺建立を経て仏塔信仰に推移していくプロセスに重ねられます。
*ここから「タカミムスビは常にアマテラスの近くにいて、アマテラスの指示は一度タカミムスビに通してから他に伝えられる=「吉備津の釜」みたいに、事あるごとに心の御柱を依代に神意を伺う古代神事の存在」を見てとる向きも。(実は常に内容が同じだったとは限らない)前方後円墳祭祀と心の御柱信仰の関係は不明ながら、前者においても「柱を立てる」事が重要な意味を持っていた可能性が指摘されている。
発掘当時、壇上積基壇(切石を組み立てた、格の高い基壇)、階段、周囲の石敷、地下式の心礎などが残っていたが、心礎以外の礎石は残っていなかった。心礎は地下2.7メートルに据えられ、中央の四角い孔の東壁に舎利納入孔が設けられていた。舎利容器は建久7年(1196年)の火災後に取り出されて再埋納されており、当初の舎利容器は残っていないが、発掘調査時に玉類、金環、金銀延板、挂甲、刀子などが出土した。出土品からは、この寺が古墳時代と飛鳥時代の境界に位置することが窺える。
実はこの辺、知る人ぞ知る「飛騨王朝仮説」「越根国仮説」「ウガヤフキアエズ王朝仮説」あたりの原材料でもあるんですね。深入りするのは危険なので、ここでは「詳細は不明だが、日本人の心性史において「心の御柱信仰」は神道系と仏教系を貫いて実存する」程度に流しておきます。とりあえず、ここで押さえておかなければいけないのは、日本はこういう根底の部分で「神仏習合の国」だという事くらい。
*「心の御柱信仰」は伝統的地域共同体を支えてきた社稷概念とも縁深く、前方後円墳国家(3世紀〜5世紀)出現以降、国家統合の為に政治利用されてきた。現代日本人なら「柱が立つから人が集まるか、人が集まるから柱が立つか。そんなの状況による」くらい斜に構えても別に構わない? 「ムスビの神」について触れる以上、こうした話題も避けては通れない。
ところでこうした日本伝統のムスビ意識は、仏教の世界においては龍樹が「中論頌(2世紀)」で述べた般若経経典群の空観、すなわち「一切の存在は縁起の道理によって成立している(どんな存在であったとしても他と無関係に、それ自体として存在している訳ではない)」なる諦観に対応します。
*有名な「色即是空、空即是色」を、あえて強引に「人と人は結ばれている様で案外結ばれてない。結ばれていない様で案外結ばれていたりする」とか言い換えてみると直感的に理科しやすくなる?
「大乗仏教と密教の祖」龍樹(ナーガールジュナ、2世紀)の「二諦説」
釈迦は存在という現象も含め、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っているとし、この因果関係を「縁起」として説明した。
①そうした因果関係によってのみ現象が成立している以上、それ自身で存在する「独立した不変の実体(=自性)」は存在しないという事になる。その意味において全ての存在は無自性、すなわち「空」という事になる。
*この論証方法から「龍樹の空」は「無自性空」とも呼ばれる。
②とはいえ、その本質が「空」たる現象を人間はどうやって認識し理解し考えているのか。直接的に知覚しているばかりか概念や言語といった仮に施設した道具を援用している。この為に真理は以下の「二諦」に分けられる(二諦説)。
- 第一義諦(paramārtha satya)=既成概念を離れた真実の世界。この世のありのままの姿で五感や言葉や概念では捕捉不可能。
- 世俗諦(saṃvṛti-satya)=言語や概念によって表された仮定の世界。我々が認識している世界。言葉で表現された釈迦の教えなど。
とりあえずここに至るまでの仏教史を振り返ってみよう。
- インドの正統バラモン教は「有我説」の立場をとっていた。すなわち一般に自己の本体としての固定的実体的な自己(アートマン(ātman)=我)が存在し,それが業の担い手となって生死輪廻すると考えていた。
- それに対し仏教の開祖たる釈尊は「無我説(梵字ナイラートミヤ・バーダ(nairātmya‐vāda))」を提唱したと考えられてきた。すなわち三法印の一つである〈諸法無我〉にうたわれているように「一切諸法には実体的我は存在しない」と主張したとされてきた。しかしこれでは今度は主体の存在概念が捉えられなくなってしまう。
- そこで龍樹は「無」と「有(有我説)」の中道に位置する「空(妙有)」の立場から仏陀の発言への解釈の軌道修正を試みたという訳である。
かくして「般若経」の「一切皆空」「色即是空空即是色」といった承句に新たな意味が吹き込まれる事になった。
*般若経(梵字プラジュニャーパーラミター・スートラ(Prajñāpāramitā sūtra))…般若波羅蜜(般若波羅蜜多)を説く大乗仏教経典群の総称。最も早く成立した最初の大乗仏教経典群とされ、紀元前後に成立した「八千頌般若経」を最初期のものとする説が多い。その後も数百年に渡って様々な「般若経」が編纂され、また増広が繰り返された。一般に空を説く経典とされているが、同時に呪術的な面も色濃く持っており、密教経典群への橋渡しとしての役割も無視出来ない。
こうした内容が記されている「中論(根本中頌、梵字ムーラマディヤマカ・カーリカー(Mūlamadhyamaka-kārikā))」がどうして密教においても重要文献かというと、そこに「それでも正しく整えられた呪術は発動する」なる文言がある為。
この種の考え方は、華厳経(3世紀頃、西域で成立)における「海印三昧の喩え(個性とは大海の波に映った無数の月の様なもの。ある意味どれもが同じで、ある意味どれも異なっているが全て月、すなわち「宇宙の真理=人間の本質的善性」と有縁である)」において一つの頂点を迎えます。こうした全体像を人型で表したのが、かの有名な「宇宙仏」毘盧遮那仏。
*元をたどれば、ウシャニパッド哲学「梵我一如」において我(アートマン:個人を支配する原理)と呼応する「梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)」の方とも。
聖武天皇(在位724年〜749年)が当時の日本の庶民を総動員して東大寺に巨大なのを建立しました。しかし実はこれ地球儀みたいな存在なので「一心不乱に祈ったら応えてくれる」とかそういう効能が一切ありません。あくまで「縁結びの神(結縁を祈る対象)」ではなく「縁はある様でない、ないようである」なる宇宙の真理のディスプレイに過ぎないのですね。まさに般若心経でいう「空そのもの」。「ムスビの神」というより「ただのムスビ」。
*朝鮮半島の毘盧遮那仏は地下洞窟に安置され「秘められた英知」を象徴する事が多い。大仏建立を発願した聖武天皇も当初はそういう構想だったが(おそらく責任者の行基あたりに「庶民を総動員しておいてそれはないでしょう」とか説得されて)ディズニーランドのシンデレラ城の如く平地の真ん中にデンと巨大な大仏殿が設置され、独自展開を遂げる事に。
*これに対し「人は誰でも完成見取り図さえ見せられたら、それを完成させられるのか? いやそんな事はない」と反論したのが空海の真言密教。かくして「正しく働きかければ相応の形で答えてくれるコンピューターの様な宇宙神」大日如来が日本に伝来し、やがて東大寺毘盧遮那仏もバージョンアップの過程でその機能を取り入れていくが、まぁそれはまた別の話。
しかしそれは逆をいうと、いかなる意味でも「縁」で人間の行動を拘束しようとしないという究極の自由放任宣言。今日ではこっちの解釈の方がしっくりくるとも。
*当然それは「この件で神仏に頼れない」なる存在不安と表裏一体の関係にあり、その不安感こそが良い意味でも悪い意味でも「自己判断で動く近代人」を登場させるという次第。まさしく般若心経でいう「空そのもの」。しかも訪れた人間はとりあえず「鼻の穴をくぐる(無病息災のご利益付き)」どうしてこうなった?
ところで、仏教の世界ではこういう形で最重要とされる「ムスビ」の概念を神道の世界に持ち込もうとしたのが平田篤胤(1776年〜1843年)や本田親徳(1822年〜1889年)の「復古神道」。現在なおその是非が問われ続けている重要案件だったりします。
維新の鴻業を達成せしめた尊王攘夷の思想の発展に、国学者の活動が与って〈アズカッテ〉力のあったたことは、維新史を説く歴史家のひとしく認めるところである。維新前の国学者の大宗〈タイソウ〉は、いうまでもなく、荷田春麿〈カダ・ノ・アズママロ〉・加茂真淵〈カモ・ノ・マブチ〉・本居宣長〈モトオリ・ノリナガ〉・平田篤胤〈ヒラタ・アツタネ〉のいわゆる国学の四大人〈シウシ〉であるが、維新に最も近いのは平田篤胤である。従って平田の思想は、最も強く維新に影響を与え、篤胤の養子鉄胤〈カネタネ〉は、明治政府が設けた教部省の重鎮であった。
平田の思想は、平田自らが「本居宣長死後の弟子」といっている如く、本居・賀茂・荷田三大人の思想を発展せしめたものであるが、彼はその思想の淵源をまた度会〈ワタライ〉神道や天主教〔カトリック〕の経典からも汲んでいた。彼が当時禁書であった天主教の経典を長崎を通じて密輸入した数は多数に上っている。記紀〔古事記・日本書紀〕には只一ケ所よりあらわれていない「むすびの神」を以て、すべての神々の本としたものは、一神教である天主教の神学を輸入したものであって、「むすびの神」即ちエホバである。『出定笑語』〈シュツジョウショウゴ〉にノアの箱船の話が見えることは、語るに落ちたものといえよう。
又彼が三皇五帝は日本の神様が中国にあらわれたものだという説を吐いているのは、本地垂跡〈ホンジスイジャク〉の説を逆にゆく伊勢神道の説を発展せしめたもので、彼の独創ではない。
彼は本居死後の弟子といっているが、木居の科学的な考証の学は少しも承け継いでいない。それを承けついでいるのは、伴信友〈バン・ノブトモ〉である。本居は言葉を離れて思想はないという見地から、日本固有の思想を研究するには、日本語で書かれた『古事記』に依らなければならないとし、漢文で書かれた『日本書紀』を「からごころの文」として排斥しているが、平田は『日本書紀』を取っている。本居生前の弟子であれば、恐らく平田は本居から破門されていたであろう。本居の科学的精神を受け継いだ伴信友は、平田が本居死後の弟子と称して、本居の権威を藉って〈カッテ〉自論を弘めんとしたことを憎んだ。故に平田も信友を人の皮を着た畜生であるとまで罵っている。
平田は非常な努力家であり、従ってまた博覧強記であったが、彼は生前から「山師」といわれた如く、人格下劣な大山師であった。この大山師のインチキな思想によって、維新の功臣達が指導せられたことは、正に日本国民の大なる禍い〈ワザワイ〉であった。明治政府が百年の齢〈ヨワイ〉を保ち得ずして崩壊した根本的原因は、茲〈ココ〉にあるものと私は考えている。
伊勢神宮で生まれた神道の説。外宮の神職(度会氏)の間で唱えられるようになった為に度会神道・外宮神道ともいう。
- 鎌倉時代末期、元寇を契機にそれまでの両部神道や山王神道などの本地垂迹説とは逆に、反本地垂迹説(神本仏迹説)が勃興。その影響で、伊勢神宮の外宮の神官である度会家行によって唱えられた。
- 「(偽書とされる事の多い)神道五部書」を根本経典とする。儒教や道教思想の要素を大胆に取り入れた最初の神道理論で、元寇により、日本を「神国」であると再認識し、唯一絶対の日本の宗教が神道であるとする勢力のよりどころとされて発展。
- 外宮の祭神である豊受大神を、天地開闢に先立って出現した天之御中主神や国常立尊と同一視して、内宮の祭神である天照大神をしのぐ普遍的神格(絶対神)とし、内宮に対抗する要素があった。
*伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。即ち、豊受大神は元々は丹波の神ということになる。それまで、外宮の豊受大神は、内宮の天照大神に奉仕する御饌津神とされていたが、度会氏は『神道五部書』を根拠に、外宮を内宮と同等、あるいはそれ以上の権威あるものとし、伊勢神宮における外宮の地位の引き上げを目指した。
*古代エジプトにおいて最初は「死者の書」で冥界神オシリスの傍に侍る無名の女官に過ぎなかった女神イシスが次第に力をつけ「太陽神ラーの妻」「天空神ホルスの母」といった神格を次々と奪い、遂には太陽神ラーから「天体の秘法」を盗んで(神殿宗教の力の源泉たる農業暦で重要な意味を持つ)シリウスを司る天体神にまで昇格した事を連想させる展開。
日本神話に登場する神。豊受大神宮(伊勢神宮外宮、三重県伊勢市豊川町)に奉祀される豊受大神として知られている。『古事記』では豊宇気毘売神と表記される。『日本書紀』には登場しない。別称、豊受気媛神、登由宇気神、大物忌神、豊岡姫、等由気太神、止与宇可乃売神、とよひるめ、等々。また豊受大神の荒魂(あらみたま)を祀る境内別宮(外宮正宮南方の檜尾山)を多賀宮(高宮)という。
- 「古事記」…伊弉冉尊(いざなみ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されている。神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神。後に、他の食物神の大気都比売(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(倉稲魂命)(うかのみたま)と習合し、同一視されるようになった。
- 『丹後国風土記』逸文…奈具社の縁起として次のような話が掲載されている。丹波郡比治里の比治真奈井で天女8人が水浴をしていたが、うち1人が老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住んでいたが、十数年後に家を追い出され、あちこち漂泊した末に竹野郡船木郷奈具の村に至ってそこに鎮まった。この天女が豊宇賀能売神(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという。
- 『摂津国風土記』逸文… 止与宇可乃売神は、丹波国に遷座する前は、摂津国稲倉山(所在不明)に居た。
- 丹波、但馬の地名の起源として、豊受大神が丹波で稲作をはじめられた半月形の月の輪田、籾種をつけた清水戸(せいすいど)が京丹後市峰山町(比沼麻奈為神社がある)にあることから、その地が田庭と呼ばれ、田場、丹波へと変遷したという説がある。 付近の久次嶽中腹には大神の杜があり、天の真名井の跡とされる穂井の段(ほいのだん)がある。また、神社の縁起は、大饗石(おおみあえいし)と呼ばれる直方体のイワクラであると言われている。
- 福知山市大江町には元伊勢豊受大神社がある。元伊勢内宮より南方の船岡山に鎮座する社で、藤原氏の流れである河田氏が神職を代々継承している。崇神天皇の御世、豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)が天照大神の御杖代として各地を回るときに、最初の遷座地が丹後であった。その比定地はいくつか存する。
伊勢神宮外宮(三重県伊勢市)、比沼麻奈為神社(京都府京丹後市)、奈具社(京都府京丹後市)、籠神社(京都府宮津市)奥宮天真奈井神社で主祭神とされているほか、神明神社の多くや、多くの神社の境内社で天照大神とともに祀られている。また、稲荷神とトヨウケビメを祀っている稲荷神社もある。
日本神話の神。天地開闢に関わった五柱の別天津神(ことあまつかみ)の一柱。神名は、天(高天原)の中央に座する主宰神という意味である。宇宙の根源の神であり、宇宙そのものであるともされる。
*日本人が華厳経の毘盧遮那仏を受容した下地になったとも。
- 『古事記』では、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神であるとしている(『日本書紀』では国之常立神 が初めての神)。その後高御産巣日神、神産巣日神が現れ、すぐに姿を隠したとしている。この三柱の神を造化三神といい、性別のない「独神」(ひとりがみ)とする。
- 『日本書紀』本文には記述はなく、第一段で6つ書かれている一書のうちの第四の一書にのみ登場する。そこでは、まず国常立尊、次に国狭槌尊が表れたと書き、その次に「また、高天原においでになる神の名を天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)という」と書かれている。この記述からは、前に書かれた二神とどちらが先に現れたのかはわからない。なお、他の一書では、最初に現れた神は国常立尊(本文、第一、第四、第五)、可美葦牙彦舅尊(第二、第三)、天常立尊(第六)としている。
- 『古事記』、『日本書紀』とも、その後の事績は全く書かれておらず、中国の天帝の思想の影響によって机上で作られた神であると解釈されてきた。 しかし天之御中主神には倫理的な面は全く無く、中国の思想の影響を受けたとは考え難い。天空神が至高の存在として認められながらも、その宗教的現実性を喪失して「暇な神」となる現象は、世界中で多くの例がある。
- 中世に伊勢で発達した伊勢神道においては、神道五部書などで、伊勢神宮外宮の祭神である豊受大神の本体が天之御中主神であるとされた。これは、伊勢神道の主唱者が外宮の神職度会氏であったため、外宮を始原神である天之御中主神であると位置づけることで、内宮に対する優位を主張するものであった。伊勢神道を中心とする中世神話において、天之御中主神は重要な位置を占める神格である。
- 平田篤胤は禁書であったキリスト教関係の書籍を読み、その万物の創造神という観念の影響を強く受けた。そして『霊之御柱』において、この世界の姿が確定する天孫降臨以前の万物の創造を天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の造化三神によるものとした。この三神は復古神道においては究極神とされ、なかでも天御中主神は最高位に位置づけられている。
- 日本神話の中空構造を指摘した河合隼雄は、ツクヨミ、ホスセリと同様、無為の神(重要な三神の一柱として登場するが他の二柱と違って何もしない神)としてアメノミナカヌシを挙げている。
現在、主にこの神を祭る神社には、妙見社系、水天宮系と、近代創建の3系統がある。
- 妙見社系…端緒は道教における天の中央の至高神(天皇大帝)信仰にある。北極星・北斗七星信仰、さらに仏教の妙見信仰(妙見菩薩・妙見さん)と習合され、熊本県の八代神社、千葉氏ゆかりの千葉神社、九戸氏ゆかりの九戸神社、埼玉県の秩父神社などは妙見信仰のつながりで天之御中主神を祀る妙見社である。妙見社は千葉県では宗教法人登録をしているものだけでも50社以上もある。全国の小祠は数知れない。
- 水天宮系…元々は天之御中主神とは無関係だったが、幕末維新の前後に、新たに主祭神として追加された。
- 近代創建系…明治初期に大教院の祭神とされ、東京大神宮や四柱神社などいくつかの神社が祭神に天之御中主神を加えた。
出雲大社では別天津神の祭祀が古い時代から行われていた。現在も御客座五神として本殿に祀られている。出雲大社が古くは高層建築であったことは別天神の祭儀と関係があると考えられる。
そもそも儒教や仏教を強く排斥して日本古来の純粋な信仰への回帰を主張した「復古神道」が、どうしてその根拠としてカソリック文献を持ち出してきたのでしょうか。その秘密はイエズス会のイタリア人宣教師マテオ・リッチ(中国名,利馬竇)が著した「天主実義(1604年)」が江戸時代、日本の儒学者などの間でも盛んに読まれていた事にありそうなのでした。
- 「中国人学者の質問に西洋のキリスト教学者が答える」という体裁で明末中国の知識人向けにキリスト教教理を論じたこの本の中では「実は中国思想は全てキリスト教思想のデッドコピーに過ぎない」とする立場から仏教、儒教、道教が次々と論破されていく。
*まさしく復古神道が目指したビジョンそのもの。まず平田篤胤の目を引いたのはまずここ、この痛快さだったのかもしれない。臨済宗の僧侶ながら儒教を学び、さらに度会延佳から伊勢神道を、吉川惟足から吉川神道を教わった山崎闇斎(1619年〜1682年)が創始した垂加神道との相性も悪くない。朱子学をベースに、神道、陰陽学、易学などを集大成した道徳性の強い内容。あくまで「天照大御神の子孫たる天皇が統治する道こそ神道」とし神儒合一を主張するその立場は、当時のイエズス会が教皇庁に他して抱いていた熱狂的忠誠心と重なる。
アッラーは上帝か? - ところで論破の道具としてイエズス会士マテオ・リッチ(利馬竇)が武器として用いたのが(アラビア哲学由来の)スコラ学と(全ての背後に神を見る)機会原因論だった。
①ここでもしマテオ・リッチ(利馬竇)が(近代実証科学の礎となる)新アリストテレス主義哲学、すなわち「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えば実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」まで投入していたら以降の展開は違っていたかもしれない。しかし時代の制約がそれを許さなかった。
*人体解剖学の発達による新発見の連続こそがこのイデオロギーの牽引力。蘭学伝播を通じて日本にもその熱狂の一環は伝わったが、江戸幕藩体制下における漢方医学者の政治力はあくまで強大で、残念ながら幕末まで(国内保守派から徹底的に嫌われ抜いた)蘭癖家が時代の制約を突破する様なまとまった動きを見せる事はなかったのである。
*教皇庁もイエズス会も新アリストテレス主義哲学の対象が人体解剖学の分野に留まっているうちは黙認していたのだが、その影響が天文学の分野に及んで従来の天動説に代わる地動説の分野にまで及ぶと弾圧に着手した。ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)が1616年と1633年の2回異端審問所審査で有罪を食らったのもこれ。
②実は物(独Ding、英Thing)と物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)を峻別するカント哲学の認識論は、龍樹の二諦説とほぼピタリと重なる。「あらゆる因果関係の総体」たる縁起が人間の目には「あると思えばない、ないと思えばある(色即是空、空即是色)」曖昧な存在としか映らないのは、人間に「縁起そのもの」を認識する能力が欠けているからという次第。だがこの考え方もまた当時の欧州には芽生えておらず、当然当時の論争にも投入されていない。
*逆を言えば当時のマテオ・リッチ(利馬竇)の立場には(そのカント哲学の全面否定に成功した)ヘーゲル哲学の先駆という側面もあったといえる。実際、民族精神(Volksgeist)や時代精神(Zeitgeist)なる超越的存在を想定し「人間にとって自己実現とは、これと完全に一体となってその枠内に自らの役割を得る事である」と説くそれは、天皇を朱子学的忠誠心の対象として畏敬する儒家神道と内容が重なる部分が多い。
- なぜこの辺りが致命傷になってしまったかというと、まず清代中国において(明滅亡の原因は理論的空談に走った心学にあるという考え方が広まり)実事求是(客観的実証主義)の追求が始まったから。「乾嘉の学(18世紀後半〜19世紀初旬)」と呼ばれる文化運動で(「理=現実社会のあり方を無視して超越的に存続し続ける道義」を完全否定した)気一元論や(朱子学の主観的経書解釈を批判し、まず経書同士の内容の突き合わせから出発する)考証学が台頭し、その影響が日本の儒学者にまで波及。さらに(飢饉対策や産業への組み込みが進行して要求される実用性が飛躍的に跳ね上がった)博物学の発達が重なり、分野によっては「昨日の常識が今日の新発見で明日にはもう通じなくなる」世界が日常化した。こうした時代には「(全ての背後に神を見る事を優先する)天主実議」はむしろ反面教師として読み回されたと可能性が高い。
江戸時代における清朝考証学の受容について
*そもそも真言宗僧侶だった契沖(1640年〜1701年)、歌人だった荷田春満(1669年〜1736年)や賀茂真淵(1697年〜1769年)らが「万葉集」「古事記」「日本書紀」などの文献検証に血道を上げたのもこうした時代精神の賜物だったのである。垂加神道の闇斎も神儒を兼学したものの、神儒混淆、神儒習合を極力否定した。儒教については朱子学を信奉し、程朱及びその正統学派の人々の著述を厳密に再検討して、その中から程朱学の本質を理解し、顕彰し、程朱の論説を程朱の文章を通して闡明しようとした。神道についてはその本質を神書・諸抄・秘伝を通して私見を混同せずに闡明しようとしたのである。その意味で闇斎学と垂加神道は元来別々のものだった。
しかし神秘主義者の平田篤胤(1776年〜1843年)は「あらゆる学問の最大の目的は死後の魂の行方を確かめる事」とし国学の定義そのものを書き換える。そして死後の魂の行方については海外の宗教の方が詳細に論じている点に感心し、これを積極的に受容するのが復古神道の本義と再規定する事に成功したのだった。そうした無茶が通ったのもそれまでの国学者と異なり圧倒的大衆人気を勝ち取る事に成功したから。ある意味、日本の仏教教団がその主要財源を所領からの収益から檀家よりの御布施にシフトさせていく過程で経験した内容変化をそのままなぞったとも。
おそらく良い意味でも悪い意味でも、江戸幕藩体制下の日本において平田篤胤だけがマテオ・リッチ(利馬竇)の「天主実義(1604年)」を「どうして欧米人はこうした考え方を受容したのか」という観点から読んだのでしょう。それがこの人物の当時の人気を支えたのは事実ですが「ムスビの神」の定義は巻き添えでなんだか大変な事になってしまいました。一体どこで間違ったのでしょうか?
神道における観念で、天地・万物を生成・発展・完成させる霊的な働きのことである。産霊、産巣日、産日、産魂などの字が宛てられる。
- 「ムス」は「ウムス(産むす)」の「ウ」が取れたものとされ、自然に発生するといった意味がある。「苔生す」(こけむす)の「生す」も同根である。「ヒ」は霊または霊的・神秘的な働きのことである。神道においては、万物は「むすひ」の働きによって生じ、発展すると考える。神道において重要な観念の一つであり、その意義は江戸時代以降の国学者によって論じられた。
- 「ムスヒ(ムスビ)」を神名に含む神は多数おり、いずれも「むすひ」の働きをする神と考えられる。
- 造化三神の中にタカミムスビとカミムスビの2神がいる。タカミムスビはアマテラスが天岩戸に隠れた時に諸神に命じてアマテラスを帰還させており、カミムスビは殺されたオオナムヂを蘇生させている。これらのことから、むすひの神には衰えようとする魂を奮い立たせる働き(すなわち生命力の象徴)があるとされたことがわかる。
- 宮中で祀られていた宮中八神のうち5神にも、神名に「ムスヒ(ムスビ)」が含まれている。うち2神は神産日神(カミムスビ)と高御産日神(タカミムスビ)で、あとは玉積産日神(タマツメムスビ)、生産日神(イクムスビ)、足産日神(タルムスビ)である。玉積産日神は『古語拾遺』の「魂留産霊」と同神で、「タマツメ(タマトメ)」は魂を体に留める(鎮魂)という意味である。生産日神の「イク」は「イキ」(生き、息)と同根で、むすひの働きを賛える語である。足産日神の「タル」は、その働きが満ち溢れている(足りている)様子を示す。
- カグツチの別名に「ホムスビ」(火産霊)がある。イザナミは火の神カグツチを生んだことで陰部を火傷して亡くなった。それを怒ったイザナギはカグツチを斬り殺すが、その際に多数の神が化生している。多数の神を生み出す神ということで「むすひ」の神なのであるが、ここから「むすひ」の、死んでもなお多くの命を生み出すという、生命の連続性の象徴という意味が見えてくる。「連続」とはすなわち「結び」(むすび)である。同様のことは、『日本書紀』におけるワクムスビにも見られる。ワクムスビも死んでから多数の殼物などを生み出している。
「むすび」の3つ目の意味として「掬び」がある。これは「水を掬って飲む」という意味である。折口信夫は「水を掬ぶとは、人間の体の中へ霊魂を入れ、結合させることである。それを行った人間は非常な威力を発揮する。つまり、水の中へ霊魂を入れ、それを人間の体の中に入れるというのが産霊の技法である」と述べている。すなわちこれは禊のことである。
とりあえず上手に「地雷」が回避されてる感があります。特に「ここから「むすひ」の、死んでもなお多くの命を生み出すという、生命の連続性の象徴という意味が見えてくる。「連続」とはすなわち「結び」(むすび)である。」の辺りなど、こういう説明の仕方もあるのかと正直感心しました。
*ただ、このまとめ方では新海誠監督作品「君の名は」や、スピンオフ小説「君の名はAnother Side:第4話 あなたが結んだもの」における「ムスビの神」の扱われ方がうまく説明できない。そこではその力は「地元民を田舎に縛り付ける地縁」とか「昔のおぞましい因習(口噛み酒)の存続」とかネガティブな形でも現れているからである。しかも肝心のタイミングで役に立たなかったりもする。
伊勢派は全国神社の95%が加盟する「神社本庁」系神社です。一方出雲派は出雲大社系神社です。実は明治時代に「祭神論」という一件があり、伊勢と出雲は別の道を進むことになりました。
まず、出雲大社の宮司は千家(せんげ)家という名門で皇室に継ぐ旧家中の旧家で日本最古の苗字を名乗っています。明治時代の宮司は千家尊福(せんげたかとみ)でした。この尊福の神学・教学をめぐって大きな問題が起こったのです。
明治8年、海外の列強の脅威と維新後の新体制による国内の混乱の時代相にあって、神道をもって国民を導くために全国の神道家によって神道事務局が設けられました。
そこで、ここの神殿にお祀りする神をめぐって論争、「祭神論」が起こりました。そして神道の神学・教学に深刻な問題を投げ掛けました。つまり、一方は造化三神(天御中主神・高皇産霊尊・神皇産霊尊)と天照大御神の四柱、これに対し尊福は世の人々を救いに導くには幽と顕、見える世界と見えざる世界、生と死、これらのひとつながらの安心立命の道を希求しなければならないとする自らの「幽顕一如」の神学・教学論を展開し、それ故にこそ幽冥の主宰神である大国主大神を共にお祀りする五柱を主張しました。
神道布教の根底、根幹に関わる大きな問題の提起であり、尊福の主張に多くの神道者、国学者が支持を表明して神道界を伊勢派と出雲派に二分して空前の論争が繰り広げられました。
この祭神論の神学・教学論争は容易に決着がつかず、結局、この論争は明治14年2月の勅裁(天皇の判断)をまたねばなりませんでした。すなわち、宮中三殿の天神地祇・賢所・皇霊を遥拝することとされたのです。
*神道事務局神殿が宮中三殿の遙拝殿と決定した事により事実上の出雲派の敗北が決定。また政府は、神道に共通する教義体系を創造する事、および近代国家が復古神道的な教説によって直接民衆を統制する事の不可能性を認識したといわれている。
しかし、この勅裁は神学・教学によるものではなく、神学・教学論争としては未決着のままでありました。
陛下はやがて伊勢の神を祀ってはとのご意見を出され、尊福は、ここで独立を決意し、出雲は伊勢と違う道を選択しました。
教義も伊勢は太陽の女神の伊勢神道でこの世を多く説きますが、出雲は幽冥大神つまり、あの世の神、死後の世界を大変に重視します。祭典の作法や神職の服装、祝詞、楽器、など伊勢と出雲には大きな差異が今も残ります。
とりあえず、何となくながら全体像が明らかになってきた気がします。
- 一般的理解だと「ムスビの神」はこの世界が完全にバラバラになってしまわない様に各要素を結びつけているかもしれない何か。あえて意識したくても、カント哲学でいう「(認識対象としての)物」と「(認識し切れなかった部分を含む)物自体」の差分は絶対に埋まらない。それは絶望でもあり救済でもある。
- その意味において出雲神道の提示する「幽顕一如」の世界観の扱いは要注意。「幽玄の世界」を意識しすぎた途端「ムスビの神」は「視野外の曖昧な客体」から「怖がりな人だと、すぐに全面降伏して盲従したくなる様な威圧感を伴った主体」へと変貌してしまうのである。とはいえ「認識上における物と物自体の差分を完全に埋める方法」が見つからない以上、全面降伏したくても肝心の相手が見つからない。「私です」と言い寄ってくるのは大抵が詐欺師(あえて全員がとは言わない)。
なぜ生者は死者を意識し過ぎると自らの主体性を放棄せざるを得なくなるのか。それはしばしば数的優位すら相手に奪われてしまうからです。
アーサー・C・クラーク「2001年宇宙の旅(1968年)」まえがき
「今この世にいる人間ひとりひとりの背後には、30人の幽霊が立っている。それが生者に対する死者の割合である。時のあけぼの以来、およそ一千億の人間が、地球上に足跡を印した」
*究極的にはこの考え方にはエドマンド・バークが「フランス革命の省察(Reflections on the Revolution in France、1790年)」で示した「時効の憲法(prescriptive Constitution)」概念しか解決策がない。確かに直近の死者の意見は考慮に値する。だが死者は増え続けるものであり、キャパオーバーした「過去の死者の意見」は次々と削除されていく。
新海誠監督作品「君の名は」については映像化された部分が前者、スピンオフ小説「君の名はAnother Side:第4話 あなたが結んだもの」で仄めかされるのが後者の世界ですね。実に巧妙なトリミング…
- 宮水家の祭文は元来出雲系で祭神も倭文神や天羽槌雄神ではなく「星神」香香背男だったかもしれない事(スピンオフ小説「君の名はAnother Side:第4話 あなたが結んだもの」に登場する仮説)
- 宮水家の先祖が自分達を「倭文神の末裔。ムスビに祈るもの」と認識していた事(スピンオフ小説「君の名はAnother Side:第3話 アースバウンド」)
最後にこういう部分についてどう考えるかが残されましたが、案外鍵は彗星ティアマトの名前そのものに隠されているのかもしれません。
- 淡水と外海の荒波の交わりが生んだ混沌の女神。創造も破壊ももたらす。
- 夷狄の侵略者の派遣者にして神殿の守護獣の供給者。
- 討伐後、人間界の材料となる。
古代エジプト神話におけるセトにも似た様な神格ですね。
- (下エジプトに流入してくる)異邦人とその故郷の神。戦争も司る。
- 砂漠の神でもあり砂嵐の起こし手にしてキャラバンの守護者。
- ファラオの強さの象徴にして不和を煽る神。
古代エジプト王国で最も著名なラムセス2世(Ramesses II、紀元前1314頃〜紀元前1224年、または紀元前1302頃〜紀元前1212年)の実家の神でもあった様です。「外的」が、味方につければあっさり「ファラオの力の根源」に変貌し、臣下の不和が王権の安定につながった時代ならではとも。
日本でも安政の大地震(1855年)際して「鯰の切腹図」なんてのが描かれました。切腹した鯰の腹から零れ落ちる小判の山。鯰は地震を起こして人を殺し建物を破壊する憎悪の対象であるだけでなく、復興景気ももたらす有難い存在とも考えられていたんですね。時代が変われば人間の感じ方はこんなにも違ってしまうという実例。
まぁそういう「時代が変わって生じる価値観のズレ」もちゃんと作中で描かれてますから、そっち方面からアプローチを試みるのもアリかもという話。
さて、私たちはいったいどちらに向けて漂流しているのでしょうか…