諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「臣民化」の歴史⑤ そして「朝食ナショナリズム」へ。

19世紀におけるフランス料理の庶民化。本国で滅んで日本の「街の洋食屋さん」にその面影を留めます。ただしアメリカ経由の伝播なので色々適当。

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日本やアメリカにおける「生鮮食品ナショナリズム」。特に日本の場合「納豆ご飯」とか「卵掛けご飯」とか「朝食ナショナリズム」につながっていきます。そもそも日本における産業革命導入期には「工場労働者の白飯食への憧れ」が重要な役割を果たしたとされているのです。

話がここまできたら、もう「イングリッシュ・フルブレックファースト」に触れざるを得ませんね。英国産業革命を牽引した英国労働者の食事。

フル・ブレックファスト - Wikipedia

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 「無政府主義(Anachism)界のプリンス」と呼ばれたクロポトキンは「革命はパンの不足から始まる」と叫びました。その発想はロンドンに亡命したマルクスが「英国人労働者が砂糖入り紅茶と白パンで餌付けされてる景色」を目撃して衝撃を受けた史実とも重なってきます。

それにしても「国民全体が臣民化していく産業革命期においてなお「上流階層と下流階層の峻別」に執着し続けた涙ぐましい努力は現代人の涙を誘う。

  • 英国における「レモンティーは貴族の飲み物、ミルクティーは庶民の飲み物」なる峻別。これはフランスにおいて(国民国家化の前段階として臣民化が始まった)絶対王政が樹立する17世紀まで卵や牛乳を使った料理が「田舎料理」と馬鹿にされ続けてきた事とも呼応する。当時のフランスにおいては、また「胡椒などの高級輸入品が貴族の香辛料、生姜や辛子の様な国産品が庶民の香辛料」という暗黙の了解が存在した。

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    「ミルクティー」と「ロイヤルミルクティー」の違い

  • 戦前日本における「ざるそば」と「もりそば」の峻別。(近代的養殖技術が確立するまで贈答品としても使われるほど高級感があった)海苔がかかっているかいないかの違いに過ぎないが、「ざるそばを頼んで良いのは親方だけで、弟子はもりそばを頼む」みたいな暗黙のルールが厳然と存在した。

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    「もりそば」と「ざるそば」の違い

実は日本における「自由」の概念はLiberty(一部の人間にのみ許される特権の開放)とFreedom(そうした峻別が最初から存在しないノーチエック状態)がごっちゃになっているのでこういう身分制残滓が色濃く残る状態を表現するのに適さない。

自由 - Wikipedia

ちなみに福沢諭吉は最後までLibertyの訳を「天下御免の向こう傷」や「切り捨て御免」の「御免」とするか悩んだという。この様にそもそも「自由」の概念そのものが混乱してるせいで、日本人はこれからいかなる幸福感を甘受すべきか未だにわかってないという話もある。

英国におけるローフブレッド(Loafbread)

18世紀頃「ティンブレッド(tin bread、ブリキパン)」とも呼ばれる英国でカナダ産強力粉を原料として金型に入れて焼いた山型食パンの製造が開始された。 そして英国植民地が拡大していく過程でブリキの箱(tin box)で焼くパンも全世界規模で広まっていく。

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  • 当時やわらかく白いパンは豊かさの象徴だった。産業革命時代に入ると製パン工場で大量生産される廉価なローフブレッドによって、貧困層も従来より高品質な食事で命をつなぐことができるようになり、自家製パンを焼く労働からも解放されたが、同時にこれが手間のかかる郷土料理やホームベイク文化の消失にも繋がっていく。

    さくらんぼのアメリカ日記 ブレッドとローフの違いは?

  • ただし近年、大都市部のパン職人はフランス、ドイツ流のサワードウ発酵パンを主流とする様になり、伝統的なローフブレッドは田舎町のパン工房や観光地で探したほうが見つけやすい状況となっている。
    *要するに型こそ使えど「手作り感」を盛り込まないと売れない。そのせいで「日本の食パン」の評判は極めて悪いという。なにしろどれも完璧に真四角で均質に肌理細かく純白。まさしく工業製品そのもの。日本人やドイツ人の完璧主義は時として人類に許されないほどオーバースペックな商品を生み出してしまうのでる。

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19世紀後半ロンドンに在住したマルクスによれば、過剰な価格競争のせいで紅茶同様、当時の庶民向けローフブレッドは混ぜ物が極めて多く、極端な例では石灰まで使われていたという。次第に支持を失っていったのは、こうした状況のせいだったかもしれない。

 鉄鋼の一口知識:一般社団法人日本鉄鋼連盟

トタンとブリキの由来

光沢など似ている点が多いが、トタンは亜鉛、ブリキはすずのめっきで、用途、価格とも全然違う。

  • 語源的には、トタンは、ポルトガル語のTutanaga(亜鉛)からきているが、出生については不詳(アラビア語起源説もある)。日本では明治44年頃から国産化され、屋根材として広く利用されるようになった。

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  • 一方、ブリキは、オランダ語のBlic、ドイツ語のBlech(薄鉄板)から転化したといわれており、歴史も古い。ブリキの利用で有名な話は、ナポレオンのエジプト遠征(1798年)の際の食糧貯蔵法からヒント得て、ブリキを用いて食品を貯蔵する方法が発明されたのが缶詰のはじまりで、爾来缶詰といえばブリキとなる。

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  • またブリキの型で焼く事から18世紀に現れたばかりの食パンは「ティンブレッド(tin bread、ブリキパン)」と呼ばれ、産業革命期英国の食生活を支えた事で知られる。
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そして石油ランプ普及に伴う使用済み灯油缶の再利用を嚆矢にブリキ玩具製造が始まる。「特に占領下の日本で生産された事を示す"occupied japan"の表示のある玩具は高値で取引されている」というが、日本の戦後ブリキ玩具が黄金期を迎えるのは1950年代から1960年代にかけてであって、欧米人コレクターは"occupied japan"というと真っ先に陶器製品を思い浮かべる様である。

ツナ缶の起源は保存食品を生み出すところから歴史が始りました。

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  • フランスで1795年に歴史の背景で戦争などの時に食品を保存できる方法を賞金付で公募しました。ニコラ・アッペールがガラス容器にコルクで蓋をするという保存方法を考えつきます。 1804年にスープを使った公開テストが行われ、三ヵ月後に開封されました。そのときの状態は大変良好でありました。歴史上では約200年以上前にすでに容器による保存方法は確立されていましたが、これこそが缶詰の元となりますが、ガラス瓶は重くて破損しやすいという欠点がありました。それでも探検家の携行食や船舶用の非常食、軍用食として重宝され、特にアメリカ合衆国南北戦争において大量に利用されました。のちに一般向けにも製造されるようになり、現在では、災害対策用の備蓄用食品(非常食)としても利用されています。

  • そこから8年後の1812年にブリキを使用した缶詰の大量生産が始まりました。金属製缶で食品保存を行う方法を生み出したのが英国人ピーター・デュランド(Peter Durand)です。1810年に権利をとっており、それを1000ポンドで買い取ったのがブライアン・ドンキンとジョン・ホールです。 その権利を元に1813年のイギリスに世界初の缶詰工場が建設されましたが、手作業によって封をはんだ付けしていたため1時間で6個しか生産できませんでした。また初期のものは殺菌の方法に問題があり、たびたび中身が発酵して缶が破裂するという事故を起こしましたし(後に改良される)、密封用のはんだに鉛が多量に含まれており、食べた人が鉛中毒で死亡する事故もありました。

  • 1824年には100年以上保存できるかの実験が行われました。ある航海から持ち帰られた子牛肉のローストの1.8キロと人参を肉汁で保存した90グラムの缶詰をそのまま保存し1936年に蓋を開けました。 ローストの方は動物に食べさせ、害はありませんでした。 しかし、人参の方は味も匂いも金気がついていて肉汁もなくなっていました。味云々よりも112間保存して中身が残っていたことに驚きです。

  • 当時の保存法には難点があり、開封にとても労力を使います。当時は缶の上部の穴から食べ物を入れてそこからハンダ付けしていました。缶切りもなかった時代だったので注意書きとして金槌と鑿(のみ)で蓋の周辺近くを切り開くという表示がされていました(軍隊では銃剣が使われた)。その為、中身は固形物に限られていたのです。 1833年にはフランスのアンシルベールによって缶の蓋の周りをはんだ付けし、熱で溶かして缶を開ける方式が考案されました。そして1860年代にブリキが発明されてからは、缶切りが登場して液体なども入れられるようになり、内容物のバリエーションが広がります(さらにその後、缶切りが無くても開けられる様にイージーオープンエンドが発明される)。

  • 缶詰のラベルについては1860年ごろにアメリカのレック・ハウ・アンド・ラーン社の製品に色つき絵入りラベルがありました。そして缶詰の生産が軌道に乗った19世紀末にはキャンベルやハインツのスープのように日常食となり得る品質の製品が現れ始め、缶詰食は一種のステータスシンボルとなったりました。
    *アメリカで普及したのは南北戦争(1861年〜1865年)に軍糧として大量生産され、戦後残余分が市場に安価で大量放出されたせいとされる。当時既にその生産量は約4,000万缶に達していたという。アメリカで産業革命が本格化するのはこれ以降なので、まさしく「産業革命の味」と認識されたのだった。
    キャンベル・スープ・カンパニー(創立1869年) - Wikipedia

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    ハインツ(創立1876年) - Wikipedia

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ツナ缶は1903年にアメリカのカリフォルニア州サン・ペドロのA・Pハーフヒルが最初に作りました。

  • 日本の缶詰の歴史は松田雅典によって始まります。フランス人デュリー(Leon Dury)から製造法を学び明治4年(1871年)に長崎で試作品を製造しました。最初はイワシの油漬け(オイルサーディン)の缶詰で、この時の試作品はフランス製にも劣らないもので外国にも輸出され好評を得たとされています(この段階では缶詰という言葉は存在していない)。

  • 1874年に野菜の缶詰を千葉県行徳の山田箕之助がを作っています。

  • 1875年に政府は関沢明清をアメリカのフィラデルフィア万国博覧会に送ります。 そこで製造法を視察し、帰国後大久保利通に工場の設置を進言しました。 本格的な生産が始まったのは明治10年(1877年)10月10日、北海道石狩市で石狩缶詰所が創業してから。初期にはアメリカ人Ulysses S.TreatとTrescott Swertの指導の下、サケ缶が製造されていました。このことから、日本缶詰協会はこの日、10月10日を缶詰の日と定めています。当初缶詰は管詰と綴られてました。

    *ちなみにノルウェーがイワシの缶詰輸出を始めたのは1880年からで、1893年にはシカゴの国際博覧会にスモークサーディンを出品。ノルウェーの製缶会社Bjelland&Co.が国王の肖像の使用権を得たのが1902年で、キングオスカーは1903年から米国に輸出された。ノルウェーを1905年にスウェーデンからの独立に踏み切らせた原動力の一つ。1920年までに英米市場を席巻。1965年以降は日本市場へも進出した。

  • 明治時代には主に日本国外向けの輸出用、国内向けには軍需用として生産されていたため、庶民には普及しませんでした。当時の缶詰の価格は、1缶が20銭から35銭で、白米1升が7.65銭であったことから、いかに高価な食品であったかわかります。とはいえ戦争終了後は大量の缶詰が安値で市場に流れました。
    *そういう時代だったからこそ「牛缶」や「蟹」を「庶民には手の届かない高級品」とし贈答品として重要視するイメージが形成されていく。

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  • 大正12年(1923年)に歴史的天災たる関東大震災が発生した時、アメリカから送られた支援物資には大量の缶詰が含まれていました。また缶詰普及協会の阿部三虎達も缶詰を被災者に送り、普及のきっかけをつくっています。
    「缶詰物語」
  • そして昭和3年(1928年)、静岡県水産試験場の村上芳雄技師がマグロ付け缶詰製造の予備試験を開始します。大正、昭和を通じかに、さけ、ますなどの缶詰の輸出が華やかに行われましたが、昭和51年(1976年)から昭和52年(1977年)にかけて決定された200海里漁業専管水域の設定によって壊滅的な打撃を受け、60年の歴史を閉じる事となりました。

日本での缶詰の消費量は、日本缶詰協会によれば408万0000トン(2002年推計)。ただし、缶ビールと炭酸飲料、スポーツドリンク類を除き、缶コーヒー、果汁飲料の缶ドリンクを含みます。250g缶相当で一人あたり165缶で、ドリンク類を除くと37缶。レトルト食品などの売り上げが伸びていて、缶詰の消費量は若干減少傾向にあります。

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その一方でアメリカでは1935年からアルミ缶に入った麦酒の販売が始まるが、そうすぐには普及はしませんでした。

こうして日本に定着したブリキ製造技術が玩具の世界にも応用される事になります。

日本エンターテイメント業界「ブリキの時代」

日本国内ではブリキの板をロボットや自動車・鉄道車両(電車など)・船舶・航空機など乗り物のような形に成形・塗装した玩具を「ブリキのおもちゃ」と呼び、懐古趣味的に愛好する人々がいる。昭和初期~中期の生活史を懐かしむ文脈に、ブリキのおもちゃは現れる。19世紀から20世紀初頭にかけてドイツのメーカーが主戦場を築き上げたが、日本におけるブリキの玩具の登場は明治5年(1872年)~明治6年(1873年)頃とされる。このころ石油ランプの普及により大量の石油缶の空缶が廃棄されていたがこれに玩具業者が注目、再利用して玩具を製造したという。明治7年(1874年)〜明治8年(1875年)頃ブリキ板が輸入されるようになったが、高価なため古ブリキによる玩具の製造は日清戦争(1894年〜1895年)頃まで続けられた。

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第一次世界大戦(1914年〜1918年)後、日本のメーカーが台頭して重要な輸出品になった。全盛期は戦後1950年代~1960年代(昭和20~30年代)で、その郷愁を意欲的に追求するために金銭と労力を投入してでもブリキのおもちゃを蒐集する愛好家も存在し、彼らの中で稀少価値の高い品が高値で売買されている。

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戦後の復興期においてブリキ製玩具の輸出は外貨獲得に貢献した。当時の玩具に錆びやすいブリキが使用されていた理由はコスト面だけでなく、主力産業へ優先して供給すべき伸銅製品の使用が玩具には制限されていた事も一因と思われる。(玩具ではなく教材として販売する場合は伸銅の使用は認められていた)。戦後復興期においてブリキ製玩具の輸出は外貨獲得に大きく貢献する事になった。
*この過程では「縁日を稼ぎ場とするテキ屋との峻別」といったハードな側面もあったと推測されている。例えば月光仮面(1958年〜1959年)放映段階では「キャラクター展開を複収入源に出来ませんかね?」という問いかけに対して「テキ屋さんを敵に回したら俺達やってられなくなるよ」みたいな答えが普通に返されていた。

有名メーカーは下記。

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  • アサヒ玩具…後にママレンジシリーズを発売後ブリキ玩具から撤退。

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  • バンダイ…後発だが赤箱シリーズの発売により台頭し、後に米国3大メーカーの一社TONKAと提携JAPAN TONKAを発売の後、キャラクター玩具中心となる。

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  • イチコー…最後までブリキにこだわり、子供服のMIKIHOUSEとのコラボでも活躍。

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  • 増田屋コーポレーション…ラジコン=ラジオコントロールを1955年に世界に先駆けて玩具に応用、商標を保有)等が有名。
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 ブリキの玩具は資本投下も少なく、金型の製造以外は高度な技術や熟練した工程も少ない。そのため発展途上国が工業化・近代化を促す第一歩として最適な産業と言えよう。戦後日本の輸出を支えたのは燕の洋食器とブリキ玩具とも言われている。その後高度成長期において人件費の高騰によりプラスチックなど主に石油を原料とした作業工程も少なく、人件費のかからないものがブリキにかわり玩具の主流となっていった。

燕市 - Wikipedia

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昨今一部の蒐集家によりブリキの玩具は過去のものというイメージが強いが現在でも日本を始めとしてマニア向けの復刻版だけでなく、少数ではあるが幼児用の商品が生産されている。ただ、人件費の安い海外製のものも多くなっており、それらはST(玩具安全基準)を満たしていないものもあるので幼児に与えるには注意が必要と思われる。
*戦前の日本は「紙製で濡れるとグチャグチャになってしまうシルクハット」とか輸出して世界中から弾劾されたりしていて、今の中国を全然笑えない状態にあったのである。この史実を無視して現代中国と産業的に対抗は出来ない。

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そして1960年代以降日本は「ビニール革命」や「プラスティック革命」を経ていくことになる。

話が脱線しまくりですが、要するに思わぬ応用範囲が次々と開拓されていくのが産業革命の世界。 むしろ人間の想像力が追いつかないくらいが普通とも。

  • 過去投稿において「毛織物の時代」「綿織物の時代セルロースの時代」について語ってきたが、最後の歴史段階はまさしく「爆発的」展開。なにせ白色火薬、フィルム、セルロイド、化学繊維…
    *そういえば(すぐ燃えたり爆発したりする)セルロイド産業が国際規制強化によって頭打ちになったのも昭和30年(1955年)前後。1960年代後半より加速する「ビニール革命」や「プラスティック革命」は、まさにこの時から(代替産業として)準備が始まったといえるかもしれない。そうした過程で「石油」が文明存続に不可欠な資源という地位を勝ち取っていく展開に。

  • こうした展開に比べると、むしろ「胃袋を起点に考える労働者の思考様式」の方が人間の想像力を裏切らない。ただその欲求、一定量以上満たされると必ずしや「週末には(ブルジョワ階層みたいに)家族でピクニックとか行きたいな!!」なんて斜め上の方向に発展する。まさにこうした駆け引きこそが「仁義なき資本主義社会」の本質なのであって、資本家階層はこれまで、そうした展開に合わせて抜け目なく「ほうら、毎週通っても飽きない自然公園や遊園地を日帰り出来る範囲に用意したよ」とかほうら、労働者の給料で買える軽自動車を発売したよ」なんて対策を講じ続けることで何とか延命を果たしてきた訳である。

    当時の「山盛り飯」の映像を見ると現代人は誇張としか思わないのが普通だが、案外そうでもない。穀物だけをカロリー源としていた当時の農民は、重労働をこなす為に相応量の摂取が不可欠なのだった。
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    • そうした体質ゆえに「兵糧攻め」には極めて弱かった。江戸時代初期のキリシタン狩りにおいても、いからる暴力より兵糧攻め」こそが彼らを白状させるのに有効だったと記録に残されている。朝鮮農民も事情は同じだったらしく、黄海道出身の革命家だった金九の自叙伝にも「白凡逸志(1947)」にも「どれほど拷問されても屈っしなかった屈強な同志達が、数日間飯を抜かれキムチの匂いを嗅がされただけであっけなく陥落するのを幾度も見てきた」と記されている。
      *ちなみに麦の産地たる黄海道においては肉饂飩が「カツ丼」に当たる御馳走で、兵糧攻め」とこの組み合わせも実に効いたという。

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    • そもそも当時朝鮮半島を騒がせていた義兵運動には、清朝大日本帝國帝政ロシアだけでなくソウルに陣取る大韓帝国の中央官僚達さえをも敵視する無政府主義的側面があったのである。あっけなく日韓併合(1910年)が成立した背景には、大韓帝国の中央官僚達が「フランス革命の二の舞」を恐れ政権を投げ出す機会を見逃さなかったからという側面もあったらしい。そんな内戦状態を引き継がされた大日本帝國こそ良い面の皮だったのである。
      *「フランス革命の二の舞」…実際危機的状況が幾度もあったし、とっくの昔に逃走済みの高官も沢山いた。一方、大軍勢を率いてソウルを包囲したものの、「突入」が何を意味するか考えてるうちに怖くなって逃げ出した義兵の総大将までいる。アンドレ・シュミット「帝国のはざまで―朝鮮近代とナショナリズム」に掲載された「檄文による挑発合戦」の下りに目を通した限り「執筆当事者は華麗かつ過激な漢文の作文大会くらいにしか思ってないが、周囲がどんどん冷静さを失い激昂して盛り上がって取り返しがつかない方向に進んでいく」状況が見て取れる。日本の尊王攘夷運動にも同様の側面があったが、漢文にはこういう効果があるから恐ろしい。
      コリアンの〈孝〉・考

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    • 抵抗が特に激しかったのは「麦の産地」たる黄海道に加え「米の産地」だった全羅道忠清道慶尚道。まさしくフランス革命当時ジャコバン派独裁政権を悩ませたヴァンデの反乱(1793年〜1801年)の如く「守るべきものがあるからこその強さ」。これまで散々搾取されてきた怨恨から地元住民が一丸となってまとまり、ほとんど半独立状態を勝ち取ってたという。

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      *当時の日本政府は大韓帝国を「日本史でいうと平安時代末期(院政期〜武家政権台頭期、11世紀頃)」と見積もり、それに応じた形で土地調査事業を進めた。すなわち(日本でも最近まで履行されていた)律令と先例に基づいて可能な限り穏便な形で(中世日本の「職の体系」の如き)土地利権の多重状態を解消し、何とか太閤検地(16世紀)が終わった頃の状態にもって行ったのだった。これでやっと近代的な不動産売買が可能な状態となり、再開発事業が本格的にスタート。現地人の間で未曾有の土地投機ブームが起こり、地価乱高下の荒波を乗り切った猛者達が民間資本家第一世代として台頭してくる事になる。

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      *土地調査事業の結果として朝鮮総督府は現地最大の地主となったが、要するに官地を取り戻し、両班階層の隠田(課税逃れ為の未登録耕作地)と所有者のいない荒地を接収したら結果としてそうなったに過ぎない。そもそも、まさにこの姿こそが元来登記上はそうなっていた大韓帝国の姿だったという訳である。しかもそれだけ寄せ集めても朝鮮経営の資金源としては全然足らず、内地国民の血税が惜しみなく注ぎ込まれていく展開に。

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      *韓国歴史家は「当時の両班の日記には、この不当な仕打ちを恨む証言が幾らでもある」と豪語するが、裁判で負けた彼らにはその恨みを日記にでもぶつけるしかなかったのである。しかもそこには「隠田を蓄え、官地を横領し、義兵を挙げて検地を拒んで祖国経営を転覆せしめた自らの罪」に対する反省は一切なく、さらには廃藩置県(1871年)で退位を余儀なくされた大名同様に恩給はちゃっかり最後まで受け続けている。ただまぁ当時の両班階層のモラルがあくまで平安貴族レベルに留まっていた事を思えば、それはそれで言っても仕方のない事なのかもしれない。日本も平安時代にペリー艦隊が来航したら同様の運命を辿っていたであろう事は想像に難くない。

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    • 1920年代に入ると義兵運動自体はパッタリと収まる。別に武力討伐が成功を収めたせいではなく、貨幣市場経済が浸透し「穀物を日本に輸出する方が儲かる」という事実が知れ渡ったからだったらしい。
      *それでは歴史のこの段階で対日感情が少しは好転したかというとそうでもない。経済が回り出してまず得をしたのは一部在地有力者のみ。貧富の差はかえって広がり小作人の生活は却って困窮。ただエッカート「帝國の申し子」によれば、こうした流れは既に大韓帝国が機能不全状態に陥った1990年代から始まっていたらしい。「武断派」に代わって朝鮮半島に送り込まれた「文治派」官僚達は、早速様々な手を打ち始めたが、その効果が現地住民にも体感可能な形で現れるまでには時間が必要だった。そもそも悪名高い春窮(毎年恒例の様に春先を襲う小飢饉状態)の駆逐から着手せねばならず、条件が悪すぎた。

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    • こうした展開の皺寄せを喰らったのが「安価な朝鮮米の大量流入」への対応を迫られた日本農民達だった。日本で改良された「寒冷地帯でも栽培可能な品種」の朝鮮半島流入もあったので様々な次元において苛烈な戦いが繰り広げられ、当時の新聞記事を賑わせたが、最終的にこの問題を解決に導いたのは「(同時期、急速に日本全土に広まって定着した)白飯食の慣習が朝鮮半島にも伝播して内需が拡大する」という展開だったのである。

      朝鮮産米増殖計画 - Wikipedia

      *それまで朝鮮人は伝統的にずっと「栗が安い年は栗に群がり、砕米が安い年は砕米に群がる」という雑食状態を続けてきた。これに振り回されて朝鮮総督府飢饉対策に手を焼いていたが、その問題もこの展開によって一応解決された様である(日本同様、とりあえず米さえ備蓄しておけば何とかなる様になった)。そして韓国の料理研究家によれば1930年代に入るとソウルの都市生活者中心にキムチに劇的な変化が起こる。要するにそれまで単体で食べられていたものが「白飯のおかず」として、それにふさわしい内容と味付けに変貌したのだった。

      食糧と農村と人口流出:データで見る植民地朝鮮史

      http://www.wayto1945.sakura.ne.jp/KOR10-food01.pnghttp://www.wayto1945.sakura.ne.jp/KOR10-food02.png

    当時の大日本帝国ではクロポトキンの「革命はパンの不足から始まる」をもじった「白飯が行き渡っていれば革命は起こらない」なる慣用句が標語の様に行き渡っていた。要するにこれが「大成金」アメリカに次ぐ繁栄を謳歌した「小成金」日本の現実だったのである。
    *ちなみに当時は朝鮮半島沿岸部でも海苔の養殖が盛んに行われていたが、歴史のこの時点ではあくまで内地への輸出専用食品だった。しかし独立後、日本への輸出目処が立たない状況下、仕方なくこれも自分達で食べ始める。それまでキムパブと呼ばれてきた伝統食(幕の内弁当に似た漁師の携帯口糧だったらしい)が「韓国式海苔巻き」に変貌したのはこの時だったとされる。

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  • もちろん労働者がとりあえず「砂糖入りミルクティと白パン」とか「白飯と味噌汁と干魚」とか与えられると温順しくなる様な資本主義的段階なんて、現代人の観点からすれば到底人道的配慮が行き届いているとは言い難い。とはいえ「その程度の条件さえ満たせない様なら最初から破綻する」という意味において、まさにこの状態こそが最低限のスタート・ラインだったのであり、これにさらに「右肩上がりの成長(およびそれに応じた生活向上経験の連続)」もセットになっていたからこそ、労働者達は黙って耐え抜いたという側面もあったのである。
    *かくして傍観者としてロンドンに存在していたマルクスの「これは間もなく革命が起こる」なる予言は盛大に外れた。なにしろ彼らは選挙権拡大によって投票権を獲得すると多くが保守党に投票した。

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    軽自動車の歴史 | 軽自動車の基礎知識 | 軽自動車を知る | 軽自動車検査協会
    日産――ダットサンブランドの魂(1934年) | よくわかる自動車歴史館 | GAZOO.com

    トヨペット・クラウンRS型(1955年)

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/27/Toyota-crown-1st-generation01.jpg/800px-Toyota-crown-1st-generation01.jpg

    ダットサンセダン110型(1955年) 

    http://gazoo.com/car/history/PublishingImages/087/10.jpg

こういう過酷な歴史が、それぞれの国に「朝食への執着心」を残してきたんでしょうか…

どんぐりこ - 「もう洋風は要らない!」日本の朝食の美味しさを熱く語る外国人に海外が興味津々
劇訳表示。 : 「これが日本の朝食だ」【海外反応】

http://livedoor.blogimg.jp/livereak-gekiyaku/imgs/8/6/86c39ee8-s.jpg

どうやら「島国は朝食豪華主義、大陸国は昼食豪華主義」なんて傾向があるらしく、フランス同様ドイツも「手の込んだ調理が必要な暖かい食事は昼食のみ」派。ただし朝食は2回に分けてとる様です…

辻調おいしいネット / 独逸見聞録
ドイツの朝食 German breakfast | 世界の朝食
一日の始まりは朝食 | ビール文化研究所 / Das Bierkultur Institut

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一方、全く一括りに語れないのが「移民の国」アメリカ… 

いずれにせよ「文化総力戦」じみた展開になると「貴族の胡椒と庶民の辛子・生姜」とか「貴族のレモンティと庶民のミルクティ」とか「目上のザル蕎麦と目下のモリ蕎麦」みたいな「身分制時代の残滓を引き摺りながら近代化の道を歩んできた伝統」も引き合いに出される事になります。決っして忘れてはいけない歴史なんですね。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Airacobra_P39_Assembly_LOC_02902u.jpg/250px-Airacobra_P39_Assembly_LOC_02902u.jpg

それともこれからの時代はそうした「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」めいた発想からも脱却しなくちゃいけないのでしょうか。判断に迷うところです。

さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…