諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ハチ「砂漠の惑星」が示唆する2010年代後半のサバイバル術③ 「夜は超えられるものでも、超えるものでもない」 ?

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以下の投稿では「幼女化した眠り姫」と「ドアを外からノックする現実」を対比させてみました。国際SNS上の関心空間に滞留する女子アカウントが「選考」し「発展」させてきた2010年代独特の世界観。
*古典的物語文法においては、この種の「眠り」は死の暗喩でもあった。だが彼女達のイメージする「惰眠」にそうした暗さは一切存在しない。

実は「アナと雪の女王(Frozen、2013年)」における壮大な引き籠り賛歌「ありのままに(Let it go)」と「ドアを外からノックする現実のプレゼンテーション」ともいうべき「雪だるま作ろう(Do You Wanna Build a Snowman?)」の対比もこの構造と相似形にあったりするのですね。
*ただし呼び掛ける当人こそが「日常の裂け目=全てのトラブルの原因」なのに無自覚というかなりの特殊例。まぁ事態をさらに悪化させたハンス王子を連れてきたのもアナだし。彼女達は「米国製コンテンツより和製コンテンツの方が私達の気持ち分かってる」というが、日本は「ハローワークいこう」みたいな替え歌も流行しちゃう国だったりして決して単なる「楽園」ではない。



*こんな酷い替え歌まであったんだ…

ところで元話の「眠り姫」は①無理矢理起こされて②目を醒ますと後は放っておいてもずっと起きている、といった具合。だけど彼女達は①ちゃんと説得されて自分でも納得がいかないと絶対に目を醒まさない。②安眠を妨げる「日常の裂け目」を繕い終えるとまた寝に戻ってしまう、を基本ルーチンとしています。日本の様に「ニート叩き」に陥らないのは「幼女化して本当に心地よいものだけに囲まれて眠る眠り姫」なるファンタジーが「現実の世界においてはそれなりにきっちり現実に対応出来ているし、体が勝手に動いてそうしちゃう自分への自己嫌悪」と表裏一体の関係にあるからとも。
*そういえば河原礫「ソードアート・オンライン」はシリーズ化して以降、キリトやアスナが交代に「眠り姫」役をつとめ「クリスハイト」菊岡誠二郎が「ドアをノックする役」を一貫して努めてきたという分析もある。このせいで「ハイト×キリト」みたいなBLジャンルも誕生?

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*もしかしたら「眠り姫VS現実」なる図式、並列処理を可能とする「(コールバック制御によって連鎖する)割り込み処理の最中以外はアイドリング状態を続ける無数の空ループ集合」なる概念とも相似形にあるのかもしれない。そして
この世界観なら特別に「外側」や「絶対他者」といった概念を新たに定義する必要はない。原則地して全ての空ループにとって他の空ループ全てが「他者」なのだから。まぁ実際にはさらにその「外側」も存在する訳だが…

ただしどうやら世界をこういった具合に「自分(インナースペース)」と「他者(現実)」を対比させる図式で描かない米津玄師(ハチ)のアプローチはまた異なる様なのです。

 


「自分でものを考える」というのはどういうことなんだろう、と常々思う。自分の意思なんてものはまやかしではなかろうか。いつだって大きな流れの中を流れ揺蕩っているだけで、流れそのものを体現することしかできないのではないか。それを自分の意思と呼んでいいのか。切り取ってきた断片を張り合わせコラージュしてきた人格をオリジナリティと呼んでいいのか。

独創やオリジナリティという言葉は近代になって生まれたもので、著作権やコピーライトと共に生まれた概念であるらしい。インターネット上にて権利の主張に躍起になっている人は少なくない。

「何処にもいけない」という感覚が自分の中に大きく内在していて、よく歌詞に使ってしまうし使おうとしてしまう。自分でもこれが何なのかよくわかってなかったけれど、改めて考えてみると、どうやら不可逆な時間の流れに於いて使っているらしい。と思う。やっぱりわからない。

自省は必ずしもネガティブな意味をはらむものではない。自省によって自分の悪いところを見つけられるなら、必ずいいところも見つけられるはずで、それができないやつは意図的に悪いところを探しているだけ。こういうのを卑屈っていうんだろうな。

何処にもいけない」とは逆をいえば「何処にもいかない」=「ここではない何処かにいきたい」なる(20世紀末に流行した)グノーシス神秘主義的悲観主義に対するアンチテーゼなのかもしれません。
*「グノーシス神秘主義的悲観主義」…普通は概ね「ファンタジーはあくまで誤謬やRAVEなどによって脳内処理を誤魔化す事によってのみ成立する」なる立場に立脚する象徴主義魔術的リアリズムを対極とする概念として語られる。言葉や体験から受ける刺激によって特定の神経細胞の結節が活性化される」とする似非生物学や「正しい手順さえ踏めば人間の感動を思うまま制御出来る」と考えたがる権威主義が背景に。

  • 2010年に発表された「マトリョーシカ」「パンダヒーロー」「ローリンガール」といったボカロ曲の多くは「何処へも行けない感」はヒステリックな焦燥感を伴っていたものである。そして、それが当時の若者の心を掴んだ。
    *おそらくそれは上遠野浩平ブギーポップは笑わない(1998年)」やメディアミックス作品「Serial experiments lain」を誕生させた1990年代後半の若者の荒廃した心象風景を出発点とするものだった。

    *この時代には「仁義なき戦いシリーズ(1973年〜1976年)」の深作欣二監督が「バトル・ロワイヤル高見広春の原作1999年、映画化2000年〜、田口雅之の漫画化2000年〜2005年)」を撮影し、映画「武士道残酷物語(1963年)」原作「被虐の系譜(1963年)」の作者南條範夫山口貴由シグルイ(原作1964年、2003年〜2010年)」原作者として復権を遂げている。要するにそれは「角川春樹商法」に代表される様な享楽的な産業至上主義(1960年代〜2000年代?)の延長戦上にではなく(米国ハードボイルド文学にインスパイアされた)大坪砂男「私刑(1947年、映画化1949年)」や黒澤明監督映画「酔いどれ天使(1948年)」「野良犬(1949年)」に代表される「焼け跡センチメンタリズム」の復権という形で表面化し「多様化の時代(1990年代〜)」の基底文法に選ばれた。大坪砂男の孫たる虚淵玄いわく「ハードボイルドやサイバーパンクがファッションからライフスタイルに深化した」時代。その大源流は1930年代(米国パルプマガジン晩期、江戸川乱歩「通俗小説」発表期)にまで遡る。

    *つまり歴史のこの時点において「何処へも行けない感」は別に米津玄師(ハチ)の歌詞世界においてのみ内在化されていた訳ではない。実際、当時の流行語「少女ハードボイルド」は河原礫「ソードアート・オンライン・シリーズ(Web連載2001年〜、単行本化2009年〜)」、西尾維新物語シリーズ(原作2006年〜、アニメ化2009年〜)」、虚淵玄脚本作品「魔法少女まどかマギカ(2011年〜)」といった作品群の共有概念。ただし2000年代においてはまだまだサブカル分野においてのみ散見される雌伏段階にあった事実もまた揺らがない。

  • 2012年までにこうした「何処へも行けない感」と焦燥感の切り離しが進行。むしろそれを諦観を持って受容すべきというコンセンサスの形成が始まる。


    *そして次第に西尾維新原作「物語シリーズ(原作2006年〜、アニメ化2009年〜)」や虚淵玄脚本「魔法少女まどか☆マギカ(2012年〜)」がメインストリームへの行軍を開始する。


    *それはザック・スナイダー監督作品「エンジェル ウォーズ(Sucker Punch、2011年)」やCLAMP原作「BLOOD-C(2011年〜2012年)」が主ターゲットの筈の女性層から背を向けられていった時代でもあった。1970年代から1980年代にかけて革命を起こした女性漫画家達は声を揃えて「女性があえて苦難の道を受容するのは、逆転勝利の可能性がある場合のみ」と主張する。この勘所が掴めてなかった結果とも?

    *そうした展開の渦中において米津玄師(ハチ)の歌詞世界は次第に「(「人は究極的には互いに直接つながってない」なるカント哲学的諦観に立脚する)精神不安」、それも「(情動の過剰や過小が人間を振り回す)躁鬱病的不安定感」というより「(言葉と意味の紐帯そのものが揺らぎ「象徴主義的戦略」の実践すら不可能となる)統合失調的不安定感」に立脚する様になっていく。その異様さはまさに破局寸前の恋、ブラックホール化直前の赤色矮星において初めて顕現する物理学?

  • そして2010年代後半までに「泥の大海にあえて蓮の花を探す大坪砂男黒澤明監督の始めた「焼け跡センチメンタリズム」が概ね勝利を納める。自らが蓮の花を見つける当事者となる可能性すら捨て「砂漠に林檎の木を植えよう」と訴える「砂の惑星」が発表されたのは、まさにこのタイミングとなる。

    *そういえば焼け跡センチメンタリズムの終着駅の一つは赤塚不二夫天才バカボン(1967年)」におけるバカボンパパの名台詞「これでいいのだ!!」だったりする。「砂の惑星」の歌詞世界が黒澤明監督映画「悪い奴ほどよく眠る(The Bad Sleep Well、1960年)」 における問題台詞「これでいいのか!?」に該当する問題提言を一切行わないのも、こうした「現状を肯定するニヒリズム」に介入の口実を与えない為とも。そういえば同様に「悪い奴ほどよく眠る(The Bad Sleep Well、1960年)」の影響を色虚く受けたフランシス・コッポラ監督映画「ゴッド・ファーザー・シリーズ(1972年〜1990年)」や、その大ヒットに便乗する形で製作された深作欣二監督映画「仁義なき戦い・シリーズ(1973年〜1976年)」にも「これでいいのか!?」に該当する問題提起はない。
    バカボンのパパ - Wikipedia

    *「自らが蓮の花を見つける当事者となる可能性すら捨て去っていくスタンス」…ある意味「国家間の競争が全てとなった」総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)が産んだ鬼子ともいうべき魔術的リアリズムの世界そのもの。そういえば奇しくもハリーポッター新シリーズも「ワンダーウーマン」新シリーズも「(第一次世界大戦を契機に表面化した)光と闇の一体性」を新たな世界観の基調としている。そういえば「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー(Rogue One: A Star Wars Story、2016年)」も「次世代に夢を繋ぐ」物語だった。奥田民生「息子」「人の息子」の世界でもある。


    *そして進研ゼミのこのトリミングである。まさに伝説…日本人よ、これが産業資本主義時代(1960年代〜1990年代)の典型的やり口だった? まぁ全曲通して聞くと「何かというとすぐ何もかも投げ出して泣き出す迷惑女がお前を破滅させる」という内容だったローリング・ストーンズの「Sart Me UP」を主題歌に選んだWindowsのCMも壮絶だったが。MicrosoftはさらにSufaceのCMで「1番でなければ何者でもなくなってしまう私は手段を選ばず勝ちに行く」なる歌詞内容の2ne1「I am best」を主題歌に選んでるし、当時からずっと確信犯的に「騙される方が悪い。ヒントはちゃんと事前に与えてあったろう?(上から目線)」路線を貫き続けている。

    *こうした展開について日本のメディアが「でも彼らはみんな単なるドジっ子!!」と必死で茶々を入れ続けるのは、赤塚不二夫が残した「これでいいのか!?」なる問いに対して「これでいいのだ!!」と脊髄反射的に答える精神を今日なお「人類最大のKoolな態度」と盲信し続けているせいかもしれない。ある意味、企業やマスコミが「総力戦体制時代」から「国民総動員」の概念だけを継承しようとした「産業至上時代(1960年代〜2000年代?)」の残滓。「あなたが始めた事を私が完成させる」と誓うカイロ・レンのスタンスそのもの。

     

もしかしたら、こうした流れは全て「夜の闇(「日常の裂け目」をもたらす絶対他者)は超えられるものでも、また超えるものでもないという現実の直視」から始まる多様化の時代(1990年〜)特有のコンセンサスが形成されていく過程と要約可能かもしれません。例えば「(コールバック制御の連鎖などによって連携する)空ループ集合の水平的繋がり」と「それぞれの空ループ内における他の各空ループに対する認識の(信頼感等の基準に基づく)垂直的繋がり」の二軸で全体像を把握するとか。いずれにせよそれまでの時代とそれ以降の時代の認識を画すのは恐らく「(絶対)他者との折り合いのつけ方」。

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    • 当初それはルネサンス期における宗教と科学の対峙として始まった。「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えば実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」なるイタリア・ルネサンス期のパドヴァ大学ボローニャ大学の解剖学部で流行した「アリストテレス主義哲学」。ただしここでいう「他者」はあくまで認識的発展のタイムラグが発生させるもので最終的には解消されるものと目されていた。
      *この考え方から離れたリベラル派は「国際平和や人類平等の理念を達成する為には滅ぼさねばならない人物/集団/種族が存在する」と考える党争至上主義に陥りしばしば大虐殺に手を染めてきた。まさにナチス。当事者には概ね「絶対悪たるナチスを撲滅する為に手段を選んでなどいられない。相手側共感者はたとえ親兄弟や配偶者だろうが一族郎党もろとも確実に撲滅し尽くしてこそ人類の正当性は保たれる」といった党争至上主義しか存在せず、これが「宗教戦争の時代」を引き起こし、虐殺合戦で伝統的共同体を破壊し尽くし「調停者としての中央集権の立場」を強化する事に貢献する展開を迎える。

      *「絶対悪を撲滅する為に手段を選んでなどいられない。相手側共感者はたとえ親兄弟や配偶者だろうが一族郎党もろとも確実に撲滅し尽くしてこそ人類の正当性は保たれる」…よく考えてみれば「みんな死ぬしかないじゃない」論法で「正義を失った裏切り者だけが生き残り正当性を奪い合う」醜い争いしか誘発しない。例えばルターに宗教改革を起こさせた張本人たるホーエンツォレルン家はその後プロテスタントに改修。イエズス会の説得でカソリック陣営に留まったヴィッテルスバッハ家と宿敵関係となり、これがプロイセンバイエルンの伝統的地域対立が発生。左翼陣営内も一枚板ではない。「神聖ローマ時代の分権状態への回帰」を志向する無政府主義者連合と「ソ連コミンテルンの指示に忠実に従ってヴィァイマル共和制=社会民主主義の議会制民主主義打倒を叫ぶ」共産主義組織の対立の解消は自力では不可能だった。こうした絶望的状況の漁夫の利を得る形でナチスは台頭してきたのである。

      *ちなみに「新アリストテレス主義哲学」の大源流は「神は無謬の筈なのに、どうしてこの地上には悪が蔓延しているのか?」なる問題提起同様にアラビア哲学の世界にまで遡る。そしてなまじ「最終的解決案」に到達したが故にスンニ派古典思想は以降長い停滞の時代に入ってしまう。

    • 欧州思想界を(イスラム圏の様な)思考的停滞から救ったのは「リスボン地震(1755年)」だったとも。これを契機に「荘厳と美」の関係を問うエドモンド・バークのピクチャレスク(Picturesque)美学や「(認識可能範囲内に存在する)物(独Ding、英Thing)」と「(認識可能範囲外に広がる)物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)」を峻別するカント哲学が登場。これが「他者」が克服不可能な存在として認識され始める重要な契機の一つとなったが、欧米社会においてすらそうした思考様式が最初から勝利を収めた訳ではない。
      *ところが以降数世紀はむしろ「個体など仮想。全体こそ現実」なる反動思想が猛威を振るう。特に19世紀前半の王政復古時代に樹立されたヘーゲル哲学はほとんどカントの指摘した他者性の全面否定に成功。後世に大きな影響を与えた。

      *私のこれまでの投稿だと、以下あたりのアクセス数が突出している。まぁ日本人にとっても全然他人事ではないという話。

      *当時の世界は(いやある意味現在の世界はなお)「他者性を強引に全面克服しようとすれば必ず血塗れの闘争が引き起こされる現実」からあえて目をそらすべく戦争や粛清による大量虐殺に走った(走り続けている)とも見て取れる。この時代には「世界平和と人類平等の理念を実現する為には国際正義が一族郎党ともども滅ぼせと命じる人々がいます。彼らの擁護者は同類として一緒に一族郎党もろとも滅ぼされます」なる甘美なスローガンに導かれ、信じられないほど莫大な量の血が流された(現在なお流され続けている)。そして1970年代に入ると「ファシスト英雄の息子にして筋金入りの共産主義者」たるパゾリーニ監督が、現実に存在するのは「究極の自由主義は専制の徹底(すなわち他者の自由の全面否定)によってのみ達成される」ジレンマだけではないかと提言。当時としてはあまりに恐ろしい考え方だったので当人はほどなく暗殺されてしまう。

    • カント哲学側からの反撃の起点は士郎正宗攻殻機動隊シリーズ(1989年〜)」における「外部からの入力が測定限界を割った。モニターを内部からの計測に切り替える」なる名台詞に集約される。そして国際的にはボブディランの名言「Some people feel the rain. Others just get wet.(雨を感じられる人々がいる。残りは濡れたと思うだけ)」が「多様化の時代=全てがFPS化していく時代」の開始を告げるスローガンとなる。「個体など仮想。全体こそ現実」なる発想から「個体こそ現実。全体こそ仮想」なる発想への鮮やかな飛躍。

      ただしその過程で「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマが周知の事実となり「主体を握る側こそが勝利し支配する」なる信念自体が衰退していく。この流れが事実上「国家間の競争が全てだった」総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)や「マスコミや企業が総力戦体制時代の時代から国民総動員の概念だけ継承しようとした」産業至上主義時代(1960年代〜2000年代?)からの流れを断ち切った(断ち切ろうとしつつある?)。

      攻殻機動隊の世界観自体は「(ネット上に広がる広大な情報の海と一体化した)人形使いの世界」と対峙する「(全体像から比べたらあまりにも微細過ぎる自律信号系出力の信頼性に立脚する)草薙素子の世界」は、いかにも1980年代作品らしく、あまりにもグノーシス的世界観(それぞれの個体が現実と信じ込んでいるこの世界はあくまで仮想の産物に過ぎず、その外側に広大な真理の流域が広がっているとする思考様式)に捉われ過ぎていた。

      *これは荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険・第1部&第2部(1987年〜1989年)」における「波動」の概念と対峙する各キャラクターも同様。ただしこちらは「スタンド」の概念の獲得が1990年代以降のに向けての突破口となって以降の時代には「自分」と「世界」を結ぶインターフェイスとしてのアバター(化身)の概念が急速に重要性を帯びていく。「そのままでは無力なだけの少女」と「魔法少女」の関係の様に。MMORPGの世界における現実のユーザーと仮想キャラクターの関係の様に。

      *スタジオ・ジブリ鈴木敏夫プロデューサーは「映画版ナウシカ1984年)」が(FPSゲームの様に)物語の進行が原則としてナウシカ経由で鑑賞者の耳目に入る情報に沿っていたのに対し、漫画版( 1982年〜1994年)は主人公格複数化によってそこがブレたと指摘している。「人生のFPS化」と「ハードボイルド文法の勝利」は表裏一体の関係にあって「探偵=主人公=プレイヤー」は「全てを知った上で究極の回答に到達する」のではなく「限定された情報に従って最前の判断を下す」のである。それが「多様化の時代」を生きる人々のコンセンサス。もはや「(誰かが用意してくれた)約束の楽園」など存在せず、誰もが「泥の大海に蓮乗花を探す」「砂漠にリンゴの木を植える」不毛でハードボイルドな人生を送るのみ。ここまで「自他の絶縁」が完了して初めて「絶対他者(現実)との折り合いのつけ方」の模索が始められるとも。要するにそれがカント哲学の基本とも。

      *海外では「スター・ウォーズ/フォースの覚醒(Star Wars: The Force Awakens、2015年)」のレイとナウシカを重ねる向きもある。スターウォーズ・シリーズもまた「フォースの流れこそ現実。各個人が立脚する生活こそ虚構」なる立場に立脚するという点においてグノーシス的世界観に毒されてきた訳だが、多様化の時代にあっては「フォースの流れ」なる「現実=どの個人にも味方しない絶対他者」はとりあえず敬遠され、肯定される事も否定される事もなくただ「保留」されるのである。


      *最終的勝利を収めないとまではいってない。そして「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー(Rogue One: A Star Wars Story、2016年)」の様な本当に救いのない局面では「我ら全てフォースの流れの中にあり!!」なる叫びが死者達に救済をもたらす事すらある。もはやイデオロギーとしての復活などない。むしろその認識があるからこそ「お偉方なら手の平を何度返したっていいさ。だが正義を守る為にこの手を汚してきた俺達に大義を裏切って生き延びる道はない」なる諦観に到達したローグワン中隊や「帰るべき聖都を失ってなお信仰を失わない」チアルートやベイズの散り様はあんなにも無心で美しかったりする。そうこれは「総力戦の時代」が産んだ鬼子たる魔術的リアリズムの反撃の狼煙だったりもする次第。 


      *ところで「貴方の始めた事を私が完成させます」なる言い回しにおける「貴方」とは何者か。「砦の三悪人(1958年)」における「上原美佐の中の人」でもある黒澤明監督その人ではなかったか?
      http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-41-de/yucke0507/folder/1042058/44/31864244/img_1?1371120198https://68.media.tumblr.com/dabb132c63a26d230eb4a20cb41fe560/tumblr_of5rf09rf01r0g0c4o3_540.gifhttps://68.media.tumblr.com/212f6e5ceea5e27a80bb587eded86b4b/tumblr_oezl47rsCB1s7xfipo2_540.gif

この様に通り道は色々ですが、こうして2010年代後半には「過去には色々な事があったが全て過ぎ去り、今や目の前には何もない」現実を祝福とも呪縛とも受け取らず、ただ達観するところから始まる「泥の中の大海に(さしたる期待もせず)蓮乗の花を探す」「(さしたる期待もせず)砂漠にリンゴの木を植える」スタンスがトレンドの一つとして浮上してきたという次第。

園山俊二作詞・かまやつひろし作曲「やつらの足音のバラード」

なんにもない なんにもない
まったく なんにもない
生まれた 生まれた 何が生まれた
星がひとつ 暗い宇宙に 生まれた

星には夜があり そして朝が訪れた
なんにもない 大地に ただ風が吹いてた

やがて大地に 草が生え 樹が生え
海には アンモナイトが 生まれた

雲が流れ 時が流れ 流れた
ブロントザウルスが 滅び
イグアノドンが 栄えた
なんにもない 大空に ただ雲が流れた

山が火を噴き 大地を 氷河が覆った
マンモスのからだを 長い毛が覆った

なんにもない 草原に かすかに
やつらの足音が聞こえた
地平線のかなたより マンモスの匂いとともに
やつらが やって来た
やって来た
やって来た

この場合「やつら」すなわち「大自然の営みに対する絶対他者(冷酷な現実)」とは人間自身だったという恐るべきオチ。「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマを熟知してなお「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」なる行動主義を貫き続けるのは修羅の道?


そういえば初音ミクは「何人との関係も拒まず、その一方で何人にも染まらない色即是空空即是色的存在」としてHello Kittyと対比される事があります。ある意味彼女達の存在そのものが「日常の裂け目」であり「絶対他者」という側面も?

*ただしどちらも「くまモン」に比べると「油断して目を離していると何をやりだすか分からない恐怖」みたいな要素は随分と押さえ込まれている。

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*ただし初音ミクの場合は、その部分だけ抽出した「ミクダヨー」みたいなバリエーションも存在する。

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その一方では河原礫「ソードアート・オンライン」「アクセル・ワールド」の世界においては、当人自らが速度や強度を追求するにつれ茅場晶彦や運営側の「悪意」が拒絶出来なくなっていきます。トランセンデンタリズム(transcendentalism / 超絶主義 - 個人の尊厳と精神の優位を主張した観念論的ロマン主義の総称)を選択した当然の帰結。この様にこうした試行錯誤は別に一方向に収束しつつある訳ではなく、その展開そのものが多様化を担保しているとも。
*先に紹介した「空ループ間の連携」を横軸「各ループ内における他ループの認識」を縦軸とすれば「他者の存在に対する確信の高まり(各ループに対する是非の評価の強化を伴う)」に向かうベクトルを河原礫的世界観が、「他者の存在に対する不信の高まり(各ループに対する是非の評価の強化を伴う)」に向かうベクトルを米津玄師をそれぞれ抽象しているとも。これは「トランセンデンタリズムの提唱者」ヘンリー・ソローと最も激しく対立したのが「良いも悪いもいよいよない(人間の心も現実も理不尽で、そう期待通りには機能しない)」なる悲観論を展開したエドガー・アラン・ポーナサニエル・ホーソーンだった史実に準拠しても明らかかと。

*要するにここにも「(絶対)他者との折り合いのつけ方」なる問題が内在化されているのである。そしてこうした状態の変化を「ある種の解像度の違い」に起因するとし「低解像度の世界では是非の判別のみならず様々な評価が曖昧となる」「高解像度の世界においては是非の判別のみならず様々な評価が情報過多によってジレンマだらけとなり結果的にオーバーフローして機能停止する」と説明する向きもある。ならば適切な解像度は中間に存在するのか? それを定めるのは誰なのか? 

 それでは、こうして次第に散り散りとなって互いの言葉も通じなくなって行く人々はどうやって「再合流」を果たせば良いのでしょうか。

 

夜が「超えられるものでも、超えるものでもない」としても、その概念を「共有」してそれぞれが効率的に備えるくらいは出来ると考えてはいけないんでしょうか?



全体的に話はそういう方向に向かってる気がしてなりません。かくして「絶望あっての希望」みたいな流れこそがトレンドのメインストリームになったとか?