諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「自己の専有と疎外の終わり」?

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我々の認識可能な範囲には神は実在しない」とするデカルト機械的宇宙論や、認識の集大成として像を結ぶ「(Ding/Thing)の世界」とそのオリジナルたる「物自体(Ding an sich/Thing-in-itself)の世界」を峻別するカントの観念論や「イエス・キリストは我々一人一人の心の奥底の久遠の彼方で待っているキェルケゴールの実存論の発祥地なので(ちなみに彼らは押し並べて無心論者どころか「信念の人」であり、むしろその信念故に人より厳しく不安定な現世と信仰の世界の連続を否定したのである)日本人は欧州を個人主義の徹底した国と想像しがちですが、実際には産業革命導入過程における伝統的地域共同体の崩壊に戦慄し、その代替物構築を志向する社会学が勃興する位には共同体主義(Communitarians)的側面も持ち合わせているのです(特にフランス社会学)。

大量消費・再生産時代を迎え、商品が使用価値としてだけでなく、記号として立ち現れることを説いた。しかし、アラン・ソーカルらによって、数学・科学用語を不適切に使用しているとの批判を受ける。

1990年代には写真家、写真評論家としても活躍し、写真評論集として『消滅の技法』などがある。

2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件前から、ワールドトレードセンターのツインタワーについて考察し、クローンやディズニーランド、湾岸戦争からはサダム・フセインイラクイスラム教のテロ、グローバリゼーションとアメリカナイゼーションを題材にアメリカや世界自身が持つ問題を積極的に論じた。「The Illusion of the End(1992年,日本語訳未公刊)では当時のフランシス・フクヤマの歴史の終わりに代表される自由主義への楽観的な見方について批判をしている。

ボードリヤールの哲学は、芸術の分野に影響を与え、1980年代のニューヨークで台頭したシミュレーショニズムの精神的支柱になっており、映画マトリックスのもとにもなった。特に、ウォシャウスキー監督は、ボードリヤールを非常に意識しており、主演のキアヌ・リーブスなどキャスト、クルーのほとんどは『シミュラークルとシミュレーション』を読まされ、台本にもボードリヤールの名前が頻繁に出ている。映画の中でも、『シミュラークルとシミュレーション』が登場するシーンがある。2作目の制作に入る前に、監督はボードリヤール本人に助言を求めたが、ボードリヤール自身は拒否したという。

日本との関係

今村仁司らにより日本語訳も多く出され、日本ではとくにニューアカブームの1980年代に人気の思想家だった。堤清二ボードリヤールの著作『消費社会の神話と構造』などに触発されて1980年無印良品を始めた。

1981年に来日し、シンポジウム「ボードリヤール・フォーラム東京81 象徴交換とシミュレーションの時代」を当時若者・消費文化を牽引していた西武百貨店で開催し、広く注目された。阪神・淡路大震災の直後に来日し、「(日本国家がこれだけ豊かになったのは、市民がそれだけ貧しい状態に置かれていたにすぎなかったからだ」と感想を述べ、富の蓄積はあっても国内での富の再配分に問題があるのではないかと指摘した。

1997年にはパルコギャラリーで写真展開催。2003年の来日では、早稲田大学で「暴力とグローバリゼーション」を講演、会場の大隈小講堂を超満員にするほど大学生にも人気があった。

 なるほど…

ジャン・ボードリヤール(Jean Baudrillard)『象徴交換と死(L'Échange symbolique et la mort, 1976年)』

フランスの思想家・批評家であり、ポストモダンの代表的な論客であるジャン・ボードリヤールの5冊目の著作。出版は1976年。序盤では前作『生産の鏡Le Miroir de la production)』の議論を引き継いでいるが、全体としてはより広範な議論を含む。多くの批評家は本書を十分にアカデミックな形式で書かれたボードリヤールの最後の著作とみなしている。ボードリヤールに影響を受けたポストモダニティの議論では「準拠枠les référentiels)」「意味・方向sens)」を欠いた記号である「シミュラークルsimulacre)」が盛んに論じられるが、ボードリヤールがこうした術語系を本格的に導入し、詳細な議論を始めたのは本書からである。構成は「生産の終わり」、「シミュラークルの領域」、「モードまたはコードの夢幻劇」、「肉体または記号の死体置き場」、「経済学と死」、「神の名の根絶」の6部構成。本来、互酬性の規則にしたがって交換されるべきであった象徴的な「」を禁じ「延期された死」を生きることを強要する資本主義に対して、「返礼できない贈与」としての「挑戦的な死」をもってシステムを撹乱することを説いた本書は、『物の体系Le Système des objets)』、『消費社会の神話と構造La Société de consommation)』、『記号の経済学批判Pour une critique de l'économie du signe)』などで展開された消費社会論の極限を示している。

シミュラークルとは、語源的に「表象、イメージ」の意であるラテン語simulacrum」に由来し、一般的には現実を別の何かで置き換えたものを意味する。プラトン存在論において、イデアに劣る模倣を、さらに模倣するものとして望ましくないとされたシミュラークルを、ジャン・ボードリヤールは著書『象徴交換と死L'Échange symbolique et la mort, 1976年)』および『シミュラークルとシミュレーション(Simulacra & Simulation, 1981年)』において、それがたんなる模倣の模倣ではなく、現実の記号化の操作であるとし、その重要性を示した。

シミュラークルの歴史的発展は、「前近代」「近代」「現代」における価値法則の変動に対応する。

ルネサンスから産業革命までの「前近代」における価値は、自然および神の恩恵として生じる「自然的価値法則」にしたがうものであった。この時代のシミュラークルは「模造」である。封建的秩序がブルジョア的秩序によって解体された「前近代」では、それまで特定の階級に拘束されていた記号が多くの社会階級で競争的に扱われ、模造品、あるいは偽物が増殖したのである。

産業革命時代を迎えた「近代」における価値は、労働によって生産される「商品的価値法則」にしたがうものであった。この時代のシミュラークルは「生産」である。前近代的な封建的秩序の身分や地位による制約の経験とは無縁な「近代」において、自然らしさではなく人工的な複製技術そのものが発達し、原理的にオリジナルとコピーが同一となる無限に複製可能な生産品が、機械制大工業によって大量生産されたのである。

そして、1970年代以降の「現代」における価値は、記号のコードに基づく差異の変調、すなわち「構造的価値法則」へと移行した。この時代のシミュラークルが「シミュレーション」である。近代的な労働や生産が、消費やサービス、あるいはコミュニケーション等の非生産的労働と代替可能となった「現代」において、価値は現実の対象から解放される。

ものは、自然に準拠し模造され、機械によって大量生産され、そしていまやコンピュータによってデータと情報のコードの母型マトリックス)として機能する差異表示記号から産出されている。存在が無からつくりだされる0/1の二元的システムにおいて、基本となるのは、複製されるという事実ではなく、その差異の変調であり、シミュレーションは、記号と実在が等価であることに由来する表象representation)ではなく、あらゆる表象の体系全体をシミュラークルとして包み込むのだ。

シミュレsimuler)とは、ないことをあるように見せかけることであるが、現代社会は、シミュレーション原理に基づくシステムとして決定的な転換を遂げた。この段階に至ってシミュラークルは、オリジナルとコピーの二項対立、すなわち原因結果起源終末を問題としない、価値の全面的相対性、全般的置換、組み合わせのゲームとして不在の現実の記号となる。決して実在と交換せず自己と交換するしかない照合するものも周辺もないエンドレス回路。シミュレーションとは「」と「」、「実在」と「空想」の差異をなし崩しにしてしまうハイパーリアルなのである。それは、現実自体をシミュレーションとして消滅させてしまう次元にほかならない。

そうまさにこの世界。

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1990年代には「赤文字系女性誌に対する青文字系女性誌の勝利」みたいな話題で盛んに引用されてましたね。

さて、21世紀にどんな足跡を残したでしょうか。調べてみた結果発表は続報で…