「コスプレイヤーとトランスジェンダーは全くの別人種」なんて表現がありますが、(実際に価値観が一致しない側面も多々見られるものの)実はこの「人種」なる表現自体に「多様性の容認=多態性の否定」なる思考的制約が含まれているから要注意。
LGBTというカテゴリができると、LGBTとLGBTでない人は関わり合わないかのような印象になるよな。事実アメリカはそうやってきた国だからこそLGBTの運動が盛り上がるんだよ。狭いコミュニティを形成してるんだから団結も強い
— (TmT )ノ🍅 (@tomatoandgarlic) 2017年11月23日
私は人間がその生きて行く状態を一人一人に異にしているのを知った。その差別は男性女性という風な大掴おおづかみな分け方を以て表示され得るものでなくて、正確を期するなら一一の状態に一一の名を附けて行かねばならず、そうして幾千万の名を附けて行っても、差別は更に新しい差別を生んで表示し尽すことの出来ないものである。なぜなら人間性の実現せられる状態は個個の人に由って異っている。それが個性といわれるものである。健やかな個性は静かに停まっていない、断えず流転し、進化し、成長する。私は其処に何が男性の生活の中心要素であり、女性の生活の中心要素であると決定せられているのを見ない。同じ人でも賦性と、年齢と、境遇と、教育とに由って刻刻に生活の状態が変化する。もっと厳正に言えば同じ人でも一日の中にさえ幾度となく生活状態が変化してその中心が移動する。これは実証に困難な問題でなくて、各自にちょっと自己と周囲の人人とを省みれば解ることである。周囲の人人を見ただけでも性格を同じくした人間は一人も見当らない。まして無数の人類が個個にその性格を異にしているのは言うまでもない。
一日の中の自己についてもそうである。食膳に向った時は食べることを自分の生活の中心としている。或小説を読む時は芸術を自分の生活の中心としている。一事を行う度に自分の全人格はその現前の一時に焦点を集めている。この事は誰も自身の上に実験する心理的事実である。
このように、絶対の中心要素というものが固定していないのが人間生活の真相である。それでは人間生活に統一がないように思われるけれども、それは外面の差別であって、内面には人間の根本欲求である「人類の幸福の増加」に由って意識的または無意識的に統一されている。食べることも、読むことも、働くことも、子を産むことも、すべてより好く生きようとする人間性の実現に外ならない。
実際の国際SNS上の関心空間においては普通に自然に「政治的勝利を目指す一方で全体主義的価値観を強要してくる第二世代までのフェミニスト」や「異性を憎悪し撲滅し尽くそうとする同性愛者」や「あらゆるエロティズム表現の地上から排除しようとする無性愛者」と対立関係にある「多様性や多態性を重視する」第三世代フェミニストや「消費者集団として相応の経済的影響力も有する強大な」コスプレイヤー層と「非政治的」LGBTQA層が同一グループに混在したりしています。
*鍵を握るのは、そこが原則として「議論や批評ではなく、画像や音声の国際的回覧を通じてトレンドを生み出し続ける関心空間」である事。党争もないではないが、その勝敗を左右するのはあくまで「回覧コンテンツとしての強度」や「数的優位」などであって、あくまでディベート展開ではない。
というより「非政治的」LGBTQA層(特にT以降)は圧倒的少数派な上、その多様性や多態性ゆえに極めてまとまりが悪いのです。どうしても生き延びる為に相応の「潜伏場所」を必要とする次第。ディズニー系やアメコミ系の様なメジャーで巨大なコミュニティも同様の役割を果たします。
*Twitter日本語版もPixiv同様「画像や音声といった使用言語への依存度の低いコンテンツの回覧」範囲についてはしっかり国際SNS上の関心空間に組み込まれている。ここでもやはり「数的優位」が物を言う。
ツイッター創業者 ジャック・ドーシーCEOの発言
「ツイッターが問題を引き起こすことも確かにあります。それでもツイッターを改善し、それによって、世界を良い方向に向かわせることができると信じています。」
「ヘイト自体は残念ながら、僕らの社会の一つの側面だと思う。それ自体がないものだとしてしまっても、実際にはあるわけですから、それ自体を認識しなくて社会が変わらなくなるよりは、それはそれで、ひとつあるということを認識して、社会全体が変えていくことになればと思います。」
「私はツイッターはSNSだとは思っていません。SNSは友達・家族・クラスメート・同僚を探すツールですが、ツイッターは全く違います。ツイッターでは「関心」によって、誰かとつながるのです。「関心」を持ってツイッターを使うことで、面白い人たちと出会うことができます。彼らと会話することもあれば、ただフォローする場合もあります。これがツイッターとSNSの大きな違いで、この点でツイッターはユニークなのです。SNSと違い、知り合いを探すツールではない。本名は重要ではないのです。」
要するに天に仰ぐはジョン・スチュアート・ミルが貴族的功利主義とフランス革命で処刑されたコンドルセ侯爵の数学的直感を継承する形で「自由論(On Liberty、1859年)」の中で提示した「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならず、これを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合のみに限定される」なる古典的自由主義に基づく理想論。
そして足下に見下ろすは「進化は奇跡ではない。莫大な量の時間と死の積み重ねの軌跡」なる天文学者カール・セイガンの進化論に「全てが数値され、アルゴリズムの誤謬や見落としたファクターが一瞬にして世界を滅ぼす実存不安との絶えざる対峙を強要され続ける現代社会」。
現実に進行するのは「事象の地平線としての絶対他者に対する拒絶・迎合・選別のサイクル」。考えてみればこれって「ラッサールの社会進化論」そのもの?
*「ラッサールの社会進化論」…「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」という部分まではカール・マルクスの人間解放論と一致している。そしてマルクスが(「適者生存」論や「性的淘汰」論の部分を「弱肉強食」論に差し替えた「誤った理解のダーウィン進化論」に立脚する)階級闘争論に傾斜すると両者の関係は決裂。
究極の自由主義が専制の徹底によってのみ達成される「自由主義のジレンマ」…内的調和の達成が外部不可視化と表裏一体の関係にある「アソシアシオン(Association)のジレンマ」…「事象の地平線としての絶対他者」に対する拒絶・迎合・選別のサイクルは、まさにこうした現実を踏み台として駆動するのである。
豊富な法知識を駆使した私有財産概念の推移を巡る論文。
法律制度は特定時における特定の民族精神の表現に他ならない。この次元における権利は全国民の普遍精神(Allgemeine Geist)を唯一の源泉としており、その普遍的精神が変化すれば奴隷制、賦役、租税、世襲財産、相続などの制度が禁止されたとしても既得権が侵害された事にはならないと説く。
普遍精神(Allgemeine Geist)…一般にルソーがその国家論の中心に据えた「一般意志(volonté générale)」概念に由来する用語とされるが、その用例を見る限り、初めてこの語を用いたD.ディドロの原義「(各人の理性のなかにひそむ)法の不備を補う正義の声」、あるいはエドモンド・バーグの「時効の憲法(prescriptive Constitution、ある世代が自らの知力のみで改変する事が容易には許されない良識)」を思わせる側面も存在する。
その結論は「一般に法の歴史が文化史的進化を遂げるとともに、ますます個人の所有範囲は制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」という社会主義的内容だった。
すなわち初めに人間はこの世の全部が自分の物だと思い込んでいたが、次第に漸進的にその限界を受容してきたとする。
神仏崇拝とは神仏の私有財産状態からの解放に他ならない。
農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者へと変遷していく過程は農民の私有財産状態からの解放に他ならない。ギルドの廃止や自由競争の導入も、独占権が私有財産の一種と見做されなくなった結果に他ならない。
そして現在の世界は資本家と労働者の富の収益の再分配はどうあるべきかという問題に直面する事になっている。
こうした思考様式は「ハノーファー王国(1714年から1837年にかけて英国と同君統治状態にあり、普墺戦争(1866年)に敗れてプロイセン王国に併合されるまで存続)」経由でドイツが受けてきた英国からの影響の総決算とも目されている。*トクヴィルがフランスにもたらしたアソシアシオン(Association)概念は(産業革命以前の)アメリカにおいては普遍的に見られた伝統的共同体をモデルとしている。そしてフランスに「一般意志(volonté générale)」の概念をもたらしたルソーはスイス人で、カントに物(独Ding、英Thing)と物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)を峻別する認識システム」を思いつかせたのは英国人エドモンド・バークのピクチャレスク(Picturesque)美学だった。この様に「事象の地平線としての絶対他者」は当事者の認識の最周辺部(特に外国のエスニックな文化に対する不完全な知識の領域)において生じ、しかもその記憶スケッチ的曖昧さ故に既に発生の瞬間からある種の「暴走」が始まっている。
エルンスト・ユンガー 鋼鉄の嵐の中で | la bibliothèque secrète d'un ourson
ユンガーは、1918年カンブレー付近の絶望的な戦いで銃弾を浴びて倒れたときを、人生で本当に幸福だった数少ない瞬間でもあった、と回想します。「その瞬間わたしは理解した、閃光のように、わたしの人生を、その構造の最も奥深く隠されたところで。」”真理の光は陽の光に似て、好ましい場所に刺すとは限らない”ー日記の迷宮のなかで、ユンガーは静かに語りかけてくるのです。
戦争は我らの父であるのみならず、我らの子でもまたあるのだ。我らは彼を生み、彼は我らを生んだ。我らは鎚で打たれ、のみで刻まれた者、しかるに他方で鎚を振り、のみを走らせた者、鍛冶屋であると同時に火花を散らす鉄鋼、自らの迫害行為の殉教者、駆動装置の性質を備えた伝導装置。
*だからこそ「絶対他者」は事象の地平線、すなわちあくまで我々が認識可能な領域の外側に主観的誤謬と区別し得ない形で幻視されるに過ぎない。遠藤周作原作(1966年)・マーティン・スコセッシ監督映画「 沈黙 -サイレンス-(2016年)」の名セリフ「あの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」。そして映画を締め括る最後のナレーション。「記録によればフェレイラもロドリゴも日本においてその生涯を棄教者として全うした。しかしながらその内面的宗教生活が実際いかなるものであったかについて、記録は語らない」。これぞ魔術的リアリズム文学いうところの「英雄の時間」なのである。
こうした立場から改めて国際SNS上の関心空間の歴史を振り返ってみましょう。
東北大震災の影響で放映延期となっていた「魔法少女まどか☆マギカ(TV版2011年、劇場版2012年〜2013年)」のTV版最終回が放映される(2011年4月22日)
メインヒロインまどかが自らの身を犠牲にして世界を救う展開だったが、アメリカのネット上では(子供と一緒に鑑賞していた)親達が「ああいう場面では親は、子供を殴り倒して気絶させてでも自分が身代わりになるべき」と言い出したり、ネットに書き込んだりしてちょっとした議論に。
*後から思えば次第に表面化しつつあった「Facebook上における親の子供監視サービス競争の過熱」と連動した動き。そして、これを嫌う子供達が匿名SNSサービスへの集団逃亡を図った事が2010年代前半における「国際SNS上の関心空間」勃興の大きな原動力の一つとなったのである。*ちなみに日本には「本当に親が肝心のところで子供を殴り倒して代わりに特攻して主役の座を奪ってしまう漫画」も存在する。中平正彦「破壊魔定光(1999年〜2005年)」。
考えてみればギレルモ・デル・トロ監督映画「パシフィック・リム(Pacific Rim、2013年)」もこのパターン?
*実は新海誠監督映画「君の名は(2016年)」も(五十嵐大介「海獣の子供(2006年〜2011年)」辺りのテーマ性を継承した関係上)同様の「母娘間の葛藤」を内包する世界観だったりする。
そもそもまどかの家庭は男勝りな母親が外に働きに出て、父親が家で専業主夫をしているのだが、ここにも「親世代」の非難が集中。「まどかママは肝心のところで「父親」として振る舞い切れなかった(やはり女は駄目だ)」「まどかパパは本当に役立たず(それでも男か?)」このそのスタンスが「娘世代」の激昂を喚起してしまう。「パパやママはいつまで自分が人生の主役のままでいるつもりなの? 娘に自分の人生を生きる権利なんてないと思ってるの?」「まどかママやまどかパパに対する攻撃を、私達は絶対に許さない!!」。
*そもそも日本においては1980年代頃より「不良少年や不良少女の純情」といった(カレー粉の様に万人の口に合う様に慎重に調合された)多態性(意外な組み合わせ)の商業利用が始まっている。*黒人奴隷を揶揄したショーから始まった「コットンクラブ」が、はからずしも黒人音楽の広まりに重要な役割を果たしてしまった様に、いかなる形においても「不可視化されてきた人々」の「可視化」は既存秩序決壊の第一歩となり得るのである。
*そして1990年代に入ると(タキシード仮面の不甲斐なさ故に美少女戦士達が頑張る)武内直子「美少女戦士セーラームーン(Saylor Moon 1992年〜1997年)」が登場。さらには作中に「ちびうさ」が登場し「人生の主役の座を争う母娘」なる構図が樹立される。ここで興味深いのがドゥニ・ヴィルヌーヴ監督映画「メッセージ(Arrival、2016年)」の原作であるテッド・チャン「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1999年)」にもこの図式が見て取れる事。そして映画化に際してその要素が完全に排除された一方で「ブレードランナー 2049(2017年)」に「デッカードとレイチェルの娘」が登場する辺り。
*「セイラームーン」と「あなたの人生の物語」と「魔法少女まどか☆マギカ」を結ぶ鍵…よりによってセーラームーンの二次創作MEME、すなわち母娘喧嘩で母親側が「あんまり悪い子だと過去の私に連絡して産児制限しちゃうわよ」と告げ、娘側が「ママ、それだけは禁じ手よ!!」と涙目になる展開が重なってくる。元ネタは(幼女的狡猾さから)都合良い時だけ「母親」として甘えてくるちびうさに対してヒロイン月野うさぎが涙目で「まだ産んでないのに!!」と言い返す原作ギャグ。国際SNS上の関心空間における女子アカウント間で飛び交う定番ネタの一つだが、当事者が「娘」から「母親」に成長したり「新参組」がちびうさ擁護に回ったりして、次第に複雑な意味合いを帯びる様に。
父子家庭で子どもが娘だと創作物ならほぼ100%、現実でも多くの家庭が娘に家事を任せてそれが当たり前みたいな扱いになってるけど、母子家庭だと子どもの性別問わず母親が家事してることも多いし全て子どもに任せきりはまず無いよな…どういう状況でも女性は絶対家事することになってるの解せんわ
— 変態紳士EX (@AW1SOF6zgEeyWTJ) 2017年11月9日
金持っていようがいまいが男のせいにするその考え方こそが、男性に経済的社会的優位性を持たせる均衡を(男性だけでなく女性も)後押ししてしまうのだということに気づけないのは残念ですね。
— 白饅頭(光属性) (@terrakei07) 2017年11月10日
女性が金を持ったところで、色々理屈をつけて「養う」という行為をしたがらないのをみるにつけ、現代社会が少子化に突入し不可逆的な状況に陥っていくのは仕方ないように思いますね。
— 白饅頭(光属性) (@terrakei07) 2017年11月10日
「したがらない」という生態ですからねぇ基本的に
— 鬼ノ目発進号 (@oninomehassingo) 2017年11月10日
だから「自分の大切な誰かのために」という信念で
働いてる男性の動きも、女性から見たら
「男どもは外に出て自由で得してるに決まってる!」
なんて意味不明な解釈になるわけです…
もう女性進出のスタート地点から【全てが被害妄想】なのだよねぇ
https://t.co/ED85QhgcWy女性が「それなら養ってやる」と許容する水準って三つ指つく糟糠の妻でやっとなんとかそれでもそんなに大事にされないという悲しい事実が以前、専業主夫の旦那がPaul Smithの服欲しがったらエリート嫁に拒否られた悲しいブログで明らかにされてましたね。
— テポドン東京 (@pannacottaso_v2) 2017年11月10日
Twitterの偽装キラキラ女子、高いもの食べたとか彼氏の車がBMWといったアピールはしても、オペラを観に行ったアピールや桟敷席から歌舞伎を見たアピールはしないあたり文化資本の乏しさが伺えるよね。
— 佐々伸也(ネオ統制派) (@geshtamjump) 2017年11月9日
男が女がじゃなくて夫婦の片方が働けば片方は育児だけやってても生活が成り立つようにするのが「豊かな社会」じゃねえの?なんで共働きが前提になってるんだろうな。そんな貧しさ前提の社会を目指すな。
— tadataru (@tadataru) 2017年11月10日
「米国における同性婚合法化」当日(2014年6月26日)
その当日、とある同性愛者カップルがネット上で「また少し世界が狭くなるね」と発言した。「家族はは人種の再生産の場ではない。異性愛者のカップルが子供が同性愛者である可能性に配慮して偏見を排除した子育てを行わなければならない様に、同性愛者のカップルもまた子供が異性愛者である可能性に配慮して偏見を排除した子育てを行わなければならないのだ」とも。
確かにある意味、宗教界や政治の世界は「生涯貞節を誓う伴侶は一人たるべき」なる伝統的価値観を存続させる為に「その対象は異性たるべき」なる価値観を放棄する道を選んだのである。その判断自体は人類史上における大いなる進歩だが当然「犠牲」もあった。実際には「生涯貞節を誓う伴侶は一人たるべき」なる価値観に同意しこれを精神的救済と考える同性愛カップルが大半であるにせよ、既に異性愛カップルも大半が受容済みの価値観だったにせよ「相手が一人では満足出来ない」乱交派が同時に隔壁の向こう側に決定的な形で切り捨てられたのである。そしてこの日はまさしく、その事実を何の偏見もなく偲べる「最終日」でもあったという事である。(既存価値観を延長するだけでは実現不可能な)パラダイムシフトとは、既存価値観の更新とは、まさにこういう展開を迎えるもの。
*乱交派…ネット上には乱行パーティを至高とするポルノまがいのバイセクシャル・両性具有系ポルノサイトが無数に存在する。当日にはこうした退廃的世界観との決別が特に強調された。「それにつけてもバイは淫乱」なる合言葉まで生まれた。「永遠の革命家」オーギュスト・ブランキ流一揆主義に表現するなら「人道主義が勝利の栄光に輝く事はない」。なぜなら如何なる新体制の勝利も新たな反体制派への弾圧の始まりに他ならないからだ。これまでずっと「事象の地平線としての絶対他者の領域から到来する最初は不可視の人々」は、可視化と無数の闘争の積み重ねを経て(概ねその都度、少なくともその一部が)既存システムに組み込まれ続けてきた。これからも当然そのサイクルは繰り返されていくであろうが、大元たる「事象の地平線としての絶対他者の領域」が完全消失する日だけは決して訪れない。
オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』書評:阿部重夫主筆ブログ:FACTA online
監視塔から受刑者を一望し、一挙手一投足も見逃さないパノプチコンは、近代国家の成立と同期していた。ブランキも果てしなく獄窓が続く監獄を、その宇宙観に同期させたのだろう。受刑者はすべて個を剥奪され、同じ囚人服を着て、無限遠点からの国家の視線に照射されている。ブランキの言う「フォワイエ」(中心星)は国家であり、それを拒絶する彼はいくら「一揆主義」と貶められようと、マニフェスト(綱領)をつくらなかった。
あらゆる政体を否定する陰謀家。胸中には無限の宇宙に戦慄するニヒリズムが宿っていた。本書の数年後にニーチェも、スイスの保養地で同じ戦慄に襲われた。
いつかどこかの時間に生きていた己の分身、瓜二つの自分とすれ違ったという霊感である。
ドイツの批評家、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ』は「倦怠、永劫回帰」の章で丹念に本書を抜粋し、「地獄が神学の対象になるなら、これは神学的思弁と呼んでいい」と書いた。彼はボードレール論でも、この『パリの憂鬱』の詩人とブランキを並べて論じている。
*誰も絶対他者を完全黙殺する事も、自分をそれと完全に重ね合わせてしまう事も出来ない。まさにその事実が実存不安の源泉になるという次第…
不安の概念は、ある特定のものに関係しているところの恐れやそれに似た諸概念とは全く違ったものである。不安とは可能性の前の可能性として自由の現実性である。-不安の概念-
— Søren Kierkegaard (@Kierkegaard_jp) 2017年11月17日
そして日本における最新の話題は以下。
女子の制服「スラックスOK」、全国で広がる 鹿児島県内では鹿児島情報高導入 | 鹿児島のニュース | 南日本新聞 | https://t.co/YAqZjEF3xD https://t.co/iTGaIc12Vr 「機能性の高さに加え、心と体の性が一致しない性同一性障害の生徒に配慮する狙いもある」。
— 舞田敏彦 (@tmaita77) 2017年11月22日
「心と体の性が一致しない....」というのですから、当然、男子の制服「スカートOK」なのですよね。。。。
— tekinneasy (@tekinneasy) 2017年11月22日
まぁ、制服なんてなくしてしまえば良いだけの話ですけど。
「話題にならなかった」といえば、紅白歌合戦で「前前前世」を歌ったRADWIMPSのメンズスカートも全然話題にならなかった。
*むしろ「表面上は話題にならない」くらいでちょうど良い? 歴史的に見ても、そうやって「完全視野外の人々」は、そうやってあらゆる手段を用いてさりげなく「視野内」への「最初の侵入」を果たしてきたのである。そして論争の対象となる頃には既にその存在を無視出来なくなっており、相応の宗教的・政治的・経済的利用価値すら獲得していたりする。
またこの展開には「実用的側面」もある様なのです。
北日本でもやって欲しい。寒いから〜
— しゅう (@soseirannzou) 2017年11月22日
スカート寒くて足腰冷える。
将来冷え性になる。
だから、冬場にスカート強制はやめた方がいいと思う…
東北や北海道で冬場スカート強制なんて、無理がある。体冷えてるのに気づけないんだと思う、毎日だから。
>制服
— 田仁翠蔭 (@tian2ren2) 2017年11月23日
膝位の短パンとスカートとスラックスを気候や気分的に自由に出来たら万全ですね⁉️
南北戦争(1861年 〜1865年)での北軍勝利に始まる産業革命受容期、すなわち所謂「金鍍金時代(1865年〜1893年)」のアメリカでは、消費経済振興を背景に女性が伝統的生き方からの脱却を開始した。経済的余裕のある中産階層の女性達は雑誌などの広告を通じて流行を追い求め、余暇にはスポーツにも興じる様になる。女性向け雑誌の中で「激しい運動は女性の身体に有害である」とする定説が覆され、当時の流行に飛びついて自転車を乗り回したり、大学で水泳や陸上やバスケットボールに興じ、上流階層に到ってはテニスやゴルフのクラブに加入して汗を流した。
*まさしく1850年にエリザベス・スミス・ミラー(Elizabeth Smith Miller,1822年〜1911年)が発案した「運動にも適したズボン風ショートスカート」をアメリア・ジェンクス・ブルーマー(Amelia Jenks Bloomer,1818年〜1894年)が全米に広め、これが「ブルマー(bloomers)」と呼ばれていく時期に該当するが、これは胴部を不自然な形で締め付けるコルセットの撤廃運動と密接な関係にあり「ギブソン・ガールズ」的ファッションとの相性は必ずしも良くない。*日本の「スカート下ジャージ」の先祖筋? そして煙草…
スカート&ジャージ - ののほんじゆうちょう一方、スポーツに興じたり流行の服を買う経済的余裕がなかった工場の女工達も、経済構造の変化を受けて高級百貨店、社交場を兼ねたレストラン、事務職を大量に必要とする様になった会社への就職の機会を得て職業選択の幅を大幅に広げつつ、その収入を着実に引き上げていったのである。
そういえば当時の英米は機械印刷技術の革新を背景とする「cheapeditions(女性作家が女生読者向けに執筆する廉価版読み捨て小説)」の全盛期でもあった。尾崎紅葉「金色夜叉(1897年〜1902年)」に元ネタを提供したBertha M.Clay(1836年〜1884年)「女より弱き者(Weaker Thana Woman)」も これに該当する。
*そういえば尾崎紅葉「金色夜叉(1897年〜1902年)」の赤樫満枝や手塚治虫「リボンの騎士シリーズ(1953年~)」におけるヘケートも「(作者も持て余すほどの)多態性(意外な組み合わせ)」の顕現例だった。彼女達もまた「事象の地平線としての絶対他者」の領域からの来訪者だったとも。
イラストレータであるチャールズ・ダナ・ギブソン (Charles Dana Gibson)がペンとインクを使って制作した絵入り物語に描かれている理想の女性の具現像。ギブソンはこのような絵を、19世紀末から20世紀初頭にかけ、15年余に渡って描き続けた。類似するスタイルのイラストレータとしては他にハワード・チャンドラー・クリスティと、「ワンダー・ウーマン(Wonder Woman)のコミックを元にした作品で著名なハリー・G・ピーターの名前が挙がる。
長身でほっそりとはしていたが、スワンビル・コルセット着用の結果、側面から見るとS字形のカーブ・ラインとなっている豊かな胸、腰、ヒップがくっきりと浮き立つ。端正な顔立ちで切ないほどに美しいその形姿は、19世紀末期から20世紀初頭にかけて西欧では没頭した彫像のような優美さ、若々しい相貌、儚い美を具現化していたとされる。
その首筋は細く、髪は頭の上に高く巻き上がって、当時のブッファンや、ポンパドゥール、あるいはシニヨンの髪型ファッション、すなわち「流れる巻き毛の滝」を形成していた。
数多のモデルが、ギブソン・ガール・スタイルの挿絵のためにポーズを取った。そのなかにはギブソンの妻であるアイリーン・ロングホーンや作家のアナイス・ニンも含まれていた。アイリーンがオリジナルのモデルと考えられる。もっとも著名なギブソン・ガールはおそらく、デンマーク系アメリカ人の舞台女優であったカミーユ・クリフォード(Camille Clifford)だった。カミーユの塔のような髪型、優雅なガウンに包まれ、コルセットが形成するくびれた腰を持つ砂時計の姿形がこのスタイルの代表だった。
美しさ、中庸を得た自立、個人的な充足などでアメリカの国家的威信の具象像となった。彼女は大学に通い、素晴らしい級友を持つ娘として描かれたが、婦人参政権運動のデモ行進の一員として描かれることはなかった。
第一次世界大戦の勃発と共に、ファッションの変遷によってその人気を失う。第一次世界大戦期間の女性たちは、ギブソン・ガールが好んだ優美なドレスや、バッスル・ガウン、シャツドレス、そして段を付けた短いスカートより落ち着いて、男性風な衣服を好んだ。このような戦時の謹厳な衣服は、ココ・シャネルが最初にデザインし普及させたものである。
*そして、まさにこの「ギブソンガール文化」の残滓からワンダーウーマン(1941年〜)やバービー人形(1959年〜)が派生してくる。ディズニー映画「ポカホンタス(Pocahontas、1994年)」のヒロインすら(先住民なのに)この体型なのだから、問題は本当に根深い。
公式に「心と体の性が一致しない性同一性障害の生徒に配慮する狙いもある」とか発表されちゃうと、国際SNS上の関心空間で匿名アカウントが謳歌してる様な「多態性」は目指せない気もします。
*「多態性(ポリモーフィズム:Polymorphism)」…実はオブジェクト指向プログラミング用語からの援用。ちなみにそちらの切り口からの以下の指摘が(一見定義的には筋違いに見えるものの「名前空間(Namespace)設計上の基本コンセプト」としては合ってる様で)実に興味深い。
世の中に存在するポリモーフィズム: 再生せよ
再生(Play)ボタンのついている装置が世の中にはいろいろあります。
カセットテープ/CD音楽プレイヤー、DVD/BDビデオプレイヤー、DVD/BD/HDDビデオレコーダー、携帯音楽プレイヤー、ボイスレコーダー などなど。
再生ボタンを押すと内部でどのような動作をするかは装置によって異なります。
でも、使う側からすれば「再生せよ」という共通の命令で何でも動いてくれるのでとても便利です。新しい装置が発明されても再生ボタンが付いてれば何をしてくれるのかだいたい予想できます。
ただし「真の多態性」を備えた人間の心の「再生ボタン」の振る舞いは複雑怪奇で、次第に想定外の方向に流れていくものです。その第一歩としてはまぁ上出来な方とも?