諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【歴史認識の仮想化】【メルロ・ポンティの身体論】「フランス革命イデオロギー」の原風景?

そもそも「仮想化」とは何でしょう。例えば自動車運転の場合には「ドライバーが窓の外やミラーに映った景色にハンドルやブレーキやアクセスなどによって適切に反応する操作体系効率化を図る過程で様々なメーター表示やギア / クラッチ操作といった中間概念が追加となる)」と抽象化可能だったりします。 

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 そして、こうした認識の延長線上に「メルロ・ポンティの身体論あるいは歴史認識」は登場してくるのです。

123夜『知覚の現象学』モーリス・メルロ=ポンティ|松岡正剛の千夜千冊

それまでメルロ=ポンティはおおむね次のようなことを考えていた。『行動の構造』に結実している内容にあたる。

ひとつは、身体の自覚の問題である。

これは実存哲学者のガブリエル・マルセルが『存在と所有』という本で「自分の身体」というものを持ち出したことにヒントをうけて、人間は自分の身体をつかって何を知覚しているのか、何を身体にあずけ、何を意識がひきとっているのか、という問題に突き進んでいったことがきっかけだった。

マルセルは「自分の意のままにならない身体感覚」がありうることを「不随性indisponibilite)」とよんだのだが、そこにメルロ=ポンティは関心をもったのである。

もうひとつはゲシュタルト心理学からの影響だった。

知能とは、知覚された領域にひそむさまざまな対象のあいだの関係をとらえる能力のことではないか」というものだ。

従来、生体の行動は一定の要素的な刺戟に対する一定の要素的な反応のことだとみなされていた。複雑な行動もこれらの組み合わせによっているとみなされていた。要素還元主義である。しかし、ゲシュタルト心理学はこの見方をまっこうから否定して、同じ刺戟がしばしば異なった反応になることもあれば、要素的に異なった刺戟が同じ反応をひきおこすこともありうることを例にあげつつ、生体というものは刺戟の個々の要素的内容に対応しているのではなく、個々の要素的な刺戟がかたちづくる“形態的で全体的な特性”に対応しているという仮説をぶちあげた。この“形態的で、かつ全体的な特性”のことをゲシュタルトという。

これはメルロ=ポンティに大きなヒントをもたらした。たとえば神経系のどこかの部分が損傷をうけたとすると、それによって一定の行動が不可能になるのではなくて、むしろ生体の構造のなかでこれを知ってこれを補う水準があらわれてくる、そのように考えられるからだった。

ここでメルロ=ポンティに、意識と身体のあいだにひそむパースペクティブのようなものがはたらいたのである。しかもそれらは、どこか相互互換的であり、関係的で「射影profil)」的だった。そして、それをとりもっているのがゲシュタルト的なるものだった。少なくともメルロ=ポンティにはそう見えた。

このような見方はデカルト的な心身二元論を決定的に打破するものである。それとともに、ゲシュタルト心理学者たちがゲシュタルトを自然の中にあるものとみなしたことを越えて、ゲシュタルトが知覚や意識の中にあるはずだということを予感させた。

のちに、この意識にとってのゲシュタルトが、実は言語というものを生み出すパターンなのではないかということも、メルロ=ポンティによって提案される。

こうしてメルロ=ポンティは後期フッサールを読み替える。もともと現象学は、われわれの意識や思索や反省、あるいは科学による研究や哲学による熟考が始まる以前に、すでにそこにあったであろう“見なれた世界”にたちかえるということである。

そこでメルロ=ポンティは、それならば、「現象学的世界とは、先行しているはずのある特定の存在の顕在化ではなくて、存在そのものの創設なのではないか」というふうに読み替えたのだった。これはフッサールですら現象学的還元ということの目標をさだめそこなったことを暗示した。

ここから『知覚の現象学』は大胆な知覚論や身体論に分け入っていく。

まず「私の身体」は私によって意識されるとされないとにかかわらず、ある種の「身体図式schema corporel)」のようなものをもっていて、これがいろいろな知覚や体験の変換や翻訳をおこなっているとみなした。いわば身体の中に“編集部”をおいたのだった。

ついでこの身体図式からは、しばしば「風景の形態」や「芸術の様式」に似たようなものが、身体の「」に対する「」のように立ち上がっていると考えた。

そして、これらのゲシュタルトのようなもの、あるいはスタイルのようなものを媒介にして、「私の習慣的な世界内存在」がつくられているのではないかとみなしたのだ。これがいわゆる「間身体性」とよばれるものである。

きっと言語もそのようなものなのだろう。メルロ=ポンティは、言語は身体が身体図式を用いて外部の世界に対しておこなっている応答だとみた。言語が意味をもつのもそのためだと考えた。言語は何かの「」に対して浮き上がってきた「」であったのだ。しかし、このあたりの考察は『知覚の現象学』では、まだぶよぶよしていた。のちの『シーニュ』などを待たなければならない。

こうした考え方には以下の様な厳しい批判も存在します。

これは伝聞的知識を巧みに組み合わせただけの、つまり言葉を上手に並べただけの、文章であって、誤解でさえない。誤解というのは一生懸命理解しようとしたが正しく理解できなかったということであるが、この筆者はそもそもテキストを読んで理解する努力をまったくしていないのである。

 「認識上の現実としての真理」と「歴史上の現実としての真理」の関係

もしタイムマシーンがあれば、我々は過去の出来事(例えばフランス大革命)が現在であった時に戻ることができる。過去の出来事が「現在」であった時とは、それが「現実」であった時、即ちその出来事がそれ自身と完全に「一致」していた時のことであり、要するにそれが「真理」であった時のことである。——これこそは、実証主義によっても、また記号論的転回によっても、暗黙に前提されている真理観・現実観ではないであろうか。しかし、ここで指摘しなければならないことは、この真理観が前提されている限り、即ち主観-客観図式が前提されている限り、認識論的困難は回避し得ないのではないかということ——否、そればかりか、歴史(歴史叙述)というものは意味を失うことになるのではないかということである。

もし歴史の真実を問題にしないのであれば、歴史とは一体何なのであろうか。歴史は過去の真実を問題にするものでなければならないのではないか。しかし、もし過去はそれが現在であった時点において真理であったのだとすると、歴史とは真理の影でしかないことになるのではないか。もし歴史家あるいは哲学者が、過去をその真理へともたらすのではないのだとすると、歴史家や哲学者の存在意味は一体何なのであろうか。時間的な隔たりというものは、真理にとって本質的なものであるのでなければならないのではないか。

現象真理への還帰」とは「あるべき姿の再発見」に他ならない?

メルロ=ポンティの「現象への還帰」とは、まさに、忘却されている「事物の生誕地le berceau des choses)」としての「現象」を想起するという企てである。我々の認識は事物を目指す故に、おのずから事物の生誕地を忘れる。我々の意識は客観を目指す故に、おのずから「客観の起源l’origine de l’objet)」を忘れる。言ってみれば、ひとたび目的地に到達してしまうと、目的地に到達しつつあった時のことを忘れてしまうようなものである。そこで、事物の下に埋葬されてしまっている現象——客観的世界という理念の下に埋葬されてしまっている前客観的経験——を、掘り起こさなければならない。

そもそも事物はどのように成立したのか。我々は通常パースペクティヴというものを既に客観化されたかたちで考えているわけであるが、そうした客観化されたパースペクティヴとは違って、前客観的経験においては、パースペクティヴは決して事物を主観的にデフォルメするものではない。それはむしろ逆に、「知覚されるものをして、それ自身のうちに、汲み尽くし得ぬ隠れた豊かさを持たせるもの、つまり知覚されるものをして事物たらしめるものなのである」。知覚はパースペクティヴ性(制約)を被るのではなくて、それを何らか自覚しているのであり、そしてこの自覚は、実際に認識されているよりも豊かなもの——つまり現実的なもの——と交流しているという確信と一つのものなのである。このことは、過去の出来事についても言える。パースペクティヴは歴史家や哲学者を主観的領域に閉じ込めるのではない。むしろ、歴史家や哲学者は固有のパースペクティヴを持つ(自覚的に持つ)からこそ、フランス革命とかホロコーストといった出来事は、汲み尽くし得ぬ対象、つまりリアルなものであることになるのである。

さて、現象は「事物の生誕地」であることを先に述べたが、こうしたパースペクティヴによる事物の生成という逆説的な事柄が、まさに、事物の誕生ということであり、言い換えれば「真理の実現」ということである。現象野とは、そこにおいて真理が実現される場であるという意味で、「真理の場le lieu de la vérité)」なのである。

 「真理の場」

デカルトの真理とか、あるいはフランス革命の真理とかといった真理は、いつから存在するのであろうか。

真理は初めからそこに存在する」。但し、それはあくまで「為し遂げるべき仕事としてcomme tâche à accomplir)」である。つまり「真理は未だそこに存在しない」。真理は未だ存在しない。歴史(歴史叙述)とは、真理の実現という任務を担うものなのである。デカルトのパンセにしろ、あるいはフランス大革命にしろ、それらは「客観的存在」——即ち「絶対的に規定された存在」——ではない故に、それらを“祖述”することは問題にならない。むしろ、例えば、哲学者のテキストを、「そこからは汲み取れない考察」によって解明するというように、我々が率先してパースペクティヴを拓き、問題を立てるのでなければならない。「一致adéquation)」は創造によってのみ獲得されるのである。

但し、これは一致(真理)は創造されるということではない。為し遂げるべき仕事としてであれ、真理は初めから存在するのである。創造による一致の獲得、即ち真理(過去の真理)の実現とは、過去の「捉え直しreprise)」ということであり、そして、この捉え直しは過去による「先取りanticipation)」に応じるものである。「真理の場le lieu de la vérité)」とは、「先取り」と、それと「対称的な捉え直し」のことである。しかし、とすれば、真理の場はそれ自身歴史的なものである。過去を捉え直す、この現在それ自身が、未来の先取りでもある。否、というより、この現在は、未来の先取りであることによってのみ、過去の捉え直しであり得るのであり、即ち、真理の実現は、真理の実現それ自身が将来において捉え直され得るという条件においてのみ可能なのである。存在は絶えず新たなパースペクティヴを要求する。創造的な自己表現が、存在の本質なのである。

方法論的合理主義と「我々の問いと驚きの場」としての歴史

今日においては、目的論は放棄されるだけではなくて、痛烈な批判の的にもなっている。目的論的=全体化的な歴史はそれに適合しないものを隠蔽し排除し抑圧するということが、批判の理由である。しかし翻って、歴史は目的性を欠くならば意味を欠くことになるのではないか、つまり、歴史はニヒリズムに帰着せざるを得ないのではないかと、問うこともできる。果たしてどうなのか。

ところで他方、目的論はそれ自体ニヒリズムであるという見方もある。メルロ=ポンティによれば、目的論——厳密に言えば、或る一定の目的論であるが——は、実はニヒリズムが身を隠すための仮面なのである。というのも、予めどこかに目的が定められているということは、未知の未来のために現在が犠牲になる(SG.91)ということであり、つまり、現在が意味を奪われるということであるからである。「歴史が不可避的に行き着くところがもし知られているのであれば、出来事の一つ一つはもはや重要性も意味も持たない」(EP.61)のである。但し、メルロ=ポンティはアンチ目的論者なのではない。

ニヒリズムを秘める目的論とは、改めて言うと「事物の流れの背後に世界精神へーゲル)〉のようなものを想定することによって、歴史的偶然性を予め取り除く独断的合理主義」(PD.46-7)、独断的目的論であるが、現象への還帰という企ては、そうした独断的合理主義を相対化する。

つまり、それは「我々の問いと驚きの場le lieu de nos interrogations et de nos étonnements)」(SG.88)としての歴史を根源的な歴史として開示するのであるが、重要なことは、この問いと驚きの場は、或る種の目的論的な場、いわば目的実現の場でもあるということである。

ここで、前節で論じた真理の実現ということを想い起してみよう。件の真理の実現は実は目的の実現であると言える。というのも、それは過去によって先取りされていたことの捉え直しであるからである。「我々の現在は我々の過去の約束を守る」(SG.119)。しかも、目的の実現といっても、それは予め定められていた目的の実現ではない。

目的の実現とは、経験が哲学によって「真理となるdevenir vérité)」という生成であり(cf.SG.120)、非反省的なものが反省によってその真理へと変わるという変化である(cf.SG.193)。つまり、先行的真理の反映ではなくて、真理の実現なのであるが、この場合、目的は予め定められているのではなくて、むしろ、目的は実現されて初めて定められるのである。世界に先在するロゴスは存在しない。「先在するロゴスはただ一つ、世界そのものなのである」。歴史とは、「予定された道のりを歩む思考」ではない。歴史とは、「己れの道のりを自ら作る思考、前進することによって己れ自身を見出す思考、道を作ることによって道が作られ得ることを証明する思考」(VI.123)なのである。

ここで分かるように、目的の実現、合理性の成立は偶然である。つまり、合理性とは偶然性なのである。メルロ=ポンティの立場は非合理主義ではない。そうではなくて、合理性と偶然性とを同一のものたらしめる「方法的合理主義rationalisme méthodique)」(PD.46)なのである。この方法的合理主義、方法的目的論においては、合理性と偶然性とは同一である故に、偶然性は合理性によって乗り越えられてしまうことはない。非理性は理性によって乗り越えられてしまうことはない。そして、偶然性、非理性は乗り越えられないということは、過去は現在によって乗り越えられないということである。一度あったことはなかったことにはならないという問題について、メルロ=ポンティは様々なかたちで繰り返し論じている。過去は現在の犠牲にはならないのである。

従って同様に、現在は未来の犠牲にはならない。現在はそれ自身未来の先取りでもあるからである。現在における目的の実現は、将来における新たなパースペクティヴによる目的の実現を先取りする。つまり、新たな課題を提出する。従って、目的実現の歩み、歴史の歩みは、延々と続くわけであるが、但し、歴史の歩みは果てしないということは、いつまでたっても目的は実現されないということではない。将来において新たに創造的な表現が試みられなければならないということ、新たなパースペクティヴが拓かれなければならないということは、現在において目的が実現されるための条件なのである。

方法的合理主義においては、歴史を全体化するロゴスは歴史に先立つのではなくて、歴史そのものである。つまり、それは真理の場としての現在に位置するパースペクティヴ的ロゴスなのであり、これによって「客観的思考のロゴス」(PP.419)は決定的に相対化される。パースペクティヴという制約はいわば能動的否定性であり、この否定性によって全き肯定性という理想は相対化される。つまり、例えば悪に対する決定的勝利というものは、原理的に不可能であるというだけではなくて、もはや価値ではないのである。

メルロ=ポンティにとっては、哲学とは、原理的に「勝利の哲学philosophie triomphante)」へと変容することのない「戦う哲学philosophie militante)」(SN.81, SG.199)である。ということは、歴史は哲学が扱う一つの「topic論題)」ではなくて、哲学の「topos場所)」そのものであるということである。

そういえばフランス人のフランス革命自体に対する認識の変遷を追っていくと「それを直接体験したサン=シモン伯爵やシャルル・フーリエは、そこではただ単に徹底した破壊が遂行されたに過ぎないとしか考えていなかった」現実に突き当たるのです。

838夜『四運動の理論』シャルル・フーリエ|松岡正剛の千夜千冊

その一方で「現実のフランス革命」においては徹底した破壊しか目撃しなかった彼らこそが「フランス革命の継承者」として新たな社会学理論の供給源となりました。そのプロセスそのものが「メルロ・ポンティの歴史認識」そのものだった訳ですが、その一方で後世「フランス革命そのものが有史上最大の創造行為だった」と偽装され、むしろ彼らが「(現実には後世に爪痕一つ残せなかった空想的科学主義者」のレッテルを貼られ現実の革命達成が不可能となっていきます。ある意味、最大の反革命

*要するに「馬上のサン=シモン」皇帝ナポレオン三世統治下の第二帝政フランス(1852年〜1870年)崩壊後、その落とし子たる「三百家」とも「権力に到達したブルジョワジー」とも呼ばれる「(ブルジョワ化した王侯貴族や聖職者と合流した)新興産業階層=政治的エリート階層」による寡占支配体制が始まると彼らは「(二度と大衆から憎悪の対象としてターゲット化されない為に)姿を隠す」必要にかられる様になったのだった。そしてそれにはちょうど当時ドイツで流行していた修正主義寄りのマルクス主義の採用が実に都合が良かったのであろう。そして突如としてフランス革命マルクス主義の勝利だった事になり「では当時真のマルクス主義者は誰だったのか?」に関する果てしない党争が始まってしまったのだった。

大体19世紀末のソルボンヌ大学フランス革命講座というのが初めて生まれ、マティエ、ルフェーブル、ソブールといった歴代教授がマルクス主義者だった。そしてそれ以降フランス革命とそれ以降の欧州近代史は革命闘争史観に基づいて解釈される様になる。

オーラール(François-Alphonse Aulard、1849年〜1928年)

フランスの歴史家。フランス革命研究家。パリ大学教授 (1887~1922) 。雑誌『フランス革命』の創始者1886年フランス革命史講座の初代担当教授となる。フランス革命の研究に科学的分析方法を初めて導入したが,弟子であった A.マティエと,G.ダントン,M.ロベスピエールの評価をめぐって論争し,ついに師弟関係の崩壊にまでいたった。共和主義者としてフランス革命の意義を強調し,民主主義と共和制の確立を中心にすえて,《フランス革命の政治史》を著したが、議会外の民衆運動や革命の経済史的側面には注目するに至らなかったからである。主著『フランス革命政治史』 Histoire politique de la Révolution française (1901) ,『フランス革命封建制度』 La Révolution française et le régime féodal (19) 。

マティエ(Albert Mathiez, 1874年〜1932年)

フランスの歴史家。 1897年パリのエコール・ノルマル・シュペリール (高等師範学校) を卒業。 1908年からナンシー,リール,ブザンソンディジョンの大学でフランス革命史を講義し,26年ソルボンヌ大学教授。社会主義者 J.ジョレスの影響を受け、ロベスピエールによるジャコバン独裁を革命の核心と考え、師であるオーラールらの史観を批判。師 F.オーラールと論争して M.ロベスピエールに正当な歴史評価を与えることに努力し,08年「ロベスピエール研究学会」を組織し,機関紙として『革命年報』 (1924年フランス革命史年報』と改題) を発行,多くの新しい見解を革命史に提起した。主著『ロベスピエールの研究』 Études robespierristes (17~18) ,『フランス革命』 La Révolution française (3巻,22~27) ,『恐怖政治期における物価高と社会運動』 La Vie chère et le mouvement social sous la Terreur (26) 。

アンリ・ルフェーヴル(Henri Lefebvre、1901年〜1991年) - Wikipedia

フランスのマルクス主義社会学者、知識人、哲学者。フランス南部アジェモー(ランド県)生。母親は農家出身でカトリック、父親は中産階級出身でリベルタン(無信仰家)もしくはヴォルテーリヤン(ヴォルテール主義者)である。ルフェーヴルが生まれ育ったピレネー(特にバスク)地方では母方の影響が強い(渡部哲朗『バスクバスク人平凡社新書、2004年)。ルフェーヴルがマルクス主義者となる一因は、宗教への反発があった(『総和と余剰』)。

もともと技術者を目指していたが第一次大戦後の混乱と自身の病気(肋膜炎)が進学試験準備期に重なったため断念。エクサン=プロヴァンス大学へ進学。1928年、フランス共産党に加盟。以後、ながらく在野の哲学者・社会学者として活躍する。

1930年からルフェーヴルはリセの哲学教員として教壇に立つが、1940年のドイツ軍によるパリ占領にともない、ナチス・ドイツを批判する『欺かれた意識』(1936年)や『ドイツにおけるファシズムの五年――権力の座についたヒトラー』(1938年)などの著作がオットー・リスト(禁書目録)に登録され、あわせて共産党員だったこともあってヴィシー政権によって公職すなわち教職から追放される。

1944年から1949年にかけて、トゥルーズのラジオ局ラディオディフュジオン・フランセーズの局長をつとめる。47年、トゥルーズのリセで教職に復帰する。翌48年、フランス国立科学研究センター(CNRS)の研究員となる。農村社会研究をつづけるためだったが、やがて社会状況の変化にともない都市社会に関心を移す。

1950年代、正統派マルクス主義から一線を画する姿勢は、特にスターリン主義批判というかたちで表面化した。これがきっかけとなりフランス共産党から1958年に除名される。

1962年にストラスブール大学、次いでパリ第十大学ナンテール校で社会学教授になり、最終的にはパリ都市計画研究所教授。日本で最もよく知られている彼の著作のほとんどは、この時期のものである。
*彼流に仕上げられた「弁証法唯物論」のなかでは、個人と具体的なプラクシスが中心的な場所を占めている。ひとつの代替的な社会人類学を提案しながら日常性(quotidienneté)が、資本主義のもとでそれがまとっている、支配的諸階級によって集団生活に押し付けられた特徴・性格を再生産することにのみ役立つような役割から、解放されることの必要性を支持。習慣(habitude)は、非歴史的ゆえに真正でないその時間性とともに、支配関係を再生産し永続させる以外のなにものも為さないとされる。日常性は一種の地下鉱床のようなもので、そのなかに諸々の協約や権力の諸々の嘘が堆積している。夢想(fantaisie)と創意工夫の能力(inventivité)が固有の自律的表現にむかう経路を見出すことを妨害する障壁がそこに存在する。このことから芸術には付与された特権があり、これはその自律性において以上に、毎日の生活様式の協約性の根拠なき特徴を証明することが可能な美的経験の手段として理解されている。近代芸術は日常性の廃絶の諸条件を提起するのである。これらの理論は、ルフェーヴルが若い頃所属していた、シュルレアリスム運動の経験と洞察に関連している。『日常生活批判』三部作(1947年、1961年、1981年)は非常に深化された仕方でこの思考を提示している。こうした日常生活批判はアンテルナシオナル・シテュアシオニストのインスピレーションの息吹のひとつであり、また支配関係の再生産についてはピエール・ブルデューの、芸術による解放についてはベルナール・スティグレールのうちにも同様に見出される。

1991年、ナヴァラン(ピレネー=アトランティック県)で没。

ルフェーヴルの訃報を受けて、Radical Philosophy誌は次のように報じた。

「フランス・マルクス主義知識人たちのうちで最も多作な人物が、1991年6月28日から29日にかけての夜に、その90歳の誕生日の直後に亡くなった。長い経歴のあいだにかれの仕事は、時代・時期に応じて時に広く受け入れられ、あるいはそうでなくなったりした。だが、哲学だけでなく社会学・地理学といった政治諸科学と文学批評の発展にも同様に影響を与えた」

ソブール(Albert Soboul、1914年〜1982年)

元・クレルモン・フェラン大学教授,元・パリ大学教授。1960年ロベスピエール研究協会の運営と「フランス革命史年報」の編集者を経て、’62年クレルモン・フェラン大学教授を歴任し、’68年パリ大学教授となる。マルクス主義の立場で革命史を論じ、フランス革命期の民衆運動や農民問題の研究に従事する。

*こんなもの模倣したって現実の革命は絶対に成就し得ない。そもそも集-立(Ge-Stell)システム(後期ハイデガーいうところの「特定目的実現の為に手持ちリソース全てを総動員しようとする体制」)として見た場合、最優先課題は「フランス革命は(ブルジョワ階層に対して起こされたのではなく)ブルジョワ階層が起こした」なるプロパガンダを浸透させる事によって自らが再びターゲットになる事を防ごうという守旧派思想に置かれてる訳だから。そして20世紀の社会運動は、かかる欺瞞をソレル「暴力論(Reflexions sur la Violence, 1908年)」が吹き飛ばすところから始まる。

ジョルジュ・ソレル(Georges Sorel、1847年〜1922年) - Wikipedia

革命的サンディカリスムのフランス人の哲学者、社会理論家。フランス・シェルブールの油と炭酸水商人の家に生まれる。

エコール・ポリテクニークを卒業。はじめはフランス政府の技監だった。しかし、社会問題を研究するようになり、1890年代にマルクス主義に傾倒する。労働組合の団結と闘争とを説く(1898年)。その反議会主義と直接行動への志向は当時の知識人と労働者に歓迎された。ドレフュス事件の際に反ユダヤ主義への反対もしている。

最初、マルクス主義理論の弱点と考えたものを補おうとしたが、最終的にはマルクス主義の修正とも言える思想を唱え、エドゥアルト・ベルンシュタインの右派的な修正主義とは区別して史的唯物論弁証法唯物論、およびプロレタリア国際主義を拒絶した左派修正主義を主張した。さらに正統派マルクス主義の「歴史の必然」を信じず、慎重に考案された「神話」が大衆を一致した行動に導く、と考えた。したがって、ソレルの行動指針は、ゼネラル・ストライキ、ボイコット、サボタージュによって資本主義を分裂させ、労働者による生産手段の統制をもたらすことに向けられた。さらにブルジョワ民主主義に懐疑的なアナキストであるプルードンにも理論的是認を求め「神話」の重要性と科学的な唯物論への反対についてはアンリ・ベルクソンエドゥアルト・フォン・ハルトマンに学んだといえる。また、強制力を使って変化を起こす唯一の道だとして、フランス社会でとらえられていたジャコバンの伝統を復興させた。ブルジョワ民主主義を攻撃したことについて、ソレルはアクション・フランセーズのシャルル・モーラスを賞賛した。さらにソレルは国家の永久戦争the state of permanent warも階級闘争、革命とした。
*彼の「慎重に考案された神話が大衆を一致した行動に導く」なる発想、実は「二百家」あるいは「権力に到達したブルジョワ」と呼ばれる人々が自らの寡占支配を正当化する目的で創造した「フランス革命は(ブルジョワ階層に対して起こされたのではなく)ブルジョワ階層が起こした」なる神話を上書きする為に編み出された処方箋だったのかもしれない。

一方、ソレル自身はあくまでマルクス主義理論家であった。ソレルはイタリアのマルクス主義の父アントニオ・ラブリオーラと親交を持っていて、フランス語に翻訳された「歴史の唯物論概念」についてのラブリオーラのエッセイに序文を書いている。さらには主著の『暴力論(『暴力に関する考察』) Reflexions sur la Violence, 1908年』第五版の付録として、《レーニンのために Pour Lenine 》という題の論文を書いて憲法制定会議をボイコットして社会主義を宣言したレーニンの行為を弁護し、ロシア革命をたたえている。
*そう、当時のフランスでは日本の様に「アナ・ボル論争」が起こらなかったのである。これではもはや「我々ファシストだけが無政府主義を達成した。力による無政府主義だ」式の「究極の自由主義専制の徹底によってしか達成されない」自由主義のジレンマにまっすぐ突き進んでしまうしかない。

彼の著書はヴィルフレド・パレート及びベネデット・クローチェに絶賛され、彼の思想はカトリック・反民主主義の政治傾向(例えばカール・シュミットなど)、特にファシズムには絶大な影響を与え、ムッソリーニは「ファシズムの精神的な父」「私の師」「私自身はソレルに最も負っている」と発言している。また、ヴァルター・ベンヤミンが著した『暴力批判論』はソレル『暴力論』の影響を受けている。

とはいえ近年の俗流アナキズムの世界では「ファシズムやナチズムの父」ソレルは改めて骨抜きにされ「市民革命を支持する平和活動家」に貶められてしまう。因循姑息なリベラリズムプロパガンダ能力恐るべし…

こうした展開の最大の皮肉、それは中国やベトナムの様な資本主義化に成功した共産主義諸国が、どうやらこの意味合いにおける「真の意味でのフランス革命の継承者」でありそうな辺り。本当に「(現実には後世に爪痕一つ残せなかった空想的科学主義者」だったのは、果たして一体どっちだったのでしょう?