諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【現実VS虚構】ネットは「物理次元でしか想像力を発揮し得ない人々」の知恵も結集する?

もはや野党側には何が進行してるか理解する能力もなく「物理攻撃およびその振る舞いを英雄視する報道)」が全てになってる様ですが…
*むしろ逆に、清々しいまでに実際の行動が伴っていないので「断固阻止」の意図すら感じられない…

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IR法、実際には「ギャンブル隔離・管理の手法で国際標準化」を目的としてるみたいですね。現行法の様に「公営ギャンブルやパチンコはグレーゾーン」なる曖昧な規定のまま放置していては国際化社会に対応出来ないという判断の様です。

ここまでくると「裏にパチンコ業界の利権が?」と勘ぐる気すら起きません。むしろそういう背景があったらもっと現実的に振る舞うでしょう。要するに彼らはもはや誰も救ってなどいないのです。

想像力が物理次元に限られているから、日欧EPAに対するイメージもこういう具合にしか思い浮かべられないのかもしれません。

そして地震兵器…

*「ロシア媒体のプロパガンダの鵜呑み」が事態を加速させて側面もちらほら。カール・マルクスいわく「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは大概、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」である。

さらにはオウム真理教との共通点を指摘する向きも。

この様にネット上のアカウントは孤立して存在している訳ではなく、こうした「物理次元でしか想像力を発揮し得ない人々」も集結し、多角的方面からの検討を経て漸進的に「仮説の総合化」を進めている様に見えます。それなら果たしてどこへと向かっているんでしょうか?

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  • これもまた後期ハイデガーいうところの集-立(Ge-Stell)システム、すなわち「特定目的達成の為に手持ちリソースを総動員する体制」の一つといえよう。

  • ただし概ねこうした体制は手段の目的化などを経て「特定目的達成を志向するすなわち組織的に実践可能だったり、コンピューターで実行可能なアルゴリズムの体裁を保った集-立Ge-Stellシステムとしての体裁」を喪失し、次第に後期ウィントゲンシュタインいうところの言語ゲームSprachspiel)の様な体裁に近づいていく。

  • それでも強引に「通電」し続ければ、確かに体の何処かの部位がそれなりの理屈に従って駆動しはするかもしれない。ただし既に誰もその全体像を完全には制御していない以上、その結果何が起こるか誰にも保証出来ないのである。

    坂口安吾「堕落論(1947年)」

    小林秀雄は政治家のタイプを、独創をもたずただ管理し支配する人種と称しているが、必ずしもそうではないようだ。政治家の大多数は常にそうであるけれども、少数の天才は管理や支配の方法に独創をもち、それが凡庸な政治家の規範となって個々の時代、個々の政治を貫く一つの歴史の形で巨大な生き者の意志を示している。政治の場合において、歴史は個をつなぎ合せたものでなく、個を没入せしめた別個の巨大な生物となって誕生し、歴史の姿において政治もまた巨大な独創を行っているのである。

    この戦争をやった者は誰であるか、東条であり軍部であるか。そうでもあるが、しかしまた、日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったに相違ない。日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったにすぎない。政治家によし独創はなくとも、政治は歴史の姿において独創をもち、意慾をもち、やむべからざる歩調をもって大海の波の如くに歩いて行く。

    *ここでいう「政治」は色々な言葉に置き換えが効く。そして実際20世紀後半には「ノストラダムスの大予言」の五島勉、「日本沈没」の田中友幸プロデューサー、「幻魔大戦」「帝都物語」の角川春樹などがそれぞれの商業的事情に依って煽ってきた世紀末不安がオウム真理教によるサリン散布事件(1994年〜1995年)に辿り着いてしまったのだった。日本人は何も反省してない?

かかる最終状態に既視感があると思ったら、フランツ・カフカ変身Die Verwandlung、1912年執筆、1915年発表)」においてグレゴール・ザムザがある日変貌してしまう「Ungeziefer)」でした。その体は自分の思う通り動かないばかりか、自分も知らない衝動に突き動かされて奇妙な振る舞いばかり繰り返す…

フランツ・カフカ「変身(Die Verwandlung、1912年執筆、1915年発表)」 - Wikipedia

1912年10月から11月にかけて執筆された。当時カフカは労働傷害保険局に勤務しており、作中のグレゴール・ザムザと同じく出張旅行も多かった。この作品の執筆も出張によって中断を余儀なくされ、カフカはこのことによって作品が出来が悪くなってしまったと日記にこぼしている。またこのころはのちに婚約を交わすことになるフェリーツェ・バウアーとの文通を始めたばかりで、彼女への手紙では『変身』の執筆状況を逐一知らせていた。

「人間が虫に変身する」というモチーフはカフカの作品のなかで前例があり、1907年ごろに執筆された未完の作品「田舎の婚礼準備」にも主人公ラバンが通りを歩きながら、ベッドの中で甲虫になっている自分を夢想するシーンがある。『変身』のザムザ (Samsa)、「田舎の婚礼準備」の主人公ラバン (Raban) の名はいずれも同じ母音2つと子音3つの組み合わせからなり、作者自身の名カフカ (Kafka) を想起させる。

しばしば暗い内容の作品と見なされるが、カフカはこの作品の原稿をマックス・ブロートらの前で朗読する際、絶えず笑いを漏らし、時には吹き出しながら読んでいたという。『変身』の本が刷り上がると、カフカはその文字の大きさや版面のせいで作品が暗く、切迫して見えることに不満を抱いていた。

作中でグレゴール・ザムザが変身するものは通常「虫」「害虫」と訳されるが、ドイツ語の原文はUngezieferとなっており、これは鳥や小動物なども含む有害生物全般を意味する単語である。作中の記述からはどのような種類の生物かは不明であるが、ウラジミール・ナボコフは大きく膨らんだ胴を持った甲虫だろうとしている。

『変身』の初版表紙絵は写実画家のオトマール・シュタルケが担当したが、カフカは出版の際、版元のクルト・ヴォルフ社宛の手紙で「昆虫そのものを描いてはいけない」「遠くからでも姿を見せてはいけない」と注文をつけていた。実際に描かれたのは、暗い部屋に通じるドアから顔を覆いながら離れていく若い男の絵である。

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*今日なお「日常生活を脅かす恐ろしい怪物として切り捨てられ、駆除したら対応完了と思われてはならない(全体像を明瞭な形で確認する手段もない為、当事者の自認はあくまで終始人間のまま留まる。だから映像化に際してもあくまでその全貌をはっきり見せてはならない)」 という現代人の実存不安に訴えかける設定は古びていない。そしてこの作品の(安部公房砂の女(1962年)」も経た後に現れた) 21世紀版が虚淵玄脚本エロゲー沙耶の唄(2003年)」とも。考えてみれば後者、ある種の異世界転生物でもある? ただ偶然、転生先がぴったり現実世界と重なっていただけで…

*意外にも国際的に女子受けが良いのもこの作品の特徴。エロい声の男主人公が陥落していく有様が、ちゃんと「女子向けエロ」として成立してるらしい。あと「食いしん坊の女の子」は自己投影がしやすいというのもあるらしい。
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後期ハイデガー自身は集-立(Ge-Stell)システムそのものを「(人間が人間らしさを回復する為の真理アレーティアへの到達を妨害する障害要因」と考え、ヒッピー世代の重要な導師(グル)の一人ながら道具をドラッグからコンピューターに乗り換えたティモシー・リアリーは「他の何者の為でもない、自己実現のみを最終目的に掲げる個人的集-立Ge-Stellシステムおよびそれらの拮抗状態の確立」を目標に掲げました。どちらも相応に完成度の高いシステムですが「混ぜたら危険」なのは何でも同じで、両者の間にはこんな暗黒空間も横たわっているという話…